彼岸と此岸の境界線
◆◆◆◆◆
【2011/07/07】
昼休み。
とても珍しい事に、小西くんが態々二年生の教室が並ぶ二階にまでやって来て、何かの決意をした様な面持ちでこちらに声をかけてきた。
「あの、鳴上さん。
放課後……ちょっと、一緒に来て貰いたい所があるんですけど、良いですか?」
勿論了承し、放課後になり帰り支度を済ませてから、下駄箱の所で待ち合わせをしていた小西くんの先導で、ある場所に向かった。
小西くんに連れてこられたその場所は……。
……小西先輩の遺体が発見された電柱のある、あの十字路だった。
あの事件が起きてから、この場所にはほぼ絶える事無く花束が置かれている。
今日置かれているのは、輪菊と小菊がメインの花束だ。
「……ここ、ですよね。
……姉ちゃん、見付かったの……。
………………」
数ヶ月前には小西先輩の遺体が吊り下げられていた電柱を、ただただ黙って見上げていた小西くんは、そう言いながら視線を下げてこちらに向き直った。
自分とて直接見た訳ではないから確たる事は言えないが、そうらしい、と小西くんに小さく頷く。
すると、小西くんは一度俯き、そしてギュッと拳を握った。
そして僅かに震える声で、自分の中から言葉を手探りで探しているかの様に、己の思いを語る。
「……ここ、ずっと通れませんでした。
……姉ちゃんの事思い出すのも、どんな風に……吊るされていたんだろうとか、……思うのも、恐くて……。
でも、やっと、現実を受け入れられる気がするんです……」
…………。
小西くんは、先輩の事を考えてしまうのが、辛かったのだろう……。
……商店街との確執以上に……そこでバイトしていた先輩の事を思い起こしてしまうから、……だからジュネスに行く事も出来なかったのかも知れない。
だが、小西くんは自らの意志で一歩踏み出して……先輩が働いていた場所に行き、そして……《|先輩を知っている人《花村》》と出会った。
だからこそ、また一歩進もうとしたのかもしれない。
小西くんは顔を上げ、そしてまるで泣きそうな顔をして……そして涙声の様に感情で声を震わせる。
「……よく言うじゃないですか、テレビとかドラマとかで……。
悲しくて何日も泣き続けたとか、思い出が蘇って何も手に付かないとか……。
……でも俺は、そんな事全然無かった。
……何時もと同じでした……。
だから……、自分は冷たい人間なんだって、……そう思ってました……。
ドラマの主人公たちみたいに泣けなかったから、姉ちゃんの事、好きじゃなかったんだって……、そう思いました……」
小西くんの言葉に、僅かに目を閉じて首を横に振った。
物語の人間たちの様に表現出来なかったからと言って、小西くんが先輩の死を哀しんで無い等とは、到底考えられない事だった。
例え誰がそれを否定したのだとしても。
小西くんと共に過ごした時間の中で自分は確かに、小西くんが抱えている、表面上の言葉や態度には表れない哀しみを感じていたのだから。
「……悲しみ方なんて、人各々だよ。
小西くんの悲しみ方は、不器用なのかもしれないけれども」
想いに、絶対等とは無い。
“AだからB、CでないならDでは無い”などとハッキリとは、言えないモノだ。
小西くんは、確かに涙を溢したりしていた訳では無かったのかもしれない。
だけど……。
先輩の事を、過去として語る事が出来なかったり……。
そして、先輩を想起させる場所には行けなかったり、と。
……確かに小西くんは、先輩の……自分の姉の死を、悼んでいたのだ。
そう言うと、少し気恥ずかしそうに小西くんは笑って頷いた。
「……はい、ホント……そうですよね……。
鳴上さんと話してて……やっと、ちょっとずつ、分かってきたんです」
そして、ギュッと自分を抱える様に腕を掴んで小西くんは俯く。
「俺、姉ちゃんの事、考えない様にしてたんすね……。
姉ちゃんの事考えて辛くなる位なら、自分を冷たい人間だと思う方が、簡単だったんすね……。
そうやって逃げて……逃げて逃げて、姉ちゃんの事、全然考えてあげなかった」
溢れ出す感情に次第に声を震わせながら、小西くんは泣く様に、ずっと己の内に沈めていた思いを吐き出した。
「……きっと、もっと生きたかったですよね」
……感情に身を震わせる小西くんに、そっと頷く。
……ああ、きっと……。
