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第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






 一体どうしてこんな事になっているのだろう、と。
 一瞬でも判断を間違えた瞬間に、一呼吸でも息を止めた瞬間に、即座に命を落とすだろう……そんな文字通りの『化け物』に蹂躙されるその領域の中で、必死に足掻きながら。
 どうして、と。戦いに集中する部分とはまた別の領域で、俺の思考は何度目とも分からない自問自答を繰り返していた。


『生きてさえいれば』。
 それが、その信念が、俺を何時も支え続けていた。

 俺には何も無い。最初から何も持っていなかった。
 物心ついた時には既に棄てられていて親兄弟の顔なんて知りやしない。
 物乞い連中に混じって僅かな憐れみのお零れを貰ったり、或いはせせこましく掏摸をしてその日その日の糧を得たり。
 生き延びる為には何でもやった。
 泥水だって飲んだし、野良犬たちに混じって味がしない方がマシだって思う様な残飯を漁る事だってした。
 名前すら持っていなかった。
 誰が初めに呼んだのかも知らない「獪岳」と言うそれを自分の名前にしただけで。
 後になって自分の名前にしたその言葉を調べて見たら、「獪」とやらは「狡賢い」と言う意味らしい。人間に付ける名前じゃねぇなと思ったが、まあその時には既に「獪岳」と言う名前で過ごした時間はそれなりにあったし確かにそれは『自分』を示すものであったから今更それを変えようとは思わなかったけど。
 そんな風に、俺は何にも持っていなかった。
 誰からも気にされないし、ある日消えたとしても誰も構わない様な。居ても居なくても何も変わらない様な存在だった。
 俺みたいな連中は別に少なくは無かった。
 親に棄てられた子供、親の虐待に耐えかねて逃げ出してきた子供、何らかの理由で親を喪って路頭に迷った子供……。
 そんなの、探せば幾らでも居るのだ。
 慈善院の様に孤児を引き取って育てる奇特な人や場所が無い訳ではないけれども。
 そうやって救いの手を差し伸べるにしても抱えられるものには限りがあるし、そこから零れ落ちた者達が生きていく術などそう多くは無い。
 保護してくれる大人が居ない子供たちの多くは、そう長くは生きられずに野垂れ死にしてはその骸を野良犬などに喰われて終わる。
 そうやって息絶えていく者たちを、ある日突然何処かに消える子供たちを、横目に見ながら。
『生きてさえいれば』、『死んだら終わりだ』と言うその信条に縋り付く様にして必死に生きていた。
 何の為に生きていたのかなんて、そんなの知らない。
 ただ、死にたくなかった、生きたかった。
 このまま死んだら、何も残らない。何の意味も価値も持たないまま、何の為に生きてきたのかさえ分からないまま、そうやって無意味に死ぬ事には耐えられなかった。
 ずっと、何かが欲しかった。
 自分だけの何かが、それが何かは分からないけれど、とにかくそれが欲しかったのだ。
 だから、とにかく必死に生きた。
 明日なんて分からないまま、それでも、と。

 そうやって何年もの間、野良犬も同然に生きてきたが。
 しかしある時転機が訪れた。
 とある盲目の僧が、俺を拾ってくれたのだ。
 彼が管理するその小さな寺には、俺と似た様な経緯で拾われて一緒に暮らしている子供たちが何人も居た。
 俺はその中では新入りだが年齢はかなり高い方だった。
 彼……悲鳴嶼さんや子供たちと過ごす日々は、決して豊かなものでは無かった。
 篤志家から時折寄進はあったものの、基本的に贅沢なんて出来ない。
 まさに清貧とでも言った方が良い様な、そんな生活だった。
 それでも、屋根がある場所で雨風の心配をせずに眠れて、次の食事を探す為に残飯を漁る様な事をしなくてもちゃんと食べる事が出来る生活に不満など無かった。
 それまでに比べれば、そもそも比べ物になんてならない位に良い生活だった。
 貧しくて尋常小学校に通う様な事は出来なかったが、基本的な読み書きなどは寺にあった書物を通して学ぶ事が出来たし、悲鳴嶼さんから色々な事を教えて貰う事が出来た事もあって、「学」と言うものも多少は身に付いたとは思う。

 悪くは無い生活だった。
 チビどもの面倒を見るのは良い事ばかりでは無いけれど、毎日毎日寺の手伝いをするのは楽では無かったけれど。
 でも、悲鳴嶼さんの事は慕っていたし、そうやって面倒を見て貰っている恩義はしっかりと感じていた。
 生きる為なら何でもやってきたのは確かだけれど、でも。
 そうやって生きる事に必死だったからこそ、何かしら恩を受けた際にはそれにちゃんと感謝する程度の感性はしっかりとあった。
 それが決して「当然」では無い事を、何も持たざる者であったが故によく理解していたからだ。
 何もしなくても享受出来る様なものなんかじゃない事を俺はよく知っていた。
 ほんの一時の気紛れや憐情によるものなのだとしても、それを受け入る事が出来るかどうかで生き死にが分かれる事もよく知っていたからだ。
 まあ、恩を感じるとは言っても、その相手から盗みは働かないと言う程度の事ではあったけれども。
 それでも、そう言った分別は元々あった。
 だからこそ、命を脅かされる事無く生きていけるそこは、生きる事以外にも目を向けられる場所であった。
 そう、最初はそれだけで良かったのに。

