クロルフ短編
◆◆◆◆◆
今が『幸せ』だと、そう感じる度に。少しばかりそこに不安にも似た恐怖の様な「何か」も感じてしまう。
「それ」は、満たされる程に、『幸せ』である程に。
心の奥底に焦げ付いた「何か」が、急き立てる様に、或いは責め立てる様に、己の心に爪を立てる様にその痛みと苦しみを訴えてくるのだ。忘れるな、絶対に忘れるな、と。
だが分からない。一体に何を忘れてはいけないのかを。
そして、自分が何を忘れてしまったのかを……。
ルフレには、何も分からなかった。
ルフレには己の過去に関する記憶が無い。
一度、何もかもを忘れてしまっていた。
恐らくは、忘れたくなど無かった事も、忘れてはならなかった事も、その何もかもを等しく忘れてしまった。
ルフレの心を責め立てるその苦しみは、ルフレが喪ったその過去に起因しているのだろうか。
大切であった筈のモノを喪った事への呵責が、ルフレ自身には知覚出来ない心の虚ろが。
確かにそこに存在していたモノを、その残響を、訴えているのだろうか、それを思い出そうと藻掻いているのだろうか。
……だけれども、分からないのだ。
ルフレには、何も思い出せない。苦しくても、辛くても、思い出したいと思っても。何を喪ったのかすら分からない。
そして、だからこそ、ルフレは恐ろしいのだ。
今この瞬間の『幸せ』すら……。こんなにも喪い難く愛しい日々を、絆を、その記憶を、それすらも。
何時か。自分は、喪ってしまうのではないかと。
一度、何もかもを喪ってしまった様に。
今の『自分』を形作るモノを、何時か自分は何もかも再び喪ってしまうのではないか、と。そんな不安に苛まれてしまう。
それは考え過ぎであるのかもしれない。
記憶を全て喪うだなんて事は、そう起こる訳では無いだろう。
……それでも、一度既に喪っているのだと言う事実は……そしてかつての己の欠片を未だ何も思い出せないと言う事実は。
ルフレの心に不安の種を植え付け、そして澱の様に心の奥底に堆積する恐怖と焦燥を掻き立てていく。
忘れたくない。忘れたくなんてない、忘れてはいけない。
だけれども、忘れてしまうかもしれない。
ある日突然、何かを切欠として、今の『自分』とは違う「自分」になってしまうかもしれない。
ルフレにとって、「自分」と言うモノの絶対性とは、揺らぎ不確かなものでしかなかった。だからこそ恐ろしい。
満たされた日々を、愛しい人を。自分にとって喪い難い何もかもを、喪ってしまうかもしれないその可能性が。
……恐ろしくて、仕方ないのだ。
ルフレは、クロムの腕に抱かれながら、何時か訪れるかもしれない「喪失」への恐怖に、僅かにその眼差しを揺らした。
ほんの一瞬、ルフレの表層に現れただけのその感情を、クロムは見逃さずに、ルフレの身体を優しく抱き締めながら、囁く様にルフレに訊ねる。
「どうした、ルフレ。何か不安な事でもあるのか?」
心の奥に静かに響く様な、その優しい声に。
そしてその厚い胸板から伝わるその体温に。
ルフレの恐怖は僅かに揺らぎ、そして同時に満たされているからこそ、その胸の内の焦燥はより強くなった。
ただの杞憂でしかないのだろうその「不安」を打ち明けるべきなのだろうかと、ルフレは僅かに逡巡した。しかし結局は、クロムの温もりに促される様にルフレはそれを打ち明ける。
考え過ぎだと、そう笑い飛ばしてくれるのかもしれない。
或いは。そんな事は無いのだと、優しく抱き締めて、ルフレの不安も焦燥も何もかもを甘く溶かしてくれるのかもしれない。
だけれども、クロムの反応はルフレが想像していたどの様なモノとも異なっていた。
「忘れない」
何時になく真剣な眼差しでルフレを見詰め、クロムは誓う様に……祈る様に、そうルフレへと囁く。
「例えこの目が見えなくなったとしても、俺はお前の声を絶対に忘れない。
