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第五章 【禍津神の如し】

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 その後も全然気持ちが落ち着かなくて、宿を飛び出した勢いのまま、少しでも頭を冷やそうとして近くの山を走り込んでいた。
 多少落ち着いてきたので夜も更けてきたのだからそろそろ宿に帰ろうとして引き返していると。
 耳を劈く様な酷く不快な音が響いてきて、同時に何かが激しく争っている様な音も聞こえて来た。
 まさか、この隠れ里に鬼が入り込んだのか? と。厄介な事になったかもしれないと内心焦りつつ、何が起こっているのかを探ろうとその場に向かうと。

 善逸が、翼の生えた鬼に襲われている最中であった。
 善逸は日輪刀を握っているのにも関わらず、何故か反撃しようとはしない。
 確かに空を飛ばれているのは厄介極まりないが、しかし接近してきた際にその隙を狙って頸を落とす事など、癪には障るが霹靂一閃だけは俺には真似出来ない程の鮮やかさで使える善逸には不可能では無い筈なのに。
 ビビっているのか何なのか。

 だから思わずその前に飛び出して、翼の生えた鬼の頸を斬った。
 別に、善逸を助けようとした訳では無い。カスならどうにかしていただろう。
 単純に、鬼を斬れば俺の功績になるからだ。

 とは言え、頸を斬っても翼の生えた鬼は死ななかった。
 どうやら、「上弦の肆」の分身の様な鬼であるらしく、『本体』では無い為に首を切ろうが何をしようが意味が無いらしい。
 そして、その『本体』は近くに隠れているらしいと言うのだ。
 だから、この翼の生えた鬼の相手を俺にして欲しいとも、善逸は言った。
 何言ってんだコイツ、と本気で思った。
 ここで譲れば、またこのカスが「特別」になる。
 そんなの許せるかと、胸の奥で鳴上に向かって吐き出した事で少し落ち着いていた怨嗟がまた頭を擡げる。
 カスに斬れる頸なら俺にも斬れる。だから、俺が『本体』とやらを探し出してその頸を斬ろうとした。
 だが、その『本体』は余りにも巧妙に隠れているらしい。
 善逸の、その常軌を逸した様な鋭い聴覚を以て全力で探ってどうにかやっと捉える事が出来ると言う程だと言う。
 癪に障るが、善逸の耳の良さはよく知っている。
 寝ている間ですら周囲の音を聞き続け、人の心の機微をも望まずとも暴き立てるそれは、鬼の存在を探知すると言う点に於いてはどうかすれば柱の様な歴戦の剣士たちの感覚にすら匹敵する程だろう。……少なくとも俺には出来ない。
 善逸に任せるしかないと言う事を嫌でも理解して、それでも癪に障るのでイラつきと共に吐き捨てつつ、翼の生えた鬼と対峙した。

 分身だからなのか何なのか、硬くは無いその頸や身体はあっさりと斬れる。
 何をしても死なない鬼を相手取るのは面倒ではあったが、それでも難しい事でもなくて。
 そうやって暫く相手をしていると、竈門兄妹や不死川もこっちにやって来て、そして善逸を追って『本体』を探しに行く。
 さっさと『本体』とやらの頸を斬ってこの不毛な戦いを終わらせくれ、と。そう思っていると。
 竈門たちが森の奥へと消えてからまた暫く経つと。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアァァァッッ!!」と。
 大分離れている筈なのにそれでも十分過ぎる程耳に響いてくる断末魔の叫びの様なものが聞こえたかと思うと、目の前に居た筈の翼の鬼が忽然と姿を消した。

「……やったのか?」

 まるで幻の様に一瞬で消えてしまったので、正直倒されたのかどうかとかの実感が湧かない。
 しかし、ホッと一息吐こうしとしたその時。
 森の奥から雷鳴の様な音や木々が薙ぎ倒される様な音など、激しく何かが争う音が聞こえてくる。
 まさか仕留め損ねたのか? それとも何か不測の事態が起こったのか? と。
 嫌な予感をヒシヒシと感じつつも、その音がする方向を目指す。
 暫く走ってやっと見えてきたそこは、まるで地獄の様な状況だった。

