千重波の彼方
◆◆◆◆◆
陽が沈み行く空は燃える様な紅に染まり、その色を映した様に波打つ水面もまるで燃えているかの様である。
昼日中の照り付ける様な陽の光と、眩いばかりに輝く海は全く以て己の好みとは掛け離れているが、夕暮れ時のこの海は少しばかり気に入っていた。それを口にする事は無いが。
どうして態々こんな場所にまで連れて来られなければならなかったのかとそう不満を隠せずにいたが、まあこれはこれで悪くは無い。もしかしたら、喪ってしまった記憶を取り戻す事に僅かながらでも繋がるのかもしれないのだから。
この地に招かれたその時に、時空を超えた影響からなのか、己が邪竜ギムレーであると言う認識以外に自分自身に繋がる一切の記憶と共に竜としての力の大半を喪ってしまっていた。
儀式を行ってみたりするなどして喪った記憶を取り戻そうとしているがその努力は一向に報われず、未だ『ギムレー』であると言う自覚と僅かばかりこの身に残された竜の力だけが、今の自分の全てである。
世界を滅ぼす者、人々を絶望させる者、人の祈りによって憎悪と絶望を齎す者……。それが、『邪竜ギムレー』である。
異世界の伝承が異界の英雄譚として伝わるこの地でも、『邪竜ギムレー』と言う存在は絶対的な「悪」。英雄によって滅ぼされるべき「邪悪」であると伝えられていた。
異界の伝承はこの地に招かれた英雄にとっては『未来の予言』にも等しくなる事も多いので、その未来の部分の情報は閲覧出来ない様にはなっているのだが、己が本来居たのだろう世界と近しい異界から招かれている者達の姿や彼等がこの地に招かれる事になった英雄譚を聞くに、どうやら彼等の世界で『邪竜ギムレー』は英雄となった彼等の手によって滅ぼされている様だ。……それなのに己の『器』、かつて「人間」として生きていたのであろう頃の『自分自身』も、この地に招かれているのには少しばかり違和感があるが……。
まあ、『邪竜ギムレー』という存在が英雄譚の中で求められている役割が「悪役」であると言う事には変わらないだろう。
英雄譚の中で『邪竜ギムレー』が滅ぼされていると言う事には大した感慨は無かった。
何せ、「同じ様な」と条件を付けたとしても、可能性の数だけ異界は存在すると言っても過言では無いのだ。
限り無く無限に近い程に存在する異界の幾つかで『邪竜ギムレー』が滅ぶのだとしても、それは大した問題では無い。
精々、その様に人間の手によって討ち取られて滅ぼされるべき「悪」として名を残した間抜けが居たと言うだけだ。
慢心でも何でもなく、真に力を取り戻した『邪竜ギムレー』が人間の様な小さな羽虫に負ける筈は無いと言う事実がある。
まあ……異界に無数に存在する神竜ナーガが余計な手出しを出してきたり、無価値な憐憫による干渉をしてきたりして多少は手こずる事はあるのかもしれないけれども。
何にせよ、人間に負けた『邪竜ギムレー』は、余程驕り高ぶって力を出し惜しみするなどして、無様に負けたのだろう。
……愚かな事だ。相手が人間であれ神竜であれ異界の神々であれ、「滅ぼす」と決めたのであれば過度な驕りは無用な危機を招くだけであると言うのに。
ある意味で「自分自身」であるのかもしれないけれど、無様な末期を異界にまで轟かせる事になった愚か者とは、存在の根源が同じであると言うだけでしかないだろう。
この地に招かれたのは、ただ単に同じ『邪竜ギムレー』だからであるのだろうと、そう思っている。
まさか、記憶にないだけで既にその様に無様な真似を晒していたのだろうか……? ……流石にそれは違うと思いたい。
記憶を喪う以前がどうであったのかは、それを完全に喪失している以上は考えるだけ無意味な事だ。
そして、記憶があろうと無かろうと、人間どもにとっては『邪竜ギムレー』と言う存在である事には変わらない。
