第8話『星彩よ、迷い人を導け』
◇◇◇◇
ふと、誰かの手がクロムの頬に優しく触れた。
それを知覚したクロムの意識は、緩やかに覚醒する。
眠りからの目覚めも、昨日までとは違ってとても穏やかなモノであった。
「……ルフ、レ……?」
目を明けた其処には、先に目覚めていたのであろうルフレの姿があった。
爛々と紅く輝いていた右目は、何時もの様に暖かな緋色に戻っていて。
怒り狂う獣の様であったその姿が嘘の様ですらもあった。
ルフレは気遣わし気に、クロムの頬を撫で、目の下に浮かんでいた隈を見ている。
「ごめん、起こしちゃった……?
もっと、寝てても良いのに。
折角、やっと眠れていたんでしょ?」
「いや、良いんだ。
さっきので十分眠れていたからな」
事実、ここ最近では有り得なかった程の心地好い目覚めだ。
もっと眠りたいと身体が訴えてくる様な事も無い。
それに、ルフレがやっと目覚めたのなら、その時間を眠って過ごしたくは無かった。
「ルフレ」
そう呼び掛けると、ルフレはその言葉の続きを待つかの様に、クロムをジッと見詰める。
クロムには、色々と伝えたい事があった。
……有り過ぎて、何れから伝えれば良いのか分からない位に。
暫しの沈黙がその場に落ちた。
そんな中、先に動いたのはルフレであった。
言葉に迷い黙ってしまったクロムの手を、そっと握る。
そして、ホッとした様にルフレは笑った。
「良かった……、あたし、ちゃんとクロムの所に帰ってこれたんだ……。
もし、これが夢だったらどうしようかって、少し怖かったけど。
でも、この手の温かさは、絶対に夢じゃない。
だから。
ただいま、クロム」
嬉しそうにそう笑ったルフレを、クロムは思わず抱き締める。
突然のその行動に少し驚いていたルフレであったが、それでも、クロムの身体を優しく抱き締め返した。
「ああ、お帰り、ルフレ」
帰って来てくれたルフレに、一番に伝えたかった言葉を漸くクロムは届ける事が出来た。
その後は、するすると言葉が続く。
あの後どうなっていたのか、クロムとルフレはお互いに報告しあった。
何とか追手を振り切ってフェリアまで逃げ切れた事、ペレジアとの本格的な衝突に向けて軍を再編成中である事などを伝える。
詳しくは後程書類を渡さなければならないだろうが、一先ず伝えるべき事をクロムは伝えた。
すると今度はルフレの番であった。
崖下に落ちたルフレは橋の下を流れていた川に流された事、濁流に呑まれながらも何とか一命を取り留めて川の下流に漂着していた事、そこをペレジア軍に捕らえられそのまま僅かな医療だけを施されてギャンレルの目の前まで連れていかれた事、何とか一瞬の隙を突いてそこを脱け出した事を、ルフレは伝えた。
ギャンレルの手から逃れた後の事は、意識も曖昧であった為にあまり覚えてはいないのだが、不眠不休の飲まず食わずで何とか追手を振り切ってフェリアまでやって来たのは確からしい。
そして、寒さに体力を急速に奪われたが故に、途中で意識を喪っていたのだとか。
……ルフレの身体中に刻まれた傷は、逃亡中に負った傷が殆どなのであろう。
……あの雨の中での戦いで負った傷は、あの左肩の傷を含めて矢傷すらも無くなっていた。
が、ルフレもクロムもそれに言及する事は無かった。
「なあ、ルフレ。
……ルフレは、後悔していないか……?」
ポツリとクロムが呟いた言葉に、ルフレは意味が分からないとでも言いた気に首を傾げる。
後悔と言われても、ルフレには何も心当たりが無かったのだろう。
それでも、クロムは問わずにはいられなかった。
「俺の所為で、ルフレはあんな目に遭ったんだ。
こうやって生きててくれてはいるが、あのまま死んでいた可能性の方が高かっただろう……。
俺の傍に居た事を、……あの日俺と出会った事を。
……後悔して、いるんじゃないのか?」
もし、後悔していると言われても、クロムにはどうする事も出来ない。
もうルフレを手離せる筈も無いし、ルフレを縛る事など出来ないと理解していながらも、ルフレを引き留める為ならば自分に出来る事ならば何でもしようとしてしまうだろう。
