第7話『天狼の主』
◆◆◆◆
ギャンレル王より直々に、『イーリスの軍師ルフレを捕縛せよ』との命を受け、ペレジア軍の精鋭四十名からなる小隊は急ぎ逃走したルフレを追跡していた。
この部隊のみならず、ペレジア各地では既にかなりの軍勢が軍師の捕縛に向けて動いている筈だ。
軍内部の内乱により敗走したイーリスの王子達を討てなかった事はペレジア軍にとって痛恨の極みであり、それ故に此度の軍師捕縛指令には全軍を挙げて取り組もうとしていたのであった。
最早あの軍師が捕縛されるのは時間の問題である。
報告によると、件の軍師は本来ならば動ける筈など無い程の重体であり、武装など一切持たぬ着の身着のままで逃走しているらしい。
特に酷い損傷を受けていた左腕は半ば千切れかけ、動かす事は不可能であるとの事。
今回その任務を受けた、騎馬兵三名・剣士七名・槍兵七名・戦士七名・呪術師八名・弓兵八名の総勢四十名は何れも歴戦の猛者であり、ギャンレル王直々の命を受けて特殊な任務につく事も多い精鋭中の精鋭であった。
必ず生け捕りにする様に厳命されてはいるものの、その様な手負いの逃亡者などこの精鋭達の前には赤子も同然であろう。
寧ろ、その様な重体で逃亡しているのなら、生け捕った後に死にはしないかの方が心配である。
部隊の中には医術の心得がある呪術師もいるのだが、果たして彼らで何とか対応出来るのだろうか……。
そんな事を思案しながらも、小隊を率いる騎兵隊長は軍師の後を追って、彼女が逃げていった方向にある山へと足を踏み入れる。
その山は、荒れた大地が広がるペレジアにしては珍しく、深い森が広がり多数の獣達が住み着いている山だ。
人をも襲う熊やら狼も多数生息している為に、地元の民でも狩人などの職業でも無い限りはそう滅多には近寄らない……精々子供が度胸試しに山の入り口付近で彷徨く位の、そんな山である。
この山に軍師が足を踏み入れた可能性は高いのだが、手負いの人間が着の身着のまま生き延びる事が出来る様な甘い環境では無い。
早期に見付けねば、獣に襲われて変わり果てた姿となった軍師を引き摺って帰る必要すら出てくるであろう。
愛馬と共に部下を率いて隊長は山へと突入した。
そして、歩兵の部下達に散開を命じて、軍師の痕跡を捜させる。
──それが、自分達の命運を決定的に分けてしまったのだと、終ぞ隊長は理解する事は出来なかった。
◇◇◇◇
森の奥に入れば入る程に、獣道ですら途絶えてゆく。
本来ならば、様々な獣達の息遣いが聞こえてくる筈なのだが、大勢で山狩りをしているからなのか、辺りは奇妙な程に静かである。
この様な山の中に、本当に目下捜索中の軍師が居るのだろうか?