その為、こうしてこの世界に招かれてはいるものの、英雄としてこの地に招かれた他の者達からは距離を置かれている。
同じ異界から招かれ、『邪竜ギムレー』と言う存在がどういうモノであるのかをよく知っている者達からは当然として。
それ以外の異界から招かれた者達の大多数からも。
時折、ギムレーが招かれた異界とは全く異なる異界からも、ギムレーと同じ様に「倒されるべき悪」として伝承されているのだろう者達も招かれているが……。そう言った者達とも然して交流がある訳では無い。
まあ、元々他者と関わり合いになりたいとは思っていない為、それはそれで気楽なので良いのだが。
契約で縛られている為やろうと思っても出来はしないが、本来の力を顕せばこの地に集った英雄たちも根こそぎ纏めて滅ぼしてしまえるだけの力があり、元居た世界ではそれを実際に成し遂げた存在でも在るのだ。
一般的な感覚をしていれば、間違っても関わり合いになりたくは無い存在だろうし、己を正義であると思う輩にとっては許し難い存在であるのだろう。
故に、こうして独りで過ごす時間が多かった。
纏わり付かれたとしても、破壊衝動が沸き立つだけなので、遠巻きにされている方が気が楽である。
そう、その筈なのだけれども……。
砂浜を踏み締め近付いてくる足音を捉え、面倒くさいと思いつつもそちらに目を向ける。
そこには、やはりと言うか。
想像していた通りの者の姿が在った。
そちらを態々向いてやった事に気が付いたその者は、嬉しそうにその口の端を緩め、優し気にその眼差しを和らげる。
その様を見ているとどうしてだか胸の奥がざわついた様に騒ぐが、何故かそれを嫌だとは思えない。
「ここに居たのか、少し捜したぞ」
そう言って笑うその顔にこちらに阿る様なものはなく、ただただその言葉通りの感情を伝えてくる。
その所為なのか、無碍に突き放す事も少し憚られた。
「聖王の末裔が僕に何の用なんだい?」
とは言え、愛想良く対応してやる気も無くて、少しばかり棘を混ぜた様な反応にはなるのだけれど。
それでも、それに気を悪くした様な様子も無く、彼はほんの少しで触れ合えそうな程の近くまでやって来る。
毎度の事ながら、調子が狂ってしまいそうだ。
かつて『邪竜ギムレー』を封じた者の末裔であり、そして伝承によっては恐らく『邪竜ギムレー』を討ち滅ぼした事になっている者──聖王クロム。
『邪竜ギムレー』と「同じ」異界からやって来た者達の一人であり、『邪竜ギムレー』と対峙した者の一人でもある。
当然、『邪竜ギムレー』がどう言う存在であるのかはよく知っている筈であるのだろうけれども。
不思議な事に、この男だけは妙に親し気に接してくるのだ。
聖王クロムはその英雄譚に於ける知名度の高さ故なのか、この世界には異なる可能性や時間から招かれた同一存在が互いに反発する事も無く同時に複数存在している。
今目の前に居るのも、数居る「聖王クロム」の内の一人だ。
「聖王クロム」全員が『邪竜ギムレー』に対して親し気に接してくるのなら、まあそう言うものなのかもしれないと受け入れていたかもしれないが、別にその様な事も無く。
明確に敵意を持たれている訳では無くても、その他の殆どの「聖王クロム」は積極的に『邪竜ギムレー』に関わろうとはせず、寧ろ「人間」であった頃のギムレー……ルフレと言う名であった頃の者達と深く関わり合っている様であった。
それなのにこの男は『邪竜ギムレー』に関わろうとする。
余程の変人であった可能性から彼を招いたのだろうか。
全く理解に苦しむ事である。
現に今も──
「用と言う程のものでは無いのだが……。
お前と海を見たくてな。それで、捜していた」
「僕と海を? ……本当に、変な奴だな、君は。
世界を滅ぼす『邪竜ギムレー』と海が見たいだなんて、酔狂にも程があるんじゃないかい?
大体、僕に構わなくたって君には君の『ルフレ』が居るんだろう?
