天泣過ぎれば
◆◆◆◆◆
王都に帰還して数日が経った今でも、クロムの『呪い』を解く手懸かりも、そして『呪い』が解ける兆しも、何も見えない。
クロムを人目から隠し続けるのも、もうそろそろ限界であった。
既に、ルフレがクロムを謀りそして政を欲しいままに動かそうとしているのでは、と邪推している貴族達もいる。
誓ってそんな事は有り得ないのだが、そもルフレの存在自体、貴族達には歓迎などされてはいないものである事もあって、その手の邪推は止まる事を知らない。
流石に、まだ面と向かってそれを糾弾する者は居ないが……このままの事態が続けば、ルフレを追い落とそうとする者は幾らでも現れるだろう。
ルフレ自身は権力等と言うモノに何一つとして執着など欠片もないのだけれど、傍目から見れば、クロムに軍師として重用されその信も厚くそして実際に先の戦争をイーリス側の勝利に導いた実績のあるルフレは、貴族たちが欲して止まない権力を手にしつつある様に見えるらしい。
貴族達の中には、ルフレが色香を使ってクロムを惑わしその寵愛を得て重用されているのだなどと、事実無根も甚だしい事を真しやかに囁くものさえ居る。
万が一にもクロムが女の色香に惑わされる様な事があったとしても、それでその者を政にも関わり得る場所に重用する事など有り得ない、とルフレは確信していた。
クロムは、純粋にその者の実力を評価しているだけなのだ。
何れ程女の色香に狂ったとしても能力の無い者に席は与えないし、その者を政に関して重用する事はないと、それだけは確信を持って言える。
そう言う点で、クロムは何処までも公正であるのだ。
……が、ルフレに関してその様な流言蜚語を撒き散らす様な輩にとっては、その様な事はどうでも良いのだろう。
そう言った輩の中には、単にルフレの存在が気に食わないと言う者も居れば、自分の娘をクロムに嫁がせたいと画策しているが故にクロムの傍に居る女性であるルフレが邪魔である者、出自も過去も明らかではないルフレがクロムの傍にいる事に懸念を示す者、ルフレに自らの権勢を脅かされるのではと恐れる者……等々、実に様々な者が居て、その思惑も実に多種多様だ。
が、ルフレと言う存在を疎ましく思っている、と言うその一点は変わらないのだろう。
ペレジアとの戦争が終わって少し経った頃から、ルフレは何かと嫌がらせをされる様になっていた。
尤も、剰り派手な事をやらかすとクロムの目にも留まり大事になってしまうと下手人どもも分かっていたからこそ、ルフレの心身に直接害を与える様な嫌がらせは殆ど無かったが。
何にせよ、自分が決してこの国を動かす者達にとって歓迎されざる存在であるのだとルフレに悟らせるには十分に過ぎる程であった。
……今までは、何と言われようとも、クロムが自分を必要としてくれる限りは……その傍を離れる事は無かっただろう。
だが、……その選択はクロムに禍をもたらしてしまっていた。
だからこそ、『呪い』が解けるのを見届けたその後は……。
感傷に鈍く痛む胸を押さえて、ルフレは軽く目を瞑る。
今は自分の未来の事などより、クロムの事を考えなくては。
どうすれば、あの『呪い』を解く事が出来るのだろうか。
門外漢なりにも色々と調べてはみたものの、そもそも非常に珍しい『呪い』であるが故に、その確かな記録など殆ど無く。
まるでお伽噺の様な、実に信憑性の定かではない情報ばかりが集まってくる。
これがお伽噺なら愛し合う者達のキスで呪いが解けたりするのだろうが、残念ながら現実はそう単純ではない。
そも、『愛し合い者達』と言う条件では、ルフレではクロムの呪いを解く事など叶わないであろう。
クロムにとってのルフレは、『半身』……『仲間』でしかない。
最早手詰まりと言える状況であり、ルフレにとってはまさに八方塞がりであった。
