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第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






 今この里は、上弦の伍及び上弦の肆の襲撃を受けている。
 類を見ない程の緊急事態ではあるけれど、今の所最優先して行わなければならなかった里の刀鍛冶たちの救出は既に済んでいる。
 襲撃された時点で偶然にも彼……鳴上悠が里長の所に居たのがその初動の速さの決め手となったのだ。
 上弦の壱を相手にしてすら問題無く戦える悠は、里長を襲ってきた血鬼術で作られた化け物を一撃で下し、そして里全体に広がっていたその同類たちをも一掃したのだと言う。
 その後の避難の進みがどうなっているのかまでは悠も知らない様だが、少なくとも柱や隊士たちが力を合わせてどうにか彼等を守りにいかなければならないと言う状況では無いだろうと判断する。
 いざという時の為に日頃からこの里の人々は備えているのだし、そして何時でも里ごと捨てられる様に空里が幾つか存在している。
 最低でも、人命とその身体がある程度保護されていれば問題は無いのだ。
 悠の力によってある程度は傷も癒されていると言うのなら、これ以上自分に出来る事は無い。
 なら今、自分が霞柱として成すべき事は、上弦の鬼たちを討ち取る事だ。
 或いは里の人たちが安全に退避出来る様に、上弦の鬼が彼等に近付かない様に足止めし続ける事。
 今この里に居る者達で戦力として数えられるのは、自分と悠、そしてここ数日共に鍛錬していた炭治郎達だ。
 後は救援の要請を受けた他の柱たちが一人でも多く到着してくれる事を願うしかない。

 上弦の伍、『玉壺』と名乗った余りにも悪趣味で醜悪な鬼に、悠と猪頭の隊士……確か伊之助と共に対峙する。
『半天狗』と言う名であるらしい上弦の肆の事をまだ入隊してから日が浅い隊士である炭治郎たち四人に任せた状態になってしまっているのがとても気にはなるが、しかし玉壺を捨て置く事も出来ない。
 いや、血鬼術で無数に化け物を生み出して嗾けてくると言う能力を考えると、この場に足止めしなくてはならない鬼としては此方の方が優先度は高いのかもしれない。
 悠曰く、生み出された化け物は強くは無いらしいが、戦う術など無い里の刀鍛冶にとっては当然の事ながら絶望的な相手である。
 そして、壺を介して瞬時に移動する力が非常に厄介だ。
 移動距離にどの程度の制約があるのか、その壺を一体何処から出しているのかは分からないが。
 もし一度に移動出来る距離の制約が緩ければ、ここで自分達と戦う事を突如放棄して避難している最中の人々を襲う可能性もある。
 一々回避する以上は、『半天狗』とか言う分裂鬼とは違って頸を斬って殺す事は出来るのだろうけれど。
 流石は上弦の鬼とでも言うべきか、その素早さはかなりのもので、そう簡単には首に刃が届かない。
 しかし、相当頭が悪いのか或いは頭に血が上り易い性格なのか両方なのか。
 どうやら玉壺は此処で自分達を始末する事に執心し始めている様だ。
 鬼舞辻無惨が狙っていると言う悠が此処に居るからなのかもしれない。
 何であれ、好都合であった。
 その口が喚く様に垂れ流している、芸術がどうだとか作品がどうだとか言うそれに興味は無い。
 ただただ悪趣味極まりない下衆のそれだとしか思わないし、悠も伊之助もそう思っているらしく「気持ち悪い」「悪趣味」などと素直にそう評した後は全て聞き流している。
 それもあってか、玉壺は益々苛立った様に喚き散らしては攻撃してくる。
 どうやら、「芸術」とやらに強い自負と拘りがある様だ。
 そこを突けば、こうして冷静さを喪った様に乗って来る。
 一筋縄ではいかない相手ではあるが、ある意味では扱い易いとも言えるのだろう。

 しかし、いざ玉壺の頸を狙おうとしていたその時。
 伊之助が、俺が持っている刀の刃毀れに気付いた。
 元々、完成した筈の自分の日輪刀を受け取ろうとして、新しく担当になった刀鍛冶の所に行こうとしていたのだけれど。
 半天狗の襲撃やそして玉壺との遭遇などによって、それどころの状況では無くなっていたのだ。
 もし襲撃される事が無ければ、或いはもっとそれが遅かったらきっと、今頃正式な自分の刀を手にしていた筈だった。