 まるでバケモノが手当たり次第に滅茶苦茶に暴れているかの様な、と言うか実際どう見てもバケモノにしか見えない蠢く九本の樹の竜の首が縦横無尽に暴れ回っている。
 その圧倒的な質量を活かしてそれが暴れる回る範囲の全てを押し潰し挽き潰し、電撃を放ち疾風を叩き付け無数の斬撃を降らせて爆音の様に不快な音で様々なものを粉砕していく。
 それは、上弦の壱の嵐の様な斬撃のそれとはまた別の、しかし最早単なる「鬼」と言う存在を逸脱しているとしか思えない暴虐の大渦の真っ只中であった。
 そしてその暴虐の嵐の中で、善逸たちは必死に抗っていた。
 何時の間にか救援に駆け付けて来ていたのだろう恋柱と共に、必死に戦っていた。
 止む事の無い豪雨の様に乱れ舞う攻撃に、恋柱も善逸たちも、回避したりそれを凌ぐ事で精一杯で攻撃に転じる事が出来ない状況であったが。しかしそもそもそうやって凌げている時点で尋常ではない。

 ……ずっと、善逸の事はカスだと思っていた。
 いや、《《そう思わないと自分自身の価値を否定するも同然だった》》。
 努力を厭い、情けなく泣き喚き、直ぐに逃げ出しては恥ずかしげもなく周りに恥を晒す。
 俺には全部、《《出来ない事》》だった。
 努力すらしないなら自分に一体何の価値がある? 何を以て認めて貰う? 
 何にも代え難い程の、何処までも「特別」な才能なんて持ってない事は分かっている。
 なら努力するしか無い。他の奴らよりももっともっと努力して、そうやって他の奴らよりも前に出る事でしか俺は「特別」にはなれない。
 泣き喚く事なんて出来なかった、自分の中に溜まった鬱屈したものを曝け出す事なんて出来なかった、況してやあんな風に恥を晒す事なんて出来やしない。
 だってそんな事をした瞬間に見捨てられる、必要とされなくなる、居場所を喪う。
「特別」じゃない俺は、他に幾らでも代えが利くのだから。
 面倒臭い奴と手の掛からない「良い子」なら、絶対に後者の方が必要とされる。
 だからこそ、そんな姿を晒しても尚「特別」に扱って貰える善逸は、俺にとっては受け入れ難く認め難く、だが同時に……ほんの僅かながらも羨むものもあった。
「特別」が欲しかった、生きている意味が欲しかった。自分を認める為の、そんな「何か」が。ずっと欲しかった。
 ああ……そうか、俺は……。

 先程まで戦っていたあの翼の鬼がまるでただの戯れの様な存在だったのかと思う程に、その暴威を惜しみ無く揮う上弦の肆は、恐ろしい存在であった。
 上弦の壱程の、『死』その物が形になったかの様な絶望の権化では無いけれども。
 人が抗する事も叶わぬ災害の化身であるかの様に周囲を蹂躙するその姿と力が、恐ろしくない筈も無かった。
 自分がこの中に飛び込んだとしても、良くて善逸たちと一緒に攻撃を避けるだけでも精一杯で。
 反撃の為の嚆矢になれる訳も無い。それが理解出来る程度には自分の実力と言うものを正しく理解しているつもりだ。
 此処で俺に出来る事なんて何も無い。
 それこそ、鳴上や霞柱を探しに行った方が何倍も役に立つだろう。
 そうする方が良い。だってそれは見捨てる訳じゃない、助けを呼びに行くのだ。ならば、此処で背を向ける事も赦される。
 ……だけれども、その場を動かなかったのは、動けなかったのは。
 必死に抗い続ける善逸たちから目を逸らす事が出来なかったのは、何故なのか。

 恐怖に手が震える。
 もしあの鬼に認識されたら、間違い無く死ぬ。
 逃げるなら、まだ気付かれていない今が最後の機会だ。
 分かっていても、出来なかった。
 ここで逃げれば、きっと一生惨めに後悔し続ける様な、そんな確信があった。
 それでも、そこを飛び出すにはまだ「何か」が足りなかった。

 そして。
 強烈な爆音の影響で、善逸が僅かに隙を晒す。
 それはほんの一瞬の遅れではあったが、今この場ではそれは致命的なもので。

 それを見た瞬間。
 胸の奥でほんの僅かに何かに背を押された様な気がした。
 それから後の事は、よく覚えていない。

 その身を切り刻み圧殺せんとばかりに善逸の身に降り注いで来た斬撃の雨を、どうにかそこに滑り込んで何とか弾いていた。
 降り注ぐその一撃一撃が重過ぎて心の中は恐怖に震えていたが、それでも何とか耐え切って、顔には出さない様にして善逸に向かって吼える。


