第五章 【禍津神の如し】
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思いもよらぬ形ではあったが、『透き通る世界』らしき何かに到達する方法を発見した為、今度はそれをどう維持するのかと言う話になった。
人外染みた握力が在って初めて到達する『赫刀』は、『タルカジャ』の補助無しで到達するのはまあほぼ不可能だと思うし、そこを人の身でどうこうしようとするとそれこそ寿命と引き換えの「痣」なんてものに手を出さざるを得なくなるのだろう。……「痣」が出た人は少なくとも縁壱さんの時代には確かに複数名居た筈なのに縁壱さん以外の誰も『赫刀』に至らなかった事を考えると、寿命を差し出してさえ『赫刀』を発現させる事は至難の業なのかも知れない。まあ何にせよ『タルカジャ』の補助を前提とした技能なのだと割り切った方が良いものである事だけは確実だ。
しかし、『透き通る世界』は炭治郎のお父さんも到達していた境地である。そこには多分、人の理を超越した様な身体能力は要求されていないのでは無いかと思うのだ。
そうであるならば、『心眼覚醒』で無理矢理そこに引き摺り上げずとも、その感覚を理解した上で鍛錬を積めば独力で『透き通る世界』に至れる様になるのではないかと思う。
可能な限り皆の力になって戦いたくはあるが、何時も何時でもその傍に居られる訳では無いし、それ故に必要な時に必ずその力を貸せるとは限らない。
でも、自分が其処に居なくても『透き通る世界』とやらに辿り着け得るのならば、それはきっと物凄い力になると思う。
何せ、縁壱さんが鬼舞辻無惨の気色の悪い身体構造を看破して叩きのめした際に大いに役立った力なのだから。
正直自分には身体が透けて見えるとか言われても何が何やらだしそれで分かるものも余り無いけれども、剣の達人にもなればきっと何か違うのだろう。「無我の境地」とかそう言う極意みたいなものなのかもしれない。
その為、その翌日は『透き通る世界』にどうやったら入れるのかと言う練習が主になった。
時透くんは物凄い集中力によって五回に一回位は自力で『透き通る世界』とやらに入れる様になった。
しかしどうやら、ともすれば呼吸などの生命活動に必要な事すら忘れそうになる程の想像を絶する集中を要する『透き通る世界』はかなり精神的に疲れるらしく、自力で入った場合の持続時間はまだ数分にも満たないらしい。
何はともあれ『透き通る世界』への入り方は分かった為、後はそれを集中した際に何時でも入れる様にする事と、一度に入れる時間を如何に長くするのかが課題となった様だ。
また、時透くんは鬼殺に使えそうな事には物凄く意欲的なので、『赫刀』の事にも興味津々であった。
試しに『タルカジャ』を使ってみると、普通に握っているとまだ難しいらしいが、握力に意識を集中させれば『赫刀』に至る様だった。
甘露寺さんもそうだったし、柱程に鍛えている人なら大概そうなのだろうか。
なら、煉獄さんや宇随さんやしのぶさんもそうなのだろうか?
