第五話・A『永久に叶わぬ恋夢』
◆◆◆◆◆
『僕』と言う存在は、一体『何』であるのだろう、と。
最近は時折、そう思う様になった。
……『僕』は人々から邪竜と呼ばれる存在、『ギムレー』だ。
人の様な姿形で過ごしているのは、目的があるからで。
その為には竜の身体よりは、人の姿の方が良いので、竜の魂を人の肉体でありながらも受け入れる事が出来た、かつての器の姿形をしているだけに過ぎない。
そもそもこうやって『僕』が、ファルシオンの当代の担い手であるルキナの傍に居るのは。
ギムレーを封じ得るファルシオンにナーガの力を宿らせない様に、彼等が行おうとしているナーガの『覚醒の儀』を妨害する為と。
かつてギムレーを封じた、憎き聖王の末裔である彼女を、絶望の深淵に引き摺り落として、その魂を穢して壊し尽くしてから喰らう為であった。
無害な人間を装って彼女に近付き、そして軍師として働く事でその信頼を勝ち取る。
彼女が『僕』に依存する程までに信頼を寄せたら……。
『覚醒の儀』を行おうとした瞬間に、全てを明かして裏切って殺す……。
その瞬間の、絶望する聖王の末裔を見る為だけに、こんな茶番の様な日々を過ごしている……。
そう、そのつもりであった。
そのつもりであった、筈だったのだ……。
軍師として傍に居る事を選んだのは、かつての『ルフレ』がそうであったからで。
『ロビン』としての人格は、かつての『ルフレ』のそれを模倣して演じているだけに、過ぎない。
『ロビン』の名前に至っては、適当に付けた名前であり、『ギムレー』にとってはただの記号でしかない。
そう、その筈であったのだけれども。
だが…………。
『僕』は彼女を裏切る為に、絶望させる為だけに近付いたと言うのに……。
彼女が、死に行く人々を前にしてその瞳に哀しみを浮かべていると、意識するまでも無くその傍に寄り添ってしまう。
彼女が、人の身には過ぎたモノの重さに押し潰されそうになっている時には、その重みに彼女が壊れてしまわない様に、その手を取って支えようとしてしまう。
彼女が何れ程傷付き擦りきれそうになっているのか、気付きもせず顧みる事も無いままに自分達の『希望』を押し付ける人々に、何故か怒りを感じてしまう。
彼女が、『ギムレー』が撒き散らした絶望を前にして、身を震わせて慟哭する時には……。
本来ならばこの胸に湧き起こるのは『愉悦』である筈なのに、鋭い『痛み』を感じてしまう。
『ギムレー』が与えた絶望が、彼女を傷付けている事が…………耐えようがない程に苦しい。
彼女が絶望に立ち向かうその横顔が、人々の『希望』を背負って足掻くその姿が。
この胸を掻き乱し、『僕』を揺るがせる。
最初は、演技だったのだ。
『ギムレー』が、彼女に信頼される為に、彼女が望んでいるであろう反応を行動を、予想して演じていたに過ぎない。
『偽り』の優しさに、溺れる様に縋ってくる彼女の姿が、憐れで滑稽で……愉快だったのに。
その変化は、『ギムレー』が意図しない内に始まっていた。
演じようと思うまでもなく、身体は動いている、この口は言葉を紡いでいる。
意識する事も無く紡がれた言葉は、『ロビン』としては何の違和感が無いモノであっても、『ギムレー』であるならば決して無意識であっても思う筈も無いモノばかりで。
なのに、『僕』は……それを当然の様に受け入れていた。
何時しか、彼女が哀しむ姿を見るのが、傷付いている姿を見るのが……『愉しい』とは、思わなくなった。
それ所か、胸を締め付ける様な感覚を……。
ヒトが、『哀しい』などと名付けるのだろう感情が、この胸を支配する。
傷付く彼女を、彼女を傷付ける全てから守りたいと、そう願う様になっていった。
彼女がふとした瞬間に浮かべる笑顔に、何時しかどうしようもなく惹かれていた。
