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魂の慟哭

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 日が沈みそして、決して晴れる事なき曇天であるけれど、再び夜明けが訪れた頃。
 宛も無く歩き続けていたルキナの前に、荒野の終わりを告げる様に小さな泉が現れた。
 付近に住む人々の水源として用いられているのか、泉の端にはそこから水を引く為の設備が備え付けられていて。
 泉から続く水路は、やや遠方の方に小さく見える村へと続いている様であった。

 一昼夜、何も飲まず何も食べずに歩き続けていたルキナは、既にそろそろ限界であった。
『竜』へと変えられていても、生きている以上はヒトであった頃と全く変わり無く喉は乾くし腹は減るものなのだ。
 こんなご時世ではとても貴重な澄んだ水を湛えたその泉を目にした時、喉の渇きが限界に達していたルキナは思わず無我夢中で泉へと駆け寄ってしまった。
 しかし、泉の畔に辿り着いた時、その水面に映る恐ろしい『竜』の姿にルキナは雷に撃たれたかの様に硬直してしまう。
 そこに映るのは、『竜』としか言えぬ生き物であった。
 飛竜達とも……そしてマムクート達とも異なるが、その全体的な特徴を挙げていくならばやはり『竜』としか言えないのだろう。
 ヒトの面影など、何処にもない。
 よくよく見てみれば、その瞳の色だけはかつてのルキナと同じ色をしていたけれど、それ以外には、この『竜』とヒトであるルキナとに重なる部分は何一つとしていない。

 自分の身体が全く別のものへと変貌している事はもう理解していたが、こうして改めてそれを突き付けられると、絶望感だけがこの胸を支配する。
 別に、ヒトとしての自分を絶世の美女だとか何だとかと思っていた訳ではないけれど。
 当然の様に、ヒトとしての自分に愛着があったし、何か別の生き物になってみたいだのと夢想した事すらも無い。
 この様な、化け物やケダモノとしか呼べぬ姿へと無理矢理に変えられる事など、想定した事すら全く無かったのだ。
 そもそもヒトが全く別の存在へと変わってしまうなど……。
 ヒトと竜の二つの姿を持つマムクートと言う存在を知ってはいるが、彼等はそもそも生まれながらにそう言う風に在るのが当然の存在なのだ。
 ルキナは、聖王家と言う特殊な家系の血を引いてはいるけれどもあくまでも普通の人間であり、当然ながらヒト以外の姿に成れる筈もない。
 しかし邪竜はあっさりとルキナの姿を捩じ曲げて、この様な姿に変えてしまった。
 ルキナの姿を元に戻す事が出来るのは、当然ながら邪竜だけであろう。
 だが、あの邪竜がルキナを態々元の姿に戻そうとするなど、到底考えられる事ではない。
 ルキナが元の……ヒトの姿に戻る事は、絶望的と言っても過言ではなかった。

 ……それとも、或いは。
 邪竜と同程度の力を持つとされる、神竜ナーガならば。

 そう思い浮かぶけれども。
 しかし『炎の紋章』も無しに彼の竜へと呼び掛けた所でその声に応えてくれるのだろうか、と半ば諦めた心の声がその考えに水を差す。

 ギムレーが甦り、そして世界が絶望に沈み行く中で。
 一体何れ程の人々が神竜へと祈りを捧げた事だろう。
 ルキナも、幾度と無く神竜へ祈りを捧げている。
 しかし、何れ程祈ろうとも、神竜がその声に、その祈りに、応える事はなかった。
 聖王の末裔であるルキナですら神竜の声らしきものを聴いた事すらない。
 況してや、直接的に何かしらの救いの手が神竜から差し伸べられる事なんて、一度たりともなかった。
 神竜がこの世界を既に見棄ててしまったのか、或いは見守りはしているものの何らかの手を出す事が出来ていないのかは、ルキナには分からない。
 何れにせよ、『炎の紋章』を携えて『覚醒の儀』を行わない限りは、彼の竜へとこの声を、その望みを、直接的に届けるのは叶わないだろう。

