幸せの箱庭
◆◆◆◆◆
どうして、こんな事になってしまったのだろう……。
僅かな光も届かぬ深い闇の中の様な、幼子の虫籠の中の様な、狂った神の箱庭の様な。そんな閉ざされた狭い世界の中で。
ルフレは苦しみと共に、幾度目とも分からない溜め息を吐く。
だが、その溜め息は何処にも届かない。それを聞き届け得る者が居るとすれば、ただ一人だけであるのだが。
しかし、ルフレの苦しみが彼の心に届く事は無いのだろう。
身動きの邪魔にはならぬ様に……だが逃げ出す事の出来ぬ様に自身の腕を縛る鎖も、逃げられぬ様に潰された足の腱も。
そうやってルフレをこの場所に縛り付けているのは。
他ならぬ彼──クロムなのだから。
ルフレは、かつて一度この世界から完全に消滅した。
邪竜ギムレーの器として、邪竜へと覚醒しこの世界を滅ぼす事を運命付けられていたルフレではあったが、それを拒絶し。
そして、その運命を変える為……そしてこの世界からギムレーの脅威を取り除く為に、ルフレは己の命を擲った。
己の存在を代償にしたルフレではあったけれど。
しかし、紡がれた絆の導きと……そしてルフレ自身の願いと祈りが実を結び、再びこの世界で生きて行く事を赦された。
世界に還り付いて、そして再びクロムと巡り合って。
それで、やっと今度こそ、皆と……クロム達と共にこの生を全う出来るのだと、そう思っていたのに。
だが、そんなルフレの想いは、この箱庭の中で閉ざされた。
どうして? と。もう数え切れない程幾度も投げ掛け続けているその問いに、クロムは何も返してはくれない。
『もう何処にも行かない、ずっと君の傍に居る、だからこんな事をしなくても良い』
そんな心からの言葉すら、彼の心には何も響かなかった様だ。
ギムレーと共に消滅して、だが再びこの世界で生きる事が赦されて……。だからこそ、今度こそ……。
もう二度と彼の手を離さない様に、もう二度と交わした約束を違わぬ様に、そう生きようと。愛する人々と共に、この命のある限り生きようと、そう、思っていたのに。だけれども。
クロムは、ルフレを己だけが知る秘密の場所に閉じ込めた。
何処にも行けぬ様に、誰にも逢えぬ様に。
ルフレが生きてこの世界に戻ってきた事を、きっとクロム以外の仲間たちは誰も知らないのだろう。
閉ざされたこの場所を知るのは、クロムだけである。
ルフレですら、此処が何処であるのか知る由は無い。
日々クロムが訪ねに来れる事を考えると、王都の何処かではあると思うのだけれども……。しかし、何らかの魔法による仕掛けで距離的な制約を無視出来るのならばそうとも限らない。
助けを求める事も出来ず、逃げ出す事も出来ず。
クロムの気が変わって解放してくれる事を祈るしか無い。
それは、虜囚の身である事とどう違うのだろうか。
ただ、外界から隔絶されているとは言えここは牢獄ではない。
寧ろ、王侯貴族の住まいであるかの様に、不快さの無い洗練された贅を尽くされた上質な部屋を幾つも与えられていた。
……ただそこに出口は何処にも無いだけで。
食に困る事も、衣服に困る事も、寝床に困る事も無く。
クロムはルフレの為だけに立派な図書室を用意してくれていた為に、書物などに困る事も無い。他人を必要としない娯楽の類ならば、頼めば直ぐ様に用意してくれるのだろう。
それを贅沢な生活であると、羨む者も居るのかもしれない。
だが、ルフレの手は身の回りの事に困らぬ程度の細く長い鎖で繋がれ、そして足の腱は彼の手によって潰された。歩く事に支障は来さないが、歪に塞がったその傷が完全に治る事は恐らく有り得ず、きっともう二度とかつての様には走れないだろう。
窓は全て僅かな隙間しか開かぬ様に設計され、クロムが持つ鍵でしか開かぬ重い扉に閉ざされて。
そして、万が一にもルフレが自分を害する事の無いようにと、刃物やガラスや陶器などは全て身の回りから排除されている。
ルフレはありとあらゆる逃走手段を奪われていた。
顔を合わせる度に、ルフレはクロムに言う。
「僕は君を裏切ったりしない。
もう二度と君の傍を離れない、君との約束を破らない。
だから、こんな事はしなくても良いんだ」、と。
だが、そう言う度に、クロムの表情は『無』になるのだ。
ルフレの言葉は、クロムの心に届かない。
『僕達は「半身」だろう?