『僕』の些細な行動で嬉しそうに笑ってくれるのが、『嬉しい』と、そう思う様になった。
そしてそれと同時に。
こんな細やかな気遣いすら、彼女は人々から掛けて貰っていなかったのかと想うと、憐れみの様な哀しみの様な……。
『僕』自身ですらハッキリとは説明出来ない感情を、抱いてしまう。
『僕』が彼女に取る気遣いの多くは、かつて『ルフレ』が、まだ幼かった彼女に向けていたモノを模倣しているだけに過ぎなかった。
その頭を撫でる手付きも、彼女に微笑む時の表情も、その名前を呼ぶ時の声音も。
それは、かつて彼女が想い慕っていた『ルフレ』のそれで。
『ギムレー』としての意識の中に千々に壊れて消えた『ルフレ』の記憶を浚って、模倣していただけだったのに。
何時しかそれは、最初は模倣以外の何物でも無かった筈だったモノは、『偽り』であった筈のソレは。
紛れもなく『僕』の『本当』になっていたのだ。
何時からそうなっていたのかは、思い返そうとしてみても、『僕』自身ですらも分からない。
表面上の行動こそ変わりはしなかったけれども。
『偽り』が『真実』になり、『演技』は『本心』へと変わっていた。
……『僕』は、『ギムレー』である筈なのに。
心の底から、彼女を想う様になっていたのだ。
『僕』はヒトでは無いから、この想いをヒトがどう名付けるモノであるのかは、分からない。
だけどきっとそれは。
彼女を大切なのだと、幸せで居て欲しいと、幸せにしたいと、傍に居たいと、傍に居て欲しいと、そう想うこの『心』は、きっと。
『恋』や『愛』……と、そう言った心なのだろう。
それを自覚した時は、『僕』は大いに驚いたし戸惑った。
何故、憎い筈の相手に、そんな感情を懐くのかと。
だけれども、何れ程それを否定しようとしても。
彼女と過ごす内に『僕』の心に降り積もるソレが無くなる事などは無くて。
それどころか、日に日に大きく育ってゆく。
その『心』が、最早消したりする事など叶わぬモノなのだとハッキリと理解してしまった時。
『僕』はそれを受け入れていた。
彼女を、ルキナを。
愛している事を、『僕』は認めた。
認めたからと言っても、『僕』と彼女の関係が変わる事は何一つとして無かった。
『僕』は彼女の軍師であり、『ギムレー』であった。
彼女は人々の『希望』を背に絶望に抗い戦う者であり、ファルシオンを受け継ぐナーガの眷族の末裔であった。
愛していても、大切であっても。
『僕』と彼女の道が交わる事など、有り得ない事だ。
その筈なのだから、勘違いなどしてはいけないと『僕』はそう自分に言い聞かせ続けていた。
だけれども。
そう自分に言い聞かせ続けていても。
彼女を愛しいと想う『心』は止まらなかった。
彼女から離れ難くて、当初の目的を果たせるかも怪しくなっても、その傍を離れる事が出来なくなって。
傍に居て欲しい、傍に居たい、『僕』を見て欲しい、『僕』を……好きになって欲しい、と。
そんな想いが『僕』を支配する。
その内に、『彼女をギムレーの眷族にすれば、ずっと一緒に居られる』のだと。
そんな考えが頭の片隅に居座る様になって。
だけれども、『僕』はその決断に踏み切れずにいた。
確かに、彼女を『ギムレー』の眷族にすれば、何の憂いも抱く事も無く共に在れるだろう。
『ギムレー』の力を使えば、その意志や心を無理矢理奪う事だって、例え彼女がナーガの眷族であるのだとしても造作もない事である。
意志を奪われた人形の様な彼女を傍に置く事も、『僕』だけを愛する様にその心を縛ってしまう事も。
何れもとても抗い難い程に魅惑的であったけれども。
……それでも。
『僕』が愛しいと心から想うのは。
意志の輝きに満ちた眼で絶望の世界を真っ直ぐに見据えて抗う、誇り高くも何処か哀しい彼女なのだ。
彼女の姿をした人形を愛したい訳では無い。
