第五章 【禍津神の如し】
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鬼殺隊を率いる産屋敷の一族を根絶やしにする為に、鬼殺隊にとって重要な場所である日輪刀を作り出す隠れ里を襲撃しに行った玉壺と半天狗の内、玉壺があの例の『化け物』と遭遇した。今直ぐにそこへ向かい、『化け物』を捕らえろ、と。
己の任務である『青い彼岸花』の捜索を続けている最中に、そう無惨様から命じられて。
無限城に呼ばれた猗窩座は、その場に黒死牟も居る事に僅かながら驚くと共に、無惨様の本気を理解する。
未だかつて……鬼殺隊との大規模な戦いの際ですら、上弦を二体以上も動かした事など無かったのに。
既に玉壺と半天狗が居るそこへ、己と黒死牟も向かわせるとは。
まさに、今動かせる上弦の鬼全てをそこに投じるも同然の事であった。
上弦の陸は欠けたまま、その席を埋める者は未だ居らず。
童磨は、あの『化け物』に消し飛ばされた身体の修復が完全では無い為、何処人の目に付かぬ場所に身を潜めている状態であるらしい。
童磨自身は、あの『化け物』と戦える絶好の機会を逃している事を心の底から悔しがるだろうが……。まあ、あれについて考えるのは止めよう。そう猗窩座は即決した。
触れるべきでは無いものは確かにこの世にはあるのだ。
黒死牟はと言うと、『化け物』相手の大捕物になる事を知ってか、その気迫は何時ものそれを更に凌駕している。
妓夫太郎が討たれてから少しして、黒死牟も『化け物』と遭遇した。
しかし、驚いた事に黒死牟ですら『化け物』を捕らえる事は出来ず、それどころか頸を落とされたらしい。
『化け物』が持つ刀が日輪刀では無かった為にそれで死ぬ事は無かったが。しかし、それは裏を返せばその時『化け物』が持っていたのが日輪刀であれば黒死牟は既にこの世に居ないと言う事だ。
更には頸を落とされたどころか、その場に居た他の負傷した隊士たち諸共に『化け物』には逃げられたらしい。
気付けば、『化け物』はほんの一瞬でその姿を消していたと言う。鳴女の様な力を『化け物』も持ち合わせているのかもしれない。
見た目が『人間』なだけで、その中身に関しては鬼などよりも余程理解出来ない『化け物』である。
まあそう言った因縁もあってか、黒死牟はあの『化け物』に対して並々ならぬ執着と怨念と憎悪を滾らせている様だった。
それは、童磨が『化け物』に向ける怖気立つ程に底知れず気色悪いそれとはまた別の感情ではあるし、あそこまで狂気に染まっている訳では無い様だけれども。
無惨様からも黒死牟からも童磨からも、異様な程に執着されている『化け物』に対しては、猗窩座も多少は興味があった。
その尋常ならざる力を前にして、己の鍛え上げた武が何処まで通用するのかを見たいと思ってはいる。
だがそれ以上の関心は無い。
ただ、三者の執着の度合いを見ていると、『化け物』にはそうやって相手を狂わせる「何か」があるのだろうかとも思う。
童磨が群を抜いて壊れているが、しかし己の剣技を高める事以外に執着など無い様に見えた黒死牟の殺意の高さもかなり尋常なものではないし、『化け物』に対する無惨様の執着もかなりのものである。
まあ無惨様に関しては、あの『化け物』が長い年月の間追い求め続けてきた「太陽を克服する鬼」に成り得る存在だと半ば確信していると言う事もあるのだろうけれども。
何にせよ、猗窩座たちの成すべき事に変わりは無かった。
鳴女の力によって『化け物』の真上に移動したその時には、既に玉壺は倒されていた。
上弦の鬼がまた欠けた事に無惨様が怒り狂っている気配を感じはするが、今は玉壺の事よりも『化け物』を捕らえる事の方が重要だ。
この場に居るのは、『化け物』と、柱と思われる子供と、そして柱には届かない程度の剣士の三人。その内問題になるのはやはり『化け物』だけだろう。
初めて直接相見えた『化け物』は、実に奇妙な存在であった。
此方を警戒し変わった刀を構えてはいるが、闘気などと言ったものはかなり乏しく、至高の領域には程遠く見える。
だが、直接目にする事で、この男が「異常」な事はよく理解出来た。
己が極めんと研鑽し続けている方向とはまた別に、この『化け物』は何かに辿り着いている者の気配を漂わせていた。
己の研鑽の相手として求めている様な「強者」とはまた異なるが……。しかし紛れも無く「強い」事は確かである。
理解出来る存在では無いが、しかしならばこそ戦い甲斐があると言うもの。
猗窩座は『化け物』を前にして高揚する心を抑えきれなかった。
『化け物』はと言うと、この場に上弦の壱と参が揃っているのに弐の姿が見えない事を警戒するかの様にその事に触れる。
それには思わず、猗窩座も黒死牟も揃って苦い顔をした。
どうせあの狂信者は自分達の視界などを通してこの戦いを見ているのだろう。
無惨様も童磨には極力関わりたくないと言わんばかりの対応をしているが、しかし『化け物』……童磨曰く『神様』の事に関しての執着はどう考えても常軌を逸したもので。無惨様に対してすら「要求」を譲らないのだ。
鬼の思考を覗く事が出来る無惨様が、心底気持ちの悪いものを見る様な目で童磨を見ていたのを見るに、その思考は理解してはいけないものになっているのだろう事は疑い様が無い。
それでいて「駒」としては優秀なので斬り捨てるには惜しいのだろう。
どの道『化け物』と戦った際の情報は無惨様を介してから上弦の鬼に共有されるので、多少その順番が逆になった程度なら構わないかと、極力童磨に関わりたくない無惨様は恐らくそうするだろう。それで黙っているならそれに越したことはないのだから。
だからこそ、今もこの様子を観察しているのだろう童磨の見ている前でその名を口にするなと言うと。
「何だあいつ、鬼の中でも嫌われているのか……」
何を勘違いしたのか、『化け物』はそう沁々と言う。確かに嫌われているというのは間違いは無いが……。
童磨から常軌を逸した執着を向けられている事を知らぬのだろうその反応に、敵対する相手ではあるものの余りにも「憐れ」だと感じてしまい、猗窩座も黒死牟も沈黙するしかなかった。
何であれ、ここでこの『化け物』を捕らえなければならない。
その為、黒死牟がその刀を構え、猗窩座がその拳を握ると。
『化け物』もそれに対抗するかの様に武器を構える。それと同時に、突如異形の存在がその場に現れた。
龍を使役していると黒死牟から聞いていた猗窩座は、明らかに龍とは違うその異形に驚き。そして、その異形があの無惨様に匹敵するか或いは凌駕する程にその強さに全く底が見えない存在である事を悟り、歓喜の念に震える。
『化け物』を化外の存在たらしめているものがこの異形なのだろうか?
何であれ、ここまでの存在と対峙する事が出来たのは、数百年の研鑽の中でも初めての事であった。
猗窩座は羅針を展開し、黒死牟と共に『化け物』たちを狙う。
空間丸ごとを斬り刻んだ筈の黒死牟の斬撃は全て異形に防がれて。そして『化け物』は猗窩座の乱式を全て回避し討ち払いつつ凄まじい速度で踏み込んで猗窩座へと斬り掛かってきた。
『化け物』のその一撃に羅針が正確に反撃する。しかし反撃に反撃を重ねられた『化け物』の方も、猗窩座ですら驚く程の反射速度でそれに対応し、半ば必中を確信していた冠先割を回避する。
型と呼べる様な攻撃では無い。そもそも何らかの呼吸の使い手でも無い。
だが、『化け物』は今まで遭遇した事が無い程の強敵であった。
その在り方としては、『人間』と言うよりも寧ろ「鬼」の方が近いと確信出来る程に。
その身体能力は、上弦の鬼である猗窩座と黒死牟に匹敵乃至凌駕する程のものである。
隔絶した身体能力だけで戦う無惨様のそれにすら届き得るやも知れぬと思う程に、それはまさに『化け物』の力であった。
『化け物』以外の剣士も、ただ見ているだけでは居られないとばかりに己の刀を握り締めてはいるが。しかし、乱れ舞う斬撃と拳撃の嵐の中では出来る事など回避に専念する事位で。それですら、攻撃の殆どを『化け物』と異形が防いで何とか、と言う状態であった。
まあ、入れ替わりの血戦を挑んだ時ですら殆ど見せた事が無い程の、更には無惨様の血によって極限にまで高められた「本気」の力を最初から見せている黒死牟の攻撃を、僅かなものであっても避ける事が出来ているだけで「強者」たる資格は十分であるのだが。
かつて無い程に高揚を覚え、そしてその熱を全て叩き込む様に猗窩座は己の拳と鍛え抜いた足技を揮う。
今までに無い程に分け与えられた無惨様の血は、猗窩座の「鬼」としての位階を数段以上引き上げていた。
かつての己なら、相対したとしても捻り潰せると断言出来る程に。
肉体の再生速度も、足と拳の切れも、反射速度も、その何もかもがまさに桁違いになっている。最早「生き物」として別の存在に変わったと言っても過言では無い。
上弦の鬼……それも古くより研鑽を続けて来た者であるからこそ受け入れる事が出来る限界量ギリギリの血は、それ程までの変革を上弦の鬼に齎していた。
己の血を与える事には慎重な無惨様がそこまでの強化を許したのは、それ程までに無惨様が『化け物』を警戒し、同時にそれを欲している事の証左であるのだろう。
しかし、それ程までに高みへと至れた事は喜ばしい事であったが、同時にその全力を向ける相手が居なかった。
元々柱だろうと何だろうと「強者」であれど『人間』の中には猗窩座が全力を出さねばならぬ相手など居らず、黒死牟や童磨相手に入れ替わりの血戦を挑もうにも、『化け物』の捕獲が成功するまでは徒に上弦を消耗させる事は赦さぬとばかりにそれは無惨様直々に禁止されている。
故に、些か「持て余して」も居たのだ。
鍛錬は変わらず続けていたが、その研鑽をぶつける相手と言うものを猗窩座は欲していた。
そして今、己の「全力」を叩き付ける事が出来る相手が現れた事に、猗窩座は紛れも無く歓喜していたのだ。
『化け物』は実に素晴らしかった。
極限まで鍛え抜いたと思っていた己の武の全てを叩き付け続けても、それを全て受け切る。
恐らく見切ってはいたのだろうが、共に戦う者達を「守る為」に回避では無く防ぐ事を選んでいる様だった。
それでいて、猗窩座が全力を出しても尚、『化け物』の身体には掠り傷一つ付ける事が出来ない。
