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第6話『挺身の大火』

◆◆◆◆




 エメリナ救出作戦は、……失敗に終わった。
 予期出来ない屍兵の乱入があったが故とは言え、失敗は失敗だった。
 エメリナが自ら身を投げた事によって、エメリナ救出の為にペレジアへ潜入していたイーリス・フェリアの者達の双方に悲嘆と動揺と混乱が広がるが、その動揺と混乱はペレジア軍の方にまで拡がっていた。
 ギャンレルは何時もの調子でイーリスを煽ってはいたが、肝心のペレジア軍の動きは鈍く。
 そんな中、クロムの軍師であるルフレは、一人冷静に撤退の為の指揮を執っていた。

 エメリナの姿が消えた崖の方へ呆然と行こうとするクロムを捕まえ、最早この状況下では不可能であるにも関わらず、せめてエメリナの遺体の回収をと望むクロムのその手を有無も言わさずに強く引いて。

 混乱する自警団の仲間たちに的確な指示を飛ばしつつ先導してくれたルフレのお陰で、何とかクロム達は砂漠の中の処刑場を脱出する事に成功したのであった。
 だが勿論の事ながら、処刑場を脱出したとしてもそこは未だペレジアである事には変わらず。
 ペレジア軍の大軍勢が追っ手として追撃してくる中での逃亡を余儀無くされたのであった。
 バジーリオの手によって手配された馬車たちまではまだ遥か彼方。
 そこまで辿り着けるかが、生還出来るかの分かれ目……となっている。

 しかし、クロム達の行く手を阻むのは追手のペレジア軍だけでは無い。
 ギャンレルからの命令によって各地に展開しクロム達を待ち構えているペレジアの軍勢も居るのだ。
 逃走路としてバジーリオとルフレが用意したそれには、たった一ヶ所だけ、敵の待ち伏せがあると思われる地点があった。
 そこを抜けないと、フェリアへもイーリスへも脱出出来ないのだ。
 それを敵方も分かっているであろうから……間違いなくペレジア軍との戦闘になる。
 だが……。

 イーリス勢力の要であるクロムは、目の前でエメリナを喪った衝撃からか、心を喪ってしまったかの様に呆けてしまっていた。
 ルフレがその手を引いていなければ、その場にただただ立ち尽くしてしまうだろう。
 ルフレの言葉にも何の反応も示さず、ただただ呆然としている。
 そんなクロムの様子は、元々エメリナ救出作戦が失敗し疲弊しきっているのにも関わらず休息無しでここまで駆けてきた自警団の仲間達へも伝播して悪影響を及ぼしていっていた。

 それでも、ルフレは足を止めずに走り続ける。
 少しでも足を止めれば、其処に待つのは明確な死だ。
 それが分かっているからこそ、何れ程疲れていようと、最早気力など尽き果てていようとも、皆前へ前へと進み続ける。

 疲れ果てている心と身体を苛む様に、豪雨が降り頻っていた。
 それはまるで、心が虚ろと化してしまったが故に涙すら溢せないクロムの代わりに、空が慟哭しているかの様な雨だ。
 荒野に降る冷たい雨は、容赦なく体温と体力を奪い、地面に泥濘を作りクロム達の足を絡め取ろうとしてくる。
 降り頻る雨の所為で視界は極めて悪く、仲間達の声すらも小さいモノだと雨音に掻き消されてしまう。


「この渓谷を越えて、橋を渡った先に退却用の馬車を待たせてある!
 もうすぐだ! だから、諦めるんじゃねぇぞっ!」


 先導するバジーリオが、豪雨に負けぬ大声で叫んだ。
 その言葉に、自警団の仲間達の目に僅かに力が戻る。
 しかし、それでも。


「…………………」


 クロムは何の反応もしない。
 ただただ虚ろに、ルフレに手を引かれるままに走っている。
 その目は何処でもない場所へと向けられていた。

 無理もない話ではあるのであろう。
 よりにもよって、目の前で最愛の家族であるエメリナを喪ったのだ。
 しかもそれは、窮地に陥ったクロム達を助ける為の献身でもあったのだ。
 今のクロムには……心を整理する時間が必要だった。
 だが、現実はクロムにその時間を許さない。
 逃げなくては、ならないのだ。
 急がなくては……ペレジア軍の追っ手に追いつかれてしまうのは間違いない。
 そうなれば、全て終わりだろう。
 エメリナから託された命の為にも、ここで死ぬ訳にはいかないのだ。
 だが……。


