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千夜一夜のアルファルド

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 捕らえた聖王の末裔……忌々しきナーガの力を秘めし者。
 最早全ての趨勢は決し、人々がギムレーに抗い敵う可能性など潰えたと言うのにも関わらず、ナーガの牙──ファルシオンを扱えると言うただそれだけで人間どもに“希望”の象徴として奉りあげられた……ギムレーですら愉悦と同時に一片の“憐れみ”の様なモノを感じてしまう様な、そんな人々の“希望”の生け贄。

 そんなルキナを、殺さずに捕らえた事には別に然したる理由は無かった。
 ただ……その場で食い殺してしまうよりも、思う存分嬲って絶望を味わせてから殺す方が愉しいだろうと思ったのと。
 ちょっとした退屈しのぎにはなるだろうと、考えていた。

『退屈』……。
 そう、ギムレーは知性ある者達が時に陥る、心の死へと至る病の様な感情を覚えつつあった。
 尽きぬ破壊衝動のままに、身の内に絶える事無く燃え続ける憎悪のままに、嗜虐に愉悦を感じる心の有り様のままに、決して満たされる事なき心の虚が求めるままに……世界を滅びへと導いてきたギムレーではあるが。
 ……最早、人もナーガですらもギムレーに抗う事など出来ぬ今となっては、全てギムレーの思うがまま描いたままに世界が滅びていく。
 それは、ギムレーにとっては望み続けていたものである筈なのに……。
 ナーガや聖王に阻まれ千年前に滅ぼしきれなかった世界を、漸く滅ぼせる時が来たと言うのに。
 ふと気が付けば、虚しさの様な、『退屈』としか表現しようが無い感情を抱いてしまう。
 破壊衝動のままに人々を虫けらの様に蹂躙すれば一時はその気も紛れるし、人々が絶望と怨嗟の中に死に行くのを見れば愉悦を感じるのだけれども。
 しかし、その気持ちすらも直ぐ様褪せて、後には虚しさの様なモノだけが残る。
 満たされぬ心の虚はますます広がり、何時かは『退屈』以外の感情が死んでしまう様な予感すらギムレーは感じていた。
 人間如きに産み出され忌まれたその時より抱き続けた憎悪も破壊衝動すらも、底が割れた砂時計の様に、心の虚の中へと静かに消えて薄れ行く様ですらあるのだ。
 それは、最早ギムレーにとってこの世の全てが滅び迄の予定調和の出来事でしかなくなったが故なのだろうか?

 この世に産み出されて幾千の時を経、そしてこれから先も永劫に近い時を生き続ける事も出来るギムレーにとっては、何時しか芽生えてしまった『退屈』と言う心の病は何よりもの大敵であった。
 この虚は、何時かギムレーの心を殺し、そしてギムレー自身すらも殺すのだろう。
 世界を等しく絶望の泥濘へと沈め、生きとし生けるモノ全てに平らかに滅びを与え、何も無くなった永久の静寂世界で……ただ独りとなれば、この虚に心を喰われたギムレーは自らの生にも何にも意味を見出だせずに、死を選んでしまう可能性がある。

 世界に対する憎悪と破壊衝動が、ギムレーの根源でありその全てであるからこそ……それを向ける先を喪えば、遠からずギムレーもまた……。
 数多ある異界と数多ある可能性、限り無く無限に等しい数程に存在するそれら全てに対して憎悪や破壊衝動を向け、異界へと侵攻する道もまたあるのかも知れないが……。
 それでも、一度懐いてしまった虚は決して消えはしない。
 全ての異界を滅ぼそうが滅ぼせまいが……どの道ギムレーには己の虚に喰われる未来しか最早残ってはいなかった。
 後は、それが早いか遅いかだけの違いである。

 それは理解していても、それでもギムレーは己の生には執着があった。
 例え自分を含めたこの世の全てを呪っていても、だ。
 だからこそ、『退屈』がその執着すらも塗り潰してしまう事を、ギムレーは恐れていた。

 そんな中で自らの手の内に捕らえたルキナは『退屈』を紛らわすには格好の獲物であった。
 だからこそ、何時もの様にただ殺すのではなくて、戯れの様な“賭け”を吹っ掛けて生かしてあるのだ。