まあ、しのぶさんの日輪刀は刺突に特化した特殊な形状過ぎて、『赫刀』に至ったとしてもちょっと分かり辛いかもしれないけれど。
時透くんとはこの里で最初に出逢った頃と比べると、随分と打ち解ける事が出来た様な気がする。
記憶はまだ戻っていない様だけれど、鬼殺の為に鍛錬した事は忘れないのでここ数日の記憶は比較的保たれている事も関係しているのかもしれない。
それに、皆と居る事で、霧の向こうに隠れてしまった記憶に対して何か良い刺激になるかもしれないので、きっと良い傾向であるのだろう。
時透くん以外はと言うと、元々人並外れた感覚の持ち主であり、普通の人のそれとは違う世界を常から感じ取っていた炭治郎と善逸と伊之助は、『透き通る世界』の感覚を掴むのも早かった。
特に、お父さんから『透き通る世界』の事を聞いた事があり夢を介して縁壱さんの言葉を聞いた事もあった炭治郎の理解力は高かった。……まあ、その説明は斬新な程に前衛的過ぎて誰にも伝わらなかったけれども。
そして伊之助に関しては、元々殺気などの感覚を察知する事に長けていたしその独自の呼吸の技の中には感覚を研ぎ澄ませて広範囲を探る様なものもあったりで、炭治郎と同程度にそれをより精密に把握していた。やはり此方も説明が下手なので、その感覚を言語化して伝える事は出来なかったが。
それもあって炭治郎と伊之助は大体十数回に一回位の頻度で短時間なら自力で『透き通る世界』を掴める様になった。しかしやはり尋常では無い集中力が必要になるらしく、そこまで他の意識を削ぎ落すのはまだ加減が難しい様だ。
実戦で使える状態なのかと言われると少し分からないが、逆に実戦の中だと取捨選択の幅がより狭まる事も有るので案外本番ではあっさりと『透き通る世界』に到達するものなのかもしれない。
善逸はその感覚をより深い場所で掴む事に難儀している様であったが、それでも切欠は掴めた様なのでその内自力で辿り着ける様になると思う。
特異な感覚は元々持ち合わせてはいない獪岳は三人程にはその感覚を掴めてはいないが、しかし感覚を研ぎ澄ませると言うその感触は掴めた事で、己の動きに更に磨きが掛かった様だ。
最後に玄弥に関してだが、何かこう……違うのは分かるのだが、他の人達が言う様なそれに関しては今一つ分からなかった様だ。それはやはり剣の才の差なのだろうか……。
玄弥は落ち込んでしまったが、自分にも皆が感じている様な『透き通る世界』なんて全然分からないのだと伝えて慰めると、少しは落ち着いた様だった。
それにどちらかと言うと、一つの事に意識を研ぎ澄ませて集中するよりは、全体を見て状況を判断しながら仲間をサポートする方が玄弥には向いていると思うので、『透き通る世界』が感じられなくても実際の所はそこまで大きな問題にはならないのではないかと思う。
そんなこんなで時間は過ぎていった。
明日の昼頃には炭治郎の刀も研ぎ終わるらしく、炭治郎はかなり楽しみにしている様だった。
他の皆の刀に関しても、時透くんと伊之助の刀は研ぎ終わったらしく刀装具の最終調整中であるらしい。
まあ大仕事が終わった鉄穴森さんは、今は鋼鐵塚さんの様子を見に行っているそうなので、刀の受け渡しは明日の昼になるかもしれないが。
善逸と獪岳の日輪刀も完成したらしく、恐らく明日が受け渡しになるだろうとの事だった。
玄弥は南蛮銃の調整も終わり、日輪刀も打ち直して貰ったので明日頃にはこの里を離れる予定なのだと言っている。
中々長期に渡って逗留する事になった刀鍛冶の里だが、所用も済ませた事だしそろそろ離れる事になりそうだ。
鉄地河原さんに作って貰っている日輪刀は、既に焼き入れまで終わったそうで今から研ぎの段階に入るらしい。
その事について後で家に来る様にと鉄地河原さんに呼ばれていた。
夕食を終え、もう少ししたら鉄地河原さんの所へ行くかと何時もの格好に着替えて支度をしていると。
ふと、獪岳が部屋にやって来た。
炭治郎と善逸は、明日明後日にはお別れになってしまうかもしれないから、と。玄弥と色々と遊んでいる様でこの場には居ない。
玄弥は次男だが下に小さな弟妹が沢山居た事もあって禰豆子への接し方が物凄く手慣れているので、禰豆子も混じって四人で双六やらかるた取りや折り紙をしていたと思う。
ちなみに、禰豆子が玄弥に懐いたのを見て善逸はちょっと見苦しい感じに嫉妬していた。まあ、玄弥に善逸が心配している様な下心は一切無いのだけれども。
伊之助はと言うと、鉄穴森さんの所で見学した事がその好奇心の切欠になったのか、刀の研ぎと言うものも見学してみたくなったらしく、夕食を終えて少しすると鋼鐵塚さんの所に向かった。炭治郎の話に聞く限り鋼鐵塚さんの個性は強烈なので伊之助との相性が心配ではあるけれど、研磨中なら変な諍いは起こさないだろうしいざと言う時にはその場に居るだろう鉄穴森さんがそれを止めてくれるだろう。
まあ何はともあれ、獪岳がこうやって二人きりになろうとするのは初めての事である。上弦の壱との戦いに関して事情を聞いた時以来だろうか?
