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彼岸と此岸の境界線

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【2011/07/12】


 今日も巽くんに勉強を教える事になっている。
 ……のだが、花村たっての頼みで、花村と巽くんとの三人での勉強会になった。
 どうやら、数学で分からない部分があったらしい。
 二年生のテスト範囲に入っているのは、“数列”と“微分・積分”だ。
 花村曰く、どうにも“微分・積分”が苦手な様で、自力での勉強に限界が訪れたらしい。
 そんな訳で、巽くんに生物と化学を教える傍らで花村と数学の勉強をする事になったのである。

「それで、どの辺りを教えて欲しいんだ?」

 巽くんにテスト範囲を纏めたノートを渡しつつ、そう花村に訊ねた。
 “微分・積分”と一口に言っても、範囲はそこそこある。
 苦手苦手と花村は言うが、巽くん程壊滅的に苦手な訳でも無いのだろう。多分。
 分からない部分だけをピンポイントで教えた方が早い。

「あー、ここん所なんだけど……」

 花村が提示したのは、積分を応用で解く問題だった。
 …………。成る程。
 花村のノートを見せて貰った感じだと、基礎はちゃんと分かっている様である。
 だが、それを応用する……のは苦手なのだろう。
 しかしこれならば、解き方やヒントをある程度提示しておけば、そこそこ得点出来る様になる感じである。

「その問題は、まずこの部分をkと置いて、それからkの中身を計算すれば良いんだ」

「あー、えーっと、こんな感じか?」

 式をノートに書きこみながら訊ねてきた花村に頷いた。
 花村は暫く考え込むかの様にシャーペンをクルクルと回していたが、ふと閃いた様で、一気にペンを走らせる。
 解けなかった問題に答えを出せた達成感からか、やや満足気な顔をしている花村の解答は、見事に正解していた。
 何度かそんな風にヒントを出しつつ花村の勉強を見ていると、横でまとめノートを必死に見ていた巽くんが、突如限界を迎えた機械か何かの様にオーバーヒートしてダウンしてしまう。
 プスプスと立ち上る煙を思わず幻視してしまう程の有り様だ。

「巽くん、大丈夫か……?」

 流石に心配になって訊ねてみると、「う……ウス」と生気の無い返事が返ってくる。
 中々に重症だ。
 一気に情報を詰め込もうとして容量オーバーになってしまったのだろうか。
 ……丁度花村の方の勉強も一区切り付いたのだし、今日はここまでで勉強会を切り上げる事にしよう。

 若干虚ろな目になっている巽くんと、それを少し心配そうに見ている花村に別れを告げて、一旦家へと帰った。





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 この時期、テストに追われているのは何も高校生だけでは無い。
 夏休み前と言う時期は、大体全国的に中高生や大学生もテストに追われているのである。
 中島くんもまたテストに追われる学生の一人だ。

 期末テストが近付いてきたからか、中島くんの表情は堅い。
 中島くんの期末テストは明後日なのだそうだ。
 今晩は中島くんの要望に答えてテスト範囲を一通り浚う事にした。
 中島くんの質問も、出題されそうな範囲に絞られている。
 休憩時間も、中島くんの表情は強張ったままだ。 
 その表情は暗く、視線は下へと向けられている。

「……期末テスト、もう直ぐです。
 今回、範囲が広くて……。
 ……あ、まあ、今回もトップですけど。
 ……負けないし……絶対」

 そう口にはしながらも、俯く中島くんは不安を隠し切れていなかった。
 見ていて不安になる位に、キュッと膝の上で握られた手は微かに震えている。
 そして突然、ふと顔を上げて中島くんはこちらに訊ねてきた。

「……ね、先生。
 成績良くて、スポーツも出来て、話が面白くて、顔も良い……。
 そんなヤツ、見た事ある?」

 何故そんな事を唐突に訊ねてきたのか、その意図は分からないが。
 中島くんに問われ、記憶を探る。

「あるよ。男子でも女子でもね」

 例えば、こっちに来てからの友人だと一条がそれに当てはまるだろう。
 一条は、成績はかなり良い方だと思うし、スポーツは勿論良く出来るし、一緒に話していて飽きないし、顔については人によって好みがあるから一概には何とも言えないが所謂イケメンと称しても問題ない顔だとも自分は思う。
 稲羽に来る前の友人にも、それに該当しそうな人は大勢いる。
 そう答えると、何故か中島くんの表情は翳りを見せた。
 そして、中島くんの視線が膝の上の己の手に向かっている。

「……そうなんだ。
 ……最近、夢を見るんです。
 電車の先頭車両に乗ってる夢で……。
 ……行き先が真っ暗で分からないのに、電車のスピードはどんどん上がっていく。
 ドアが開かないから、降りる事も出来ない。
 なのに、後ろの車両から誰かが来るんだ……。
 車両を繋ぐドアが開く音と、段々近付いてくる足音がして……。
 近付いてくるのが誰なのか分からないけど、……凄く恐くて……。
 ……その夢を見る度に、一両ずつ、近付いてくるんだ……」

