未知への誘い
◆◆◆◆◆
八十神高校2年2組の教室は騒めきで賑わっていた。
生徒達の話題は専らこのクラスの担任となった諸岡教師に対する不満や愚痴であったが、ふとした拍子に新たな転校生についての話題に移る。
この八十稲羽では、新たに人がやって来るというのはそこそこ珍しい。
地元を離れていく人は増加傾向にあるが、反対にやって来る人というのは殆どいないからだ。
特にこれといった産業もなく観光に適した場所も殆どない八十稲羽に、外から態々やって来る人はかなり稀である。
八十神高校の生徒達は、ほぼ全員が小学校中学校からの顔馴染みであり、基本的にその顔触れが変化する事は無い。
そんな中での転校生だ。
話題にならない訳が無かった。
田舎特有の情報網で、新たな転校生が来る事は既に学年どころか、町中にまで出回っている。
しかし転校生が来る事は分かっていても、それが男なのか或いは女なのかを知ってる人はこの教室内には居なかったのだった。
◇◇◇◇◇
チャイムが鳴ると同時に、騒めく教室の扉が不意に開け放たれ、特徴的な容貌の中年男性が入ってきた。
このクラスの担任である諸岡だ。
この八十神高校ではそこそこの古株となる教師である。
担当科目は倫理学。
この学校の教師陣の中では規則規律に煩い教師で、異性交友にはかなり厳しい。
生徒達からは『モロキン』という愛称で呼ばれている。
尤も、生徒達からの評判はかなり悪いものであるが。
諸岡は何時もの如く始めた説教を終えると、「転校生を紹介する」、と教室の外で待機させていたらしい生徒に声を掛けた。
一拍程の間を空けてから教室内に入ってきたのは、そんじょそこらの男子よりも背が高い女子生徒だった。
身長は目測で約180センチと言った所か。
凛とした姿勢で、転校生であるらしい女子生徒は諸岡の横に佇んだ。
「爛れた都会から、辺鄙な田舎町に飛ばされてきた哀れな奴だ。
いわば落ち武者だ、分かるな?」
転校生に対していきなり毒を吐く諸岡を、(またか……)と生徒達は白い目で見る。
この諸岡という教師が、こういった物言いをするのはこの学校の生徒にとっては既に日常茶飯事であるが、慣れていない転校生は面食らっているだろうと、とんだ災難に遭ってる転校生に同情的な視線が集まった。
だが渦中にある筈の転校生は、心底どうでも良いとばかりに窓の外に目をやっている。
この様子だと、諸岡の嫌味は毛程も彼女には届かなかったらしい。
「おい貴様! 何処を見ている!!」
「窓の外を見ているだけですが、何か?」
自分の嫌味を聞き流していたとしか見えない態度に怒鳴り声を上げた諸岡に、そう答えて転校生は彼を見下ろした。
別に意図するものがあるでもなく、ただ単に彼女の方が教壇に立つ諸岡よりも背が高いので、自然とそうなるのだ。
別に怒ったりしている訳では無さそうな、フラットな声音だったが、不思議と威圧する様な迫力を醸し出していた。
「むっ……。まぁいい。
自己紹介をしなさい」
転校生の雰囲気に気圧されたのか、諸岡は威勢を殺がれた様に口籠る。
それを大して気にした風も無く、転校生は黒板に己の名前を書き、その口を開いた。
「鳴上悠希です。
これから一年間よろしくお願いします」
「あー……それで、鳴上の席だが……。
……あそこが空いているな。
よし、お前の席はあそこだ」
悠希は諸岡に指定された席に座り、カバンから教科書類と筆記具を取り出す。
その時、横の席の女子生徒が悠希に小声で話しかけてきた。
「キミ、スゴいね!
モロキンが気圧されちゃうなんてさ、ビックリしたよ!
大変だろうけど、これから一年間よろしくね」
「こちらこそ、よろしく」
悠希は女子生徒に軽く頭を下げてそう挨拶する。
そして再び騒めき始めた教室内を諸岡が一喝し、新学期最初の授業が始まった。
◇◇◇◇◇
学期始めという事で、今日の授業は午前で終わる。
いつの間にか昨晩から降り続いていた外の雨は止んでいて、代わりに深い霧が町を覆っていた。
近頃ここ八十稲羽では雨が降り続くと、それが止んだ後に決まって霧が出る様になった。
近頃はと言っても、それが何時具体的にそうなったのかは地元の人々にも分からない。
気が付いたらいつの間にか、だったのだから。
ただ、漠然と昔はそうではなかったという認識だけはある。
昔はどうであれ、既にこの霧に慣れた生徒達はまたかとばかりに外を見やるだけだ。
生徒達が帰り支度を始めている最中、唐突に校内放送が流れ、教師達が呼び集められる。
“何か”が起きたのだろうか?