サーリャの事は信頼しているしその呪術の実力も理解しているが、それで何もかもサーリャに丸投げして良い筈もなく、そして残されている時間は無限ではない。
問題は山積みであるし、それは時間が経てば経つ程どんどんと取り返しのつかないモノへと変わりつつある。
戦乱で国中が疲弊し、それが漸く少しずつ回復へと向かってきているその最中なのだ。
ここでクロムにもしもの事があれば、それこそイーリスと言う国が倒れかねない。
それでは、先代聖王エメリナが命を賭してクロムへと未来を託した意味も、そしてクロムやルフレ達が戦乱の中を駆けずり回ってどうにかそれを終結させた意味も、全てが水の泡となってしまう。
それだけは、何としてでも避けねばならない。
しかし、事態の深刻さをそしてその事態を招いてしまった事への責任を、誰よりも理解しながらも。
ルフレにはそれらを解決する術がないのだ。
それは何よりも歯痒く、そして己の無力を突き付けてくる。
幾度目とも知れぬ溜め息を溢しつつ、ルフレは裏庭を突っ切る様にしてクロムが居る区画へと急ぐ。
本来の身分や立場としては王城の奥になど到底出入り出来ぬ筈のルフレではあるが、クロムやリズ達がそれを許可しているからこそ特例的にそれが認められていた。
勿論武器などを持たぬ事を衛兵達に確認された上での事ではあるが、戦争も終わった今ではそもそもこの王城の中で武器が必要となる様な事など起こる筈もなく、それは取り立てて不自由とは言える程の事ではない。
しかし、城の中を歩き回るルフレの事を苦々しい目で睨み付ける様に見る貴族達は後を絶たなかった。
彼等の視線に質量が存在しているなら、ルフレの身体にはとっくに穴が空いているだろう。
と、言ってもクロム達が居る城の奥深くに向かえばその様な者達に出会す事も格段に減るので大して気にも留めた事はないが。
しかし非常に珍しい事に、急ぎ足でクロムの元へと向かっていたルフレを呼び止める者が居た。
無視出来る訳もなく立ち止まり、ルフレは何用かと訊ねる。
ルフレを呼び止めてきた相手は、爵位はそう高く無いが、先々代聖王の頃から国政に携わってきていた貴族の一人だ。
先の戦争で被害が比較的少なかった王都より北東の地域に領地を持ち、故に戦争で他の貴族達が疲弊していた中でその権勢を強めた者である。
年頃の娘こそ家族には居ないものの、縁故ある者をクロムの妻に宛がおうと、幾度か縁談としてクロムに持ち掛けつつも全てクロムからは一蹴されていた。
しかし、ルフレにとっては全く関係など無い相手であり、実際彼とルフレは一言二言言葉を交わした事すら無いだろう。
それなのに突然呼び止めてくるとは……一体何なのだろうか。
……そう言えば、今回ルフレ達が賊の討伐に向かったのは彼の領地に程近い所である。
それに関して何か言いたい事でもあったのだろうか?
以前にも、何かとルフレに文句を付けてくる者も居たし、自分の統治の不手際を何故かこちらに擦り付けて批難してくる者も居た。
この者も、その手の類いだろうか。
正直な所厄介だなと思いつつも、それでもここでこの男を無視して立ち去ってしまっては要らぬ荒波を立ててしまう。
今更ルフレが何をした所でこう言った者達に自分が受け入れられる事は無いのだとは分かっているが、だからと言って一々付け入る隙を与えた所でクロムの利になる事は何もない。
関わりたくないのは山々だが……無視する事も出来なかった。
難癖を付けてくるにしろ嫌味をぶつけてくるにしろ、せめて手短にして貰えると良いのだけれど、とそんな事を呑気に思っていると。
男は何処か人間的な卑しさを感じる表情を浮かべ、ねっとりと耳に不快感を残す様な声音で、ルフレに問うた。
「クロム様は何処へ居られるのでしょうかな?