剣士はそう思いながら、茂みを掻き分けて奥へと進もうとする。
ふと、剣士の頭上で木の葉が揺れた様な音が聞こえたが。
その次の瞬間には。
樹の上から降ってきたルフレの右手によって強引に頭を地に叩き付けられ。
頭を潰れた柘榴の様に崩し、絶命する。
しかし、この剣士はとても幸運だった。
この直後より始まる殺戮に怯える必要は無く、恐怖を感じる前に一撃で死ねたのだから。
次いで幸運だったのは、最初の犠牲者であった剣士とは少し離れた場所に居た戦士だった。
彼は未だ剣士の身に降りかかった暴威を知らず、捜索対象であるルフレを探し続けていたのだ。
そして彼は。
森の暗がりに潜む様に静かに背後に移動してきていたルフレによって、一瞬で首の骨を右腕で圧し折られて絶命した。
ほんの僅かな間ではあるが、息苦しさの中で死んだのが、最初に殺された剣士よりは不幸な点である。
それでもまだまだ幸運な者達は多い。
隊長の命令で散開していた彼等は、自分達が狩りの獲物になっている事を知る事すらも無く、背後や頭上からの一撃で死ねたのだから。
自分達が捜索している軍師が。
見るからに重体の少女が。
右腕だけで、人間の首の骨を圧し折ったり。
単純な膂力だけで人間の頭を一撃で叩き潰したり。
そう言った、ヒトの形をした、ヒトとは似て非なる“ナニか”である事を知らずに居られたのだ。
恐怖を抱く事も、大した痛みを感じる事も無く死ねた最初の犠牲者である十五人は。
その後に殺された二十五人と比べれば、間違いなく安らかに死ねたのである。
その弓兵は、故郷では狩人として暮らしていた経験があった。
故に、この山の異質さを直ぐ様理解し、隊長から散開を命じられても、同じく何処か異常を感じ取った槍兵と呪術師の三人で行動を共にしていた。
山の獣達は、まるで何かから隠れているかの様に、息を殺す様にして何処かに身を潜めていて。
何か尋常では無い事がここで起きようとしているのを感じる。
だが、その正体など分かりようがなくて。
三人はただただ周囲を警戒しながら慎重に捜索を続けるしかなかった。
そんな時、ふと森の中には似つかわしくない、白い布の様なモノが落ちているのを発見する。
警戒しつつ近付いてみると、それは。
血が所々に滲んでいる包帯であった。
これは、捜索中の軍師に手当の為に巻かれていた包帯なのでは、と。
それが何でこんな所に落ちているのか……、と。
三人は思わず顔を見合わせた。
何にせよ、この森の何処かに軍師がいる可能性は高い。
この包帯はその証拠として回収しておくべきだろうと、呪術師が包帯に手を伸ばし、それを掴んだかと思った瞬間。
弓兵と槍兵の前から呪術師の姿が消えた。
その直後には、頭上から悲鳴が聞こえ、二人が反射的に見上げると、片腕を蔦で編んだ縄によって樹の上にまで吊し上げられた呪術師が居た。
そして。
樹の上に潜んでいたルフレが、右手だけで持った剣を一閃させて吊るされた呪術師の首を斬り落とすその瞬間も、目の当たりにしてしまう。
切断された首の断面から噴き出す様に溢れ出た血が、二人の顔に降り注ぐ。
視界を閉ざす鉄臭い紅い雨の中、樹の上から降ってきたルフレが振るう剣の鈍く銀に光る輝きが、二人が最期に見たモノであった……。
山の彼方此方で悲鳴が上がり始める。
ルフレは山の様々な場所に罠を仕掛けていたのだ。
左腕は使えないのでそこまで大掛かりなモノではないが、数分動きを完全に拘束出来る程度の罠で、ルフレは十分掛かった獲物を仕留める事が出来る。
様々な場所から上がる仲間達の悲鳴や断末魔に、ペレジア兵達は警戒を強めるが、山に足を踏み入れた時点で彼等の死は半ば確定していた。