 どうしてだか、時々満たされないものを感じてしまう時が現れた。
 それは大抵、悲鳴嶼さんが他の子供たちを褒めていたりする時だ。
 俺は年長者の部類だったから、寺の子供たちの誰よりも、寺の事を手伝っていたし仕事もやっていた。
 そうやって頑張る事は嫌いではなかった。
 一人で生きて来た時には自分が頑張らなきゃ明日の命すら分からないものであったのだし、そうやって何かを努力するのはある意味では当然だった。
 かつては努力すればそれは僅かな飯や一晩の屋根などといった形で返ってきたし、寺に来てからは悲鳴嶼さんに褒めて貰えるし認めて貰える。
 だから、努力は嫌いじゃない。寧ろ、努力には相応の「結果」が付いて回るものだとも思っていた。
 ……でも。寺には俺以外にも多くの子供たちがいた。
 中には頑張るやつも居れば、鈍臭くって直ぐにビービー泣く様なやつも居て。
 頑張っていて成果が出ている奴を悲鳴嶼さんが褒めるのは当然だけど、何にもして無い様な……寧ろ迷惑をかける様な奴にまで悲鳴嶼さんが優しく褒めているのを見るのは何だか嫌だった。
 胸の奥に隙間風が吹く様な、そんな満たされない物を感じた。
 そんな奴を褒めるなら、もっと俺を褒めてくれ、もっと俺を認めてくれと、そう思った。
 そして気付くのだ。
 悲鳴嶼さんにとって、俺は特別でも何でもなくて。
 大勢居る子供たちの一人なんだ、と。

「特別」になりたかった。「特別」が欲しかった。
 何にも持って居なかった俺でも、「特別」になれたのなら。
 そんな、自分だけの「何か」を手に入れる事が出来たら。
 何の為に生きているのか、何の為に必死になって生きてきたのか、分かる様な気がするから。

 そうしようとした切っ掛けが何だったのかは、もう今となっては思い出せない。
 多分、そんなに大した何かじゃなかったのだろう。
 流石に気紛れとかでは無かっただろうけど。でも、きっと思い出してもあんまりにも些細な事過ぎてどうしようも無い様な切っ掛けだろうとは思うのだ。
 ある日、俺は寺の金を盗んだ。
 盗んだと言っても、本当に端金で。それで何かを買うなんて程のものじゃない金額だったと思う。
 寺に来る前は掏摸だとか盗みだとかもして食い繋いできたけれど、衣食住が保証された寺でそんな事をする理由なんて無くて。
 でも多分。それに気付いた悲鳴嶼さんがどうするのかを知りたかったんだと思う。
 ただ叱るのか、悲しむのか、説教の後に赦してくれるのか、それとも「良い子」だった俺がそんな事をした理由を知ろうとするのか。
 それが「悪い事」だってのは分かっていた。端金でも、大事な金であると言う事も。
 でも、ただ知りたかったのだ。……今となっては、言い訳にすらならない事だけれど。

 しかし、俺が金を盗んだ事に最初に気付いたのは、悲鳴嶼さんじゃなくて寺の子供たちだった。
 当然、罵られた。だって「盗み」は悪い事だ。それは悪い事なのだと悲鳴嶼さんは何時も言っている。それに、大事な寺の金に手を付けたのだから、そりゃあ怒られるし罵られる、当然だ。
 反省しろと、夜に寺を追い出された。

 悲鳴嶼さんが気付いたらきっと追い掛けて探してくれるだろう。
 でももう寝る時間の事だったからなのか。
 目が見えていなかったからなのか、悲鳴嶼さんは気付いていなかった。そして、きっと俺を追い出した奴らもそれを言わなかったのだろう。
 ……それでも、明日が来ていれば。
 何時も通りの明日が、来てさえいれば。

 でも、そんな「明日」は、二度と訪れなかった。

 寺のあった地域では、鬼の伝承が根強く残っていて、夜には藤の香を焚くのが習わしになっていた。
 寺でも毎晩毎晩悲鳴嶼さんがそれを焚いていた。
 鬼なんて、そんな言い伝えの中にしか居ないものを恐れるなんて馬鹿なんじゃないかと思った事もあるけど。
 でも、だからってそれを止めさせようだとかは思った事は無かった。
 ああ、そうだ。「鬼」なんてお伽噺の存在だと思っていたんだ。
 あの夜までは。

 寺を追い出されて、かと言って遠くまで行く様な気にもなれなくて。
 適当な木々を枕にでもして寝るかと、そう思って森を彷徨いていたら。
 俺は、「鬼」に出逢ってしまった。

「鬼」の習性を思えば、出会した直後に俺が殺される訳では無かったのは「幸運」だったのだろう。
 獣同然の理性も無い成り立ての様な鬼とは違い、その「鬼」には理性があった。狡猾さがあった。
 俺の首を絞めながら「鬼」は言った。
「お前はあの寺の子供だろう。焚いている香を消してこい。そうすればお前だけは見逃してやろう」、と。
 恐怖からその時の記憶は大分曖昧ではあるけれど、確かそう言っていた筈だ。

 あの「鬼」は恐らく暫く前からあの寺に目を付けていたのだと思う。
 山の中の、普段は人の往来も殆ど無い場所にある寺だ。
 そこで人が襲われていても、発覚するのは随分と先の事で。
 殺した獲物を食べ尽くして鬼がその痕跡を消して悠々と逃げるには持ってこいの立地だった。
 あの日俺が外に居なかったとしても、何かの機会に押し入る隙が出来ていたら寺を襲撃していただろうとも思う。
 でも、それは今になって思い返して、必死に言い訳をしているだけに過ぎない。
 何であれ、俺は選んでしまった。
 自分の命と、自分以外の全員の命を天秤に掛けて。
 自分の命を、選んだ。
『生きてさえいれば』、『死んだら負けだ』、と。
 その恐怖に突き動かされて、俺は……。

