【後書き】
◇◇◇◇◇
その日の夕暮れ時は、とても美しく悲しいものであった。
まるで、あの別れの日をそのまま焼き写したかの様に。
沈み行く夕日によって世界は紅に染まり、穏やかなその色はまるで彼の眼差しの様で……。
視察の為に訪れたその地で、ルキナは独り夕暮れを歩く。
世界の輪郭が曖昧になりそうな黄昏時に、ルキナは何時もの様に、天を仰いで愛しい人の名を呼んだ。
その声に応える者は、何処にも居ない。
それを何時もの様に寂しいと……そう想いながらも、『彼』を探す事を諦められず、独り夕焼けの中を彷徨う。
そして、ふと──
今歩いているその場所が、かつて彼と初めて出会ったあの廃村の跡地なのだと、何処か見覚えのある木々や地形によって気が付く。
それは、ほんの偶然で。
意識してそこを彷徨っていた訳ではない。
だけど、何故か。
行かなくてはならない気がして。
ルキナは、己の心が導くままに駆け出した。
そして、あの日の出逢いが鮮明に脳裏に描かれる。
あの日、ルキナは『希望』や『期待』と言う名の底無し沼に今にも溺れそうになっていた。
そしてそんな、何もかもに溺れかけていたルキナの手を取ったのが、『彼』だった。
優しい眼差し、優しい声……。
その時の『彼』にルキナが見出だしていたそれらは、『彼』の演技だったのかもしれないけれど。
『彼』と過ごした時間は、交わした言葉は、与えられた温もりは、そこにルキナが感じた全ては。
どれも、本物であった。
愛していた。
そして、今も愛し続けている。
どれ程時が過ぎても。
傍に居て欲しいたった一人は、『彼』だけであった。
そして、あの日、『彼』と出会ったその場所に。
今は林となっているその場所に。
泣きたくなる程に見覚えがある黒いコートが、そしてそれを纏った何者かが。
茂みの中に埋もれる様にして倒れていた。
夕暮れが世界を紅く染める中。
ルキナは、ゆっくりと慎重に、だけど逸る気持ちを抑えきれずに。
そこへと歩み寄る。
そして、倒れている何者かの顔を見て。
ルキナは──
顔を覆って、泣き崩れた。
あの日夕焼け空に消えた愛しい人が、其処に居た。
もう逢えぬ筈の人が、静かに息をして、眠っていた。
愛しい想いが込み上げてきて。
嗚咽が、ルキナの口から溢れる。
愛しいその名前を、繰り返し呼んだ。
すると、その声に反応してか。
眠っていた『彼』は薄目を開けて、周りを見回していた。
その瞳は、何処かぼんやりとはしているけれども。
探し求め続けていた、優しく穏やかな、愛しい紅色で。
今にも泣き崩れてしまいそうな自分を何とか抑えながら、ルキナは彼に手を差し出した。
「立てますか?」
どこかぼんやりとした眼差しまま、『彼』は目の前に差し出されたルキナのその手を、そっと握り締める。
思い出の中の温かさそのままの温もりが、其処にはあった。
彼の身体を起こし、そして耐えきれなくなったルキナはそのまま彼を強く抱き締める。
もう、二度と離したくなくて。
もう、何処にも消えて欲しくなくて。
漸く、逢えたのだ。
漸く、この手の中に戻ってきたのだ。
叶わない筈の願いが……『奇跡』が叶ったのだ。
今度こそ、もう……ルキナは絶対に彼を喪わない。
「ロビンさん、ロビンさん、ロビンさん……」
ルキナが縋る様に繰り返しその名前を呼んでいると、『彼』は何故か少し戸惑っていた。
そして──
「あの、……。
僕の名前は、『ロビン』、と言うのですか……?」
困惑した様に、そして何処かおずおずと、『彼』はそうルキナに訊ねる。
「えっ……?」
「どうやら、僕は……何も思い出せないのです。
ここが何処なのかも、僕が誰なのかも……。
貴女は、僕の事を知っているのですか……?」
『彼』は、記憶の一切を喪っている様であった。
ルキナと過ごした日々も、抱え続けていた苦悩も。
『彼』には、何も無い。
まっさらな『彼』は、それでも何一つとして変わらない、あの穏やかな瞳でルキナを見ていた。
彼から記憶が喪われたのは何故なのだろうか。
消滅の定めを覆し、ルキナの元へと戻ってきた代償なのだろうか。
それとも、『ギムレー』からの侵食が進み過ぎてたが故なのだろうか。