最早この世の理の内に居る存在とは思えない程である。
仲間へと向かう攻撃は最早神速の勢いで防ごうとする事から、『化け物』はとにかく「仲間を守る事」を最優先にしているのだろう。
黒死牟の攻撃をひたすらに捌き続けている異形の方も同じだ。
途中まで無惨様を介して見せられていた、玉壺と『化け物』たちとの戦いに於いても、『化け物』は終始仲間を守る事を最優先にしている様だった。
だからこそ、それを人質として取ったその時には玉壺ですら『化け物』を一方的に攻撃出来たのだ。
『化け物』の弱点は、余りにも明白であった。
とは言え猗窩座も黒死牟も、『化け物』を相手に人質を取ろうとは思ってはいない。
無惨様から直々に命じられればまた話は別だが、少なくとも今この場に於いて、その様な無粋な事は望まない。
この『化け物』を己の力で破る事こそが今の猗窩座にとっての優先事項であった。
素晴らしい「強者」を前にして、猗窩座は何時もの様にその名を訊ねる。
「鳴上悠」……悠と名乗ったその『化け物』は、続く様に投げ掛けた「鬼になろう」と言う勧誘には、静かに首を横に振った。
どうして己が認めた「強者」は皆同じ反応をするのだろう。
鬼になれば、永遠に己を研鑽し続けられる、強くなり続ける事が出来る。
病に苦しむ事も、毒などの卑劣な手段で命を落とす事も無いのに。
「俺は別に誰よりも強くなりたい訳じゃないんだ。
大切な人たちを守れたら、大切な人たちの力になれるなら、それだけで良い。
それに、俺の求めている強さや力は鬼になったとしても絶対に手に入らない。
不老も、強靭な再生能力も、俺には必要無い。
鬼としての生が齎す永遠の命なんて、俺にとっては、永遠に生きる事も死ぬ事も無いままに虚ろの森を蠢き続ける事と変わらない。
そんなの、俺は嫌だ。
俺は、大事な人たちと一緒に、『人間』として同じ時を生きて歳を重ねていきたいんだ」
静かに、だが揺るぎ無くそう答えた悠の言葉に、猗窩座の胸の奥が騒ついた。
━━ お前はやっぱり俺と同じだな。
━━ 何か守るものが無いと駄目なんだよ。
━━ 来年再来年も……
━━ 俺は誰よりも強くなって一生あなたを守ります。
何かの声の様なものが、猗窩座の耳の奥に響いた気がした。
しかしそれはどうにも不明瞭で、幾重もの透明な帳の向こう側からぼんやりと聞こえて来るかの様だった。
誰だ、そしてこれは何の声だ。
覚えが無い筈のそれに、ザワザワと胸の奥が揺れる。
かつて無い全力の戦いに高揚していた気分に水を差す様な、いや……その根底から引っ繰り返そうとするかの様なその感情の動きを、猗窩座は理解出来ない。
だが、どうしようも無く苛立ちが込み上げた。
だがこれは何に対する苛立ちだ?
分からない。分からないままに、猗窩座はその拳をより強く握る。
「理解出来ないな。何故『人間』のままで居たがる?
俺には解るぞ。お前、《《まだ本気を出していない》》な?
あの童磨を屠りかけた一撃を何故放たない?
いや、出せないのだろう。そこの弱者共を庇う為に。
何故弱者を構う。弱者など見るだけでも虫唾が走る。弱者に存在する価値など無い。
そんな価値も無い下らないものに拘泥して、その力を発揮出来ないなんて、苦しいだけだろう」
恐らくこの苛立ちは、悠が未だその全力を……『化け物』としての本性を見せていないからこそのものであるのだろうと。猗窩座は意味の分からぬ苛立ちに対してそう結論付ける。
そうだ、何故この『化け物』は「弱者」を庇う、「弱者」を守る、「弱者」に拘る。
何故この『化け物』には、守りたいものを守り切れる力があるのだ。
握った拳は益々その冴えを増し、更に苛烈に悠を追い詰めんと嵐の様な打撃を繰り出す。
しかし、その全てをやはり受け止め捌き切り、悠は仲間たちを守り切る。
「……お前の言う『弱者』とは何だ?
『強者』とは、何だ?
何を以てそれを決める? お前に何の権利があってそれを判断するんだ」
悠の言葉に、胸の奥が更に騒めく。
止めろ、煩い、黙れ。
そんな意思と共に放った一撃は、難無く防がれる。
弱者は弱者だ、そして強者は強者だ。
それ以外のものなんて無い。
「人は皆、弱くもあり強くもある。
誰もが完全無欠の存在にはなれない。
だが、何の価値も無い者も居ない」
違う、「弱者」に意味なんて無い、価値なんて無い。
「弱者」は誰も守れない、何も守れない。
きっと治す、助ける、守ると口先ばかり。
「命に代えても」と誓った者すらも。
何も出来ないまま喪うしか無かった。
惨めで滑稽で、下らない存在だ。
「一度でも間違えたら『弱者』なのか?
一度でも逃げたら『弱者』なのか?
誰かに守られる存在は皆『弱者』なのか?」
「弱者」は何度も間違える。
「弱者」は卑劣な方法で命を奪う。
「弱者」は辛抱が足りない。
真っ当に生きると決心してすら間違える。
何もかもを喪って、大事な物もこの手で壊して。
意味も無いのに、殺戮を繰り返し。
終わる事の無い虚無の地獄を歩き続ける。
「弱者」になど、意味も無く価値も無い。
この世から消え果てるべき存在だ。
その結論と共により強く拳を握り、目の前の存在が守ろうとしているものごと全てを破壊しようとする。
しかし、深い霧を切り裂くかの様な鋭く力強い悠の眼差しは、何処までも真っ直ぐに猗窩座のその奥底を射抜いた。
「猗窩座。どうしてお前は力を求める、どうしてお前は力を求めたんだ?」
その言葉に、思わず思考が固まる。
何故。……何故?
分からない、理由など無い。
だが「強くならねばならない」と言う意識だけが己を突き動かし続けていた。
強くならなければ、親父に薬を持って帰れない。
強くなければ、何も守れない。
だが結局、何一つとして守れやしなかった。
「お前は何の為に強さを求め続けているんだ?
どうしてお前はそんなに空っぽなんだ?」
もう「強さ」になんて意味は無い。
守りたいものなんて、何も残っていない。
何もかもを喪ったのに、生きていたい訳でも無い。
何も理由が無い。だから空っぽだ。
思考の空白と共に、猗窩座の身体が僅かに固まる。
そしてそこを狙った悠の攻撃に、羅針は反応してもそれを止めきれずにその連撃の全てをまともに喰らってしまい、トドメとばかりに異形の紫電を纏った一撃に身を灼かれながら頸を刎ね飛ばされ身体も吹き飛ばされた。
頸を落とされはしても、日輪刀による一撃ではなかった為それで消滅すると言う事は無く。
吹き飛ばされたその首を回収して切断面に乗せると、瞬時とは言わないもののジワジワと修復される。
無惨様の血によって強化されていなくてはともすれば上半身が丸ごと消し飛んでいたかもしれない程の雷撃によって切断された為なのか、ただの刃物で切られたのならば直ぐ様に繋がる筈の首も治りが遅かった。
だが、それも致命的なものでは無く、無事に繋がった頸の状態を確かめてから、猗窩座は再び悠たちを襲う。
今度は柱の少年も、そしてかつて杏寿郎と戦った際にその場に居合わせた「弱者」であった剣士も、より積極的に攻撃を仕掛けて来る。
どうやら、『化け物』としか言えない程にこの世の理を超越している様にしか見えない悠も、その力は無尽蔵では無いらしく。
その動きに翳りが見える訳でも無いが、明らかに「限界」が近付きつつある様な顔をしていた。
黒死牟とやり合った時に激しく消耗したのだろうか。
そんな状態でも、問題無く猗窩座の攻撃を防ぎ切るのを見るに、やはり常軌を逸した存在である事には間違いないのだろうが。
柱の少年も、そして見た事の無い独特の呼吸を使う伊之助と名乗った剣士も、「弱者」と謗る程には弱くは無い。寧ろ、容赦無く攻撃し続ける猗窩座の連撃から生き延びているのを見るに間違い無く「強者」の側の存在ではある。
だが、それはあくまでも『人間』の範疇内での事。
もし悠が力尽きれば、成す術も無くその瞬間に捻り潰されてしまう程度の強さだ。
そしてそれが分かっているからこそ、悠は焦った様な表情で必死に戦っている。
最初から仲間の事など気にせずに「全力」を出していればこんな風に追い詰められる様な事も無かっただろうに。
誰にも手に負えない様な『化け物』でありながら、「詰まらない理由」で敗北する。
それは、『人間』を一生懸命に演じようとしてその止め時を喪った憐れな『化け物』のそれの様であった。
勝利を確信し、更に追い込もうと一層苛烈に攻撃を仕掛けようとしたその時だった。
ゾワリと背筋が凍り付き全身の産毛が逆立つ程の、「危険」など遥かに通り越した、生命の本能の根源的な『恐怖』を鬼となって初めて感じた。
激しい消耗に荒く息をしていた筈の悠のその眼が、恐ろしい程に冷たく輝く金色に染まって見える。
己の生殺与奪の権の全てを握る無惨様に相対している時のそれを遥かに凌駕する、「絶対に殺される」と言う。一瞬先には欠片も残さず吹き散らされている「当然の事実」を、本能が理解せざるを得ない。
目の前の「それ」が、『化け物』だとか常軌を逸しているだとか、そんな……何か既存の言葉で表現出来る様な甘い存在では無い事を、瞬時に悟らされた。
「鬼」程度で触れて良いものでは無い、呼び起こして良いものでは無い。
何か取り返しの付かない事が、何があっても触れるべきでは無い『何か』が、今目の前で生まれようと……その目を醒まそうとしているのでは無いか、と。
そう無為に思考が巡る。そして、それが目覚める前に今直ぐ殺さなくてはならないと、猗窩座は判断した。
それが目覚めた瞬間、猗窩座どころか黒死牟も無惨様も何もかもが、塵を吹き散らすかの様に消える。
それを阻止出来るのは、今この瞬間しか無い。
だが、悠に叩き込む筈だった拳は、その腕ごと斬り落とされ。
そして、胴を狙ったその一撃を回避する為に大きく後退せざるを得なくなる。
完全に意識の外にあったその乱入者の姿に、猗窩座は大きく目を見開いた。
「すまない、遅くなった。
……よく、頑張ったな。
さて、此処からはこの炎柱──煉獄杏寿郎も相手だ」
凛とした力強い声で、その眼差しに熱い闘志を漲らせたその者は。
この場に現れる事など決して有り得ない筈の。
己が手で確かに殺した、この世に存在する筈がない男であった。
「何故だ……何故、生きている、杏寿郎……!!