 ギムレー自身、ルキナが何を話そうがそれで自分の“心”が変わる事など無く況してや『改心』されるなど有り得無いと高を括っていた。
 だが、『改心』される事は無いのだとしても、ほんの一時でもこの『退屈』が紛れるならば、それだけでも“賭け”を続ける意味があるし、ルキナを生かしておく価値はある。
 実際、ルキナとの“賭け”は、ギムレーにとってはここ最近の唯一の“楽しみ”になっていた。
 勿論、ルキナが語る物語がギムレーに感銘を与えているとかそんな事は無い。
 約束通りその言葉にはちゃんと耳を傾けてはいるものの、その語る内容自体にはギムレーとしては大して興味を惹かれないのだから、彼女のやっている事は無駄骨も良いところである。
 だが、ルキナの語る言葉自体には特には意味も価値も見出だせなくても。
 不可能に近い事であると自身も理解しながらもそれでも抱いた矜持か意地故にか決して諦められないその姿が、生殺与奪の全てをギムレーに握られている事の恐怖を押し殺してギムレーに相対するその姿が、だが一夜毎に生き延びられた喜びに微かに身を震わせてしまうその姿が。
 ギムレーにとっては何よりも面白く、見ているだけで『退屈』を忘れられるのだ。
 それは、ギムレーが久しく忘れていた“楽しい”と言う感情であった。
 だからこそ、“賭け”の度に『詰まらなかったら殺す』とは口では言っているものの、例え何れ程退屈な話をされたのだとしてもギムレーにはルキナを殺すつもりなどは微塵もありはしなかった。
 ルキナを殺してしまえば、また『退屈』に殺される日々が来る事をギムレーはよく理解しているのだから。
 思えば、ギムレーはギムレーなりにルキナを気に入っているのだろう。
 ……それがルキナにとって“良い事”であるのかはまた別の話にはなるが。

 だからこそ、ルキナが今夜の“賭け”でギムレーとの対話を望んだ事には、然しものギムレーも驚いた。
 そして、ギムレーは自身が“驚いた”と言う事に、より大きく心を動かされたのだ。
 ルキナと“賭け”を始めてから、ギムレーは『退屈』から解放され、“楽しい”と言う気持ちを久々に味わう事が出来ていた。
 だが、それに加えて『驚き』すらをも味わえるなんて……。

 久しく忘れていた『驚き』と言う感情に、思わずギムレーの心は弾む。
 ルキナとの“賭け”は確かにギムレーにとっては“楽しい”ものであり、退屈から逃れられる大切な時間ではあったけれども。
 しかし、それがギムレーにとってはある種の“予定調和”の様なモノであり、心を擽る様な真新しさはそこには無かったのだ。
 それはそれで悪くはなかったが、やはり生には細やかであってもある程度の『驚き』はあった方が良い。
 “予定調和”なぞ、『退屈』を招くだけなのだから。

 故に、ギムレーは俄然と“ルキナ”自身に対しての興味が湧いた。
 それまでも、ルキナが気に入らなかったとかそんな訳ではなかった無かったけれども。
 あくまでも『退屈』を紛らわせてくれるからこそ、ギムレーはルキナに価値を見出だしていた。
 例えばそれが“ルキナ”でなかったとしても、同じ様にギムレーの『退屈』を紛らわせてくれるのなら、同等の価値をギムレーはそれに見出だすであろう。
 ……尤も、今のこの世界でルキナを上回る獲物は、ギムレーでさえもそう簡単には思い付けないけれども。
 だけれども、今は違う。
 “ルキナ”自身に対して、ギムレーは初めて興味と共に価値を感じ始めていた。

 何故、突然ギムレーとの“対話”なぞを望んだのか。
 親の仇であり世界を滅ぼす仇敵である筈なのに。
 決して相容れぬのだと、ギムレーを“邪竜”として切り捨ててきていた筈なのに。

 何故、ギムレーを揺るぐ事無く真っ直ぐに見据えてくるのか。
 ギムレーの気紛れ一つで何時でも殺されるのだと知っている筈なのに。
 ルキナにとってギムレーは“死”そのものの様なものである筈なのに。

 後から後から、ルキナに対して疑問が湧き上がってくる。
 そもそも、ギムレーとてルキナに関してそう詳しい訳でもない。
 特に、その内面なんて、知ろうとも思った事すらない。