 ── 「『人の為にする事は、巡り巡って自分の為に……』」

 ふと炭治郎の言葉が脳裏に蘇った。
 しかし同時に、炭治郎では無い誰かの声もそれに重なる様に聞こえた気がする。
 誰だ、一体誰なんだ。自分は確かにその声を知っているのに、しかしそれは霧の向こうに隠されてしまっている様にハッキリとはしない。
 それでも、何を想っても何も返って来なかった時とは違って、確かにその霧の向こうにそれがある事は分かる。

 ── 大丈夫、時透くんは必ず記憶を取り戻せる。
 ── その記憶に掛かった霧は必ず晴れる。

 ── 君は必ず自分を取り戻せる、無一郎。
 ── 喪った記憶は必ず戻る。心配要らない。
 ── 切っ掛けを見落とさない事だ。
 ── 些細な事柄が始まりとなり、君の頭の中の霞を鮮やかにはらしてくれるよ。

 悠の言葉と、そしてお館様の言葉が響く。
 あれは、その言葉をお館様が掛けてくれたのは何時だったか。
 指先一つ満足に動かせない程に酷く身体は痛んでいた。
 膿み、爛れ、生死の狭間に在ったのでは無いだろうか。
 お館様に掛けて貰った言葉は覚えているのに、その時のそれ以外の記憶は酷く曖昧で霞がかっている様である。
 そしてそんな大切な言葉と、悠が掛けてくれた言葉がまるで重なっているかの様に自分の中に響く。
 そんな記憶と現実の狭間を揺蕩いかけていた思考は、伊之助の声によって現実に引き戻される。
 そうだ、今は戦わなくては、上弦の鬼から、人々を守らなくてはならないのだ。

 酷い刃毀れを起こした刀を見た伊之助は、さっさと自分の刀を受け取って来いと促した。
 どうやらこの山道の先を行った所に、俺の刀鍛冶が居るらしい。
 確か、炭治郎の刀鍛冶と一緒に居るんだったか。
 伊之助はそれを見せびらかすかの様に、己の双刀を見せてきて刀鍛冶の腕を褒めるが。
 刃毀れなんてものでは無い程にその刃はガタガタなので、思わず「それで?」と言いそうになる。が確かに刃は所々砕かれたかの様にボロボロではあるが、残っている刃の部分はその切れ味の良さを誇るかの様に輝いている。
 だが何にせよ、この場を自分と悠で持たせてみせるから早く万全な状態になって帰って来いと言う、伊之助の言動の意図は感じ取れた。
 それを有難く受け取って、刀鍛冶たちが居るらしいと言う、伊之助が指さした方向へと向かった。

 山道を駆け上る様に少し走ると、小屋が見えて来た。
 鍛冶場にはとても見えないが、此処に本当にその刀鍛冶の人たちが居るのだろうか。
 そう思いつつも、その小屋の戸を勢いよく引き開けると。

「おっおおお!! これは、時透殿……! 
 これは有難い! 謎の魚の化け物どもが突然此処を襲ってきて……! 
 外で戦ってくれていた筈の伊之助君は無事でしたか!?」

「た、助けに来てくれたんですね、有難う~~!! 
 もう、生きた心地がしなかったんですよ! 
 此処、里の中心からは大分離れているから誰にも気付いて貰えないままかと……!」

 包丁を手にしながら焦った様にそう言ってくる男と、そして「恐かったあぁ!」と泣き付こうとしてくる子供と。
 そしてその奥でその様な騒ぎに一切気を払わずに黙々と手を動かし続けて刀を研いでいる男が居た。
 子供には何となく見覚えがある気はするけど思い出せない。
 取り敢えず今は刀を受け取る方が先だった。

「あなたが鉄穴森という人で、向こうが鋼鐵塚という人? 
 俺の刀用意している? なら早く出して。
 伊之助は無事。今は悠と一緒に上弦の鬼と戦っている」

「上弦の鬼……!? 何と、その様な事になっていたとは……。
 里長はご無事でしょうか。
 刀は此処に用意してあります。どうぞ、私たちには構わず里長の所へ向かって下さい」