武器を放棄して一目散に山から脱出すれば生き延びられる可能性は僅かにはあったが、それですらルフレに追手を誰一人として生かして帰すつもりが無い時点でそれすらも難しかったであろう。
そもそもこの時点では誰一人として、自分達の獲物である筈のルフレが、自分達を狩る側の存在としてこの山に屍を積み上げている事を理解してはいない。
仲間達の悲鳴も、獰猛な熊か何かに襲われたのであろうと結論付けていたのである。
そして、ルフレの姿を目に捉えた者達は例外無くその場で殺されたが故に、その情報がまだ生き残っている者達に伝わる筈も無かった。
こうして山に侵入した歩兵達の多くは、抵抗すら出来ぬままに殺されたのだ。
だが、抵抗しなかった分安らかに死ねたのもまた事実であろう。
残された騎兵たち、そして僅かながら生き残って隊長たちに合流してしまった歩兵達に待っていた最期は悲惨としか言いようが無いモノであったからだ。
明らかに思わしくない何かが起きている……と隊長は判断し、散開させた部下達を一旦集める為に、遠くまでよく響く笛を鳴らす。
が、それによってパラパラと集まってきたのはほんの数名。
残りの部下達は幾ら待てども戻ってはこない。
至る所から悲鳴が聞こえてきた事と言い、彼等が動けなくなる様な事態が起きているのかもしれない。
これは、一旦軍師の捜索を中断して部下達の捜索へと切り替えるべきであろうか……と隊長が思案し始めたその時だった。
木々の作り出す暗がりから、何かの黒い影の様なモノが飛び出してきた。
それは、至る所が切り裂かれたボロボロの黒いコートを身に纏った人間であり、その身体中に血で真っ赤に染まった包帯が巻かれている。
飛び出してきたその人物が捜索していた軍師その人であると、隊長は一瞬後に気付いたが。
この者を捕らえる様に命令を出そうと口を開こうとした、その時だった。
「━━━━ッッ!!!!」
猛獣……いや、そんな生易しいモノではなく。
まるでお伽噺に出てくる強大な竜の怒りを想起させる様な、耳にするだけで生存本能を掻き立て恐慌状態に陥らせてしまう程に凶悪で山全体を震わせる様な咆哮を、ルフレは上げる。
隊長や騎兵達三人は耳を押さえ、恐怖に震える中でも何とか手綱だけは離すまいとして。
歩兵達は耳を押さえ踞りながらも、抑えきれぬ恐怖に歯の根が合わない。
そして、ルフレの咆哮で最も深刻な事態に陥ったのは、騎馬達であった。
軍馬とは、馬本来の臆病さを克服させ戦場に立たせる為に特別な調教を施したり或いはそう言った血統の個体を使うのであるが。
そう言った幾度も戦場を駆けてきた馬たちであっても、生き物として圧倒的に強者の側に立つ存在がその怒りと殺意を露にした咆哮を耳にしてしまっては、馬本来の臆病さそのままに闇雲に走り出してしまった。
騎手達の手綱ですら制御不能なそれによって、騎兵の一人は振り落とされたまま愛馬の蹄に頭を踏み潰され絶命し、別の騎兵の一人は馬の足元に張り巡らされていた蔦に足を取られて愛馬ごと転倒し馬体の下敷きになって身動きが取れなくなる。
隊長は止むを得ず愛馬から飛び降りて事なきを得たが、愛馬は恐怖に駆られるがままに何処かへと駆け去ってしまった。
そんな恐慌状態に陥ったペレジア兵達をルフレが見逃す筈もなく、恐怖に狼狽え身動きが取れなくなった歩兵達の首を、ペレジア兵の誰かから奪った剣で、一陣の疾風の如く次々と刎ねる。
薄暗がりに、爛々と輝くその右目の紅い残光だけが、尾を引く様に絶命する瞬間のペレジア兵達には見えていた。
部下達の血の飛沫が地や木々を赤く染めていく中で、辛うじて抜剣出来たのは、隊長としての意地だったのかもしれない。
