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狂いし果てに

◆◆◆◆◆




 頬に落ちてきた水滴の冷たさに、クロムの意識は覚醒した。


「ここは……」


 薄くぼやけた目覚めたばかりの視界に映る周りの景色は、クロムの記憶には無いものである。
 思わず零れ落ちた声に微かな違和感を感じつつ、クロムは身を起こし立ち上がろうとする。

 が、それは手足の動きを縛る枷により阻まれた。
 何れ程身動きしても鎖が立てる硬質な音が周囲に響くばかりで、一向に立ち上がれない。
 そして何よりも。
 枷に戒められたその手足は、どう見ても自身のものとはとても思えない程に細く小さく頼りないものであった。
 そう、それはまるで幼子のそれの様で……。

 一体何が起こったのか理解出来ず、クロムはただただ困惑するしかない。


「くそっ、ここはどこなんだ……!
 おれは、いったい……」


 自らの口から零れる声も、幼さを感じさせる高いもので。
 どこか舌足らずにすら感じてしまう。

 何が起きたのかは全く理解出来ないが、現状が決して良いものでは無い事位は分かる。
 だから今はとにかくこの枷を壊して手足の自由を取り戻す事が先決であった。
 しかし、幼子の様な手にはクロム本来の腕力などなくて。
 必死に鎖を引っ張ったりしてみても、鎖はびくともしないばかりかクロムの息が切れそうになるし何より手が痛くなる。


「~っ!」


 別に泣きたい訳でも何でもないのに、痛みからなのか涙が薄く目に浮かんでしまう。
 こんな大した事ない痛みにすら涙目になってしまう程に、今のクロムの身体は痛みに弱く無力であった。

 それでも諦めずに枷と格闘していたクロムの背後から、誰かが近付いてくる足音がして。


「──クロムさん」


 聞き馴染んだ涼やかなその声が、クロムの耳朶を打った。


「ルフレか?」


 拘束に邪魔されながらも何とかしてクロムが振り向くと、其処には。
 クロムの半身たるルフレが、何故か紅く染まった目を細めながら微笑んでいた。
 決してルフレは大柄では無い筈なのに、その姿を何故か大きく感じてしまう。


「クロムさん……目が覚めたんですね」

「ルフレ? これは、いったい……」


 クロムの問い掛けには何も答えず、ルフレはクロムに視線を合わせる様にその場に屈み、そしてクロムの脇腹にそっと触れる。
 妙な擽ったさを感じてクロムの口から思わず変な声が零れてしまったがルフレは意に介さずに、そのまま脇腹の辺りを優しく撫でた。


「あぁ、良かった。
 傷口はちゃんと塞がった様ですね……。
 貴方がナーガの血族であった事が些か不安要素ではありましたが……、ふふっ……その身体によく馴染んでいる様で何よりです」


 ルフレが何を言っているのか、欠片も理解出来ずクロムは戸惑うしかない。
 何故だろう。
 今目の前にいるルフレは、ルフレではないような……もっと恐ろしい何かである様な、そんな気がして。
 クロムの身体は僅かに震えた。


「……そんなに怯えないで下さい。
 私は、貴方を取って食おうなんて思ってないんですから。
 寧ろ、半ば死にかけていた貴方を助けたんですよ?」

「おれを、たすけた?」

「ええ、そうです。
 私が、あの男に操られて貴方を襲った時。
 貴方は、最早手の施しようが無い状態でした。
 その時の私の絶望を喰らってギムレーが甦り……、そして同時に。
 私は、貴方を助ける為の手段を手にしました。
 だから、迷わずそれを実行に移した。
 その結果、クロムさんは甦った……!」


 クロムの吐息の様な問い掛けに漸く答えたルフレのその目はその声は、最早正気である様には見えなかった。
 狂気よりももっと恐ろしい何かに取り憑かれたその姿は、妖艶さすら振り撒きながらも、クロムにとってはただただ恐ろしいものであって。