速やかにお伝えしたい事があるのですが、一向にお目通り叶わぬのですよ」
あぁ……またこれなのか、とルフレは内心溜息を吐いた。
クロムが『呪い』を受けて人前に姿を見せられないまま王城へと帰って来てから今日に至るまで、幾度となくルフレはこの問いを様々な人からぶつけられている。
そこにあるのは、主君たるクロムを慮る様なものもあったのだが、それ以上にルフレへの敵意やその粗を探ってやろうという見え透いた下心のものばかりであった。
この男がどうなのかと言えば、間違いなく後者であろう。
佞臣や奸臣とまでは行かなくともどちらかと言えば、この男はそう潔白な方ではない。
先々代聖王……つまりはぺレジアとの間に『聖戦』を引き起こし双方に消し去る事の出来ない程の禍根を生んでこの世を去った王……クロム達の父親の代では、聖王に諫言を呈する事など全くなく寧ろ迎合する様にしてその治世で甘い汁を啜り。
そして先代聖王……エメリナ王の御代では、『聖戦』を先代の愚行であったと宣ってエメリナ王に取り入ろうとしていたと言う。
これで何かしらの確たる罪を犯した証拠でもあるのならば早々にこんな男など権力の椅子から遠ざけられるのだが……と、以前クロムは零していた。
が、この手の小悪党的な蝙蝠の如し輩の常として、何かしらの罪を犯している可能性は高くとも、そう簡単に証拠など残していない。
しかも妙にその顔が利き様々な所に伝手があるので、早々処断など出来ないのであった。
「クロム……様は、今は静養中です。
何か要件があるのでしたら、お取り次ぎ致しますが……」
取り合えずそう言ってみるが、男は態とらし過ぎる程の態度でルフレのその言葉を鼻で笑う様にしてあしらう。
「いえいえそれには及びませんとも。
あなた如きの者の耳に入れて良い様な案件では無いのでね。
しかし……何故クロム様はあなたの様な、何処ぞの間者とも知れぬ者を重用なされているのやら……。
聞けば、ぺレジアの呪術師と度々密会を重ねていると言うではありませんか。
クロム様が臥せっておいででおられるのは、あなたがぺレジアの呪術師に呪わせているのではありませぬかな?」
粘りつく様なその視線に、ルフレは沸き立つ怒りから男に殴りかかったりしない様に拳を固く握って自制しつつ、何とか心を鎮めて返そうと努力する。
元より、ぺレジアの出と言うただそれだけで、イーリス上層部でのサーリャの扱いは悪いものと言わざるを得なかった。
イーリスの貴族たちにとって『未知なるもの』である呪術師である事もまた、悪い方へと作用しているのであった。が。
「最近サーリャと会っているのは確かですが、それでどうしてあたし達がクロム……様を呪う事になるのでしょうか?
サーリャは自警団の一員としてクロムと共に戦った仲間ですよ。
クロム様を呪ったりするような動機なんて何処にもありません」
ルフレにとって……そして他ならぬクロムにとっても、サーリャは大切な仲間である。
確かに、一人で静かに時間を過ごす事を好んだり、そう社交的ではない性格や、呪術師という立場などから誤解される事も多いサーリャではあるけれども。
仲間の事を何時も陰から見守り、時には手を貸す優しさがある、そんな仲間想いな、ルフレ達にとっての良き友であるのだ。
現に、ルフレが頼った事が発端にあるとは言え、クロムの『呪い』を解くべく日夜尽力してくれている。
蝙蝠の様にフラフラと意見を変えて甘い汁を啜り続けようとするこの害虫の如き男とは、比べ物にならない程に大切な存在だ。
……しかし、この男の様な者達にとってサーリャがどの様な人間であるのかなどどうだって良いのだ。
ぺレジアの民であると言うただそれだけで、この男にとってサーリャは視界に入れる事すら忌々しい『異物』なのだ。
先の戦争の……いやより本質的にはそれよりももっと前……『聖戦』すら遡った、それこそ両国の建国以来から存在する、『差別』と言う名の隔意がその根本にある。
先の戦争は何とかイーリス側が勝ったのだが、戦勝国となるや否や、敗者となったぺレジアを草木一本すら残らぬ荒野にせんとばかりにハゲタカの如く啄もうとする者も多くいたのだが、そう言った者達の多くはぺレジアからの侵攻が始まるなり我先にと資財を持ち出して自らの領地に引き籠り、王都が落とされる時も救援一つ寄越そうとしなかった者達ばかりであった。