隊長は、自分に向かって木々を蹴って恐ろしい速さで跳んできたルフレの一撃を何とか回避し、そして振り向きざまにその右脇腹を深く切り裂いた。
その一撃に苦痛に喘ぐ獣の様な咆哮を上げたルフレは、剣を取り落として右脇腹を押さえて踞る様な仕草を見せる。
その隙を好機と見た隊長は、このまま足と手を潰してから捕縛しようと剣を振り下ろすが。
獣の様な唸り声を上げていたルフレは、その殺気に弾かれる様に顔を上げて立ち上がり。
本来ならば二度と動かない筈の左手を素早く動かし、振り下ろされた剣をその指先だけで掴んだ。
それどころか、ルフレが少し指先に力を入れただけで、刀身は皹割れ砕けてしまった。
剰りにも信じ難いその光景に、武器を喪った事すら気付かずに隊長は呆然となってしまう……。
動きを止めてしまった隊長の顔面を、ルフレの左手が鷲掴みにする。
そして、そのまま。
力任せに首ごと引き千切られ、隊長は絶命したのであった……。
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ギャンレル王より直々に、『イーリスの軍師ルフレを捕縛せよ』との命を受け、ペレジア軍の精鋭四十名からなる小隊は急ぎ逃走したルフレを追跡していた。
この部隊のみならず、ペレジア各地では既にかなりの軍勢が軍師の捕縛に向けて動いている筈だ。
軍内部の内乱により敗走したイーリスの王子達を討てなかった事はペレジア軍にとって痛恨の極みであり、それ故に此度の軍師捕縛指令には全軍を挙げて取り組もうとしていたのであった。
最早あの軍師が捕縛されるのは時間の問題である。
報告によると、件の軍師は本来ならば動ける筈など無い程の重体であり、武装など一切持たぬ着の身着のままで逃走しているらしい。
特に酷い損傷を受けていた左腕は半ば千切れかけ、動かす事は不可能であるとの事。
今回その任務を受けた、騎馬兵三名・剣士七名・槍兵七名・戦士七名・呪術師八名・弓兵八名の総勢四十名は何れも歴戦の猛者であり、ギャンレル王直々の命を受けて特殊な任務につく事も多い精鋭中の精鋭であった。
必ず生け捕りにする様に厳命されてはいるものの、その様な手負いの逃亡者などこの精鋭達の前には赤子も同然であろう。
寧ろ、その様な重体で逃亡しているのなら、生け捕った後に死にはしないかの方が心配である。
部隊の中には医術の心得がある呪術師もいるのだが、果たして彼らで何とか対応出来るのだろうか……。
そんな事を思案しながらも、小隊を率いる騎兵隊長は軍師の後を追って、彼女が逃げていった方向にある山へと足を踏み入れる。
その山は、荒れた大地が広がるペレジアにしては珍しく、深い森が広がり多数の獣達が住み着いている山だ。
人をも襲う熊やら狼も多数生息している為に、地元の民でも狩人などの職業でも無い限りはそう滅多には近寄らない……精々子供が度胸試しに山の入り口付近で彷徨く位の、そんな山である。
この山に軍師が足を踏み入れた可能性は高いのだが、手負いの人間が着の身着のまま生き延びる事が出来る様な甘い環境では無い。
早期に見付けねば、獣に襲われて変わり果てた姿となった軍師を引き摺って帰る必要すら出てくるであろう。
愛馬と共に部下を率いて隊長は山へと突入した。
そして、歩兵の部下達に散開を命じて、軍師の痕跡を捜させる。
──それが、自分達の命運を決定的に分けてしまったのだと、終ぞ隊長は理解する事は出来なかった。
◇◇◇◇
森の奥に入れば入る程に、獣道ですら途絶えてゆく。
本来ならば、様々な獣達の息遣いが聞こえてくる筈なのだが、大勢で山狩りをしているからなのか、辺りは奇妙な程に静かである。
この様な山の中に、本当に目下捜索中の軍師が居るのだろうか?