お前は、俺が確かに殺した筈だ!
生きている筈が無い……!
……っ、それとも鬼になったのか?
気配は上手く隠している様だが──」
有り得ない、何故、何が起きた。
幽霊など信じた事など無いが、そうとでも考えないと有り得ない事だった。
あの傷では、何があっても助からない。
それこそ、「鬼」にでもならなければ。
四半刻すら待たずして、息絶えた筈だ。
あれで死んでいないのから、それはもう『人間』では無い。
死者は生き返らない、何をしても、絶対に。
喪った者が蘇る事も無い。
どんなに望んでも、願っても、縋っても。
永遠に、俺の守りたかった者が戻る事は無い。
誰にもその理を覆す事など出来はしない。
なら、どうして、何故。
猗窩座の思考は、動揺からか支離滅裂と言っても良い程のもので。しかも、それは続く杏寿郎の言葉によって更に悪化した。
「俺は鬼になどなっていない。
確かに、俺は命を落としたも同然だったが……此処に居る鳴上少年に命を救って貰った」
その瞬間、猗窩座の心を押し流すかの様に荒れ狂ったのは。
激情と言う言葉ですら生温い程の。後悔、絶望、悲嘆、慟哭、憤怒、虚無、嫉妬、羨望などと言った感情の濁流であった。
何故だ!! 何故、何故、何故、何故!!!
何故そんな、どうしてそんな……!!
そんな力が、そんな『奇跡』を起こす力が!
死に行くしかない者すらも生き返らせる力が!
この世に存在すると言うのならば!!
俺は、何も喪わずに済んだのに!!
親父が病で痩せ細り、最後には首を吊る様な事も!
師範と恋雪さんが毒に苦しんで殺される様な事も!
全部、全部、全部! 無かったのに!!
どうして、俺たちの時には助けてくれなかった!
どうしてお前はそこに居なかった!
何故だ! どうして……!!
どうして、俺にはお前の様な力が無かったんだ!!
どうして…………
感情は支離滅裂で意味が分からないもので。
そんな動揺を他所に放った技は、何時もと変わらぬ威力と速さのもので。
しかしその攻撃を、杏寿郎は悠の手を借りずに全て防ぎ回避してみせた。
以前戦ったあの時ですら、「至高の領域」に限りなく近い場所までその闘気は練り上げられていたと言うのに。
今こうして再び対峙した杏寿郎のそれは、あの時とは最早次元が異なる程のものに達していた。
幾百幾千の死線を乗り越えて漸く到達出来るかどうかと言う領域に、死ねば終わりの『人間』の身でありながら、杏寿郎は辿り着いていた。
短期間の内に、どれ程の修練を重ねたのだろうか。
凄まじい研鑽の跡をそこに見て、その素晴らしさに猗窩座の心が震えた。
支離滅裂だった感情も、その感動に押し流された様に鎮まる。
だがその時、再び悠が何かを仕掛けたのか。杏寿郎の日輪刀が『赫』に染まった。
その色を見ると、全身の細胞が怖気立つ様に震えた。
自分では無い。無惨様の細胞が、「これ」を恐れているのだ。
その日輪刀が危険なものだと、本能が察した。
今ここで仕留めなければならないと、そう無惨様の細胞が命じる。
だからこそ、全てを終わらせる為の、己の持てる最高の攻撃を繰り出す。
── 破壊殺・滅式!!
規格外の『化け物』である悠はともかく、他の三人は確実に消し飛ばせる攻撃だった。
だが、そうはさせじと真っ先に飛び込んで来た悠によってそれは防がれる。
いや、悠は防いですらいなかった。
全てを抉り取り吹き飛ばす筈の拳が直撃しても、悠の身体には掠り傷一つ付かない。
まるで微風すら吹いていないかの様に、ひたすらに腕や肩を斬り飛ばそうと強引にその剣を振るうのだ。
目の前のこの存在には、そもそも最初から避けたり防いだりする必要など微塵も無かったのだ。
仲間を守る為だけに、そうやっていただけに過ぎなかった。最初から、『勝負』になどなっていなかった。
それを理解しても、猗窩座はその拳を止めない。
悠の武器は日輪刀では無い、斬られた所で大きな問題は無い。そして、悠以外を殺せればそれで良いからだ。
だが、その判断は正しくは無かった。
先ず、左足が奪われた。
目の前のそれに比べれば取るに足らないと判断していた伊之助によって切り裂かれたのだ。頸程では無いにせよ、しかし下弦などの頸などとは比べ物にならない程に硬いその足を、獣が咬み裂くかの様にもぎ取っていく。
そして、左足を奪われて体勢が崩れかけたその瞬間には、柱の少年によって胴が幾重にも切り裂かれ同時に右腕も喪う。
『赫』に染ったその日輪刀に切り刻まれたそこは、未だかつて感じた事の無い程の燃える様な激痛に苛まれる。
反撃の為に握った左腕は杏寿郎の日輪刀に落とされて。
そして、どうにか地を蹴ってその場を離れようとした右足は紫電を纏った悠の斬撃によって落とされる。
ほんの数瞬で四肢を落とされた猗窩座の頸を、杏寿郎の日輪刀が捉える。
だが、かつてのそれとは比べ物にならぬ程に硬くなったその頸にはほんの僅かに喰い込ませる事が精一杯で。
しかし、柱の少年がその杏寿郎の日輪刀に己の日輪刀を叩き付けた事によって、一気に首の奥へと食い込む。
腕を再生させて払い除け様にも、焼け付いた様に痛む腕の再生は思う様に進まず。
蹴り殺そうとするも、その足は再生するよりも前に再び伊之助と悠によって落とされる。
そしてほんの僅かな攻防は全て封殺されて、猗窩座は地面に押し倒される。
自分たちの全体重を掛けてその頸を落とさんと死力を尽くす二人の柱によって、猗窩座の頸はもう三分の二が斬られていた。
斬られた端から再生させて繋ごうにも、『赫』に変化した日輪刀で斬られたからなのか焼け付く様に痛む頸の再生は進まない。
四肢を奪われても鍛え上げた全身の筋を使って跳ね起きようとするも、その抵抗は地に深く縫い留める様に突き刺された悠の剣によって押さえ込まれる。
その場の全員が死力を尽くしていた。
死に物狂いで抵抗しようとする猗窩座も、そしてその頸を何としてでも落とそうとする四人も。
そして遂に四分の三が斬り落とされ、最後の一押しの為に足を切り刻んでいたのを中断した伊之助が己の日輪刀を杏寿郎の日輪刀に叩きつけようとしたその時だった。
今の今まで黒死牟を押さえ込み続けていた異形の姿が、掻き消えた。
それと同時に、自由になった黒死牟の斬撃が周辺一帯を蹂躙する。
猗窩座も漏れなく切り刻まれたが、しかし黒死牟の斬撃は猗窩座にとっては瞬時に修復出来るものであり、何よりもその隙に四人からの拘束を抜ける事が出来た事の方が重要だった。
両足を素早く再生させて跳ね起きるようにして地に縫い留められていた所を無理矢理引き千切って抜け出した為胴体は半ば裂けているが、それも直ぐに直る。
斬られた腕はどうにか再生し、それで己の頸深くに食い込んだ杏寿郎の日輪刀を引き抜いて投げ捨てる。
悠は……この場に於いて最も脅威的な『化け物』は。
黒死牟の斬撃と猗窩座の一撃から三人を守った事で既に限界に達したのか、更に息を荒くしてただ己の意思一つで立ち続けているかの様に猗窩座と黒死牟を油断無く睨んでいた。
その身体に傷は無いが、間違い無く限界だ。
しかし、荒く獣の様に息をするその眼は再び金色に侵食され、先程感じた恐ろしい何かの気配が漂い始める。
『化け物』から、『化け物』ですらない【何か】へと変わろうとするそれを、そうなる前に殺してでも止めなければと。
そう覚悟したその時だった。
悍ましい程に恐ろしく圧倒的な気配が、一気に霧散して。
何があったのか分からないが、悠は驚いた様にその目を丸くする。
そして、荒かった息を整えながら僅かに微笑み。
そして、その微笑みが僅かに歪んだかと思うと。
「マガツイザナギッ!!」
そう悠が吼えた瞬間に。先程使役していた異形に良く似た外見の、しかしその気配などは全く違う赤黒い異形が新たに現れて。
そして。
「──マガツマンダラ!!」
まるで闇を煮詰めた様な禍々しい渦に、黒死牟と共に、回避する暇すら無く猗窩座も呑み込まれた。
◆◆◆◆◆
思い出すのは、何時だって痩せ細ったその身体だ。
物心ついた時には、俺には親父しか居なかった。
そして、その時から既に病魔に侵されていた。
病気の所為で満足に働く事が出来なかったから、俺たちは物凄く貧乏であった。薬を賄う為の金なんて何処にも無い位に。
貧乏自体は辛くは無かった。俺には親父が居たからだ。
親父の看病をする事も辛くは無かった。俺はどうやらうんと辛抱の効く丈夫な身体で生まれてきたらしく、小さい頃から看病を苦とも感じなかった。
だけれども、貧乏だから親父の為の薬を買う事が出来ない事、貧乏だから痩せ細っていく親父の為に何か精がつく物を食わせてやれない事。
この二つは、どうしようも無い程に辛かった。
俺には金が必要だった。
しかし子供の俺が稼ぐ為の方法なんて無かった。
腕っ節には自信があったが、かと言って用心棒などで稼げる訳でもなくて。
俺は掏摸などをして金を得ては親父の薬を賄っていた。
何度も奉行所に捕まって刑罰を受けた。
掏摸の罪を示す刺青は両腕に三本も入れられた。
それでもだから何だと思った。
それ以外に金を得る方法が……親父の薬を得る方法が無かった。
物乞いをしたところで、薬を得る為の金には到底足りない。
この世には神様も仏様も居なくて、苦しんでいる誰かを救ってくれる人なんて居ない。
自分たちで足掻くしかないからこそ。
俺は自分に出来る精一杯をしたかった。
親父を治してやりたかった、助けてやりたかった。
一番苦しんでいるのに、「申し訳ない」だなんて言わせたくなかった。
それだけだ、それだけだったのに。
だが、親父は首を吊った。
俺が掏摸で薬代を賄おうとする事に耐えられなかったらしい。
