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その他の短編

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 潮の匂いを含んだ湿った風が、カムイの髪を靡かせる様に吹き渡っている。
 その風に髪を浚われぬ様に少し片手で押さえたカムイは、目の前に広がる光景に息を呑む様に大きく目を見開いたかと思うと、はしゃぐ様な歓声を上げた。

 遥か彼方の水平線まで視界いっぱいに広がる海は、太陽の光を反射して翡翠と藍玉を混ぜて溶かした様な色に煌めいて。
 程よい数の雲がゆったりと流れてゆく空には、海鳥達が互いに鳴き交わしながら餌を求めて飛び交っている。
 この海は『海』としては別段特筆する程美しい訳でも無いのだろうけれど。
 それでも、物心付くか付かないかの幼い頃に暗夜に拐われて来てから今までずっと北の城塞に軟禁され外に出る事が出来なかったカムイにとっては、物心付いてから始めて見る海であった。
 それだけに、例えここが何の変哲もない海辺であるのだとしても、その全てがカムイにとっては初めてのモノで、その好奇心を擽り弾ませているのだ。

 キラキラと好奇心に輝いた眼差しで海を空を……そこにある全てを目に納めていくカムイの姿を、ジョーカーは一歩後ろに下がった所から見守っている。
 カムイの従者として、その身に害を成す者が居ないかを警戒しつつ、そしてまたカムイが不注意などで怪我をしない様に気を配りつつ。
 湧き上がる好奇心とそれを満たせる事への喜びに満ちた輝きを放つカムイを、この世の何よりも尊く眩しいモノを見る様な眼差しで、ジョーカーは見詰めていた。


「見て下さいジョーカーさん!
 こんなにも沢山の水が、何処までも広がってます……!
 全然果てが見えませんね。
 まるで、世界の端までずっと続いてるみたいです!
 これが海なんですね……!」


 打ち寄せる波に足が濡れていくその感覚すらも楽しむ様に波打ち際を楽しげに砂浜に足跡を付けていきながら、カムイは弾む様な声音でジョーカーに話し掛ける。
 寄せては返す波を追い掛ける様に、まるで踊っているかの様なステップを踏むカムイは、初めての海に「凄い、凄い」と感嘆の言葉を溢しながらはしゃいだ様に笑っていた。


「カムイ様のお気に召した様で何よりです」

「はい……!
 私、外の世界がこんなに広いなんて、こんなに素敵なモノが広がっていたなんて、初めて知りました。
 北の城塞に居た頃は、マークス兄さんたちのお話の中や、本の中でしか外を知る事が出来なかったですし……。
 ジョーカーさん、私……こうやって外を見る事が出来て、とても幸せです!」


 カムイのその言葉と輝く様な笑顔に、ジョーカーは微笑んで頷くと共に、ほんの少しだけチクりと胸を刺す痛みを感じる。
 それを表情に出さぬ様に気を付けながら、ジョーカーは心の中だけで一つ小さく溜め息を吐いた。

 北の城塞に軟禁され続けてきたカムイにとって、“世界”は其処だけで完結しているモノであった。
 ジョーカーやフェリシア達使用人や世話役のギュンター以外には、折を見て訪れるきょうだい達以外には訪れる者も無い……そんな閉じた狭い世界でカムイは生きてきた。
 ジョーカー達はなるべくカムイに不自由させない様に努力してきたつもりであったが、ガロン王の命令もあってカムイを外に出す事は叶わず、カムイに“世界”を教えてあげる事は出来なかった。

 白夜王国への攻撃の為の捨て駒として、漸く城塞の外へ出る事を許されたカムイは自らの本当の出自を知ると共に、……自分の所為で実の母親を喪う事になってしまった。
 例えかつて共に過ごした日々が記憶に残っていないにせよ、実の母を喪ってしまったカムイの心の傷は深く……。
 そしてその傷も癒えぬままに、カムイにとっては酷な大きな選択を成さざるを得なくなった。
 それまで自分自身で何かを選ぶ事を殆ど許されずその選択肢すら与えられなかったカムイが初めて与えられた選択の時。
 それは、自分が本来は居るべきだった国か、それとも自分が育ってきた国か、と言う剰りにも重たい選択であった。
 育ってきた国と言っても城塞に独り隔離される様に軟禁され続けてきたカムイにとっては、白夜も……そして暗夜でさえも、全く知らぬ国であったのに。
 記憶には残っていない……それでも大切に愛してくれていた白夜のきょうだい達か、それとも共に過ごした日々と愛された記憶のある暗夜のきょうだい達か。
 そのどちらかを選ばされたのだ。

 それでもカムイはその選択から逃げる事なく自分が選びたいと思う道を選び、そして戦う事を決意した。
 世間を知らず閉じた世界だけで生きてきたと言うのに、臆する事なく自らの意思で道を選んだのだ。
 軟禁の日々ですら褪せさせる事が出来なかったカムイが持つ本質的な意志の輝きが、そこにあった。

 その輝きはジョーカーにとっては剰りにも眩しすぎて、まるで「お前はカムイに触れる資格など無い」のだと、そう突き付けられているかの様にも思えて。
 それが尚一層の事、胸を締め付けるのだ。