しかし彼らの思惑とは裏腹に、エメリナ様の仇を討ってその身を突き動かしていた復讐心を晴らしたクロムは、既に戦乱によって荒れていたぺレジアの国を必要以上に苦しめる事は望まず。
故に幾らエメリナ様の非業の死を絡めて煽られた所で、クロムがその様な無益な苦しみをぺレジアに押し付ける事は無かった。
……それでもきっと、敗戦国となったぺレジアの民からは、クロムはあまり快くは思われていないのだろうけれど。
……そう言ったぺレジアの民からの敵意に関しては、クロムのみならずルフレもその対象となる事が多い。
ルフレはそんな事を望んではいなかったが、終戦後に『神軍師』だ『救国の英雄』だなんだとルフレが持ち上げて喧伝された事もあって、一部のぺレジアの民にとってルフレは、自分達の国を破ったその筆頭の様に思われていたりもするのだった。
なお、この男はぺレジアから過剰に富を毟り取ろうとしていた者たちの筆頭である。
今思えば、そういった経緯もあってこうもこの男から敵意の様なものを向けられているのかもしれないな……とルフレは思う。
だからと言って、今更どうなると言うものでもないのだが。
「仲間だなんだと言った所で、ぺレジアの民など簡単に裏切ってくる信用ならぬ者達ではないですか。
しかもその女は人を妖しげな術で呪う事を生業とする『呪術師』。
それでどうやって信を置けと言うのでしょう。
聞けば、呪術の中には人の心を意のままに操ったり、或いは人を獣の様に変えてしまう術すらあると言うではありませんか。
その様な術を用いるものをクロム様に近付けるなど……クロム様を害そうとしている様にしか思えませんな」
下卑た笑いを浮かべ、男はルフレを見た。
余りにも不愉快な視線とその言動に、頑張って被っている僅かな微笑みの仮面も流石にそろそろ限界を迎えそうになる。
だがこの手の輩には何を言った所で無駄であろうし、反応すればするだけ無意味に付け上がらせるものなのだ。
一刻も早くこの場を立ち去ってくれないものかと、そう内心思いながらもルフレはあくまでも態度は崩さない。
これ以上は何を言った所で大して意味は無いのだと悟ったのだろう、男は舌打ちをして「売女が」と吐き捨てた。
散々言葉遣いがどうだのこうだのと煩い割に随分と口の悪い事だ。
「全く……クロム様にも困ったものですな。
何処ぞの者とも知れぬ女を傍に置いたり、得体の知れぬ卑しきぺレジアの呪術師などに信を置くなどと。
聞けば先の賊討伐の折にも、ぺレジアから流れてきた呪術師がたと言うではありませんか。
斯様に妖しき術を用いる者など何時我々に牙を剥くとも分からぬものでしょうになぁ」
せめてその心に掠り傷程度でも傷付けてやろうとするかの様に、否に粘つく声音でルフレを言葉で嬲る男だが、ルフレにはそんな男の子供染みた嫌がらせの言葉などどうでも良い事だった。
そんな事よりも……。
「どうして、あなたがその事を知っているんですか?
あの場にぺレジアの呪術師が居た事は、私達の他に知る者などいない筈なのに……」
あの場に呪術師が居た事を、ルフレやフレデリクなどの極一部の者を除いて知る者は居ない。
あの場に呪術師が居たと言う情報から、万が一にもクロムに何らかの『呪い』が掛けられたのだと余人に悟られようものなら収拾の付かない大騒ぎになってしまう為、その情報は徹底的に伏せられている筈なのだ。
例えあの場所からほど近い場所に領地があるこの男の耳にであっても、決して届かない程の徹底さで。
「そ、それはですな……、以前からあの付近で呪術師のものと思われる被害が発生していたとの報告が上がっておりましたので、そこから推測してみただけの事なのですよ」
「いいえ、それは有り得ないですね。
あの地の賊を討伐する際に、あたし達は徹底的にあの地の賊に関する情報を集めてから討伐の為の策を練りましたから。
その時には、呪術師らしき者の情報なんて一つも無かった……。
……何か、隠し立てでもしているんですか?」
フレデリクを呼んできて何か情報を吐かせるべきなのかと、そうルフレが思考し、フレデリク達が居る場所の方へと一瞬目を向けた。
その僅かな隙があったからこそ、男が懐から何かを取り出した事への反応が一瞬遅れてしまう。
気付いた時には、男は手に持ったそれを石畳へと叩きつけていて。