それに……。
彼女は、剰りにも多くの人々から顧みられないままに、その心を磨り潰しながら戦い続けているのだ。
それを『僕』は哀しいと思っているのだから。
そんな『僕』が、何よりも彼女の心を蔑ろにする様な手段を取れる筈は無かった。
何を選ぶにしても、そこに彼女の『心』が『意志』が、在って欲しいと思うのだ。
それは傲慢な事であるのかもしれない。
よりにもよって、彼女を絶望の中で戦わせ続けているその原因たる『僕』がそんな事を思うだなんて、矛盾どころの話でないのかもしれない。
それでも、それこそが『僕』の本心であった。
……もし。
彼女もまた『僕』を望んでくれるのならば、『僕』と共に在る事を選んでくれるのならば。
きっと『僕』は、躊躇う事も何も無く、彼女を『ギムレー』の眷族にしていただろう。
『僕』はナーガの眷族にはなれないし、幾ら姿形を真似ようとも竜でしかない『僕』では彼女と同じヒトにもなれない。
共に傍に在り続けるなら、その方法しか無いからだ。
だけれども『僕』は。
もう、その手段を取ろうとは、思えなかった。
切っ掛けは、何だっただろうか。
その予兆は、ずっと前からあったのかもしれないし、そうでも無かったのかもしれないけれど。
ある時、『僕』は。
『僕』としての心と、『ギムレー』としての意志との解離を、認識してしまったのだ。
そしてそれと同時に。
『僕』と言う存在の曖昧さにも気付いてしまった。
『僕』はルキナを愛している。
それは、その『想い』だけは……『真実』だ。
だけれども、その『想い』の切っ掛けは。
その『心』の出発点は。
何処から来たモノであったのだろうか?
原点に立ち返ってもう一度考えてみれば、『ギムレー』が彼女を愛する事などは有り得ないのだ。
憎い聖王の末裔であると言うのもその理由の一つではあるけれど、それ以上に。
『ギムレー』にとってヒトは有象無象の虫けらなのだから。
彼女でさえも、『ギムレー』には、ナーガの力の欠片を持つ虫けら程度にしか感じられない。
ならば、何故『ギムレー』である筈の『僕』が、ヒトである彼女を愛する事が出来たのか。
それは、きっと。
『僕』の中にある、『ルフレ』の心の欠片が故だったのだ。
『ルフレ』が彼女に向けていた想いは、『僕』が彼女に向けているモノと同じではない。
それは例えるならば、親が子供を想う様な、そんな愛情であったのだろう。
最早『ルフレ』の心と記憶は千々に砕け散っている為、その心や記憶の欠片から類推するしかないのだけれども。
何にせよ、『ルフレ』が彼女を大切に愛していたのは真実であり、砕け散ってしまっても尚、その想いは消えたりはしていなかった。
だからこそ、『ルフレ』を模す内に、『僕』と『ルフレ』の欠片の境界が曖昧になり、同時に彼女を想う『ルフレ』の心の欠片が『僕』に反映されたのだ。
愛したのは『僕』の意志だ。
だけど、その切っ掛けは『ルフレ』であったのだ。
そして。
『僕』と『ルフレ』は、自分でも気付かぬ内により深く強く結び付いていた。
ふとした瞬間に、『僕』が経験した訳では無い光景が甦る。
『僕』が感じた事の無い想いが、心を押し潰す様に胸を掻き乱していく。
それは、かつて『ルフレ』が見て感じていたモノで。
砕けても尚残った、記憶と想いの欠片であった。
そして……『僕』は、何時しか。
『ギムレー』から解離しつつあったのだ。
彼女を幸せにしたい。
『ルキナに幸せになって欲しかった』
彼女に笑顔になって欲しい。
『ルキナの笑顔を守りたかった』
彼女の心を、大切にしたい。
『ルキナの心に、何時も希望の輝きが灯っていて欲しかった』
『僕』の想いと、『ルフレ』の想いが、混じり合って一つになっていく。
そして、最後に残ったのは。