滅多に起きない事態に、生徒達はそう色めきたった。
それに拍車を掛ける様に、霧の向こうでパトカーか何かのサイレンまで聴こえる。
何が起きているのか、と窓の外を覗く男子生徒達の顔には『好奇心』がありありと浮かんでいた。
話題や娯楽に事欠く田舎だ。
生徒たちの態度は決して褒められる様なものでは無いのは確かであるが、それも無理もない事なのかもしれない。
皆が基本的に、“変化”に飢えているのである。
例えその“変化”が何かしらの事件であったとしても、己に直接の関わりが無い内は、単なるショーと大差は無いと感じているのだろう。
しかし深い霧で何も見えない為、次第に生徒達はサイレンへの興味を失って、話題は別の何かへと移っていった。
今の話題の中心は、最近ニュースで不倫騒動を報道されていた女子アナウンサーについてだ。
そんな中、悠希は我関せずとばかりに粛々と帰り支度を済ませていた。
少ししてから校内放送が再び流れ、学区内で事件が起きたので速やかに帰宅する様に、と指示される。
事件と聞いて途端に生徒達は再び色めき立ち、教室内の話題が今度は事件一色になった。
八十稲羽では事件らしい事件は滅多に起きないので、好奇心からか一種のお祭り騒ぎになっている。
まだ何かしらの事件が起きたとしか知らされておらず、その詳細を何も知らぬと言うのにも関わらず、野次馬根性の様な好奇心から、己の想像だけを基盤とした憶測が教室内を飛び交った。
そんな軽い喧騒の中、悠希はどうでも良いとばかりに席を立つ。
「あれ、鳴上さん帰り一人?
よかったら、一緒に帰んない?」
その直後、朝のホームルームの時に悠希に話し掛けてきた隣の席の女子生徒に再び声を掛けられた。
呼び止められた悠希は、女子生徒へと振り返る。
「そう言えば、まだ自己紹介してなかったね。
あたし、里中千枝。
で、こっちは天城雪子ね」
そう言って千枝は自分と、その横に立っていた赤いカーディガンを羽織った女子生徒を紹介した。
「あ、初めまして……なんか、急でごめんね」
「えー、謝んないでよ。
あたし失礼な人みたいじゃん。
ちょっと鳴上さんの話を聞きたいなーって、それだけだってば」
二人のやり取りには気心知れたものを感じる。
相当に仲が良いのだろう。
「私の話を? 別に構わないけど」
そう悠希が返した時、一人の男子生徒が千枝に近付いて来た。
男子生徒は何処と無く落ち着きが無く、目が明らかに泳いでいる。
「あ……えーっと、里中……さん」
「何よ花村。
何で今更“さん”付けなのよ」
千枝がジト目で挙動不審の男子生徒を見ると、男子生徒は明らかに狼狽した。
「この前借りたDVD、スゲー面白かったです。
技の繰り出しが流石の本場っつーか……。
申し訳ない! 事故なんだ!
バイト代入るまで待って! じゃっ!!」
そう言ってその男子生徒はカバンからDVDケースを取り出して、押し付ける様に千枝に渡し、その場を一目散に逃げ出そうとする。
「あっ、待てコラ! 貸したDVDに何した!!」
咄嗟に追い掛けた千枝の蹴りが背中にクリーンヒットして、男子生徒は周囲の机や椅子を巻き込んで倒れこんだ。
その際に左脛を思いっきりぶつけたらしく、そこを抱えて男子生徒は悶絶する。
「どわっ! 信じらんないヒビ入ってんじゃん!