その遺書には、「申し訳なかった」と、「真っ当に生きろ」と遺されていた。
貧乏人は生きる事すら許されないのかと、貧乏なら病を得れば死ななければならないのかと。
心は荒んだまま、所払いを受けて俺は流れ続けた。
親父は何も悪くなかった。何も悪い事なんてしちゃいなかった。
それなのに、病気だったら死ななけりゃならないのか、苦しいのに周りに「申し訳無い」だなんて思わなきゃならないのか、「迷惑をかけている」だなんて感じなきゃいけないのか。
クソッタレた世界で、何の意味も目的も無いままに、俺は荒れ狂っていた。
神様や仏様ってのが本当に居るのなら、それは性悪を極めた様な存在なんだろうと思った。
生きていても救われない、でも死んだからって救われる訳じゃない。
この世界そのものが地獄の様だと、そう思っていた。
そんな日々を過ごしながら数年が経ったある日、俺は師範に出会った。
何時もの様に荒れていた俺は、町の荒くれ者たちと殴り合いになっていて。
襲ってきた相手を全員を叩きのめしたのだが、そこにひょっこりと現れた師範によって一撃で叩きのめされて。
そして気付いたら弟子と言う事で師範の道場に引き取られる事になった。
そしてそこで、師範の娘の看病を依頼された。
それが恋雪さんとの出会いだった。
恋雪さんは、本当に病弱だった。
一日の大半を臥せっていて付きっきりで看病する事もしょっちゅうで、少し動いただけで喘息の発作を起こしてしまう。
俺が道場に引き取られる少し前に、母親が看病疲れの末に入水してしまった程だった。
とは言え、俺は親父の看病で慣れていたし特には苦とも思わなかった。
恋雪さんも、親父と同じく、やたらと謝る人だった。
病に苦しむ人は皆そうなのか。
苦しんでいるのは自分なのだし、そもそも「迷惑だろう」と感じているそれだって出来る事なら自分の手でやりたい事の筈だ。
息が苦しいのも自分が望んでそうなっている訳では無いのだし、どうして謝るのか。
特に、恋雪さんは長く病床に居て気が滅入っているからなのか、会話の途中でやたら泣き出してしまうのだ。
そればっかりは居心地が悪くなるので、少し面倒ではあった。
恋雪さんの看病をしつつ、師範から素流の稽古を付けて貰って。
そうやって日々を過ごす内に、生きる意味も目的も何もかもを見失って彷徨っていた俺の心は確かに少しずつ救われた。
誰かを守れる事が、誰かを助けられる事が、どうしようも無く嬉しかったのだ。
罪人の刺青が入った俺なんかが真っ当に生きられるとは思えなかったけれど。
しかし、そうやって守るものがある日々は幸せであった。
そしてそんな毎日が積み重なって、一年二年と過ぎ去り、師範と出会って三年が過ぎた頃には。
出会った頃は一日の大半を臥せっていた恋雪さんも、臥せる事は殆ど無くなって、普通に過ごせる様になっていた。
そして、そんなある日。
師範から道場を継ぐ事への打診と、恋雪さんと夫婦にならないかと言う提案があった。
最初それを聞いた時、到底信じられなかった。
だって俺は罪人で、そんな俺がろくな人生を歩めるとは思えなかったしそんな未来を想像する事も出来なかった。
況してや、そんな俺を誰かが好いてくれる未来なんて、尚更。
親父が最後に願った様な、「真っ当な人生」をやり直す事が出来るのだろうかなんて淡い期待が膨らんで。
そして、命に代えてでも師範と恋雪さんを守ろうと、そう心に決めた。
──約束をしたんだ。
出会ったばかりの頃に、自分でも覚えていない様なそんな些細な約束を……来年でも再来年でも、何時か一緒に花火を見ようと交わしたその言葉を。
恋雪さんはずっと大切に覚えていた。
自分が生きている未来というものが想像出来なかった恋雪さんにとっては、俺の何気無いその言葉は信じられない程に嬉しいもので、それが支えになっていたのだと、そう教えてくれた。
……親父に何もしてやれないまま自殺なんて選ばせてしまって荒れていた直後の俺の、そんな何気無い言葉でも。
そうやって、誰かを助ける事が出来ていたのかと思うと、守れたのかと思うと。
それが堪らなく嬉しくて。そして、恋雪さんの事を一層愛おしく思った。
だから、約束した。
『誰よりも強くなって、あなたを一生守る』、と。
……その約束を守る事など出来ない未来なんて、想像出来ないままに。
正式に夫婦になる事が決まったから、親父の所に墓参りと祝言の報告に行ったんだ。
朝に出掛けて、日が暮れる前には戻った。
そして、その時にはもう、全てが終わってしまっていた。
随分と前から素流道場に嫌がらせを続けていた隣の剣術道場の連中が、井戸に毒を入れた。
前に色々と揉めた時に、決着を付ける為に試合をして相手として出て来た九人全員を俺が叩きのめした事でここ暫くは嫌がらせも鳴りを潜めていた。
だから、油断していたのだ。
いや、ここまで人の心など無いような卑劣な事をあっさりとやってしまえる様な、そんな「人間」じゃない様な存在が自分の身近に居ただなんて、そしてそれによって大切なものが奪われるだなんて。
想像すらしていなかったと言うのが正しいのかもしれない。
何であれ、俺は何も出来なかった。
恋雪さんが苦しんでいる時に、師範が苦しんでいる時に。
その傍に居る事すら出来なかった。
命に代えてでも守ると誓ったのに。
俺の手が届かない場所で、俺の目には見えない場所で。
二人の命は、あっさりと奪われた。
師範や俺と直接やり合っても敵わないからなんて、そんな理由で。
人の命を何とも思っていないかの様に、俺の大切なものは踏み付けにされ奪われた。
その後は、何とも詰まらない顛末だ。
口先だけ立派で何も守れなかった俺は、下手人である隣の剣術道場の人間を全員殺した。
師範に鍛えて貰った素流を血塗れにして、守る為の拳で人を殺した。
生きていたいなんて思わなかった。
何もかもがどうでも良かった。
大切なものを全部喪った世界で生きていく気力なんて無くて、守りたいものももう何も無くて。
そして、俺は鬼にされて。
百年以上も無意味な殺戮を繰り返しながら、もう何の意味もないのに力を求めていた。
余りに惨めで滑稽で詰まらない、無意味と無価値を詰め込んだ様な結末であった。
── どうして今更思い出してしまったのだろう。
── もう、今更どうにもならないのに。
── 死んだ所で三人と同じ場所には逝けないのに。
赤黒い異形の操る闇に食い荒らされながら、俺は全てを思い出して怒りに震えていた。
だが、その時。
━━ 狛治。
目の前に、数百年前に喪ってしまった人の姿が。
もう二度と呼ばれる筈の無い、今となっては誰も知らない俺の名を呼ぶその人が現れた。
親父……?
どうして此処に?
出歩いて大丈夫なのか?
苦しくないのか?
此処にその姿がある事に驚きつつも、しかしその事に疑心は無い。
おいで、と。古い思い出の扉を開く様に。
まだ少し元気だった頃の親父が手招きをする。
それを見ると、涙が溢れてきそうだった。
親父がそこに居るだけで、もう何もかもどうでも良くなる程に。
ごめん、ごめんなぁ、親父。
俺がもっと真っ当な方法で金を稼げてれば、親父が首を吊ったりしなくても良かったのに。
治してやるって言ってたのに、ごめん、何も出来なくて、ごめん……。
まるでうんと小さい頃の様に、抱き縋る様に泣いてしまう。
そしてそんな俺を、親父は「良いんだ」とばかりに抱き締めてくれた。
━━ 良いんだ、狛治。ありがとうなァ……。
だが、俺を抱き締めてくれていた筈の親父の身体は見る見る内に痩せ細っていき、そしてその息も苦しそうなものになって遂には血を吐く。
何でだ! ああっ、クソ!
親父、しっかりしろ、親父!!
俺が直ぐに何とかしてやるから……。
だが、焦る俺の前で、親父は端からボロボロと崩れていく。
いや、燃えて行く。
まるで、地獄の業火に苛まれる罪人であるかの様に。
━━ 狛治
そう言って親父は微笑みながら燃えてゆく。
何でだ!!!!
俺が地獄に堕ちるのは分かる。
それだけの罪を重ねてきた。
鬼になる前も、鬼になってしまった後も!!
だが、親父は何も悪い事なんざして無い筈だ!
止めろ、止めてくれ!!
生きてる間散々苦しい思いをした親父をこれ以上苦しめないでくれ!!
だが、どんなに叫んでも何も出来ない。
そして親父は燃え尽きた。
親父の燃えカスの様な灰を掬って呆然としていると。
━━ 狛治
━━ 狛治さん
そこには、師範と恋雪さんが居た。
駄目だ、ここは地獄だ。
こんな場所に二人は来ちゃいけない。
だが、焦る俺の前で、二人は苦し気に血を吐いた。
それは、その姿は。
物言わぬ骸となっていた二人のその姿に余りにも似ていて。
━━ ……狛治さん、約束を……
苦し気にその手を震わせる恋雪さんの手を取るが、しかし何も出来ない。
鬼になった所で、他人の病苦を取り除ける訳でも無いし、毒を打ち消す事も出来ない。
約束。守れなかった約束。命に代えても守ると決めたのに、誓ったのに。俺は、俺は……。
腕の中で恋雪さんが息絶える。
そして、それを苦しみと共に見ていた師範も程無くして息絶えた。
ふと気が付けば、また親父が目の前に居る。
そして親父はまた死ぬ。
恋雪さんと師範が現れる。
だが、俺は何も出来ないまま二人は死ぬ。
親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ………………。
大切な人たちの「死」が無限に繰り返される。
これは地獄か? 俺は地獄に堕ちたのか?
そして、「死」が繰り返され続ける親父や恋雪さんや師範はどうしてこんな地獄に居るんだ?
まさか、俺の所為なのか?
俺が鬼になって罪を重ね続けたから、こんな事になっているのか?