こんな事をしなくても、僕はずっと君の傍に居る』
何度も何度も、ルフレはクロムにそう言葉を掛けてきた。
だがそれでも、何も……何一つとして届かないのだ。
どんな言葉も、虚しい程にクロムの心の表層を静かに撫でていくだけに過ぎなかった。
しかし、クロムはルフレから『自由』を奪っただけ、その『鳥籠』に閉じ込めただけで、それ以外の物を奪う事はしなかった。
寧ろ、それ以外の全てを、彼は与えてくれた。
かつての様に、語り合い、笑い合う。
その時の彼は、以前と何も変わらない様に見えるのに。
それでもクロムは、ルフレに『自由』だけは与えない。
クロムがルフレを憎く思っているからこんな事をしている訳では無い事が、ルフレには肌で分かってしまう。
だからこそ、ルフレはどうすれば良いのかが分からない。
どうしたらこんな事を止めてくれるのか。その答えがどうしても分からない。その手掛かりになりそうなものすら、彼は何もルフレに示さないのだ。
だからルフレは何も出来ないまま、届かないと分かっている言葉を虚しく紡ぐ事しか出来ない。
ルフレも、こんな風に閉じ込められていても、それでクロムを憎んだり彼に怒りを覚えたりしている訳でも無い。
『自由』を奪われても、傷付けられ戒められていても。
それでも、クロムが何より大切な友である事には変わらない。
ただただ、『どうして?』と。
そればかりが頭の中をグルグルと巡るのだ。
ルフレは、クロムが理由も無くこんな事をする人では無い事をよく知っている。そして、クロムが「狂って」しまったからこんな事をしているのでは無いだろうとも思っている。
心を壊してしまった人特有の危うさにも似た違和感は、クロムからは欠片も感じないからだ。それは、ルフレをこうして閉じ込め始めた最初の頃から何も変わらない。
だからこそ、「これ」はクロムにとっては、狂気に駆られての蛮行ではなく、何かしらの「理由」や「願い」に基いた行いであるのだろうと、ルフレは考えている。
……ただ。ルフレには、クロムのその行動の背景にあるものが、全く分からないのだ。何一つ見当も付かない。
自分ならば、クロムの心を縛る「何か」を解決出来るのではないだろうか……クロムと二人でなら乗り越える事が出来るのではないだろうかと、そんな事も思うのだけれども。
ただ、「それ」が一体何であるのか、クロムが語ってくれない以上ルフレにはどうする事も出来ない。
そもそも、こうやってクロム以外とは関われない現状では、ルフレに出来る事などそう無いのかもしれないけれども。
それでも、自分はクロムの「半身」であるのだと言う、矜持にも似た自負が、その責任感が、この現状を良しと出来ない。
クロムだけに「何か」を背負わせる事など、出来ないのだ。
クロムが、彼一人では解決し切れない「何か」を背負っているのであれば、そしてその為にこの様な……きっとクロムとしても本意では無いだろう筈の事をしているのであれば。
ならば、ルフレは共にそれを背負いたいのだ。
二人で力を合わせたとしても乗り越えられない程のものであるのだとしても、その重荷を分かち合う事ならば出来るから。
だからルフレは言葉を尽くす。
今は届かないのだとしても、何時かはきっとその心に届く筈であるのだと……。クロムの心を頑なにさせている「何か」を融かす事が出来るのでは無いだろうか、そして共にその「何か」を背負い、そしてそれに向き合い乗り越えていけるのでは、と。
それを願って、それを信じて。
届かない言葉を、そうと知りながら紡ぎ続けるのであった。
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どうして、こんな事になってしまったのだろう……。
僅かな光も届かぬ深い闇の中の様な、幼子の虫籠の中の様な、狂った神の箱庭の様な。そんな閉ざされた狭い世界の中で。
ルフレは苦しみと共に、幾度目とも分からない溜め息を吐く。