……きっと、……小西先輩は、もっと生きていたかっただろう……。
……直接会ってそう訊ねた訳では無いが、確信を持って何度も頷く。
「ああ、そうだね……。
きっと、生きていたかったよ……」
花村や小西くんの様に、「生きてて欲しかったのだ」と、そう想いを溢す人が居るのだ。
きっと、きっと……。
死にたくなんて、無かっただろう……。
小西くんは声を上げて、大粒の涙を目に浮かべた。
「姉ちゃん……可哀想です……。
もっと、生きてて欲しかった……。
生きてて、欲しかったです……」
唇を噛み締めて泣く小西くんを、そっと抱き締める様にして、その頭を優しく撫でる。
……自分は、小西先輩を助ける事が出来なかった事を。
「どうする事も出来なかった事だ」と諦めて……そして何処か無意識の内にそれ以上は考えない様にしていた。
【犯人】を追う事に、新たにターゲットにされた被害者を助ける事に、意識が向いていた。
……それは確かだ。
……実際の所は、あの時点で自分達が小西先輩を助けられたとは、あまり思えない。
何かの歯車がズレていて、もし、あの世界に放り込まれた直後の先輩と出会えていたのだとしても。
あの段階では非戦闘員だった花村と里中さんを抱えた状態で、まだ不慣れなペルソナの力で、小西先輩のシャドウと戦えていたのかどうかは、自分達に都合よく考えても五分五分……、実際の勝算はかなり低かっただろう。
死体が一人から四人分に増えるだけの結果に終わっていたのかもしれない。
全ては既に終わってしまった事で、今更何を考えた所で、不毛な“たられば話”にしかならないが。
それでも。
……被害者の人を頭の片隅に追いやって、助けられなかった事に言い訳を連ねて誤魔化し続ける様な……。
こんな非情な自分であっても。
今ここで、漸く自分自身に、涙を流す事を許してあげられた小西くんに。
慰めの言葉をかける程度なら、赦されるのではないだろうか。
「思う存分、泣けば良い」
ポンポンと、菜々子にしてあげる時の様に、震える小西くんの背中を撫でた。
ポロリポロリと溢れていた雫は、やがて滂沱と降り頻る涙の雨となって小西くんの頬を濡らす。
まるで、今まで心の奥底へと沈めていた哀しみが、堰を切って流れ出したかの様に……。
「俺、初めて泣いてる……。
は、はは……う、うううっ……」
しゃくり上げて涙を溢し続ける小西くんは、暫しの間、しがみつく様にしてこちらの胸を借りていた。
そして、溢れ出る涙が少し止まり始めた頃合いで、ふと我に返った様に小西くんは慌ててこちらから離れる。
涙で赤く潤んだ目で、小西くんは軽く頭を下げた。
「あの、えっと……何かすみません。
……でも、ありがとうございました。
……俺、やっと……。
……やっと、素直に、悲しいって、思った……。
やっと……、ちゃんと、泣いてあげられた……」
……一歩、また新たに進めたからだろうか。
小西くんの表情からは、ずっとあった鬱屈した何かが、拭い取られたかの如く消え去っている。
ふと見上げた夕空は、空を厚く覆っていた雲が途切れ、綺麗な夕日がそこから顔を覗かせていた。
その夕陽に、小西くんは眩しそうに目を細める。
小西くんは、もう一度電柱を見上げ、何かを想うかの様に少しの間目を閉じた。
「鳴上さん、今日はありがとうございました。
俺、家族と、ちゃんと話してみます。
姉ちゃんの事とか……色々」
また新たに踏み出す決意を固めた顔の小西くんに別れを告げ、その日は家に帰った。
◆◆◆◆◆
今日は七夕だ。
しかし、生憎今日は昼夜を通して曇っている為、外に出て夜空を見上げても、ベガとアルタイルどころか天の川すらもよく見えない。
「空、くもっててみえないね。
おりひめさまとひこぼしさまは会えたのかな……」
縁側から一緒に空を見上げている菜々子が、少し心配そうな顔でそう呟く。
そんな菜々子の純粋な優しさを眩しく思いながら、恐らくはベガとアルタイルがあるであろう辺りを指で指した。
「きっと会えてるよ。
……今夜の夜空が曇ってるのはね、一年に一晩だけの再会を、織姫様と彦星様が二人だけでゆっくりと過ごしたいからなんだって」
そして菜々子の頭を優しく撫でながら、昔、自分が母さんに言われたのと同じ様に返す。
すると、菜々子は安心した様に笑った。
「そうなんだ! 良かったぁ……!