他の「君」の様に、君の『ルフレ』と時間を過ごせば良いだけの話じゃないか。
海が見たいのならそう言ってやれば『ルフレ』は喜んで付き合ってくれるんじゃないのかい?」
全く以て理解出来ない。何故態々『邪竜ギムレー』に付き纏ってくるのだ。世界を滅ぼした邪竜に、何を期待している。
いっそ気味が悪い程に理解出来ない相手ではあるのだけれども、しかし完全に拒絶し切るのも何故だか出来なかった。
「……いや、俺はお前と時間を過ごしたいんだ。
この世界だからこそ、お前と。
……『約束』、したからな」
「『約束』? 残念ながら僕には全く心当たりが無いね。
第一、僕に記憶が在ったとしても、よりにもよって聖王の末裔である君相手に『約束』なんか交わす筈が無いだろう。
全く……僕を誰と重ねているのかは知らないけれど、無意味な代償行為は止めた方が良いと思うよ。
虚しいだけだし、そもそも『邪竜ギムレー』を相手にやる事じゃない。
契約に縛られているからやらないけど、元の世界だったら君なんてとっくの昔に喰い殺しているだろうからね」
別に他意は無い言葉であった。
それなのに、それを聞いた彼は、何処か哀しそうな……少しばかり苦しそうな表情をする。
何でそんな顔をするのか分からず困惑し、そして自分が困惑したと言う事自体に狼狽えた。
『邪竜ギムレー』にとって、人間の一人や二人傷付こうが絶望しようがどうでも良い事である筈なのに、何故。と。
……そう考えるのに胸の奥が苦しくなり、何処か遠くの消え去ってしまった過去の残滓が苦みの様に胸の内を支配する。
その何もかもに訳も分からず困惑していると、彼は少し寂しそうに「そうか」と、微笑んだ。
その微笑みに、益々胸の内は搔き乱される。
止めてくれ、そんな優しい顔をしないでくれ。
自分には、そんな資格は無い。
君を■■■しまった僕には、もう──
意味の分からない激情が、悲しみと苦しみと絶望の感情の奔流となって駆け巡るが、そもそもどうしてそんな感情を抱くのかすら分からない。中身の無い感情だけが其処に在った。
無意識の内に、息が浅く早くなる。
視界の端に、暗く絶望的な赤が飛び散った様な気がした。
感情の濁流に吞み込まれそうになっていたその最中。
不意に、硬い指先がそっと頬に触れてきた。
驚いて見上げると、少しばかり背の高い彼が、心配そうな眼差しで見詰めていて。頬に触れていた手は、そっと下ろされたと思うと、今度はこちらの手を優しく掴んで来る。
「……少し、歩こうか」
荒くなっていた息が収まってきた事を確認して安堵したのか、彼はその目を優しく細めて。そしてその手を優しく掴んだまま波打ち際を歩き出した。
振り払おうと思えば容易く振り払える程度の強さだ。
それでも、何故だかその手を振り払おうとは思えなかった。
彼に手を引かれながら、波打ち際を歩いていく。
夕暮れ時の光に染まった砂は、血に染まった様に紅く。
強い西日に照らされた世界は、其処に在る何もかもの輪郭が融ける様にあやふやになっている。
そんな中で、濡れた砂を踏み締めていく音と、波が打ち寄せる音だけが耳に強く響いていた。
波打ち際を進む内に、足元は何時しか水に濡れていて。
しかし不思議とそれは不快では無かった。
彼に手を引かれ、黙ってそれに従いながら歩いていく。
理解出来ない現状だが……どうしてか、悪くは無い。
既に大分傾いていた陽は、もう水平線の彼方へと半ば没し、辺りは薄暗がりに包まれ始めている。
一体何処まで連れて行く気なのだろうかと。
彼の意図を図りかねながらもそう考えていると。
「此処だな」
不意に彼が立ち止まり、それにぶつからぬ様に立ち止まる。
一見、何の変哲も無い海辺でしかないのだが……。
益々彼の意図を図りかねて首を傾げていると。
彼は優しく笑って、海の彼方を指さした。
その指先につられて、其方を見ると。
今まさに波の彼方へと沈み行こうとする陽光の、その最期の輝きが、海全体を紅く燃やしている所であった。
……人間達の言う「美しい」だとか「綺麗」だとか言う感傷は理解出来ないものではあるけれど。恐らく人間達が「美しい」と言うのだろうこの景色を、悪くないと、そう感じる。
