第三話・B『夜闇に二人、誓う』
◆◆◆◆◆
ギムレーが甦ってから、夜の空から星々は姿を消してしまった。
分厚い雲に覆われて陽の光が十分には届かない為昼間ですら何処か薄暗い世界では、夜になると灯された明かりの近く以外では何も見えなくなってしまう程の深い闇が世界を支配する様になっていた。
そんな闇の中でも屍兵達は変わらず蠢き、無力な人々を襲っていく。
こんな絶望の中では、人々は陽が射さぬ夜明けを生きて迎えられる様に祈りながら、死と隣り合わせの眠りの中で闇の終わりを震えて待つしか無い。
そんな星も月も何も見えない闇夜を、篝火だけが頼り無く照らす野営地でルキナは一人見上げていた。
ふと、背後から草を踏み分けながら近付いてくる足音が聞こえてくる。
だが、ルキナは振り返らない。
何故なら、その足音の主が自分を害する事など有り得ない、と。
そんな全幅の信頼を彼に預けているからだ。
「ルキナさん、どうかしましたか? 眠れないのですか?」
そう声を掛けられたルキナは、星明りなき夜空から背後の彼に──ロビンへと視線を移した。
揺らめく篝火に照らされたその顔は、ルキナに何時も向けている優しい微笑みを湛えていて。
その右手には、温かな湯気を立ち上らせたマグカップが一つ。
「ええ、少しだけ夢見が悪くて……」
そうは言うものの、父が命を落とし世界が絶望に包まれた日からルキナが悪夢を見ない夜は無かった。
父が帰って来なかった日の夢、父が屍兵となってルキナ達を襲ってくる夢、仲間達が皆命を落とす夢、人々が死に絶えた世界にただ一人取り残される夢…………。
狂いそうな程の悪夢や、そんな悪夢よりも凄惨な現実ばかりを見続けてきた所為か、最早今更悪夢の一つや二つ程度はどうとも思えなくなってきていたのだけれど……。
だけれども、ここ最近見る様になってきた悪夢は、今まで見てきたそれらの中でも一等悪いものであると言えるだろう。
…………ここ最近は、ロビンが命を落とす所をただ見ているしかない夢や、ロビンがルキナを置いて何処かへ去ってしまう夢ばかり見ていた。
それらはただの夢、ただの悪夢であるとは分かっているのだけれど。
眠る度にルキナを苛むそれらは、少しずつルキナの心を磨り減らす。……だから、眠る事が怖くて。
ルキナは一人天幕を抜け出して、誰もが寝静まった野営地で、星一つ見えない夜空を見上げていたのだ。
そんなルキナをロビンは心配そうに見詰めて。
そして、そっと。その右手に持っていたマグカップを差し出してきた。
「これ、良かったらどうぞ。
身体と気が休まる様に調合した特製の薬湯なんです。
蜂蜜と果実で味付けしたので、飲みやすいと思いますよ」
差し出されたマグカップを反射的に受け取ったルキナは、驚いてロビンの顔を見やった。
食料自体が絶対的に不足し誰もが餓えているこの絶望の世界では、蜂蜜も果実も、どちらも貴重品だ。
一応は王族であり食料に関してはやや優遇されているルキナでさえも、滅多に口に出来るモノでは無い。
贅沢にもそれらを惜しみなく使ったものを、こんなにも気安く渡されては、どう礼を言って良いものか分からず、ルキナは戸惑うしか無かった。
「蜂蜜と果実は、今日助けた村の方からお礼に頂いた物です。
ルキナさんと僕に、との事でしたので、気にせずに頂いてしまいましょう」
そう言ってロビンは柔らかく微笑んだ。
……そう言われてしまっては、遠慮するのも失礼と言うもかもしれない。
「ありがとうございます」と礼を言って、ルキナは薬湯に口を付ける。
薬湯と言う事で多少の苦味は覚悟していたが、蜂蜜と果実で味付けしたとの言葉通りに、優しくスッキリとした甘い味で、とても飲みやすかった。
マグカップの半分程飲んだ時には、悪夢の名残で冷たく強張っていた身体は温かく解され、強い不安に昂っていた心は穏やかさを取り戻していた。
ルキナの顔色が良くなったのが分かったのだろう。
ロビンは嬉しそうに笑った。
「良かった……。
ルキナさんが最近あまり眠れていなさそうでしたので、心配していました。
その様子なら、きっと今晩はもう悪い夢を見ずに安らかに眠れますね」
ロビンのその心遣いが、ルキナに向けられた優しさが、ルキナの心に沁み渡る。
ポカポカと、温かなモノが心と身体を満たしていく。
「ルキナさんは、何時も皆さんの為に……この世界の未来の為に、頑張り過ぎてますからね……。
きっと、中々気が休まらないのでしょう。
だけど、少しは我が儘を言っても良いのですよ?