クロムには、それ程までにルフレが必要なのだ。
そんなクロムの言葉に、ルフレは少し驚いた様な顔をして。
そして、何処かムッとした様な顔をする。
「あのね、クロムに付いていく事を選んだのはあたし自身なんだし、あたしが居たくてクロムの傍に居たの。
あの時にクロムを庇った事も、その後の事も、何一つとして後悔なんてしてない。
だって、あたしがやりたくて選んできた事なんだもの。
クロムに拾われた時だってそう。
何度やり直したってあたしはあの日クロムに付いていく。
クロムに出会ったあの日から、今日に至るまで、あたしは自分でそれを望んで全て選んできた。
もし後悔があるなら、たった一つだけ」
一度言葉を切ってルフレは息を吸う。
そして、真っ直ぐに、クロムを見詰めた。
「クロムに、そんな後悔を抱かせてしまった事だけよ」
「ルフレ……」
「……酷い事をしてしまった、とは思っているの。
クロムはエメリナ様を目の前で喪ったばかりだった。
それなのに、あたしはクロムの見ている前であの選択をした。
それでも、あたしはあの選択を後悔はしていない。
あの時はそうでもしないとクロム達が逃げ切れなかったんだし、大怪我をしていたあたしは逃走の荷物にしかならなかった。
だから、何度あの選択をやり直してもあたしは同じ答えを選ぶ。
でも、それでクロムの心を深く傷付けてしまったのも事実……」
ルフレはそっと目を伏せる。
後悔している訳ではないのだろう。
それでも、クロムの心を傷付けた事に対しては、悔いてはいた。
「だが、ああなってしまったのは俺の所為で……」
「それを止めきれなかったあたしの責任でもある。
何なら、殴って気絶させて簀巻きにしてフレデリクに担がせれば良かったんだもの。
でも、あたしはそうはしなかった。
だからああなった。
ほら、これでお相子でしょ。
だから、これでその話はおしまい。
そんな所に拘ったって堂々巡りになるだけだもの」
そう言ってルフレはクロムを励ます様にニッと笑う。
その笑顔に、クロムは確かに救われた。
そして同時に、自分の無力さを痛感する。
「ああ……全く……。
俺は、……無力だな。
全く……力不足で、そして愚かだ……」
一人では何も出来やしないのに、自分を取り巻く変え難い現実も自分なら変えられるのだと青臭い無謀さに酔って。
そして、無力さと愚かさを突き付けられて、何も変えられないままに家族を喪い。
そればかりか。
怒りや憎悪に呑まれて必要な事や大切な事すらも見失い。
大切な家族を喪った哀しみと怒りに満ちた心が囁くままに、暴走してしまった。
そしてその行為の愚かさを、更にまた大切な人を喪ってから漸く痛感するのだ。
クロムはギャンレルを憎んでいる。
この憎悪の焔は、例えルフレにだって消す事は出来ないだろうし、ルフレもその憎しみをギャンレルに向ける事は止めようとはしなかった。
だが、ギャンレルを憎悪するのと同時に、本当は。
ギャンレルを憎悪する心と同じ位に、クロムは自身を赦す事が出来なかったのだ。
それは己の無知で無鉄砲な行動が、誰よりも大切だった家族にあの様な死を自ら選ばせてしまったのだと……心の何処かでは気付いていたから。
それでも、認めたくなくて。
自分の所為で、あんな最期を選ばなくてはならなくなったその事実から目を反らしたくて。
だから、ペレジア兵への怒りと憎悪に心を染める事で、クロムはそれから逃避していたのだ。
本当に、クロムは愚かだったのだ。
だが、その愚かさからルフレはクロムを救ってくれた。
憎悪をぶつけるべきでは無い相手にそれをぶつけない様にと、傍に付いて見守り時に制止してくれていた。
もし憎悪に酔ったまま、その憎悪をぶつけて無益な殺生を繰り返していれば。
クロムは憎んでいるギャンレルよりも最悪な存在へと堕ちていたであろうし、ともすればかつて“虐殺王”とすら称された父の様に殺戮に狂っていってしまったかもしれない。
憎悪がもたらした、いっそ甘美ですらあった麻痺した心を知っているだけに。