「あー、クッソ! 何油断してやがるんだ、このカス! 
 こんな所で詰まらねぇ死に方してんじゃねぇぞ! 
 大体、お前らどんだけ奥に行ってんだよ! 
 あれが上弦の肆の『本体』ってやつなのか?」


『死にたくない』と叫ぶ己の心を蹴り飛ばす様にどうにか刀を握り続けて。虚勢を張る様に己を叱咤する。

 こんな奴怖くない。あの上弦の壱に比べれば全然マシだ! 
 確かに、上弦の壱には膝を屈した。
 だからって、これからもずっと鬼どもを前に這い蹲って生きるのか? 
 そんな情けなく惨めったらしい生き方、《《死ぬよりも》》醜い、まさに《《生き恥を晒す》》事とどう違う! 
『生きてさえいれば』、何時かは求めている物を手に入れられると信じている。
 だが、此処で這い蹲ったら……逃げ出したら! 
 俺が求めている「特別」なんて、きっと死ぬまで手に入らない! 
 それは《《生きながらにして死んでいる》》事とどう違う!! 

 ……そうやって叱咤しても、『死にたくない』と心は叫ぶし、日輪刀を握る手はずっと震えている。
 俺は「特別」にはなれない。畏れを知らないかの様に戦う事なんて出来ない。自分が絶対に死ぬと分かってても誰かの為に戦い続ける程の執念も信念も俺には無い。
 それでも、これ以上惨めにならない為に……これ以上自分を見限らなくても良い様にする為に。そして、負けたくないとそう思い続けている善逸の前で情けない姿を晒さない為に。
 ほんの少しだけ、足の震えを我慢して立つ事なら出来る。

「間抜け面晒してんじゃねぇぞ、このカス! 
 死にたくなけりゃ、とっとと動け!」

 驚いた様に間抜けな顔をする善逸に、そう怒鳴る様に叱咤して。
 呼吸を使っても防げない突風の一撃を何とかして二人で避けた。
 それから竈門たちと合流して、僅かな隙を突いてたった一度切りの反撃の為の準備を整えて。
 そして、暴威の嵐の中へと踏み込む。
 鳴上やその力を借りた恋柱がやって見せた時の様に、竈門妹の血鬼術によって赫く染まった燃える日輪刀を構えながら、とにかく必死に樹の竜たちの首を斬った。
 僅かな活路に滑り込む様にしてどうにか命を繋ぎながら、この場で唯一鬼の『本体』の頸を斬れる可能性のある恋柱がそれを成す為の路を開く為に。
 一瞬後には死んでいるかもしれない中で、恐怖を燃やす様にして必死に立ち向かった。
 そして、きっと時間にすれば数分も経つかどうかの、しかし俺たちにすれば何時間にも感じる様な決死の奮闘の末に。
 恋柱の刃を鬼の『本体』の頸に届かせる為の路を作り出す事が出来た。
 一瞬の躊躇いも遅れも無く、その僅かに現れた路を抉じ開けて、恋柱は疾走し、そして『本体』の頸を斬るべくそれが引き籠っている筈の己を外界の脅威から守る為に鬼自らが作り上げた檻を叩き斬る。

 だが、確かにそこに居る筈であった鬼の姿はそこに無く。
 その事への驚愕から、一瞬その場の全員の思考が固まった。
 俺たちも、そして恋柱も。
 そんな好機を逃す筈も無く、鬼は何らかの攻撃を仕掛けようとその目標を最も近距離に居た恋柱に定めた。
 回避も防御も間に合わない。
 そんな数分にも感じる一瞬の絶望を終わらせたのは。

 爆音と共に鬼を脳天から胸の半ばまで両断した一撃だった。

 新たにその場に現れたその男は、まだ再生しきっていない鬼の身体を思いっ切り蹴り飛ばしたかと思うと、轟音を伴うその見た事も無い様な呼吸を駆使して自らに襲い掛かって来る樹の竜の首を切り刻んでいく。
 その実力を見るに、間違い無く柱だろう。
 今の柱が全部で九人居る事は知っているが、具体的にどんな人物がどの柱として就任しているのかを知っている隊士はそう多くない。
 柱に会う機会などそう多くはないからだ。
 だからこそ、新たに現れたこの男が何柱の誰なのかは俺には全く分からない。
 が、善逸と竈門は男の事をよく知っていた様で。
 救援に駆けつけてくれた男に、「宇髄さん!」と呼び掛けている。
 宇髄……確かそれは善逸たちと共に遊郭で上弦の陸を討ち取った柱の名だったと記憶している。音柱、だったか。
 何にせよ、こうして柱がこの場に二人も現れてくれた事はとても心強い事であった。