だが、恨み言を言われるならまだしも、誰も俺を責めたりしない。それが尚の事俺を責め立てる。
目の前には、かつて井戸に毒を入れた剣術道場の奴等が居る。
殺さなきゃ。
こいつ等を殺さなきゃ、師範と恋雪さんを守れない。
守らなきゃ、守るんだ。
今度こそ、命に代えてでも。
拳を握り締め、それに殴り掛かる。
すると、全身が瞬時に切り刻まれる。
だが俺は鬼だ。この程度問題にもならない。
瞬時に回復させながら斬撃の嵐を切り刻まれながらも突破して、その頭を渾身の力で殴って砕く。
だが、相手も地獄に堕ちた者同士、その程度では止まらない。
だが、それがどうした。
今度こそ、守らなければならない。
そうだ、守るんだ、守れ、守れ、今度こそ。
鬼となり虚ろに無意味に鍛え続けていた拳を握りしめて。
俺は目の前の敵全てを討ち滅ぼさんと拳を振るった。
◆◆◆◆◆
鬼殺隊を率いる産屋敷の一族を根絶やしにする為に、鬼殺隊にとって重要な場所である日輪刀を作り出す隠れ里を襲撃しに行った玉壺と半天狗の内、玉壺があの例の『化け物』と遭遇した。今直ぐにそこへ向かい、『化け物』を捕らえろ、と。
己の任務である『青い彼岸花』の捜索を続けている最中に、そう無惨様から命じられて。
無限城に呼ばれた猗窩座は、その場に黒死牟も居る事に僅かながら驚くと共に、無惨様の本気を理解する。
未だかつて……鬼殺隊との大規模な戦いの際ですら、上弦を二体以上も動かした事など無かったのに。
既に玉壺と半天狗が居るそこへ、己と黒死牟も向かわせるとは。
まさに、今動かせる上弦の鬼全てをそこに投じるも同然の事であった。
上弦の陸は欠けたまま、その席を埋める者は未だ居らず。
童磨は、あの『化け物』に消し飛ばされた身体の修復が完全では無い為、何処人の目に付かぬ場所に身を潜めている状態であるらしい。
童磨自身は、あの『化け物』と戦える絶好の機会を逃している事を心の底から悔しがるだろうが……。まあ、あれについて考えるのは止めよう。そう猗窩座は即決した。
触れるべきでは無いものは確かにこの世にはあるのだ。
黒死牟はと言うと、『化け物』相手の大捕物になる事を知ってか、その気迫は何時ものそれを更に凌駕している。
妓夫太郎が討たれてから少しして、黒死牟も『化け物』と遭遇した。
しかし、驚いた事に黒死牟ですら『化け物』を捕らえる事は出来ず、それどころか頸を落とされたらしい。
『化け物』が持つ刀が日輪刀では無かった為にそれで死ぬ事は無かったが。しかし、それは裏を返せばその時『化け物』が持っていたのが日輪刀であれば黒死牟は既にこの世に居ないと言う事だ。
更には頸を落とされたどころか、その場に居た他の負傷した隊士たち諸共に『化け物』には逃げられたらしい。
気付けば、『化け物』はほんの一瞬でその姿を消していたと言う。鳴女の様な力を『化け物』も持ち合わせているのかもしれない。
見た目が『人間』なだけで、その中身に関しては鬼などよりも余程理解出来ない『化け物』である。
まあそう言った因縁もあってか、黒死牟はあの『化け物』に対して並々ならぬ執着と怨念と憎悪を滾らせている様だった。
それは、童磨が『化け物』に向ける怖気立つ程に底知れず気色悪いそれとはまた別の感情ではあるし、あそこまで狂気に染まっている訳では無い様だけれども。
無惨様からも黒死牟からも童磨からも、異様な程に執着されている『化け物』に対しては、猗窩座も多少は興味があった。
その尋常ならざる力を前にして、己の鍛え上げた武が何処まで通用するのかを見たいと思ってはいる。
だがそれ以上の関心は無い。
ただ、三者の執着の度合いを見ていると、『化け物』にはそうやって相手を狂わせる「何か」があるのだろうかとも思う。
童磨が群を抜いて壊れているが、しかし己の剣技を高める事以外に執着など無い様に見えた黒死牟の殺意の高さもかなり尋常なものではないし、『化け物』に対する無惨様の執着もかなりのものである。
まあ無惨様に関しては、あの『化け物』が長い年月の間追い求め続けてきた「太陽を克服する鬼」に成り得る存在だと半ば確信していると言う事もあるのだろうけれども。
何にせよ、猗窩座たちの成すべき事に変わりは無かった。
鳴女の力によって『化け物』の真上に移動したその時には、既に玉壺は倒されていた。
上弦の鬼がまた欠けた事に無惨様が怒り狂っている気配を感じはするが、今は玉壺の事よりも『化け物』を捕らえる事の方が重要だ。
この場に居るのは、『化け物』と、柱と思われる子供と、そして柱には届かない程度の剣士の三人。その内問題になるのはやはり『化け物』だけだろう。
初めて直接相見えた『化け物』は、実に奇妙な存在であった。
此方を警戒し変わった刀を構えてはいるが、闘気などと言ったものはかなり乏しく、至高の領域には程遠く見える。
だが、直接目にする事で、この男が「異常」な事はよく理解出来た。
己が極めんと研鑽し続けている方向とはまた別に、この『化け物』は何かに辿り着いている者の気配を漂わせていた。
己の研鑽の相手として求めている様な「強者」とはまた異なるが……。しかし紛れも無く「強い」事は確かである。
理解出来る存在では無いが、しかしならばこそ戦い甲斐があると言うもの。
猗窩座は『化け物』を前にして高揚する心を抑えきれなかった。
『化け物』はと言うと、この場に上弦の壱と参が揃っているのに弐の姿が見えない事を警戒するかの様にその事に触れる。
それには思わず、猗窩座も黒死牟も揃って苦い顔をした。
どうせあの狂信者は自分達の視界などを通してこの戦いを見ているのだろう。
無惨様も童磨には極力関わりたくないと言わんばかりの対応をしているが、しかし『化け物』……童磨曰く『神様』の事に関しての執着はどう考えても常軌を逸したもので。無惨様に対してすら「要求」を譲らないのだ。
鬼の思考を覗く事が出来る無惨様が、心底気持ちの悪いものを見る様な目で童磨を見ていたのを見るに、その思考は理解してはいけないものになっているのだろう事は疑い様が無い。
それでいて「駒」としては優秀なので斬り捨てるには惜しいのだろう。
どの道『化け物』と戦った際の情報は無惨様を介してから上弦の鬼に共有されるので、多少その順番が逆になった程度なら構わないかと、極力童磨に関わりたくない無惨様は恐らくそうするだろう。それで黙っているならそれに越したことはないのだから。
だからこそ、今もこの様子を観察しているのだろう童磨の見ている前でその名を口にするなと言うと。
「何だあいつ、鬼の中でも嫌われているのか……」
何を勘違いしたのか、『化け物』はそう沁々と言う。確かに嫌われているというのは間違いは無いが……。
童磨から常軌を逸した執着を向けられている事を知らぬのだろうその反応に、敵対する相手ではあるものの余りにも「憐れ」だと感じてしまい、猗窩座も黒死牟も沈黙するしかなかった。
何であれ、ここでこの『化け物』を捕らえなければならない。
その為、黒死牟がその刀を構え、猗窩座がその拳を握ると。
『化け物』もそれに対抗するかの様に武器を構える。それと同時に、突如異形の存在がその場に現れた。
龍を使役していると黒死牟から聞いていた猗窩座は、明らかに龍とは違うその異形に驚き。そして、その異形があの無惨様に匹敵するか或いは凌駕する程にその強さに全く底が見えない存在である事を悟り、歓喜の念に震える。
『化け物』を化外の存在たらしめているものがこの異形なのだろうか?