「……まあ、悪くは無いんじゃないかな」
そう答えると、彼は嬉しさに寂しさを浮かべて微笑む、
「……そうか、なら良かった。
…………なあ、ギムレー。……また、何時か。
こうして一緒に海を見に行かないか。
もっと色んな海を、お前と一緒に見たいんだ」
今度こそ、と。そう彼が小さく呟いた意味は分からないが。
まあ、その程度の事なら付き合ってやらなくもないか、と。
そう考えたギムレーは僅かに肩を竦めて頷いた。
「まあ、考えておくよ。何時か、ね」
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陽が沈み行く空は燃える様な紅に染まり、その色を映した様に波打つ水面もまるで燃えているかの様である。
昼日中の照り付ける様な陽の光と、眩いばかりに輝く海は全く以て己の好みとは掛け離れているが、夕暮れ時のこの海は少しばかり気に入っていた。それを口にする事は無いが。
どうして態々こんな場所にまで連れて来られなければならなかったのかとそう不満を隠せずにいたが、まあこれはこれで悪くは無い。もしかしたら、喪ってしまった記憶を取り戻す事に僅かながらでも繋がるのかもしれないのだから。
この地に招かれたその時に、時空を超えた影響からなのか、己が邪竜ギムレーであると言う認識以外に自分自身に繋がる一切の記憶と共に竜としての力の大半を喪ってしまっていた。
儀式を行ってみたりするなどして喪った記憶を取り戻そうとしているがその努力は一向に報われず、未だ『ギムレー』であると言う自覚と僅かばかりこの身に残された竜の力だけが、今の自分の全てである。
世界を滅ぼす者、人々を絶望させる者、人の祈りによって憎悪と絶望を齎す者……。それが、『邪竜ギムレー』である。
異世界の伝承が異界の英雄譚として伝わるこの地でも、『邪竜ギムレー』と言う存在は絶対的な「悪」。英雄によって滅ぼされるべき「邪悪」であると伝えられていた。
異界の伝承はこの地に招かれた英雄にとっては『未来の予言』にも等しくなる事も多いので、その未来の部分の情報は閲覧出来ない様にはなっているのだが、己が本来居たのだろう世界と近しい異界から招かれている者達の姿や彼等がこの地に招かれる事になった英雄譚を聞くに、どうやら彼等の世界で『邪竜ギムレー』は英雄となった彼等の手によって滅ぼされている様だ。……それなのに己の『器』、かつて「人間」として生きていたのであろう頃の『自分自身』も、この地に招かれているのには少しばかり違和感があるが……。
まあ、『邪竜ギムレー』という存在が英雄譚の中で求められている役割が「悪役」であると言う事には変わらないだろう。
英雄譚の中で『邪竜ギムレー』が滅ぼされていると言う事には大した感慨は無かった。
何せ、「同じ様な」と条件を付けたとしても、可能性の数だけ異界は存在すると言っても過言では無いのだ。
限り無く無限に近い程に存在する異界の幾つかで『邪竜ギムレー』が滅ぶのだとしても、それは大した問題では無い。
精々、その様に人間の手によって討ち取られて滅ぼされるべき「悪」として名を残した間抜けが居たと言うだけだ。
慢心でも何でもなく、真に力を取り戻した『邪竜ギムレー』が人間の様な小さな羽虫に負ける筈は無いと言う事実がある。
まあ……異界に無数に存在する神竜ナーガが余計な手出しを出してきたり、無価値な憐憫による干渉をしてきたりして多少は手こずる事はあるのかもしれないけれども。
何にせよ、人間に負けた『邪竜ギムレー』は、余程驕り高ぶって力を出し惜しみするなどして、無様に負けたのだろう。
……愚かな事だ。相手が人間であれ神竜であれ異界の神々であれ、「滅ぼす」と決めたのであれば過度な驕りは無用な危機を招くだけであると言うのに。
ある意味で「自分自身」であるのかもしれないけれど、無様な末期を異界にまで轟かせる事になった愚か者とは、存在の根源が同じであると言うだけでしかないだろう。
この地に招かれたのは、ただ単に同じ『邪竜ギムレー』だからであるのだろうと、そう思っている。
まさか、記憶にないだけで既にその様に無様な真似を晒していたのだろうか……? ……流石にそれは違うと思いたい。
