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第二章 【夢幻に眠る】

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 頬を切り付ける様な鋭い寒気に身を震わせて、そして僅かな間途切れていた意識が再び蘇る。
 ……此処は、一体何処なのだろう……。
 周囲を見回しても、そこはあの無限列車の車内では無くて。
 全く見知らぬ、何処かの雪景色に染まった山の中である様だった。
 手には十握剣を持ち、そして身に纏うのは「お館様」から支給された服としのぶさんから貰った黒い羽織だ。
 その格好は記憶の中のそれと全く変わらないのに、周囲の光景だけが記憶から断絶している。
 ……これは、一体何なのだろう。
 確か自分は、突然眠ったまま目覚め無くなってしまった炭治郎たちを起こそうとして、呼び掛けても反応が無かったから炭治郎の身体を揺すって起こそうとして、それで……。
 炭治郎の肩に触れた後の記憶が、無い。

 まさか自分も炭治郎たちと同様に眠ってしまったのだろうか。
 そうであるならば、ここは自分の『夢』の中なのだろうか……? 
『夢』の中で『夢』を見るだなんて。そんな、現実を見失ってしまいそうな事は起こり得るのだろうか。
 それに、やはり自分は全くこの風景を知らない。
 一度ならず二度までも、全く見知らぬ場所を夢で見る事などあるのだろうか。
 ここが夢の中であるなら、ペルソナの力で眠りから醒める事は出来るだろうか? 
 しかし、試しにペルソナを呼ぼうとしても、全く手応えが無い。
『夢』の中ではペルソナの力を使えるのに、『夢の中の夢』では使えないらしい。そう言うものなのだろうか。
 状況を把握し切れぬが故に、疑問は尽きない。

 どうして此処に居るのかは分からないが、一刻も早く目覚めなければならない事だけは確かだ。
 もしこれが鬼の血鬼術によるものであるのだとすれば、今自分達を含めてあの車両に居た全員が命の危機に晒されている事になる。
 幾ら炎柱を任されている煉獄さんだって、眠りに落ちている状態で鬼の襲撃に遭えばどうなるかは分からない。
 そうでなくとも、眠る自分達のすぐ後ろの乗客たちが貪り喰われていたとしてもそれに気付く事は出来ないだろう。
 だから、起きなくてはならない。起きなくては……。起きて、守らなくてはならない。
 無辜の乗客たちを、炭治郎たちを、守らなくては。

 しかし、どうしたらこの夢の中から脱け出せるのかは分からなかった。
 頬を引っ張ったり手の甲を抓るなどして痛みの刺激を与えてみるが、ただただ痛いだけで眼が覚める様な気配は無い。此処が『夢』の中であると言う認識はあるのに、それ以上はどうする事も出来ない。
 ……この『夢の中』を脱け出す方法を求めて、宛ても無く雪山を彷徨い始めるしかなかった。

 雪山を暫し彷徨い歩いていると、見覚えのある柄の羽織が見えた。

「炭治郎!!」

 吹き付ける雪風の中に消えない様にと、思いきり声を上げてその名を呼ぶが、しかし炭治郎の反応は無い。
 声が聞こえていないのか、それともそれどころでは無いのか。
 炭治郎は彼の前方を見て、動揺した様に呼吸を荒げて目を見開いていた。
 その視線の先に居るのは。

「あ! 兄ちゃんだ! お帰り!」
「兄ちゃん、炭売れた?」

 何処か、炭治郎とその目元が似ているまだ幼い年頃の男女で。
 そして彼等は、炭治郎の事を、「兄ちゃん」と。そう呼んだ。

 その途端に、炭治郎は確りと握っていた日輪刀を取り落とし、彼等に駆け寄って。
 そして、抱き締める様にして雪の中に押し倒す。
 その炭治郎の姿は、見慣れた『鬼殺隊』の隊服姿では無くて。
 自分の知る炭治郎よりも更に幼さが残る姿に、変わっていた。
 そして、言葉すら喪った様に号泣しながら、その小さな子供達を抱き締める。
 ごめん、と。そう何度も繰り返す慟哭の涙は、魂を引き裂く様な苦しみと哀しみを伴っていて。
 一体何が起きているのか分からないまま、自分はその光景をただ眺めている事しか出来なかった。