何かの液体に満たされたそのガラスの小瓶は、音を立てて割れ、その中身が辺りに飛び散った。
その途端に、何処か甘ったるい酒の様な匂いが辺りに広がる。
不快なその甘さに反射的にルフレは顔を顰め、そして男を捕らえておこうとおこうと手を伸ばそうとした所で、何故か天地がひっくり返ったかのような感覚と共に、その場で転んでしまう。
一体何が? と困惑しながら手を付いて立ち上がろうとするけれど、手はまるで骨と言う骨を失ってしまったかの様にろくに動かす事が出来なかった。
「流石は呪術師の薬……ここまで効果があるとは驚きですな」
ルフレが動けなくなっている事を確認する為にか、何度もルフレの身体を蹴る男は、その口元をハンカチーフで覆っていた。
蹴られた拍子に何処かを浅く切ったのかひりつく様な痛みが僅かに走るが、指先一つ動かす事も叶わず、身を庇う事も出来ない。
次第にルフレの意識は朧気になっていき、男の声や姿も、そしてこちらに近付いてくる者の足音も、全てが遠くなっていく。
(クロム………………──)
ぼんやりとしたルフレの頭の片隅に最後まで浮かんでいたのは、この世の何よりも大切な人の事であった。
◇◇◇◇◇
王都に帰還して数日が経った今でも、クロムの『呪い』を解く手懸かりも、そして『呪い』が解ける兆しも、何も見えない。
クロムを人目から隠し続けるのも、もうそろそろ限界であった。
既に、ルフレがクロムを謀りそして政を欲しいままに動かそうとしているのでは、と邪推している貴族達もいる。
誓ってそんな事は有り得ないのだが、そもルフレの存在自体、貴族達には歓迎などされてはいないものである事もあって、その手の邪推は止まる事を知らない。
流石に、まだ面と向かってそれを糾弾する者は居ないが……このままの事態が続けば、ルフレを追い落とそうとする者は幾らでも現れるだろう。
ルフレ自身は権力等と言うモノに何一つとして執着など欠片もないのだけれど、傍目から見れば、クロムに軍師として重用されその信も厚くそして実際に先の戦争をイーリス側の勝利に導いた実績のあるルフレは、貴族たちが欲して止まない権力を手にしつつある様に見えるらしい。
貴族達の中には、ルフレが色香を使ってクロムを惑わしその寵愛を得て重用されているのだなどと、事実無根も甚だしい事を真しやかに囁くものさえ居る。
万が一にもクロムが女の色香に惑わされる様な事があったとしても、それでその者を政にも関わり得る場所に重用する事など有り得ない、とルフレは確信していた。
クロムは、純粋にその者の実力を評価しているだけなのだ。
何れ程女の色香に狂ったとしても能力の無い者に席は与えないし、その者を政に関して重用する事はないと、それだけは確信を持って言える。
そう言う点で、クロムは何処までも公正であるのだ。
……が、ルフレに関してその様な流言蜚語を撒き散らす様な輩にとっては、その様な事はどうでも良いのだろう。
そう言った輩の中には、単にルフレの存在が気に食わないと言う者も居れば、自分の娘をクロムに嫁がせたいと画策しているが故にクロムの傍に居る女性であるルフレが邪魔である者、出自も過去も明らかではないルフレがクロムの傍にいる事に懸念を示す者、ルフレに自らの権勢を脅かされるのではと恐れる者……等々、実に様々な者が居て、その思惑も実に多種多様だ。
が、ルフレと言う存在を疎ましく思っている、と言うその一点は変わらないのだろう。
ペレジアとの戦争が終わって少し経った頃から、ルフレは何かと嫌がらせをされる様になっていた。
尤も、剰り派手な事をやらかすとクロムの目にも留まり大事になってしまうと下手人どもも分かっていたからこそ、ルフレの心身に直接害を与える様な嫌がらせは殆ど無かったが。
何にせよ、自分が決してこの国を動かす者達にとって歓迎されざる存在であるのだとルフレに悟らせるには十分に過ぎる程であった。
……今までは、何と言われようとも、クロムが自分を必要としてくれる限りは……その傍を離れる事は無かっただろう。
だが、……その選択はクロムに禍をもたらしてしまっていた。
だからこそ、『呪い』が解けるのを見届けたその後は……。
感傷に鈍く痛む胸を押さえて、ルフレは軽く目を瞑る。
今は自分の未来の事などより、クロムの事を考えなくては。
どうすれば、あの『呪い』を解く事が出来るのだろうか。