他の人に言えないのなら、僕にだけでも。
何もかもをそんなに背負い過ぎていては、何時か貴女は壊れてしまう……。
だから、どうか。
貴女が背負うモノを、僕にも背負わせて下さい。
だって僕は、貴女の軍師なのだから……」
そう言ってロビンは、右手で優しくルキナの頭を撫でた。
その仕草があまりにも自然で……とても懐かしくて。
幸せだった幼いあの日々に、ほんの一瞬だけでも戻れた様な気がして……。
それでも、もう二度とは戻れず取り戻すことも叶わないあの『幸せ』とは少しだけ違うものだった。
ルキナはこの幸せをもう二度と忘れない様に……噛み締める様に、目をそっと閉じる。
「あっ……! す、すみません、つい……」
半ば無意識での行動だったのだろうか?
ルキナの反応を見て、ロビンは慌てて撫でる手を止めて離そうとする。
だけど、そんなロビンに。
「あ、あの……。
もっと、このまま……撫でてくれませんか……?」
と、思わずルキナは頼んでしまった。
言った途端にあまりにも子供っぽい事を言ってしまった事に気付いてルキナは気恥ずかしくなって顔が熱くなってきてしまったのだけれど、口から出てしまった言葉を取り消す術などこの世には無い。
ルキナの『お願い』に、ロビンは少し驚いた様に目を丸くしたが。
直ぐ様優しく頷いて、再びゆっくりと撫で始める。
優しく温かなロビンのその手は、幼いルキナを褒めてくれた記憶の中の父の大きな手のそれに似ている様で、でももっと違う人のそれによく似ていて…………。
胸が痛くなる程の懐かしさを、何故かルキナは、ロビンが撫でるその手に感じていた。
不思議な懐かしさにルキナが暫し目を閉じていると、ロビンは優しく囁く様にルキナへと語りかける。
「ふふっ……貴女にこんな『お願い』をされると言うのも、悪くはないですね。
……ルキナさんは何時も頑張ってます。
僕が戦えるのも、ルキナさんが傍に居てくれるからですよ。
何時も、有り難うございます」
ロビンの言葉は、優しくルキナの心を包む。
温かな掌が、ルキナの心の深い場所に刻まれた傷を、そっと癒していく。
でも、とロビンは呟く。
その声には、幾許かの哀しみと痛みが混ざっていた。
「貴女は……傷だらけになってでも、誰かを、何かを守ろうとしてばかりで……。
……僕は、貴女を守れているのでしょうか……?
貴女の、力になれているのでしょうか……?
こんな小さな事ででも、少しでも貴女を支えられるのなら。
それが、僕にとっては何よりもの幸いなのです」
一通り優しく撫でられてからその手が再び離れた時は、一抹の寂しさこそ感じたもののルキナは自重した。
だが、僅かに表情が曇るのは抑えられなかった様で。
ロビンはそんなルキナの思いを汲み取ってか、「少し話をしましょうか」と微笑みかける。
それを断る理由など無くて、ルキナは頷いた。
二人して、野営地にあった篝火に照らされた切り株に座る。
星明かり一つ無い夜闇の中。
ユラユラと揺らめきながら頼り無く闇を散らす篝火に照らされたロビンの眼差しは、光の加減によって深い陰を落としていた。
紅い瞳が焔の揺らめきを映して、燃える様に輝く。
ただ黙ってロビンの事を見詰めているだけで、そしてロビンが自分を見詰めていてくれるだけで。
ルキナは、もうこれ以上に無い程に満ち足りてしまう。
篝火から時折パチパチと木が爆ぜる音が聞こえてくる他は、小さな物音一つしない静かな夜の中で。
でもそんな静けさが、傍にロビンが居てくれると言うたったそれだけで、何よりも心地好いものに感じてしまう。
まるで世界にたった二人取り残されている様にも感じてしまう程に、こんなにも穏やかな夜だからか。
ルキナは、幼いあの日にふと眠れなくて部屋を抜け出して、夜の空を眺めた時の事を思い出した。
あの頃は。
父が居て、母が居て、ルキナの世界は優しさや希望でキラキラと輝いていた。