「どうした? 何かあったのか?」
そう訊ねると、何かを言おうとして。しかし口籠る。
何かを躊躇うそれを、急かす事は無くただじっと待っていると。
「……その。命を助けてくれた礼を、まだ言ってなかったから。
…………ありが、とう……ございました」
恐らく余り言い慣れていなかったのだろうその言葉を、少しつっかえながらもそう言って。獪岳は頭を下げた。
そう言えば、土下座はされた覚えはあったが、礼の言葉を言われた覚えは無かったな、と。ふと思い出す。
「良いよ、頭を上げてくれ。
……その言葉は、獪岳自身が本心から言いたいと思った言葉なのか? そうやって頭を下げる事も?
処世術として言ってるだけなら、止めた方が良いぞ」
そう訊ね返すと、獪岳は戸惑った様にその眼差しを揺らした。
獪岳はそれなりに自尊心と言うのか、自分が築き上げたものに対してのプライドが相当に高い性格であるのは、皆や善逸との接し方を見ていて分かった。一応、自分が何をしたのかを分かってはいる為、傲慢さが表層に出て暴れる事は無かったけれど。素の性格と言うのか今まで積み上げて来た「自分」と言うものは一朝一夕に変えられるものでは無いしそう簡単に取り繕えるものでもない。
ただ、別にプライドが高い事は悪い事では無い。変に卑屈になって世の中を捻くれた目で見て恨み倒すよりは余程健全だ。それに実際、そのプライドを維持する為の努力を獪岳は惜しまないので、それが上手い事回っているなら余り問題にはならない。
だが、獪岳はそのプライドと同じ位に承認欲求とでも言うのか、自分を「凄い」「特別」だと認めて欲しいと言う欲求が強い様だ。
例えば時透くんのダメ出しが少し褒め言葉で終わった時のその表情は、随分と素直に喜びに溢れている。
……高いプライドとその承認欲求は、裏を返せばそれを満たせなかったと言う事でもあるのだろう。
それに餓えているから、それを貪欲に求めている。
善逸が全力で獪岳を守ろうとしているその姿を見るに、「特別」だと思われなかった事は無いと思うのだが……。
しかし、あの随分と空虚な様子であった心の在り方を思うと、そもそもの話求めている筈のそれが目の前にあった所でそれに気付けるのかと言う話にもなる。
そしてその心が満たされていないなりに何かを得ようと一生懸命に築き上げたプライドの根幹を成すものすら打ち砕かれてしまえば、そこに残るのはより一層深い虚無だろう。
獪岳と足立さんではその過程も前提も何もかも異なるだろうが。まあ、多少似通った部分はある。
世の中クソと言い出して世界を滅ぼそうとしないだけマシと言えるかもしれないが、獪岳が選びかけたものはある意味足立さん以上に罪深いだろう。
あの人は本当にどうしようもない人だったが、もし叔父さんと菜々子の命を差し出さねばならないとなったらなけなしの良心と情でそれに立ち向かっただろうから。
「俺は、別に獪岳が『生きたい』と望んだ事自体は責めない。
死を望んでそこに突き進むよりは、『生きたい』と望む方が余程健全だと俺は思うし、それは尊重したい。
ただ、鬼殺隊と言う組織に身を置くのであれば、職業倫理の観点から一番選んではならない事でもある。
それに、その選択で真っ先に獪岳の代わりに命を以て贖う事になる善逸たちの事を斬り捨てた事は、俺は善逸の友だちとしては許さない。
それでも、罪を問うにしても、それは命を以て贖わなければならないものでも無いと思った。未遂だったしな。
……善逸にそう『願われた』事もあったから助けた。それだけだ。
獪岳の事を憐れんだとかそう言う事でも無いし、別に獪岳から何かの見返りを期待している訳でも無い。
謝りたくも無いし悪いとも思っていないのに形だけ頭を下げられて喜ぶ様な趣味は持ち合わせていないんだ」
それを庇った以上は獪岳の行いに責任は持つけれど、それ以上には積極的に獪岳に干渉する気は無かった。