門外漢なりにも色々と調べてはみたものの、そもそも非常に珍しい『呪い』であるが故に、その確かな記録など殆ど無く。
まるでお伽噺の様な、実に信憑性の定かではない情報ばかりが集まってくる。
これがお伽噺なら愛し合う者達のキスで呪いが解けたりするのだろうが、残念ながら現実はそう単純ではない。
そも、『愛し合い者達』と言う条件では、ルフレではクロムの呪いを解く事など叶わないであろう。
クロムにとってのルフレは、『半身』……『仲間』でしかない。
最早手詰まりと言える状況であり、ルフレにとってはまさに八方塞がりであった。
サーリャの事は信頼しているしその呪術の実力も理解しているが、それで何もかもサーリャに丸投げして良い筈もなく、そして残されている時間は無限ではない。
問題は山積みであるし、それは時間が経てば経つ程どんどんと取り返しのつかないモノへと変わりつつある。
戦乱で国中が疲弊し、それが漸く少しずつ回復へと向かってきているその最中なのだ。
ここでクロムにもしもの事があれば、それこそイーリスと言う国が倒れかねない。
それでは、先代聖王エメリナが命を賭してクロムへと未来を託した意味も、そしてクロムやルフレ達が戦乱の中を駆けずり回ってどうにかそれを終結させた意味も、全てが水の泡となってしまう。
それだけは、何としてでも避けねばならない。
しかし、事態の深刻さをそしてその事態を招いてしまった事への責任を、誰よりも理解しながらも。
ルフレにはそれらを解決する術がないのだ。
それは何よりも歯痒く、そして己の無力を突き付けてくる。
幾度目とも知れぬ溜め息を溢しつつ、ルフレは裏庭を突っ切る様にしてクロムが居る区画へと急ぐ。
本来の身分や立場としては王城の奥になど到底出入り出来ぬ筈のルフレではあるが、クロムやリズ達がそれを許可しているからこそ特例的にそれが認められていた。
勿論武器などを持たぬ事を衛兵達に確認された上での事ではあるが、戦争も終わった今ではそもそもこの王城の中で武器が必要となる様な事など起こる筈もなく、それは取り立てて不自由とは言える程の事ではない。
しかし、城の中を歩き回るルフレの事を苦々しい目で睨み付ける様に見る貴族達は後を絶たなかった。
彼等の視線に質量が存在しているなら、ルフレの身体にはとっくに穴が空いているだろう。
と、言ってもクロム達が居る城の奥深くに向かえばその様な者達に出会す事も格段に減るので大して気にも留めた事はないが。
しかし非常に珍しい事に、急ぎ足でクロムの元へと向かっていたルフレを呼び止める者が居た。
無視出来る訳もなく立ち止まり、ルフレは何用かと訊ねる。
ルフレを呼び止めてきた相手は、爵位はそう高く無いが、先々代聖王の頃から国政に携わってきていた貴族の一人だ。
先の戦争で被害が比較的少なかった王都より北東の地域に領地を持ち、故に戦争で他の貴族達が疲弊していた中でその権勢を強めた者である。
年頃の娘こそ家族には居ないものの、縁故ある者をクロムの妻に宛がおうと、幾度か縁談としてクロムに持ち掛けつつも全てクロムからは一蹴されていた。
しかし、ルフレにとっては全く関係など無い相手であり、実際彼とルフレは一言二言言葉を交わした事すら無いだろう。
それなのに突然呼び止めてくるとは……一体何なのだろうか。
……そう言えば、今回ルフレ達が賊の討伐に向かったのは彼の領地に程近い所である。
それに関して何か言いたい事でもあったのだろうか?
以前にも、何かとルフレに文句を付けてくる者も居たし、自分の統治の不手際を何故かこちらに擦り付けて批難してくる者も居た。
この者も、その手の類いだろうか。
正直な所厄介だなと思いつつも、それでもここでこの男を無視して立ち去ってしまっては要らぬ荒波を立ててしまう。
今更ルフレが何をした所でこう言った者達に自分が受け入れられる事は無いのだとは分かっているが、だからと言って一々付け入る隙を与えた所でクロムの利になる事は何もない。
関わりたくないのは山々だが……無視する事も出来なかった。
難癖を付けてくるにしろ嫌味をぶつけてくるにしろ、せめて手短にして貰えると良いのだけれど、とそんな事を呑気に思っていると。
男は何処か人間的な卑しさを感じる表情を浮かべ、ねっとりと耳に不快感を残す様な声音で、ルフレに問うた。
「クロム様は何処へ居られるのでしょうかな?