 その選択の結果は、惨憺たるものになった。
 あっという間に、殺された。
 俺を寺から追い出した奴も、罵った奴も。ほんの少し前まで一緒に飯を食って寝ていた者達が、皆。
 生まれて初めて嗅ぐ濃い血の臭気に腹の奥底から嫌悪感と、どうしようも無い取り返しなど絶対に付かない事への決して消えない罪悪感が胸の奥に刻み込まれる。
 俺の所為じゃない、どうしようも無かったんだと、そう必死に抗弁しようとする心を。
 夜の暗闇の中で息絶えた皆の虚ろな眼がそれを赦さない。
『お前の所為だ』、と。誰もがそう言っていた。言っている気がした。
 争っている音は聞こえたけど、もうこれ以上は耐えられなかった。
 悲鳴嶼さんは助からないだろうと思った。だって眼が見えていないのだ、どうする事も出来ない。
 俺の所為で、殺してしまった。
 それでも、自分の罪に向き合う事なんて出来なくて、でも何もしない訳にもいかなくて、かと言って「鬼」に立ち向かうなんて今更出来る訳も無くて。
 だから俺は、必死に夜の山を駆け下りた。
 子供の足だ、これと言って何も鍛えてないただの子供。
 そんな子供の足で出来る事はタカが知れていた。
 それでも、必死に町まで降りて、警邏の者を呼んで寺が襲われている事を話して。
 そして……俺はそのまま己の罪から逃げ出す様に、そこから離れた。
 だって、帰った所で悲鳴嶼さんたちの無惨な亡骸に向き合う事になるだけだ。
 もう「明日」なんて絶対に訪れない事は分かっていた。
 だから俺は、全てから背を向ける様に、逃げた。
 何をしても晴らす事の出来ない罪悪感を抱えたまま……。

 それからはまた惨めな生活に逆戻りした。
 日々生きる事だけに窮々とする様な、そんな毎日。
 俺は必死に生きた。必死に生き抜こうとした。
 だって、俺は選んでしまったのだ。
 自分の命と、自分以外の命を秤にかけて。
 なら生きなければならない。悲鳴嶼さんや寺の皆を殺してでも生きる事を選んだんだから。
 ここで死んだら、本当に何も残らない。
 罪だけを重ね続けた詰まらない命が消えただけでしかない。
 それは、嫌だった。何の為に生きているのか分からなくなっても、それでも生きようと頑張った。

 そしてそんなある日、再び転機が訪れた。
 それは本当に偶然だったのだが、鬼殺隊の元柱であり育手である先生……桑島さんに出逢った。
「鬼」と言う存在を現実的に知っている俺は、「鬼」を殺す存在……鬼殺隊の存在を知って。
 先生に師事する事を、選んだ。
 あの化け物と戦うと言う事は、命の危険もあると言う事は分かっている。
 一度は膝を屈したからこそ、誰よりも分かっている。
 でも、鬼殺の剣士になれれば。
 あの日の様な事は二度と起きないだろう、と。そう思ったのだ。
 それは贖罪の為であるのだろうか、それとも己の罪悪感に負けて逃避しているだけなのか。
 或いは、もう絶対に叶わないけれど、あの日喪ってしまった「明日」を取り戻したかったのか。
 ……何にせよ、俺は鬼殺の剣士となる為に修行する道に進んだ。

 素質はあったからなのか、弟子になる事を先生は許してくれた。
 そして、本当に一切の容赦無く扱かれた。割と冗談抜きで「死」を覚悟した事は何度もある。
 柔い子供の身体を、「鬼」を殺せるまでに鍛え上げるのだ。
 それはもう生半な鍛錬では足りないのは当たり前で。
 指先一本動かす事も出来ない様な状態まで身体を酷使して倒れた事は一度や二度では無い。
 でも、俺は努力する事は嫌いじゃなかった。
 やればやっただけ自分の力になる実感があった。
 もっと強く、もっと強く、と。
 そうやって必死に鍛錬した。
 先生が見ていてくれたから、認めてくれたから、頑張らないと、と。
 あの日からずっと満たされる事の無かった、もう永遠に満たされないのかもしれないと思っていた胸の奥が、少しだけ温かなものに触れた。
 だけど……。

 どんなに鍛錬しても、俺は壱ノ型が出来なかった。
 雷の呼吸にとっては、基本でありその全てである型だけが。
 他の型は出来るのだ。鍛錬すればする程その精度は高まり、実際に鬼殺の剣士として戦っている他の雷の呼吸の使い手たちにも勝っていると先生に褒められた程に。
 それでも、壱ノ型だけが、何をしても出来ない。
 お前には「才能」など無いのだと突き付けられている様にすら感じた。
 上辺だけをなぞっているだけなのだと、自分自身にそう言われている様な気すらした。
 あの日の死んだ子供たちの眼が責める。
『お前は永遠に満たされない』、と。

 そして、決定的な日は、まるで青天の霹靂の如く訪れた。
 先生が、新たな弟子を連れてきたのだ。
 俺と言う弟子が既に居るのに! 
 それは、俺が壱ノ型が使えない出来損ないだからなのか? 
 先生は俺に見切りを付けたのか? 
 だが、胸の奥に轟々と渦巻いたそれを先生に訊ねる事は出来なかった。