あのね、お姉ちゃん。
たなばたの日は、たんざくにねがいごとを書いたらかなうんだって、知ってた?」
目を輝かせてそう訊ねてくる菜々子に、知ってるよ、と頷く。
数日前に、学校の敷地内の片隅にある竹藪から、ちゃんと許可を取って持ってきた笹には、菜々子や叔父さんと一緒に書いた短冊が既に沢山下げられていた。
何を書いたのか、菜々子は書いてる最中は頑なに隠していたが。
『せかいへーわ』や『かないあんぜん』と言った短冊たちに隠される様に、『お父さんがケガしませんように』や『お姉ちゃんができてうれしいです』と言った短冊が下げられているのを、既に叔父さんと二人で発見していた。
なお、自分は菜々子の短冊の横に『菜々子ともっと一緒に過ごせます様に』と吊るしてある。
暫く曇った夜空を二人で見上げていたが、家庭教師のバイトに行かなくてはならない時間が迫ってきたので、菜々子に戸締まりする様に言ってから家を出て行った。
◆◆◆◆◆
数学を中心に教えていると、中島くんは解法で使われていた『メネラウスの定理』を指差して訊ねてきた。
「……この公式、今まで丸暗記してただけなんですけど、どうしてこれをここで使うんですか?」
その問題は、一見図形の問題では無い様に見えるが、実は『メネラウスの定理』を用いると驚く程簡単に答えを導ける、というものである。
その問題において定理を使う発想の仕方を解説すると、中島くんは酷く感心した様に何度も頷いた。
「公式一つ取っても、考える事って一杯あるんですね。
編み出した昔の人、天才です。
……僕も、天才に生まれてくれば良かったかな……」
そう言って、何事かに思い悩むかの如く暗い顔をし、中島くんは僅かに顔を俯かせる。
そんな彼の言葉に、小さく首を横に振って答えた。
「……そうやって公式を見つけ出した人達だって、皆が皆天才だった訳じゃないよ。
それに、公式とか……新しい発見をした訳じゃなくても、凄い事をした人だっている。
……努力で、誰にも負けない位の凄い事を成し遂げた人だって居るんだよ」
どんな分野にだって才ある人間と言うのは存在する。
……その分野に進んだ時、自分よりも才ある人間を羨む事はよくある事なのだろう。
だけれども。中島くんはまだ広く学んでいる最中だ。
そこで、数学史に名を残す偉人たちと自分を比べて落ち込む必要など、何処にも無いのではないだろうか。
それに。名を残しているのは何も天才たちだけでは無い。
天才で無い事を、今思い悩む必要などは無いだろう。
「……天才って、努力でなれるものなんですか?
……努力は結構、してると思うけど。
……足りないのかな……」
努力の多寡の問題でも無いのだけれども……。
……いや、中島くんのこの悩みの根幹は、……きっとそう言う才能云々の話では無いのだろう。
……学校での事と言い、お母さんからの期待と言い……。
何かと悩み事が多いと言うのも、大変である。
「……すみません、今日は疲れたんで、残りの勉強は次回でお願いできますか?」
中島くんの顔色は悪い。
中島くんが自分から勉強を中断する様に頼んでくるのは、初めての事である。
……勿論了承して、解いていた問題集を閉じた。
「……先生、何か話、して下さい」
バイト終了の時間まではまだ少しあるので、それまでは雑談に興じる事にする。
中島くんに頼まれて、自分の話をする事にした。
それを聞いていて楽しいのかどうかは不明だが、中島くんは色々と興味深そうに聞いている。
「へー……、意外。
って言うか、凄く、意外です」
バイト終了の時間間際になると、思い悩んで固くなっていた表情にも、僅かながらも微笑みが浮かんでいた。
ふと壁に掛かっている時計を見上げた中島くんは、「あっ」と声を上げる。
「あ、すみません、こんな時間まで。
今日は……ありがとうございました。
久々に、リラックス出来た気がします。
また、色々と話して下さい。
知りたいです、先生の事」
中島くんの表情が少し和らいでいる事に安心し、その日はそこでバイトを終了した。
◆◆◆◆◆
【2011/07/07】
昼休み。
とても珍しい事に、小西くんが態々二年生の教室が並ぶ二階にまでやって来て、何かの決意をした様な面持ちでこちらに声をかけてきた。