夜空を見上げれば何時だって満天の星々がルキナを優しく見守ってくれていて。
そんな星達を指差しながらその逸話や名前の由来などを幼いルキナにも解る様に優しく語り掛けてくれた、大好きな『あの人』が居てくれた。
優しい優しい……儚い夢の様な、そんな日々であったのだ。
思い出してしまう度に、今の現実との落差に傷付いて。
だから今となってはもう思い出す事すら少なくなっていたその幸せだった日々を、今こうやって思い出してしまうのは。
ロビンに時折感じてしまう、泣き出したくなる程の優しい懐かしさが故の事なのだろうか。
「何ででしょうね……。
ロビンさんと居ると、こんな星も何も無い夜だって、素敵な時間に思えてしまいます。
それに、貴方と居ると……何処か懐かしい……。
幸せで満ち足りていた、小さな頃の事を、思い出してしまう程に……」
空を見上げても、星灯など一つも見えないのに。
もう父も母もここには居ないのに。
それでも、確かにあの頃は感じられていた『幸せ』が、今この手の中にもまだ残されている様にすら、ルキナには感じられていた。
それはきっとロビンが居てくれるからで。
傍に居てくれるだけでこんなにも満たされてしまう人は、ロビンが初めてだった。
この気持ちの名前を、ルキナはまだ知らない。
だけれども、暖かく胸の内に灯されたその光の様なそれを、ルキナは優しく抱き締めていたかった。
「懐かしさ、……ですか」
「ふふ、少し可笑しいですよね。
でも、どうしてだか、私はずっとずっと昔から貴方を知っていた様な……。
そんな風に感じる事が時々あるんです」
『懐かしい』と言う言葉に目を瞬かせたロビンに、ルキナは少し笑って答える。
きっとこんな事を言っても、ロビンを当惑させてしまうだけだろうけれども……。
そうルキナは思っていたのだが、ロビンの反応は予想していたモノとはかなり異なっていた。
まるで戦術を練っている時の様な、真剣な眼差しで。
だけれどもその瞳には困惑と……何故かそれと同時に哀しみと。
そんな不思議な色を瞳に映しながら、ロビンは何事かを深く考え込んでいた。
「ロビンさん……?」
一体、どうしたと言うのだろうか?
ルキナは自分の発言を思い返してみるも、別段何か考え込まねばならない様な事は言ってないとしか思えない。
ルキナが囁く様に名を呼んだからか。
ロビンはハッとした様にルキナに顔を向ける。
そこに浮かんでいたのは、何故か今にも涙を浮かべそうな、苦痛を堪える様なそんな表情で。
だがルキナが驚いて瞬いた後には、それは幻であったかの様に霧散してしまっていた。
「あの、えっと……。
大丈夫、ですか……?」
ロビンがそんな表情を浮かべていたのが衝撃的で、ルキナは思わずそう訊ねてしまう。
だが、ロビンはそれにはキョトンとした顔で首を傾げるばかりだ。
「大丈夫、とは……?
確かに考え事をしていましたが……。
そんなに心配させてしまう程でしたか?」
ロビンのその様子は、無理をしている様にも演技をしている様にも見えなかった。
一瞬だけとは言え、あんなにも……今にも死んでしまいそうな程に悲痛な表情を浮かべていたのに。
あれは、一体何だったのだろう……。
心当たりが全く無さそうなロビンを深くは追及出来ずに、ルキナは自分が見たモノを胸の奥深くに仕舞う事にした。
「いえ、気にしないで下さい。
私の勘違いです」
そうルキナが言っても、ロビンは些か納得出来ていなさそうであったが。
彼もまた、この件に関しては追及する事を諦めた様だ。
一つ溜め息を吐いて、ロビンは夜空を見上げた。
「懐かしい……と言う感覚は僕には分からないのですが。
でも。
僕も、小さい頃のルキナさんに会ってみたかったな……とは思います」
「小さい頃の私、ですか?」
小さい頃のルキナと、幼いロビン。
もしも出逢えていたら、どうなっていたのだろうか。
友達になっていたのだろうか?
そして、彼を幼馴染として一緒に育っていたのだろうか?