何であれ、ここまでの存在と対峙する事が出来たのは、数百年の研鑽の中でも初めての事であった。
猗窩座は羅針を展開し、黒死牟と共に『化け物』たちを狙う。
空間丸ごとを斬り刻んだ筈の黒死牟の斬撃は全て異形に防がれて。そして『化け物』は猗窩座の乱式を全て回避し討ち払いつつ凄まじい速度で踏み込んで猗窩座へと斬り掛かってきた。
『化け物』のその一撃に羅針が正確に反撃する。しかし反撃に反撃を重ねられた『化け物』の方も、猗窩座ですら驚く程の反射速度でそれに対応し、半ば必中を確信していた冠先割を回避する。
型と呼べる様な攻撃では無い。そもそも何らかの呼吸の使い手でも無い。
だが、『化け物』は今まで遭遇した事が無い程の強敵であった。
その在り方としては、『人間』と言うよりも寧ろ「鬼」の方が近いと確信出来る程に。
その身体能力は、上弦の鬼である猗窩座と黒死牟に匹敵乃至凌駕する程のものである。
隔絶した身体能力だけで戦う無惨様のそれにすら届き得るやも知れぬと思う程に、それはまさに『化け物』の力であった。
『化け物』以外の剣士も、ただ見ているだけでは居られないとばかりに己の刀を握り締めてはいるが。しかし、乱れ舞う斬撃と拳撃の嵐の中では出来る事など回避に専念する事位で。それですら、攻撃の殆どを『化け物』と異形が防いで何とか、と言う状態であった。
まあ、入れ替わりの血戦を挑んだ時ですら殆ど見せた事が無い程の、更には無惨様の血によって極限にまで高められた「本気」の力を最初から見せている黒死牟の攻撃を、僅かなものであっても避ける事が出来ているだけで「強者」たる資格は十分であるのだが。
かつて無い程に高揚を覚え、そしてその熱を全て叩き込む様に猗窩座は己の拳と鍛え抜いた足技を揮う。
今までに無い程に分け与えられた無惨様の血は、猗窩座の「鬼」としての位階を数段以上引き上げていた。
かつての己なら、相対したとしても捻り潰せると断言出来る程に。
肉体の再生速度も、足と拳の切れも、反射速度も、その何もかもがまさに桁違いになっている。最早「生き物」として別の存在に変わったと言っても過言では無い。
上弦の鬼……それも古くより研鑽を続けて来た者であるからこそ受け入れる事が出来る限界量ギリギリの血は、それ程までの変革を上弦の鬼に齎していた。
己の血を与える事には慎重な無惨様がそこまでの強化を許したのは、それ程までに無惨様が『化け物』を警戒し、同時にそれを欲している事の証左であるのだろう。
しかし、それ程までに高みへと至れた事は喜ばしい事であったが、同時にその全力を向ける相手が居なかった。
元々柱だろうと何だろうと「強者」であれど『人間』の中には猗窩座が全力を出さねばならぬ相手など居らず、黒死牟や童磨相手に入れ替わりの血戦を挑もうにも、『化け物』の捕獲が成功するまでは徒に上弦を消耗させる事は赦さぬとばかりにそれは無惨様直々に禁止されている。
故に、些か「持て余して」も居たのだ。
鍛錬は変わらず続けていたが、その研鑽をぶつける相手と言うものを猗窩座は欲していた。
そして今、己の「全力」を叩き付ける事が出来る相手が現れた事に、猗窩座は紛れも無く歓喜していたのだ。
『化け物』は実に素晴らしかった。
極限まで鍛え抜いたと思っていた己の武の全てを叩き付け続けても、それを全て受け切る。
恐らく見切ってはいたのだろうが、共に戦う者達を「守る為」に回避では無く防ぐ事を選んでいる様だった。
それでいて、猗窩座が全力を出しても尚、『化け物』の身体には掠り傷一つ付ける事が出来ない。
最早この世の理の内に居る存在とは思えない程である。
仲間へと向かう攻撃は最早神速の勢いで防ごうとする事から、『化け物』はとにかく「仲間を守る事」を最優先にしているのだろう。
黒死牟の攻撃をひたすらに捌き続けている異形の方も同じだ。
途中まで無惨様を介して見せられていた、玉壺と『化け物』たちとの戦いに於いても、『化け物』は終始仲間を守る事を最優先にしている様だった。
だからこそ、それを人質として取ったその時には玉壺ですら『化け物』を一方的に攻撃出来たのだ。
『化け物』の弱点は、余りにも明白であった。
とは言え猗窩座も黒死牟も、『化け物』を相手に人質を取ろうとは思ってはいない。
無惨様から直々に命じられればまた話は別だが、少なくとも今この場に於いて、その様な無粋な事は望まない。
この『化け物』を己の力で破る事こそが今の猗窩座にとっての優先事項であった。
素晴らしい「強者」を前にして、猗窩座は何時もの様にその名を訊ねる。
「鳴上悠」……悠と名乗ったその『化け物』は、続く様に投げ掛けた「鬼になろう」と言う勧誘には、静かに首を横に振った。
どうして己が認めた「強者」は皆同じ反応をするのだろう。
鬼になれば、永遠に己を研鑽し続けられる、強くなり続ける事が出来る。
「俺は別に誰よりも強くなりたい訳じゃないんだ。
大切な人たちを守れたら、大切な人たちの力になれるなら、それだけで良い。
それに、俺の求めている強さや力は鬼になったとしても絶対に手に入らない。
不老も、強靭な再生能力も、俺には必要無い。
鬼としての生が齎す永遠の命なんて、俺にとっては、永遠に生きる事も死ぬ事も無いままに虚ろの森を蠢き続ける事と変わらない。
そんなの、俺は嫌だ。
俺は、大事な人たちと一緒に、『人間』として同じ時を生きて歳を重ねていきたいんだ」
静かに、だが揺るぎ無くそう答えた悠の言葉に、猗窩座の胸の奥が騒ついた。
何かの声の様なものが、猗窩座の耳の奥に響いた気がした。
しかしそれはどうにも不明瞭で、幾重もの透明な帳の向こう側からぼんやりと聞こえて来るかの様だった。
誰だ、そしてこれは何の声だ。
覚えが無い筈のそれに、ザワザワと胸の奥が揺れる。
かつて無い全力の戦いに高揚していた気分に水を差す様な、いや……その根底から引っ繰り返そうとするかの様なその感情の動きを、猗窩座は理解出来ない。
だが、どうしようも無く苛立ちが込み上げた。
だがこれは何に対する苛立ちだ?
分からない。分からないままに、猗窩座はその拳をより強く握る。
「理解出来ないな。何故『人間』のままで居たがる?
俺には解るぞ。お前、《《まだ本気を出していない》》な?
あの童磨を屠りかけた一撃を何故放たない?
いや、出せないのだろう。そこの弱者共を庇う為に。
何故弱者を構う。弱者など見るだけでも虫唾が走る。弱者に存在する価値など無い。
そんな価値も無い下らないものに拘泥して、その力を発揮出来ないなんて、苦しいだけだろう」
恐らくこの苛立ちは、悠が未だその全力を……『化け物』としての本性を見せていないからこそのものであるのだろうと。猗窩座は意味の分からぬ苛立ちに対してそう結論付ける。
そうだ、何故この『化け物』は「弱者」を庇う、「弱者」を守る、「弱者」に拘る。
握った拳は益々その冴えを増し、更に苛烈に悠を追い詰めんと嵐の様な打撃を繰り出す。
しかし、その全てをやはり受け止め捌き切り、悠は仲間たちを守り切る。
「……お前の言う『弱者』とは何だ?
『強者』とは、何だ?
何を以てそれを決める? お前に何の権利があってそれを判断するんだ」
悠の言葉に、胸の奥が更に騒めく。
止めろ、煩い、黙れ。
そんな意思と共に放った一撃は、難無く防がれる。
弱者は弱者だ、そして強者は強者だ。
それ以外のものなんて無い。
「人は皆、弱くもあり強くもある。
誰もが完全無欠の存在にはなれない。
だが、何の価値も無い者も居ない」
違う、「弱者」に意味なんて無い、価値なんて無い。
「一度でも間違えたら『弱者』なのか?
一度でも逃げたら『弱者』なのか?
誰かに守られる存在は皆『弱者』なのか?」
「弱者」になど、意味も無く価値も無い。
この世から消え果てるべき存在だ。
その結論と共により強く拳を握り、目の前の存在が守ろうとしているものごと全てを破壊しようとする。
しかし、深い霧を切り裂くかの様な鋭く力強い悠の眼差しは、何処までも真っ直ぐに猗窩座のその奥底を射抜いた。
「猗窩座。どうしてお前は力を求める、どうしてお前は力を求めたんだ?」
その言葉に、思わず思考が固まる。
何故。……何故?
分からない、理由など無い。
だが「強くならねばならない」と言う意識だけが己を突き動かし続けていた。
「お前は何の為に強さを求め続けているんだ?
どうしてお前はそんなに空っぽなんだ?」
思考の空白と共に、猗窩座の身体が僅かに固まる。
そしてそこを狙った悠の攻撃に、羅針は反応してもそれを止めきれずにその連撃の全てをまともに喰らってしまい、トドメとばかりに異形の紫電を纏った一撃に身を灼かれながら頸を刎ね飛ばされ身体も吹き飛ばされた。
頸を落とされはしても、日輪刀による一撃ではなかった為それで消滅すると言う事は無く。
吹き飛ばされたその首を回収して切断面に乗せると、瞬時とは言わないもののジワジワと修復される。
無惨様の血によって強化されていなくてはともすれば上半身が丸ごと消し飛んでいたかもしれない程の雷撃によって切断された為なのか、ただの刃物で切られたのならば直ぐ様に繋がる筈の首も治りが遅かった。
だが、それも致命的なものでは無く、無事に繋がった頸の状態を確かめてから、猗窩座は再び悠たちを襲う。
今度は柱の少年も、そしてかつて杏寿郎と戦った際にその場に居合わせた「弱者」であった剣士も、より積極的に攻撃を仕掛けて来る。
どうやら、『化け物』としか言えない程にこの世の理を超越している様にしか見えない悠も、その力は無尽蔵では無いらしく。
その動きに翳りが見える訳でも無いが、明らかに「限界」が近付きつつある様な顔をしていた。
黒死牟とやり合った時に激しく消耗したのだろうか。
そんな状態でも、問題無く猗窩座の攻撃を防ぎ切るのを見るに、やはり常軌を逸した存在である事には間違いないのだろうが。
柱の少年も、そして見た事の無い独特の呼吸を使う伊之助と名乗った剣士も、「弱者」と謗る程には弱くは無い。寧ろ、容赦無く攻撃し続ける猗窩座の連撃から生き延びているのを見るに間違い無く「強者」の側の存在ではある。
だが、それはあくまでも『人間』の範疇内での事。
もし悠が力尽きれば、成す術も無くその瞬間に捻り潰されてしまう程度の強さだ。
そしてそれが分かっているからこそ、悠は焦った様な表情で必死に戦っている。
最初から仲間の事など気にせずに「全力」を出していればこんな風に追い詰められる様な事も無かっただろうに。
誰にも手に負えない様な『化け物』でありながら、「詰まらない理由」で敗北する。
それは、『人間』を一生懸命に演じようとしてその止め時を喪った憐れな『化け物』のそれの様であった。
勝利を確信し、更に追い込もうと一層苛烈に攻撃を仕掛けようとしたその時だった。
ゾワリと背筋が凍り付き全身の産毛が逆立つ程の、「危険」など遥かに通り越した、生命の本能の根源的な『恐怖』を鬼となって初めて感じた。
激しい消耗に荒く息をしていた筈の悠のその眼が、恐ろしい程に冷たく輝く金色に染まって見える。
己の生殺与奪の権の全てを握る無惨様に相対している時のそれを遥かに凌駕する、「絶対に殺される」と言う。一瞬先には欠片も残さず吹き散らされている「当然の事実」を、本能が理解せざるを得ない。
目の前の「それ」が、『化け物』だとか常軌を逸しているだとか、そんな……何か既存の言葉で表現出来る様な甘い存在では無い事を、瞬時に悟らされた。
「鬼」程度で触れて良いものでは無い、呼び起こして良いものでは無い。
何か取り返しの付かない事が、何があっても触れるべきでは無い『何か』が、今目の前で生まれようと……その目を醒まそうとしているのでは無いか、と。
そう無為に思考が巡る。そして、それが目覚める前に今直ぐ殺さなくてはならないと、猗窩座は判断した。
それが目覚めた瞬間、猗窩座どころか黒死牟も無惨様も何もかもが、塵を吹き散らすかの様に消える。
それを阻止出来るのは、今この瞬間しか無い。
だが、悠に叩き込む筈だった拳は、その腕ごと斬り落とされ。
そして、胴を狙ったその一撃を回避する為に大きく後退せざるを得なくなる。
完全に意識の外にあったその乱入者の姿に、猗窩座は大きく目を見開いた。
「すまない、遅くなった。
……よく、頑張ったな。
さて、此処からはこの炎柱──煉獄杏寿郎も相手だ」
凛とした力強い声で、その眼差しに熱い闘志を漲らせたその者は。
この場に現れる事など決して有り得ない筈の。
己が手で確かに殺した、この世に存在する筈がない男であった。
「何故だ……何故、生きている、杏寿郎……!!
