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第7話『天狼の主』

◇◇◇◇




 クロム達に放った追手は、後一歩の所まで彼等を追い詰めかけていた。
 あの軍師が自らの身を犠牲に時間を稼がなければ、恐らくはクロム達を一網打尽に出来ていたのであろう。
 あの軍師は、深手を負ったその身ごと多数のペレジア兵達を巻き込んで橋を落として濁流に呑み込まれた。
 直ぐ様、川に落ちたペレジア兵達を救出する為の捜索隊が組まれたのだが、豪雨とその後に訪れた大嵐によって川は荒れに荒れ、結局下流の方に変わり果てた遺体ばかりが流れ着き、ペレジア兵に生存者は一人も居なかったのだ。

 だが。
 最も重傷を負いながら川に落ちたと言うのにも関わらず、下流まで流されていたあの軍師は、生きていた。
 瀕死になりながらも、それでも息をしていたのだ。
 恐るべき生命力だと、それを発見したその場に居合わせた誰もが戦慄した。
 意識が無い彼女を捕らえ軍医達に見せた所、誰もが「これで生きていたのが有り得ない程の重傷だ」と口を揃えて言ったらしい。
 そんな瀕死に近い状態の軍師に、最低限度の医療処置を施させて。
 イーリスの軍師を捕らえたとの報告を受けて急行したギャンレルは、自らの前に彼女を引き摺り出させたのであった。
 勿論、インバースには悟られぬ様に全て内密にしてある。

 屈強な兵士に押さえ付けられる様にしてギャンレルの前に引き摺り出されたイーリスの軍師は、確かに生きているのが不思議な程の満身創痍の身であった。

 左肩には二度と腕を動かせなくなるであろう程の深く鋭利な傷痕が塞がる事も無いままに乱暴に包帯を巻かれ、そこには血が滲んでいる。
 包帯が巻かれていない部位を探すのが難しい程で、そんな中顔だけは無傷であるのがいっそ不気味だ。
 到底動ける様な状態ではなく、左肩に至っては腕が千切れかけていたとすら報告されている。
 それでも、念には念を入れて、ギャンレルはその両手・両腕を縄で拘束させていた。
 直接その戦いぶりを目にしたのは二度程度であるとは言え、その人間離れした戦闘能力は重々承知していたからだ。
 下流に流れ着いた時には一切の武装を喪っていたし、勿論今も何の武器も所持してはいない。
 生きているのが不自然な程の重体故に、抵抗らしい抵抗など出来はしないだろう。
 だが、ギャンレルを見詰めるその金と紅に輝く瞳には、獣が獲物を食い殺そうとしているかの様な殺意にも似た意志に満ち満ちていた。
 そこには憎悪なんて不純な感情は一欠片も混じってはいない。
 ただただ何処までも純粋な殺意に、ギャンレルは思わず身震いしてしまいたくなる程の昂りを感じた。
 その眼に輝く意志の炎を踏み潰してやりたくなる以上に、この獣を屈服させて従えたいと言う欲求が沸き上がったのだ。


「よぅ、くたばり損ないとは聞いていたが元気そうじゃねぇか、イーリスの軍師さんよ。
 あー、ルフレだったか?
 俺を殺してやりたいってその獣の様な眼、良いねぇ……。
 お前は、あの甘ちゃん王子には勿体無い獣だ」

「……あたしが誰の傍に居るのかは、あたしが決める事よ。
 少なくとも、それはあなたの傍では無いけど」

「クックック……言うねぇ。
 益々、俺のモノにしたくなる」


 吐き捨てるでもなく淡々と答えたルフレに、ギャンレルは嗤う。
 ギムレー教団とイーリスに対する手札として生かしておこうと当初は思ったのだが、ここまでギャンレルを昂らせたこの獣はそんな事だけに使うのは勿体無さ過ぎる。
 あのイーリスの王子では、この獣を使いこなすなど到底不可能だ。
 ギャンレルの様な者の手の内にあってこそ、この獣は真の力を発揮出来るに違いない。
 この獣がギャンレル手元にありさえすれば、イーリスを完全に屈服させる事も、ヴァルムの侵攻を防ぐ事だって出来る筈だ。

 ギャンレルはルフレに近付き、その顎に手をやって上を向かせた。

 野生の獣の様な雰囲気を纏うその顔立ちは、極めて端正でありギャンレル好みである。
 金の輝きを湛えた左目と燃え盛る焔の如く紅く輝く右目は、何処か人間離れした異質さに満ちていて、それが尚の事ギャンレルを惹き付ける。
 ペレジア軍から見れば木っ端に過ぎないあの自警団を、策の力だけで正規の軍と渡り合って勝ちをもぎ取れる所まで押し上げる事が出来る頭脳。
 荒れ狂う猛獣の如きその戦闘能力。
 何れを取っても一級品だ。


