寂しがり屋の猫
◆◆◆◆◆
夕食を終えて、僕は居間から彼の部屋へと連れて行かれる。
何度か来た事はあるのだけれどその度に緊張してしまうのは、彼の極めて個人的な空間に立ち入っていると意識してしまうからなのか。
「ごめんな、直斗。疲れてないか?」
『大丈夫ですよ、菜々子ちゃんもちゃんと気遣ってくれてましたし』
少し心配そうに僕を見た彼に、大丈夫だと答える。
夕食後、猫に興味津々だった菜々子ちゃんに色々と撫で回されていたのだ。まあ菜々子ちゃんは随分と確りしているので、よく幼い子供が生き物に対してやる様な無邪気な無体は働かなかったので、彼が心配する程の事は無かったのだけど。
そう答えると、彼はそっと目を伏せる様に僕の身体を優しく抱き締める。
「……ごめん。俺の我儘に付き合わせて。それで直斗をこんな目に遭わせて……。
俺がもっとちゃんと周りを見ていたら……直斗があの時不意を突かれる事は無かったかもしれない。そうしたら……」
そうやって何かを思い詰め始めそうだった彼のそれを、その頬をタシタシと前足で叩いて止める。
ふにふにと柔らかな肉球のその感触に、彼は自分を責める言葉を止めて僕を見た。
『先輩が気に病む必要なんて無いですよ。
それに、多少時間は掛かったとしても、自然に治るものだって久慈川さんも言ってたじゃないですか。
確かに、ビックリはしましたけど。でも、悪い事ばかりじゃないですよ』
優しくて、誠実で、真面目で、お人好しな位に世話焼きで、冷静さを失わずに感情を制して考える事が出来て、頭の回転もそれを活かす知識の量も際立っていて、洞察力も高くて……。
そんな風に、僕が憧れて来た物語の探偵たちの様に彼は格好良くて。何だって出来る、どんなピンチが訪れたってそれを切り抜けてしまえる。そう思わせるし、実際そう出来てしまうけれど。
でもそれだけじゃ無い事も僕はよく知っている。
実は何かと抱え込んでしまうし、自分を責めてしまう事も多いのだと、僕は知っている。
僕が猫になってしまった事に関して、彼はもしかしたら僕以上に動揺して、そして思い詰めていたのだろう。
思えば、彼がやたらと僕を抱いたままだったのも、不安だったからなのかもしれない。
彼の腕の中から、グイッと身を乗り出す様にして、その頬をそっと舐めた。
猫の舌はザラザラしているのであまり真剣に舐めると痛いだろうから、ほんの少し触れる程度で止める。
そして「ニャア」と、彼を励ます様に鳴く。
「直斗……?」
突然のそれに驚いた様に、彼は僕を見る。
僕も彼を真っ直ぐに見上げた。
『僕は何処にも行きませんよ。ちゃんと先輩の傍に居ますから。
僕が僕である限り、僕たちはずっと一緒です』
仲間や友人に囲まれていても、どうしても寂しがり屋な部分がその心に片隅に確かに居る彼の。その柔らかなそこに触れるかの様に、彼の胸に前足を当てて。
グルグルゴロゴロと喉を鳴らす様にそこに寄り添う。
その仕草に最初は戸惑っていた彼も、穏やかにその表情を緩めて。
柔らかく僕を抱き締め直して、そして僕のフワフワとした身体に顔を埋める様にする。所謂「猫吸い」というやつだ。
人間の時の僕相手にもそうそうやらない様な激しいスキンシップに思わず、何をしているんですかとばかりにタシタシとその頭を叩いて抗議するのだが。しかし彼の嬉しそうな顔に何も言えなくなる。
「……直斗は温かいな。柔らかくて、とても良い匂いで。
こうしていると直斗が生きてるって、そう心から感じる」
……菜々子ちゃんを喪いかけた事は、きっと今も彼の心に僕には見えない深い傷を遺しているのだろう。
『生きている』なんて、そんな当たり前の事に、こんなにも満ち足りて幸せだという表情を浮かべてしまう程に。
それから暫くの間、僕は黙ってしまった彼に抱き締められ続けていた。
そして、もうそろそろ夜も遅くなってきたから眠ろうか、と。布団を敷いた彼は、ふと僕を見て「どうしようか」と呟く。