「あの、鳴上さん。
放課後……ちょっと、一緒に来て貰いたい所があるんですけど、良いですか?」
勿論了承し、放課後になり帰り支度を済ませてから、下駄箱の所で待ち合わせをしていた小西くんの先導で、ある場所に向かった。
小西くんに連れてこられたその場所は……。
……小西先輩の遺体が発見された電柱のある、あの十字路だった。
あの事件が起きてから、この場所にはほぼ絶える事無く花束が置かれている。
今日置かれているのは、輪菊と小菊がメインの花束だ。
「……ここ、ですよね。
……姉ちゃん、見付かったの……。
………………」
数ヶ月前には小西先輩の遺体が吊り下げられていた電柱を、ただただ黙って見上げていた小西くんは、そう言いながら視線を下げてこちらに向き直った。
自分とて直接見た訳ではないから確たる事は言えないが、そうらしい、と小西くんに小さく頷く。
すると、小西くんは一度俯き、そしてギュッと拳を握った。
そして僅かに震える声で、自分の中から言葉を手探りで探しているかの様に、己の思いを語る。
「……ここ、ずっと通れませんでした。
……姉ちゃんの事思い出すのも、どんな風に……吊るされていたんだろうとか、……思うのも、恐くて……。
でも、やっと、現実を受け入れられる気がするんです……」
…………。
小西くんは、先輩の事を考えてしまうのが、辛かったのだろう……。
……商店街との確執以上に……そこでバイトしていた先輩の事を思い起こしてしまうから、……だからジュネスに行く事も出来なかったのかも知れない。
だが、小西くんは自らの意志で一歩踏み出して……先輩が働いていた場所に行き、そして……《|先輩を知っている人《花村》》と出会った。
だからこそ、また一歩進もうとしたのかもしれない。
小西くんは顔を上げ、そしてまるで泣きそうな顔をして……そして涙声の様に感情で声を震わせる。
「……よく言うじゃないですか、テレビとかドラマとかで……。
悲しくて何日も泣き続けたとか、思い出が蘇って何も手に付かないとか……。
……でも俺は、そんな事全然無かった。
……何時もと同じでした……。
だから……、自分は冷たい人間なんだって、……そう思ってました……。
ドラマの主人公たちみたいに泣けなかったから、姉ちゃんの事、好きじゃなかったんだって……、そう思いました……」
小西くんの言葉に、僅かに目を閉じて首を横に振った。
物語の人間たちの様に表現出来なかったからと言って、小西くんが先輩の死を哀しんで無い等とは、到底考えられない事だった。
例え誰がそれを否定したのだとしても。
小西くんと共に過ごした時間の中で自分は確かに、小西くんが抱えている、表面上の言葉や態度には表れない哀しみを感じていたのだから。
「……悲しみ方なんて、人各々だよ。
小西くんの悲しみ方は、不器用なのかもしれないけれども」
想いに、絶対等とは無い。
“AだからB、CでないならDでは無い”などとハッキリとは、言えないモノだ。
小西くんは、確かに涙を溢したりしていた訳では無かったのかもしれない。
だけど……。
先輩の事を、過去として語る事が出来なかったり……。
そして、先輩を想起させる場所には行けなかったり、と。
……確かに小西くんは、先輩の……自分の姉の死を、悼んでいたのだ。
そう言うと、少し気恥ずかしそうに小西くんは笑って頷いた。
「……はい、ホント……そうですよね……。
鳴上さんと話してて……やっと、ちょっとずつ、分かってきたんです」
そして、ギュッと自分を抱える様に腕を掴んで小西くんは俯く。
「俺、姉ちゃんの事、考えない様にしてたんすね……。
姉ちゃんの事考えて辛くなる位なら、自分を冷たい人間だと思う方が、簡単だったんすね……。
そうやって逃げて……逃げて逃げて、姉ちゃんの事、全然考えてあげなかった」
溢れ出す感情に次第に声を震わせながら、小西くんは泣く様に、ずっと己の内に沈めていた思いを吐き出した。
「……きっと、もっと生きたかったですよね」
……感情に身を震わせる小西くんに、そっと頷く。
……ああ、きっと……。
……きっと、……小西先輩は、もっと生きていたかっただろう……。