 竜へと変えられたルキナが、例え『虹の降る山』の祭壇へと行きその窮状を言葉にならぬ鳴き声で何れ程訴えた所で。
『炎の紋章』を持たぬ限りは、彼の神竜が応えてくれる事は無いと考えた方が良い。

 ならば『炎の紋章』を手に出来れば、となるが。
 そんな簡単に手に入るものであるならば、とっくの昔にファルシオンは本来の力を取り戻せていたであろう。
 竜へと変えられ、言葉もヒトとしての何もかもを奪われたルキナでは、『宝玉』に関する僅かな手懸かりすら得る事すら不可能に近い。
『宝玉』探索へと向かった仲間達が見事それを成し遂げてくれるのを待った所で、この姿のルキナを彼等がルキナだと気付いてくれる可能性は限り無く低いであろう。
 ルキナですら、この竜の身が自分自身の姿であるのだと未だに信じられない位なのだから。
 そうであるならルキナが『炎の紋章』を手にするには、仲間達から完成したそれを奪うしかないのではあるけれども。
 それだけは、ルキナには出来なかった。
 そんな事をすれば、本当にこの身ならずこの心までもが怪物のそれに変じてしまいそうで。
 何より、仲間達がやっとの思いで完成させた『炎の紋章』を手放す筈もないので、奪おうとするならば間違いなく殺し合いになってしまう。
 故に、そればかりはどうしてもルキナには出来ないのだ。

 しかし、ならば一体どうすれば良いと言うのだろう。

 その身がどの様な怪物へと堕とされたとしても、命あるならばこの世界を救う為に戦うべきであるのかもしれない。
 しかし、邪竜の手に堕ちた時よりこの手からファルシオンは喪われていて。
 縦しんば目の前にファルシオンがあったとしても、最早手とは呼べぬこの竜の前足では物を掴む事は儘ならない。
 この前足に出来るのは、地を踏み締め駆ける事と、獲物をその鋭い鉤爪で引き裂く事位であろう。
 ヒトらしい指先を喪ったこの手には、もう世界を救う力は無かった。
 仮にこの竜の身で単身邪竜に挑んだとしても、それはただの自殺にしかならぬであろう。
 ヒトであった頃よりもこの身は遥かに大きく、そして頑丈にはなっているのだろうけれども。
 例えヒトの身体など容易く一呑みにする事が出来る程の大きさであっても、あの邪竜と比べればそれは砂粒が蟻程度の大きさになった程度の差にしかならない。

 元の姿に戻りたいと言う願望はあるけれども、それを叶える術はなく。
 まさに八方塞がりと言っても良い状況であった。

 しかし、そうやってどうにも出来ぬ現実と先の見えぬ現状に何れ程絶望しても、喉の渇きが無くなると言う事も無い。
 生きるとはそう言う事であるし、故に目の前に飲める水があると言う状況で、餓え乾いて死ぬ事を選ぶつもりもないのにその欲求を無視すると言う事もルキナには出来なかった。
 だがいざ水を飲もうとして、そこでどうすれば良いのかルキナは困ってしまう。
 片前足だけで水を掬おうとしても上手くは出来ないし、尾を使ってバランスを取って両方とも前足を使える様にした処でやはり水を掬えない。
 そもそも手首を自由に回せない為、無理に前足で水を掬おうとしてもその殆どが零れてしまう。
 どうやってみても結果として獣と同様に直接水面に口を付けて飲むしかなく、しかもそれですら口が慣れぬ形状に変化しているが故に今一つ上手くいかなかった。
 不格好ながらも何とか水を飲めた為、耐え難い渇きからは解放されて。
 一昼夜歩き通しであった事もあり、どうにも疲れが出てきてしまったルキナは、その場で横になる。
 丸くなる様にして横になると楽である事に気付いたルキナは、獣同然のその姿勢に抵抗感を覚えつつも丸くなった。
 そして、うとうとと目を閉じかけたその時。
 何やら騒がしくなり、怒号すら聞こえてくる。
 すわ誰かが屍兵に襲われでもしているのかと、ルキナは慌てて飛び起きて辺りを見回す。
 しかし屍兵の姿など何処にも無くて。
 その変わり、近場の村の村人だろうか? 
 十人程の男達が手に武器を持ってこちらに駆けて来てくる。
 そして泉へと辿り着いた男たちは、手に武器を持ったまま、殺気立った様子でルキナを取り囲んだ。
 一体何事かと、一瞬ルキナは戸惑うが、直ぐ様今の自分の姿がヒトのそれでは無く、誰がどう見ても竜にしか見えぬ事に思い至り、今の自分は事情を何も知らぬ者にとっては、貴重な水源に居座る凶暴そうな獣にしか見えぬ事に気付く。
 勿論ルキナには幾ら武器を向けられているとは言え、村人達に何らかの害を加えるつもりは毛頭ない。
 しかし、そんな事を村人達に分かろう筈も無く。
 彼等にとってルキナは、困惑した様に辺りを見回しながらも凶悪そうな唸り声を零す怪物でしかない。
 これで、竜と化したルキナの大きさがそこらの獣と大差ない程度ならまだ良かったかもしれないが、今のルキナの大きさは飛竜の成竜よりも大きく、大人の男であろうと一呑みに出来てしまいそうな程である。
 ただでさえ日々困窮していく生活の中で、この水源を喪う事は村人たちにとっては死活問題であり、故に彼らは決死の覚悟でルキナを討伐しようと武器を握っていた。