また悪い方向に進まない様にとは見守っていたけれど、まあそれだけだ。
獪岳の事は殆ど善逸に任せていたので、今獪岳がどう思っているのかは詳しくは知らない。
炭治郎たちと過ごす内に、少しずつ変わっていってる様には見えたけれど、一対一で話した事はほぼ無い為その心の虚無がどれ程満たされたのかは分からなかった。
善逸の様に優れた耳がある訳では無いので、心の中の幸せを入れる箱にどの程度の穴が空いているのかなんて、こうして向き合って話してみなければ分からないのである。
そして、今。
こうして向き合っている限り、以前よりも更に空っぽになってしまったと言う事は無さそうだとは分かる。
けれども、どの程度その虚ろが満たされたのかまでは分からない。
自分の行いを振り返って、本当に「悪かった」と思ったのかも、正直分からなかった。
信じる事から始めるべき関係性だが、自分と獪岳のそれは「信頼」から始まるものでは無かった事も大きかったのかもしれない。それでも、別に見捨てるだとかそう言う事は絶対にしないが。
「ちが、違う……。確かに俺は色んなものに頭を下げて来た、地面に頭を擦り付けた事だって何度もある。
生きる為なら、何だってやって来た、命乞いだって……。
でも、処世術の一つでは確かにあるけど。それでも、命を救われて何も感じられねぇ程堕ちちゃいない」
獪岳はそれが本心なのだと、そう言った。
命を救った事に対しての、感謝の気持ちなのだと。
成る程、それは確かにそうなのだろうけれど。
なら、自分などよりも真っ先にそれを言わなければならない相手が居るだろう。
「なら、最初に礼を言うべきは俺では無い。
あの上弦の壱の手から助け出そうと真っ先に動いた善逸に対してだろう。
もし善逸が間に合わず獪岳が鬼になっていたら……俺はお前を倒していたかもしれない。
あの場に居た善逸たちを守る方が俺にとっては大事だからな。
それに、善逸があそこまで俺に泣いて縋りついてまで願わなかったら、普通にお館様に報告していただろう。
それで死んでいたかどうかまでは分からないが、その場合少なくとも此処には居ない。
なら、獪岳が真っ先に感謝すべきは善逸に対してだろう。
俺に感謝するのだとしても、その後だ」
その感謝の気持ちを善逸に向けたのか? と。そう訊ねると。
獪岳は途端に苦い顔をする。
「でもアイツを助けたのはアンタだろ。
上弦の壱の相手だってアンタが助けなきゃアイツは死んでたし、アイツが泣き喚いた所でアンタがどうにかしなけりゃどうにもならなかっただろ……」
それは苦しい言い訳だと自分でも思っているのか、獪岳のその言葉には些か力が無い。
意地でも善逸に対して素直に感謝出来ないのだろう。本当に全く何も感じていないと言う訳では無いだろうけれど。
「……善逸との間に何があったのかは俺には分からない。
獪岳が善逸にどんな感情を抱えているのかも、な。
ただ、善逸が示してくれたそれが、軽い覚悟のものなんかじゃない事位は分かるだろう。
せめてそれに対して、ちゃんと誠意は返すべきだ。
別に、今直ぐにそうしろと言いたい訳じゃない。それぞれ込み入った事情はあるだろうからな。
それでも、俺に対して感謝するなら、先に善逸にそうしてからにしてくれ」
じゃないとそれを受け取れないから、と。そう言外に示すと。
獪岳はグッと何かを堪える様な顔をする。
「……アンタにとって、善逸は『特別』なんだな」
「ああ、そうだ。善逸は大切な友だちだ。
それを『特別』だと言うのなら、そうなんだろうな」
「情けなく泣き喚いて、何の矜持も根性も無いのに?」
己が発したその言葉に縋り付こうとするかの様に、獪岳は目を背けながらもそう言った。
……確かに、善逸の事をよく知らない人には、そう見える事もあるかもしれないけれど。
「それは誰かを大切に想う時にそこまで重要な事なのか?