……直接会ってそう訊ねた訳では無いが、確信を持って何度も頷く。
「ああ、そうだね……。
きっと、生きていたかったよ……」
花村や小西くんの様に、「生きてて欲しかったのだ」と、そう想いを溢す人が居るのだ。
きっと、きっと……。
死にたくなんて、無かっただろう……。
小西くんは声を上げて、大粒の涙を目に浮かべた。
「姉ちゃん……可哀想です……。
もっと、生きてて欲しかった……。
生きてて、欲しかったです……」
唇を噛み締めて泣く小西くんを、そっと抱き締める様にして、その頭を優しく撫でる。
……自分は、小西先輩を助ける事が出来なかった事を。
「どうする事も出来なかった事だ」と諦めて……そして何処か無意識の内にそれ以上は考えない様にしていた。
【犯人】を追う事に、新たにターゲットにされた被害者を助ける事に、意識が向いていた。
……それは確かだ。
……実際の所は、あの時点で自分達が小西先輩を助けられたとは、あまり思えない。
何かの歯車がズレていて、もし、あの世界に放り込まれた直後の先輩と出会えていたのだとしても。
あの段階では非戦闘員だった花村と里中さんを抱えた状態で、まだ不慣れなペルソナの力で、小西先輩のシャドウと戦えていたのかどうかは、自分達に都合よく考えても五分五分……、実際の勝算はかなり低かっただろう。
死体が一人から四人分に増えるだけの結果に終わっていたのかもしれない。
全ては既に終わってしまった事で、今更何を考えた所で、不毛な“たられば話”にしかならないが。
それでも。
……被害者の人を頭の片隅に追いやって、助けられなかった事に言い訳を連ねて誤魔化し続ける様な……。
こんな非情な自分であっても。
今ここで、漸く自分自身に、涙を流す事を許してあげられた小西くんに。
慰めの言葉をかける程度なら、赦されるのではないだろうか。
「思う存分、泣けば良い」
ポンポンと、菜々子にしてあげる時の様に、震える小西くんの背中を撫でた。
ポロリポロリと溢れていた雫は、やがて滂沱と降り頻る涙の雨となって小西くんの頬を濡らす。
まるで、今まで心の奥底へと沈めていた哀しみが、堰を切って流れ出したかの様に……。
「俺、初めて泣いてる……。
は、はは……う、うううっ……」
しゃくり上げて涙を溢し続ける小西くんは、暫しの間、しがみつく様にしてこちらの胸を借りていた。
そして、溢れ出る涙が少し止まり始めた頃合いで、ふと我に返った様に小西くんは慌ててこちらから離れる。
涙で赤く潤んだ目で、小西くんは軽く頭を下げた。
「あの、えっと……何かすみません。
……でも、ありがとうございました。
……俺、やっと……。
……やっと、素直に、悲しいって、思った……。
やっと……、ちゃんと、泣いてあげられた……」
……一歩、また新たに進めたからだろうか。
小西くんの表情からは、ずっとあった鬱屈した何かが、拭い取られたかの如く消え去っている。
ふと見上げた夕空は、空を厚く覆っていた雲が途切れ、綺麗な夕日がそこから顔を覗かせていた。
その夕陽に、小西くんは眩しそうに目を細める。
小西くんは、もう一度電柱を見上げ、何かを想うかの様に少しの間目を閉じた。
「鳴上さん、今日はありがとうございました。
俺、家族と、ちゃんと話してみます。
姉ちゃんの事とか……色々」
また新たに踏み出す決意を固めた顔の小西くんに別れを告げ、その日は家に帰った。
◆◆◆◆◆
今日は七夕だ。
しかし、生憎今日は昼夜を通して曇っている為、外に出て夜空を見上げても、ベガとアルタイルどころか天の川すらもよく見えない。
「空、くもっててみえないね。
おりひめさまとひこぼしさまは会えたのかな……」
縁側から一緒に空を見上げている菜々子が、少し心配そうな顔でそう呟く。
そんな菜々子の純粋な優しさを眩しく思いながら、恐らくはベガとアルタイルがあるであろう辺りを指で指した。
「きっと会えてるよ。
……今夜の夜空が曇ってるのはね、一年に一晩だけの再会を、織姫様と彦星様が二人だけでゆっくりと過ごしたいからなんだって」
そして菜々子の頭を優しく撫でながら、昔、自分が母さんに言われたのと同じ様に返す。
すると、菜々子は安心した様に笑った。
「そうなんだ! 良かったぁ……!
