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天泣過ぎれば

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「クロム…………?」



 力無く地に倒れたクロムの身体を呆然と抱き抱えるルフレの腕を、その胸の傷口から溢れ出る温かな血が汚していく。
 だがそんな事は何一つとしてルフレの意識を引き留める事は出来ずに、ルフレはただただ……クロムを、そしてその胸を深く抉る様に走る……最早手の施し様など無い事をまざまざと見せ付けるかの様な……そんなあまりにも大きな傷口を、凍り付いた様に見詰めた。
 武器を手に取る事も不馴れな者が、無我夢中で突き立てそして切り下ろした剣による傷口は、いっそ不格好な程に滅茶苦茶に切り裂かれた……そんな無惨な有り様となっていて。
 例え癒しの杖を使ったとしても、この傷口を綺麗に治す事は誰にも出来ないであろう程のものであった。
 クロムの身体から命が零れ落ちていくのが目に見えて分かる。
 しかし、ルフレには何も出来ない。
 この場には気休め程度の傷薬すらなく、その命の砂が零れ落ちていくのを、誰も止められない。
 ルフレの目の前にあるのは、『どうにも出来ない現実』という……この世の絶望そのものであった。

 もしあの時、ルフレが動けていれば。
 クロムが飛び掛かるよりも先に、あの男を叩きのめせていれば。
 せめて男がナイフを取り落とした時にそれを奪えていれば。
 時を巻き戻す事もやり直す事も出来ぬ、神ならざる只人には、最早何の意味も生産性も無い後悔と絶望ばかりがルフレの胸を満たす。
 この現実は、まるであの悪夢がそこに焼き写されているかのいるかの様ですらあった。

 クロムが弱々しく鳴く。
 それは、『ルフレ』、と……そう呼ばれた様にルフレの耳に届く。
 クロムの身体を抱く腕に、知らず知らずの内に力が籠った。

 身体を動かす事も辛いだろうに、クロムはその頭をゆるゆると動かして、少しざらついた狼の舌で、優しくルフレの頬を舐める。
 そして、小さく鳴いた。
 ……その意味はルフレには分からなかったけれども。
『泣くな』と、そう言われたような気がして。
 それなのに、涙はどうやっても止まらなかった。
 クロムの優しい深蒼の目が、ゆっくりと閉ざされていく。
 ルフレは反射的に引き留めようと、その身体を揺するようにして涙で少し枯れた様な声を上げた。


「クロム……いや、止めて、お願い……。
 目を開けて、……いかないで……。
 あたしをおいていかないで……。
 いや、いやよ……、おねがい……」


 だがどれだけ呼び掛けても、クロムの目が再びルフレを見る事は無くて、その呼吸は徐々に荒々しいものへと変わっていく。
 幾多の兵達の死を見てきたルフレには、『それ』が分かってしまう。
『死』の足音が静かに忍び寄るそこに、ルフレには何かを出来る様な力は全く持ち合わせていなかった。
 死んでしまう……喪ってしまう……。
 自分は、誰よりも愛するこの人を、喪ってしまう……。

 多くを望んだつもりなんて無かった。
 ただ傍に居たかった、その力になりたかった。
 何度でも名前を呼んで欲しかった、その手に触れたかった。
 ただただそれだけだったのに……。
 あぁ……それなのに、辿り着くのはこんな結末なのか。
 自分には、ただクロムの傍に居る事ですら、これ程までに赦されざる罪だとでも言うのか……。
 それが罪であるというのならばその罰はルフレ一人に与えれば良いものを……何故クロムの命が奪われねばならないのか……。

 世界の全てに吼え叫び、問い質して回りたい衝動が芽生える。
 一体、何が罪だと咎めるのかと。
 何故その罪がクロムの命で贖われなければならぬのかと。

 あぁ……もしもその全てが罪であるのだと言うのならば。
 せめて、……せめて…………。

『愛している』と、ただ一言。
 この胸に灯り続けていたその想いを、伝えてしまった方が、何れ程良かったのだろうか。

 もう今更なのかもしれないけれど、それでも。


「……クロム、あたしずっとあなたに伝えたい事があったの。
 ずっと傍に居たかった、もっとあたしの名前を呼んで欲しかった。
 あなたの愛している人があたしじゃなくったて構わない。
 ずっと想っていられれば……ただそれだけで良かった。
 ……クロム、愛しているわ……。
 あなたは、たった一人の何よりも大切で特別な人よ……」