それに……善逸は情けなくなど無いよ。
恐ろしいものに対してちゃんと正しく恐いと感じる事も、一つの強さだ。
そして、それがどんなに恐ろしくても、逃げてはいけない相手を前に善逸が逃げる事は無い。
それは、ある意味で誰よりも勇気があって誇り高い事だと俺は思う。
その善逸の強さは、獪岳が一番よく知っているだろう?」
そう、上弦の壱から助けて貰ったその時に。その勇気がどれ程のものなのか、獪岳は嫌でも理解せざるを得なかった筈だ。
何せ、自分は這い蹲ってその言葉の全てに頷いてでも命乞いをしていた相手に対して、人を救う為にその刃を向ける事が出来ると言う、その行動にどれ程の勇気が必要なのかと言う事を。
逃げ出して泣き喚く姿をよく知っているなら、尚の事その凄さを知る事になるだろう。
……だからこそその差に打ちのめされて、こうしてその胸の内にどうにもならない感情を抱えているのかもしれないけれど。
そう言うと、獪岳は吐き出そうとしていた言葉を直前で喪った様に喉を詰まらせる。
そして。
「何で……何でアイツは、『特別』なんだ……。
アンタだけじゃない。先生だって、アイツの事を。
どうして、俺は『特別』になれないんだ……。
アイツと俺の、何が違う。
俺の方が、アイツよりもずっと……!」
その心の奥底にあった怨嗟が、噴き上がろうとしていた。
グラグラと煮え滾る様なそれは、自分が持たないものを持っている様に見える善逸へと向けられている。
空っぽに見えた心の奥底には、凝って泥の様になったその想いが在ったのかもしれない。
善逸との間に何があったのかなんて知らないし、別に根掘り葉掘り聞きたい訳では無い。
善逸に何か非があった事なのかもしれないし、獪岳の逆恨みなのかもしれないし、或いは誰が明確に悪いと言う訳では無いどうしようも無い巡り合わせの問題だったのかもしれない。
しかし、何にせよ。
「獪岳の努力は、凄いよ」
クマや菜々子のそれを褒める時の様に。
静かにその頭に触れる程度に手を乗せた。
よく頑張ったな、と。その努力を認め、自分はそれを見ていたと相手に伝える様に。
「どんな気持ちがあったのだとしても、直向きに努力し続ける事は誰にでも出来る事では無い。
努力する事を厭う人は多いし、報われないと少しでも思うと努力を放棄して努力を馬鹿にする人だっている。
獪岳がずっと頑張って来た事は、そしてだからこそその実力がある事は、俺にでも分かる。
この手は、努力する事を諦めなかった人の手だ」
獪岳のその手は、炭治郎たちのそれと同じ、絶え間なく刀を握り続け研鑽し続けた者のそれだ。
鬼殺隊に居る人で努力していない人など居ない。例え幸運で最終選別に通ったのだとしても、それだけでは自ら鬼と戦って生き延び続ける事は出来ない。今生きて戦っている人たちは皆、努力した人たちだ。
そりゃあ、もっと努力している人は大勢居るだろう。
しのぶさんの手に触れた時に、煉獄さんの手を握ったその時に、時透くんを抱き締めた時に感じた様に。
凄い人はもっともっと努力を重ね続けて走り続けている。
自分から大切なものを奪った存在への復讐の為に、或いは何処かの誰かが自分と同じような目に遭わないで済む様に。
勿論、生まれつきの才でどうにも出来ない壁だってある。同じ努力を重ねても得られる結果が同じであるとは限らない。向き不向きがある、どうしても越えられない現実がある。
人の人生は綺麗に答えを出せる数式の世界では無いのだから。