あのね、お姉ちゃん。
たなばたの日は、たんざくにねがいごとを書いたらかなうんだって、知ってた?」
目を輝かせてそう訊ねてくる菜々子に、知ってるよ、と頷く。
数日前に、学校の敷地内の片隅にある竹藪から、ちゃんと許可を取って持ってきた笹には、菜々子や叔父さんと一緒に書いた短冊が既に沢山下げられていた。
何を書いたのか、菜々子は書いてる最中は頑なに隠していたが。
『せかいへーわ』や『かないあんぜん』と言った短冊たちに隠される様に、『お父さんがケガしませんように』や『お姉ちゃんができてうれしいです』と言った短冊が下げられているのを、既に叔父さんと二人で発見していた。
なお、自分は菜々子の短冊の横に『菜々子ともっと一緒に過ごせます様に』と吊るしてある。
暫く曇った夜空を二人で見上げていたが、家庭教師のバイトに行かなくてはならない時間が迫ってきたので、菜々子に戸締まりする様に言ってから家を出て行った。
◆◆◆◆◆
数学を中心に教えていると、中島くんは解法で使われていた『メネラウスの定理』を指差して訊ねてきた。
「……この公式、今まで丸暗記してただけなんですけど、どうしてこれをここで使うんですか?」
その問題は、一見図形の問題では無い様に見えるが、実は『メネラウスの定理』を用いると驚く程簡単に答えを導ける、というものである。
その問題において定理を使う発想の仕方を解説すると、中島くんは酷く感心した様に何度も頷いた。
「公式一つ取っても、考える事って一杯あるんですね。
編み出した昔の人、天才です。
……僕も、天才に生まれてくれば良かったかな……」
そう言って、何事かに思い悩むかの如く暗い顔をし、中島くんは僅かに顔を俯かせる。
そんな彼の言葉に、小さく首を横に振って答えた。
「……そうやって公式を見つけ出した人達だって、皆が皆天才だった訳じゃないよ。
それに、公式とか……新しい発見をした訳じゃなくても、凄い事をした人だっている。
……努力で、誰にも負けない位の凄い事を成し遂げた人だって居るんだよ」
どんな分野にだって才ある人間と言うのは存在する。
……その分野に進んだ時、自分よりも才ある人間を羨む事はよくある事なのだろう。
だけれども。中島くんはまだ広く学んでいる最中だ。
そこで、数学史に名を残す偉人たちと自分を比べて落ち込む必要など、何処にも無いのではないだろうか。
それに。名を残しているのは何も天才たちだけでは無い。
天才で無い事を、今思い悩む必要などは無いだろう。
「……天才って、努力でなれるものなんですか?
……努力は結構、してると思うけど。
……足りないのかな……」
努力の多寡の問題でも無いのだけれども……。
……いや、中島くんのこの悩みの根幹は、……きっとそう言う才能云々の話では無いのだろう。
……学校での事と言い、お母さんからの期待と言い……。
何かと悩み事が多いと言うのも、大変である。
「……すみません、今日は疲れたんで、残りの勉強は次回でお願いできますか?」
中島くんの顔色は悪い。
中島くんが自分から勉強を中断する様に頼んでくるのは、初めての事である。
……勿論了承して、解いていた問題集を閉じた。
「……先生、何か話、して下さい」
バイト終了の時間まではまだ少しあるので、それまでは雑談に興じる事にする。
中島くんに頼まれて、自分の話をする事にした。
それを聞いていて楽しいのかどうかは不明だが、中島くんは色々と興味深そうに聞いている。
「へー……、意外。
って言うか、凄く、意外です」
バイト終了の時間間際になると、思い悩んで固くなっていた表情にも、僅かながらも微笑みが浮かんでいた。
ふと壁に掛かっている時計を見上げた中島くんは、「あっ」と声を上げる。
「あ、すみません、こんな時間まで。
今日は……ありがとうございました。
久々に、リラックス出来た気がします。
また、色々と話して下さい。
知りたいです、先生の事」
中島くんの表情が少し和らいでいる事に安心し、その日はそこでバイトを終了した。
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