剣士はそう思いながら、茂みを掻き分けて奥へと進もうとする。
ふと、剣士の頭上で木の葉が揺れた様な音が聞こえたが。
その次の瞬間には。
樹の上から降ってきたルフレの右手によって強引に頭を地に叩き付けられ。
頭を潰れた柘榴の様に崩し、絶命する。
しかし、この剣士はとても幸運だった。
この直後より始まる殺戮に怯える必要は無く、恐怖を感じる前に一撃で死ねたのだから。
次いで幸運だったのは、最初の犠牲者であった剣士とは少し離れた場所に居た戦士だった。
彼は未だ剣士の身に降りかかった暴威を知らず、捜索対象であるルフレを探し続けていたのだ。
そして彼は。
森の暗がりに潜む様に静かに背後に移動してきていたルフレによって、一瞬で首の骨を右腕で圧し折られて絶命した。
ほんの僅かな間ではあるが、息苦しさの中で死んだのが、最初に殺された剣士よりは不幸な点である。
それでもまだまだ幸運な者達は多い。
隊長の命令で散開していた彼等は、自分達が狩りの獲物になっている事を知る事すらも無く、背後や頭上からの一撃で死ねたのだから。
自分達が捜索している軍師が。
見るからに重体の少女が。
右腕だけで、人間の首の骨を圧し折ったり。
単純な膂力だけで人間の頭を一撃で叩き潰したり。
そう言った、ヒトの形をした、ヒトとは似て非なる“ナニか”である事を知らずに居られたのだ。
恐怖を抱く事も、大した痛みを感じる事も無く死ねた最初の犠牲者である十五人は。
その後に殺された二十五人と比べれば、間違いなく安らかに死ねたのである。
その弓兵は、故郷では狩人として暮らしていた経験があった。
故に、この山の異質さを直ぐ様理解し、隊長から散開を命じられても、同じく何処か異常を感じ取った槍兵と呪術師の三人で行動を共にしていた。
山の獣達は、まるで何かから隠れているかの様に、息を殺す様にして何処かに身を潜めていて。
何か尋常では無い事がここで起きようとしているのを感じる。
だが、その正体など分かりようがなくて。
三人はただただ周囲を警戒しながら慎重に捜索を続けるしかなかった。
そんな時、ふと森の中には似つかわしくない、白い布の様なモノが落ちているのを発見する。
警戒しつつ近付いてみると、それは。
血が所々に滲んでいる包帯であった。
これは、捜索中の軍師に手当の為に巻かれていた包帯なのでは、と。
それが何でこんな所に落ちているのか……、と。
三人は思わず顔を見合わせた。
何にせよ、この森の何処かに軍師がいる可能性は高い。
この包帯はその証拠として回収しておくべきだろうと、呪術師が包帯に手を伸ばし、それを掴んだかと思った瞬間。
弓兵と槍兵の前から呪術師の姿が消えた。
その直後には、頭上から悲鳴が聞こえ、二人が反射的に見上げると、片腕を蔦で編んだ縄によって樹の上にまで吊し上げられた呪術師が居た。
そして。
樹の上に潜んでいたルフレが、右手だけで持った剣を一閃させて吊るされた呪術師の首を斬り落とすその瞬間も、目の当たりにしてしまう。
切断された首の断面から噴き出す様に溢れ出た血が、二人の顔に降り注ぐ。
視界を閉ざす鉄臭い紅い雨の中、樹の上から降ってきたルフレが振るう剣の鈍く銀に光る輝きが、二人が最期に見たモノであった……。
山の彼方此方で悲鳴が上がり始める。
ルフレは山の様々な場所に罠を仕掛けていたのだ。
左腕は使えないのでそこまで大掛かりなモノではないが、数分動きを完全に拘束出来る程度の罠で、ルフレは十分掛かった獲物を仕留める事が出来る。
様々な場所から上がる仲間達の悲鳴や断末魔に、ペレジア兵達は警戒を強めるが、山に足を踏み入れた時点で彼等の死は半ば確定していた。
武器を放棄して一目散に山から脱出すれば生き延びられる可能性は僅かにはあったが、それですらルフレに追手を誰一人として生かして帰すつもりが無い時点でそれすらも難しかったであろう。
そもそもこの時点では誰一人として、自分達の獲物である筈のルフレが、自分達を狩る側の存在としてこの山に屍を積み上げている事を理解してはいない。
仲間達の悲鳴も、獰猛な熊か何かに襲われたのであろうと結論付けていたのである。