 ……ここは「自分の夢の中」なのではなくて、「炭治郎の夢の中」なのではないか、と。直ぐに気が付いた。
 自分は、炭治郎に禰豆子ちゃん以外の弟妹が居た事も、当然その容姿など知る筈も無いのだから。
 そんな彼等が、自分の夢に出て来るとは流石に思えない。
 例え此処が……そして炭治郎も炭治郎の弟妹達も自分の中の想像だとするにしても、炭治郎の反応は余りにも「本物」だった。自分は、禰豆子ちゃん以外の弟妹に炭治郎がどの様な反応をするのかなんて知らないから、弟妹を前にした炭治郎のその反応が自分の想像の産物だとは到底思えない。
 どうして「炭治郎が見ている夢」を自分も見ているのかは分からない。夢の世界を炭治郎の視点で見ているのではなく、夢の中で自分自身として存在している理由も分からない。ついでに言うと、どうやら炭治郎に自分は見えていないらしいし、何なら干渉する事も出来ない様であった。
 まあそれに関しては、「炭治郎の夢」に本来自分は存在する筈が無いので、炭治郎が無意識の内にその存在や干渉を弾いているのかもしれないし、それとはまた別の理由なのかもしれない。
 ここが「炭治郎の夢」であるならその夢を見ている張本人である炭治郎に目覚めて貰わなければどうする事も出来ないのではないだろうかと考えて、どうにか炭治郎に目覚めて貰おうとあの手この手で起こそうとするのだが、どうやら自分の声は炭治郎には一切聞こえていないし、炭治郎に触れようとすると手がすり抜けるし、手で触れられないならばと雪玉を丸めてぶつけようとしても今度はその雪玉もすり抜けてしまう。
 その為、今の自分に出来るのは、炭治郎が少しでも早くここを夢だと自覚して目覚めてくれる様に祈りながら、その夢を見守る事だけであった。

 しかし、「炭治郎の夢」は余りにも哀しい「幸せ」に満ちていた。
 炭治郎程の家族思いの人間が、例え今は禰豆子ちゃん以外は一緒に居ないのだとしても己の家族の事を一切話さないなんて事は無いだろう。……その家族が、今も生きているのならば。
 禰豆子ちゃんを見ている時のその眼差しが、深い悲しみに揺れているのは、彼女が鬼にされてしまったと言う悲劇だけでは無く、恐らくは禰豆子ちゃん以外の家族を喪った事に起因しているのだろう。
 どうして、炭治郎が禰豆子ちゃん以外の家族を喪ってしまったのかは、この「夢」を見ているだけでは分からない。
 ただ、ただただ。炭治郎にとって、家族が心から大切な存在であると言う事だけが伝わる。
 鬼を殺すだなんて血腥い殺伐とした日々に身を置く訳では無く、大切な家族と一緒に山の中で炭を焼きながら慎ましくも穏やかに暮らすその日々を、心から「幸せ」だと。そう炭治郎が心から想っている事が、願っている事が、……こうして見ている以外にどうする事も出来ないのに自分にも伝わってきてしまう。
 そして、その「幸せ」はきっともう叶わない事となってしまったのだろう事も。
 炭治郎が喪ってしまったモノのその傷口に、自分の意思によるものではない不可抗力であったとは言え、無遠慮に触れてしまっていると言う、罪悪感にも似た後ろめたさを感じてしまう。
 だが、そんな後ろめたさを焼き尽くす程に、この胸に溢れているのは哀しみと怒りであった。

 これは余りにも「優しい夢」だ、「幸せな夢」だ。そしてそれ以上に、残酷な夢であり、悪趣味な夢である。

 炭治郎本人が望んでこの夢を見ているのなら、それはそれで良いのだけれど。
 だがこれは、血鬼術によって見せられている夢なのだ。
 恐らく、その血鬼術はただ単に眠りに落とすだけのものではない。その夢を見ている本人にとって、目覚めたくない程に「幸せな夢」を見せているのだ。
 思えば、車内を見渡した時に確認した限りでは、誰もが幸せそうな安らかな顔をして眠っていた。
 つまりは、そう言う事だ。本人自身がその夢から目覚めたくないと望むのであれば、眠りを維持する事は難しくない。そして、現実の己の状態がどうであるのか分からないまま、喰い殺されて行くのだろう。
 自分も、やろうと思えば相手を強制的に眠らせる力はある。だが、眠るその間に見ている夢に外から干渉は出来ない。出来るかもしれないが、しない。そんな、人の心を、……哀しい程に傷付いた人の心に甘い猛毒を塗り込む様な事は絶対にしない。似た様な力を持っているが故にこの血鬼術を使う鬼の悪辣さを誰よりも理解出来るからこそ、血鬼術を仕掛けてきた何処の何とも知れぬ鬼に対して、自分は本気で怒っていた。
 優しい炭治郎は、この夢から目覚める時、恐らくとても傷付くだろう。傷付く必要など無くても。それでも、この「優しい夢」を自ら終わらせる事に苦しむ。この温かな幸せを喪った事を思い出し、傷付くのだ。
 だからこそ、赦せない。
 友の心を徒に弄び傷付けられて、それを黙って見て居られる程に自分は弱くも大人しくも無い。