「ルフレ、おまえはいったいなにを──」

「ふっ……ふふっ……。
 あぁっ、クロムさん。
 クロムさんは、こんなに小さな時から可愛らしい人だったんですね。
 可愛い可愛い、私の、私だけのクロムさん……」


 そう言いながら、ルフレはクロムを抱き締める。
 本来ならばルフレよりもずっと大きい筈のクロムの身体は、ルフレの腕の中にすっぽりと収まっていて。
 クロムを抱き締めるその腕の力は、クロムの身動きを許さない程に力強いものであった。

 最早、今のルフレとはまともに会話が成り立たない。
 ルフレの言っている事はクロムには殆ど理解出来ないものばかりで、確実にこの現状について何かを知っている筈なのに、クロムの問い掛けには殆ど答えようとはしてくれない。


「もう絶対に離さない……。
 私のクロムさん…………。
 ずっと、ずっと……一緒に居ましょうね……」

「ルフレっ!!!」


 壊れた様に意味の分からない事を呟き続けるルフレの意識を引き戻そうとして、クロムは大きな声を上げた。
 全力で張り上げたその声は、空間一杯に響き渡り反響を残して消える。
 それに驚いた様な顔をしたルフレを、クロムは真っ直ぐに見詰めた。


「おしえてくれ、ルフレ。
 あれからいったいなにがあって、いまこうなっているんだ?」


 クロムにそう問われたルフレは。
 パチパチと幾度か瞬いて。


「そうですね、突然だったらクロムさんもびっくりしちゃいますよね」


 と、何処か壊れた微笑みを浮かべる。
 そして、順を追って話し出した。


「あの後、あの男の手によって『ギムレーの覚醒の儀』が行われ……私はギムレーに覚醒しました。
 ……ああ、大丈夫ですよ、クロムさん。
 あの男は、覚醒して直ぐに死すら救いになる程の苦痛を味わわせた後にこの手で魂すら遺さずに殺しましたから……。
 私を操ってクロムさんを殺させた報いには、些か物足りない位ですけどね……」


 殺意よりも昏く淀んだ憎悪をその瞳に一瞬過らせ、ルフレは言う。
 が、クロムにとってファウダーの末路などどうでも良い。
 そんな事よりももっと聞き逃せない事をルフレは言った。


「まて、“ギムレーにかくせいした”、だと?
 なら、いまのおまえは」

「ええ、まあ、ギムレーですね」


 それが何か?とばかりに首を傾げるルフレに、クロムは絶句してしまう。
 あれ程までにルフレは自身の運命を疎みギムレーを忌避していたと言うのに……。
 最早壊れてしまった彼女にとっては、ギムレーへと成った事ですら、どうと言う事も無い事であるのだろう。

 今目の前にいる彼女が、自分の知るルフレとは最早違う存在であると言う事をまざまざと認識しながらも。
 …………それでも、クロムは彼女を『ルフレではない』とは否定する事は出来なかった。
 壊れていても、最早クロムでは理解しきれない存在になっているのだとしても。
 彼女もまた、ルフレである事には変わらないであろうから。

 だからこそ、クロムはファウダーを止められなかった自身の無力を憎まずにはいられない。
 自身の無力が、大切な半身を……ルフレを壊してしまったのだ、と。
 そう自分を責めずにはいられなかった。


「ルフレ……すまない……」

「? どうしてクロムさんが謝るんですか?
 まあ良いでしょう。
 えっと、ファウダーを抹殺した後からですよね?
 ……ギムレーへと覚醒した私の目の前には、最早息があるのかも分からない程に死の淵へと引きずり込まれてしまったクロムさんが居ました。
 まだその魂は完全には身体から抜け出ていなかったとは言え、あれはもう死んでいると言っても過言ではありませんでしたね……。
 人の身では、何をしても貴方を救えなかったでしょう……。
 ですが、私はもう人では無かった。
 神すらをも超える力を、私は持っていた。
 そして、最早死んだも同然であった貴方を救う術が、ギムレーとなった私にはあった」


