寂しがり屋の猫
◆◆◆◆◆
霧がすっかり消え去った町で、彼にとっての掛け替えの無いものは全て取り戻されている。
彼にとっての帰る場所であり、「日常」の象徴であるのだろう其処……堂島家には、長らく入院していた家主である堂島さんと菜々子ちゃんが帰って来ている。
長期間の入院を要する程の重傷を負っていた堂島さんも、そして一度は心肺停止状態にまで陥った菜々子ちゃんも。もうそんな出来事が彼等を襲ったとは思えない程に元気な姿を見せているのであった。
彼に連れられて僕は何度か訪れた事のある堂島家へと上がらせて貰う。
当然ながら、人間として訪れた時とこうして猫になってしまった今では、同じ場所でも随分と見え方や感じ方が違うので、知っている場所である筈なのに見知らぬ場所に迷い込んでしまったかの様にも思えてしまうのは少し不思議だ。
「お兄ちゃんお帰りなさい!
あれ? どうしたの? 猫さんをつれてきたの?」
大好きなお兄ちゃんの帰りを察知した菜々子ちゃんが弾んだ声で僕たちを出迎えて、そして彼の腕の中に居る僕を見て驚いた様な顔をした。
物凄く猫好きな彼ではあるが、居候の身であるからと遠慮しているのか、一応手懐けた猫たちを家に上げた事は無かったそうだ。それもあって驚いているのだろう。
「ああ、少しの間預かる事になったんだ」
「そうなんだ! ちょっとのあいだかもしれないけど、いらっしゃい、猫さん!
ねえお兄ちゃん、この猫さんのお名前は?」
「えっと…………ナオちゃんだよ」
腕の中の僕に目を落としながら、彼はそう菜々子ちゃんに僕の仮の名を教えた。適当な名前を考えるのが面倒だったのか何なのか、まあそういう事になった様だ。
菜々子ちゃんは随分と嬉しそうに、「ナオちゃんって言うんだ! かわいいね!」と僕の頭を優しく撫でてくる。彼のその手よりはまだ手慣れていないが、それでも随分と心地好い撫で方をもう既に心得ている様だった。
菜々子ちゃんも動物が好きな様で、猫が家に居る事に喜びを隠せない様で。
早速居間に居る堂島さんにそれを報告している様だ。
「猫を預かったのか?
まあ、お前ならちゃんと世話も出来そうだから、少しの間なら構わんが……。
しかしウチに猫を飼う為の道具なんて無いぞ」
長く入院する程の怪我をした事もあって最近は早めに帰らせて貰っているらしい堂島さんが、彼の腕の中に居る僕を見詰めながらそう言葉にする。
まあ、猫は猫だが、中身は僕なのでそんな心配は要らないのだが……。そんな事は当然知る由も無い堂島さんの心配は御尤もである。
「大丈夫だよ、叔父さん。
それに、この子はとても大人しいし賢いから、気にしなくても良いと思う」
そう言いながら彼は、菜々子ちゃんに頼んで畳の上に柔らかなタオルを重ねて貰い、そこに僕を座らせた。
大人しく彼のなすがままにタオルの上にジッとしている僕を見て、堂島さんは感心した様に声を零す。
「ほう、確かに随分と大人しい猫の様だな。
随分と毛並みも良いし、良い所の猫なんじゃないのか?」
「どうだろう? それは分からないけど、そうかもね」
微妙に言葉を濁した彼のその真意には気付かなかったのか、堂島さんもそっと僕の頭を撫でようとする。あまりそんな素振りは見せてこなかったが、案外堂島さんも猫などが好きなのかもしれない。
何処か武骨にも感じるその分厚い手は、その見た目とは裏腹に壊れ物に触れようとしているかの様に優しいものであった。
「ナオちゃん、とってもかわいいよね!」
「ナオちゃん? そんな名前なのか……。
まあ、少しの間だろうが、よろしくな」
そう言って堂島さんは優しく微笑みかけた。
ちょっと落ち着かない位に二人とも歓迎してくれている。
特に、菜々子ちゃんは猫がこんなにも近くに居る事に興味津々である様だ。
菜々子ちゃんたちが見てくれているからと、彼はそのまま夕飯の支度を始めた。
居間からだとその後ろ姿しか分からないが、しかしとても手際よく料理している事は見て取れる。