記憶を喪う以前がどうであったのかは、それを完全に喪失している以上は考えるだけ無意味な事だ。
そして、記憶があろうと無かろうと、人間どもにとっては『邪竜ギムレー』と言う存在である事には変わらない。
その為、こうしてこの世界に招かれてはいるものの、英雄としてこの地に招かれた他の者達からは距離を置かれている。
同じ異界から招かれ、『邪竜ギムレー』と言う存在がどういうモノであるのかをよく知っている者達からは当然として。
それ以外の異界から招かれた者達の大多数からも。
時折、ギムレーが招かれた異界とは全く異なる異界からも、ギムレーと同じ様に「倒されるべき悪」として伝承されているのだろう者達も招かれているが……。そう言った者達とも然して交流がある訳では無い。
まあ、元々他者と関わり合いになりたいとは思っていない為、それはそれで気楽なので良いのだが。
契約で縛られている為やろうと思っても出来はしないが、本来の力を顕せばこの地に集った英雄たちも根こそぎ纏めて滅ぼしてしまえるだけの力があり、元居た世界ではそれを実際に成し遂げた存在でも在るのだ。
一般的な感覚をしていれば、間違っても関わり合いになりたくは無い存在だろうし、己を正義であると思う輩にとっては許し難い存在であるのだろう。
故に、こうして独りで過ごす時間が多かった。
纏わり付かれたとしても、破壊衝動が沸き立つだけなので、遠巻きにされている方が気が楽である。
そう、その筈なのだけれども……。
砂浜を踏み締め近付いてくる足音を捉え、面倒くさいと思いつつもそちらに目を向ける。
そこには、やはりと言うか。
想像していた通りの者の姿が在った。
そちらを態々向いてやった事に気が付いたその者は、嬉しそうにその口の端を緩め、優し気にその眼差しを和らげる。
その様を見ているとどうしてだか胸の奥がざわついた様に騒ぐが、何故かそれを嫌だとは思えない。
「ここに居たのか、少し捜したぞ」
そう言って笑うその顔にこちらに阿る様なものはなく、ただただその言葉通りの感情を伝えてくる。
その所為なのか、無碍に突き放す事も少し憚られた。
「聖王の末裔が僕に何の用なんだい?」
とは言え、愛想良く対応してやる気も無くて、少しばかり棘を混ぜた様な反応にはなるのだけれど。
それでも、それに気を悪くした様な様子も無く、彼はほんの少しで触れ合えそうな程の近くまでやって来る。
毎度の事ながら、調子が狂ってしまいそうだ。
かつて『邪竜ギムレー』を封じた者の末裔であり、そして伝承によっては恐らく『邪竜ギムレー』を討ち滅ぼした事になっている者──聖王クロム。
『邪竜ギムレー』と「同じ」異界からやって来た者達の一人であり、『邪竜ギムレー』と対峙した者の一人でもある。
当然、『邪竜ギムレー』がどう言う存在であるのかはよく知っている筈であるのだろうけれども。
不思議な事に、この男だけは妙に親し気に接してくるのだ。
聖王クロムはその英雄譚に於ける知名度の高さ故なのか、この世界には異なる可能性や時間から招かれた同一存在が互いに反発する事も無く同時に複数存在している。
今目の前に居るのも、数居る「聖王クロム」の内の一人だ。
「聖王クロム」全員が『邪竜ギムレー』に対して親し気に接してくるのなら、まあそう言うものなのかもしれないと受け入れていたかもしれないが、別にその様な事も無く。
明確に敵意を持たれている訳では無くても、その他の殆どの「聖王クロム」は積極的に『邪竜ギムレー』に関わろうとはせず、寧ろ「人間」であった頃のギムレー……ルフレと言う名であった頃の者達と深く関わり合っている様であった。
それなのにこの男は『邪竜ギムレー』に関わろうとする。
余程の変人であった可能性から彼を招いたのだろうか。
全く理解に苦しむ事である。
現に今も──
「用と言う程のものでは無いのだが……。
お前と海を見たくてな。それで、捜していた」
「僕と海を? ……本当に、変な奴だな、君は。
世界を滅ぼす『邪竜ギムレー』と海が見たいだなんて、酔狂にも程があるんじゃないかい?
大体、僕に構わなくたって君には君の『ルフレ』が居るんだろう?