想像してもしきれず。
そもそも、ロビンの幼い頃と言うものが想像出来ない。
何故か幼い頃と言われても、幼いルキナが今と全く同じ容姿のロビンにじゃれついてる光景しか想像が出来なかった。
まあ勿論、誰しも子供の頃があるのだから、ロビンにだって子供の頃があるのだけれども。
何故だかロビンに関しては、どんな子供だったのか想像が全く出来ないのだ。
「ええ。
きっととても可愛らしい子供だったんだろうな、と。
……いえ、今のルキナさんも素敵な方なんですけどね」
ふわっと笑いながら言ったロビンは、ルキナが何も言ってないのにも関わらずに慌てた様に付け足した。
そんなロビンの様子に、思わずルキナは笑ってしまう。
「今の私には、子供の頃の無邪気な可愛さとかは……残念ながらもう無いですからね、別に気にしてませんよ。
……ロビンさんは、昔どんな子供だったのでしょう?」
「僕の、子供の頃……?」
昔の自分の事を訊ねられたロビンは、眉根を寄せながら昔の自分について考え始めた。
だが中々思い付かないのか、とうとう頭を抱え出す。
そんなに考え悩む程の事だったのだろうか? と少しルキナが焦っていると。
まるで独り言の様な、熱に浮かされた譫言の様な……。
そんな曖昧な言葉がロビンの口から漏れだしてきた。
「僕の、子供の……頃……。
僕、の……。
……『僕』は、母さんと、旅を……して……いて……。
それで、そう、……『僕』は、旅をしながら、母さんから、軍師として……学んでいて……。
母さんが……死んでからも、旅を……。
そう、それであの日、『僕』は……出会って……」
頭を抱える様にして譫言の様にそう呟くロビンの目は何処か茫洋としていて。
そして、苦悶に呻く様に唸った後には。
「……?
あれ、僕は今何を……?」
紅い目を瞬かせる『何時も通り』のロビンが其処に居た。
そう、『何時も通り』に見える。
だが。
先程の尋常では無かったロビンの様子に、ルキナの胸にゆっくりと不安の影が蠢き出す。
もしかして、と。
自分にとって何よりも大切な、自分だけのこの軍師は。
酷く……脆く曖昧な存在なのでは無いか、と。
今までルキナはロビンに幾度と無く支えてきて貰った。
それにルキナは感謝してはいたのだが。
当たり前の様にルキナを支え続けてきたロビンは。
本当は、ルキナの方から支えなくてはならなかった存在なのではないか、と。
ルキナは、そう感じてしまった。
そしてそれは当たらずとも遠くは無い事実なのだろう、と。
そう己の直感が囁いていた。
「ロビンさん」
名を呼びルキナからその手を取ると、ロビンは驚き戸惑った様にルキナの手と顔を交互に見やる。
……思い返せば、何時だって彼の方から触れてきて貰ってばかりで。
ルキナから手を伸ばした事は一度も無かったのだ。
その事にも気付き、ルキナは愕然とした。
こんなにも大切な人なのに。
こんなにも大事で、傍に居て欲しいのに。
ルキナは、彼からただ与えられるばかりで。
それを享受するだけであったのだ。
でももう、そんな受け身だけの自分とは訣別しよう。
ロビンが曖昧で儚く脆い存在なのだとしたら。
それを繋ぎ止める為に、ルキナの方から手を差し出し、彼を支えよう。
大切な存在を、もう《二度と》喪わない様に。
この手を離さない様に。
求めるだけでは無い、与えるだけでも無い。
お互いに、お互いの胸にある空白を埋めていける様に。
ロビンがルキナの心を救い上げ支えてくれた様に。
今度はルキナが彼を支え守ろう。
「私は、貴方の傍に居ます。
ロビンさんはロビンさんです、何時如何なる時も。
私だけの軍師で、私の大切な、ロビンさんなんです。
貴方が私を助け支えてくれた様に、私も貴方を支えます。
私達は、独りじゃない。
貴方には私が居て、私には貴方が居る。
私達は、『半身』なんです」
ルキナのその誓いを込めた言葉に、ロビンは衝撃を受けたかの様に固まる。
そして──
「半……身……。
そうか、僕が……、ルキナさんの……」
茫然としながらもそう呟いて。
そして、今にも泣きそうに表情を歪めて。
苦しそうな、だけれども優しく、そして何よりも愛しい『宝物』を前にしている様な目で。
ロビンは、ルキナを見詰めた。
「僕、は……。
『僕』は……。
ルキナさんを、貴女を……。
何があっても、守ります。
『何者』にも、貴女を……傷付けさせたりは、しない……。
『僕』が、『僕』である限りは、……絶対に」
俯いて身を震わせたロビンは、絞り出す様な声でルキナにそう告げる。
自分の手を取るルキナの手を、優しく取って。
そして、誓う様にそこに口付けた。
人々を導いてきた星灯りは、絶望に満ちたこの地には届かない。
星の光一つ無い夜闇の中で。