速やかにお伝えしたい事があるのですが、一向にお目通り叶わぬのですよ」
あぁ……またこれなのか、とルフレは内心溜息を吐いた。
クロムが『呪い』を受けて人前に姿を見せられないまま王城へと帰って来てから今日に至るまで、幾度となくルフレはこの問いを様々な人からぶつけられている。
そこにあるのは、主君たるクロムを慮る様なものもあったのだが、それ以上にルフレへの敵意やその粗を探ってやろうという見え透いた下心のものばかりであった。
この男がどうなのかと言えば、間違いなく後者であろう。
佞臣や奸臣とまでは行かなくともどちらかと言えば、この男はそう潔白な方ではない。
先々代聖王……つまりはぺレジアとの間に『聖戦』を引き起こし双方に消し去る事の出来ない程の禍根を生んでこの世を去った王……クロム達の父親の代では、聖王に諫言を呈する事など全くなく寧ろ迎合する様にしてその治世で甘い汁を啜り。
そして先代聖王……エメリナ王の御代では、『聖戦』を先代の愚行であったと宣ってエメリナ王に取り入ろうとしていたと言う。
これで何かしらの確たる罪を犯した証拠でもあるのならば早々にこんな男など権力の椅子から遠ざけられるのだが……と、以前クロムは零していた。
が、この手の小悪党的な蝙蝠の如し輩の常として、何かしらの罪を犯している可能性は高くとも、そう簡単に証拠など残していない。
しかも妙にその顔が利き様々な所に伝手があるので、早々処断など出来ないのであった。
「クロム……様は、今は静養中です。
何か要件があるのでしたら、お取り次ぎ致しますが……」
取り合えずそう言ってみるが、男は態とらし過ぎる程の態度でルフレのその言葉を鼻で笑う様にしてあしらう。
「いえいえそれには及びませんとも。
あなた如きの者の耳に入れて良い様な案件では無いのでね。
しかし……何故クロム様はあなたの様な、何処ぞの間者とも知れぬ者を重用なされているのやら……。
聞けば、ぺレジアの呪術師と度々密会を重ねていると言うではありませんか。
クロム様が臥せっておいででおられるのは、あなたがぺレジアの呪術師に呪わせているのではありませぬかな?」
粘りつく様なその視線に、ルフレは沸き立つ怒りから男に殴りかかったりしない様に拳を固く握って自制しつつ、何とか心を鎮めて返そうと努力する。
元より、ぺレジアの出と言うただそれだけで、イーリス上層部でのサーリャの扱いは悪いものと言わざるを得なかった。
イーリスの貴族たちにとって『未知なるもの』である呪術師である事もまた、悪い方へと作用しているのであった。が。
「最近サーリャと会っているのは確かですが、それでどうしてあたし達がクロム……様を呪う事になるのでしょうか?
サーリャは自警団の一員としてクロムと共に戦った仲間ですよ。
クロム様を呪ったりするような動機なんて何処にもありません」
ルフレにとって……そして他ならぬクロムにとっても、サーリャは大切な仲間である。
確かに、一人で静かに時間を過ごす事を好んだり、そう社交的ではない性格や、呪術師という立場などから誤解される事も多いサーリャではあるけれども。
仲間の事を何時も陰から見守り、時には手を貸す優しさがある、そんな仲間想いな、ルフレ達にとっての良き友であるのだ。
現に、ルフレが頼った事が発端にあるとは言え、クロムの『呪い』を解くべく日夜尽力してくれている。
蝙蝠の様にフラフラと意見を変えて甘い汁を啜り続けようとするこの害虫の如き男とは、比べ物にならない程に大切な存在だ。
……しかし、この男の様な者達にとってサーリャがどの様な人間であるのかなどどうだって良いのだ。
ぺレジアの民であると言うただそれだけで、この男にとってサーリャは視界に入れる事すら忌々しい『異物』なのだ。
先の戦争の……いやより本質的にはそれよりももっと前……『聖戦』すら遡った、それこそ両国の建国以来から存在する、『差別』と言う名の隔意がその根本にある。
先の戦争は何とかイーリス側が勝ったのだが、戦勝国となるや否や、敗者となったぺレジアを草木一本すら残らぬ荒野にせんとばかりにハゲタカの如く啄もうとする者も多くいたのだが、そう言った者達の多くはぺレジアからの侵攻が始まるなり我先にと資財を持ち出して自らの領地に引き籠り、王都が落とされる時も救援一つ寄越そうとしなかった者達ばかりであった。
しかし彼らの思惑とは裏腹に、エメリナ様の仇を討ってその身を突き動かしていた復讐心を晴らしたクロムは、既に戦乱によって荒れていたぺレジアの国を必要以上に苦しめる事は望まず。
故に幾らエメリナ様の非業の死を絡めて煽られた所で、クロムがその様な無益な苦しみをぺレジアに押し付ける事は無かった。
……それでもきっと、敗戦国となったぺレジアの民からは、クロムはあまり快くは思われていないのだろうけれど。
……そう言ったぺレジアの民からの敵意に関しては、クロムのみならずルフレもその対象となる事が多い。
