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クロルフ短編

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 ああ、消えていく、消えていってしまう。
 それは、瞬き一つの内に、浅く荒い息を吐き出すだけで、思考を巡らせ続けるこの一瞬の内にも。
 穢い泥で塗り潰されていくかの様に、消える消えてしまう。
 それが恐ろしくて、剰りの恐怖に涙を溢して。
 止めて!止めてっっ!!と、誰にと言う訳でもなく悲鳴を上げながら、何者かの慈悲を乞うかの様に叫び続けるけれど。
 それは、容赦なくルフレを内側から食らい尽くそうとしていく。
 頭の中に響く嗤い声が酷く耳障りで、耳を掻き毟って壊してしまいたくなる。
 ルフレには、もう自分が泣いているのか悲鳴を上げているのかが分からなかった。
 自分が壊されていく恐怖と内側から作り替えられていく苦痛にのたうちながら、ルフレの脳裏には走馬灯の様に思い出が蘇っていた。



『ギムレーの器』。
 それが、ルフレと言う存在が産み出された理由の全てであった。
 古い古い狂った竜がこの世に甦る為の道具。
 その魂を収める為の肉の塊。
 それが、ルフレだ。
 ルフレの意志も、記憶も、感情も、思考も、経験も。
『ルフレ』と言う存在を形作る全てが、ギムレーの為のモノであった。
 ギムレーが甦れば、ルフレは『ルフレ』ではなくなる。
 破壊と絶望だけを望む狂った竜へ、ルフレは成り果てる。
 だから……ルフレの母は幼いルフレを連れて逃げ出したのだ。
 母を喪って独りになってからも、ルフレはギムレーに怯えて逃げ続けていた。
 何時か自分の全てを喰ってしまう存在、何時か自分が成り果てる存在。
 想像するだけでもそれは剰りにも恐ろしくて。
 だから、何時か自分を喰らうのであろうギムレーに対抗する術を求めて、ルフレはかつてギムレーを討った聖王伝説が色濃く残るイーリスへと渡ったのだ。
 そしてそこで、誰よりも愛しいクロムや掛替え仲間たちとの、決して忘れられない出逢いを果たした。
 動乱の世を共に駆け抜けていく内に、次第にルフレの心の内にギムレーへの恐怖よりもずっと大きく温かな感情が芽生えていった。
 クロムと結ばれて、そしてルキナとマークと言う、何よりも大切な宝物を授かって。
 ルフレは初めて“幸せ”を手に入れた。
 例え世界が戦乱に満ちていても、ほんの一時の平和ですらも直ぐに壊されてしまう様な時代であっても。
 それでも、愛する人が居て、愛しい子供達が居て、大切な仲間達が居て。
 ルフレは、紛れもなく“幸せ”であったのだ。
 だけれども──



 耐え難い苦しみの中で息を吐いたつもりが、口から大量の血を吐き出してしまう。
 人から“竜”へ。
 内側から作り替えられていく最中、その変化に耐えきれず傷付いた臓物が悲鳴を上げているのだ。
 剰りの激痛に正気を喪ったかの様な叫び声を上げながら、ルフレは床を掻き毟る。
 爪が割れ血が流れ出しても、それを遥かに上回る痛みが全てを掻き消していく。
 自らが流した血に塗れ、死が何よりも甘美な“救い”に思える苦痛の中でのたうち回り、苦痛に歪んだ悲鳴を上げ続けていた。
 全身に真っ赤に焼けた鉄でも押し付けられているかの様な痛みが走り続けていて。
 終わりの無い苦しみの中で幾度も正気を喪いかけるけど、その度に痛みによって意識が引き摺り戻される。
 狂う事も出来ない地獄の中で、時間だけが痛みにより無限に等しく引き延ばされて。
 その身が人でなくなっていく悍ましさを、そして肉体の変容と同時に“心”そのものが造り変えられていく恐怖を、『ルフレ』と言う存在の全てが『ギムレー』に塗り潰され消え去るその時まで終わる事の無い地獄の中で感じさせられていた。

 最早苦痛に歪む視界に映るルフレの手は、かつて幾度と無くクロムと繋ぎ、愛しい子供達を抱いてきた、柔らかな人の手では無くて。
 触れるモノ全てを切り裂き破壊する様な鋭い爪と、誰の手の温かさも感じられない様な冷たく硬い鱗に覆われた、人ならざる者のソレに変貌している。
 もう二度と誰かの手を取る事など出来ないであろうその手を、絶望の中で紅く紅く染まっていく目でルフレは呆然と眺めていた。

 自分が自分では無くなっていく。
 その肉体も、そして“心”も。

 このまま『ギムレー』に何もかもを塗り潰されてしまえば、『ルフレ』が愛した全てを壊してしまう。
 だから、ちっぽけな『ルフレ』の意志を何とか一欠片だけでも残そうと、愛しいもの達を思い起こそうとするけれども。
 それですらままならない。
 いや、大切な人の、愛しい人々の顔は思い出せる。
 だが、それが端から真っ黒なインクをぶち撒けたかの様に消されてくのだ。