二人が誓ったその言葉が、想いが、決意が。
如何なる未来を導くのか、それはまだ誰にも分からない。
それでも、きっと二人で居れば。
どんな未来であっても切り開いていけるのだろうと。
そう、ルキナは信じていた。
◆◆◆◆◆
ギムレーが甦ってから、夜の空から星々は姿を消してしまった。
分厚い雲に覆われて陽の光が十分には届かない為昼間ですら何処か薄暗い世界では、夜になると灯された明かりの近く以外では何も見えなくなってしまう程の深い闇が世界を支配する様になっていた。
そんな闇の中でも屍兵達は変わらず蠢き、無力な人々を襲っていく。
こんな絶望の中では、人々は陽が射さぬ夜明けを生きて迎えられる様に祈りながら、死と隣り合わせの眠りの中で闇の終わりを震えて待つしか無い。
そんな星も月も何も見えない闇夜を、篝火だけが頼り無く照らす野営地でルキナは一人見上げていた。
ふと、背後から草を踏み分けながら近付いてくる足音が聞こえてくる。
だが、ルキナは振り返らない。
何故なら、その足音の主が自分を害する事など有り得ない、と。
そんな全幅の信頼を彼に預けているからだ。
「ルキナさん、どうかしましたか? 眠れないのですか?」
そう声を掛けられたルキナは、星明りなき夜空から背後の彼に──ロビンへと視線を移した。
揺らめく篝火に照らされたその顔は、ルキナに何時も向けている優しい微笑みを湛えていて。
その右手には、温かな湯気を立ち上らせたマグカップが一つ。
「ええ、少しだけ夢見が悪くて……」
そうは言うものの、父が命を落とし世界が絶望に包まれた日からルキナが悪夢を見ない夜は無かった。
父が帰って来なかった日の夢、父が屍兵となってルキナ達を襲ってくる夢、仲間達が皆命を落とす夢、人々が死に絶えた世界にただ一人取り残される夢…………。
狂いそうな程の悪夢や、そんな悪夢よりも凄惨な現実ばかりを見続けてきた所為か、最早今更悪夢の一つや二つ程度はどうとも思えなくなってきていたのだけれど……。
だけれども、ここ最近見る様になってきた悪夢は、今まで見てきたそれらの中でも一等悪いものであると言えるだろう。
…………ここ最近は、ロビンが命を落とす所をただ見ているしかない夢や、ロビンがルキナを置いて何処かへ去ってしまう夢ばかり見ていた。
それらはただの夢、ただの悪夢であるとは分かっているのだけれど。
眠る度にルキナを苛むそれらは、少しずつルキナの心を磨り減らす。……だから、眠る事が怖くて。
ルキナは一人天幕を抜け出して、誰もが寝静まった野営地で、星一つ見えない夜空を見上げていたのだ。
そんなルキナをロビンは心配そうに見詰めて。
そして、そっと。その右手に持っていたマグカップを差し出してきた。
「これ、良かったらどうぞ。
身体と気が休まる様に調合した特製の薬湯なんです。
蜂蜜と果実で味付けしたので、飲みやすいと思いますよ」
差し出されたマグカップを反射的に受け取ったルキナは、驚いてロビンの顔を見やった。
食料自体が絶対的に不足し誰もが餓えているこの絶望の世界では、蜂蜜も果実も、どちらも貴重品だ。
一応は王族であり食料に関してはやや優遇されているルキナでさえも、滅多に口に出来るモノでは無い。
贅沢にもそれらを惜しみなく使ったものを、こんなにも気安く渡されては、どう礼を言って良いものか分からず、ルキナは戸惑うしか無かった。
「蜂蜜と果実は、今日助けた村の方からお礼に頂いた物です。
ルキナさんと僕に、との事でしたので、気にせずに頂いてしまいましょう」
そう言ってロビンは柔らかく微笑んだ。
……そう言われてしまっては、遠慮するのも失礼と言うもかもしれない。
「ありがとうございます」と礼を言って、ルキナは薬湯に口を付ける。
薬湯と言う事で多少の苦味は覚悟していたが、蜂蜜と果実で味付けしたとの言葉通りに、優しくスッキリとした甘い味で、とても飲みやすかった。
マグカップの半分程飲んだ時には、悪夢の名残で冷たく強張っていた身体は温かく解され、強い不安に昂っていた心は穏やかさを取り戻していた。
ルキナの顔色が良くなったのが分かったのだろう。
ロビンは嬉しそうに笑った。
「良かった……。
ルキナさんが最近あまり眠れていなさそうでしたので、心配していました。
その様子なら、きっと今晩はもう悪い夢を見ずに安らかに眠れますね」
ロビンのその心遣いが、ルキナに向けられた優しさが、ルキナの心に沁み渡る。
ポカポカと、温かなモノが心と身体を満たしていく。
「ルキナさんは、何時も皆さんの為に……この世界の未来の為に、頑張り過ぎてますからね……。
きっと、中々気が休まらないのでしょう。
だけど、少しは我が儘を言っても良いのですよ?