クロムは、“そう”なってしまったペレジアの人々を、本来ならば“聖戦”には何の関係も無かったエメリナにも憎悪と殺意を向けていた人々を、責められる訳が無かった。
クロムも、同じ穴の狢であったからだ。
憎悪は怒りは嘆きは哀しみは、心を麻痺させる。
思考が停止し、本当にそれをぶつけるべきなのかそうでないのか、本当は何をするべきなのか……そういった当たり前の事すらも考えられなくなる。
ただただ、憎悪に染まった心が囁くままに、それをぶつけていくのだ。
その憎悪が、何時かまた自分達や、その復讐には何の関係の無い誰かにすらも跳ね返って来る事に思いを至らせられないままに。
エメリナはそれに気付いていた。
憎悪がもたらすであろう停止した思考のその危うさに、それに容易く呑み込まれるであろう人の心の脆さに。
気付いて、だからこそ、武器を捨ててまで“平和”を謳ったのだ。
それが容易い事では無いと、理解しながらも。
憎悪の応酬の果ての世界の終焉を回避する為に。
父親がその種を撒き散らしてしまった憎悪の連鎖を、せめて自分の代で食い止めようとして。
クロムは、分かってはいなかった。
エメリナの理想を、その意図を。
描こうとしていたその景色の表面だけをなぞって、理解した気になっていただけであった。
その理想を守りたいと口では言いながらも、それを真には理解していなかったからこそ、ああも容易く憎悪に酔ってしまったのだ。
ルフレは、クロムだけの理想を、エメリナの理想を最も近くで見ていたクロムだからこそ描ける理想を描けば良いのだと、あの豪雨の中でクロムに諭してくれた。
だが、肝心のクロムがこんな体たらくなのだ。
そんなクロムが描く理想など、果たして意味なんてあるのだろうか……。
ルフレが居なくては、直ぐにクロムは暗い暗い道の途中で闇に囚われてしまう。
その手が無くては、絶望の泥濘に沈み行きそうになる。
クロムは、無力であった。
「……それで?
それの何が悪い訳?」
クロムの独白を黙って聞いていたルフレは、そう言って首を傾げる。
「そんなの、悪いに決まっているだろう」
「独りじゃ何も出来ないのなんて、別に何もおかしな事では無いでしょ。
そもそも人間一人に出来る事なんて、たかが知れてるもの。
王族だろうと、軍人だろうと何だろうと、細かい部分はともかくとして一人で出来る事なんて大して変わらない。
だからこそ、人間は群れを作り、お互いに協力するんじゃないの?
独りでは無理でも、協力して何かを成すのが、人間って生き物でしょ」
はぁ、と溜め息を吐いたルフレは、優しい力でクロムの眉間を指で弾いた。
勿論加減はされていたのだが、些か痛い。
「クロムに足りない所なんて挙げていったらキリが無いけれど。
でもそんなの誰でも同じでしょ。
クロムが出来ない事が出来る誰かが居て、その人が出来ない事がクロムには出来る。
それの何が悪いの?
独りで本当に何でも出来るのなら、仲間なんて要らないし誰かと関わる必要も無い。
でも、そうじゃないから。
人は、言葉を交わして、時には衝突して、そうやって信頼を築き上げて、仲間を……自分と同じ方向を見て手を取り合える誰かを作るのよ」
「……ルフレ……」
「クロム、あたしの手を取って」
ルフレは、力強い輝きをその瞳に灯して。
真っ直ぐにクロムを見詰めて。
そして、その右手を迷わずにクロムへと差し出した。
戸惑うクロムに、ルフレは言葉を紡ぐ。
「クロム、あたしも決して独りで何でも出来る訳ではない、無力な……“人間”よ。
足りない事出来ない事……そんなの沢山ある。
それでも、クロムに足りない部分を、補う事ならば出来る筈。
そして、あたしには足りない部分は、クロムじゃなければ補えない。
……だからね、あたしはクロムの“半身”になる。
クロムが迷った時に、倒れそうな時に。
何度だってあたしはクロムを支えるし導き続ける。
ひっぱたいてだって、立ち上がらせてあげる。
だから、クロムは自分が描きたい未来を描けば良いの。
それがエメリナ様の理想と同じである必要なんて無い。
だってあたしは、クロムが描く未来が見たいんだもの」
「……こんな俺に、そんな資格があると言うのか……?