 善逸と言う名のそいつは、俺と同じく孤児だったらしい。
 だが俺とは違って、善逸は情けなさの塊であった。
 ギャンギャン泣き喚き、努力を嫌って直ぐに逃げ出しては先生の手を煩わせて、そして先生の時間をひたすら食い潰す。
 こいつの何を見て弟子にしようとしたのかと本気で思った。
 こんな奴に劣ると思われているのかと思うと、腸が煮えくり返る様だった。
 ならこんな奴要らないのだと言ってやろうとして壱ノ型をそれまで以上に必死に習得しようとしたけれど、しかしどんなにやっても出来ないままで。
 なのに、信じられない程に情けなく惨めったらしいカスみたいな奴なのに。
 アイツは、俺がどんなに努力しても出来なかった壱ノ型を習得した。壱ノ型以外は全然ダメだけれど、しかしその事実が俺を慰める事は無かった。
 更に追い打ちを掛けたのが、先生が俺とアイツの二人で雷の呼吸の後継者だとか言い出した事だ。
 努力して努力して誰よりも努力して。あんなカスなんかとは比べ物にならない程に刀を握り続けているのに。
 それなのに、俺とカスが同列だと言ったのだ。
 到底、認められない事だった。

 そして、俺は先生の所から逃げ出すかの様に最終選別へ行って、そのまま鬼殺隊に入った。
 鬼殺隊は実力主義の場所だ。努力すればする程鬼を狩れば狩る程評価される、認められる。
 その空気は嫌いでは無かった。
 もっともっと鬼を狩って、何時か鳴柱になる。
 そうすればきっと俺は誰からも認められて「特別」になれる。
 あんなカスなんかどうでも良い位に、俺が「特別」だと認めさせられる。
 そう、思っていた。

 俺が鬼殺隊に入って一年程してからあのカスが最終選別で生き残ったらしいとは聞いた。
 鬼殺隊は何だかんだと狭い世界なので、別に知りたくなくてもそう言う情報は耳に入ってくるのだ。
 今回の選別は何時もよりも多くて五人も通ったらしいと、そう噂になっていた。

 それからはカスの名を聞く様な事は無かった。
 しかし、何か大きな事があれば別に知りたい事でなくても耳には届く。
 例えば、強力な鬼に遭遇したか何かで下級隊士が大きく減った事はあったが柱が出向いた事でその下弦の鬼だったらしいその鬼も無事に狩られたそうだとか。
 それと、どうやら鬼を連れているどうしようも無い馬鹿な隊士がいるらしいと風の噂に聞いた。
 上層部直々に認められているらしいので手出しは無用との事だったが、まあ階級は相当下らしいので任務などでかち合う事も無いだろうと聞き流した。
 そしてそれから少しして、蝶屋敷に送られた隊士が無事に戦線に復帰出来る割合が急に高くなったらしいとも噂に聞いた。
 とは言え、任務で大きな負傷などする事も無かった俺が治療施設である蝶屋敷を訪れる用事などほぼ無いので関係無い事だったが。

 あのカスの名前を再び聞いたのは、カスが鬼殺隊に入ってから数ヶ月経った頃の事だ。
 炎柱と共に下弦の壱の討伐に参加したらしい。まあ、その件に関しては、下弦の壱を倒した事よりも、その後に強襲してきた上弦の参を相手に炎柱が五体満足で生き延びた事の方が重大事として伝えられてきたのだが。
 上弦の鬼は下弦の鬼と比べ物にならぬ程に恐ろしく強いと言う事は知っていたが、上弦の参でも炎柱一人で対峙しても五体満足で撤退させられるのなら、鬼殺隊で囁かれている程には強い相手では無いのかもしれない、と。漠然とそう思った。

 しかし、その炎柱と上弦の参との戦いを更に上回る出来事がそれから一ヶ月程後に起きたのだ。
 何と、上弦の弐が撃破されたのだと言う。それから少しして、「撃破」ではなく「撃退」であったと修正されはしたが、しかしどちらにせよ快挙である事には変わらず、それらの情報は直接鎹鴉を通じて全隊員に周知された。
 しかし、その上弦の弐を撃退したのだと言う『鳴上悠』なる人物に関しては、殆どの者が首を傾げた。
 そもそも階級が記されてないその者は一体何なのか、と。
 隊士なのか何なのかも分からず、それから暫くは隊士たちの間では『鳴上悠』の話題が持ち切りであった。
「『鳴上悠』なる人物は人では無くて、鬼なのでは」だとか、「上弦の弐を倒した『鳴上悠』は人間では無くて、無惨の横暴に耐えかねた神仏の御使いなのでは」だとか、まあ随分と好き勝手言う者たちに混じって、中にはこの『鳴上悠』なる人物に心当たりがあると言う者もいた。
 どうやらその隊士曰く、最近蝶屋敷には新たに男の住人が加わっていて、その男は蝶屋敷の住人と共に負傷した隊士たちの治療に当たっているそうだ。
 彼が手を握れば、死の淵にあった者や血鬼術の後遺症に苦しむ者たちもたちどころに癒されすっかり元通りになるのだとか。
 そんな馬鹿なと思うし、尾鰭が付き過ぎだろうと本気で思うのだけれども。
 実際にそこで命を拾った者の証言も出て来たのだからそれは益々持って「事実」らしいと噂になった。
 命を救われた者曰く、意識も朦朧としたその中で握られた手はとても優しく温かく、まるで父母が幼い我が子を慈しむ様な慈愛に満ちていて、苦しみに寄り添わんとするその心はまさに「菩薩」であると言う。
 流石に誇大に語り過ぎているとしか思えないのだが、それは一部の隊士の間に熱狂的に広まり、蝶屋敷には「菩薩の化身」が居るらしいとの話題で持ち切りになっていた。
 何にせよ、突如彗星の如く現れた『鳴上悠』と言う「特別」に、誰もがその興味関心を向けているのは確かであった。
 だが、俺はその熱狂に乗る事はどうしても出来なかった。

