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第8話『星彩よ、迷い人を導け』

◆◆◆◆




 ここです、とフェリア兵に示された部屋に入ろうとしたその時だった。



「━━━━ッッ!!!」



 怒り狂う巨竜の如き咆哮が、扉を隔ててあるにも関わらずビリビリと廊下の空気を振動させた。
 生きとし生ける全ての者が持つ生存本能を否応なしに掻き立てるその咆哮に、案内してくれたフェリア兵は腰を抜かしそうになり、フレデリクも思わず耳を押さえている。
 が、クロムは構わず扉を開け放って部屋の中へと飛び込んだ。
 クロムがルフレの声を聞き間違える筈が無い。
 あの咆哮は、ルフレの声だったのだ。


 そして飛び込んだその部屋の中には。


 壁際まで後退したまま身動きを取る事も出来ず固まっている医師達と。
 その医師達を獣の様な唸り声を上げて威嚇しながら、窓枠に足を乗せて今にも其処から飛び降りようとしているルフレが、居た。

 ルフレのその身体は至る所に包帯が巻かれ、見るだけで痛々しく。
 何時もなら暖かな緋色をしているその右目は、鮮血で染め抜いた様な紅へと変じて爛々と輝いている。

 この場の支配者はルフレであった。
 人間如きでは到底抗えない程の、圧倒的な存在が放つ殺意と威圧感がその場の全員の身体へと叩き付けられている。
 僅かでも動けば食い千切られそうなその雰囲気の中、医師達は指先ですら動かせない。

 だが。
 そんな緊迫した雰囲気の中でも、クロムは躊躇わずに唸り続けているルフレに近寄った。


「ルフレっ!」


 そうクロムが名前を呼んだその瞬間。
 ルフレは唸るのを止め、一気に窓枠を蹴ってクロムの胸の内へと飛び込んで来る。

 咄嗟にそれをクロムは受け止めたが、勢いを殺し切れずに尻餅をついてしまった。
 尻餅の痛みに少し涙目にはなるが、それでもクロムはルフレを離さない。
 クロムの胸に飛び込んできたルフレは、そのままクロムの背へと手を回し、クロムの存在を確める様に強く抱き締めた。
 そして、安心した様に、甘える様に。
 クロムの胸板にすりすりと頬を擦り寄せると。
 そのまますぅすぅと安らかな寝息を立て始める。


 ルフレがクロムの腕の中で眠った事によってその場の脅威が鎮まった事を認識した医師達は、力が抜けてしまったかの様に腰を抜かした。
 緊迫していた空気は緩み、息すら殺していた医師達は安堵の溜め息を溢す。
 クロムに続いて部屋に入ってきていたフレデリクはクロムの腕の中で眠るルフレに目を止めて、驚きからか目を見開いたが、結局は何も言わなかった。


「一体何が……」


 思わずそう呟いたクロムに、その腕の中で安らかに眠るルフレを決して起こさぬ様な小さな声で、医師の一人があの状況に至るまでの経過をおずおずと説明してくれた。

 曰く、保護され医務室に運び込まれたルフレには、当初意識は無く。
 身体中の至る所に大小数え切れない程の傷が刻まれ。
 防寒対策など一切していなかったが故に、その四肢は半ば酷い凍傷になりかけで。
 飲まず食わずだったのか、その身体は酷く衰弱しきっていたらしい。
 生きているのが奇跡に思える様な状態のルフレに医師達は必死に医療を施し、漸く少し状態が落ち着いたかと思った矢先にルフレは目を覚ました。
 すると途端に、本来ならば絶対安静の状態であるにも関わらず、ルフレは跳ね起きて。
 そしてその場を窓から逃走しようとして、それを止めようとした医師達に威嚇していたのだそうだ。
 そこにクロムがやって来て、漸く落ち着いた……と言う事であるらしい。

 目を覚ました時に、周りに知った顔が誰も居なかったから混乱して警戒していたのだろうか?
 何にせよ、ルフレが落ち着いた様で何よりである。

 クロムは、自らの腕の中で安心しきった様に眠るルフレの身体をそっと抱き締め直した。
 その身体は温かく、微かに伝わってくるその鼓動は、ルフレが確かに生きている事をクロムに実感させてくれる。


「ルフレ」


 余程疲れきっているのか、クロムに名を呼ばれてもルフレは目を覚まさないが。
 それでも、キュッと微かにクロムを抱き締める力が強くなった。
 包帯だらけのその姿はとても痛々しく、ここに保護されるまでの過酷な旅路を僅かに覗かせる。
 こんな、満身創痍の状態になってまで、ルフレは帰ってきてくれたのだ。
 その事が何にも代え難い程に、嬉しくて。
 クロムは、人目も憚らずに涙を溢した。
 それは、あの降り頻る雨の中で流した涙よりも、もっと温かなモノであった。


 導きの星の輝きは、またクロムの手の中に還ってきた。
 ただそれだけで、クロムの心に救っていた絶望の闇は、光に祓われる様に薄れていったのだ。


 ルフレが生還した事は、少し涙ぐみつつも医務室を後にしたフレデリクによって自警団の仲間たちに直ぐ様伝えられた。
 皆喜びに沸き上がったそうなのだが、疲労から深い眠りに落ちているルフレを慮って、医務室に突撃してくる事は皆自重したそうだ。

 また眠ってしまったルフレに関してだが、クロムがその傍に付いている事になった。
 再び目覚めた時に近くにクロムが居ないと、また大暴れする可能性があるからだ。
 そう言う事情もあったし、何よりもクロム自身がルフレから離れたくなかった。
 だから、医務室のベッドで眠るルフレの横で、クロムは再びルフレが目覚めるのを待っていた。

 ………………。
 自身にしがみついていたルフレをベッドに寝かせ直したその時に。
 ルフレの左肩には傷が何処にも無い事に、クロムは気が付いた。
 忘れたくても忘れられないあの時。
 ルフレの左肩には、確かに斧が深々と突き立っていたのに。
 その傷痕すらも、何処にも無い。
 橋ごと崖下に落ちていったあの後で、治療の杖による癒しが施されたと言う可能性もあるにはあるのだが。
 残念ながら如何に治療の杖とは言っても、傷口を塞ぐ力はあっても傷痕すら治す力は無い。
 だから、あれ程の負傷が傷痕一つ残さずに癒える事は、……有り得ないのだ。

 ……だが、クロムにはそんな事はどうでも良かった。
 ルフレが生きて、此処に居る。
 こうして、クロムの傍に居てくれる。
 喪ってしまった筈の命が、此処に在る。
 それ以上に重要な事など、何処にも無い。

 沢山話したい事があった。
 沢山伝えたい事があった。
 でもそれは、ルフレが目覚めてからでも間に合う事だ。

 安らかに眠っているルフレの手を取ると、凍傷になりかけていたにも関わらず、ぽかぽかとした温もりがクロムの手に返ってくる。
 その温もりを感じている内に、ふとクロムも微睡みに囚われそうになる。
 あの日以来、クロムもろくに眠れていないのだ。
 ルフレが帰ってきてくれて、漸く心に平穏が戻り始めた今、その分の疲れが一気に押し寄せてきた。

 ここで少し眠っていた所で、咎められる様な事も無いであろう。
 そんな事を思いながら、眠るルフレに凭れ掛かる様にして。
 クロムは、穏やかな眠りの中へと誘われていったのであった。
 今度はもう、あの悪夢を見る事は無かった。




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