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千重波の彼方

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 初めて海を見たのは何時だっただろうか、と。
 ルフレは己の記憶の戸棚を探しながら、寄せては返す白波の連なりをぼんやりと眺めていた。

 終わりの見えない泥沼の様であったペレジアとの戦争が漸く終結を迎えたと思ったら、今度はこの海の向こうからヴァルム帝国がこの大陸に押し寄せてくる事になった。
 ペレジアとの長きに渡る戦いで既に疲弊しているイーリスは元より、イーリスに助力してくれていたフェリアもそれなり以上に消耗しているし、況してや敗戦国となったペレジアに至っては国土の防衛すら覚束無いだろう。
 そして、ペレジアが陥落すればそこを足掛かりとしてフェリアやイーリスも間違いなく攻め込まれてしまう。
 敵の敵は味方……とまではいかなくとも、海の彼方の侵略者から自分たちの身を守る為に手を取る事は出来る。
 その為、その裏に様々な思惑が蠢きつつも、三国の同盟は何とか成立し、大陸中が一丸となって侵略者に対抗する事になった。……のは良いのだが、三国が手を組んだとしても、強大な侵略者に抗するには物資も人員も潤沢とは言い難い。
 一先ずヴァルム帝国側の海に面した港町などに防衛線を張る事が急務であり、その為ルフレ達は駆り出されていた。

 先遣隊をどうにか撃退した後、第二波第三波と押し寄せてくるにはまだ時間的な猶予があるらしく、未だヴァルム帝国の艦隊は姿を見せていない。
 その為か、港町の人々にも緊張感は漂いつつも何処かまだ非現実的に感じているかの様な……何処と無く他人事であるにも近い雰囲気が漂っている。この町が先遣隊の被害に遭った訳では無いから尚の事そうなのであろう。
 兵達が忙しなく防備を整えている姿を何処か遠巻きに見る町の人々の姿には、戦事に巻き込まれる事への不安に近いものが浮かんでいる様であった。
 ……先遣隊による被害やヴァルム大陸に於けるかの帝国のやり口を伝え聞くに、万が一ヴァルム帝国軍の侵入を許せば待っているのは略奪と虐殺の嵐だ。降伏する間も無いだろう。
 だからこそ、何としてでも上陸を許す訳にはいかない。

 町や周辺の地形図を手に、ルフレはヴァルム帝国軍を迎撃する為の布陣を考える。考え付いた防衛の布陣を、今度は仮想のヴァルム帝国軍側に立って攻め込んで。そうやって何度も何度も滅ぼしながら、防衛の布陣に修正を加えていく。
 許容出来る損耗の程度、防衛を担う部隊の指揮官の特徴、救援が到着するまでの期間、この地域の気候の特色……。
 様々な情報を基に、ルフレは策を組み上げていく。
 そうやって盤面を整え駒を配置するかの様に策を練っていく事は、ルフレにとっては自分と言う救い難い存在がこの世に存在する為の「価値」にも等しい事であった。
 より正確に言えば、そうやって策を練り献上する事でクロム達の役に立つ事が、であるのだけれども。

 クロムの事を脳裏に過らせたルフレは、あの眩しいばかりに蒼い後姿を無意識の内に探し、そして見付けた。
 そんなルフレの視線に気付いていない様子のクロムは、何時も以上に固い表情で町の防衛の為に様々な指示を飛ばしている最中である様だった。
 ペレジアとの戦争の終結と同時に正式に「聖王」として即位したと言うのに、クロムはこうして態々最前線になるだろう場所にまでやって来ていた。それは、「聖王」が直々に訪れる事で少しでも民の不安を和らげ、同時に防衛を担う兵達の士気を高める為であるのだろう。
 実際、その効果は目に見える程に出ている様だ。

 ……愛らしい娘が産まれたばかりであると言うのに、終わりの見えない戦乱は、クロムが「父親」として在れる時間の多くを奪い去ってしまっている。産まれたばかりの娘を、彼はまだほんの数度程度しか抱いてやれていない。

 本当は、もっと「家族」としての時間を過ごさせてあげたいのに。時代の流れがそれを許さず、そしてその激しい流れに抗し切る様な力はルフレには無くて、私人としてのクロムの時間が犠牲になっていく事を、「半身」なのに止められない。

 ……同じ人同士で殺し合う事を望む人など決して多くは無い筈なのに、それでも血で血を洗う争いは絶える事無くこの世に満ちている。平和の望みながら、その手で命を奪うのだ。
 それは何とも矛盾に満ちている様で……、しかし人に限らずこの世の命は皆争いながら生き抜いているものなのだ。
 この世に命がある限り争いが絶える事は無く、この世に人が栄える限り戦争が根絶される事は無いのかもしれない。

