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彼岸と此岸の境界線

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【2011/07/13】


 今日も今日とて巽くんとの勉強会なのだが、今日はりせとも一緒だ。
 りせは、転校直後である(しかも直前まで勉強どころの状況ではなかった)為、かなり厳しいモノがあるらしい。
 だがその辺りの事情を学校側は斟酌はしてくれなさそうなので、自力で赤点を回避するしかないのである。
 まあそういった事情もあり、先日の約束もあったので、巽屋に三人で集まっての勉強会だ。
 今日教える科目は英語である。

「あーもぅ、全然分かんない」

 暫くは頑張って問題を解いていたものの、限界が訪れたのか、りせはそう音を上げながらノートと問題集を投げ出した。
 どうやらりせは基礎的な文法辺りからあまり分かっていないらしい。
 中学生レベルの部分もかなりボロボロである。
 ある程度形になっている文の空欄を埋めていくタイプの穴埋め問題や、バラバラになった語句を並び替える問題等が苦手である様だ。
 単語の方も不安であるらしいが、それはもう覚えて貰うしか無い。
 尚、巽くんはそれに輪をかけて英語が苦手な様だ。
 ドングリの背比べと表現したくなる程の差でしか無いが。

 二人には頻出する英単語を優先的に(自力で)詰め込んで貰いつつ、簡単な例題を出しまくる事で文法のパターンを覚えて貰う戦法で教えている。
 りせは一度解説すると理解したかの様に頷き実際その直後は完璧に解けるのだが、暫く別の問題を解いて貰ってから再び類似問題を解いて貰うと、さっき頷いていたのは何だったのかと首を傾げたくなるレベルで再び解けなくなってるのである。
 巽くんは解説するとキャパ一杯一杯な表情で頑張って頷いてくれるのだが、多分あまり分かってはいないのだろう。
 ……何も満点を取れと言われてる訳では無く、赤点さえ回避出来れば良いのである。
 最低限度の事さえちゃんと答えられるのなら、そうそう赤点にはならない……筈だ。
 当座の目標としては、その最低限度のラインまで二人を押し上げる事である。

「何処が分からなかったんだ?」

 りせが放り出した問題集を手に取って訊ねると、りせは「ここ」と指差す。
 どうもある一文の訳し方で躓いてしまった様だ。
 ノートを見てみると、一応頑張ろうとした跡は見てとれた。
 しかしこの部分は所謂成句と呼ばれる、特定の単語の連なりによって特定の意味を成すものである。
 そこが正確に訳せていない為、分からなくなってしまったのだろう。

「この“break a leg”って言うのは“good luck”と同じで、“幸運を祈る”とか“頑張れ”って意味になるんだ」

 そう解説をすると、りせは納得がいかないとでも言いた気な様子で首を捻った。

「何で一々違う言い回しするんだろ……。
 全部“good luck”にしちゃえば良いのに。
 てか、何で“break a leg”でそんな意味になるの?
 普通に訳したら“足を折れ”、じゃん」

 確かに。
 この手の言い回しとやらは、そう訳す理由が分からない時も多い。
 そういうものなのだと割り切って覚えるのも一つの手ではある。
 が、取り敢えずは解説してみよう。

「この言い回しの由来には様々な説があるんだ。
 舞台演劇とかでは“good luck”って言葉は逆に悪い事を招くって迷信があるから逆に悪い意味の言葉にしたとか、カーテンコールの舞台挨拶の時に片足を折って礼をする事から何度もカーテンコール出来る位流行りますようにって意味だとか、或いはヘブライ語の響きから取ってきたとか、ね」

 “break a leg”は言い回しの由来がよく分からない成句である。
 一応世にある通説を幾つか挙げてみたが、りせはムムムッと眉間に僅かに皺を寄せた。

「んーよく分かんないな」

 益々困惑してしまったのかもしれない。
 その気持ちは分かるが。
 僅かに苦笑しつつもりせに頷いた。

「まぁ、確かに。
 あぁ後、“break legs”にしちゃうと、“足を折れ”って意味にしかならなくなっちゃうからそこは注意しないといけないんだ」

「ええー、めんどくさい!
 単数形か複数形かの違いしか無いじゃん!」

 時に間違えてしまいかねない部分を先に注意すると、りせはぶうたれるかの様に単語に文句を言う。
 非英語圏の人間からすれば実際そんなに大した違いは無いのだし、口語なんて割りと適当な言い回しでも意味が通じたりする事も多いのではあるが、どうもこういう部分に関しては厳しい様だ。