他の人に言えないのなら、僕にだけでも。
何もかもをそんなに背負い過ぎていては、何時か貴女は壊れてしまう……。
だから、どうか。
貴女が背負うモノを、僕にも背負わせて下さい。
だって僕は、貴女の軍師なのだから……」
そう言ってロビンは、右手で優しくルキナの頭を撫でた。
その仕草があまりにも自然で……とても懐かしくて。
幸せだった幼いあの日々に、ほんの一瞬だけでも戻れた様な気がして……。
それでも、もう二度とは戻れず取り戻すことも叶わないあの『幸せ』とは少しだけ違うものだった。
ルキナはこの幸せをもう二度と忘れない様に……噛み締める様に、目をそっと閉じる。
「あっ……! す、すみません、つい……」
半ば無意識での行動だったのだろうか?
ルキナの反応を見て、ロビンは慌てて撫でる手を止めて離そうとする。
だけど、そんなロビンに。
「あ、あの……。
もっと、このまま……撫でてくれませんか……?」
と、思わずルキナは頼んでしまった。
言った途端にあまりにも子供っぽい事を言ってしまった事に気付いてルキナは気恥ずかしくなって顔が熱くなってきてしまったのだけれど、口から出てしまった言葉を取り消す術などこの世には無い。
ルキナの『お願い』に、ロビンは少し驚いた様に目を丸くしたが。
直ぐ様優しく頷いて、再びゆっくりと撫で始める。
優しく温かなロビンのその手は、幼いルキナを褒めてくれた記憶の中の父の大きな手のそれに似ている様で、でももっと違う人のそれによく似ていて…………。
胸が痛くなる程の懐かしさを、何故かルキナは、ロビンが撫でるその手に感じていた。
不思議な懐かしさにルキナが暫し目を閉じていると、ロビンは優しく囁く様にルキナへと語りかける。
「ふふっ……貴女にこんな『お願い』をされると言うのも、悪くはないですね。
……ルキナさんは何時も頑張ってます。
僕が戦えるのも、ルキナさんが傍に居てくれるからですよ。
何時も、有り難うございます」
ロビンの言葉は、優しくルキナの心を包む。
温かな掌が、ルキナの心の深い場所に刻まれた傷を、そっと癒していく。
でも、とロビンは呟く。
その声には、幾許かの哀しみと痛みが混ざっていた。
「貴女は……傷だらけになってでも、誰かを、何かを守ろうとしてばかりで……。
……僕は、貴女を守れているのでしょうか……?
貴女の、力になれているのでしょうか……?
こんな小さな事ででも、少しでも貴女を支えられるのなら。
それが、僕にとっては何よりもの幸いなのです」
一通り優しく撫でられてからその手が再び離れた時は、一抹の寂しさこそ感じたもののルキナは自重した。
だが、僅かに表情が曇るのは抑えられなかった様で。
ロビンはそんなルキナの思いを汲み取ってか、「少し話をしましょうか」と微笑みかける。
それを断る理由など無くて、ルキナは頷いた。
二人して、野営地にあった篝火に照らされた切り株に座る。
星明かり一つ無い夜闇の中。
ユラユラと揺らめきながら頼り無く闇を散らす篝火に照らされたロビンの眼差しは、光の加減によって深い陰を落としていた。
紅い瞳が焔の揺らめきを映して、燃える様に輝く。
ただ黙ってロビンの事を見詰めているだけで、そしてロビンが自分を見詰めていてくれるだけで。
ルキナは、もうこれ以上に無い程に満ち足りてしまう。
篝火から時折パチパチと木が爆ぜる音が聞こえてくる他は、小さな物音一つしない静かな夜の中で。
でもそんな静けさが、傍にロビンが居てくれると言うたったそれだけで、何よりも心地好いものに感じてしまう。
まるで世界にたった二人取り残されている様にも感じてしまう程に、こんなにも穏やかな夜だからか。
ルキナは、幼いあの日にふと眠れなくて部屋を抜け出して、夜の空を眺めた時の事を思い出した。
あの頃は。
父が居て、母が居て、ルキナの世界は優しさや希望でキラキラと輝いていた。