そして、ルフレの姿を目に捉えた者達は例外無くその場で殺されたが故に、その情報がまだ生き残っている者達に伝わる筈も無かった。
こうして山に侵入した歩兵達の多くは、抵抗すら出来ぬままに殺されたのだ。
だが、抵抗しなかった分安らかに死ねたのもまた事実であろう。
残された騎兵たち、そして僅かながら生き残って隊長たちに合流してしまった歩兵達に待っていた最期は悲惨としか言いようが無いモノであったからだ。
明らかに思わしくない何かが起きている……と隊長は判断し、散開させた部下達を一旦集める為に、遠くまでよく響く笛を鳴らす。
が、それによってパラパラと集まってきたのはほんの数名。
残りの部下達は幾ら待てども戻ってはこない。
至る所から悲鳴が聞こえてきた事と言い、彼等が動けなくなる様な事態が起きているのかもしれない。
これは、一旦軍師の捜索を中断して部下達の捜索へと切り替えるべきであろうか……と隊長が思案し始めたその時だった。
木々の作り出す暗がりから、何かの黒い影の様なモノが飛び出してきた。
それは、至る所が切り裂かれたボロボロの黒いコートを身に纏った人間であり、その身体中に血で真っ赤に染まった包帯が巻かれている。
飛び出してきたその人物が捜索していた軍師その人であると、隊長は一瞬後に気付いたが。
この者を捕らえる様に命令を出そうと口を開こうとした、その時だった。
「━━━━ッッ!!!!」
猛獣……いや、そんな生易しいモノではなく。
まるでお伽噺に出てくる強大な竜の怒りを想起させる様な、耳にするだけで生存本能を掻き立て恐慌状態に陥らせてしまう程に凶悪で山全体を震わせる様な咆哮を、ルフレは上げる。
隊長や騎兵達三人は耳を押さえ、恐怖に震える中でも何とか手綱だけは離すまいとして。
歩兵達は耳を押さえ踞りながらも、抑えきれぬ恐怖に歯の根が合わない。
そして、ルフレの咆哮で最も深刻な事態に陥ったのは、騎馬達であった。
軍馬とは、馬本来の臆病さを克服させ戦場に立たせる為に特別な調教を施したり或いはそう言った血統の個体を使うのであるが。
そう言った幾度も戦場を駆けてきた馬たちであっても、生き物として圧倒的に強者の側に立つ存在がその怒りと殺意を露にした咆哮を耳にしてしまっては、馬本来の臆病さそのままに闇雲に走り出してしまった。
騎手達の手綱ですら制御不能なそれによって、騎兵の一人は振り落とされたまま愛馬の蹄に頭を踏み潰され絶命し、別の騎兵の一人は馬の足元に張り巡らされていた蔦に足を取られて愛馬ごと転倒し馬体の下敷きになって身動きが取れなくなる。
隊長は止むを得ず愛馬から飛び降りて事なきを得たが、愛馬は恐怖に駆られるがままに何処かへと駆け去ってしまった。
そんな恐慌状態に陥ったペレジア兵達をルフレが見逃す筈もなく、恐怖に狼狽え身動きが取れなくなった歩兵達の首を、ペレジア兵の誰かから奪った剣で、一陣の疾風の如く次々と刎ねる。
薄暗がりに、爛々と輝くその右目の紅い残光だけが、尾を引く様に絶命する瞬間のペレジア兵達には見えていた。
部下達の血の飛沫が地や木々を赤く染めていく中で、辛うじて抜剣出来たのは、隊長としての意地だったのかもしれない。
隊長は、自分に向かって木々を蹴って恐ろしい速さで跳んできたルフレの一撃を何とか回避し、そして振り向きざまにその右脇腹を深く切り裂いた。
その一撃に苦痛に喘ぐ獣の様な咆哮を上げたルフレは、剣を取り落として右脇腹を押さえて踞る様な仕草を見せる。
その隙を好機と見た隊長は、このまま足と手を潰してから捕縛しようと剣を振り下ろすが。
獣の様な唸り声を上げていたルフレは、その殺気に弾かれる様に顔を上げて立ち上がり。
本来ならば二度と動かない筈の左手を素早く動かし、振り下ろされた剣をその指先だけで掴んだ。
それどころか、ルフレが少し指先に力を入れただけで、刀身は皹割れ砕けてしまった。
剰りにも信じ難いその光景に、武器を喪った事すら気付かずに隊長は呆然となってしまう……。
動きを止めてしまった隊長の顔面を、ルフレの左手が鷲掴みにする。
そして、そのまま。
力任せに首ごと引き千切られ、隊長は絶命したのであった……。
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