 そして、鬼殺隊中が『鳴上悠』の話題で持ち切りになって一ヶ月も経たない内に、今度は上弦の陸が討伐されたとの話題で持ち切りになった。
 そして、上弦の陸を討伐した者たちの中には、カスの名前と、そして『鳴上悠』の名前もあった。
 上弦の鬼との戦いの中で一人の死者を出す事も無く完全に勝利したそれは、快挙を通り越して最早異常であった。
 住人の避難誘導や事後処理をしていた隠たちが噂していたのを伝え聞く所によると、建造物などの被害は想像を絶する程の規模でありそれで死傷者が一人も出なかったのは最早『奇跡』だったらしい。
 上弦の陸によって広大な吉原遊郭の一画は完全に更地と瓦礫の山も同然の状態と化していて、物的な被害としては鬼殺隊がそれまで処理してきた物の中では群を抜いて酷かった様だ。
 また、幾百もの雷鳴が轟き天から驟雨の様に雷霆が降り注いだとも、光の矢が天に向かって放たれただの。そんな事を目撃したのだと主張する隠も居た様だ。
 一体何が起きたのかさっぱり分からないが、とにかくその戦いが『異常』であった事は確かであるらしい。
 ……何にせよ、あのカスが上弦の陸の討伐に大きく貢献した事は間違いない様だった。
 本当の意味で、鬼殺隊が上弦の鬼を討ち滅ぼした初めての事例だ。
 その為、『鳴上悠』や音柱だけでなく、あのカスやそしてカスの同期だと言う新人隊士の事もよく話題に上がる様になっていた。
 誰かがあのカスを認める言葉を羨む様な言葉を口にするのを耳にする度に、胸の中に黒く澱んだ感情が満ちて行った。
 あのカスが「特別」なのだと、そう言うつもりなのかと。
 誰にとは言わずに叫びたくなる事もあった。
 誰よりも努力している、誰よりも強くなる為に。絶対にあのカスよりも努力している。それでも届かないのか、「才能」と言う「特別」は俺には存在しないのかと。
 満たされない想いは益々強くなった。喉が乾く様に何かに飢え続けていた。認めて欲しかった。

 そして、上弦の陸が討伐される少し前辺りから、それまでの実力を上回る様な戦果を上げる隊士が増え始めていた事も、俺を追い詰めた。
 俺よりも弱い、俺よりも下だと思っていた連中が、何時の間にか強くなっていたのだ。
 俺でも手こずるかもしれない様な厄介な血鬼術を使う鬼を、柱でも何でもない上に階級としては低い方である隊士たちが数人がかりとは言え倒したらしいのだと言う話を聞いた時には、思わず何故だと心の中で叫んだ。
 俺の方が弛まずに努力し続けているのに、何故、と。
 努力をすれば強くなれた、強くなれば認められた。
 だが、その努力で得た強さを上回る者達が周りに大勢現れたら、誰も俺を認める事は無い。普通の結果しか出せていないのに、努力を評価される事なんて無い。
 何が足りないのだろう。努力か? 才能か? それとも天運か? 
 下弦の鬼でも討伐すれば、きっと誰もが俺の事を認めてくれるのだろうけれど。
 しかし、ここ数ヶ月の所全く下弦の鬼の情報が無いのだ。
 カスたちが炎柱と共に倒したらしい下弦の壱の討伐報告を最後に、下弦の鬼自体が影も形も無くなった。
 なら少しでも任務を熟さなければならない。
 少しでも多く、一体でも多く、鬼を殺さなければ。
 あのカスを超える事が出来ない。

 そしてそんな焦りのままに、俺は色んな任務を手当たり次第に受けた。
 手当たり次第とは言え、雑魚鬼程度に殺られる程弱くはないし、血鬼術を使える鬼だって大体は俺一人でどうにか出来る。
 しかし、その夜の任務は偶々複数の隊士との合同任務であった。
 そう言う時は偶にある。
 俺以外の隊士は正直そこまでパッとしない奴らであった。
 俺以外の三人はそれなりに親しいのか目的地への道中に軽く雑談するなどしていたが、そんな暇があればさっさと鬼を狩れば良いのにとすら思う。
 目的地であった廃村を根城にしていた鬼は、あっさりと殺せた。
 壱ノ型が使えなくったって、俺は鬼を殺せる。殺せるのだ。
 それでも、胸の中に巣食った黒いものは晴れないし、虚しさも消えない。
 さっさと報告して帰るかと、そう踵を返そうとした時だった。

 余りにも重厚で逃れる事など出来ない『死』の気配がした。

 それに反応出来た事は、果たして運が良かったのか。
 何にせよ、その気配を感じた瞬間に動けたのはその場では俺だけで。
 そして、全力で回避したその瞬間。
 その場を一閃した斬撃が、ただその一太刀を以てその場に居た隊士三人の身体を一瞬で斬り刻んだ。
 手足が飛び、肉塊の様にグチャグチャにされ、胴も寸切りにされて吹き飛ばされて。
 その場は、瞬く間に血の海と化した。
 もう、それは本能の叫びの様なものだった。