 里が襲われたのは分かってはいても、まさかそれが上弦の鬼だとは思いもよらなかったのだろう。
 動転した様に鉄穴森はそう言って、鉄穴森は大事そうに隠していた刀を差し出した。
 随分と話が早い。

「里長は無事。悠がもう助けたから。
 里の方を襲っていた化け物も、悠が全部倒したらしい。
 まだ避難していないのは此処に居る君たちだけだと思う」

「悠君が? 成る程……彼がそう言うのならそうなのでしょうね。
 しかし、避難しようにも鋼鐵塚さんは今手を止める訳にはいかないので此処を動けないでしょう」

 そう言って、鉄穴森は背後で一心不乱に刀を研ぎ続けている男へと目をやる。
 ……彼が研いでいるのは炭治郎の日輪刀であるのだろうか。
 魚の化け物たちが襲ってきても、或いは上弦の鬼が暴れていようとも、恐らく全く気付いていなかったのだろうと思う程に、完全に己の世界に入って刀だけを見詰め続けている。
 戦う術の無い者達なのだから、上弦の鬼が近くで暴れている今は一刻も早く避難するべきだとは思うが。
 しかし、下手に避難して戦いの余波に巻き込まれでもしたらそれで命を落としかねないだろう。
 彼等を護衛しながら一緒に避難出来る様な人員の余裕は無い。
 危険ではあるが、此処に留まる事もまた一つの選択ではあるのだろう。

「……そう、分かった。
 じゃあ俺は行くよ」

 玉壺と戦っている二人を助けに行かなきゃならないし、そして半天狗と戦っている炭治郎たちも助けなきゃいけない。
 受け取った刀を鞘から引き抜くと、それがとても手に馴染んでしっくりくる事に気付いた。

「……これは……」

「炭治郎君と悠君から頼まれていたんです。時透殿の刀の事と、そしてどうかあなたを分かってやって欲しい、と。
 だから、あなたを最初に担当していた鉄井戸という刀鍛冶の事を調べて、その書き付け通りに仕上げてみました」

「炭治郎と悠が……? 
 それに、鉄井戸さん……」

 己の記憶は殆ど思い出せない事ばかりなのに、それでもその名前を聞いた時に、僅かに頭の隅を過ったものがある。
 俺を最初に担当した時には既に高齢で、そして心臓の病気で死んでしまった。
 顔を合わせた事はあった様な気がする。そしてその時に、俺の事をとても心配していた様な。

 炭治郎にしろ悠にしろ、そんな風に他人の事を気に掛けてやってと誰かに頼んだってそれで自分達に何かが返って来る訳では無いのに。
 そうは思うけれど、その行動は別に何かの見返りとかを期待してやっている事では無いのだろうと分かる。
 こうすればきっと未来でこうなるから、と。そう言う期待でやった事では無いのだろう。
 極自然に、当たり前の様に、そうしようと思ったからやった、本人たちにとってはそう大層な事では無い「親切」なのだろう。
 そして、その「親切」の形は、今自分の手の中にある。

 ……自分はお館様に認められた霞柱なのだから、自分が何とかしないと、と。そう思っていた。
 自分は判断を間違えちゃいけない。
 少なくとも増援で他の柱の人たちがやって来てくれるまでは、自分が最も立場が上なのだし、全部自分でどうにかして上手くやらないとって。そう思っていたのだけれども。
 でも、こうやって自分以外の誰かがしてくれた事に、助けられてもいる。

 ── 人が本当の意味で自分一人で出来る事なんて、本当に少しだけだ。

 何時かの悠の言葉が、ふと蘇る。
 他人任せになんて出来ないから、俺は柱なんだから、頑張らなきゃ、ちゃんとしなきゃいけないと、そう思っていたのに。
 悠にしろ炭治郎にしろ、勝手にこっちにやって来て、色々と言葉をかけたり何かとやってくるのだ。