ルフレはそんな事を望んではいなかったが、終戦後に『神軍師』だ『救国の英雄』だなんだとルフレが持ち上げて喧伝された事もあって、一部のぺレジアの民にとってルフレは、自分達の国を破ったその筆頭の様に思われていたりもするのだった。
なお、この男はぺレジアから過剰に富を毟り取ろうとしていた者たちの筆頭である。
今思えば、そういった経緯もあってこうもこの男から敵意の様なものを向けられているのかもしれないな……とルフレは思う。
だからと言って、今更どうなると言うものでもないのだが。
「仲間だなんだと言った所で、ぺレジアの民など簡単に裏切ってくる信用ならぬ者達ではないですか。
しかもその女は人を妖しげな術で呪う事を生業とする『呪術師』。
それでどうやって信を置けと言うのでしょう。
聞けば、呪術の中には人の心を意のままに操ったり、或いは人を獣の様に変えてしまう術すらあると言うではありませんか。
その様な術を用いるものをクロム様に近付けるなど……クロム様を害そうとしている様にしか思えませんな」
下卑た笑いを浮かべ、男はルフレを見た。
余りにも不愉快な視線とその言動に、頑張って被っている僅かな微笑みの仮面も流石にそろそろ限界を迎えそうになる。
だがこの手の輩には何を言った所で無駄であろうし、反応すればするだけ無意味に付け上がらせるものなのだ。
一刻も早くこの場を立ち去ってくれないものかと、そう内心思いながらもルフレはあくまでも態度は崩さない。
これ以上は何を言った所で大して意味は無いのだと悟ったのだろう、男は舌打ちをして「売女が」と吐き捨てた。
散々言葉遣いがどうだのこうだのと煩い割に随分と口の悪い事だ。
「全く……クロム様にも困ったものですな。
何処ぞの者とも知れぬ女を傍に置いたり、得体の知れぬ卑しきぺレジアの呪術師などに信を置くなどと。
聞けば先の賊討伐の折にも、ぺレジアから流れてきた呪術師がたと言うではありませんか。
斯様に妖しき術を用いる者など何時我々に牙を剥くとも分からぬものでしょうになぁ」
せめてその心に掠り傷程度でも傷付けてやろうとするかの様に、否に粘つく声音でルフレを言葉で嬲る男だが、ルフレにはそんな男の子供染みた嫌がらせの言葉などどうでも良い事だった。
そんな事よりも……。
「どうして、あなたがその事を知っているんですか?
あの場にぺレジアの呪術師が居た事は、私達の他に知る者などいない筈なのに……」
あの場に呪術師が居た事を、ルフレやフレデリクなどの極一部の者を除いて知る者は居ない。
あの場に呪術師が居たと言う情報から、万が一にもクロムに何らかの『呪い』が掛けられたのだと余人に悟られようものなら収拾の付かない大騒ぎになってしまう為、その情報は徹底的に伏せられている筈なのだ。
例えあの場所からほど近い場所に領地があるこの男の耳にであっても、決して届かない程の徹底さで。
「そ、それはですな……、以前からあの付近で呪術師のものと思われる被害が発生していたとの報告が上がっておりましたので、そこから推測してみただけの事なのですよ」
「いいえ、それは有り得ないですね。
あの地の賊を討伐する際に、あたし達は徹底的にあの地の賊に関する情報を集めてから討伐の為の策を練りましたから。
その時には、呪術師らしき者の情報なんて一つも無かった……。
……何か、隠し立てでもしているんですか?」
フレデリクを呼んできて何か情報を吐かせるべきなのかと、そうルフレが思考し、フレデリク達が居る場所の方へと一瞬目を向けた。
その僅かな隙があったからこそ、男が懐から何かを取り出した事への反応が一瞬遅れてしまう。
気付いた時には、男は手に持ったそれを石畳へと叩きつけていて。
何かの液体に満たされたそのガラスの小瓶は、音を立てて割れ、その中身が辺りに飛び散った。
その途端に、何処か甘ったるい酒の様な匂いが辺りに広がる。
不快なその甘さに反射的にルフレは顔を顰め、そして男を捕らえておこうとおこうと手を伸ばそうとした所で、何故か天地がひっくり返ったかのような感覚と共に、その場で転んでしまう。
一体何が? と困惑しながら手を付いて立ち上がろうとするけれど、手はまるで骨と言う骨を失ってしまったかの様にろくに動かす事が出来なかった。
「流石は呪術師の薬……ここまで効果があるとは驚きですな」
ルフレが動けなくなっている事を確認する為にか、何度もルフレの身体を蹴る男は、その口元をハンカチーフで覆っていた。
蹴られた拍子に何処かを浅く切ったのかひりつく様な痛みが僅かに走るが、指先一つ動かす事も叶わず、身を庇う事も出来ない。
次第にルフレの意識は朧気になっていき、男の声や姿も、そしてこちらに近付いてくる者の足音も、全てが遠くなっていく。
(クロム………………──)
ぼんやりとしたルフレの頭の片隅に最後まで浮かんでいたのは、この世の何よりも大切な人の事であった。
◇◇◇◇◇