 ついさっきまでそこに在ったその人が、思い出せない。
 どんな顔だったのか、どんな名前だったのか、どんな人であったのか、どんな声だったのか、どんなに大切な思い出がそこに在ったのか。
 その何もかもが、真っ黒に真っ黒に塗り潰されていく。

 忘れたくない。嫌だ、奪わないで。
 そんな悲鳴の様な叫びは、何処にも届かない。
 神には、邪竜の祈りなど届かないのだ。

 喪いたくない一心で、ルフレは“まだ思い出せる”人達の名前を床に刻んでいく。
 インクとなるものは、既に大量に零れ落ちている。
 既に血塗れの異形の指先で、床を抉る様にそこに名前を刻む。
 奪わないで、これだけは無くしたくない、お願い……。
 血が混じった涙が頬を滴り落ちていくのも構わずに、ルフレは潰れかけた喉で必死に名前を呼んだ。


「クロム」
「ルキナ」
「マーク」
「リズ」
「フレデリク」
「ソール」
「ソワレ」
「ヴィオール」
「スミア」
「ミリエル」
「スミア」
「ヴェイク」
「カラム」
「リヒト」
「マリアベル」
「ドニ」
「ロンクー」
「ベルベット」
「ガイア」
「ティアモ」
「グレゴ」
「ノノ」
「リベラ」
「サーリャ」
「オリヴィエ」
「セルジュ」
「ヘンリー」
「アンナ」
「チ──」


 誰かの名前を呼ぼうとして、だがその続きは言葉にならなかった。
 今、自分が誰の名前を呼ぼうとしたのか、それは誰なのか、何もルフレには分からない。
 床に刻まれた、真っ黒に塗り潰された記憶の中にあったのだろう名前を見ても、それが誰なのか思い出せない。


「チ、キ……?」


 誰なのだろう。
 分からない。
 顔も、名前も、思い出も。
 何もかもが奪われてしまった。
 だけれども。
 その名前が、自分にとってとても大切な“何か”であった事だけは分かる。
 胸に穿たれた虚ろが、悲鳴をあげた。

 大切な“何か”をまた奪われてしまった事に呆然としたその一瞬の内に、再び黒い“絶望”の侵食は加速する。

 もう名前を呼べない人がいる。
 忘れたくないと、そう心の悲鳴が残した痕を見ても、何も思い出せない人がいる。
 何もかもが塗り潰されていく。
『ルフレ』と言う人間を形作ってきた記憶を、出会いを、心を向けていた全てを。
『ギムレー』は極上の贄を味わおうとするかの様に、嘲笑い弄びながら壊そうとしている。


「この記憶だけは、この名前だけは、お願い消さないで……」


 残された僅かな名前を、そこに縋り付く様に、ルフレは口にしていく。
 大切な人達。
 大切な仲間達。
 愛しい人、愛しい宝物。
 どうか、どうか──

 だが、頭の中に響き続ける哄笑は止む処か、無駄な努力を続けようとする哀れな虫けらを嬲る様に、より一層全てを押し潰さんばかりに鳴り響き続ける。
 一瞬でも意識が逸れれば、容赦なく記憶は喰らい尽くされる。
 恐ろしい事に、それが喰われてしまった事に気付けるのは、床に刻まれた思い出せない“誰か”の名前を見付けた時だけだ。
 それですら、その“名前”には何も感じられない。
 でも、きっと。
 床を埋め尽くす様に夥しい程に刻まれたそれは、『ルフレ』にとって喪いたくない“誰か”であった筈である事だけは分かる。

 それは、既に“終わり”が見えてしまっている事が何よりも耐え難く何よりも恐ろしい“絶望”であった。


「フレ、デリク……。リズ……」


 “誰”なのかも分からない人。
 それでもきっと、大切な“何か”だったのだろう人。
 床一面に刻まれている彼等の“名前”は、最早それだけのものでしかない。
 彼等が目の前に居ても、今のルフレにはそれが誰なのか分からないだろう。
 ……尤も、今のルフレを『ルフレ』と呼ぶ事が出来るのか、と言う問題もあるが。




「ルキナ、マーク……。
 私の、……大切な……。
 クロム……私は……」


 ルキナ、マーク、クロム……。
 そう壊れた様に呟き続ける“彼女”は、最早何者でもない“何か”であった。
『ルフレ』と言う名前すら喪い、“彼女”を形作ってきた記憶すらも全て奪われ。
 心の中には、最早“虚ろ”しか残されてはいない。
 そしてその“虚ろ”にはゆっくりと、『ギムレー』の絶望と滅びへの意志が流し込まれていっていた。

 床一面を埋め尽くす勢いで血を交えて刻まれた数多の名前達の意味は、もう“彼女”には分からない。
 そこにそうやってその“名前”を残そうとした意図すら、最早“彼女”の中からは喪われてしまっている。
 まるで最後まで縋り続けたかの様に、一際多く刻まれている『クロム』と言う名前ですら、最早何の意味も持たない。
 それでも、何の意味もない筈の名前を見詰める“彼女”のその紅い瞳からは無意識の内に止め処無く涙が零れ落ち、その唇はその名前を紡ぎ続けているのであった。






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