 虫けら一人一人の心の内など、一々知る事に意味はなく。
 圧倒的な滅びを見せ付けて、人々が絶望に沈みさえすればそれで満足だしそれ以上の事を求めようと思った事もない。
 元より人々自身がギムレーに求めた“邪竜”の役割自体が『破滅と絶望』の装置であるのだし、それもあってギムレーは人を識ろうとは思わなかったのだ。

 人間など、所詮は動く肉袋に過ぎず。
 心などと目に見えぬものを語るにしても、誰も彼もが他者を妬み恨み蔑み傷付け奪い合う事しか考えぬ浅ましい本性をその内に抱え込んでいる。
 その癖に自らの欲望に高尚な理由を付けて正当化したがり、その高尚な理由の下に同族の幾万の屍を積み上げようとも厭わない。
 宗教の違い、住む場所の違い、育ちの違い、肌の違い、文化の違い、文明の違い……。
 そんな、ギムレーからすれば僅かとしか言い様がない些末な『差違』を口実に、他者を排撃し命を奪う。
 そして他者を殺したその手で、『差違』を拒んだその口で、“命の尊さ”とやらを唱えるのだ。
 まさに、滑稽で愚かとしか言いようが無いであろう。
 ギムレーがもたらす破壊など、人間どもが無数に積み重ねてきた悍ましい怨嗟の渦に比べれば、ほんの些細なものでしかないのかもしれない。
 ギムレーが封じられていた千年の間も、飽きもせず変わりもせず只管に憎悪を重ね続けていたのだ。
 それのお陰でギムレーは再び蘇る事が出来たのだが……。
 人間の愚かしさを知っているが故に、千年前に忌々しい聖王に封じられた時にも必ずやそうなるだろうとは思ってはいたが、流石にナーガの封印が解ける千年後に間を置かずして蘇る事が出来た時には、喜びや解放感とか以上に、剰りにも愚かしい人間の有り様に然しものギムレーも呆れてしまったものである。

 愚鈍で、脆弱で、力ある者に縋り利用する事しか出来ぬ生き物。
 無力で、傲慢で、卑劣で、身勝手で、悍ましい。
 ギムレーにとっては人間など等しく無価値であった。
 そして、そんな無価値な人間どもの手によって、ギムレー自身が望んだ訳でもないのに歪な存在として造り出され、排斥され、忘れ去られるかの様に封じられ続けてきたのが、身勝手な人間どもに勝手に“邪竜”としての役割を押し付けられ望まれ期待されてきた事が。
 ギムレーにとっては何よりも耐え難く、この身を絶えず駆け巡り続ける破壊衝動を燃え上がらせる。

 “人間”は結局の所、自らがそう望んだからこそ絶望の内に滅びるのだ。
 例えギムレーの手により息絶えた者自身がそれを望んだのではないのだとしても。
 同じ世界に生きる誰かが、過去生きた誰かが、憎悪と滅びの連鎖を育て続けギムレーを再びこの世に招いたのだから。
 それは即ち、“人間”と言う意志の総体が、“ギムレー”と言う滅びを望んだ事と同義であろう。
 いっその事ギムレーは何一つとして手出しをせずに、人間どもが勝手に滅びへの道をひた走って死滅するその時を観測して、大いに嘲笑ってやるのも一興ではあったのかもしれないが。
 身の内で暴れ狂う破壊衝動と憎悪がそれでは治まらなかっただろう。
 故にギムレーは、世界を滅ぼすのだ。

 しかし、人間に価値を見出だせないギムレーであったが、ルキナには初めて“価値”を感じた。
 “知りたい”と言う、知性ある生き物のみが持ち得る衝動をルキナに対して抱き始めていたのだ。
 人間と言う“群体”には相変わらず興味も関心も湧かないけれど、“ルキナ”と言う人間の“一個体”には紛れもなくギムレーは興味を抱いていた。
 それは、ギムレーと言う存在がこの世に生まれ落ちて初めて得た衝動でもあって。
 故に、ギムレーは些かその衝動を持て余しかけてもいた。
 だが、その衝動は、『退屈』で色褪せたギムレーの世界に、初めて落とされた鮮やかな色彩であり、幾ら持て余し気味であるとは言えども、それをギムレーが厭う筈も無くて。
 だからこそルキナのその望みは、ギムレーにとっても渡りに船であったのだ。


 奇しくも互いに相手を“知る”為に対話を望んでいた事を、当の本人達は知る由もない事であった。






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