 ……それは……。
 心理学の所謂夢診断とされる分野にはあまり造詣が深くないので確かな事は言えないが……。
 確か“電車”には全体的に目標とか人生の先行きと言う意味があるらしい。
 行き先不明の電車、とは、自分の目標等も先行き不明な状況、とも考えられる。
 そして、“何かに追いかけられ、逃げようとしても逃げられない”と言うのは、何かしらの固定観念に囚われていてそれに苦しめられている状態だと解釈される事もあるらしい。
 …………。

「中島くん、きっと疲れているんだよ」

 気休めの様なそんな言葉しか、かけてあげる事が出来なかった。
 そんな言葉に、暗い顔で中島くんは頷く。

「うん……。
 眠る時位、休みたいんだ。
 解放されたいのに……」

 解放されたい……、か……。
 つまりそれは……。

「……一番じゃない僕は……」

 中島くんは思い詰めた様な顔をして、自分の手を見詰めている。
 一番では無いのなら……、か。
 ……“一番”と言う言葉で思い浮かぶのは、中島くんのお母さんだ。

「……悩み事があるのなら、私に話してみない?」

 思わず、そう声を掛けた。
 中島くんが思い悩んでいるのは確実だ。
 そして、その悩みの内容や理由に心当たりが無い訳では無い。
 中島くんがこれ以上思い詰めて自分を追い詰める前に、何とかしてあげたかった。
 差し当たっては、悩みを話して貰う事から始めるべきだと、そう考えたのだが……。

「……悩み事なんて、無いよ」

 中島くんはそっと首を横に振った。
 ……とてもそうは見えないと言うのに……。
 ……相談するつもりは無いらしい。

 何故、と言う顔をしていたからだろうか、中島くんはポツリと付け加えた。

「……先生に嫌われたら、嫌だから」

「……どんな悩み事でも、私は中島くんを嫌ったりなんてしないよ」

 そもそも、まだ何の相談もされて無いのに、嫌われると思われているのは流石に心外だ。
 しかし中島くんはダメとばかりに小さく首を振った。
 そして、ぎこちないながらも必死に笑おうとする。
 だが結局は上手くいかず、中島くんは話題を変えた。

「あの、……テレビで見たんだけど、一昨日殺された人って、八高の教師だったって」

 ……その“容疑者”が高校生だとは、白鐘くんがまだメディアには伏せられていると言っていた通りに、何処のメディアでも報道はしていなかったが。
 三件目の殺人事件に、何処のメディアも騒いでいる。
 ついこの前までは、前二件の事件の話題がテレビに出る事はほぼ無かったと言うのに……。
 そして、被害者である諸岡先生の事も、広くメディアが報じているのであった。

「……うん。
 私のクラスの、担任の先生だったんだ」

 そう頷くと、中島くんは少し「しまった」と言いた気な顔になる。
 が、この話題を続ける事にした様だ。

「……そう、なんだ。
 あの……どんな人、だったんですか……。
 いや、あの……殺されたから気になったとかじゃ無いんですけど……」

 メディアでも多少は報じられてはいるが、その何れもが諸岡先生の極めて一側面だけを報じていた。
 まあ、テレビ報道なんて、大体はそんなものではあるのだけれど……。

「……悪い先生では、決して無かったよ。
 まあ、厳しい部分は確かにあったし、口煩いタイプの先生だったから、生徒には不評だったけど……。
 ……でも、生徒の事を顧みない先生じゃ無かったし、……仕事にはとても真面目な人だった」

 昨晩の高山の姿が脳裏に浮かんだ。
 ああやって、その死を悼んでくれる人も居るのだ。
 諸岡先生が、決してただの嫌われものでは無かった事を、中島くんにも伝えたかった。

「……あの、先生は……悲しかったですか……?」

 メディアのインタビューなんかの無神経なモノではなく、ただただ……こちらの気持ちを問うてきた中島くんに、確と頷く。

「……哀しかったよ……。
 ……私は知らなかったんだけどね、諸岡先生は進路指導の先生もやってたみたいなんだ。
 ……結局、私は諸岡先生から進路指導される事は無かったんだけど……。
 ……受けてみたかったな……」

 もうそれは叶わないのだが……。
 …………。

「そうなんだ……」と呟いた中島くんは、暫くの間沈黙した。
 そして、もうそろそろ家庭教師の時間が終わるという頃になって、漸く口を開く。

「テスト終わって夏休みになったら、……夏期講習で沖奈まで行かないといけなくなったから……。
 夏休み中は、家庭教師、頼めないですね……。
 ……夏休み明け、またお願いします」

 中島くんは心細そうな顔をして、そう頭を下げてきた。

「分かった。じゃあ、夏休み明けに、また。
 ……夏バテとか、体調には気を付けてね」

「……はい。
 ……今日は、久し振りにゆっくり寝られる気がします。
 ……それじゃ」

 その日はそこで中島くんの家を後にした。





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