お前は、俺が確かに殺した筈だ!
生きている筈が無い……!
……っ、それとも鬼になったのか?
気配は上手く隠している様だが──」
有り得ない、何故、何が起きた。
幽霊など信じた事など無いが、そうとでも考えないと有り得ない事だった。
あの傷では、何があっても助からない。
それこそ、「鬼」にでもならなければ。
四半刻すら待たずして、息絶えた筈だ。
あれで死んでいないのから、それはもう『人間』では無い。
死者は生き返らない、何をしても、絶対に。
喪った者が蘇る事も無い。
なら、どうして、何故。
猗窩座の思考は、動揺からか支離滅裂と言っても良い程のもので。しかも、それは続く杏寿郎の言葉によって更に悪化した。
「俺は鬼になどなっていない。
確かに、俺は命を落としたも同然だったが……此処に居る鳴上少年に命を救って貰った」
その瞬間、猗窩座の心を押し流すかの様に荒れ狂ったのは。
激情と言う言葉ですら生温い程の。後悔、絶望、悲嘆、慟哭、憤怒、虚無、嫉妬、羨望などと言った感情の濁流であった。
感情は支離滅裂で意味が分からないもので。
そんな動揺を他所に放った技は、何時もと変わらぬ威力と速さのもので。
しかしその攻撃を、杏寿郎は悠の手を借りずに全て防ぎ回避してみせた。
以前戦ったあの時ですら、「至高の領域」に限りなく近い場所までその闘気は練り上げられていたと言うのに。
今こうして再び対峙した杏寿郎のそれは、あの時とは最早次元が異なる程のものに達していた。
幾百幾千の死線を乗り越えて漸く到達出来るかどうかと言う領域に、死ねば終わりの『人間』の身でありながら、杏寿郎は辿り着いていた。
短期間の内に、どれ程の修練を重ねたのだろうか。
凄まじい研鑽の跡をそこに見て、その素晴らしさに猗窩座の心が震えた。
支離滅裂だった感情も、その感動に押し流された様に鎮まる。
だがその時、再び悠が何かを仕掛けたのか。杏寿郎の日輪刀が『赫』に染まった。
その色を見ると、全身の細胞が怖気立つ様に震えた。
自分では無い。無惨様の細胞が、「これ」を恐れているのだ。
その日輪刀が危険なものだと、本能が察した。
今ここで仕留めなければならないと、そう無惨様の細胞が命じる。
だからこそ、全てを終わらせる為の、己の持てる最高の攻撃を繰り出す。
── 破壊殺・滅式!!
規格外の『化け物』である悠はともかく、他の三人は確実に消し飛ばせる攻撃だった。
だが、そうはさせじと真っ先に飛び込んで来た悠によってそれは防がれる。
いや、悠は防いですらいなかった。
全てを抉り取り吹き飛ばす筈の拳が直撃しても、悠の身体には掠り傷一つ付かない。
まるで微風すら吹いていないかの様に、ひたすらに腕や肩を斬り飛ばそうと強引にその剣を振るうのだ。
目の前のこの存在には、そもそも最初から避けたり防いだりする必要など微塵も無かったのだ。
仲間を守る為だけに、そうやっていただけに過ぎなかった。最初から、『勝負』になどなっていなかった。
それを理解しても、猗窩座はその拳を止めない。
悠の武器は日輪刀では無い、斬られた所で大きな問題は無い。そして、悠以外を殺せればそれで良いからだ。
だが、その判断は正しくは無かった。
先ず、左足が奪われた。
目の前のそれに比べれば取るに足らないと判断していた伊之助によって切り裂かれたのだ。頸程では無いにせよ、しかし下弦などの頸などとは比べ物にならない程に硬いその足を、獣が咬み裂くかの様にもぎ取っていく。
そして、左足を奪われて体勢が崩れかけたその瞬間には、柱の少年によって胴が幾重にも切り裂かれ同時に右腕も喪う。
『赫』に染ったその日輪刀に切り刻まれたそこは、未だかつて感じた事の無い程の燃える様な激痛に苛まれる。
反撃の為に握った左腕は杏寿郎の日輪刀に落とされて。
そして、どうにか地を蹴ってその場を離れようとした右足は紫電を纏った悠の斬撃によって落とされる。
ほんの数瞬で四肢を落とされた猗窩座の頸を、杏寿郎の日輪刀が捉える。
だが、かつてのそれとは比べ物にならぬ程に硬くなったその頸にはほんの僅かに喰い込ませる事が精一杯で。
しかし、柱の少年がその杏寿郎の日輪刀に己の日輪刀を叩き付けた事によって、一気に首の奥へと食い込む。
腕を再生させて払い除け様にも、焼け付いた様に痛む腕の再生は思う様に進まず。
蹴り殺そうとするも、その足は再生するよりも前に再び伊之助と悠によって落とされる。
そしてほんの僅かな攻防は全て封殺されて、猗窩座は地面に押し倒される。
自分たちの全体重を掛けてその頸を落とさんと死力を尽くす二人の柱によって、猗窩座の頸はもう三分の二が斬られていた。
斬られた端から再生させて繋ごうにも、『赫』に変化した日輪刀で斬られたからなのか焼け付く様に痛む頸の再生は進まない。
四肢を奪われても鍛え上げた全身の筋を使って跳ね起きようとするも、その抵抗は地に深く縫い留める様に突き刺された悠の剣によって押さえ込まれる。
その場の全員が死力を尽くしていた。
死に物狂いで抵抗しようとする猗窩座も、そしてその頸を何としてでも落とそうとする四人も。
そして遂に四分の三が斬り落とされ、最後の一押しの為に足を切り刻んでいたのを中断した伊之助が己の日輪刀を杏寿郎の日輪刀に叩きつけようとしたその時だった。
今の今まで黒死牟を押さえ込み続けていた異形の姿が、掻き消えた。
それと同時に、自由になった黒死牟の斬撃が周辺一帯を蹂躙する。
猗窩座も漏れなく切り刻まれたが、しかし黒死牟の斬撃は猗窩座にとっては瞬時に修復出来るものであり、何よりもその隙に四人からの拘束を抜ける事が出来た事の方が重要だった。
両足を素早く再生させて跳ね起きるようにして地に縫い留められていた所を無理矢理引き千切って抜け出した為胴体は半ば裂けているが、それも直ぐに直る。
斬られた腕はどうにか再生し、それで己の頸深くに食い込んだ杏寿郎の日輪刀を引き抜いて投げ捨てる。
悠は……この場に於いて最も脅威的な『化け物』は。
黒死牟の斬撃と猗窩座の一撃から三人を守った事で既に限界に達したのか、更に息を荒くしてただ己の意思一つで立ち続けているかの様に猗窩座と黒死牟を油断無く睨んでいた。
その身体に傷は無いが、間違い無く限界だ。
しかし、荒く獣の様に息をするその眼は再び金色に侵食され、先程感じた恐ろしい何かの気配が漂い始める。
『化け物』から、『化け物』ですらない【何か】へと変わろうとするそれを、そうなる前に殺してでも止めなければと。
そう覚悟したその時だった。
悍ましい程に恐ろしく圧倒的な気配が、一気に霧散して。
何があったのか分からないが、悠は驚いた様にその目を丸くする。
そして、荒かった息を整えながら僅かに微笑み。
そして、その微笑みが僅かに歪んだかと思うと。
「マガツイザナギッ!!」
そう悠が吼えた瞬間に。先程使役していた異形に良く似た外見の、しかしその気配などは全く違う赤黒い異形が新たに現れて。
そして。
「──マガツマンダラ!!」
まるで闇を煮詰めた様な禍々しい渦に、黒死牟と共に、回避する暇すら無く猗窩座も呑み込まれた。
◆◆◆◆◆
思い出すのは、何時だって痩せ細ったその身体だ。
物心ついた時には、俺には親父しか居なかった。
そして、その時から既に病魔に侵されていた。
病気の所為で満足に働く事が出来なかったから、俺たちは物凄く貧乏であった。薬を賄う為の金なんて何処にも無い位に。
貧乏自体は辛くは無かった。俺には親父が居たからだ。
親父の看病をする事も辛くは無かった。俺はどうやらうんと辛抱の効く丈夫な身体で生まれてきたらしく、小さい頃から看病を苦とも感じなかった。
だけれども、貧乏だから親父の為の薬を買う事が出来ない事、貧乏だから痩せ細っていく親父の為に何か精がつく物を食わせてやれない事。
この二つは、どうしようも無い程に辛かった。
俺には金が必要だった。
しかし子供の俺が稼ぐ為の方法なんて無かった。
腕っ節には自信があったが、かと言って用心棒などで稼げる訳でもなくて。
俺は掏摸などをして金を得ては親父の薬を賄っていた。
何度も奉行所に捕まって刑罰を受けた。
掏摸の罪を示す刺青は両腕に三本も入れられた。
それでもだから何だと思った。
それ以外に金を得る方法が……親父の薬を得る方法が無かった。
物乞いをしたところで、薬を得る為の金には到底足りない。
この世には神様も仏様も居なくて、苦しんでいる誰かを救ってくれる人なんて居ない。
自分たちで足掻くしかないからこそ。
俺は自分に出来る精一杯をしたかった。
親父を治してやりたかった、助けてやりたかった。
一番苦しんでいるのに、「申し訳ない」だなんて言わせたくなかった。
それだけだ、それだけだったのに。
だが、親父は首を吊った。
俺が掏摸で薬代を賄おうとする事に耐えられなかったらしい。
その遺書には、「申し訳なかった」と、「真っ当に生きろ」と遺されていた。
貧乏人は生きる事すら許されないのかと、貧乏なら病を得れば死ななければならないのかと。
心は荒んだまま、所払いを受けて俺は流れ続けた。
親父は何も悪くなかった。何も悪い事なんてしちゃいなかった。
それなのに、病気だったら死ななけりゃならないのか、苦しいのに周りに「申し訳無い」だなんて思わなきゃならないのか、「迷惑をかけている」だなんて感じなきゃいけないのか。
クソッタレた世界で、何の意味も目的も無いままに、俺は荒れ狂っていた。
神様や仏様ってのが本当に居るのなら、それは性悪を極めた様な存在なんだろうと思った。
生きていても救われない、でも死んだからって救われる訳じゃない。
この世界そのものが地獄の様だと、そう思っていた。
そんな日々を過ごしながら数年が経ったある日、俺は師範に出会った。