 勝てない、勝てない、勝てない、死ぬ、逃げなくては、と。
 その感情に支配されて、全速力でその場から逃げ出そうとして。
 しかし、それは叶わなかった。


「ほう……今の……一太刀を……避ける……とは……。
 中々……良い……素質を……持つ……様だ……」


 《《それ》》が目の前に現れた瞬間に、絶対に逃げられない事を本能が悟った。
 それは『死』そのものであった。
 何もせずその場に佇んでいるだけで、全身の細胞が絶叫して泣き出す程の、何処までも圧倒的な強者であった。
 目玉が幾つも付いた奇妙な刀を握っていたその鬼の、殆ど人間の様に見えるその容貌の中で唯一の異形らしき三対六眼の、本来の人間の眼の位置にある眼球に刻まれた文字は、「上弦」・「壱」。
 正真正銘の、『化け物』であった。

 対峙した瞬間に、こんな者に勝てる存在など人間の中に居る筈が無いと悟った。
 上弦の陸を討った? だが、目の前のこの『化け物』にそれで勝てるとでも? 
 それはどうする事も出来ない絶対の存在であり、『死』と『絶望』その物で。

 それを目の前にして、胸に吹き荒れたのは、『死にたくない』と言うその一念であった。

 俺は、まだ何も成せていない、何にもなれていない、何も認められてない、評価されてもいない。
 このまま、「何も無い」ままに死ぬのだけは絶対に嫌だった。
 だから、俺は己の日輪刀を鞘から抜く事も無くそれを地に置いて。
 額を深く地面に擦り付けながら、必死に命乞いをした。
 とにかく、何が何でも生きたかった、死にたくなかった。
 だから必死になって色んな事を言った気がする。殺さないでくれと、とにかく何でも言った気がする。
 それらの命乞いの中に何を思ったのかは知らないけれど。
 上弦の壱は、どうやらその場で即座に斬り殺す気は無くなったらしい。
 だが、その次にその口から出て来た言葉には、思わず息を飲んでしまった。


「成程……お前も……力を……望むのか……。
 呼吸を使う……剣士なら……あの方に……使って貰える……だろう……。
 強い剣士であれば……鬼になるのに……時間が掛かる……。
 呼吸を使う者を……鬼とするのには……より多くの……血が必要になる……。
 稀に……鬼にならず……死ぬ者も居るが……お前は……どちらだろうな……」


 お前を「鬼」にすると、そう言い放った上弦の壱の言葉に。
「否」を突き付ける事など出来なかった。
 隊士が鬼になったらどうなるのかなんてよく知っている。
 身内が……俺の場合は、先生とあのカスが、その責任を負って腹を切る事になる。
 自分の選択の所為で、また人が死ぬ。
 でも、それを拒否したら俺が死ぬ。
 カスの事は心底疎んでいたし憎んでもいたが、かと言って殺したいとまでは思っていなかった。
 先生に対しても、俺とカスを同列に並べた事には今でも納得がいかないけれど、だからと言って殺して良いなんて思っていない。
 でも、ここで選ばなければ俺は死ぬ。
 死ぬのだ、何にもなれないまま、何も持てないまま、何の「特別」にもなれないまま。
 生きた意味なんて無いままに、あの日殺してしまったアイツらや悲鳴嶼さんの命を捧げてしまった意味すら分からないままに。

 生きてさえいれば良い。
 死ななかったら負けじゃ無い。
 鬼になったとしても、何時かきっと勝てる筈だ。
『生きてさえいれば』。

 上弦の壱に言われるままにその手を盃の様にして、その血を受け取ろうとした、丁度その時だった。


 何度も聞いた覚えのある、独特の音が響いて。
 ほんの一瞬で目の前に、何処から現れたのかも分からないが、善逸が俺と上弦の壱との間に飛び込んで来て。
 俺を守ろうとしてか、上弦の壱の腕を斬り落とさんとその刀を振るっていた。

 だが、それを上弦の壱に見切られていた為に、その刀はたった一撃であっさりと折られて。
 そして、返す刀で善逸の胴体を薙ぎ払おうとしたその上弦の壱の一撃を。


「させるかぁああっっ!!!」


 まるで上から降って来たかの様にその場に飛び込んで来た見知らぬ男が、その手に持っていた剣を振るって止める。
 その一瞬の間に、善逸は俺を抱えたまま霹靂一閃の足運びでその場から遠ざかった。

「獪岳!? 無事!? 怪我は!?」

 焦った様に肩を揺すりながらそう訊ねてくる善逸に、状況が全く理解出来ずに混乱していた俺は殆どマトモな反応が出来て居なかったと思う。
 そもそもどうして此処に善逸が現れたのか、そしてあの男が何なのかすら全く分かっていなかったのだ。
 後から、上弦の壱の襲撃に気付いた鎹鴉が、偶然比較的近くに居た善逸たちに助けを求めたらしいのだと知ったが、その時はそんな事情を知る由も無くて。
 自分の所為で殺す事になる筈だった相手だけに、どう反応していいのかも分からなくて。
 善逸とまた別の見知らぬ男が、大慌てで上弦の壱に切り刻まれた隊士たちを回収している姿をただ見ていた。
 そしてふと、上弦の壱とあの男はどうなったのだろうと、そちらに目をやると。
 そこに広がっていたのは、まさに『化け物』たちの演舞としか言い様がない、常軌を逸した光景であった。