俺の目指す未来に、そんな価値があると……?」
迷うクロムに、ルフレは力強く頷いた。
当たり前だと、そう雄弁に語る目がクロムを射抜く。
「資格が無いと思うなら、これからそれに相応しいと思える自分になっていけばいいのよ。
それに、価値があるか?なんて今更よ。
そうだって思っているから、あたしはここに居るんだから。
クロムに出会ったあの日から、あたしはずっとクロムを見てきた。
だからこそ、クロムが何を想い何を願い……何を大切にしてきたのかをあたしも見ていたの。
……それにね、あたしだけじゃない。
自警団の皆も、みんなクロムを信じているし、その力になりたい人ばかりなのよ?
それでもまだ自分に自信がない?」
そう言って微笑むルフレに、クロムはゆっくりと首を横に振った。
クロムは、確かに無力だ。
愚かであり、足りない所ばかりである。
それでも、そんなクロムをこうして支えようとしてくれている手がある。
それを、その想いを無視して一人自分の無力を嘆き哀れみ続けるなんて、出来る訳がない。
クロムはルフレの右手をしっかりと握った。
確かに繋がった何よりもの信頼の証に、泣きたくなる位に胸が熱くなる。
「……ルフレ……。
これから、沢山迷惑をかけるかもしれない。
沢山、辛い想いをさせる事になるかもしれない。
……それでも、俺の傍にいてくれるか?」
ルフレは一瞬の迷いすら無く、クロムの言葉に頷いた。
「言ったでしょ?
あたしはあなたの半身だって。
勿論に決まっているじゃない。
何があっても、どんな時でも、何処に居ても。
あたしはクロムの傍に居る。
絶対に、よ」
その言葉に、クロムの頬を一筋の涙が伝う。
「……ルフレ。
……ありがとう……」
医務室には、クロムとルフレの他には誰も居ない。
そんな静かな二人だけの世界で。
クロムとルフレは、“半身”となる誓いを立てたのであった…………。
◇◇◇◇
ふと、誰かの手がクロムの頬に優しく触れた。
それを知覚したクロムの意識は、緩やかに覚醒する。
眠りからの目覚めも、昨日までとは違ってとても穏やかなモノであった。
「……ルフ、レ……?」
目を明けた其処には、先に目覚めていたのであろうルフレの姿があった。
爛々と紅く輝いていた右目は、何時もの様に暖かな緋色に戻っていて。
怒り狂う獣の様であったその姿が嘘の様ですらもあった。
ルフレは気遣わし気に、クロムの頬を撫で、目の下に浮かんでいた隈を見ている。
「ごめん、起こしちゃった……?
もっと、寝てても良いのに。
折角、やっと眠れていたんでしょ?」
「いや、良いんだ。
さっきので十分眠れていたからな」
事実、ここ最近では有り得なかった程の心地好い目覚めだ。
もっと眠りたいと身体が訴えてくる様な事も無い。
それに、ルフレがやっと目覚めたのなら、その時間を眠って過ごしたくは無かった。
「ルフレ」
そう呼び掛けると、ルフレはその言葉の続きを待つかの様に、クロムをジッと見詰める。
クロムには、色々と伝えたい事があった。
……有り過ぎて、何れから伝えれば良いのか分からない位に。
暫しの沈黙がその場に落ちた。
そんな中、先に動いたのはルフレであった。
言葉に迷い黙ってしまったクロムの手を、そっと握る。
そして、ホッとした様にルフレは笑った。
「良かった……、あたし、ちゃんとクロムの所に帰ってこれたんだ……。
もし、これが夢だったらどうしようかって、少し怖かったけど。
でも、この手の温かさは、絶対に夢じゃない。
だから。
ただいま、クロム」
嬉しそうにそう笑ったルフレを、クロムは思わず抱き締める。
突然のその行動に少し驚いていたルフレであったが、それでも、クロムの身体を優しく抱き締め返した。
「ああ、お帰り、ルフレ」
帰って来てくれたルフレに、一番に伝えたかった言葉を漸くクロムは届ける事が出来た。
その後は、するすると言葉が続く。
あの後どうなっていたのか、クロムとルフレはお互いに報告しあった。