あたしの“成龍伝説”があぁぁ!!」
千枝がケースを開けて中身を確認すると、DVDには大きなヒビが幾つも走っていた。
割れてないのが最早奇跡的に思える程である。
これでは二度と再生する事は叶わないだろう。
新品のBlue-rayで買い換える事とお詫びとしてステーキを2枚奢る事で手打ちとしてその場は収まった。
正確には未だ痛みに悶絶する男子生徒に、千枝が一方的に要求を突き付けただけなのだが。
まあ本当に大切にしていたDVDだった様なので、偶発的な事故であったとして差し引いても、比較的温情ある措置であると言えるのかも知れない……。
◇◇◇◇◇
八十神高校2年2組の教室は騒めきで賑わっていた。
生徒達の話題は専らこのクラスの担任となった諸岡教師に対する不満や愚痴であったが、ふとした拍子に新たな転校生についての話題に移る。
この八十稲羽では、新たに人がやって来るというのはそこそこ珍しい。
地元を離れていく人は増加傾向にあるが、反対にやって来る人というのは殆どいないからだ。
特にこれといった産業もなく観光に適した場所も殆どない八十稲羽に、外から態々やって来る人はかなり稀である。
八十神高校の生徒達は、ほぼ全員が小学校中学校からの顔馴染みであり、基本的にその顔触れが変化する事は無い。
そんな中での転校生だ。
話題にならない訳が無かった。
田舎特有の情報網で、新たな転校生が来る事は既に学年どころか、町中にまで出回っている。
しかし転校生が来る事は分かっていても、それが男なのか或いは女なのかを知ってる人はこの教室内には居なかったのだった。
◇◇◇◇◇
チャイムが鳴ると同時に、騒めく教室の扉が不意に開け放たれ、特徴的な容貌の中年男性が入ってきた。
このクラスの担任である諸岡だ。
この八十神高校ではそこそこの古株となる教師である。
担当科目は倫理学。
この学校の教師陣の中では規則規律に煩い教師で、異性交友にはかなり厳しい。
生徒達からは『モロキン』という愛称で呼ばれている。
尤も、生徒達からの評判はかなり悪いものであるが。
諸岡は何時もの如く始めた説教を終えると、「転校生を紹介する」、と教室の外で待機させていたらしい生徒に声を掛けた。
一拍程の間を空けてから教室内に入ってきたのは、そんじょそこらの男子よりも背が高い女子生徒だった。
身長は目測で約180センチと言った所か。
凛とした姿勢で、転校生であるらしい女子生徒は諸岡の横に佇んだ。
「爛れた都会から、辺鄙な田舎町に飛ばされてきた哀れな奴だ。
いわば落ち武者だ、分かるな?」
転校生に対していきなり毒を吐く諸岡を、(またか……)と生徒達は白い目で見る。
この諸岡という教師が、こういった物言いをするのはこの学校の生徒にとっては既に日常茶飯事であるが、慣れていない転校生は面食らっているだろうと、とんだ災難に遭ってる転校生に同情的な視線が集まった。
だが渦中にある筈の転校生は、心底どうでも良いとばかりに窓の外に目をやっている。
この様子だと、諸岡の嫌味は毛程も彼女には届かなかったらしい。
「おい貴様! 何処を見ている!!」
「窓の外を見ているだけですが、何か?」
自分の嫌味を聞き流していたとしか見えない態度に怒鳴り声を上げた諸岡に、そう答えて転校生は彼を見下ろした。
別に意図するものがあるでもなく、ただ単に彼女の方が教壇に立つ諸岡よりも背が高いので、自然とそうなるのだ。
別に怒ったりしている訳では無さそうな、フラットな声音だったが、不思議と威圧する様な迫力を醸し出していた。
「むっ……。まぁいい。
自己紹介をしなさい」
転校生の雰囲気に気圧されたのか、諸岡は威勢を殺がれた様に口籠る。
それを大して気にした風も無く、転校生は黒板に己の名前を書き、その口を開いた。
「鳴上悠希です。
これから一年間よろしくお願いします」
「あー……それで、鳴上の席だが……。
……あそこが空いているな。
よし、お前の席はあそこだ」
悠希は諸岡に指定された席に座り、カバンから教科書類と筆記具を取り出す。
その時、横の席の女子生徒が悠希に小声で話しかけてきた。
「キミ、スゴいね!
モロキンが気圧されちゃうなんてさ、ビックリしたよ!
大変だろうけど、これから一年間よろしくね」
「こちらこそ、よろしく」
悠希は女子生徒に軽く頭を下げてそう挨拶する。
そして再び騒めき始めた教室内を諸岡が一喝し、新学期最初の授業が始まった。
◇◇◇◇◇
学期始めという事で、今日の授業は午前で終わる。
いつの間にか昨晩から降り続いていた外の雨は止んでいて、代わりに深い霧が町を覆っていた。
近頃ここ八十稲羽では雨が降り続くと、それが止んだ後に決まって霧が出る様になった。
近頃はと言っても、それが何時具体的にそうなったのかは地元の人々にも分からない。
気が付いたらいつの間にか、だったのだから。
ただ、漠然と昔はそうではなかったという認識だけはある。
昔はどうであれ、既にこの霧に慣れた生徒達はまたかとばかりに外を見やるだけだ。
生徒達が帰り支度を始めている最中、唐突に校内放送が流れ、教師達が呼び集められる。
“何か”が起きたのだろうか?