『ルキナが、在るがままの自分で、自分の意志で自分の幸せを掴んで欲しい』と言う想いだった。
それは、無理矢理に『ギムレー』の眷族にしてしまえば叶わなくなる想いだ。
だからこそ、『僕』はその欲望を捨てた。
……その筈だったのに。
ふとした瞬間に、凶暴な衝動に襲われる。
自分のモノにする為に彼女のその心全てを踏み躙ろうとする凶悪な欲望は、自らの内から湧き起こっている様であって。
そして、『僕』の想いとは懸け離れたその意志は。
……『僕』のモノでは無かった。
それは、『ギムレー』としての本性が掻き立てる欲望だったのだ……。
……『僕』は、『ギムレー』だ。
その事実は変わらないし変えられない。
だけれども、この『心』は、この『想い』は。
例え『ギムレー』としての自分自身に逆らうモノであるのだとしても、絶対に譲れない。
……『僕』は最早、『ギムレー』ではないのかもしれない。
勿論、幾らその欠片が混ざり合ったとは言っても、『ルフレ』でも無い……。
ならば、『僕』は何者なのか。
その答えは、『僕』自身ですらも解らない。
だけれども。
自分の存在全てが不確かになりそうな中でも。
それでも、彼女への『想い』は絶対に変わらなかった。
そして、彼女を守りたいと願う心は、彼女の『幸せ』を祈る『想い』は。
『ギムレー』としての本性にすらも侵される事は無かった。
……『僕』は。
『彼女の軍師』だ。
彼女がそれを望む限りは、『僕』は『僕』で在り続ける。
『僕』で在る限り『ギムレー』にも彼女を傷付けさせない。
…………。
だけれども、『僕』が『ギムレー』である事が絶対に変えられない事を示す様に。
日に日に、『ギムレー』の本性が彼女に牙を剥きそうになる。
無理矢理に自分のモノにして、その心も何もかもを奪ってしまおうと……。
そんな衝動が、次第に強く激しくなっていく。
その衝動を追い払おうとして様子がおかしい『僕』を心配した彼女が、『僕』に手を差し伸べようとする度に。
その衝動は凶悪な程に『僕』を蝕んでしまう。
……その手を取る事が出来れば、どんなに良いだろうか。
そう想いながら、そして彼女が『僕』を想って差し伸べてくれた手を振り払う事に痛みを覚えながらも。
『僕』は必死にその手を拒む。
一度でもその手を取ってしまえば、『僕』の内に巣食うこの本性が、彼女を壊してしまうのが分かりきっていたから。
その度に、彼女は思い悩む様な顔をして。
それが、……何よりも心苦しかった。
……そんな有り様であっても。
『僕』は、彼女の傍を離れる事が出来なかった。
『僕』と言う存在の曖昧さが、その理由の最たるモノである。
『僕』が『僕』として居られるのは、『ロビン』と言う人格のその中心にある彼女の傍でだけだからだ。
彼女が『僕』を、『ロビン』と言う存在を求めてくれるからこそ、『僕』は『僕』として『ギムレー』の中に存在出来る。
もし彼女から離れてしまえば、彼女を手離してしまえば。
きっとそう時を置かずして、『僕』と言う人格は跡形もなく『ギムレー』の本性に呑み込まれる。
元々『僕』は『ギムレー』から生まれた存在ではあるのだからそれが自然なのかもしれないが、『僕』としての意志や意識は消え去るのだから、人格としては死ぬに等しいだろう。
それが、恐ろしくて。
人格の死もそうではあるけれど、それ以上に。
『僕』が消えた後に、『ギムレー』が彼女をどうするのかが未知数であり、何よりも恐ろしかった。
『僕』が懐いた彼女への執着のままに、心を踏み躙って無理矢理に眷族にするのかもしれない。
それとも、彼女を愛する心すらも消え去って、煩わしい虫けらとして殺そうとするのかもしれない。
分からないからこそ、彼女を守る為にも『僕』は『僕』を手離す事が出来ず、限界が近付いている事を自覚しながらも彼女の傍に在り続けている。
だけれども──