『待って下さい、私はここに長居するつもりなど無いのです。
 ほんの少しだけ休んでいただけで……』


 何とかこちらに敵意は無い事を伝えようとしても、ヒトの言葉を喪ったルキナの喉から零れるのは凶暴そうな唸り声でしかなくて、何れ程何とかして意思疎通を図ろうと努めても、それは余計に村人達に恐怖の感情を与えるだけであった。

 そして終には。

 村人達がルキナに向けて槍を突き出し、弓を引き絞り矢を放ってくる。
 殺意を持ったそれらは、ルキナの身体を隙間なく覆う硬い鱗によって尽く阻まれ、鱗に掠り傷を付ける事すらない。
 しかし、肉体的には何のダメージにもなってはいないとは言え、本来は同族であり守るべき対象である筈の人々から武器を向けられ、更には殺傷しようと敵意を向けられた事は、ルキナの心には浅からぬ傷を付けた。
 理屈では、その反応も仕方ない事であるのは理解している。
 しかし、感情と言うものは、時に理屈や合理的な理解と言うモノではどうにもならぬものであるのだ。
 だが心が如何に傷付いたからと言って、反撃して自分へと今も攻撃を加える村人達を傷付けるつもりは無い。
 彼等の武器が自分には何ら傷を与えぬものであるのだとしても、自分の爪は彼等の命を容易く奪ってしまう。
 それ程までに、今のルキナと村人たちとの間には圧倒的な力の差があった。
 全く攻撃してこないルキナに、村人たちは益々勢い付いて攻撃を加えてくる。
 その鱗に弾かれた槍の一撃が、比較的柔らかな翼ですら傷つけられなかった一本の矢が、ルキナの心の柔らかい部分に爪を立ててそこを抉るかの様だった。
 このままでは、もしかしたら何かの弾みで彼等を傷付けてしまいかねなかった。
 そうしてしまえば、もう二度と歯止めが利かぬであろう。
 だからこそ、ルキナは。
 この場から離れる為に、咄嗟に使った事など一度も無い翼を大きく広げた。
 飛び方など知る筈も無いのだけれども。
 本能的な何かなのか、翼が大きく羽ばたくと共に身体は浮き上がり、地上はグングンと遠くなる。
 空を翔ける翼があろうが、ルキナには行く場所も無い。
 この姿では、何処に行っても人々に追われる事になる。
 自分がルキナであると証明する術はなく、誰もそれをルキナに問い掛ける事も無いのでそもそもその機会すらない。
 ルキナが戦い続け守ってきた人の世界にはルキナの生きる場所は無く、ルキナを受け入れる人も居ない。
 その事が、どうしようもなく辛くて。

 空を翔けながらルキナは涙を零し続けるのであった。




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