何とか追手を振り切ってフェリアまで逃げ切れた事、ペレジアとの本格的な衝突に向けて軍を再編成中である事などを伝える。
詳しくは後程書類を渡さなければならないだろうが、一先ず伝えるべき事をクロムは伝えた。
すると今度はルフレの番であった。
崖下に落ちたルフレは橋の下を流れていた川に流された事、濁流に呑まれながらも何とか一命を取り留めて川の下流に漂着していた事、そこをペレジア軍に捕らえられそのまま僅かな医療だけを施されてギャンレルの目の前まで連れていかれた事、何とか一瞬の隙を突いてそこを脱け出した事を、ルフレは伝えた。
ギャンレルの手から逃れた後の事は、意識も曖昧であった為にあまり覚えてはいないのだが、不眠不休の飲まず食わずで何とか追手を振り切ってフェリアまでやって来たのは確からしい。
そして、寒さに体力を急速に奪われたが故に、途中で意識を喪っていたのだとか。
……ルフレの身体中に刻まれた傷は、逃亡中に負った傷が殆どなのであろう。
……あの雨の中での戦いで負った傷は、あの左肩の傷を含めて矢傷すらも無くなっていた。
が、ルフレもクロムもそれに言及する事は無かった。
「なあ、ルフレ。
……ルフレは、後悔していないか……?」
ポツリとクロムが呟いた言葉に、ルフレは意味が分からないとでも言いた気に首を傾げる。
後悔と言われても、ルフレには何も心当たりが無かったのだろう。
それでも、クロムは問わずにはいられなかった。
「俺の所為で、ルフレはあんな目に遭ったんだ。
こうやって生きててくれてはいるが、あのまま死んでいた可能性の方が高かっただろう……。
俺の傍に居た事を、……あの日俺と出会った事を。
……後悔して、いるんじゃないのか?」
もし、後悔していると言われても、クロムにはどうする事も出来ない。
もうルフレを手離せる筈も無いし、ルフレを縛る事など出来ないと理解していながらも、ルフレを引き留める為ならば自分に出来る事ならば何でもしようとしてしまうだろう。
クロムには、それ程までにルフレが必要なのだ。
そんなクロムの言葉に、ルフレは少し驚いた様な顔をして。
そして、何処かムッとした様な顔をする。
「あのね、クロムに付いていく事を選んだのはあたし自身なんだし、あたしが居たくてクロムの傍に居たの。
あの時にクロムを庇った事も、その後の事も、何一つとして後悔なんてしてない。
だって、あたしがやりたくて選んできた事なんだもの。
クロムに拾われた時だってそう。
何度やり直したってあたしはあの日クロムに付いていく。
クロムに出会ったあの日から、今日に至るまで、あたしは自分でそれを望んで全て選んできた。
もし後悔があるなら、たった一つだけ」
一度言葉を切ってルフレは息を吸う。
そして、真っ直ぐに、クロムを見詰めた。
「クロムに、そんな後悔を抱かせてしまった事だけよ」
「ルフレ……」
「……酷い事をしてしまった、とは思っているの。
クロムはエメリナ様を目の前で喪ったばかりだった。
それなのに、あたしはクロムの見ている前であの選択をした。
それでも、あたしはあの選択を後悔はしていない。
あの時はそうでもしないとクロム達が逃げ切れなかったんだし、大怪我をしていたあたしは逃走の荷物にしかならなかった。
だから、何度あの選択をやり直してもあたしは同じ答えを選ぶ。
でも、それでクロムの心を深く傷付けてしまったのも事実……」
ルフレはそっと目を伏せる。
後悔している訳ではないのだろう。
それでも、クロムの心を傷付けた事に対しては、悔いてはいた。
「だが、ああなってしまったのは俺の所為で……」
「それを止めきれなかったあたしの責任でもある。
何なら、殴って気絶させて簀巻きにしてフレデリクに担がせれば良かったんだもの。
でも、あたしはそうはしなかった。
だからああなった。
ほら、これでお相子でしょ。
だから、これでその話はおしまい。
そんな所に拘ったって堂々巡りになるだけだもの」
そう言ってルフレはクロムを励ます様にニッと笑う。