◇◇◇◇◇
『僕』と言う存在は、一体『何』であるのだろう、と。
最近は時折、そう思う様になった。
……『僕』は人々から邪竜と呼ばれる存在、『ギムレー』だ。
人の様な姿形で過ごしているのは、目的があるからで。
その為には竜の身体よりは、人の姿の方が良いので、竜の魂を人の肉体でありながらも受け入れる事が出来た、かつての器の姿形をしているだけに過ぎない。
そもそもこうやって『僕』が、ファルシオンの当代の担い手であるルキナの傍に居るのは。
ギムレーを封じ得るファルシオンにナーガの力を宿らせない様に、彼等が行おうとしているナーガの『覚醒の儀』を妨害する為と。
かつてギムレーを封じた、憎き聖王の末裔である彼女を、絶望の深淵に引き摺り落として、その魂を穢して壊し尽くしてから喰らう為であった。
無害な人間を装って彼女に近付き、そして軍師として働く事でその信頼を勝ち取る。
彼女が『僕』に依存する程までに信頼を寄せたら……。
『覚醒の儀』を行おうとした瞬間に、全てを明かして裏切って殺す……。
その瞬間の、絶望する聖王の末裔を見る為だけに、こんな茶番の様な日々を過ごしている……。
そう、そのつもりであった。
そのつもりであった、筈だったのだ……。
軍師として傍に居る事を選んだのは、かつての『ルフレ』がそうであったからで。
『ロビン』としての人格は、かつての『ルフレ』のそれを模倣して演じているだけに、過ぎない。
『ロビン』の名前に至っては、適当に付けた名前であり、『ギムレー』にとってはただの記号でしかない。
そう、その筈であったのだけれども。
だが…………。
『僕』は彼女を裏切る為に、絶望させる為だけに近付いたと言うのに……。
彼女が、死に行く人々を前にしてその瞳に哀しみを浮かべていると、意識するまでも無くその傍に寄り添ってしまう。
彼女が、人の身には過ぎたモノの重さに押し潰されそうになっている時には、その重みに彼女が壊れてしまわない様に、その手を取って支えようとしてしまう。
彼女が何れ程傷付き擦りきれそうになっているのか、気付きもせず顧みる事も無いままに自分達の『希望』を押し付ける人々に、何故か怒りを感じてしまう。
彼女が、『ギムレー』が撒き散らした絶望を前にして、身を震わせて慟哭する時には……。
本来ならばこの胸に湧き起こるのは『愉悦』である筈なのに、鋭い『痛み』を感じてしまう。
『ギムレー』が与えた絶望が、彼女を傷付けている事が…………耐えようがない程に苦しい。
彼女が絶望に立ち向かうその横顔が、人々の『希望』を背負って足掻くその姿が。
この胸を掻き乱し、『僕』を揺るがせる。
最初は、演技だったのだ。
『ギムレー』が、彼女に信頼される為に、彼女が望んでいるであろう反応を行動を、予想して演じていたに過ぎない。
『偽り』の優しさに、溺れる様に縋ってくる彼女の姿が、憐れで滑稽で……愉快だったのに。
その変化は、『ギムレー』が意図しない内に始まっていた。
演じようと思うまでもなく、身体は動いている、この口は言葉を紡いでいる。
意識する事も無く紡がれた言葉は、『ロビン』としては何の違和感が無いモノであっても、『ギムレー』であるならば決して無意識であっても思う筈も無いモノばかりで。
なのに、『僕』は……それを当然の様に受け入れていた。
何時しか、彼女が哀しむ姿を見るのが、傷付いている姿を見るのが……『愉しい』とは、思わなくなった。
それ所か、胸を締め付ける様な感覚を……。
ヒトが、『哀しい』などと名付けるのだろう感情が、この胸を支配する。
傷付く彼女を、彼女を傷付ける全てから守りたいと、そう願う様になっていった。
彼女がふとした瞬間に浮かべる笑顔に、何時しかどうしようもなく惹かれていた。
