ギムルキ短編
◆◆◆◆◆
ギムレーがそれに気付いたのは、ただの偶然であった。
自身が身に纏っているローブの胸ポケットに、何かの小箱の様なモノがあった。
はて、自分はそんな場所に「何か」を入れていただろうかと。
ポケットの中からその小箱を取り出して中を確かめると。
そこに、在ったのは。
曇りなく銀に輝く、一つの「指輪」であった。
飾り気は少なく、豪奢な煌びやかさと言うモノには乏しいが。
しかし、指輪の表層に細かく彫り込まれたその意匠は、女性的なもので。
指輪の質自体はかなり良いモノであり、一見質素に見えるのはそれの持ち主……正確にはそれを贈る予定であった相手の好みと性格に合わせたからであった。
まだ、こんな所に残っていたのかと。
その「指輪」を手の中で転がす様にしながら見詰めていたギムレーは僅かに嘆息し。
そして、未練がましくも思うその感傷を自嘲する。
それは……、かつて自分がまだ『ルフレ』と……そう呼ばれていた頃に。
想い結ばれていた相手へ、何時か戦いの日々が終わったその時に誓いと共に贈ろうと。
そう考えて、密かに準備していたモノだった。
……しかし、その「想い」は叶う事は無く。
「運命」を変える事は叶わず、『ルフレ』は『ギムレー』へと「覚醒」してしまった。
割れて中身を喪ってしまった卵を元に戻す事は誰にも出来ず。
人々を憎み生命を憎み世界を憎み……滅ぼし破壊し貶める事にしか最早悦びも何も感じる事の出来ない心へと変質してしまった『ギムレー』が、人々と共に生きていける可能性など何処にも無い。
今の『ギムレー』は、何れ程愛していてもその相手を殺し滅ぼす事しか出来ない、生けとし生ける全てと相容れぬ、世界にとっての厄災その物でしかないのだ。
最早自分は、彼女と共に生きる事は出来ない、相容れぬ「敵」なのである。
……それ処か、仮に今自分の目の前に彼女が現れたとして。
その彼女を、「彼女」として正しく認識出来るのかすら『ギムレー』には全く自信が無い事であるし……恐らくそれは不可能であろうと、諦めてもいた。
「邪竜」へと成り果て、「人間」であった時のそれから認知が変わってしまったのか。
今の『ギムレー』には、かつて『ルフレ』であった時の様に「人間」の区別を付ける事は、もう叶わない事となっていた。全て「同じ」にしか感じられないのだ。
例えば、「人間」が蟻の群れを見てその一個体一個体を認識しその差異を把握し識別出来るのかと言われれば。余程の物好きや研究者ならともかく、普通は不可能である様に。
今の『ギムレー』には、「人間」と言う存在はまさに、「人間」から見た時の「蟻」の様にしか感じられないし識別出来ないのだ。そこに「個」と言う概念は無い。
『ルフレ』であった頃親しかった相手を前にしても、恐らくは何も分からないであろう。
しかし、『ギムレー』と成っても『ルフレ』の記憶が全て消えてしまった訳でもない。
大切な友の事、大切な仲間の事、愛しい人の事。
楽しかった事、悲しかった事、悔しかった事、嬉しかった事、幸せであった事。
『ルフレ』として積み重ねてきたそれらを、『ギムレー』は全て覚えている。
……何もかも忘れ去る事も、或いは積み重ねてきたそれらに対しても何も感じられなくなった訳でも無い。……いっそ、そうであった方が幸せであったのかもしれないが。
だが、その記憶を保ち続けていても、今の自分は何もかもが変わってしまったのだ。
この目は最早、愛していた筈の彼等を「個」として認識は出来ないだろうし。
恐らく、半身である友を前にしてすら「人間」に対する憎悪と嫌悪感や嗜虐心は変わりはしないし、そもそも目の前のそれが友であるとすら認識出来ないかもしれない。
縦しんば、奇跡的に彼等を「個」として認識出来たとしても、自分はもう『ルフレ』であった時の様には生きられない。彼等を、喰い殺してしまいたくなるだけだ。
愛していた……今も大切に想う心も記憶もそこに在るのに。