 だが、今の自分に出来る事は無い。心の海を渡る力はあるのに、炭治郎の夢の中からその心に干渉する方法は無い。この夢から醒める方法を見付けたとしても、それを伝える術は無い。炭治郎自身が、それを見付けてくれるまで、何も出来ない。見守っている事しか出来ない。それが悔しくて悲しい。

「すまない……炭治郎……俺は……」

 届かないと分かっていても、そう言葉にせずにはいられない。
 目の前の「幸せ」が、炭治郎にとってどれ程の価値があるのかを、僅かにであっても理解出来るからこそ。
 目覚めて欲しいと願うしかない事が、哀しくて仕方ない。
 それでも、目覚めなければ炭治郎は死ぬ。自分も死ぬかもしれないが、それ以上に炭治郎が死んでしまうかもしれない方がもっと辛い。だから起きて欲しい、目覚めて欲しい。それがどれ程炭治郎にとっては苦しい現実なのだとしても。そこには、炭治郎にとっては何よりも大切な禰豆子ちゃんが……ただ一人残された家族が居るのだから。

 そして、炭治郎自身も目覚めようとしているのか、微かに抵抗しているかの様に「夢」の中に現実の欠片が現れている。だが、それでも目覚めには至らない。
 此処が夢だと炭治郎が自覚しても、それで目覚めに至る訳では無いのかもしれない。
 なら、一体何が条件になるのか……。

 自分には何も出来ないと分かっていてもそう考え込んでいる内に、目の前で炭治郎が風呂の準備の為に川で水を汲もうとしていたその時だった。
 炭治郎が、目の前で川に落ちた。否、それは何者かに水中へと引き摺り込まれるかの様であった。

「炭治郎!!」

 触れる事は出来ないと分かっていても、身体は反射的に動き、水面に手を伸ばして炭治郎を救い出そうとする。
 そしてその指先が水面に映った炭治郎に……『鬼殺隊』の隊士としての姿をした炭治郎に触れた瞬間。
 目の前の景色は、一変し。意識は更に深い水底にまで引き摺り込まれていった。






◆◆◆◆◆






 ── 幸せが壊れる時には何時も、血の匂いがする


 ぼんやりと、微睡んでいる様な感じであった。
 此処に居て、でも其処には居ない。起きていて、眠っている。
 自分と言うものも少しあやふやで、まるで目覚めながらにして夢を見ているかの様で。

 そんな中、足元の感触から、今自分は雪の中を歩いていると言う事が分かる。
 自分は一体何をしているのだろう、何処に向かっているのだろう。
 …………あぁ、そうだ。自分は、家に帰る途中なのだ。年越しの為に、少しでも金銭を得ようとして、町に降りて炭を売ったその帰り。本当は昨日の内に帰る筈だったのだけれど、遅くなって夜が近くなったから三郎じいさんが家に泊めてくれて。
 ……三郎じいさんって、誰だっけ……?
 あぁ、山際で独り暮らしをしていて……よく「鬼」と「鬼狩り」について話してくれる人だ。昨晩も、「鬼」が出るからって泊めてくれたんだった。
「鬼」なんて、居ないのに。……いや、違う、そうじゃなくて、鬼は居る。鬼は居たんだ。もっとその話を真面目に聞いていたら、もしかして。でも、もう……。

 意識は半ば混濁したままだが、雪道を行く足取りに迷いは無い。
 知らない場所だ。生まれ育ったよく知っている山だ、鼻も利くから迷ったりなんてしない。
 いや、自分はそこまで鼻が良い訳では無かった気がする。
 あれ、自分って何だ。
 ……まあ、良いか。早く帰らなきゃ。皆心配しているだろう。
 母さん、禰豆子、竹雄、花子、茂、六太……。長男だから、早く帰って安心させてあげなきゃ。
 長男……、だから……。
 大事な家族、愛しい弟妹。父さんが死んで、皆悲しいけど、家族皆で力を合わせて頑張って来た。
 これからも、ずっと、ずっと……。
 その為にも、行かなきゃ、帰らなきゃ。もっと早く帰らないと、間に合わない。
 あぁ……どうして。幸せが壊れる時には、何時も血の匂いがするのだろう……。