他の「君」の様に、君の『ルフレ』と時間を過ごせば良いだけの話じゃないか。
海が見たいのならそう言ってやれば『ルフレ』は喜んで付き合ってくれるんじゃないのかい?」
全く以て理解出来ない。何故態々『邪竜ギムレー』に付き纏ってくるのだ。世界を滅ぼした邪竜に、何を期待している。
いっそ気味が悪い程に理解出来ない相手ではあるのだけれども、しかし完全に拒絶し切るのも何故だか出来なかった。
「……いや、俺はお前と時間を過ごしたいんだ。
この世界だからこそ、お前と。
……『約束』、したからな」
「『約束』? 残念ながら僕には全く心当たりが無いね。
第一、僕に記憶が在ったとしても、よりにもよって聖王の末裔である君相手に『約束』なんか交わす筈が無いだろう。
全く……僕を誰と重ねているのかは知らないけれど、無意味な代償行為は止めた方が良いと思うよ。
虚しいだけだし、そもそも『邪竜ギムレー』を相手にやる事じゃない。
契約に縛られているからやらないけど、元の世界だったら君なんてとっくの昔に喰い殺しているだろうからね」
別に他意は無い言葉であった。
それなのに、それを聞いた彼は、何処か哀しそうな……少しばかり苦しそうな表情をする。
何でそんな顔をするのか分からず困惑し、そして自分が困惑したと言う事自体に狼狽えた。
『邪竜ギムレー』にとって、人間の一人や二人傷付こうが絶望しようがどうでも良い事である筈なのに、何故。と。
……そう考えるのに胸の奥が苦しくなり、何処か遠くの消え去ってしまった過去の残滓が苦みの様に胸の内を支配する。
その何もかもに訳も分からず困惑していると、彼は少し寂しそうに「そうか」と、微笑んだ。
その微笑みに、益々胸の内は搔き乱される。
止めてくれ、そんな優しい顔をしないでくれ。
自分には、そんな資格は無い。
君を■■■しまった僕には、もう──
意味の分からない激情が、悲しみと苦しみと絶望の感情の奔流となって駆け巡るが、そもそもどうしてそんな感情を抱くのかすら分からない。中身の無い感情だけが其処に在った。
無意識の内に、息が浅く早くなる。
視界の端に、暗く絶望的な赤が飛び散った様な気がした。
感情の濁流に吞み込まれそうになっていたその最中。
不意に、硬い指先がそっと頬に触れてきた。
驚いて見上げると、少しばかり背の高い彼が、心配そうな眼差しで見詰めていて。頬に触れていた手は、そっと下ろされたと思うと、今度はこちらの手を優しく掴んで来る。
「……少し、歩こうか」
荒くなっていた息が収まってきた事を確認して安堵したのか、彼はその目を優しく細めて。そしてその手を優しく掴んだまま波打ち際を歩き出した。
振り払おうと思えば容易く振り払える程度の強さだ。
それでも、何故だかその手を振り払おうとは思えなかった。
彼に手を引かれながら、波打ち際を歩いていく。
夕暮れ時の光に染まった砂は、血に染まった様に紅く。
強い西日に照らされた世界は、其処に在る何もかもの輪郭が融ける様にあやふやになっている。
そんな中で、濡れた砂を踏み締めていく音と、波が打ち寄せる音だけが耳に強く響いていた。
波打ち際を進む内に、足元は何時しか水に濡れていて。
しかし不思議とそれは不快では無かった。
彼に手を引かれ、黙ってそれに従いながら歩いていく。
理解出来ない現状だが……どうしてか、悪くは無い。
既に大分傾いていた陽は、もう水平線の彼方へと半ば没し、辺りは薄暗がりに包まれ始めている。
一体何処まで連れて行く気なのだろうかと。
彼の意図を図りかねながらもそう考えていると。
「此処だな」
不意に彼が立ち止まり、それにぶつからぬ様に立ち止まる。
一見、何の変哲も無い海辺でしかないのだが……。
益々彼の意図を図りかねて首を傾げていると。
彼は優しく笑って、海の彼方を指さした。
その指先につられて、其方を見ると。
今まさに波の彼方へと沈み行こうとする陽光の、その最期の輝きが、海全体を紅く燃やしている所であった。
……人間達の言う「美しい」だとか「綺麗」だとか言う感傷は理解出来ないものではあるけれど。恐らく人間達が「美しい」と言うのだろうこの景色を、悪くないと、そう感じる。
「……まあ、悪くは無いんじゃないかな」
そう答えると、彼は嬉しさに寂しさを浮かべて微笑む、
「……そうか、なら良かった。
…………なあ、ギムレー。……また、何時か。
こうして一緒に海を見に行かないか。
もっと色んな海を、お前と一緒に見たいんだ」
今度こそ、と。そう彼が小さく呟いた意味は分からないが。
まあ、その程度の事なら付き合ってやらなくもないか、と。
そう考えたギムレーは僅かに肩を竦めて頷いた。
「まあ、考えておくよ。何時か、ね」
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