それは、耐え難い程の絶望であり……同時に変える事の叶わない自分の本性であった。
人を滅ぼし世界を滅ぼして行くその過程で、人々が苦しみもがきながら絶望の内に死に絶えていくその様に喜悦を感じると同時に。『ルフレ』であった時の心の欠片は、今も消えぬ「記憶」は、その全てに絶望する。が、その絶望は、何も変えられない。
……そう遠くない内に、きっと自分は完全に狂い果てて、『ルフレ』であった時の「記憶」も何も喪うか……或いはそれに何も感じなくなるか、そうなってしまうのだろう。
それを苦しいとも悲しいとも、最早何も感じられない。
ただただ「そうなのか」と、絶望すらも無くその事実を静かに受け入れてしまう。
……その時には、完全に『ルフレ』と言う存在の名残は消え果てるのだろう。
……もし、『ギムレー』に「覚醒」しなければ、「運命」を変える事が出来たのならば。
今も自分は、『ルフレ』として生き続けていられたのだろうか。
世界を滅ぼし人の世に終焉を齎す「邪竜」では無く、愛する友や愛しい人と共に行き共に笑い共に泣いて……共に死ねる。……そんな「人間」として生きられたのだろうか。
そんな優しい……温かな日溜まりの微睡みの中で見た泡沫の夢の様な日々の中で、その夢から覚める事も無いままに生き続けられたのだろうか。
……それは、分からない。
もう今となっては、詮無い「もしも」でしかない。
それにそもそも生まれ落ちたその瞬間からこうなる様に造られた存在だったのだから、「運命」など関係無く、どの道「人間」として生きる事は叶わなかったのかもしれない。
…………何時か。
彼女は、自分の目の前に現れるのだろうか。
世界を救う為に、その手の剣に神竜の力を宿らせて。
そうして、「邪竜」に成り果てた恋人を、殺しに来てくれるのだろうか……?
確実にこの世界を滅ぼす為に、人々の手に「邪竜ギムレー」を討つ力を宿らせぬ為に。
人の手に触れぬ様に『炎の紋章』を封じたのは自分自身であると言うのに。
それどころか、人々を守ろうと今も無駄な足掻きを続けている神竜の存在を跡形も無く消し飛ばし、神竜を継げる存在すらこの世から完全に抹消しようとしているのに。
草の根一つ残さず、この世の命ある全ての存在を、等しく鏖殺しようとしているのに。
かつては確かに『ルフレ』と言う名の「人間」であった心の欠片は、そんな夢物語ですら無い……妄想に等しい「願望」を、時折思い描いてしまう。
万が一にもそんな夢想が現実になるのだとしても、それが現実となったその時の「自分」がどうなっているのかは……今の自分には分からない。
完全に狂い果てて理性も感情も何もかもを喪って、ただただ滅びの為の舞台装置にも等しい「邪竜」へと成り果てているのかもしれない。
……そうでなくとも、目の前のそれが、『ルフレ』にとっての最愛の存在であるとはきっと認識する事は出来ないだろうけれども。
もし、この滅び行く世界を救う為に、邪悪な竜の命を絶とうと、自分の目の前に現れてくれる「誰か」が居るのならば。
それは、他の誰でも無く、「彼女」であって欲しいと……そう願っているのだ。
きっと、そうであっても自分は「彼女」を殺そうとしてしまうだろうけれども。
それでも、心から彼女を──ルキナを。
愛している事は、『ルフレ』だった存在としてこの心に遺された、最後の欠片だから。
…………万が一にも再び眠りに就くか……或いはこの命に終わりが来るのであれば。
それはルキナの手によるものであって欲しいとも、思うのだ。
ギムレーは、未来永劫その本来の役目を果たす事は無いだろうその指輪を。
それでも、大切に再び胸のポケットの奥深くへと仕舞うのであった。
この命が終わるその日まで、決して喪わないように、と。
そう淡く儚い「願い」を、そこに託しながら……。
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ギムレーがそれに気付いたのは、ただの偶然であった。