 どうかもう一度目を開けて欲しい、もう一度名前を呼んで欲しい、もう一度その手に触れさせて欲しい。
 ……そしてもっと、ずっと傍に居させて欲しい。

 その願いが叶うなら、何だって……。

 半ば無意識に、ルフレは狼の口先に口付けを落とした。
 こんなお呪い、何の意味も無いのは分かっている、でも──
 唇と狼の口先を触れ合わせているルフレの頬を伝って、涙が荒く息をするクロムの口の中へと滑り落ちた。
 その、次の瞬間。


 凄まじい烈風の様な、衝撃の様な、そんな魔力の奔流が吹き荒れて、ルフレは思わず固く目を瞑る。
 そして不意に、抱きかかえていたフワフワとした感触が、まるで人肌の様に艶やかなものに変わり、急に腕の中が重くなる。
 誰かが咳き込む様な音に驚いて目を瞬かせながらルフレがゆっくりとその目を開けると、そこには。


 何処か気まずそうな表情の、見慣れた……しかし何処か懐かしさすら感じる、そんなクロムの……人間としてのクロムの顔があった。


「えーっと、だな、その……。
 出来れば、下の方は向かないで貰えると助かるんだが……」


 下? と、半ば無意識に視線をそこに向けてしまったルフレは。
 瞬間的に顔を真っ赤にして、反射的に腕の中のクロムを突き飛ばして反対側を向いて目を覆った。


「なっ、何で裸なのよ!!」

「し、仕方ないだろう! 
 ついさっきまで俺は狼の姿だったんだぞ! 
 衣服を着た狼が何処に居るって言うんだ!」

「それはそうかもしれないけど! 
 だったら前を隠すとかしたらどうなのよ!」

「あんな状態で抱きしめられてたら隠すべきものも隠せないだろ!」


 お互いに顔を真っ赤にしたままギャアギャアと騒ぐ。
 意図せずクロムの生まれたままの姿を目にする事になってしまったルフレは、もうクロムの顔を直視出来ない。
 何と言うのか、全裸の衝撃が強すぎて先程までの悲壮な気持ちなど跡形もなく吹き飛んでしまっていた。


「あー、もう! 
 それならせめてこれでも着て前を隠しといて!」


 ルフレはクロムの方を見ないまま、愛用しているローブを脱いで、そのまま投げ渡す。
 まだ人間に戻ったばかりで手を使うのに覚束なかったのか、受け取り損ねたクロムそれを床に落としてしまうが、何とか拾い上げて、多少もたつきながらもそれを身に着ける。


「着た? もう着た? 
 これで万が一にもちゃんと着てなかったら、反射的にぶん殴っちゃうかもしれないからね!?」


 何度も念を押してから振り返ると、そこにはローブだけを羽織った、些か頼りないながら隠すべきところは隠された状態のクロムで。
 これで漸く多少は落ち着いて顔を見て話せそうだとルフレが安堵していると。

 急に、クロムがルフレを抱き締めてきた。

 何一つとして前触れもなく突然過ぎるその行動に、ルフレが思わず氷の様に固まってしまうと。
 クロムは、まるで狼の姿であった時の名残の様に、その頭をルフレの肩へと擦り付けてくる。
 何がしたいのかさっぱり分からずルフレが戸惑っていると、クロムは何処か感極まったかの様な……少し涙声交じりの声で、ルフレの名を何度も呼ぶ。
 何度も何度も、飽きもせずに……。
 思わず、ルフレはクロムが狼であった時の様にその頭を撫でた。
 何となく、そうした方が良い様な気がしたのだ。


「ずっと……こうしてお前を抱き締めてやりたかった。
 ずっと、その名を鳴き声なんかじゃなく、ちゃんと呼びたかった。
 ずっと……ルフレに、伝えたい事があったんだ。
 狼の姿にされて、それが痛い程分かったんだ……」


 ルフレを抱き締める腕に、力が籠る。


「ルフレの言葉、ちゃんと聞こえていたんだ。
 だからちゃんと、俺も伝えたい。
 俺も、お前の傍に居たい、何度だって名前を呼びたい、何度だってこうして抱き締めていたい、何度だって、何度だって……。
 ルフレ、愛している。
 他の誰でもなく、お前ただ一人を。
 この先もずっと、誰よりも近くに、……俺の傍に居てくれ。
 どうか俺と、共に人生を生きてくれないか?」


 クロムのその言葉に、ルフレは思わず涙を零した。
 その願いを受け入れる事が、赦される事なのかは分からない。
 何時か、取り返しのつかない破滅を引き起こすかもしれない。
 ……それでも、クロムと確かに想いが通じたこの瞬間を、絶対に忘れる事なんて出来はしないから。


 優しく触れ合う様に重なった唇と唇が、クロムへの返答であった。








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