だが、その溜め息は何処にも届かない。それを聞き届け得る者が居るとすれば、ただ一人だけであるのだが。
しかし、ルフレの苦しみが彼の心に届く事は無いのだろう。
身動きの邪魔にはならぬ様に……だが逃げ出す事の出来ぬ様に自身の腕を縛る鎖も、逃げられぬ様に潰された足の腱も。
そうやってルフレをこの場所に縛り付けているのは。
他ならぬ彼──クロムなのだから。
ルフレは、かつて一度この世界から完全に消滅した。
邪竜ギムレーの器として、邪竜へと覚醒しこの世界を滅ぼす事を運命付けられていたルフレではあったが、それを拒絶し。
そして、その運命を変える為……そしてこの世界からギムレーの脅威を取り除く為に、ルフレは己の命を擲った。
己の存在を代償にしたルフレではあったけれど。
しかし、紡がれた絆の導きと……そしてルフレ自身の願いと祈りが実を結び、再びこの世界で生きて行く事を赦された。
世界に還り付いて、そして再びクロムと巡り合って。
それで、やっと今度こそ、皆と……クロム達と共にこの生を全う出来るのだと、そう思っていたのに。
だが、そんなルフレの想いは、この箱庭の中で閉ざされた。
どうして? と。もう数え切れない程幾度も投げ掛け続けているその問いに、クロムは何も返してはくれない。
『もう何処にも行かない、ずっと君の傍に居る、だからこんな事をしなくても良い』
そんな心からの言葉すら、彼の心には何も響かなかった様だ。
ギムレーと共に消滅して、だが再びこの世界で生きる事が赦されて……。だからこそ、今度こそ……。
もう二度と彼の手を離さない様に、もう二度と交わした約束を違わぬ様に、そう生きようと。愛する人々と共に、この命のある限り生きようと、そう、思っていたのに。だけれども。
クロムは、ルフレを己だけが知る秘密の場所に閉じ込めた。
何処にも行けぬ様に、誰にも逢えぬ様に。
ルフレが生きてこの世界に戻ってきた事を、きっとクロム以外の仲間たちは誰も知らないのだろう。
閉ざされたこの場所を知るのは、クロムだけである。
ルフレですら、此処が何処であるのか知る由は無い。
日々クロムが訪ねに来れる事を考えると、王都の何処かではあると思うのだけれども……。しかし、何らかの魔法による仕掛けで距離的な制約を無視出来るのならばそうとも限らない。
助けを求める事も出来ず、逃げ出す事も出来ず。
クロムの気が変わって解放してくれる事を祈るしか無い。
それは、虜囚の身である事とどう違うのだろうか。
ただ、外界から隔絶されているとは言えここは牢獄ではない。
寧ろ、王侯貴族の住まいであるかの様に、不快さの無い洗練された贅を尽くされた上質な部屋を幾つも与えられていた。
……ただそこに出口は何処にも無いだけで。
食に困る事も、衣服に困る事も、寝床に困る事も無く。
クロムはルフレの為だけに立派な図書室を用意してくれていた為に、書物などに困る事も無い。他人を必要としない娯楽の類ならば、頼めば直ぐ様に用意してくれるのだろう。
それを贅沢な生活であると、羨む者も居るのかもしれない。
だが、ルフレの手は身の回りの事に困らぬ程度の細く長い鎖で繋がれ、そして足の腱は彼の手によって潰された。歩く事に支障は来さないが、歪に塞がったその傷が完全に治る事は恐らく有り得ず、きっともう二度とかつての様には走れないだろう。
窓は全て僅かな隙間しか開かぬ様に設計され、クロムが持つ鍵でしか開かぬ重い扉に閉ざされて。
そして、万が一にもルフレが自分を害する事の無いようにと、刃物やガラスや陶器などは全て身の回りから排除されている。
ルフレはありとあらゆる逃走手段を奪われていた。
顔を合わせる度に、ルフレはクロムに言う。
「僕は君を裏切ったりしない。
もう二度と君の傍を離れない、君との約束を破らない。
だから、こんな事はしなくても良いんだ」、と。
だが、そう言う度に、クロムの表情は『無』になるのだ。
ルフレの言葉は、クロムの心に届かない。
『僕達は「半身」だろう?