『僕』の些細な行動で嬉しそうに笑ってくれるのが、『嬉しい』と、そう思う様になった。
そしてそれと同時に。
こんな細やかな気遣いすら、彼女は人々から掛けて貰っていなかったのかと想うと、憐れみの様な哀しみの様な……。
『僕』自身ですらハッキリとは説明出来ない感情を、抱いてしまう。
『僕』が彼女に取る気遣いの多くは、かつて『ルフレ』が、まだ幼かった彼女に向けていたモノを模倣しているだけに過ぎなかった。
その頭を撫でる手付きも、彼女に微笑む時の表情も、その名前を呼ぶ時の声音も。
それは、かつて彼女が想い慕っていた『ルフレ』のそれで。
『ギムレー』としての意識の中に千々に壊れて消えた『ルフレ』の記憶を浚って、模倣していただけだったのに。
何時しかそれは、最初は模倣以外の何物でも無かった筈だったモノは、『偽り』であった筈のソレは。
紛れもなく『僕』の『本当』になっていたのだ。
何時からそうなっていたのかは、思い返そうとしてみても、『僕』自身ですらも分からない。
表面上の行動こそ変わりはしなかったけれども。
『偽り』が『真実』になり、『演技』は『本心』へと変わっていた。
……『僕』は、『ギムレー』である筈なのに。
心の底から、彼女を想う様になっていたのだ。
『僕』はヒトでは無いから、この想いをヒトがどう名付けるモノであるのかは、分からない。
だけどきっとそれは。
彼女を大切なのだと、幸せで居て欲しいと、幸せにしたいと、傍に居たいと、傍に居て欲しいと、そう想うこの『心』は、きっと。
『恋』や『愛』……と、そう言った心なのだろう。
それを自覚した時は、『僕』は大いに驚いたし戸惑った。
何故、憎い筈の相手に、そんな感情を懐くのかと。
だけれども、何れ程それを否定しようとしても。
彼女と過ごす内に『僕』の心に降り積もるソレが無くなる事などは無くて。
それどころか、日に日に大きく育ってゆく。
その『心』が、最早消したりする事など叶わぬモノなのだとハッキリと理解してしまった時。
『僕』はそれを受け入れていた。
彼女を、ルキナを。
愛している事を、『僕』は認めた。
認めたからと言っても、『僕』と彼女の関係が変わる事は何一つとして無かった。
『僕』は彼女の軍師であり、『ギムレー』であった。
彼女は人々の『希望』を背に絶望に抗い戦う者であり、ファルシオンを受け継ぐナーガの眷族の末裔であった。
愛していても、大切であっても。
『僕』と彼女の道が交わる事など、有り得ない事だ。
その筈なのだから、勘違いなどしてはいけないと『僕』はそう自分に言い聞かせ続けていた。
だけれども。
そう自分に言い聞かせ続けていても。
彼女を愛しいと想う『心』は止まらなかった。
彼女から離れ難くて、当初の目的を果たせるかも怪しくなっても、その傍を離れる事が出来なくなって。
傍に居て欲しい、傍に居たい、『僕』を見て欲しい、『僕』を……好きになって欲しい、と。
そんな想いが『僕』を支配する。
その内に、『彼女をギムレーの眷族にすれば、ずっと一緒に居られる』のだと。
そんな考えが頭の片隅に居座る様になって。
だけれども、『僕』はその決断に踏み切れずにいた。
確かに、彼女を『ギムレー』の眷族にすれば、何の憂いも抱く事も無く共に在れるだろう。
『ギムレー』の力を使えば、その意志や心を無理矢理奪う事だって、例え彼女がナーガの眷族であるのだとしても造作もない事である。
意志を奪われた人形の様な彼女を傍に置く事も、『僕』だけを愛する様にその心を縛ってしまう事も。
何れもとても抗い難い程に魅惑的であったけれども。
……それでも。
『僕』が愛しいと心から想うのは。
意志の輝きに満ちた眼で絶望の世界を真っ直ぐに見据えて抗う、誇り高くも何処か哀しい彼女なのだ。
彼女の姿をした人形を愛したい訳では無い。
それに……。