菜々子ちゃんが料理のお手伝いをしようとするそれに快く応じて、簡単な部分を任せてあげるその横顔は、とても優しい『お兄ちゃん』の顔で。
菜々子ちゃんと接している姿はもう何度も見て来たけれど、特捜隊の皆の前で見せるそれとはまた少し違うその表情に、僕はまた新たな発見をした気になって、それに見惚れてしまう。
そしてふと堂島さんの方を見ると、彼と菜々子ちゃんの事を本当に優しい眼差しで見守っていた。
事件を追う時の、職務中の堂島さんの姿ばかりが僕の中では印象に残っているけれど。しかし、こうやって穏やかな時間の中で大切なものを見詰めているその眼差しもまた、深く印象に残るもので。
……おじいちゃんや薬師寺さんも、僕がそれに気付いていなかっただけでこんな風な眼差しで僕を見守ってくれていたのだろうかと考えてしまう。
「はい、できたよ!」
軽いものを持った菜々子ちゃんと、大きな皿を持った彼がちゃぶ台にそれらを並べて。
そして彼は、煮付け用のそれを取り分けておいたのだと、魚の切り身を皿に載せて僕の目の前に置く。
流石にキャットフードの類は抵抗があるだろうと考えてくれたのだろう。
これはこれで抵抗はあるのだが、手が使えないので仕方が無い。
堂島さんと菜々子ちゃんと彼の、そんな家族の団欒は僕にとっては初めてのもので。特捜隊の皆とはしゃぐ様に集まっている時のそれとはまた違う温かさがあるものだった。
菜々子ちゃんがその日にあった事を楽しそうに話ているのを、堂島さんや彼は愉しそうに聞いているし、時々それに口を挟む事もある。時には彼に話が向けられたり、逆に堂島さんの方へとそれが向いたり。
穏やかながらも弾んでいるそれに、こうして少しだけ離れた場所で加わっているのは何とも不思議なものだ。
そうやって、温かなその時間を僕も共に過ごすのであった。
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霧がすっかり消え去った町で、彼にとっての掛け替えの無いものは全て取り戻されている。
彼にとっての帰る場所であり、「日常」の象徴であるのだろう其処……堂島家には、長らく入院していた家主である堂島さんと菜々子ちゃんが帰って来ている。
長期間の入院を要する程の重傷を負っていた堂島さんも、そして一度は心肺停止状態にまで陥った菜々子ちゃんも。もうそんな出来事が彼等を襲ったとは思えない程に元気な姿を見せているのであった。
彼に連れられて僕は何度か訪れた事のある堂島家へと上がらせて貰う。
当然ながら、人間として訪れた時とこうして猫になってしまった今では、同じ場所でも随分と見え方や感じ方が違うので、知っている場所である筈なのに見知らぬ場所に迷い込んでしまったかの様にも思えてしまうのは少し不思議だ。
「お兄ちゃんお帰りなさい!
あれ? どうしたの? 猫さんをつれてきたの?」
大好きなお兄ちゃんの帰りを察知した菜々子ちゃんが弾んだ声で僕たちを出迎えて、そして彼の腕の中に居る僕を見て驚いた様な顔をした。
物凄く猫好きな彼ではあるが、居候の身であるからと遠慮しているのか、一応手懐けた猫たちを家に上げた事は無かったそうだ。それもあって驚いているのだろう。
「ああ、少しの間預かる事になったんだ」
「そうなんだ! ちょっとのあいだかもしれないけど、いらっしゃい、猫さん!
ねえお兄ちゃん、この猫さんのお名前は?」
「えっと…………ナオちゃんだよ」
腕の中の僕に目を落としながら、彼はそう菜々子ちゃんに僕の仮の名を教えた。適当な名前を考えるのが面倒だったのか何なのか、まあそういう事になった様だ。
菜々子ちゃんは随分と嬉しそうに、「ナオちゃんって言うんだ! かわいいね!」と僕の頭を優しく撫でてくる。彼のその手よりはまだ手慣れていないが、それでも随分と心地好い撫で方をもう既に心得ている様だった。
菜々子ちゃんも動物が好きな様で、猫が家に居る事に喜びを隠せない様で。
早速居間に居る堂島さんにそれを報告している様だ。
「猫を預かったのか?