 刀一本でその光景を作り出しているとは到底思えない様な上弦の壱の技によって、周囲がまるで障子紙を引き裂くかの様に廃村の建物が引き裂かれバラバラに吹き飛んでいく。
 たった一薙ぎですら、並の剣士どころか経験を積んだ隊士ですら肉塊になるしかない様なその『化け物』の攻撃を、それに相対している男は全て弾いたり往なしたりしながら防いでいた。
 上弦の壱が『化け物』なら、その男も間違いようがなく『化け物』に他ならなかった。
 見た事が無い赤に染まった日輪刀を握り締めたその身体にはまるで男が雷の化身であるかの様に紫電が纏わりついていて、直後に雷鳴と共に繰り出した刺突は、雷の呼吸の使い手として動体視力には自信があった俺にすら全く見切る事も出来ない速度で上弦の壱の肩を抉りそこを爆発させるかの様に吹き飛ばした。
 あの『化け物』を相手に、だ。
 それはもう、『人間』が成し得る事では無い。
 左肩の大半を喪って尚も動き続ける上弦の壱も常軌を逸した存在ではあるが、それは鬼だからそうなのだ。
 だが、この男は一体何なのだ? 
 俺の目には、この男は上弦の壱以上の『化け物』の様にしか見えなかった。
 そして、男は更に信じられない力を見せる。
 上弦の壱の斬撃を物ともせずに振り被ったその剣は、雷その物が刀身になったかの様に目を灼く輝きを放って。
 そして、それを上弦の壱の頸に正確に叩き込み、その頸を焼き落とすかの様に斬り飛ばして。
 あまつさえ、地面に向かって落ちる首を、思いっきり蹴り飛ばしたのだ。
 何もかもが常軌を逸した行動だった。

 そして、上弦の壱を吹っ飛ばした男は、瞬く間に俺たちのもとへと駆け寄って来て。
 男の指示で善逸が俺の身体を掴んだその次の瞬間には。
 ほんの一瞬の浮遊感にも似た奇妙な感覚の後には、俺たちはあの廃村では無く、何処かの屋敷の庭に居た。
 上弦の壱の姿は、何処にも影も形も無い。
 どう言う事だ、一体何があったのだと、頭の中は現状を何も理解出来ないままで。
 そして、そんな俺の混乱になど構う事無く男は、息絶える直前の様な有様になるまでに上弦の壱に一瞬で切り刻まれた隊士たちの身体と斬り飛ばされグチャグチャになった手足とを繋がる様に押さえてくれと、そんな滅茶苦茶な事を言い出した。
 だが、得体も知れないが明らかに『異常』な男のその言葉に逆らう事など出来る筈も無くて、言われるがままにそれに従うと。
 まだ微かに息のあった二人の胸の上に男が手を置いたのとほぼ同時に、何かの柔らかな光の様なものが隊士たちの身体を包む様に走り。
 己が目を疑う様な光景ではあったが、隊士たちの傷は、すっかりと消え失せていた。
 原型を留めているとは言い難い程の有り様だった手足ですら、ちゃんと繋がっていて。
 蚯蚓脹れの様に赤い痕は残ってはいるが、しかしそれ以外に何の痕跡も無い。
 ほんの一瞬前まで死ぬ直前の荒い息が僅かに残っているだけの状態であったと言うのに。

 その直後には力尽きた様に男は気を失った様だが、しかしとてもでは無いがそれに触れようなどとは思えなかった。
 この男は、『化け物』だ。
 上弦の壱の様なそれとも全く違う。
 根本からして理解出来ない程に異質な、鬼なんか足元にも及ばない程の『化け物』にしか見えなかった。

 そして同時に、上弦の壱の手から自分が助かった事をやっと理解して。
 生き延びたと言う事実をゆっくりと受け入れて。
 その直後に、自分が何を選んだのかを思い出して、息が止まる程の恐怖に襲われた。
 そう、自分は「鬼」になる事を選ぼうとしていたのだ。
 鬼殺隊の隊士としては、最も犯してはならない禁忌を犯そうとしていた。
 それを理解した俺の心に湧き上がったのは、『死にたくない』と言うその一念であった。
 だから、男に縋る様にして全力でその慈悲を乞うた。
 正直その時の事は、畳み掛ける様に起こった『異常』な事の数々に半ば錯乱していた様なもので、何を口走ったのかとかはあまり思い出せないけれど。見苦しい程に色々と言っていた様な気はする。
 そして、そんな俺を庇う様に。善逸が地に頭を擦り付ける様にして誰かに口止めを頼んでいた事だけは、覚えている。

 その後、何時の間にか辿り着いていたその屋敷が「蝶屋敷」であると言う事を知り。そして、『化け物』の様なあの男が、鬼殺隊全体で話題になっていた『鳴上悠』だと言う事も知った。
 そして色々あったのだが、俺が犯しかけていた罪に関しては不問と言う事になった。
 何故だかは分からないが、『鳴上悠』が俺の助命を願ったからだ。……いや、本当は分かっている。
 カス……善逸が、俺の命を救ってくれ、と。
 そうやって『鳴上悠』に泣き縋って頭を擦り付けて頼んだからだ。
 ……『鳴上悠』にとっては、善逸は「友だち」だったから、「特別」だったから。
 だから、化け物よりも『化け物』らしい程に「特別」な『鳴上悠』はその善逸の願いに応えたのだろう。
 そして俺の行いは、『鳴上悠』の監視の下でなら「黙認」となった。
 当然「二度目」は赦されない。それは分かっている。
 ただ何であれ、首の皮一枚で俺の命は繋がった事は疑いようがなかった。