 ── 必ず誰かが助けてくれる。
 ── 一人で出来る事なんて、ほんのこれっぽっちだ。
 ── だから人は力を合わせて頑張るんだ。

 ふと、悠の声を借りる様にして何時かの言葉が霧の向こうから響く。
 違うよ、それは悠の言葉じゃない。
 そう心の中でその声に答えると、悠の声を借りた「誰か」は優しく微笑んだ様な気がした。


「……ありがとう、鉄穴森さん。
 俺の為に、刀を打ってくれて」


 その言葉は、強く意識した訳では無いのに自然と己の口から零れ落ちていた。
 そして口にして初めて。「ありがとう」と誰かに礼を言うなんて、本当に随分と久し振りの事だと気付く。
 何も記憶に留めていられないから、誰かに何かをして貰ってもその記憶すらも全て霧の向こうに消えてしまうから。
 だから、ずっと自分で何とかしないとと考え続けていて。
 ずっと独りで戦ってきたかの様に、周りを顧みる余裕なんて殆どと言って良い程になかったけれど。
 でも、そうじゃない事は分かる。
 全部を思い出せた訳じゃないけど、そうじゃなかった事も分かる。

 どうしてだろう。
 今は物凄く危険な状況で、かつて無い程の脅威に襲われている真っ只中であると言うのに。
 判断を絶対に間違えちゃいけないって、何時も胸の中にある責任感から来る重圧は、少しばかり軽く感じる。

 ── この場は、この伊之助様と俺の子分であるカミナリが持っててやるからよ。

 ふと、伊之助の言葉が蘇る。
 ……伊之助よりも自分の方が確実に強いけれど、でも。
 そうやって、誰かに「任せる」というそれは、初めての事だった。
 もしかしたら思い出せない記憶の何処かでは以前にもそうした事はあったのかもしれないけれど。
 でも、自分以外にも誰かが居るのだと、共に戦ってくれている誰かが居るのだと、そう思うと。
 少しだけ肩が軽くなった様な気がするのだ。
 そして、そういう時にどう言葉にするべきなのか、それがふと水底から泡が弾ける様に浮かんできた。

「……! 私は鉄井戸さんの書き付け通りに仕上げただけで……。
 ……時透殿。この里の事を、お願いします。
 どうか、ご武運を」

 そう言って頭を下げた鉄穴森さんに頷いて。
 悠と伊之助が玉壺と戦ってくれている其処へと、全速力で駆け戻った。






◆◆◆◆◆






 二人を残してきたその場は、自分が戻って来たその時には随分と様変わりしていた。
 激しい戦いの結果か、地面は彼方此方が抉れた様になっていて。
 そして何よりも、そう大きくは無いものの。そう言った場所が沼の様に水の様な何かを湛えて居る。
 そんな穴ぼこだらけの沼沢の様な地面を蹴って、二人は水の中や玉壺が撒き散らした壺から無制限に湧いているかの様に現れ続ける大量の魚の化け物と魚みたいな血鬼術の産物たちを斬り捨てていた。
 伊之助は玉壺の頸を果敢に狙おうとしているが、瀑布の如く生み出され殺到し続ける血鬼術の化け物たちがそれを阻む。
 どうにかして接近しようとしても、水中から空中から縦横無尽に襲い掛かる無数の魚たちやその中に混ざる様にして周囲を襲う蛸の足の攻撃に阻まれて一息には玉壺の頸にまで辿り着けない上に、玉壺の壺と壺の間を自在に瞬時に移動するその動きによって逃げられてしまう。
 そして、明らかに集中的に狙われ怒涛の勢いで圧倒的な物量の攻撃に晒され続けている伊之助を庇う様にして、悠は襲い掛かる化け物たちを凄まじい速さで斬り伏せている様だった。
 血鬼術の産物であるが故に切り倒された魚たちは跡形も無く消えて行くのではあるが、それでも僅かに残る生臭く感じるその魚の臭いが不快極まりない程のものだった。
 二人ともに負傷は無いが、しかし無尽蔵に湧き出し続けている化け物たちによって中々玉壺の頸に刃を届けられない。

「おおどうした? 『化け物』の力はその程度なのか? 
 その様な猪など庇う意味など無いだろうに」

 ── 血鬼術 百万滑空粘魚!! 