何時もの様に荒れていた俺は、町の荒くれ者たちと殴り合いになっていて。
襲ってきた相手を全員を叩きのめしたのだが、そこにひょっこりと現れた師範によって一撃で叩きのめされて。
そして気付いたら弟子と言う事で師範の道場に引き取られる事になった。
そしてそこで、師範の娘の看病を依頼された。
それが恋雪さんとの出会いだった。
恋雪さんは、本当に病弱だった。
一日の大半を臥せっていて付きっきりで看病する事もしょっちゅうで、少し動いただけで喘息の発作を起こしてしまう。
俺が道場に引き取られる少し前に、母親が看病疲れの末に入水してしまった程だった。
とは言え、俺は親父の看病で慣れていたし特には苦とも思わなかった。
恋雪さんも、親父と同じく、やたらと謝る人だった。
病に苦しむ人は皆そうなのか。
苦しんでいるのは自分なのだし、そもそも「迷惑だろう」と感じているそれだって出来る事なら自分の手でやりたい事の筈だ。
息が苦しいのも自分が望んでそうなっている訳では無いのだし、どうして謝るのか。
特に、恋雪さんは長く病床に居て気が滅入っているからなのか、会話の途中でやたら泣き出してしまうのだ。
そればっかりは居心地が悪くなるので、少し面倒ではあった。
恋雪さんの看病をしつつ、師範から素流の稽古を付けて貰って。
そうやって日々を過ごす内に、生きる意味も目的も何もかもを見失って彷徨っていた俺の心は確かに少しずつ救われた。
誰かを守れる事が、誰かを助けられる事が、どうしようも無く嬉しかったのだ。
罪人の刺青が入った俺なんかが真っ当に生きられるとは思えなかったけれど。
しかし、そうやって守るものがある日々は幸せであった。
そしてそんな毎日が積み重なって、一年二年と過ぎ去り、師範と出会って三年が過ぎた頃には。
出会った頃は一日の大半を臥せっていた恋雪さんも、臥せる事は殆ど無くなって、普通に過ごせる様になっていた。
そして、そんなある日。
師範から道場を継ぐ事への打診と、恋雪さんと夫婦にならないかと言う提案があった。
最初それを聞いた時、到底信じられなかった。
だって俺は罪人で、そんな俺がろくな人生を歩めるとは思えなかったしそんな未来を想像する事も出来なかった。
況してや、そんな俺を誰かが好いてくれる未来なんて、尚更。
親父が最後に願った様な、「真っ当な人生」をやり直す事が出来るのだろうかなんて淡い期待が膨らんで。
そして、命に代えてでも師範と恋雪さんを守ろうと、そう心に決めた。
──約束をしたんだ。
出会ったばかりの頃に、自分でも覚えていない様なそんな些細な約束を……来年でも再来年でも、何時か一緒に花火を見ようと交わしたその言葉を。
恋雪さんはずっと大切に覚えていた。
自分が生きている未来というものが想像出来なかった恋雪さんにとっては、俺の何気無いその言葉は信じられない程に嬉しいもので、それが支えになっていたのだと、そう教えてくれた。
……親父に何もしてやれないまま自殺なんて選ばせてしまって荒れていた直後の俺の、そんな何気無い言葉でも。
そうやって、誰かを助ける事が出来ていたのかと思うと、守れたのかと思うと。
それが堪らなく嬉しくて。そして、恋雪さんの事を一層愛おしく思った。
だから、約束した。
『誰よりも強くなって、あなたを一生守る』、と。
……その約束を守る事など出来ない未来なんて、想像出来ないままに。
正式に夫婦になる事が決まったから、親父の所に墓参りと祝言の報告に行ったんだ。
朝に出掛けて、日が暮れる前には戻った。
そして、その時にはもう、全てが終わってしまっていた。
随分と前から素流道場に嫌がらせを続けていた隣の剣術道場の連中が、井戸に毒を入れた。
前に色々と揉めた時に、決着を付ける為に試合をして相手として出て来た九人全員を俺が叩きのめした事でここ暫くは嫌がらせも鳴りを潜めていた。
だから、油断していたのだ。
いや、ここまで人の心など無いような卑劣な事をあっさりとやってしまえる様な、そんな「人間」じゃない様な存在が自分の身近に居ただなんて、そしてそれによって大切なものが奪われるだなんて。
想像すらしていなかったと言うのが正しいのかもしれない。
何であれ、俺は何も出来なかった。
恋雪さんが苦しんでいる時に、師範が苦しんでいる時に。
その傍に居る事すら出来なかった。
命に代えてでも守ると誓ったのに。
俺の手が届かない場所で、俺の目には見えない場所で。
二人の命は、あっさりと奪われた。
師範や俺と直接やり合っても敵わないからなんて、そんな理由で。
人の命を何とも思っていないかの様に、俺の大切なものは踏み付けにされ奪われた。
その後は、何とも詰まらない顛末だ。
口先だけ立派で何も守れなかった俺は、下手人である隣の剣術道場の人間を全員殺した。
師範に鍛えて貰った素流を血塗れにして、守る為の拳で人を殺した。
生きていたいなんて思わなかった。
何もかもがどうでも良かった。
大切なものを全部喪った世界で生きていく気力なんて無くて、守りたいものももう何も無くて。
そして、俺は鬼にされて。
百年以上も無意味な殺戮を繰り返しながら、もう何の意味もないのに力を求めていた。
余りに惨めで滑稽で詰まらない、無意味と無価値を詰め込んだ様な結末であった。
── どうして今更思い出してしまったのだろう。
── もう、今更どうにもならないのに。
── 死んだ所で三人と同じ場所には逝けないのに。
赤黒い異形の操る闇に食い荒らされながら、俺は全てを思い出して怒りに震えていた。
だが、その時。
━━ 狛治。
目の前に、数百年前に喪ってしまった人の姿が。
もう二度と呼ばれる筈の無い、今となっては誰も知らない俺の名を呼ぶその人が現れた。
親父……?
どうして此処に?
出歩いて大丈夫なのか?
苦しくないのか?
此処にその姿がある事に驚きつつも、しかしその事に疑心は無い。
おいで、と。古い思い出の扉を開く様に。
まだ少し元気だった頃の親父が手招きをする。
それを見ると、涙が溢れてきそうだった。
親父がそこに居るだけで、もう何もかもどうでも良くなる程に。
ごめん、ごめんなぁ、親父。
俺がもっと真っ当な方法で金を稼げてれば、親父が首を吊ったりしなくても良かったのに。
治してやるって言ってたのに、ごめん、何も出来なくて、ごめん……。
まるでうんと小さい頃の様に、抱き縋る様に泣いてしまう。
そしてそんな俺を、親父は「良いんだ」とばかりに抱き締めてくれた。
━━ 良いんだ、狛治。ありがとうなァ……。
だが、俺を抱き締めてくれていた筈の親父の身体は見る見る内に痩せ細っていき、そしてその息も苦しそうなものになって遂には血を吐く。
何でだ! ああっ、クソ!
親父、しっかりしろ、親父!!
俺が直ぐに何とかしてやるから……。
だが、焦る俺の前で、親父は端からボロボロと崩れていく。
いや、燃えて行く。
まるで、地獄の業火に苛まれる罪人であるかの様に。
━━ 狛治
そう言って親父は微笑みながら燃えてゆく。
何でだ!!!!
俺が地獄に堕ちるのは分かる。
それだけの罪を重ねてきた。
鬼になる前も、鬼になってしまった後も!!
だが、親父は何も悪い事なんざして無い筈だ!
止めろ、止めてくれ!!
生きてる間散々苦しい思いをした親父をこれ以上苦しめないでくれ!!
だが、どんなに叫んでも何も出来ない。
そして親父は燃え尽きた。
親父の燃えカスの様な灰を掬って呆然としていると。
━━ 狛治
━━ 狛治さん
そこには、師範と恋雪さんが居た。
駄目だ、ここは地獄だ。
こんな場所に二人は来ちゃいけない。
だが、焦る俺の前で、二人は苦し気に血を吐いた。
それは、その姿は。
物言わぬ骸となっていた二人のその姿に余りにも似ていて。
━━ ……狛治さん、約束を……
苦し気にその手を震わせる恋雪さんの手を取るが、しかし何も出来ない。
鬼になった所で、他人の病苦を取り除ける訳でも無いし、毒を打ち消す事も出来ない。
約束。守れなかった約束。命に代えても守ると決めたのに、誓ったのに。俺は、俺は……。
腕の中で恋雪さんが息絶える。
そして、それを苦しみと共に見ていた師範も程無くして息絶えた。
ふと気が付けば、また親父が目の前に居る。
そして親父はまた死ぬ。
恋雪さんと師範が現れる。
だが、俺は何も出来ないまま二人は死ぬ。
親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ、親父が死ぬ、恋雪さんが死ぬ、師範が死ぬ………………。
大切な人たちの「死」が無限に繰り返される。
これは地獄か? 俺は地獄に堕ちたのか?
そして、「死」が繰り返され続ける親父や恋雪さんや師範はどうしてこんな地獄に居るんだ?
まさか、俺の所為なのか?
俺が鬼になって罪を重ね続けたから、こんな事になっているのか?
だが、恨み言を言われるならまだしも、誰も俺を責めたりしない。それが尚の事俺を責め立てる。
目の前には、かつて井戸に毒を入れた剣術道場の奴等が居る。
殺さなきゃ。
こいつ等を殺さなきゃ、師範と恋雪さんを守れない。
守らなきゃ、守るんだ。
今度こそ、命に代えてでも。
拳を握り締め、それに殴り掛かる。
すると、全身が瞬時に切り刻まれる。
だが俺は鬼だ。この程度問題にもならない。
瞬時に回復させながら斬撃の嵐を切り刻まれながらも突破して、その頭を渾身の力で殴って砕く。
だが、相手も地獄に堕ちた者同士、その程度では止まらない。
だが、それがどうした。
今度こそ、守らなければならない。
そうだ、守るんだ、守れ、守れ、今度こそ。
鬼となり虚ろに無意味に鍛え続けていた拳を握りしめて。
俺は目の前の敵全てを討ち滅ぼさんと拳を振るった。
◆◆◆◆◆