夜空を見上げれば何時だって満天の星々がルキナを優しく見守ってくれていて。
そんな星達を指差しながらその逸話や名前の由来などを幼いルキナにも解る様に優しく語り掛けてくれた、大好きな『あの人』が居てくれた。
優しい優しい……儚い夢の様な、そんな日々であったのだ。
思い出してしまう度に、今の現実との落差に傷付いて。
だから今となってはもう思い出す事すら少なくなっていたその幸せだった日々を、今こうやって思い出してしまうのは。
ロビンに時折感じてしまう、泣き出したくなる程の優しい懐かしさが故の事なのだろうか。
「何ででしょうね……。
ロビンさんと居ると、こんな星も何も無い夜だって、素敵な時間に思えてしまいます。
それに、貴方と居ると……何処か懐かしい……。
幸せで満ち足りていた、小さな頃の事を、思い出してしまう程に……」
空を見上げても、星灯など一つも見えないのに。
もう父も母もここには居ないのに。
それでも、確かにあの頃は感じられていた『幸せ』が、今この手の中にもまだ残されている様にすら、ルキナには感じられていた。
それはきっとロビンが居てくれるからで。
傍に居てくれるだけでこんなにも満たされてしまう人は、ロビンが初めてだった。
この気持ちの名前を、ルキナはまだ知らない。
だけれども、暖かく胸の内に灯されたその光の様なそれを、ルキナは優しく抱き締めていたかった。
「懐かしさ、……ですか」
「ふふ、少し可笑しいですよね。
でも、どうしてだか、私はずっとずっと昔から貴方を知っていた様な……。
そんな風に感じる事が時々あるんです」
『懐かしい』と言う言葉に目を瞬かせたロビンに、ルキナは少し笑って答える。
きっとこんな事を言っても、ロビンを当惑させてしまうだけだろうけれども……。
そうルキナは思っていたのだが、ロビンの反応は予想していたモノとはかなり異なっていた。
まるで戦術を練っている時の様な、真剣な眼差しで。
だけれどもその瞳には困惑と……何故かそれと同時に哀しみと。
そんな不思議な色を瞳に映しながら、ロビンは何事かを深く考え込んでいた。
「ロビンさん……?」
一体、どうしたと言うのだろうか?
ルキナは自分の発言を思い返してみるも、別段何か考え込まねばならない様な事は言ってないとしか思えない。
ルキナが囁く様に名を呼んだからか。
ロビンはハッとした様にルキナに顔を向ける。
そこに浮かんでいたのは、何故か今にも涙を浮かべそうな、苦痛を堪える様なそんな表情で。
だがルキナが驚いて瞬いた後には、それは幻であったかの様に霧散してしまっていた。
「あの、えっと……。
大丈夫、ですか……?」
ロビンがそんな表情を浮かべていたのが衝撃的で、ルキナは思わずそう訊ねてしまう。
だが、ロビンはそれにはキョトンとした顔で首を傾げるばかりだ。
「大丈夫、とは……?
確かに考え事をしていましたが……。
そんなに心配させてしまう程でしたか?」
ロビンのその様子は、無理をしている様にも演技をしている様にも見えなかった。
一瞬だけとは言え、あんなにも……今にも死んでしまいそうな程に悲痛な表情を浮かべていたのに。
あれは、一体何だったのだろう……。
心当たりが全く無さそうなロビンを深くは追及出来ずに、ルキナは自分が見たモノを胸の奥深くに仕舞う事にした。
「いえ、気にしないで下さい。
私の勘違いです」
そうルキナが言っても、ロビンは些か納得出来ていなさそうであったが。
彼もまた、この件に関しては追及する事を諦めた様だ。
一つ溜め息を吐いて、ロビンは夜空を見上げた。
「懐かしい……と言う感覚は僕には分からないのですが。
でも。
僕も、小さい頃のルキナさんに会ってみたかったな……とは思います」
「小さい頃の私、ですか?」
小さい頃のルキナと、幼いロビン。
もしも出逢えていたら、どうなっていたのだろうか。
友達になっていたのだろうか?
そして、彼を幼馴染として一緒に育っていたのだろうか?