自身が身に纏っているローブの胸ポケットに、何かの小箱の様なモノがあった。
はて、自分はそんな場所に「何か」を入れていただろうかと。
ポケットの中からその小箱を取り出して中を確かめると。
そこに、在ったのは。
曇りなく銀に輝く、一つの「指輪」であった。
飾り気は少なく、豪奢な煌びやかさと言うモノには乏しいが。
しかし、指輪の表層に細かく彫り込まれたその意匠は、女性的なもので。
指輪の質自体はかなり良いモノであり、一見質素に見えるのはそれの持ち主……正確にはそれを贈る予定であった相手の好みと性格に合わせたからであった。
まだ、こんな所に残っていたのかと。
その「指輪」を手の中で転がす様にしながら見詰めていたギムレーは僅かに嘆息し。
そして、未練がましくも思うその感傷を自嘲する。
それは……、かつて自分がまだ『ルフレ』と……そう呼ばれていた頃に。
想い結ばれていた相手へ、何時か戦いの日々が終わったその時に誓いと共に贈ろうと。
そう考えて、密かに準備していたモノだった。
……しかし、その「想い」は叶う事は無く。
「運命」を変える事は叶わず、『ルフレ』は『ギムレー』へと「覚醒」してしまった。
割れて中身を喪ってしまった卵を元に戻す事は誰にも出来ず。
人々を憎み生命を憎み世界を憎み……滅ぼし破壊し貶める事にしか最早悦びも何も感じる事の出来ない心へと変質してしまった『ギムレー』が、人々と共に生きていける可能性など何処にも無い。
今の『ギムレー』は、何れ程愛していてもその相手を殺し滅ぼす事しか出来ない、生けとし生ける全てと相容れぬ、世界にとっての厄災その物でしかないのだ。
最早自分は、彼女と共に生きる事は出来ない、相容れぬ「敵」なのである。
……それ処か、仮に今自分の目の前に彼女が現れたとして。
その彼女を、「彼女」として正しく認識出来るのかすら『ギムレー』には全く自信が無い事であるし……恐らくそれは不可能であろうと、諦めてもいた。
「邪竜」へと成り果て、「人間」であった時のそれから認知が変わってしまったのか。
今の『ギムレー』には、かつて『ルフレ』であった時の様に「人間」の区別を付ける事は、もう叶わない事となっていた。全て「同じ」にしか感じられないのだ。
例えば、「人間」が蟻の群れを見てその一個体一個体を認識しその差異を把握し識別出来るのかと言われれば。余程の物好きや研究者ならともかく、普通は不可能である様に。
今の『ギムレー』には、「人間」と言う存在はまさに、「人間」から見た時の「蟻」の様にしか感じられないし識別出来ないのだ。そこに「個」と言う概念は無い。
『ルフレ』であった頃親しかった相手を前にしても、恐らくは何も分からないであろう。
しかし、『ギムレー』と成っても『ルフレ』の記憶が全て消えてしまった訳でもない。
大切な友の事、大切な仲間の事、愛しい人の事。
楽しかった事、悲しかった事、悔しかった事、嬉しかった事、幸せであった事。
『ルフレ』として積み重ねてきたそれらを、『ギムレー』は全て覚えている。
……何もかも忘れ去る事も、或いは積み重ねてきたそれらに対しても何も感じられなくなった訳でも無い。……いっそ、そうであった方が幸せであったのかもしれないが。
だが、その記憶を保ち続けていても、今の自分は何もかもが変わってしまったのだ。
この目は最早、愛していた筈の彼等を「個」として認識は出来ないだろうし。
恐らく、半身である友を前にしてすら「人間」に対する憎悪と嫌悪感や嗜虐心は変わりはしないし、そもそも目の前のそれが友であるとすら認識出来ないかもしれない。
縦しんば、奇跡的に彼等を「個」として認識出来たとしても、自分はもう『ルフレ』であった時の様には生きられない。彼等を、喰い殺してしまいたくなるだけだ。
愛していた……今も大切に想う心も記憶もそこに在るのに。