タオルなどを敷いた簡単なもので十分だと僕自身は思うのだけど。
もし夜の間に元に戻った場合、それでは風邪を引いてしまうかもしれないからと。何と彼は僕の方に布団を譲って、自分はソファに薄い毛布一枚で寝ようとしたので、そこは猛抗議して思い直させた。
「だけど、布団はこの一つしかないよ。
一緒に寝るって事になるけど……」
良いのか?と。そう彼は訊ねてくれる。
恋人同士ではあり、しかも付き合い始めてもう二ヶ月近く経っているけれど。
僕たちは今の所至って清い関係性でお付き合いをさせて貰っている。
正直、今まで女であり子供である自分を否定して押し込め続けてきた僕にとっては、そもそも異性に対して恋愛的感情を懐いた事を認めるだけでも、もう断崖絶壁から飛び降りる程の覚悟が必要だったのだ。
そこから何歩も進んだ状態になるには、心の準備の様なものが何もかも全く足りていなかった。
そりゃあ、僕だってそう言う事をする相手は彼が良いし彼以外は絶対に嫌だと思うけど。でも、二人っきりの時に手を繋いだり、唇に軽いキスをするだけでももう一杯一杯なのだ。
健全な青少年である彼には凄く我慢させてしまっているのかもしれないし、それを考えると申し訳無さはあるのだが……。まあ彼は、『直斗が良いと言うまでは何時までも待てるから、焦ったり無理をしないでほしい』などと言ってくれているのでそれに盛大に甘えさせて頂いている状態なのである。
そんな状況なのに、別にそう言う目的では無いとは言え、同じ布団で寝ても良いのか?と訊ねてくれるのは彼の心の広さと言うか、誠実さ故なのだろう。
だが、流石にそんな風に気遣って貰った結果、彼を布団から追い出して風邪を引かせるなんて当然論外なのである。
良いに決まっていると、そう答えると。彼はそれ以上何か言う事は諦めた様で、そっと布団に入っては僕をそこに招く様に布団を持ち上げてスペースを作ってくれた。僕はそこに身を滑り込ませて、すっぽりと布団の中に入る。
「……何だか不思議な気分になるな。
こんなにも近くに誰かの温もりを感じて寝るなんて、正直初めてかもしれない」
……物心付いた頃から両親は既に仕事人間で、独りで過ごす事が多かったのだと。そう彼は何時か僕に話してくれていた。
だから、誰かと一緒に寝るなんて、殆ど経験のない事で。
『僕もですよ』
そしてそれは、幼い頃に両親を喪ってしまった僕にも同じ事が言えた。
それでもきっと、嵐の夜や怖い夢を見て眠れなくなってしまった夜には、眠れるまでおじいちゃんが傍に居てくれた僕のそれは、彼が抱えている『寂しさ』とは同じでは無いだろうけれど。
「……そっか」
そうこうする内に、あちらの世界の探索をして疲れていたのだろう。
ふと言葉が途切れたかと思うと、彼は安らかな寝息を立てていて。
初めて間近で見詰めるその寝顔は、普段の精悍さすら感じる大人びて見えるそれとは違って、年相応……よりもどうかしたら少し幼く見えるものだった。
『先輩……』
小さく呼びかけても、彼は身動ぎもしない。
恐らく、深く深く寝入っているのだろう。
楽しい夢でも見ているのか、その寝顔は安らかなもので。
そして僕は、そっとその頬を舐めて、彼の唇にもそっと触れる。
『大好きです。だから……どんな事があっても、僕はあなたの傍に居たい。
あなたがもう、寂しいなんて絶対に感じなくても良い様に。ずっと。
愛しています。……悠さん』
気恥ずかしくて、まだ面と向かって呼ぶ事が中々出来ない彼の名前を呼んで。
そして、彼の腕の中に包まれる様にして、その温もりを感じながら僕も目を閉じた。
その翌朝、元の人間の姿に戻っていた僕は、寝起き直後に彼の寝顔を間近に見る事になって。
猫が居なくなって僕が現れた事を、堂島さん達に全力で誤魔化す事になるのだが、それはまあ……今は語る必要は無い事なのであった。
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夕食を終えて、僕は居間から彼の部屋へと連れて行かれる。