 だが、問題は『本体』が何処に逃げたのかと言う事だ。
 俺はその『本体』とやらを直接は目にしていないから今一つよく分からないが、『本体』は野鼠の様に小さいらしい。
 鬼の激しい攻撃の暴風の中でこっそりと籠城していた檻から抜け出していたのだとすれば、それをまた探し出さなければならないのだろう。
 ただ、それを探し出す為にはそれこそ善逸の耳の様に際立った力が無いと難しいようだが。

「宇髄さん! その鬼は上弦の肆の『本体』じゃ無いらしいんです! 
 えっと、『本体』は物凄く小さくて、あと物凄く頸が硬いって炭治郎くんたちが言ってました!!」

 鬼が操る竜の首を斬ったりその攻撃ごと切り裂きながら恋柱が音柱に説明する。
 柱が二人になったことで、防戦一方になっていた先程までとは違い余裕が出て来た様だ。それでも激しい攻撃の嵐に晒されている事には変わらないのだが、柱と言う存在はまさに桁違いの強さを誇っている様だ。
 押されまくっていた戦況を一気に押し返して、どうにか鬼を斬る状態にまで持っていけている。
 しかし夥しい程の血鬼術を放ち続けている鬼を幾ら斬った所でキリは無いのだけれども。

「成程、そのネズミ捕りをしなきゃ終わんねぇって事か! 
 上弦の陸と言い、上弦ってのは面倒臭い連中ばっかりだな!」

 そう言いながら音柱はまるで未来でも見えているかの様に鬼の攻撃を避けていき、そして此方に声を掛ける。

「おい、炭治郎! 善逸!! 
 お前らの鼻や耳でその『本体』って奴は追い掛けられそうか!?」

「やってみます! やらせて下さい!!」

 音柱の言葉に間髪入れずに竈門は頷く。
 詳しくは知らないが、確か竈門も善逸の耳と同じ様に感覚が鋭いらしいと聞いた事がある。確か、鼻が利くんだったか。
 何処に逃げたのか、何時逃げたのか、何処まで逃げたのか、全く分からない『本体』を探し出さなければならないのは至難の業であるし、ならばその『本体』を識別して追跡出来る二人にそれを任せるのはこの場では最も正しい判断であるのだろう。
 しかし、それは当然鬼の方も分かっている。

 鬼は途端に善逸と竈門を狙って集中的に攻撃を仕掛け始めた。
 それを恋柱と音柱が防ぐが、それでも強烈な攻撃の数々の全てを抑え切る事は出来ず。
 叩き潰す様な烈風と焼き潰す電撃とが混じり合った攻撃やら、強烈な音圧を伴う刺突だとか、果ては全ての攻撃が渾然となった攻撃などが俺たちを蹂躙せんと迫る。
 それを何とか回避していくが、そんな中では集中して『本体』の行方を追う事など困難極まりない。
 特に、爆音が常に近くで鳴り続けているこの状況だと善逸の耳も中々『本体』の音を拾えないだろう。

「ああ! もう少しで匂いを辿れそうなのに……!!」

 集中しようとする度に鬼の攻撃が飛んで来てそこに意識が持っていかれてしまう為に、掴みかけてはそれを捉え切れないと言う苛立ちが募る状況に竈門は唸る様に零す。

「多分アイツはそんなには離れていない筈だ。
 さっきから酷い爆音が続く所為で捉え切れないけど、でもそんなに遠くは無い場所に居る音がしてた……!」

 善逸の言葉に、竈門は再び集中して『本体』の匂いを探す。
 そんな竈門の意識を途切れさせない様にと、恋柱と音柱が益々連携して鬼の攻撃を防いでいた。
 そして、十数秒程集中していた竈門は、ハッとその目を見開く。

「見付けた──!!」

 そして、鬼の攻撃による破壊を免れていた茂みの辺りへとその指先を向けた。

「彼処です! あの茂みの奥に隠れています!!」

 その声に居場所がバレたと悟ったのだろう。
 悲鳴を上げながら、物凄く小さな何かがその茂みから更に奥へと逃走し始めた。
 それを見て、竈門は普段のその表情からはとても想像が出来ない程の憤怒の表情で叫ぶ。