想像してもしきれず。
そもそも、ロビンの幼い頃と言うものが想像出来ない。
何故か幼い頃と言われても、幼いルキナが今と全く同じ容姿のロビンにじゃれついてる光景しか想像が出来なかった。
まあ勿論、誰しも子供の頃があるのだから、ロビンにだって子供の頃があるのだけれども。
何故だかロビンに関しては、どんな子供だったのか想像が全く出来ないのだ。
「ええ。
きっととても可愛らしい子供だったんだろうな、と。
……いえ、今のルキナさんも素敵な方なんですけどね」
ふわっと笑いながら言ったロビンは、ルキナが何も言ってないのにも関わらずに慌てた様に付け足した。
そんなロビンの様子に、思わずルキナは笑ってしまう。
「今の私には、子供の頃の無邪気な可愛さとかは……残念ながらもう無いですからね、別に気にしてませんよ。
……ロビンさんは、昔どんな子供だったのでしょう?」
「僕の、子供の頃……?」
昔の自分の事を訊ねられたロビンは、眉根を寄せながら昔の自分について考え始めた。
だが中々思い付かないのか、とうとう頭を抱え出す。
そんなに考え悩む程の事だったのだろうか? と少しルキナが焦っていると。
まるで独り言の様な、熱に浮かされた譫言の様な……。
そんな曖昧な言葉がロビンの口から漏れだしてきた。
「僕の、子供の……頃……。
僕、の……。
……『僕』は、母さんと、旅を……して……いて……。
それで、そう、……『僕』は、旅をしながら、母さんから、軍師として……学んでいて……。
母さんが……死んでからも、旅を……。
そう、それであの日、『僕』は……出会って……」
頭を抱える様にして譫言の様にそう呟くロビンの目は何処か茫洋としていて。
そして、苦悶に呻く様に唸った後には。
「……?
あれ、僕は今何を……?」
紅い目を瞬かせる『何時も通り』のロビンが其処に居た。
そう、『何時も通り』に見える。
だが。
先程の尋常では無かったロビンの様子に、ルキナの胸にゆっくりと不安の影が蠢き出す。
もしかして、と。
自分にとって何よりも大切な、自分だけのこの軍師は。
酷く……脆く曖昧な存在なのでは無いか、と。
今までルキナはロビンに幾度と無く支えてきて貰った。
それにルキナは感謝してはいたのだが。
当たり前の様にルキナを支え続けてきたロビンは。
本当は、ルキナの方から支えなくてはならなかった存在なのではないか、と。
ルキナは、そう感じてしまった。
そしてそれは当たらずとも遠くは無い事実なのだろう、と。
そう己の直感が囁いていた。
「ロビンさん」
名を呼びルキナからその手を取ると、ロビンは驚き戸惑った様にルキナの手と顔を交互に見やる。
……思い返せば、何時だって彼の方から触れてきて貰ってばかりで。
ルキナから手を伸ばした事は一度も無かったのだ。
その事にも気付き、ルキナは愕然とした。
こんなにも大切な人なのに。
こんなにも大事で、傍に居て欲しいのに。
ルキナは、彼からただ与えられるばかりで。
それを享受するだけであったのだ。
でももう、そんな受け身だけの自分とは訣別しよう。
ロビンが曖昧で儚く脆い存在なのだとしたら。
それを繋ぎ止める為に、ルキナの方から手を差し出し、彼を支えよう。
大切な存在を、もう《二度と》喪わない様に。
この手を離さない様に。
求めるだけでは無い、与えるだけでも無い。
お互いに、お互いの胸にある空白を埋めていける様に。
ロビンがルキナの心を救い上げ支えてくれた様に。
今度はルキナが彼を支え守ろう。
「私は、貴方の傍に居ます。
ロビンさんはロビンさんです、何時如何なる時も。
私だけの軍師で、私の大切な、ロビンさんなんです。
貴方が私を助け支えてくれた様に、私も貴方を支えます。
私達は、独りじゃない。
貴方には私が居て、私には貴方が居る。
私達は、『半身』なんです」
ルキナのその誓いを込めた言葉に、ロビンは衝撃を受けたかの様に固まる。
そして──
「半……身……。
そうか、僕が……、ルキナさんの……」
茫然としながらもそう呟いて。
そして、今にも泣きそうに表情を歪めて。
苦しそうな、だけれども優しく、そして何よりも愛しい『宝物』を前にしている様な目で。
ロビンは、ルキナを見詰めた。
「僕、は……。
『僕』は……。
ルキナさんを、貴女を……。
何があっても、守ります。
『何者』にも、貴女を……傷付けさせたりは、しない……。
『僕』が、『僕』である限りは、……絶対に」
俯いて身を震わせたロビンは、絞り出す様な声でルキナにそう告げる。
自分の手を取るルキナの手を、優しく取って。
そして、誓う様にそこに口付けた。
人々を導いてきた星灯りは、絶望に満ちたこの地には届かない。
星の光一つ無い夜闇の中で。
二人が誓ったその言葉が、想いが、決意が。
如何なる未来を導くのか、それはまだ誰にも分からない。
それでも、きっと二人で居れば。
どんな未来であっても切り開いていけるのだろうと。
そう、ルキナは信じていた。
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