まあ、お前ならちゃんと世話も出来そうだから、少しの間なら構わんが……。
しかしウチに猫を飼う為の道具なんて無いぞ」
長く入院する程の怪我をした事もあって最近は早めに帰らせて貰っているらしい堂島さんが、彼の腕の中に居る僕を見詰めながらそう言葉にする。
まあ、猫は猫だが、中身は僕なのでそんな心配は要らないのだが……。そんな事は当然知る由も無い堂島さんの心配は御尤もである。
「大丈夫だよ、叔父さん。
それに、この子はとても大人しいし賢いから、気にしなくても良いと思う」
そう言いながら彼は、菜々子ちゃんに頼んで畳の上に柔らかなタオルを重ねて貰い、そこに僕を座らせた。
大人しく彼のなすがままにタオルの上にジッとしている僕を見て、堂島さんは感心した様に声を零す。
「ほう、確かに随分と大人しい猫の様だな。
随分と毛並みも良いし、良い所の猫なんじゃないのか?」
「どうだろう? それは分からないけど、そうかもね」
微妙に言葉を濁した彼のその真意には気付かなかったのか、堂島さんもそっと僕の頭を撫でようとする。あまりそんな素振りは見せてこなかったが、案外堂島さんも猫などが好きなのかもしれない。
何処か武骨にも感じるその分厚い手は、その見た目とは裏腹に壊れ物に触れようとしているかの様に優しいものであった。
「ナオちゃん、とってもかわいいよね!」
「ナオちゃん? そんな名前なのか……。
まあ、少しの間だろうが、よろしくな」
そう言って堂島さんは優しく微笑みかけた。
ちょっと落ち着かない位に二人とも歓迎してくれている。
特に、菜々子ちゃんは猫がこんなにも近くに居る事に興味津々である様だ。
菜々子ちゃんたちが見てくれているからと、彼はそのまま夕飯の支度を始めた。
居間からだとその後ろ姿しか分からないが、しかしとても手際よく料理している事は見て取れる。
菜々子ちゃんが料理のお手伝いをしようとするそれに快く応じて、簡単な部分を任せてあげるその横顔は、とても優しい『お兄ちゃん』の顔で。
菜々子ちゃんと接している姿はもう何度も見て来たけれど、特捜隊の皆の前で見せるそれとはまた少し違うその表情に、僕はまた新たな発見をした気になって、それに見惚れてしまう。
そしてふと堂島さんの方を見ると、彼と菜々子ちゃんの事を本当に優しい眼差しで見守っていた。
事件を追う時の、職務中の堂島さんの姿ばかりが僕の中では印象に残っているけれど。しかし、こうやって穏やかな時間の中で大切なものを見詰めているその眼差しもまた、深く印象に残るもので。
……おじいちゃんや薬師寺さんも、僕がそれに気付いていなかっただけでこんな風な眼差しで僕を見守ってくれていたのだろうかと考えてしまう。
「はい、できたよ!」
軽いものを持った菜々子ちゃんと、大きな皿を持った彼がちゃぶ台にそれらを並べて。
そして彼は、煮付け用のそれを取り分けておいたのだと、魚の切り身を皿に載せて僕の目の前に置く。
流石にキャットフードの類は抵抗があるだろうと考えてくれたのだろう。
これはこれで抵抗はあるのだが、手が使えないので仕方が無い。
堂島さんと菜々子ちゃんと彼の、そんな家族の団欒は僕にとっては初めてのもので。特捜隊の皆とはしゃぐ様に集まっている時のそれとはまた違う温かさがあるものだった。
菜々子ちゃんがその日にあった事を楽しそうに話ているのを、堂島さんや彼は愉しそうに聞いているし、時々それに口を挟む事もある。時には彼に話が向けられたり、逆に堂島さんの方へとそれが向いたり。
穏やかながらも弾んでいるそれに、こうして少しだけ離れた場所で加わっているのは何とも不思議なものだ。
そうやって、温かなその時間を僕も共に過ごすのであった。
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