例え世界から音を喪ったとしても、俺はお前の匂いを忘れない。例え匂いすら奪われても、お前の温もりを、お前の肌の柔らかさを、この髪の指通りを、俺は絶対に忘れない。
お前が何を忘れても、何度喪っても、俺だけは絶対に。
何が在っても、お前だけは幾万幾億の中からでも必ず見付けて見せる。此処に居るお前を、何度だって、何が在ったって。
何処に居てでも見付けて見せる。何度だって何度だって……。
だからルフレ、俺の中にお前の事をもっと刻み付けてくれ。
俺の指を噛む強さでお前なんだと……そう何があっても間違え無い程に深く深く……。お前の全てを、俺に刻んでくれ」
ルフレを抱き締める力が、より一層強くなる。
ルフレの首筋を優しく噛む、鈍く甘いその痛みが、クロムの想いを強く強くルフレへと伝えていく。
……クロムが『ルフレ』の何もかもを覚えていても、何を喪ってもそこに僅かに残るのだろう『ルフレ』の欠片を絶対に探し出せるのだとしても。
それでも、ルフレが失い難い何かを喪わないと言う保証がある訳では無い。この世に絶対など無い。
……だけれども、クロムの中に確かに『ルフレ』が存在し続けるのならば。『ルフレ』の「影」がそこに遺るのならば。
何時か何もかもを喪うのだとしても、それでもきっと、遺るモノがあるのだろうと、そう信じたい。
「自分」が「何」に成り果てるのだとしても、きっと。
クロムだけは『ルフレ』を見付けてくれるのなら。
それは、間違いなく「救い」なのだと、そう思いたい。
クロムがそっとルフレの頬へ寄せた指先を、ルフレは優しく噛んで、その誓いを返した。
何があってもクロムが自分を忘れない様に、その心の奥深くに、彼の全てに、己の全てを刻む様に。
何時か、それが全ての恐怖も苦しみも越えていく事を信じて。
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今が『幸せ』だと、そう感じる度に。少しばかりそこに不安にも似た恐怖の様な「何か」も感じてしまう。
「それ」は、満たされる程に、『幸せ』である程に。
心の奥底に焦げ付いた「何か」が、急き立てる様に、或いは責め立てる様に、己の心に爪を立てる様にその痛みと苦しみを訴えてくるのだ。忘れるな、絶対に忘れるな、と。
だが分からない。一体に何を忘れてはいけないのかを。
そして、自分が何を忘れてしまったのかを……。
ルフレには、何も分からなかった。
ルフレには己の過去に関する記憶が無い。
一度、何もかもを忘れてしまっていた。
恐らくは、忘れたくなど無かった事も、忘れてはならなかった事も、その何もかもを等しく忘れてしまった。
ルフレの心を責め立てるその苦しみは、ルフレが喪ったその過去に起因しているのだろうか。
大切であった筈のモノを喪った事への呵責が、ルフレ自身には知覚出来ない心の虚ろが。
確かにそこに存在していたモノを、その残響を、訴えているのだろうか、それを思い出そうと藻掻いているのだろうか。
……だけれども、分からないのだ。
ルフレには、何も思い出せない。苦しくても、辛くても、思い出したいと思っても。何を喪ったのかすら分からない。
そして、だからこそ、ルフレは恐ろしいのだ。
今この瞬間の『幸せ』すら……。こんなにも喪い難く愛しい日々を、絆を、その記憶を、それすらも。
何時か。自分は、喪ってしまうのではないかと。
一度、何もかもを喪ってしまった様に。
今の『自分』を形作るモノを、何時か自分は何もかも再び喪ってしまうのではないか、と。そんな不安に苛まれてしまう。
それは考え過ぎであるのかもしれない。
記憶を全て喪うだなんて事は、そう起こる訳では無いだろう。
……それでも、一度既に喪っているのだと言う事実は……そしてかつての己の欠片を未だ何も思い出せないと言う事実は。