「クロム、急いで!」


 走りながらルフレは必死にクロムに語り掛ける。
 もう幾度目かも分からぬその声にクロムは反応らしい反応を返さない。


「…………………。
 …………そうだな………。」


 言葉だけは辛うじて返していたが、果たしてルフレの声が届いていたのかは怪しい所だ。
 現に、虚ろなその目は、手を繋いでいるルフレではなく何処か遠くの幻を見ていた。


「急げっ!
 ……ん? あれは……!」


 バジーリオは、視界を閉ざす水煙の向こうに動く無数の何かの影を見付けて、警戒の為に立ち止まる。
 どうやらその無数の影の正体は、渓谷の上方に位置する砦で待ち伏せていたペレジア軍の兵士達であった。
 その規模は、中隊にも相当する。

 何らかの戦闘にはなるだろうと覚悟してはいたが、想定よりも相手の数が多い。
 加えてこちらは寡兵であるのに加えて、大将であるクロムがこの有り様なのだ……その士気は最悪に近い程に低い。

 だが、一刻も早くここを突破しなくては、より大規模な軍勢であろう追手との挟み撃ちにあってしまう。
 ここは……多少強引にでも強行突破するしかなかった。


「ペレジア軍か……。
 戦いは避けられそうにねえな」


 バジーリオは舌打ちする。
 彼に付き従うフェリア兵達は武器を構え、素早く陣形を作る。

 そしてルフレは、自警団の仲間達に指示を飛ばしながら、心ここに在らずのクロムを庇う様に前に進み出て剣を構えた。
 最早戦闘は避けられない。
 どちらが先に仕掛けてくるのか、と。
 そんな緊迫した空気が両者の間に流れる。
 が、そんな中に割って入るかの様に、朗々とした声がペレジア軍側から響く。


「イーリス軍に勧告する。
 降参するつもりはないか?」


 突然、ムスタファーと名乗るペレジアの将軍が降伏を勧告してきた。


「降参だと?
 戦ってすらも居ないのに負けを認めろってのか?」


 唸る様に吠えるバジーリオに、ムスタファーは静かに頷いた。


「我等と疲弊しきった貴殿らがぶつかっても、その結果は目に見えている。
 ……エメリナの遺志は、戦いを望むものではあるまい。
 無益な戦いに血を流すのは、我々とて不本意なのだ……」


 その時だった。
 ムスタファーの発した『エメリナ』の名に、虚ろに世界を映していたクロムの瞳に、怒りと憎悪の炎が灯ってしまった。


「…………黙れ……。
 貴様らが……。
 貴様らが……姉さんの言葉を語るなっ!
 姉さんを追い詰め死なせたお前らが!
 姉さんの死を嘲笑ったあの男の臣下がっ!
 姉さんの何が分かると言うんだっ!!」


 血を吐く様な怨嗟の声と共にクロムはファルシオンを抜き、怒りに燃える目でムスタファーを射抜く。
 そんなクロムを哀し気に見やりながらも、ルフレは何も言わずにクロムのその手を掴み続けた。

 クロムの怨嗟の絶叫に、ムスタファーは静かに嘆息する。


「イーリス王子クロム……か。
 貴公の怒りは尤もだ。
 だが……私もエメリナの最期の行いに、感じる所が無かったわけではない。
 恐らく……あの場にいた、多くのペレジアの民も同じだろう。
 ……十五年前もそうであった様に、奪った側の言葉など、奪われた者には届かんのかもしれないが……。
 武器を捨てるならば、悪いようにはせん」