 そんな風に玉壺が二人を煽ると同時に、周囲の水の中や地面から生える様に現れた壺の中から、全てを押し流さんばかりの数の空を泳ぐ魚たちが現れ、二人に襲い掛かる。

 ── ヒートウェイブ
 ── 獣の呼吸 伍ノ牙 狂い裂き! 
 ── 霞の呼吸 陸ノ型 月の霞消

 そこに滑り込む様にして、二人と共にその魚たちの群れを一気に斬り裂いた。
 そして斬り刻まれた魚たちから異常な程に零れ出た不快な臭いのする液体は、悠が起こしたのだろう吹き抜けて行く疾風によって全て遠くへと飛ばされていき、此方には一滴たりともかかる事は無い。

「遅くなった」

 そう言うと、悠は気にするなとばかりに小さく頷き、伊之助は威勢よくフンっ! と鼻息を立てる。

「へっ! 構わねぇよ! 何てったって俺は親分だからな!」

「塵が一つ増えた所で同じ事。
 それに、既に貴様らは我が手の内の中だ!」

 そう言って、玉壺が吼えた瞬間。
 周囲を浸していた水が一気にその質量を増大させて取り囲む様に襲ってくる。
 自分達の背丈の数倍にまで持ち上がって襲い掛かるその水の壁を、伊之助と共にそれを斬り捨てる様に吹き飛ばそうとするが。

「何だこれ、斬ろうとした瞬間は水みてぇなのに、ブヨブヨドロドロしてんぞ!?」

 驚いた伊之助がそう叫んだ様に、その水……いや、血鬼術で生み出された「水の様に見えるそれ」は。
 斬り飛ばそうとした瞬間は水の様に振舞って何の手応えも残さぬ様に刀の軌道をすり抜けていくのに。しかし、刃先以外に触れた途端に一気に粘性を増して絡み付き、刀の動きを封じようとする。
 どうにかそれを振り払おうとしても、まるで粘土の中に深く突き立ってしまっているかの様に動かす事が難しい。下手に振り抜こうとすると、刃を駄目にしてしまうだろう程の粘度である。
 そして、その粘性の液体の壁は、些かゆっくりとでも言うべき速度でこちらを包囲するばかりに迫る。

 ── 血鬼術 水獄牢

「ふふふ、どうですか、私の素晴らしい芸術は! 
 幾ら柱でも、そもそも刃が通らなければ成す術も無い! 
 そして一度でも深く斬り込めば、もうその刃を振るう事は出来ない! 
 頼みの綱の刀を奪われ、何も出来ないまま水の中で呼吸も封じられて溺れ死ぬ……! 
 剣士として何と屈辱的! 苦痛に喘ぐその顔を想像するだけで心が躍る! 
 そして、何よりも! 『化け物』をこうして捕らえる事が出来ようとは! 
 そこの猪の様な詰まらない者を助けようとするばかりに千載一遇の機会を何度も逃し、そしてこの様な詰まらない幕引きで私に囚われる! 
 ヒョヒョヒョッ! 愉快とはまさにこの事!! 
『化け物』、『禍津神』と言えども、呆気ないものよ!」

 ── 居ても居なくても変わらない様な、つまらねぇ命なんだからよ

 玉壺の、悠を嘲笑う様に高らかに上がった哄笑に被さる様にして、何処か遠くから声が聞こえた様な気がする。
 誰だ、思い出せない。昔、同じ様な事を言われた気がする。
 でも、誰に言われた? 

 記憶にかかった霧が僅かに晴れ、その時の記憶がまるで欠片の様に蘇る。

 夏だ、暑かった、戸を開けていた。
 暑過ぎる所為か夜になっても蝉が鳴いていてうるさかった。

 記憶の霧にかかるそれの向こうから、確実に僕の過去だと言える何かが初めて姿を現して。
 思わず固唾を呑み込む様にして、その続きも蘇らせようとした。
 しかし、それは玉壺が高らかに上げた不愉快な嘲笑によって阻まれ、意識は現実に引き戻される。

 己の完全勝利を確信した様に、そうやって悦に入った様に元々醜いその顔を歪ませて嬉々と語った玉壺は、此方を煽る様に己の作り出した自慢の「芸術」であると宣うその液体の壁に触れた。
 その瞬間、悠はニヤリとした様な、始めて見る好戦的な笑みを浮かべる。
 そして。