それは、耐え難い程の絶望であり……同時に変える事の叶わない自分の本性であった。
人を滅ぼし世界を滅ぼして行くその過程で、人々が苦しみもがきながら絶望の内に死に絶えていくその様に喜悦を感じると同時に。『ルフレ』であった時の心の欠片は、今も消えぬ「記憶」は、その全てに絶望する。が、その絶望は、何も変えられない。
……そう遠くない内に、きっと自分は完全に狂い果てて、『ルフレ』であった時の「記憶」も何も喪うか……或いはそれに何も感じなくなるか、そうなってしまうのだろう。
それを苦しいとも悲しいとも、最早何も感じられない。
ただただ「そうなのか」と、絶望すらも無くその事実を静かに受け入れてしまう。
……その時には、完全に『ルフレ』と言う存在の名残は消え果てるのだろう。
……もし、『ギムレー』に「覚醒」しなければ、「運命」を変える事が出来たのならば。
今も自分は、『ルフレ』として生き続けていられたのだろうか。
世界を滅ぼし人の世に終焉を齎す「邪竜」では無く、愛する友や愛しい人と共に行き共に笑い共に泣いて……共に死ねる。……そんな「人間」として生きられたのだろうか。
そんな優しい……温かな日溜まりの微睡みの中で見た泡沫の夢の様な日々の中で、その夢から覚める事も無いままに生き続けられたのだろうか。
……それは、分からない。
もう今となっては、詮無い「もしも」でしかない。
それにそもそも生まれ落ちたその瞬間からこうなる様に造られた存在だったのだから、「運命」など関係無く、どの道「人間」として生きる事は叶わなかったのかもしれない。
…………何時か。
彼女は、自分の目の前に現れるのだろうか。
世界を救う為に、その手の剣に神竜の力を宿らせて。
そうして、「邪竜」に成り果てた恋人を、殺しに来てくれるのだろうか……?
確実にこの世界を滅ぼす為に、人々の手に「邪竜ギムレー」を討つ力を宿らせぬ為に。
人の手に触れぬ様に『炎の紋章』を封じたのは自分自身であると言うのに。
それどころか、人々を守ろうと今も無駄な足掻きを続けている神竜の存在を跡形も無く消し飛ばし、神竜を継げる存在すらこの世から完全に抹消しようとしているのに。
草の根一つ残さず、この世の命ある全ての存在を、等しく鏖殺しようとしているのに。
かつては確かに『ルフレ』と言う名の「人間」であった心の欠片は、そんな夢物語ですら無い……妄想に等しい「願望」を、時折思い描いてしまう。
万が一にもそんな夢想が現実になるのだとしても、それが現実となったその時の「自分」がどうなっているのかは……今の自分には分からない。
完全に狂い果てて理性も感情も何もかもを喪って、ただただ滅びの為の舞台装置にも等しい「邪竜」へと成り果てているのかもしれない。
……そうでなくとも、目の前のそれが、『ルフレ』にとっての最愛の存在であるとはきっと認識する事は出来ないだろうけれども。
もし、この滅び行く世界を救う為に、邪悪な竜の命を絶とうと、自分の目の前に現れてくれる「誰か」が居るのならば。
それは、他の誰でも無く、「彼女」であって欲しいと……そう願っているのだ。
きっと、そうであっても自分は「彼女」を殺そうとしてしまうだろうけれども。
それでも、心から彼女を──ルキナを。
愛している事は、『ルフレ』だった存在としてこの心に遺された、最後の欠片だから。
…………万が一にも再び眠りに就くか……或いはこの命に終わりが来るのであれば。
それはルキナの手によるものであって欲しいとも、思うのだ。
ギムレーは、未来永劫その本来の役目を果たす事は無いだろうその指輪を。
それでも、大切に再び胸のポケットの奥深くへと仕舞うのであった。
この命が終わるその日まで、決して喪わないように、と。
そう淡く儚い「願い」を、そこに託しながら……。
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