彼女は、剰りにも多くの人々から顧みられないままに、その心を磨り潰しながら戦い続けているのだ。
それを『僕』は哀しいと思っているのだから。
そんな『僕』が、何よりも彼女の心を蔑ろにする様な手段を取れる筈は無かった。
何を選ぶにしても、そこに彼女の『心』が『意志』が、在って欲しいと思うのだ。
それは傲慢な事であるのかもしれない。
よりにもよって、彼女を絶望の中で戦わせ続けているその原因たる『僕』がそんな事を思うだなんて、矛盾どころの話でないのかもしれない。
それでも、それこそが『僕』の本心であった。
……もし。
彼女もまた『僕』を望んでくれるのならば、『僕』と共に在る事を選んでくれるのならば。
きっと『僕』は、躊躇う事も何も無く、彼女を『ギムレー』の眷族にしていただろう。
『僕』はナーガの眷族にはなれないし、幾ら姿形を真似ようとも竜でしかない『僕』では彼女と同じヒトにもなれない。
共に傍に在り続けるなら、その方法しか無いからだ。
だけれども『僕』は。
もう、その手段を取ろうとは、思えなかった。
切っ掛けは、何だっただろうか。
その予兆は、ずっと前からあったのかもしれないし、そうでも無かったのかもしれないけれど。
ある時、『僕』は。
『僕』としての心と、『ギムレー』としての意志との解離を、認識してしまったのだ。
そしてそれと同時に。
『僕』と言う存在の曖昧さにも気付いてしまった。
『僕』はルキナを愛している。
それは、その『想い』だけは……『真実』だ。
だけれども、その『想い』の切っ掛けは。
その『心』の出発点は。
何処から来たモノであったのだろうか?
原点に立ち返ってもう一度考えてみれば、『ギムレー』が彼女を愛する事などは有り得ないのだ。
憎い聖王の末裔であると言うのもその理由の一つではあるけれど、それ以上に。
『ギムレー』にとってヒトは有象無象の虫けらなのだから。
彼女でさえも、『ギムレー』には、ナーガの力の欠片を持つ虫けら程度にしか感じられない。
ならば、何故『ギムレー』である筈の『僕』が、ヒトである彼女を愛する事が出来たのか。
それは、きっと。
『僕』の中にある、『ルフレ』の心の欠片が故だったのだ。
『ルフレ』が彼女に向けていた想いは、『僕』が彼女に向けているモノと同じではない。
それは例えるならば、親が子供を想う様な、そんな愛情であったのだろう。
最早『ルフレ』の心と記憶は千々に砕け散っている為、その心や記憶の欠片から類推するしかないのだけれども。
何にせよ、『ルフレ』が彼女を大切に愛していたのは真実であり、砕け散ってしまっても尚、その想いは消えたりはしていなかった。
だからこそ、『ルフレ』を模す内に、『僕』と『ルフレ』の欠片の境界が曖昧になり、同時に彼女を想う『ルフレ』の心の欠片が『僕』に反映されたのだ。
愛したのは『僕』の意志だ。
だけど、その切っ掛けは『ルフレ』であったのだ。
そして。
『僕』と『ルフレ』は、自分でも気付かぬ内により深く強く結び付いていた。
ふとした瞬間に、『僕』が経験した訳では無い光景が甦る。
『僕』が感じた事の無い想いが、心を押し潰す様に胸を掻き乱していく。
それは、かつて『ルフレ』が見て感じていたモノで。
砕けても尚残った、記憶と想いの欠片であった。
そして……『僕』は、何時しか。
『ギムレー』から解離しつつあったのだ。
彼女を幸せにしたい。
『ルキナに幸せになって欲しかった』
彼女に笑顔になって欲しい。
『ルキナの笑顔を守りたかった』
彼女の心を、大切にしたい。
『ルキナの心に、何時も希望の輝きが灯っていて欲しかった』
『僕』の想いと、『ルフレ』の想いが、混じり合って一つになっていく。
そして、最後に残ったのは。
『ルキナが、在るがままの自分で、自分の意志で自分の幸せを掴んで欲しい』と言う想いだった。