それでも、誰もが戦っている。自分に出来る事をしようとしている。
しのぶさんがそうである様に、玄弥がそうである様に、誰もが必死にもがいている。
そして、その努力の研鑽が遥かなる頂にはまだ届いていないのだとしても、そしてどんなに頑張ってもそこに辿り着く事は出来ないのだとしても。
それでも、積み重ねた努力が無意味だなんて事は無い、諦めず走り続けたそこに何の価値も無いなんて事は無い。もっと努力している人が、もっと才能がある人が居るのだとしても。
積み重ねられたそれに唾を吐きかける様な事は、この世の誰にも出来やしないのだ。
絶対に敵わない様な強大な存在を前にしてその心は折れてしまったのだとしても、その刃は絶対に通用しなかったのだとしても。
それまでに積み重ねたものを、誰も否定は出来ない。
心のありとあらゆる部分が完全無欠に強い人なんていない。
自分は大丈夫だと思っていても、思いもよらぬ場所に脆い場所や欠けている場所が在るものだ。
心なんてそんなものである。
獪岳の心は確かに物凄く強い訳では無いだろうが、しかし本当にどうしようもなく弱い訳でも無い。
本当にどうしようもない人は、自分の都合の良いものだけを見て混迷の霧の中に消えてしまう。立ち上がる事も生きる事も死ぬ事も何もかもを放棄して、どんな物事に対しても思考を放棄してしまう。
獪岳の様に直向きに努力する事なんて、本当に弱かったら出来やしないのだ。
獪岳は折れてはいけない時に折れてしまったかもしれないが、それでも自らの心を汚泥の中に貶める様に放り込もうとする真似をみすみす見逃す事は出来なかった。
「……っ! どんなに努力したって、認められないなら意味なんて無いだろ……!
それに、それに俺は……」
善逸への怨嗟の更に奥底、もっともっと深い場所に在った感情が、僅かに顔を覗かせていた。
苦しみ、悲しみ、後悔、罪悪感、自責……もっと強く苦しい何か。
『生きたい』と言う欲求がとても強い獪岳が、時に命を擲つ事すら求められる鬼殺隊にどうして拘り続けるのか……その根本の理由が、ほんの少しだけその目の奥に垣間見えた。
……それを見付けてどうこうする事は出来ないけれど。でも。
「……重ねた努力が自分の願った通りの結果に結び付くとも、それが報われるとも限らない。
どんなに頑張っても誰も気付いてくれない事はある、声を上げたってどうにもならない事もある。
自分が頑張っていても、自分ではどうする事も出来ない事で重ねた努力が無駄になる事だってある。
苦しくて遣る瀬無くて心が壊れそうになって、努力をする意味を見失って立ち止まる事もある。
……それでも俺は、『努力した』事自体に何の意味も無かったなんて思いたくは無い。
報われなくても、認めて貰えなくても、評価されなくても。
それでも、重ねたその努力だけは、絶対に自分を裏切らない。最後の最後、一人で何かに立ち向かう時に、自分を支えてくれる力になると、そう思いたい。
獪岳の努力を周りが誰もが認めてくれなかったなんて俺には思えないけど……。
でも、獪岳がそうは思えないなら。自分は誰にも認めて貰えなかったと本気で思っているなら。
じゃあ、俺が認めるよ。
獪岳が重ねて来た努力の全てを、俺が認める」
誰よりも努力しているだとか、特別に努力しているだとか、そう言う事を言いたい訳では無いけれど。
でも、諦めずに直向きに努力し続けて来た事を認める事なら。獪岳の事をあまり知らない自分にだって出来る。