それは、分からないけれど。
それでも。
共に過ごした記憶が無いのだとしても。
彼は、ルキナの愛しい『半身』であった。
だからこそ、ルキナは。
もう二度とこの手を離さない。
記憶を喪ったと言うのなら、また初めから積み重ねれば良いだけなのだ。
彼を喪ったあの日を想えば、そんなモノはルキナにとっては如何程でも無い。
だから──。
「……初めまして、私は、ルキナです。
そして貴方は、『ロビン』。
私の、誰よりも大切な人です」
そう答えると。
彼は僅かに目を瞬かせた。
そして、そっと優しく微笑む。
「ルキナ、さん……。
……どうして、でしょうか。
何も、思い出せないのに。
貴女の事が、とても大切だった様な気がするんです。
きっと、記憶を喪う前の僕にとって……。
貴女はとてもとても、大切な人だったんですね……」
そう言って、彼はルキナの手を優しく握り返した。
その右手の甲には、もう。
あの烙印の様な痣は、何処にも無い。
フワリと、優しく吹き渡る風がルキナの頬を撫でて行く。
何故か其処にルキナは、とてもとても懐かしい誰かの微笑みを感じた。
想いが満ちゆき、叶わない筈の祈りは、確かに届いた。
最早『彼』は邪竜の定めからは解き放たれ、『彼』として生きる事を、世界から赦された。
それは、世界を救った者への、そして『彼』への。
世界からの一つの餞であるのかもしれない。
あの日止まってしまった二人の時間は、今再びこの時より動き出した。
その未来には、幸も不幸も等しく存在するだろう。
未来がどうなるのかは、誰にも分らない。
二人の結末も、幸せなものになるとは限らないのだろう。
だが、例えそうであっても。
諦めさえしなければ。
再び巡り逢えた二人が、繋いだその手をもう二度と離さずに居られる事だけは、ただ一つ確かな事である。
ずっと傍に居たいと言う、細やかで愛しい願いが、今漸く叶ったのであった……。
【王女の軍師:完】
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その日の夕暮れ時は、とても美しく悲しいものであった。
まるで、あの別れの日をそのまま焼き写したかの様に。
沈み行く夕日によって世界は紅に染まり、穏やかなその色はまるで彼の眼差しの様で……。
視察の為に訪れたその地で、ルキナは独り夕暮れを歩く。
世界の輪郭が曖昧になりそうな黄昏時に、ルキナは何時もの様に、天を仰いで愛しい人の名を呼んだ。
その声に応える者は、何処にも居ない。
それを何時もの様に寂しいと……そう想いながらも、『彼』を探す事を諦められず、独り夕焼けの中を彷徨う。
そして、ふと──
今歩いているその場所が、かつて彼と初めて出会ったあの廃村の跡地なのだと、何処か見覚えのある木々や地形によって気が付く。
それは、ほんの偶然で。
意識してそこを彷徨っていた訳ではない。
だけど、何故か。
行かなくてはならない気がして。
ルキナは、己の心が導くままに駆け出した。
そして、あの日の出逢いが鮮明に脳裏に描かれる。
あの日、ルキナは『希望』や『期待』と言う名の底無し沼に今にも溺れそうになっていた。
そしてそんな、何もかもに溺れかけていたルキナの手を取ったのが、『彼』だった。
優しい眼差し、優しい声……。
その時の『彼』にルキナが見出だしていたそれらは、『彼』の演技だったのかもしれないけれど。
『彼』と過ごした時間は、交わした言葉は、与えられた温もりは、そこにルキナが感じた全ては。
どれも、本物であった。
愛していた。
そして、今も愛し続けている。
どれ程時が過ぎても。
傍に居て欲しいたった一人は、『彼』だけであった。
そして、あの日、『彼』と出会ったその場所に。
今は林となっているその場所に。
泣きたくなる程に見覚えがある黒いコートが、そしてそれを纏った何者かが。
茂みの中に埋もれる様にして倒れていた。
夕暮れが世界を紅く染める中。
ルキナは、ゆっくりと慎重に、だけど逸る気持ちを抑えきれずに。
そこへと歩み寄る。
そして、倒れている何者かの顔を見て。
ルキナは──
顔を覆って、泣き崩れた。