 だから、それを実行しました。

 そう言って、ルフレは一見穏やかな微笑みにすら見える表情を浮かべる。


「……いったいなにをしたんだ?」

「ああ、簡単な事ですよ。
 ギムレーたる私の血肉を与え、貴方を私の眷族にしたんです。
 貴方の肉体の時間を巻き戻したのは、保険の為ですね」


 ギムレーの眷族。巻き戻された時間。

 ルフレが何の事も無い様に語るそれらは、クロムにとっては理解の範疇を超える程に衝撃的な事であった。


「……なぜ、そんなことを……」

「最早死んでいた貴方を助けるには、ギムレーの眷族にするか屍兵にするしかなかったんです。
 しかし、屍兵にした時は勿論の事なのですが、無理矢理に眷族にした時も、クロムさんの自我も魂もギムレーに塗り潰される可能性があったんですよね。
 私はクロムさんを助けたかったのであって、ギムレーの操り人形が欲しかった訳じゃない。
 貴方の自我を奪う事も貴方の魂を汚す事も、私の本意ではないんです。
 しかし……貴方を救うにはただ血肉を与えれば良い訳ではなく、人の範疇を超えた竜にする位の変化が必要だったんです。
 そこまでの変化を与えるとなると、大人の身であるとその変化に耐えきれなくなる可能性が高かった。
 だから、貴方の肉体の時間を巻き戻し、子供にしたんです。
 基本的に子供の方が変化させた際の適応能力が高いですからね。
 今のクロムさんの肉体は、大体4歳位ですかね?
 ふふっ、とっても可愛らしいですよ」


 可愛いクロムさん、とそう甘い声音で囁いたルフレは、抱き締めたクロムに頬擦りをする。
 そして、その懐から取り出した手鏡をクロムに渡してきた。

 恐る恐るその手鏡に自身を映すとそこには。
 遥か昔の幼い頃の自分が、何処か怯えた様な眼差しで見詰め返していた。
 鏡の中の自分がかつての自分と違う所があるとすれば、本来の色とは異なり深紅に染まっているその瞳だろうか。


「そんなばかな!」


 クロムは思わずそう叫んでしまう。
 人を若返らせて、眷族にして甦らせる?
 意味が分からない、理解出来ない。


「ギムレーは全能ではありませんが、それでも恐らくクロムさんが考えている以上には万能に近いですよ?
 時間や空間に干渉する事ですら、今の私には可能です。
 ……が、私がギムレーになる因果には貴方が死ぬ必要があるので、幾ら時間に干渉しても貴方を救えません。
 だから、貴方の死の運命を捻じ曲げるのではなく、貴方から死を取り上げる事にしたんです」

「しを、とりあげる?」


 思わず聞き返したクロムに。
 ルフレは恐らく心からの笑みを浮かべる。
 かつては幾度もクロムの心を掴んでいたその笑顔は、今となってはルフレの狂気を表しているかの様でクロムにとっては恐ろしいものでしかなかった。


「ええ。
 ギムレーの眷族として私自らが強大な力を与えた今のクロムさんに死を与えられるものは、殆どありません。
 力を解放されたナーガの牙……位でしょうか?
 もっとも、……ナーガの覚醒の儀を行わないのであればあんな牙はなまくら同然なのですが。
 ふふっ、時間すらも今のクロムさんには意味を成さない。
 私とクロムさんを引き裂く事は時間ですらも不可能なんです。
 ああ、私の大切な、愛しいクロムさん……。
 ずっとずっと一緒に居ましょう。
 世界が貴方と私を引き離そうとするのであれば、そんな世界は全て私が壊します。
 私には、貴方だけが居ればそれで良い……」


 熱に浮かされた様に『愛している』『ずっと一緒に』『クロムさん』『私のクロムさん』と囁き続けるルフレに、クロムは頭を振った。


「しなないだなんて、そんなのしんじられない……」

「紛れもない事実ですよ。
 私だって、首を吻ねられようが剣で胸を貫かれようが、死にませんし」


 ほら、と。
 ルフレはいきなり剣を抜き放ってそれで自身の胸を貫く。
 肉が断ち切られる音と共にルフレの背から切っ先が生えるが。
 しかし、剣を引き抜いたそこには、傷痕一つ見付からない。
 裂かれた衣服だけが、唯一の痕跡であった。


「ルフレ!?」


 傷痕一つないルフレはケロリとした顔で剣を鞘に納めるが。
 目の前で突然そんな凶行に及ばれたクロムは、平静さを失い狼狽えながらルフレの身を案じてしまった。
 そのクロムの様に、ルフレは嬉しそうに微笑む。