 ムスタファーの言葉に、昏く深い怒りと憎しみを込めて、フレデリクが返した。


「……信用するとお思いですか?
 貴方の主君があれだけの事を……死者の名誉すらも愚弄した後で」


 フレデリクの返答に、悲し気にムスタファーは首を横に振った。
 ムスタファーも、分かっていた。
 それでも、こうやって声を掛けてしまったのは……彼の心が動かされたからだ。
 それでも、あの行為に心が動かされたのだとしても。
 ムスタファー達は奪った側であり、クロム達は奪われた側だ。
 十五年間、エメリナの言葉がペレジアの民の心には届かなかった様に。
 ムスタファーの誠意が、エメリナを喪ったばかりのクロム達に届く筈もなかった。
 それが分かっているからこそ。
 深い憎悪の連鎖がまた生まれてしまう事に、そしてそれに大きく関わってしまった事に、ムスタファーは世の無情さを思わずにはいられなかった。

 かつて奪われた側はその憎悪のままに奪ってしまった側に立った。
 だがそこに立ってしまってから気付くのだ。
 自分達に大切なモノを奪われた側の者の憎悪は、何時かまた自分達に返ってくるのだと。
 そして、その憎悪に焼かれるのは、自分達だけではなく何の罪もない者達もである。
 そう、先の戦争には何の責任も無かったエメリナが、あの様な無惨な最期を迎えなくてはならなくなったのと同様に。
 憎悪が無くては生きてはいけなかった。
 だが、憎悪を抱えて生きてきた間に、多くの者達には、抱えていた憎悪だけではなく、守りたい大切な何かが芽生えていたのだ。
 時の流れは、確かに憎悪以外のモノを人々に与えていた。
 だが、気付くのが遅過ぎたのだ。

 “過去”の憎悪に縛られるがままに自分達は、何時か“今”の大切なモノ達が誰かの憎悪の炎に焼かれる未来を選んでしまった。
 憎悪は何も生まない、復讐は何も生まない。
 それは古くからある綺麗事であり、今復讐と憎悪の炎に焦がれている者達には届かない言葉だ。
 だがそれは、遠い過去の……同じ様な過ちを犯した者達が未来の為に遺した警告であった。
 しかし、人々がそれに気付けるのは、何時だって過ちを犯してからだ。

 心情を言えば、ムスタファーはクロム達とは戦いたくは無かった。
 それは、この場に居るムスタファーに付き従ってくれている多くの兵士達もそうであろう。

 兵士達の多くは、かつての戦争の被害者だった。
 だからこそ憎悪を抱えてイーリスを蹂躙せんとしていた。
 しかし、果たしてその先に待つモノが何であるのかを考えた時に。
 そして、賢王であったのかは別として、イーリスの人間であると言う事を抜きにすれば人としては善の存在であったエメリナのあの様な最期を前にして、嘲笑う自分達の王の姿を見てしまっては。
 果たして、それで良いのだろうかと悩みを抱いてしまうのもまた必定である。
 自分達は、かつてあれ程にまで憎悪した“虐殺王”やイーリス軍と同じ存在に成り下がっているのではないか、と。
 事実それはそうなのであろう。
 だが、何れ程迷いが生じていても、彼等は戦わねばならないのだ。

 彼等は抱えた憎悪の為に軍人となった。
 軍人とは、王や上官の命令に従わなければならない。
 例えその命令がどんな結果を生むのだとしても。
 その命令の正しさを判断するのは、命じられた軍人ではなく命じた側の人間の役目だ。
 それでも彼等は人間である。
 心無き操り人形の様には成れない。
 故にこそ迷い、そして苦悩する。
 だが、軍人が命令に違反するのは軍規に反する事であり処罰される対象である。
 時には、軍人である当人だけではなく家族にまでその累が及ぶのだ。

 憎悪に囚われその眼を曇らせ、軍人としての柵に囚われ。
 人とは斯くも自分の心のままには在れぬモノだと、ムスタファーは沁々と思う。
 敵地に僅かな手勢を率いて潜入してまで必死に姉を助けようとしていた情深き若者が、こうして憎悪にその眼を曇らせてしまったその様を見ると、憎悪の連鎖のその業の深さを実感した。
 それでも、例えそれが憎悪の連鎖を助長するだけの行為なのだとしても。
 ムスタファーとてここを退く訳にはいかぬ理由があった。
 だからこそ、嘆息する。


「いや………残念だが、無理であろうな。
 ……ならば、仕方あるまい。
 せめてもの慈悲として、なるべく苦しまぬよう送ってやろう」


 そう言って、ムスタファーは兵士達に攻撃開始を合図するのであった。




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