「諺とかみたいなものだから、特定の単語の組合わせじゃないと意味が違ってきちゃうからだろうな。
 この件に関しては素直に覚えるしか無いと思う」

 そう言うと、「はーい、頑張りまーす」と素直にりせは返事をする。
 そしてふと黙ったままの巽くんに目をやると、巽くんは問題を前にフリーズしていた。
 手元のノートを覗き込むと、僅かに震える鉛筆によって、意味を成さないグチャグチャの線がノートの片隅に踊っている。
 今巽くんが解いてるのは、基礎的な単語の和訳と発音の部分だ。
 あれか、頑張り過ぎて熱暴走して処理落ちしたのか。

 ……割りと前途は多難だな、と僅かに心中で溜め息を溢す。
 勉強会はまだまだ終わりそうになかった。





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 日が暮れ始めた辺りで勉強会はお開きになり、家へと帰る。
 そして夕飯を用意してから病院清掃のバイトへと向かい、何時もの仕事をこなした。

 …………。
 ……何時ものソファーに神内さんの姿は見えない。
 単純に夜勤では無いだけの事なのかもしれないし、忙しくて手が離せないだけなのかも知れないが……。
 ……気にはなるが、自分にどうにか出来る事でも無いのではないか……。
 そう悩みつつもバイトを上がり、制服から着替えて帰ろうとしていると、休憩室の近くで看護師さん二人が立ち話している所に出会した。
 邪魔するのも悪いので、そのまま立ち去ろうとしたのだが。
 ふと耳に飛び込んできた言葉に思わず足を止めた。

「この前救急に運ばれてきた家族、覚えてる?」

 救急……。
 その言葉で頭に浮かぶのは神内さんだった。
 ……別に救急に人が運ばれてくるのは何時もの事だろうし、その家族を神内さんが治療したとも限らない。
 関係無い話なのかもしれない。
 だけど……。
 微かに引っ掛かる部分が、その場から足を動かさなかった。

「家族……、あぁ、交通事故で一家四人が運ばれてきた時のね。
 それがどうかしたの?」

 交通事故……。
 そう言えば最近、ローカルのニュース番組で稲羽近郊で交通事故が起きたと報道していたな、と微かに思い出した。
 悲しい事に、交通事故自体は珍しいものでも何でも無い。
 余程の大事故であるか当事者か関係者でも無い限りは、交通事故のニュースなんてその大半は直ぐに脳裏から消えていってしまう。
 特に、つい先日諸岡先生の件があったばかりなのだ。
 その事故の印象が自分の中では極めて薄くなっていたので、思い出すのに時間がかかった割りには大した事は思い出せなかった。

 看護師さん達の話は、まだまだ続く。

「脳外の方からの話じゃ、母親と長男の意識が回復したそうよ」

 そう聞くと、聞き手に回っていた看護師はほっとした様に僅かに安堵の表情を見せた。

「あら、それは良かったわ。
 酷い事故だったものね……。
 やっぱり、処置に当たっていた神内先生のお陰かしら」

 “神内先生”と言う言葉に、人知れず僅かに肩が跳ねる。
 ……やはり、神内さんの様子がおかしかった事に関係があるのでは無いか……?
 立ち聞きなど良い趣味とは言えないが、それでもその場から動けなかった。

「きっとそうね。
 あんなにバイタルが悪化していた患者をあそこまで持ち直させられたのは、神内先生のお陰だと思うわ。
 ……でも、次男の子の方の容態は思わしく無いみたい……」

 その子の話題になった途端、二人とも表情に翳りを見せる。

「……頭を強く打って、脳挫傷になっていたものね……」

「脳外の先生達も手を尽くしているそうなのだけど……、脳内血腫の範囲が広いらしくて……」

「まだ5歳の子なのに……。
 ご家族も辛いでしょうね……」

 ……神内さんの様子がおかしかったのは、その子の事があったからなのだろうか……。
 ……関係あるのかも知れないし、無いのかも知れない。
 それは自分には分かり様の無い事ではある。
 だが……。

 その後少しして看護師さんたちも立ち去っていったので、自分もその場を後にした。





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