「あら、私の事を心配してくれるんですか?
 ふふっ、クロムさんは優しいですね……。
 でも、これで分かったでしょう?
 最早私達を殺せる手段なんて、殆ど無いのだ、と」

「そんなこと……」


 信じられる筈など無かった。
 いや、ルフレに関しては目の前でその証拠を見せ付けられたのだ。
 少なくとも胸を貫いた程度では死なないのは確かなのだろう。
 が、幼くなったとは言え、それ位しか変化を自覚出来ない自分までそんな風に変質してしまったとは、とてもではないが信じられる事では無かった。


「まあ、確かに。
 私が幾ら口で説明したって、実感なんて湧かないですよね。
 特に、クロムさんは目覚めたばかりで自分の変化をそこまで認識出来てないでしょうし……。
 うーん、クロムさんを痛い目に合わせるのは私としては不本意なのですが……。
 まあ、実演してみれば、分かってもらえますかね?」


 そう言って、ルフレは。
 クロムの左腕を優しく掴むと。

 それを恐ろしい程の力で、引き千切った。


「━━━━ッッッ!!」


 あまりの激痛に、獣の様な咆哮がクロムの口から零れる。
 正常に認識出来なくなる程の痛みに反射的に身体が跳ねる。
 傷口から血がが溢れ出ていくのを感じる。



 しかし。


「ほら、クロムさん。
 もう傷なんて何処にも無いでしょう?」


 ルフレの手がそっと労る様に、奪われた筈の左腕に触れる。
 痛みに滲む視界を左腕にやると、確かに其処にはクロムの幼い左腕があった。
 千切られた痕などそこには何一つとして無く。
 だが、微笑むルフレの左手には、引き千切られたクロムの左腕が掴まれていた。

 ルフレは、引き千切ったその左腕を、恍惚すら浮かべた表情で大切に大切に喰らい始める。


「ああ、クロムさんの血肉……美味しいですね……。
 こんなに可愛くて、こんなに美味しいだなんて、今ですら貴方の事がこんなにも大好きなのに、私……ますますクロムさんの事を大好きになってしまいそうです。
 でも、クロムさんを痛い目に合わせるのは……。
 ううっ……こんなにもクロムさんは美味しいのに、我慢しなくてはなりませんね……」


 その口元をクロムの血と肉片で汚しながらルフレは幸せそうに笑った。
 その笑顔は、最早『ヒト』のものでは無い。

 そんなルフレの笑みに何処か魅入られそうになりながらも、クロムは彼女がそこまで変質してしまった事を、ただただ哀しいと……そう感じていた。
 クロムに異常なまでの執着を示し、そしてその価値観すらも最早かつての彼女とはまるっきり異なってしまっている。
 それでも確かに、クロムにとって大切な存在であったかつてのルフレの面影は今のルフレにもあって。
 それ故にルフレを拒絶する事など出来ず、それが尚の事哀しい。

 程無くして、骨までも噛み砕きクロムの左腕を完全に喰らったルフレは、自身の手指や口元に付いた血肉も舐め取る様にして口にし、優しい微笑みを浮かべてクロムを見詰めた。


「ね、クロムさん。
 これで分かったでしょう?
 どんな傷も、今の貴方はたちどころに癒してしまう。
 首を折られたって、火に焼かれたって、もう貴方は死ねない。
 だから、ずっとずっと私と一緒に生きましょう。
 ね、二人なら、きっと……」


 その狂った瞳の中に、クロムは確かに自身のルフレの姿を見た様な気がした。
『お願い、私を一人にしないで、傍に居て……!』と狂おしい程に訴えてくるその姿を、その手を、クロムに拒める訳が無かった。


「ルフレ、おれは…………」


 最早既に自分の身体は邪竜のものへと堕ちてしまっている。
 何時かは、クロムもルフレの様に狂ってしまうのだろうか……。

 その日が来る前に、自分を殺してくれる存在が現れる事を祈りながらも。

 クロムの幼い手は、ルフレの手を取ったのであった……。






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