こんな事をしなくても、僕はずっと君の傍に居る』
何度も何度も、ルフレはクロムにそう言葉を掛けてきた。
だがそれでも、何も……何一つとして届かないのだ。
どんな言葉も、虚しい程にクロムの心の表層を静かに撫でていくだけに過ぎなかった。
しかし、クロムはルフレから『自由』を奪っただけ、その『鳥籠』に閉じ込めただけで、それ以外の物を奪う事はしなかった。
寧ろ、それ以外の全てを、彼は与えてくれた。
かつての様に、語り合い、笑い合う。
その時の彼は、以前と何も変わらない様に見えるのに。
それでもクロムは、ルフレに『自由』だけは与えない。
クロムがルフレを憎く思っているからこんな事をしている訳では無い事が、ルフレには肌で分かってしまう。
だからこそ、ルフレはどうすれば良いのかが分からない。
どうしたらこんな事を止めてくれるのか。その答えがどうしても分からない。その手掛かりになりそうなものすら、彼は何もルフレに示さないのだ。
だからルフレは何も出来ないまま、届かないと分かっている言葉を虚しく紡ぐ事しか出来ない。
ルフレも、こんな風に閉じ込められていても、それでクロムを憎んだり彼に怒りを覚えたりしている訳でも無い。
『自由』を奪われても、傷付けられ戒められていても。
それでも、クロムが何より大切な友である事には変わらない。
ただただ、『どうして?』と。
そればかりが頭の中をグルグルと巡るのだ。
ルフレは、クロムが理由も無くこんな事をする人では無い事をよく知っている。そして、クロムが「狂って」しまったからこんな事をしているのでは無いだろうとも思っている。
心を壊してしまった人特有の危うさにも似た違和感は、クロムからは欠片も感じないからだ。それは、ルフレをこうして閉じ込め始めた最初の頃から何も変わらない。
だからこそ、「これ」はクロムにとっては、狂気に駆られての蛮行ではなく、何かしらの「理由」や「願い」に基いた行いであるのだろうと、ルフレは考えている。
……ただ。ルフレには、クロムのその行動の背景にあるものが、全く分からないのだ。何一つ見当も付かない。
自分ならば、クロムの心を縛る「何か」を解決出来るのではないだろうか……クロムと二人でなら乗り越える事が出来るのではないだろうかと、そんな事も思うのだけれども。
ただ、「それ」が一体何であるのか、クロムが語ってくれない以上ルフレにはどうする事も出来ない。
そもそも、こうやってクロム以外とは関われない現状では、ルフレに出来る事などそう無いのかもしれないけれども。
それでも、自分はクロムの「半身」であるのだと言う、矜持にも似た自負が、その責任感が、この現状を良しと出来ない。
クロムだけに「何か」を背負わせる事など、出来ないのだ。
クロムが、彼一人では解決し切れない「何か」を背負っているのであれば、そしてその為にこの様な……きっとクロムとしても本意では無いだろう筈の事をしているのであれば。
ならば、ルフレは共にそれを背負いたいのだ。
二人で力を合わせたとしても乗り越えられない程のものであるのだとしても、その重荷を分かち合う事ならば出来るから。
だからルフレは言葉を尽くす。
今は届かないのだとしても、何時かはきっとその心に届く筈であるのだと……。クロムの心を頑なにさせている「何か」を融かす事が出来るのでは無いだろうか、そして共にその「何か」を背負い、そしてそれに向き合い乗り越えていけるのでは、と。
それを願って、それを信じて。
届かない言葉を、そうと知りながら紡ぎ続けるのであった。
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