その笑顔に、クロムは確かに救われた。
そして同時に、自分の無力さを痛感する。
「ああ……全く……。
俺は、……無力だな。
全く……力不足で、そして愚かだ……」
一人では何も出来やしないのに、自分を取り巻く変え難い現実も自分なら変えられるのだと青臭い無謀さに酔って。
そして、無力さと愚かさを突き付けられて、何も変えられないままに家族を喪い。
そればかりか。
怒りや憎悪に呑まれて必要な事や大切な事すらも見失い。
大切な家族を喪った哀しみと怒りに満ちた心が囁くままに、暴走してしまった。
そしてその行為の愚かさを、更にまた大切な人を喪ってから漸く痛感するのだ。
クロムはギャンレルを憎んでいる。
この憎悪の焔は、例えルフレにだって消す事は出来ないだろうし、ルフレもその憎しみをギャンレルに向ける事は止めようとはしなかった。
だが、ギャンレルを憎悪するのと同時に、本当は。
ギャンレルを憎悪する心と同じ位に、クロムは自身を赦す事が出来なかったのだ。
それは己の無知で無鉄砲な行動が、誰よりも大切だった家族にあの様な死を自ら選ばせてしまったのだと……心の何処かでは気付いていたから。
それでも、認めたくなくて。
自分の所為で、あんな最期を選ばなくてはならなくなったその事実から目を反らしたくて。
だから、ペレジア兵への怒りと憎悪に心を染める事で、クロムはそれから逃避していたのだ。
本当に、クロムは愚かだったのだ。
だが、その愚かさからルフレはクロムを救ってくれた。
憎悪をぶつけるべきでは無い相手にそれをぶつけない様にと、傍に付いて見守り時に制止してくれていた。
もし憎悪に酔ったまま、その憎悪をぶつけて無益な殺生を繰り返していれば。
クロムは憎んでいるギャンレルよりも最悪な存在へと堕ちていたであろうし、ともすればかつて“虐殺王”とすら称された父の様に殺戮に狂っていってしまったかもしれない。
憎悪がもたらした、いっそ甘美ですらあった麻痺した心を知っているだけに。
クロムは、“そう”なってしまったペレジアの人々を、本来ならば“聖戦”には何の関係も無かったエメリナにも憎悪と殺意を向けていた人々を、責められる訳が無かった。
クロムも、同じ穴の狢であったからだ。
憎悪は怒りは嘆きは哀しみは、心を麻痺させる。
思考が停止し、本当にそれをぶつけるべきなのかそうでないのか、本当は何をするべきなのか……そういった当たり前の事すらも考えられなくなる。
ただただ、憎悪に染まった心が囁くままに、それをぶつけていくのだ。
その憎悪が、何時かまた自分達や、その復讐には何の関係の無い誰かにすらも跳ね返って来る事に思いを至らせられないままに。
エメリナはそれに気付いていた。
憎悪がもたらすであろう停止した思考のその危うさに、それに容易く呑み込まれるであろう人の心の脆さに。
気付いて、だからこそ、武器を捨ててまで“平和”を謳ったのだ。
それが容易い事では無いと、理解しながらも。
憎悪の応酬の果ての世界の終焉を回避する為に。
父親がその種を撒き散らしてしまった憎悪の連鎖を、せめて自分の代で食い止めようとして。
クロムは、分かってはいなかった。
エメリナの理想を、その意図を。
描こうとしていたその景色の表面だけをなぞって、理解した気になっていただけであった。
その理想を守りたいと口では言いながらも、それを真には理解していなかったからこそ、ああも容易く憎悪に酔ってしまったのだ。
ルフレは、クロムだけの理想を、エメリナの理想を最も近くで見ていたクロムだからこそ描ける理想を描けば良いのだと、あの豪雨の中でクロムに諭してくれた。
だが、肝心のクロムがこんな体たらくなのだ。
そんなクロムが描く理想など、果たして意味なんてあるのだろうか……。
ルフレが居なくては、直ぐにクロムは暗い暗い道の途中で闇に囚われてしまう。
その手が無くては、絶望の泥濘に沈み行きそうになる。
クロムは、無力であった。
「……それで?