何度か来た事はあるのだけれどその度に緊張してしまうのは、彼の極めて個人的な空間に立ち入っていると意識してしまうからなのか。
「ごめんな、直斗。疲れてないか?」
『大丈夫ですよ、菜々子ちゃんもちゃんと気遣ってくれてましたし』
少し心配そうに僕を見た彼に、大丈夫だと答える。
夕食後、猫に興味津々だった菜々子ちゃんに色々と撫で回されていたのだ。まあ菜々子ちゃんは随分と確りしているので、よく幼い子供が生き物に対してやる様な無邪気な無体は働かなかったので、彼が心配する程の事は無かったのだけど。
そう答えると、彼はそっと目を伏せる様に僕の身体を優しく抱き締める。
「……ごめん。俺の我儘に付き合わせて。それで直斗をこんな目に遭わせて……。
俺がもっとちゃんと周りを見ていたら……直斗があの時不意を突かれる事は無かったかもしれない。そうしたら……」
そうやって何かを思い詰め始めそうだった彼のそれを、その頬をタシタシと前足で叩いて止める。
ふにふにと柔らかな肉球のその感触に、彼は自分を責める言葉を止めて僕を見た。
『先輩が気に病む必要なんて無いですよ。
それに、多少時間は掛かったとしても、自然に治るものだって久慈川さんも言ってたじゃないですか。
確かに、ビックリはしましたけど。でも、悪い事ばかりじゃないですよ』
優しくて、誠実で、真面目で、お人好しな位に世話焼きで、冷静さを失わずに感情を制して考える事が出来て、頭の回転もそれを活かす知識の量も際立っていて、洞察力も高くて……。
そんな風に、僕が憧れて来た物語の探偵たちの様に彼は格好良くて。何だって出来る、どんなピンチが訪れたってそれを切り抜けてしまえる。そう思わせるし、実際そう出来てしまうけれど。
でもそれだけじゃ無い事も僕はよく知っている。
実は何かと抱え込んでしまうし、自分を責めてしまう事も多いのだと、僕は知っている。
僕が猫になってしまった事に関して、彼はもしかしたら僕以上に動揺して、そして思い詰めていたのだろう。
思えば、彼がやたらと僕を抱いたままだったのも、不安だったからなのかもしれない。
彼の腕の中から、グイッと身を乗り出す様にして、その頬をそっと舐めた。
猫の舌はザラザラしているのであまり真剣に舐めると痛いだろうから、ほんの少し触れる程度で止める。
そして「ニャア」と、彼を励ます様に鳴く。
「直斗……?」
突然のそれに驚いた様に、彼は僕を見る。
僕も彼を真っ直ぐに見上げた。
『僕は何処にも行きませんよ。ちゃんと先輩の傍に居ますから。
僕が僕である限り、僕たちはずっと一緒です』
仲間や友人に囲まれていても、どうしても寂しがり屋な部分がその心に片隅に確かに居る彼の。その柔らかなそこに触れるかの様に、彼の胸に前足を当てて。
グルグルゴロゴロと喉を鳴らす様にそこに寄り添う。
その仕草に最初は戸惑っていた彼も、穏やかにその表情を緩めて。
柔らかく僕を抱き締め直して、そして僕のフワフワとした身体に顔を埋める様にする。所謂「猫吸い」というやつだ。
人間の時の僕相手にもそうそうやらない様な激しいスキンシップに思わず、何をしているんですかとばかりにタシタシとその頭を叩いて抗議するのだが。しかし彼の嬉しそうな顔に何も言えなくなる。
「……直斗は温かいな。柔らかくて、とても良い匂いで。
こうしていると直斗が生きてるって、そう心から感じる」
……菜々子ちゃんを喪いかけた事は、きっと今も彼の心に僕には見えない深い傷を遺しているのだろう。
『生きている』なんて、そんな当たり前の事に、こんなにも満ち足りて幸せだという表情を浮かべてしまう程に。
それから暫くの間、僕は黙ってしまった彼に抱き締められ続けていた。
そして、もうそろそろ夜も遅くなってきたから眠ろうか、と。布団を敷いた彼は、ふと僕を見て「どうしようか」と呟く。