滅多に起きない事態に、生徒達はそう色めきたった。
それに拍車を掛ける様に、霧の向こうでパトカーか何かのサイレンまで聴こえる。
何が起きているのか、と窓の外を覗く男子生徒達の顔には『好奇心』がありありと浮かんでいた。
話題や娯楽に事欠く田舎だ。
生徒たちの態度は決して褒められる様なものでは無いのは確かであるが、それも無理もない事なのかもしれない。
皆が基本的に、“変化”に飢えているのである。
例えその“変化”が何かしらの事件であったとしても、己に直接の関わりが無い内は、単なるショーと大差は無いと感じているのだろう。
しかし深い霧で何も見えない為、次第に生徒達はサイレンへの興味を失って、話題は別の何かへと移っていった。
今の話題の中心は、最近ニュースで不倫騒動を報道されていた女子アナウンサーについてだ。
そんな中、悠希は我関せずとばかりに粛々と帰り支度を済ませていた。
少ししてから校内放送が再び流れ、学区内で事件が起きたので速やかに帰宅する様に、と指示される。
事件と聞いて途端に生徒達は再び色めき立ち、教室内の話題が今度は事件一色になった。
八十稲羽では事件らしい事件は滅多に起きないので、好奇心からか一種のお祭り騒ぎになっている。
まだ何かしらの事件が起きたとしか知らされておらず、その詳細を何も知らぬと言うのにも関わらず、野次馬根性の様な好奇心から、己の想像だけを基盤とした憶測が教室内を飛び交った。
そんな軽い喧騒の中、悠希はどうでも良いとばかりに席を立つ。
「あれ、鳴上さん帰り一人?
よかったら、一緒に帰んない?」
その直後、朝のホームルームの時に悠希に話し掛けてきた隣の席の女子生徒に再び声を掛けられた。
呼び止められた悠希は、女子生徒へと振り返る。
「そう言えば、まだ自己紹介してなかったね。
あたし、里中千枝。
で、こっちは天城雪子ね」
そう言って千枝は自分と、その横に立っていた赤いカーディガンを羽織った女子生徒を紹介した。
「あ、初めまして……なんか、急でごめんね」
「えー、謝んないでよ。
あたし失礼な人みたいじゃん。
ちょっと鳴上さんの話を聞きたいなーって、それだけだってば」
二人のやり取りには気心知れたものを感じる。
相当に仲が良いのだろう。
「私の話を? 別に構わないけど」
そう悠希が返した時、一人の男子生徒が千枝に近付いて来た。
男子生徒は何処と無く落ち着きが無く、目が明らかに泳いでいる。
「あ……えーっと、里中……さん」
「何よ花村。
何で今更“さん”付けなのよ」
千枝がジト目で挙動不審の男子生徒を見ると、男子生徒は明らかに狼狽した。
「この前借りたDVD、スゲー面白かったです。
技の繰り出しが流石の本場っつーか……。
申し訳ない! 事故なんだ!
バイト代入るまで待って! じゃっ!!」
そう言ってその男子生徒はカバンからDVDケースを取り出して、押し付ける様に千枝に渡し、その場を一目散に逃げ出そうとする。
「あっ、待てコラ! 貸したDVDに何した!!」
咄嗟に追い掛けた千枝の蹴りが背中にクリーンヒットして、男子生徒は周囲の机や椅子を巻き込んで倒れこんだ。
その際に左脛を思いっきりぶつけたらしく、そこを抱えて男子生徒は悶絶する。
「どわっ! 信じらんないヒビ入ってんじゃん!
あたしの“成龍伝説”があぁぁ!!」
千枝がケースを開けて中身を確認すると、DVDには大きなヒビが幾つも走っていた。
割れてないのが最早奇跡的に思える程である。
これでは二度と再生する事は叶わないだろう。
新品のBlue-rayで買い換える事とお詫びとしてステーキを2枚奢る事で手打ちとしてその場は収まった。
正確には未だ痛みに悶絶する男子生徒に、千枝が一方的に要求を突き付けただけなのだが。
まあ本当に大切にしていたDVDだった様なので、偶発的な事故であったとして差し引いても、比較的温情ある措置であると言えるのかも知れない……。
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