 鳴上の監視下に在りながらも、特に不自由は無かった。
 監視と言う名目は付いていたものの、鳴上は此方の行動をこれと言って縛ろうとはしなかったし、或いは命を救った事に何かしらの見返りを要求する事も無かったからだ。
 刀鍛冶の隠れ里に行った時も、共に行動する事になったカスの同期たちに俺の事を詳しく説明する事は無く、普通の隊士と同じ様に扱っていた。
 ……鳴上は、間違いなく「変な奴」だった。
 そもそも鳴上にとって俺は無関係な他人だったのに、何の得にもならない俺の監視なんかを引き受けるし。何かをする事に見返りを求めない。
 あの『化け物』その物の様な力を忘れる事なんて出来ないから、警戒心が完全に消えた訳では無いけれども。
「悪意」や「害意」と言うものからはかなり程遠い奴だと言うのは、共に行動する内に嫌と言う程分かってしまった。
 それでも、まだどうしても畏れは残っていて。鳴上とサシで話す気にはなれなかったが。

 鳴上と……そしてカスの同期たちと一緒に行動して、何の縁なのか恋柱や霞柱と言った、俺からすれば遥か上の人たちと過ごす事も増えて。
 刀鍛冶や歴代の柱ですら知らなかった日輪刀の新たな機能を探し当てたりだとか、現役の柱でありかつ現柱の中でも刀を握って数ヶ月で柱になったとか噂になっている天才である霞柱から指導を受けられたり。
 極め付けは、鳴上の常軌を逸したその力……「神」とやらを呼び出すそれを目の前で実演され、更には鳴上が呼び出した「龍」の背に乗って空を飛んだり。
 今まで考えた事も無い様なものを、次から次へと経験して。
 胸の奥の満たされない何かの乾きは、気付けば小さくなっていた。

『生きてさえいれば』、とそう思っていた。
 それは間違っていない、死んだらそれで終わりだ。
 でも、何もかもから逃げ続けて惨めに這い蹲って生きているのと、胸の奥に「何か」を満たして生きるのとを比べれば、後者の方が良い。
 まだ何者にもなれていないけれど、誰かの「特別」にはなれていないけれど。
 それでも、何時か「何か」を手に入れる事は出来るんじゃないかと、そう思った。

 だから、せめてケジメを付けようと思って。
 俺は、鳴上に二人っきりで向き合った。
 もう、最初に出逢ったその時の様に、鳴上を「恐い」とは思わなかった。
 その力は今でも物凄く脅威的だと思うし、上弦の壱以上の圧倒的な強者だとも思っている。それでも、鳴上は恐ろしくはなくなっていた。
 ……まあ、鳴上が本当に人なのかと問われると、『化け物』とかそう言う類の方が正しいとは思うけれども。

 ケジメの為にも頭を下げて、命を救ってくれた事や今までの事を含めて礼を言うと。
 鳴上は、自分よりも先に善逸の方に感謝の言葉を伝えろと言う。
 その言葉に、思わず言葉が詰まった。
 鳴上の言う通り、善逸が俺を助ける為に自分に出来る精一杯の事をしていたのは分かっている。
 俺の助命を乞う為に鳴上に泣き縋ってでも頼み込んだ事も、そして上弦の壱に対してその刃を向けた事も。
 逆の立場だったとしても俺なら絶対にやらなかった事を……出来なかった事を、善逸がやった事も。……分かっている。
 だが、それを素直に認めて感謝の言葉を伝えるには。
 抱えている感情が余りにも複雑になり過ぎていた。
 正直、今でもまだアイツを認めていない部分はある、負けを認めたくない気持ちもある、そして自分が生き長らえる為に一度はその命を捧げようとしてしまった後ろめたさもある。
 そんな複雑な心から零れ落ちたのは。
「……アンタにとって、善逸は『特別』なんだな」、と。そんな言葉であった。
 そして、鳴上はそれに頷く。
 善逸は大切な「友だち」だ、と。そう答えたその言葉や表情には何処にも偽りは無い。鳴上は、心から善逸の事を想っていた。
 それは……それはずっと俺が欲しかった「特別」で。
 どうして、アイツばかりそうやって「特別」を得られるのだろう、と。
 その怨嗟にも似た想いは言葉となって零れ落ちていた。

 どうして、俺は得られないのだろう。
 努力しているのに、アイツよりもずっと、足掻いて足掻いて、努力して、そうやって必死に生きてきたのに。
 それなのに、どうしてアイツが得られるものを、俺は得る事が出来ないのか、と。
 鳴上に言った所で仕方の無い事だけれど、その想いを抑える事が出来なかった。

 怨嗟その物の様な俺の言葉を、鳴上は静かに聞いていた。
 そして。

「獪岳の努力は、凄いよ」

 優しく、そっと触れる程度に温かな手の平が頭に触れた。
 誰よりも努力してきた事を、努力を諦めなかった事を。
 認められない努力に意味など無いと、そう言った俺に鳴上はそっと首を横に振った。
 ……どんなに努力を重ねても、望んだ通りの結果に結び付くとは限らずそれが評価されるとも限らない。
 それでも、「努力した事」自体には意味があるのだ、と。
 俺が重ねてきた努力の全てを認める、と。そう言って。

「沢山頑張ってきた獪岳には、花丸一等賞をあげます! ……何てな」

 そう鳴上は微笑んで、そしてその指先で何やら丸を描いた。
 花丸だとかその意味は分からないけれど、でも。
 どうしてだか、胸の奥が痛い程に掻き乱されて、感情が追い付かなくて。そして、その衝動のままに、鳴上の前から飛び出す様に逃げ出してしまった。





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