タオルなどを敷いた簡単なもので十分だと僕自身は思うのだけど。
もし夜の間に元に戻った場合、それでは風邪を引いてしまうかもしれないからと。何と彼は僕の方に布団を譲って、自分はソファに薄い毛布一枚で寝ようとしたので、そこは猛抗議して思い直させた。
「だけど、布団はこの一つしかないよ。
一緒に寝るって事になるけど……」
良いのか?と。そう彼は訊ねてくれる。
恋人同士ではあり、しかも付き合い始めてもう二ヶ月近く経っているけれど。
僕たちは今の所至って清い関係性でお付き合いをさせて貰っている。
正直、今まで女であり子供である自分を否定して押し込め続けてきた僕にとっては、そもそも異性に対して恋愛的感情を懐いた事を認めるだけでも、もう断崖絶壁から飛び降りる程の覚悟が必要だったのだ。
そこから何歩も進んだ状態になるには、心の準備の様なものが何もかも全く足りていなかった。
そりゃあ、僕だってそう言う事をする相手は彼が良いし彼以外は絶対に嫌だと思うけど。でも、二人っきりの時に手を繋いだり、唇に軽いキスをするだけでももう一杯一杯なのだ。
健全な青少年である彼には凄く我慢させてしまっているのかもしれないし、それを考えると申し訳無さはあるのだが……。まあ彼は、『直斗が良いと言うまでは何時までも待てるから、焦ったり無理をしないでほしい』などと言ってくれているのでそれに盛大に甘えさせて頂いている状態なのである。
そんな状況なのに、別にそう言う目的では無いとは言え、同じ布団で寝ても良いのか?と訊ねてくれるのは彼の心の広さと言うか、誠実さ故なのだろう。
だが、流石にそんな風に気遣って貰った結果、彼を布団から追い出して風邪を引かせるなんて当然論外なのである。
良いに決まっていると、そう答えると。彼はそれ以上何か言う事は諦めた様で、そっと布団に入っては僕をそこに招く様に布団を持ち上げてスペースを作ってくれた。僕はそこに身を滑り込ませて、すっぽりと布団の中に入る。
「……何だか不思議な気分になるな。
こんなにも近くに誰かの温もりを感じて寝るなんて、正直初めてかもしれない」
……物心付いた頃から両親は既に仕事人間で、独りで過ごす事が多かったのだと。そう彼は何時か僕に話してくれていた。
だから、誰かと一緒に寝るなんて、殆ど経験のない事で。
『僕もですよ』
そしてそれは、幼い頃に両親を喪ってしまった僕にも同じ事が言えた。
それでもきっと、嵐の夜や怖い夢を見て眠れなくなってしまった夜には、眠れるまでおじいちゃんが傍に居てくれた僕のそれは、彼が抱えている『寂しさ』とは同じでは無いだろうけれど。
「……そっか」
そうこうする内に、あちらの世界の探索をして疲れていたのだろう。
ふと言葉が途切れたかと思うと、彼は安らかな寝息を立てていて。
初めて間近で見詰めるその寝顔は、普段の精悍さすら感じる大人びて見えるそれとは違って、年相応……よりもどうかしたら少し幼く見えるものだった。
『先輩……』
小さく呼びかけても、彼は身動ぎもしない。
恐らく、深く深く寝入っているのだろう。
楽しい夢でも見ているのか、その寝顔は安らかなもので。
そして僕は、そっとその頬を舐めて、彼の唇にもそっと触れる。
『大好きです。だから……どんな事があっても、僕はあなたの傍に居たい。
あなたがもう、寂しいなんて絶対に感じなくても良い様に。ずっと。
愛しています。……悠さん』
気恥ずかしくて、まだ面と向かって呼ぶ事が中々出来ない彼の名前を呼んで。
そして、彼の腕の中に包まれる様にして、その温もりを感じながら僕も目を閉じた。
その翌朝、元の人間の姿に戻っていた僕は、寝起き直後に彼の寝顔を間近に見る事になって。
猫が居なくなって僕が現れた事を、堂島さん達に全力で誤魔化す事になるのだが、それはまあ……今は語る必要は無い事なのであった。
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