「貴様アアアッ!! 逃げるなアアッッ!!! 
 責任から逃げるなアアッ!! 
 お前が今まで犯した罪、悪業、その全ての責任は必ず取らせる! 
 絶対に逃がさない!!」

 最早咆哮の様なそれと共に、竈門は逃げ出した『本体』を追う様に駆け出す。
 そしてそれに善逸や俺と不死川と竈門妹も続いた。
 恋柱と音柱もそれに続こうとするが、そうはさせじと更に強く鬼が抵抗した為、その攻撃を俺たちに届かせない為に二人はその場に足止めされてしまう。
 逆に言うと、鬼は俺たちにまで手は回せない。

 しかし、鬼の『本体』は余りにも素早かった。
 一瞬見えたその身体は本当に野鼠の様に小さくてうっかり踏み潰してしまってもおかしくない程なのに。
 そして異常な程に小回りもきくので追い込む事すら困難だった。
 これでその頸は恐ろしく硬いのだと言う。
 厄介を通り越してもういい加減にしろと悪態を吐きたくなる様な鬼だった。
 そうやって逃げ続けて此方の体力が尽きた所で襲って殺す……と言うのがこの鬼の常套手段なのだろう。
 大概の相手はそもそも最初の分裂する鬼で殺せるし、そうでなくてもあの子供の鬼で大体始末出来る。
『本体』に気付いた者が居ても、逃げ続けていれば何時かは追う側が力尽き果てる。
 そう言う戦略なのは分かるが、物凄く嫌らしい相手だ。
『死にたくない』と叫ぶそれを理解出来ない訳では無いが、俺の抱えるそれを何十何百倍も醜悪なものにしないとそこまでは辿り着けないだろう。……辿り着きたくもないが。

「いい加減にしろ。このっバカタレェェェェッ!! 
 往生際が悪いんだよ! 死ねェェェッッ!!」

 埒の明かない追走劇に苛立ちが限界に達したのか。
 不死川が突如手近な所にあった木々を抱え、深く根を張っている筈のそれを力任せに引き抜きだした。
 確か呼吸の才能が無いとか言ってなかったか? と。自分が見ているものを信じられない様な光景であったが。
 引き抜いたそれを、不死川は逃げる『本体』に向かってその逃げ道を塞ぐ様に思いっ切り投擲する。
 そして次々に木を引き抜いては投げ出した。

 ほぼ完全に退路を断ったそこに。

 ── 雷の呼吸 一ノ型 霹靂一閃・神速

 最早その技を善逸に伝えた先生をも遥かに上回る程の速度の霹靂一閃で、善逸が『本体』を強襲する。
 鬼の回避速度をも上回った一撃は、鬼の頸を正確に捉える。
 だが、それだけだった。
 僅かにその首の皮を斬っただけでその一撃は止まり、更には善逸の手にしていた日輪刀の刃先が折れる様にして欠けてしまう。
 まだ刀身が残ってはいる為全く何も出来なくなった訳では無いのだが、しかしもう最大限の力で斬る事は難しい。

「クソっ! やっぱり硬い……!」

 しかし、その一撃は無駄ではなかった。
 頸を捉えた事で、僅かながら逃げ回る『本体』の足を止める事が出来たからだ。
 俺と竈門兄妹と不死川が追い付き『本体』を取り囲む。
 そして、竈門妹がその小さな身体を掴もうとしたその時だった。

 悲鳴──と言うよりは、赤子が癇癪を起こして泣き喚く様な声を『本体』が発したかと思うと。
 突然、足元の地面が割れた。

 地面から猛烈な勢いで飛び出してきたのは、あの分身の鬼が操っていた樹の竜で。
 そして何時の間にか、『本体』とはまた別の鬼がそこに現れていた。
 先程まで戦っていた分身は子供の姿であったが、新たに現れた鬼はそれよりも更に幼い……最早乳飲み子と言っても良い様な姿だった。
 それでも、額から生えた角が、それが鬼である事を示しているのだが。

 竜の首の一つに守られたその赤子の鬼は、五鈷杵の様なものを抱えていて。
 そして、癇癪を起こした赤子の様に猛烈な勢いで泣き出し始めた。
 その音はとてつもなく激しく、善逸は堪らず耳を押さえている。
 しかし、鬼の攻撃は耳を壊す様な泣き声だけに留まらなかった。