 ……クロムが望む様な……志半ばに凶刃に斃れた先王エメリナが望んでいた様な、武器を手に取るのではなく言葉で問題解決を図る世界と言う「理想」は、何処までも遠い。
 利害の衝突、根深い怨恨……。人が争う理由など数限りなく、この度のヴァルム帝国の侵略の様に、此方側に何か明確な瑕疵がある訳では無くとも戦禍に巻き込まれる事はある。
 人は、武器を手に襲い掛かって来る者を前にして、手にした武器を投げ捨てる事は出来ない。そして、一度振り上げてしまった武器を静かに下ろす事はとても難しく、結果として新たな怨恨が生まれてしまう。

 ルフレは静かに目を伏せて、小さく息を吐いた。

 ルフレは、『軍師』だ。
 策を練ってそれを献じ、己の仕える陣営に可能な限り望ましい形の勝利を齎す為の存在である。恒久的な平和が実現すれば真っ先に不要になるであろう、……この戦乱の混迷の渦中にある世界でならば存在する意味がある者だ。
『平和』を願い戦乱を疎んで少しでも早く戦乱の世を終わらせるべく働き続けるのは、『軍師』としてはある意味では緩慢な「自殺」の様なものであるのかもしれない。
 実際、『軍師』としての役割以外に、どうすれば自分がクロム達の役に立てるのか、ルフレには分からなかった。

 騎士として国の治安の維持に努めるのも、或いは官吏となって内政を手助けするのも。そのどちらも、ルフレ自身の事情を鑑みると後ろめたさを感じてしまう。
 ……こうしてイーリス自体に直接的に干渉する事は無い『軍師』として、そしてクロムを支える「半身」として彼の傍に居る事にすら、時折どうしようもなく後ろめたくなるのに。

 己の右手……人目に触れぬ様に隠し続けているその手の甲に刻まれた「烙印」を捨て去る事が出来るのなら……。
 ……だが、そんな事は不可能だ。
『ルフレ』と言う存在がこの世に生まれ落ちた瞬間から、その宿命は己の根幹に存在するのだから。
 ……例えルフレ自身はそれを決して望まないのだとしても、己の意志を越えた場所で定まったそれにどうすれば抗えるのか、……その方法を探し続けていても未だ見付からなかった。

 ……何時かこの「烙印」が、その宿命が、全てを呑み込んでしまったその時には。何もかもを壊してしまうのだろうか。
 この世界を、この世に生きる人々とその営みを、そして。
 ……何よりも大切な仲間である、クロム達を。
 自分にとって大切なモノもそうでは無いモノも、何もかも見境なく破壊し尽くしてしまうのだろうか。この世にただ独りきりになるまで。
 ……それは想像するだけでも、怖気立つ程に恐ろしい事だ。

 死に別れる間際に母から己に隠された秘密を明かされたその時からルフレの心を苛んでいた「恐怖」は、クロム達と出逢ってから益々強くなる一方であった。
 己の手の中にあるモノを、愛しいと……大切であると、そう思えば思う程、何時か己が堕ち果てるその先が恐ろしい。
 どうして自分なのだろうと、そう何度も己の運命を呪った事もある。こんな存在ならば、初めから生まれなければよかった、もっと早くに死んでしまえば良かったのに、と。
 ……それでも……。
 決死の思いで足手纏いでしかない筈の赤子のルフレを抱えて暗い闇を煮詰めた地獄の底の様な場所から連れ出して、そしてどうにか独りで生きていけるまで育ててくれた母が。
「何があっても、最後まで生きて」と、そう望んでいたから。
 そして……。
 仲間達皆が、クロムが、必要としてくれるから。
 クロム達と過ごす時間が、何よりも大切だから。

 生きているべきではない存在だと、存在してはならない者だと、そう分かっていても。
「生きなくてはならない」と、そう思ってしまう。
 クロム達を思うのなら離れるべきだと分かっていても。
 此処で生きていたいと、そう願ってしまうのだ。

 何時かその選択の、その願いの「報い」を受ける時が来てしまうのかもしれなくても。
 それが少しでも遠い未来になる様に、その未来を少しでも良い方向に変えられる様に。
 出口の見えない闇の中で、ルフレは藻掻き続けている。