ルフレの心に不安の種を植え付け、そして澱の様に心の奥底に堆積する恐怖と焦燥を掻き立てていく。
忘れたくない。忘れたくなんてない、忘れてはいけない。
だけれども、忘れてしまうかもしれない。
ある日突然、何かを切欠として、今の『自分』とは違う「自分」になってしまうかもしれない。
ルフレにとって、「自分」と言うモノの絶対性とは、揺らぎ不確かなものでしかなかった。だからこそ恐ろしい。
満たされた日々を、愛しい人を。自分にとって喪い難い何もかもを、喪ってしまうかもしれないその可能性が。
……恐ろしくて、仕方ないのだ。
ルフレは、クロムの腕に抱かれながら、何時か訪れるかもしれない「喪失」への恐怖に、僅かにその眼差しを揺らした。
ほんの一瞬、ルフレの表層に現れただけのその感情を、クロムは見逃さずに、ルフレの身体を優しく抱き締めながら、囁く様にルフレに訊ねる。
「どうした、ルフレ。何か不安な事でもあるのか?」
心の奥に静かに響く様な、その優しい声に。
そしてその厚い胸板から伝わるその体温に。
ルフレの恐怖は僅かに揺らぎ、そして同時に満たされているからこそ、その胸の内の焦燥はより強くなった。
ただの杞憂でしかないのだろうその「不安」を打ち明けるべきなのだろうかと、ルフレは僅かに逡巡した。しかし結局は、クロムの温もりに促される様にルフレはそれを打ち明ける。
考え過ぎだと、そう笑い飛ばしてくれるのかもしれない。
或いは。そんな事は無いのだと、優しく抱き締めて、ルフレの不安も焦燥も何もかもを甘く溶かしてくれるのかもしれない。
だけれども、クロムの反応はルフレが想像していたどの様なモノとも異なっていた。
「忘れない」
何時になく真剣な眼差しでルフレを見詰め、クロムは誓う様に……祈る様に、そうルフレへと囁く。
「例えこの目が見えなくなったとしても、俺はお前の声を絶対に忘れない。
例え世界から音を喪ったとしても、俺はお前の匂いを忘れない。例え匂いすら奪われても、お前の温もりを、お前の肌の柔らかさを、この髪の指通りを、俺は絶対に忘れない。
お前が何を忘れても、何度喪っても、俺だけは絶対に。
何が在っても、お前だけは幾万幾億の中からでも必ず見付けて見せる。此処に居るお前を、何度だって、何が在ったって。
何処に居てでも見付けて見せる。何度だって何度だって……。
だからルフレ、俺の中にお前の事をもっと刻み付けてくれ。
俺の指を噛む強さでお前なんだと……そう何があっても間違え無い程に深く深く……。お前の全てを、俺に刻んでくれ」
ルフレを抱き締める力が、より一層強くなる。
ルフレの首筋を優しく噛む、鈍く甘いその痛みが、クロムの想いを強く強くルフレへと伝えていく。
……クロムが『ルフレ』の何もかもを覚えていても、何を喪ってもそこに僅かに残るのだろう『ルフレ』の欠片を絶対に探し出せるのだとしても。
それでも、ルフレが失い難い何かを喪わないと言う保証がある訳では無い。この世に絶対など無い。
……だけれども、クロムの中に確かに『ルフレ』が存在し続けるのならば。『ルフレ』の「影」がそこに遺るのならば。
何時か何もかもを喪うのだとしても、それでもきっと、遺るモノがあるのだろうと、そう信じたい。
「自分」が「何」に成り果てるのだとしても、きっと。
クロムだけは『ルフレ』を見付けてくれるのなら。
それは、間違いなく「救い」なのだと、そう思いたい。
クロムがそっとルフレの頬へ寄せた指先を、ルフレは優しく噛んで、その誓いを返した。
何があってもクロムが自分を忘れない様に、その心の奥深くに、彼の全てに、己の全てを刻む様に。
何時か、それが全ての恐怖も苦しみも越えていく事を信じて。
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