それの何が悪い訳?」
クロムの独白を黙って聞いていたルフレは、そう言って首を傾げる。
「そんなの、悪いに決まっているだろう」
「独りじゃ何も出来ないのなんて、別に何もおかしな事では無いでしょ。
そもそも人間一人に出来る事なんて、たかが知れてるもの。
王族だろうと、軍人だろうと何だろうと、細かい部分はともかくとして一人で出来る事なんて大して変わらない。
だからこそ、人間は群れを作り、お互いに協力するんじゃないの?
独りでは無理でも、協力して何かを成すのが、人間って生き物でしょ」
はぁ、と溜め息を吐いたルフレは、優しい力でクロムの眉間を指で弾いた。
勿論加減はされていたのだが、些か痛い。
「クロムに足りない所なんて挙げていったらキリが無いけれど。
でもそんなの誰でも同じでしょ。
クロムが出来ない事が出来る誰かが居て、その人が出来ない事がクロムには出来る。
それの何が悪いの?
独りで本当に何でも出来るのなら、仲間なんて要らないし誰かと関わる必要も無い。
でも、そうじゃないから。
人は、言葉を交わして、時には衝突して、そうやって信頼を築き上げて、仲間を……自分と同じ方向を見て手を取り合える誰かを作るのよ」
「……ルフレ……」
「クロム、あたしの手を取って」
ルフレは、力強い輝きをその瞳に灯して。
真っ直ぐにクロムを見詰めて。
そして、その右手を迷わずにクロムへと差し出した。
戸惑うクロムに、ルフレは言葉を紡ぐ。
「クロム、あたしも決して独りで何でも出来る訳ではない、無力な……“人間”よ。
足りない事出来ない事……そんなの沢山ある。
それでも、クロムに足りない部分を、補う事ならば出来る筈。
そして、あたしには足りない部分は、クロムじゃなければ補えない。
……だからね、あたしはクロムの“半身”になる。
クロムが迷った時に、倒れそうな時に。
何度だってあたしはクロムを支えるし導き続ける。
ひっぱたいてだって、立ち上がらせてあげる。
だから、クロムは自分が描きたい未来を描けば良いの。
それがエメリナ様の理想と同じである必要なんて無い。
だってあたしは、クロムが描く未来が見たいんだもの」
「……こんな俺に、そんな資格があると言うのか……?
俺の目指す未来に、そんな価値があると……?」
迷うクロムに、ルフレは力強く頷いた。
当たり前だと、そう雄弁に語る目がクロムを射抜く。
「資格が無いと思うなら、これからそれに相応しいと思える自分になっていけばいいのよ。
それに、価値があるか?なんて今更よ。
そうだって思っているから、あたしはここに居るんだから。
クロムに出会ったあの日から、あたしはずっとクロムを見てきた。
だからこそ、クロムが何を想い何を願い……何を大切にしてきたのかをあたしも見ていたの。
……それにね、あたしだけじゃない。
自警団の皆も、みんなクロムを信じているし、その力になりたい人ばかりなのよ?
それでもまだ自分に自信がない?」
そう言って微笑むルフレに、クロムはゆっくりと首を横に振った。
クロムは、確かに無力だ。
愚かであり、足りない所ばかりである。
それでも、そんなクロムをこうして支えようとしてくれている手がある。
それを、その想いを無視して一人自分の無力を嘆き哀れみ続けるなんて、出来る訳がない。
クロムはルフレの右手をしっかりと握った。
確かに繋がった何よりもの信頼の証に、泣きたくなる位に胸が熱くなる。
「……ルフレ……。
これから、沢山迷惑をかけるかもしれない。
沢山、辛い想いをさせる事になるかもしれない。
……それでも、俺の傍にいてくれるか?」
ルフレは一瞬の迷いすら無く、クロムの言葉に頷いた。
「言ったでしょ?
あたしはあなたの半身だって。
勿論に決まっているじゃない。
何があっても、どんな時でも、何処に居ても。
あたしはクロムの傍に居る。
絶対に、よ」
その言葉に、クロムの頬を一筋の涙が伝う。
「……ルフレ。
……ありがとう……」
医務室には、クロムとルフレの他には誰も居ない。
そんな静かな二人だけの世界で。
クロムとルフレは、“半身”となる誓いを立てたのであった…………。
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