 再びルフレは小さく息を吐いた。
 思考の海に沈んで暫しの時が過ぎていた様だが、誰もそれに気付いてはいなかった様で、周囲の光景も何も変わらない。
 忙しなく動く人々も、静かに波打つ海も、何も変化は無い。
 ヴァルム帝国の艦隊が確実にこの地に迫って来ている筈であるのだが、広い海原の水平線にはその様なものの影も形も無く、海は何時もの様に静かに波を寄せるだけだ。
 ……何処までも果てなど無い様に見える海からすれば、ヴァルム帝国の艦隊も、そしてこうしてそれを迎撃する為に血眼になっているイーリス軍たちも、この地に生きる人々の営みも、その何もかもがちっぽけなモノであるのだろう。
 ……伝承に伝え聞く、隔絶した巨大さを誇る邪竜ギムレーでさえも、海原の広大さには敵わないのだろう。
 ルフレが抱え続けている宿命ですら……。

 ……こうして海を見ていると、物心付いて初めて海を見た時の事を思い出してきた。
 あの時は確か……幼心に「こわい」と。そう感じていた。
 この世の何もかもを呑み込んでしまっても何も変わらずに波打つだけであろうと、幼心にもそう感じた海の広大さが、まだ幼かったルフレにはとても恐ろしく思えたのだ。
 ……そして母は、海を前に尻込みするルフレを、優しく抱き締めてあやしてくれていた。その手を、今でも覚えている。
 そんな幼い日の記憶を思い出して、そこにあった母の姿のその懐かしさに思わず目を細める。
 こうして在りし日の母の姿を明瞭に思い描くのも、随分と久方振りの事であった。


「どうしたルフレ、遠い目をしているが。
 何か気になる事でもあったのか?」


 その時不意に背後からクロムに声を掛けられて、ルフレは驚きつつもゆっくりと振り返る。
 何時の間にやら兵達に粗方指示を出し終えていた様だ。


「ああ、いや……。
 海を見ていたら少し懐かしい記憶を思い出してね……。
 初めて海を見た時の事を考えていたんだ」

「そうか。……それは、お前の母親との思い出なのか?」


 その声音には、ルフレの気持ちをそっと慮るものがあった。
 クロムには、自身の過去を詳しく教えた事は無い。
 ただ……共に暮らしていた母は、もうこの世には居ないのだとだけ、一度話した事はある。
 その為なのかクロムは、ルフレが母との記憶に触れている時には、少し不器用な程に優しく気を遣ってくれるのだ。
 ……母を喪ってから暫くの間は思い出すだけで中々抜けない棘が刺さったかの様に心は鈍く痛みを覚えていたのだが、クロムと出逢った頃には既に、ただただ穏やかな懐かしさばかりが心の奥を優しく撫でる様になっていたのだけど。
 そんなクロムの優しい気遣いに、無意識に口の端を緩めながらルフレはそっと頷いた。
 クロムは「そうか」、と静かに頷く。
 暫しの沈黙が落ちて、二人で静かに海を見ていた。
 寄せては返す波と、時折陽光を強く反射して眩しく輝く水面を、互いに何も言わないまま眺める。ただそれだけの事であるのに、静けさの中に波音だけが聞こえる一時が、ルフレにとっては酷く心地好いものであった。
 互いに言葉は無いが、耳に届く波音の様に穏やかにクロムの思い遣りなどが伝わって来る様にすら感じる。
 こんな時間だけが何時までも続けば良いのに、と。
 そんな叶わない想いすら抱いてしまう程に……。


「なあ、ルフレ」


 静寂を破る様に、ふとクロムが言葉を零す。
 どうかしたのか、と。傍に立つクロムを僅かに見上げると。
 クロムは、どうしてだか優しい目をしていた。


「何時か……ヴァルムとの戦争が終わったら。
 また、こうして一緒に海を見に行かないか。
 今度は戦争の為では無く、ただ海を見る為だけに」


 クロムの言葉に、少し驚いたもののルフレは緩やかに頷く。


「ああ、そうだね……。その時は、僕達だけじゃなくて、今は城でお留守番をしているルキナも連れて行ってあげようよ。
 きっと、ルキナにとっても大切な思い出になるだろうから」


 自分にとって、かつて母と海を見た思い出が、遠く昔の事であっても今も鮮明に思い出せる様に。
 何時か両親と共に初めて見る海はきっと……あの愛らしい幼子にとって特別な思い出になるのだろう。
 ルフレにとってその光景は容易に想像が付くものであった。
 そんなルフレに、クロムは柔らかな笑みを浮かべる。


「ああ、そうだな。それが良いだろう。
 皆で一緒に、何時かきっと……」


 ……それは「約束」と言うには少し儚い、だけれども互いにとって大切な「何時か」への願いだ。
 何時か、……そうきっと何時か。
 終わりの無い戦いの日々の中に在ってもきっと何時かは僅かにでも訪れるだろう、そんな「何時か」に。
 大切な人と、またこうして海を見たいと。
 そう、ルフレは願ったのであった……。




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