 その匂いを嗅ぎ付けた時、幸せが壊れてしまった事を半ば確信した。
 でも、信じたくなくて、だから、走って。それで。……それで。

 まず初めに目にしたのは、血溜まりの中に倒れる禰豆子と、その腕の中に抱えられた六太だ。
 その身体の下の雪はすっかり血を吸って、一部が茶色く変じつつも真っ赤に染まっていて。
 遠目に見るだけでも、惨い有様だった。だから駆け寄って、息を確かめようとして、それで。家の中の惨状に、その時漸く気付いた。
 昨日まで皆で暮らしていた筈のそこは、床にも壁にも天井にも血が撒き散らされた状態で。
 皆が……大切な家族が。惨い有様で、事切れていた。

 一体何故、どうして、何があった、誰がやった。どうして。
 冬眠出来なかった熊か? いや、しかし家族の亡骸に喰い荒らされた様な痕は無くて。ただただ「殺した」と言う結果だけが其処に在って。喰う為、生きる為に何かが作り出した光景では無くて。では何が。……鬼だ。
 心の中を絶望が支配し、そして何も出来ず家族の死の瞬間すら知らぬ自分の無力に慟哭し。
 それでも、ほんの僅かに息があった禰豆子の命を繋ぐ為に。血塗れの禰豆子を背負い、山を降りる。
 町にまで降りなければ満足な治療を受けさせてやれない。そして、町までは絶望的に遠かった。
 何時も重い炭を担いで降りている道だと言うのに、永遠に何処にも辿り着けないのではないかと思う程に、遠い。背中の禰豆子の重みを感じながら、息をする事すら苦しくても、一歩でも、一歩でも前へと。それでも辿り着けない。でも、助ける。兄ちゃんが、死なせない。兄ちゃんだから、助ける。助けなきゃ。禰豆子、嫌だ、死なないで、一人にしないで。嫌だ、禰豆子……。

 ── こわいよ……お兄ちゃん……

 小さな身体、苦しそうな息、震える手。どうか、と祈ったその手の中で力尽きた小さな手。
 大事な、とても大切な手。守ってあげると約束したのに、必ず助けると誓ったのに。
 自分の命と引き換えにしてでも、助けたかったのに。
 どうして、どうして何も出来なかった。どうして防げなかった、どうして。この子が一体何をした。
 ベッドの脇の電子音が、その命の火が消えた事を無情にも知らせる。
 何も言えない、目の前の現実を受け入れたくない、ただただ呆然と、その手を握り続けていた。
 傍で叔父さんが絶望の慟哭を上げる。駄目だ、叔父さん、あなたも酷い怪我をしている。そんなに暴れたら、死んでしまうかもしれない。
 傷が開いて運ばれていく叔父さんの顔色は悪い。当然だ、目の前で娘を喪ったのだ。
 たった一人残された家族を、目の前で。何も、分からないまま。
 何があったのか、原因を知っているだけ、叔父さんの苦しみに比べたらきっとマシで。でも、耐えられなかった。
 この上叔父さんまで亡くしたら、もう。
 帰って来て、駄目だよ、叔父さんを一人にしちゃ駄目だ。
 ……俺を一人にしないで、菜々子……。