「ブフダイン!」

 悠がそう吼えた瞬間。
 此方に迫って来ていた水の壁は瞬時に凍り付いた。それに触れていた玉壺ごと、だ。

「ヒョっ!?」

 驚いた様に玉壺は動こうとするが、既に半身は完全に凍り付いて、巨大な氷の塊になった水の壁に半ば呑み込まれている。
 暴れて脱け出そうにも、凄まじい鬼の膂力に氷はミシミシと軋むが、瞬間的に抜け出る事が叶う状況では無い。
 恐らく、悠は玉壺の動きを確実に止める為の最高の瞬間を狙っていたのだろう。
 してやったりと言いた気な顔をした悠は、氷に閉じ込められて慌てふためく玉壺の姿を見る事で、この状況になるまで待ち続けた間に溜まった苛立ちを発散しているかの様だった。
 幾ら壺と壺を自由に移動出来るのだとしても、こうしてその身体自体が何かに繋ぎ止められた状態じゃどうしようもないだろう。

「伊之助! 時透くん!」

 そう悠が叫んだ瞬間。氷の壁は玉壺を凍て付かせその場に留めている辺りだけを残して一気に崩壊した。
 崩れ落ちる氷の中を、僕と伊之助が同時に玉壺を狙う。僕がその首を、そして伊之助がその壺を。
 伊之助の刀が壺を砕くのと同時に、その首元に半ば刃が通った。
 確実に落とせると、そう確信した次の瞬間。
 完全に頸を落とし切る直前、玉壺の身体から質量が消える。
 ベロンと厚みの無くなった皮の首を落とすが、そこに中身は無い。
 まさかの脱皮だ。

 ──血鬼術 水獄牢・変り身

 そして、瞬きにも満たぬ程の合間に。
 首を斬り落としたその皮は、膨れ上がる様にして水の塊に変わって、避け様が無い程に近距離に居た僕と伊之助をその中に閉じ込めた。咄嗟に伊之助を突き飛ばそうとしても間に合わず、成す術も無く二人揃って閉じ込められてしまったのだ。

 突然のそれに反射的に息を止めて空気を少しでも逃がさない様にしようとするが、それも何時まで持つかは分からない。伊之助はその猪頭の下でどうなっているのかは分からないが、手をばたつかせているのを見るに気を喪ってなどは居ない事は確かだ。
 水中である為に酷くその動きは制限されているし、そして先程の水の壁と同様に勢い良く刀を振ろうとすると、元々高い粘性のそれはまるで岩の様な硬さになる。
 悠が焦った様な顔で此方に手を伸ばそうとしているのが、徐々に苦しくなっていく中で見えた。
 だが、中に僕たちが閉じ込められている状態では、先程の様に凍り付かせて対処する訳にはいかないだろう。

「ヒョヒョヒョヒョッッ!! 油断しおったな、馬鹿め!! 
 そこでゆっくりと溺れ死ぬが良い!!」

 煽る様な玉壺の声が頭上の方から聞こえる。
 どうやら、あの一瞬で木の上に移動した様だ。

「お前たちには私の真の姿を見せてやろう。
 見よ! この透き通る様な鱗は金剛石よりも尚硬く強い。
 私が壺の中で練り上げたこの完全なる美しき姿に平伏すが良い! 
 この姿を見たのは、お前たちを除けばまだ二人だけだ。
 私が本気を出した時に生きていられた者は居ない。
 それに……こうして仲間達を捕らえられている状況で、『化け物』であってもお前に何が出来る?」

 木の上に移動していた玉壺の、自称「真の姿」は、実に醜いものであった。
 下半身が蛇の様な半人半蛇の姿に、その手には水鳥の足の様に水掻きが付いている。
 顔の気持ち悪さも格段に上がっていた。
 そんな姿を曝け出しながらグネグネと動く玉壺に、悠は強い怒りの余りに感情が抜け落ちた様な表情を向ける。
 そして、次の瞬間に己に向かって素早く繰り出された玉壺の拳を全て回避した。
 拳自体は掠らせる事も無く全て回避はしたのだが、玉壺の拳が触れた地面がその瞬間には魚の塊になってビチビチと跳ねたそれには、驚いたのか僅かにその目を見開く。