それは、無理矢理に『ギムレー』の眷族にしてしまえば叶わなくなる想いだ。
だからこそ、『僕』はその欲望を捨てた。
……その筈だったのに。
ふとした瞬間に、凶暴な衝動に襲われる。
自分のモノにする為に彼女のその心全てを踏み躙ろうとする凶悪な欲望は、自らの内から湧き起こっている様であって。
そして、『僕』の想いとは懸け離れたその意志は。
……『僕』のモノでは無かった。
それは、『ギムレー』としての本性が掻き立てる欲望だったのだ……。
……『僕』は、『ギムレー』だ。
その事実は変わらないし変えられない。
だけれども、この『心』は、この『想い』は。
例え『ギムレー』としての自分自身に逆らうモノであるのだとしても、絶対に譲れない。
……『僕』は最早、『ギムレー』ではないのかもしれない。
勿論、幾らその欠片が混ざり合ったとは言っても、『ルフレ』でも無い……。
ならば、『僕』は何者なのか。
その答えは、『僕』自身ですらも解らない。
だけれども。
自分の存在全てが不確かになりそうな中でも。
それでも、彼女への『想い』は絶対に変わらなかった。
そして、彼女を守りたいと願う心は、彼女の『幸せ』を祈る『想い』は。
『ギムレー』としての本性にすらも侵される事は無かった。
……『僕』は。
『彼女の軍師』だ。
彼女がそれを望む限りは、『僕』は『僕』で在り続ける。
『僕』で在る限り『ギムレー』にも彼女を傷付けさせない。
…………。
だけれども、『僕』が『ギムレー』である事が絶対に変えられない事を示す様に。
日に日に、『ギムレー』の本性が彼女に牙を剥きそうになる。
無理矢理に自分のモノにして、その心も何もかもを奪ってしまおうと……。
そんな衝動が、次第に強く激しくなっていく。
その衝動を追い払おうとして様子がおかしい『僕』を心配した彼女が、『僕』に手を差し伸べようとする度に。
その衝動は凶悪な程に『僕』を蝕んでしまう。
……その手を取る事が出来れば、どんなに良いだろうか。
そう想いながら、そして彼女が『僕』を想って差し伸べてくれた手を振り払う事に痛みを覚えながらも。
『僕』は必死にその手を拒む。
一度でもその手を取ってしまえば、『僕』の内に巣食うこの本性が、彼女を壊してしまうのが分かりきっていたから。
その度に、彼女は思い悩む様な顔をして。
それが、……何よりも心苦しかった。
……そんな有り様であっても。
『僕』は、彼女の傍を離れる事が出来なかった。
『僕』と言う存在の曖昧さが、その理由の最たるモノである。
『僕』が『僕』として居られるのは、『ロビン』と言う人格のその中心にある彼女の傍でだけだからだ。
彼女が『僕』を、『ロビン』と言う存在を求めてくれるからこそ、『僕』は『僕』として『ギムレー』の中に存在出来る。
もし彼女から離れてしまえば、彼女を手離してしまえば。
きっとそう時を置かずして、『僕』と言う人格は跡形もなく『ギムレー』の本性に呑み込まれる。
元々『僕』は『ギムレー』から生まれた存在ではあるのだからそれが自然なのかもしれないが、『僕』としての意志や意識は消え去るのだから、人格としては死ぬに等しいだろう。
それが、恐ろしくて。
人格の死もそうではあるけれど、それ以上に。
『僕』が消えた後に、『ギムレー』が彼女をどうするのかが未知数であり、何よりも恐ろしかった。
『僕』が懐いた彼女への執着のままに、心を踏み躙って無理矢理に眷族にするのかもしれない。
それとも、彼女を愛する心すらも消え去って、煩わしい虫けらとして殺そうとするのかもしれない。
分からないからこそ、彼女を守る為にも『僕』は『僕』を手離す事が出来ず、限界が近付いている事を自覚しながらも彼女の傍に在り続けている。
だけれども──
◇◇◇◇◇
1/2ページ