 何処かの景色が一瞬混ざり合う。何時かの絶望がこの胸に蘇る。
 背に負った禰豆子が不意に暴れて、足元の雪に滑って禰豆子諸共崖下に落ちる。
 崖下に降り積もっていた雪で助かったが、落下した際に禰豆子を落としてしまった。
 禰豆子、禰豆子大丈夫だ、歩かなくていい、兄ちゃんが運んでやる。
 ……でも、もう手遅れだ、鬼になっている。
 突然襲い掛かっていた禰豆子の攻撃を、辛うじて手にしていた斧の柄で受け止めて。一体何があったのかと混乱する。禰豆子は禰豆子ではなかった、別の何かになっていた。「鬼」と言う言葉が自然と頭に浮かぶ。
 でもどうして、禰豆子は生まれた時からずっと一緒だった、禰豆子は生まれた時からずっと人だった。
 それに、禰豆子が皆を殺したんじゃない、禰豆子の口にも手にも血は付いてないし、そもそも禰豆子は六太を庇って倒れていた。あの場には禰豆子ではない「何か」の臭いが残っていた。なら、そいつが。
 でもどうして禰豆子が鬼になった、一体何で。
 鬼舞辻無惨、そうだ、そいつの所為だ。そいつが禰豆子をこんな目に遭わせた。皆を殺した。何も罪なんて犯す事も無く静かに暮らしていた、小さな幸せを全部壊した。
鬼舞辻無惨、赦さない、お前を絶対に赦さない。心の海の最果てまで追い詰めて、薄汚いお前の存在の全てを根こそぎ消してやる。絶対に、赦さない。
 でも今は禰豆子の方が大事だった。苦しいだろう、辛かっただろう。あの雪の中、凍える様な寒さの中で、自分の流した血がゆっくりと凍り付いていくのを感じながら、腕の中の六太の温もりが消えて行くのを感じながら、何を思っていたのだろう、何を感じていたのだろう。ああ、ごめん、ごめんよ。助けられなくて、何も出来なくて。
 皆、何も出来ない内に、あんな惨い目に遭って。
 その場に居たのなら、助けられたのかもしれないのに。小さくても掛け替えの無い幸せを道端の雑草の様に踏み潰そうとしてきた鬼舞辻無惨を、この命と引き換えにしてでも消し飛ばせたのに、その力が自分にはあるのに。でも時間は戻らない。過去を変える事は出来ない。出逢った時点でもう全てが過去だったから、変えられない、変えてあげられない。だから、こうして見ている事しか出来ない。
 でもせめて、禰豆子だけは。何とかしなきゃ、何とか出来る可能性がある限り。禰豆子はたった一人残された家族なんだから。たった一人の、大切な……。もう、喪いたくない。

 禰豆子は鬼になった、鬼にされてしまった。それでも、禰豆子は完全に向こう側に行くその手前でギリギリ踏み止まっていた。その心には、確かに人としての禰豆子の心が残っていた。泣いていた。押し倒した獲物を前に、泣いていた。
 その尋常ならざる精神力は、家族を想ったからだと……そう思う。だって、禰豆子にとってもたった一人残された家族なのだ。禰豆子は最後まで家族を守ろうとしていたからこそ。だから。
 禰豆子の頸を斬る為に襲い掛かって来た者から、禰豆子を庇う。
左右で布地が違う変わった意匠の羽織を身に纏った『鬼殺隊』の隊士。金の釦に、刀に彫られた「悪鬼滅殺」の文字。柱だ。……でも誰だろう、知らない人だ。
 ああ、冨岡さんだ。まだ名前は知らなかったけれど、とても恩がある人だ。禰豆子の為に、その命まで懸けてくれた。でも、この時はその未来をまだ知らない。
 斬られそうになった禰豆子の助命を嘆願して額を地に擦り付ける。雪の寒さは気にならなかった。
 でも、そうやって嘆願した所で、戦う事も出来ないその力も無い何の権力も後ろ盾も無い子供の言葉に、何かの力がある筈も無くて。惨めに這いつくばった所で、それに憐憫の情を懐いて貰う事すら儘ならない。いや、憐れんだ所でそれで鬼を斬る事を止める事など無い。それを冨岡さんは厳しい言葉で諭した。
 その言葉の意味を本当に理解出来る様になったのはもう少し先の事だけど。その言葉の強さに背を押された。
 だから必死に知恵を絞って抵抗して。でも、その抵抗は鍛錬を積んだ隊士の前には無力だった。
 それでも、気を喪った後に禰豆子が斬られる事が無かったのは、禰豆子自身が己の可能性と意志の強さを冨岡さんに示したからだ。
 禰豆子を喪う事が無かったのは、奇跡としか言い様が無かった。最初に駆け付けた隊士が冨岡さんでなければ問答無用で斬られていただろうし、その後の道を示して貰える事も無かっただろう。
 家族の亡骸を埋葬して、住み慣れた大切な家を後にして。
 禰豆子を人に戻す。その為だけに、先が見えないままに歩き出した。
 絶対に禰豆子を守るのだ、と。それだけを心に決めて……。
 俺は……──


 その時、首筋に鋭い痛みを感じて。意識は急に断ち切られ。
 その瞬間に、自分を取り戻した。






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