「ほう、避けたか。
 どうだね私のこの『神の手』の威力。この手で触れたものは全て愛くるしい鮮魚となる。
 そしてこの速さ!! この体の柔らかくも強靭なバネ、更には鱗の波打ちにより縦横無尽自由自在よ。
 そして、私はまだ本気では無い!」

「……それで? お前を倒せば、伊之助と時透くんを閉じ込めているあの血鬼術も解けるんだろう? 
 それ以外は、どうでも良い」

 悠は、お前の御託などどうでも良いとばかりの顔をする。
 そして、集中する様に深い息を吸い込み、玉壺を睨みつけた瞬間。
 悠が何かをしようとするその直前に、玉壺はそれに待ったをかける。

「おおっと、童磨殿を吹き飛ばしたあの一撃の様な事を引き起こそうとするなら、その瞬間にあの者達を殺すまで。
 幾らお前が『化け物』だとしても、それよりも先に私の術中下にある者を殺す事など造作も無い。
 お前が操っていた蛇を出したとしても、同じ様にあの者達を殺そう」

 そしてそれがただの脅しでは無いのだと示すかの様に、僕たちを捕らえている液体がまるで棘の様に硬化して、身動きの儘ならない僕の左足の膝上と伊之助の右肩を貫いた。
 液体の中に俺たちの血が漂い混ざり始める。
 どうにかギリギリの所では耐えたが、しかし貫かれた瞬間に反射的に僅かに口が開いてしまい、そこからまた少し空気が漏れてしまった。
 どうにか体中から空気を集めているが、それでも限界はそう遠くは無い。
 そしてそんな俺たちを嬲る様に、玉壺は液体をまるで無色透明な縄か何かの様にしてそれを僕たちの首に纏わり付かせて絞め様としてくる。
 溺死するか窒息死するかと言う状態になりつつあった。

「……止めろっ!」

 そう叫ぶ悠のその表情は、玉壺への怒り以上に焦ったものになっている。
 しかし下手に動くとその瞬間に玉壺が何を仕出かすのか分からず、どうにも動けない状況の様だった。
 そんな悠に、当然構う事無く玉壺は攻撃を繰り出していく。
 勿論悠はそれを回避するのだが、攻撃しようとする度に玉壺はニヤニヤ笑って、僕たちを人質に取っている事を悠に露骨に意識させる。そしてその度に悠の動きは止まってしまう。
 回避する事自体は許しているのは、多少の抵抗を許した鼠を甚振って殺した方が満足感が高いからなのだろう。
 玉壺の攻撃は次第に速く鋭いものになり、付近には玉壺の手によって地面や草木から発生しては、踏み潰されたりして死んだ魚が彼方此方に落ちていた。

 不味い、僕が油断したからだ。
 こうして僕たちが捕らえられてしまったから、僕たちが人質になってしまったから。
 このままでは……。

 ── 霞の呼吸 壱ノ型 垂天遠霞……! 

 苦しくて次第に視界が暗くなりつつある中、どうにかこの状況を打開しようと渾身の一撃を繰り出そうとはするけれど。
 踏み込む為の足場も無く不安定な状態で放たれた一撃には、恐ろしいまでの粘性と強度を持ったこの液体の牢獄を破り切るには足りなくて。
 寧ろ無理に放ったそれによって、僅かに蓄えていた空気の殆どを喪ってしまう。
 思わず咳き込みかけた拍子に肺に水が入って痛い。

 ── 血鬼術 陣殺魚鱗!! 