 外の世界へと解き放たれ“世界”をその目で確かめてゆくカムイは、天を目指して大きく成長する若木の様に、目覚ましく日々成長していって。
 カムイが何時か、ジョーカーを必要としなくなる時が来るのではないかと……そんな風にも思ってしまう。

 カムイが何を選ぼうと何処へ行こうとジョーカーはカムイに付き従う意志があるし、実際そうしてきたし、これからもそうするだろう。
 だが……。
 カムイは、広い外の世界に出ていっても、誰からにも必要とされる……皆の中心に居られる人間だが、ジョーカーは違う。

 ジョーカーは実の両親にさえ要らぬと捨てられ、捨てられた先でも疎まれ続けてきた者だ。
 カムイに出会い、カムイに必要とされなければ……きっとジョーカーはあのまま生きる希望もないままに自分を捨てた世界に恨みを抱きながら居場所を見付けられずに何処かで死んでいたであろう。
 カムイに出会い、必要とされ、居場所と生きる為の希望を得た。
 ジョーカーにとってカムイは今の自分の全てではあるけれど。
 ……カムイにとってのジョーカーは、きっとそうではない。
 白夜の者達からも暗夜の者達からも慕われ必要とされ続けるカムイの中に、自分の居場所が何れ程あるのだろうか。

 あの寒く寂しい北の城塞なら。
 あの狭く閉じた世界でなら。
 自分一人ではあまり多くの事は出来ないカムイの為に自分は必要なのだと、自分に出来る事があるのだと、自分はカムイにとっては大事な者なのだと、そう自分で思う事が出来たけれど。

 多くの人々に触れ合い、少しずつ自分自身の力で歩き出していくカムイにとって、自分は果たして何処まで必要な存在なのだろうか……とも思ってしまうのだ。

 カムイを北の城塞に閉じ込めていたかった訳では決してないけれども。
 世界を知って変わっていくカムイが、自分なんかでは手を触れてはいけない存在に思えてきてしまって、時折どうしようもなく苦しくなる。

 きっとこんなにも苦しいのは、ジョーカーがカムイに懐いているのがただ単純な主従の忠誠心だけではないからであろう。
 ……そう、ジョーカーは一人の女性としても、カムイを愛していた。

 元は貴族の生まれとはいえ必要とされず捨てられた自分と、王族の一員であるカムイ。
 決して釣り合いなんてとれる筈もなく、手が届くはずなんてなくて。

 何時か、カムイが自分を必要としなくなった時。
 きっと何時かは訪れるのであろうその時に。
 自分は、どうするべきなのだろうか……。

 そんな思いを懐いている事をカムイに悟られる訳にはいかなくて。
 カムイを前にする度に、ジョーカーは何時も微笑む様に自分の想いを誤魔化すけれど。
 その笑顔を浮かべる事すら、最近は少し辛くなってきていた。
 何時かは……息をする事すら苦しくなる様な、生きながらにして水底に沈みゆく様な、そんなこの想いを押し止める事が出来なくなるのではないかと、そう思ってしまう。


「ねぇ、ジョーカーさん」


 そんな事を考えていたからだろうか。
 いつの間にかカムイがジョーカーの顔を見上げる様に、目の前に立っていた事にジョーカーは声をかけられるまで気が付けなかった。
 不意に至近距離にやってきた、生けるモノが持ち得る最上級の美しさを形にしたかの様なカムイの顔に、ジョーカーの胸の鼓動は一際強く打ち付けてくる。


「私、ジョーカーさんと一緒に海を見る事が出来て、とても嬉しいです。
 あの城塞で一緒に海の本を読んでいた時、何時か外の世界に出る事が出来たら、ジョーカーさんや皆さんと一緒に海が見たいと……ずっと思っていましたから。
 ね、ジョーカーさん。
 これからももっと、沢山のモノを一緒に見ましょう?
 本やマークス兄さん達のお話から想像するしかなかった沢山の景色を、沢山の素敵なモノを。
 きっと、ジョーカーさんと一緒なら、素敵なモノがもっともっと輝いて見えると思うんです」


 そう言って、心からそう思っている事を何よりも雄弁に語る様に、カムイは花が咲き綻ぶ様な笑顔を浮かべ、ジョーカーの手を取った。
 それは、まるであの日誰からも必要とされていなかった自分を救い上げてくれたあの手の様で。
 その美しさに、込み上げてくる愛しさに。

 ジョーカーは息を呑み、そして嘘偽りの無い想いを言葉にした。


「ええ、カムイ様。
 私も、カムイ様と一緒に見る世界は、きっと何よりも素晴らしいモノであると……そう思います」


 カムイがそこに居るのなら、そしてカムイが自分を必要としてくれるのなら。
 例えそこが地獄の様な世界であったとしても、ジョーカーにとっての世界は輝き続けるのだから。

 何時かカムイが自分を必要としなくなるのだとしても。
 ジョーカーにとって、カムイが自分の生きる意味である事には変わらない。
 願わくば、何があっても最後まで共にある事を許されたいと、そう心から思う。


「ジョーカーさん、これからもずっと私と一緒に居てくれますか?」

「勿論ですカムイ様」


 ジョーカーが浮かべたその微笑みは、一片の偽りもない真実の心からの笑顔であった。





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