「残念ながらあの甘ちゃん王子が助けに来るなんて期待はしない方が良いぜ?
 何せアイツらは、お前を置いてさっさと自分達だけフェリアに逃げ帰ってそのまま引きこもってやがるからなぁ!
 一度、態々ペレジアに捕まったエメリナを助けに来た所を目の前で喪っているんだ。
 同じ轍は踏もうとはしないだろうよぉ!
 お前はクロムに見棄てられたのさ!
 そんな王子サマに義理立てしてやる必要なんてあるとは思えねぇけどなぁ!」


 あの甘ちゃん王子だけなら、もしかしたらルフレを取り返そうとするのかもしれないが、今度こそそれは周りの者に止められるだろう。
 イーリスと言う国一つと、この軍師一人の命。
 どちらが優先されるかなんて、態々天秤に掛ける必要すらもない。
 ルフレとて、それは分かっているのであろう。

 小さく息を吐き、ルフレはギャンレルを真っ直ぐに見返す。


「そうね、あなたの言う通り。
 クロムはあたしを助けには来ないし、来てはいけない。
 訂正するならば、二つ。
 一つは、クロムがあたしを見棄てたんじゃなくて、そうなる様にあたしが仕向けただけ。
 そして二つ目。
 別にあたしはクロムに義理立てしているから傍に居るんじゃない。
 あたしが、そう望んだから傍に居るの。
 そして、これからもねっ……!」


 そうギャンレルに宣言するなり。

 四肢を拘束されて押さえ込まれている状態で。
 ルフレは、勢いよく上体を反らせて、自分を取り押さえている兵士の鼻先を後頭部の頭突きで潰す。
 突然のその一撃に、兵士はルフレを取り押さえていた手を離して自身の潰された鼻を押さえようとした。
 それをルフレが見逃す訳は、勿論無くて。
 ルフレは一気に身体を跳ね上げ、兵士からの拘束を逃れるのと同時に、縄で縛られた両腕の間の隙間に自身を押さえ込んでいた兵士の首を捕らえてそのまま一気にそれを骨ごと圧し折る。
 一瞬の早業にその場の誰もが何も反応出来ず、そのままルフレが跳ねる様に立ち上がって、力任せに両腕の縄を引き千切るのを、唖然と見ているしか無かった。
 無理矢理に腕の拘束を引き千切ったは良いが、元々千切れかけていた程の大きな損傷を受けていた左腕は力なく垂れている。
 それでも構わずに、右手だけで足の拘束を軽々と引き千切ると、ルフレは大きくギャンレルに向かって跳んだ。
 迫り来る抗い難い“死”に、ギャンレルは身を竦める事すらも出来ずに、それを眼に映すしか出来なかったのだが。
 ルフレはギャンレルの身体を踏み台にして更に高く跳躍した。
 そして壁を蹴り、天井の梁に右手を掛けそしてそのままの勢いで身体を振り子の様に揺らして更にそこから再び跳んで。
 ルフレは部屋の遥か上方にあった窓辺へと着地する。
 一度だけ踏みつけたギャンレルへと振り返り、歴戦の戦士ですら射竦められ動けなくなる程の眼光を向け、そしてそれっきりギャンレルには興味を喪ったかの様に、窓を蹴り破って。
 窓から地面とは随分と高度があるが、ルフレは構う事なく飛び降りて危なげ無く着地し、そのままその場を逃走するのであった。


 時間にして分にすら満たない程の僅かな間での事。
 何が起きたのか把握すら出来ずに混乱し喚く者、本来ならば動ける筈など無い重体での逃亡劇に「有り得ない」と戦慄する者、ルフレの殺気に当てられて呆けた様に立ち尽くす者。
 実に様々な反応を示すその場の者達の中で。
 ルフレに踏みつけられたギャンレルは。


(おい、おいおいおいおい……!
 何だありゃ……!
 俺が想像していたモノよりも、もっとヤバい代物じゃあねぇか……!)


 戦慄しながらも、隠しきれぬ喜悦に満ち溢れていた。
 ギャンレルは、気付いたのだ。
 ルフレが、自分を殺さなかった、その理由を。

 ルフレはギャンレルに明確な殺意を向けていた。
 だが、この場でギャンレルを殺してしまえば。
 ギャンレルの民からの支持率はそう高くないとは言え、王殺しは王殺しだ。
 故に、ペレジアと言う国の威信を賭けて、その追手はより執拗なモノとなり、その後の逃走がより困難になるであろう。
 恐らくは今頃、ルフレはクロムの居るフェリアを目指し、本来ならば動ける筈など無い身体を引き摺ってひた走っている筈だ。
 クロムの元に少しでも早く確実に帰る、その為だけに。
 ギャンレルは見逃されたのであった。

 ああ、欲しい。
 あの獣が……いや、美しき化け物が。
 ギャンレルは、欲しくて欲しくて堪らなかった。
 あんな姿を見せられてしまっては、もうその思いは止まらない。
 ギャンレルは、ルフレに魅せられてしまったのだ。


 何としてでもルフレを捕縛する為に。
 ギャンレルは、急ぎペレジア軍へと命令を下すのであった。




◇◇◇◇
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