 玉壺は滅茶苦茶な動きで蹂躙するかの様に悠に攻撃していく。
 悠はそれを全部回避してはいるが、しかし此方を助け出す為の余裕はなさそうだ。

「どうだ、この動き!! 予測不可能だろう! 私は自然の理に反する事が大好きなのだ!! 
 それにしても、『化け物』だ何だと言う割に、人質程度で此処まで手も足も出せなくなるとは! 
 全く愚かなものだ! 何の役にも立たない、無意味で無価値なものに拘って!」

「……ッ! 無意味なんかじゃない、無価値なんかじゃない! 
 何の役にも立たない、だと? ふざけるなっ!!! 
 そんな事、お前が決める事じゃない。
 人の価値を、人である事を放棄したお前が囀るな……! 
 俺の仲間を、友だちを……! 大切な人たちを侮辱するな……!!」

 普段は穏やかそのものと言っても良い様な悠の喉から出ているとは信じられない様な嚇怒の炎を纏った激しい咆哮にビリビリと空気が震え、そしてそれは玉壺の身をも僅か震わせていた。
 その、腹の底から噴き零れ出た様な激しい怒りの咆哮に、何かが鮮やかに思い浮かびそうになる。

 ── どうせお前らみたいなのは、何の役にも立たねぇ

 ああ、赦せない。僕の一番大事な、たった一人の兄弟を。
 何時もこの胸の奥から消える事の無い、燃え滾る様な怒りの根源がその霧の向こうから姿を現しつつあった。

 でも、駄目だ。怒りが身体を駆け巡っていても、それでもどうにも出来ない。
 空気が無い、今ここで動く為の力が足りない。

 ━━ 絶対どうにかなる、諦めるな。
 ━━ 必ず誰かが助けてくれる。

 ふと、炭治郎の声が響く。でも、それは炭治郎の言葉では無い。
 炭治郎の声を借りた「誰か」だ。それが炭治郎じゃないのは分かる。
 でも、この状況で誰が助けてくれるって言うんだろう。
 炭治郎たちは半天狗の相手で手一杯だし、悠は僕たちが人質になっている所為で満足に動けないし。

 咳き込む様に、最後の空気が肺から抜け出ていく。次第に視界が狭く暗くなる。
 ああ、死ぬのか。僕は、此処で……。

 ━━ 大丈夫。無一郎は一人じゃない。
 ━━ だから、自分の終わりを自分で決めるな。

 今度は悠の声で、「誰か」の言葉が響く。
 誰だ、一体誰なんだ? 

 ━━ だって、無一郎の無は……。
 ━━ 『無限』の『無』だ
 ━━ お前は自分では無い誰かの為に無限の力を引き出せるんだ。

 上手く聞き取れなくて、でもそれはとても大事な言葉で。
 息が出来なくて苦しい中で、必死にもがく様にそれを思い出そうとする。

 ── 無限の力と可能性を秘めているんだ。

 響く様に、かつて悠に言われた言葉が脳裏に過る。
 そしてその瞬間、ふと自分の腕を誰かが掴んでいる事に気付いた。
 伊之助が、何とか自分達を閉じ込めている液体の中を藻掻く様に泳いで近付いて来ていたのだ。
 そして、伊之助はその猪頭を外して。
 己の肺の中に残っていた僅かな空気を口移しで僕に託そうとするが、途中で力尽きてその空気は泡となって消え行きそうになる。
 だがその僅かな泡は、確かに届いた。

 ━━ 人の為にする事は、巡り巡って自分の為になる。
 ━━ そして人は、自分では無い誰かの為に
 ━━ 信じられない様な力を出せる生き物なんだよ。
 ━━ ……そうだろう? 無一郎。

 炭治郎の声が、炭治郎の姿が。まるで解ける様に別の姿と声になる。
 僕はその人を知っている、とても。誰よりも。
 炭治郎にそっくりな赤い眼が、穏やかに微笑む。

 ━━ お前は自分では無い誰かの為に。
 ━━ 無限の力を出せる、選ばれた人間なんだ。
 ━━ だから、生きろ。無一郎。

 そして、悠の声だったその姿も、本当の姿と声に変わる。
 自分と鏡合わせの様に同じだった、その姿。
 でも、自分の方がもう大きい。
 ああ、そうだ。そうだった……。
 その事に、消える事の無い悲しみと怒りを感じる。

 記憶の霧は、この瞬間に完全に祓われた。
 だから。


 ── 霞の呼吸 弐ノ型 八重霞!! 


 それまでの自分では考えられない程の。
「確固たる自分」を取り戻して信じられない程の強さで振り抜いたその一撃は。
 血鬼術の牢獄を、完全に打ち壊すのであった。






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