あの日夕焼け空に消えた愛しい人が、其処に居た。
もう逢えぬ筈の人が、静かに息をして、眠っていた。
愛しい想いが込み上げてきて。
嗚咽が、ルキナの口から溢れる。
愛しいその名前を、繰り返し呼んだ。
すると、その声に反応してか。
眠っていた『彼』は薄目を開けて、周りを見回していた。
その瞳は、何処かぼんやりとはしているけれども。
探し求め続けていた、優しく穏やかな、愛しい紅色で。
今にも泣き崩れてしまいそうな自分を何とか抑えながら、ルキナは彼に手を差し出した。
「立てますか?」
どこかぼんやりとした眼差しまま、『彼』は目の前に差し出されたルキナのその手を、そっと握り締める。
思い出の中の温かさそのままの温もりが、其処にはあった。
彼の身体を起こし、そして耐えきれなくなったルキナはそのまま彼を強く抱き締める。
もう、二度と離したくなくて。
もう、何処にも消えて欲しくなくて。
漸く、逢えたのだ。
漸く、この手の中に戻ってきたのだ。
叶わない筈の願いが……『奇跡』が叶ったのだ。
今度こそ、もう……ルキナは絶対に彼を喪わない。
「ロビンさん、ロビンさん、ロビンさん……」
ルキナが縋る様に繰り返しその名前を呼んでいると、『彼』は何故か少し戸惑っていた。
そして──
「あの、……。
僕の名前は、『ロビン』、と言うのですか……?」
困惑した様に、そして何処かおずおずと、『彼』はそうルキナに訊ねる。
「えっ……?」
「どうやら、僕は……何も思い出せないのです。
ここが何処なのかも、僕が誰なのかも……。
貴女は、僕の事を知っているのですか……?」
『彼』は、記憶の一切を喪っている様であった。
ルキナと過ごした日々も、抱え続けていた苦悩も。
『彼』には、何も無い。
まっさらな『彼』は、それでも何一つとして変わらない、あの穏やかな瞳でルキナを見ていた。
彼から記憶が喪われたのは何故なのだろうか。
消滅の定めを覆し、ルキナの元へと戻ってきた代償なのだろうか。
それとも、『ギムレー』からの侵食が進み過ぎてたが故なのだろうか。
それは、分からないけれど。
それでも。
共に過ごした記憶が無いのだとしても。
彼は、ルキナの愛しい『半身』であった。
だからこそ、ルキナは。
もう二度とこの手を離さない。
記憶を喪ったと言うのなら、また初めから積み重ねれば良いだけなのだ。
彼を喪ったあの日を想えば、そんなモノはルキナにとっては如何程でも無い。
だから──。
「……初めまして、私は、ルキナです。
そして貴方は、『ロビン』。
私の、誰よりも大切な人です」
そう答えると。
彼は僅かに目を瞬かせた。
そして、そっと優しく微笑む。
「ルキナ、さん……。
……どうして、でしょうか。
何も、思い出せないのに。
貴女の事が、とても大切だった様な気がするんです。
きっと、記憶を喪う前の僕にとって……。
貴女はとてもとても、大切な人だったんですね……」
そう言って、彼はルキナの手を優しく握り返した。
その右手の甲には、もう。
あの烙印の様な痣は、何処にも無い。
フワリと、優しく吹き渡る風がルキナの頬を撫でて行く。
何故か其処にルキナは、とてもとても懐かしい誰かの微笑みを感じた。
想いが満ちゆき、叶わない筈の祈りは、確かに届いた。
最早『彼』は邪竜の定めからは解き放たれ、『彼』として生きる事を、世界から赦された。
それは、世界を救った者への、そして『彼』への。
世界からの一つの餞であるのかもしれない。
あの日止まってしまった二人の時間は、今再びこの時より動き出した。
その未来には、幸も不幸も等しく存在するだろう。
未来がどうなるのかは、誰にも分らない。
二人の結末も、幸せなものになるとは限らないのだろう。
だが、例えそうであっても。
諦めさえしなければ。
再び巡り逢えた二人が、繋いだその手をもう二度と離さずに居られる事だけは、ただ一つ確かな事である。
ずっと傍に居たいと言う、細やかで愛しい願いが、今漸く叶ったのであった……。
【王女の軍師:完】
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