 不意に、凄まじく身体が重くなる。
 身体ごと押し潰す様なそれに何とか耐えようとするが、上から凄まじい力で押さえ付けられているかの様に身動きが出来ない。
 そして、その押し潰す力は益々強くなり、耐え切れなくなって膝を付いてしまうが、そうすると今度はその膝ごと凄まじい力で押し潰されそうになる。

「何だ、これ……!」

 肺ごと押し潰されているかの様で、息が苦しい。
 全集中の呼吸を維持する事すらもう限界に近かった。
 訳も分からない攻撃に晒されながら、『本体』が更に何処かに逃げ出そうとしている姿が見えた。
 しかし、それを追い掛け様にも最早這い蹲って全身を使って少しずつ動く事すらもやっとに近い。
 逃げ出す『本体』を追う術が無い。

「クソっ、この、卑怯者……っ!! 
 待てっ!! 逃がさないっ!! 
 絶対に、お前の頸を、斬るっ!!」

 竈門はそう声を上げるが、しかしとてもでは無いが逃げる『本体』に追い付く事など出来ない。
 それどころかまともに身動きをする事も難しい。
 あの鬼の泣き声が何らかの血鬼術なのだろうとは気付く、がしかしこの状態ではそれを止める事すら儘ならない。
 そして、赤子の鬼の攻撃はそれだけでは無かった。
 先程までの子供の鬼の様に樹の竜を操れる。
 恐らくは、あの電撃やら烈風やらの血鬼術も扱えるのだろう。

 ……ダメだ、もうどうしようも無い。
『死にたくない』と心は叫ぶが、もうどうしようも無い。
 動く事すら儘ならないのだ。
 赤子の鬼に言葉など通じるかどうかも怪しいので命乞いなど最初から出来ない。

 ああ、クソっ。こんな所で死ぬのか。
 まだ俺は何にもなれていない、何も手に出来ていない。
「特別」になれていない。
 認められる事だって──


 ── じゃあ、俺が認めるよ。
 ── 努力の全てを、俺が認める。

 ── 俺にとって、じいちゃんにとって……! 
 ── 獪岳は、特別な位に大事な人なんだ。


 ふと耳の奥に響いたのは、鳴上の言葉と、そして。

 その時、樹の竜の首が善逸を食い潰そうとその大きな顎を開けて迫ろうとしている事に気が付いた。
 それと同時に竈門の方にも、竜の顎が迫っている。
 善逸や竈門に何度も『本体』を補足されていた為、目障りなそれから先に始末しようとしたのだろう。
 善逸や竈門はそれに気付いてどうにかして逃げようとするが、しかし身体を押さえ付ける凄まじい力の所為で四つん這いになる事すらも難しい。

 善逸のその眼に、迫り来る『死』が映される。
 恐怖と共にそれを見上げている善逸は、しかしそれから目を逸らさない。
 あんなにも臆病なのに、あんなにも情けなく泣き喚く奴なのに。


「クソがあっっ!!」


 何でそんな事をしたのか、自分でも信じられなかった。
 何でそんな事が出来たのかさえも。

 それでも、全身の骨ごと押し潰されそうな中で、今まで一度たりとも成功した事が無かった霹靂一閃の動きで。
 無理な体勢から放った事もあるからかとてもでは無いが型とは言えない形で不格好に体当たりをする様にして。
 どうにか善逸をそこから弾き飛ばした。


「兄貴っっ!!!」


 弾き飛ばされた善逸が必死に手を伸ばしたのが、物凄くゆっくりと見える。
 己に迫り来る竜の顎ですら、ゆっくりと。
 死の直前とやらは、時間が引き延ばされるものであるのか。
 だが、そんなゆっくりとした時間の中で逃げる事は出来ない。
 反応はしているが、身体は動かないのだ。

 ああっ、クソっ。
「兄貴」って呼ぶんじゃねぇよ。
 俺はお前の兄弟でも何でもねぇんだから。
 大体先生の事を「じいちゃん」と呼ぶのも止めろ。
 師匠とか先生とか、幾らでも呼び方があんだろうが。

 最後にカス……いや、『善逸』を庇って終わるなんて、とんだ死に方だ。死に方としては最低な部類だった。
 何でこんな馬鹿な事をしたんだろうか。自分でも分からない。
 死にたくないのになぁ……、何でなんだろうか。
 どんなに考えてもその答えは出ない。


 そして、俺の身体は押し潰される様な勢いで竜の顎に呑み込まれた。






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