「沢山頑張ってきた獪岳には、花丸一等賞をあげます! ……何てな」
菜々子がそう言って褒めてくれた事があったな、と。
どうしてかツンと胸が苦しくなる程の郷愁を覚えつつ、そう言って指先で花丸を描く様にすると。
獪岳は驚いた様に目を見開いたかと思うと、直ぐに顔を伏せてその身を震わせた。
「……んで。何で、アンタは……」
気に喰わなかったのだろうか、とそう思ったが。
此方が何かを言う前に、獪岳は顔を背けたまま走り去ってしまった。
◆◆◆◆◆
獪岳と話していたのはそう長くは無かったけれど、あまり鉄地河原さんを待たせるのも悪いと思ってその家に急ぐ。
廊下で時透くんとすれ違ったが、少し急いでいるからと軽い挨拶だけを済ませて先を急ぐ。
誰かを探している様だったが……。まあ人探しなら多分、炭治郎たちがその力になってくれると思う。
鉄地河原さんの所に向かうと、早速研ぐ前のその刀を見せてくれた。
持ってみぃと促され、何の刀装具も付いていないそれを握る。
別に本気で持っている訳では無いので色が変わる事は無いが、その刀は何とも手に馴染む重さであった。
「その大きさで追求出来る限りの頑丈さを追求してみたわ。
ワシ以外の者が打ったら、その十倍近い大きさになってもうたやろな。
研ぐのは今からやけど、切れ味もえぇ筈や。
そんでも全力で振るわれた時に何十回と持つかは分からんけど、まあ一回振っておしゃかになるって事は無い」
見た目は打刀よりはやや太刀寄りの長さで、しっかりと反りがある。
十握剣と一緒に持ち運べる程度の大きさだ。まあ、伊之助の様な二刀流は無理だが。
本来はこの十倍の大きさになっていたなんて言われれば、本当に有難い。と言うかこの十倍なんてなったら、それこそ何処かの漫画で見た鉄塊みたいな剣になっていただろう。隠蔽性が死ぬ。
「有難うございます……!
大切に使わせて頂きます……!」
こんなに凄いものを、依頼してからこんなに短期間で打って貰えるなんて、本当に有難い。
大事な研ぎの工程が残っているし、今から色々と刀装具が付くので、まだ完成とは言えないのだろうけれど。
心から感謝の気持ちが溢れて、深く頭を下げる。
その時の事を考えたら絶対に壊さないと言う保証は出来ないけれど……と言うか頸を落としても死なない特殊性を考えると鬼舞辻無惨を足止めしている時に壊してしまいそうな気がするけれど。
でも、可能な限り大切にしたい。
そして、この日輪刀が在ったから鬼舞辻無惨を倒せたのだと胸を張って報告したい。
「必ず、この刀で鬼舞辻無惨を倒してみせます……!」
その意気込みと共に、日輪刀を包んであった布に包み直してそれを鉄地河原さんのお付きの人に渡す。
そして、再び礼を言ってその場を後にしようとしたその時。
異様な、磯臭い様な生臭い様な魚が腐った様な匂いを感じて。
咄嗟に十握剣の柄を握る。
突然のその行動にその場の全員が驚いて、乱心したのかとばかりに里に常駐している隊士が刀を抜きかけたが。
気を付けろと叫ぶと、その異様な空気を察してくれたのか周囲を警戒してくれる。
そして。
突然、部屋の壁が木っ端微塵に破壊された。
飛んで来た瓦礫から鉄地河原さんたちを庇いつつ、襲撃して来たそれと対峙する。
それは見上げる程に巨大な魚の化け物の様であった。
全体的には魚っぽいしその酷い臭気は魚のものではあるのだが、気持ちの悪い事に三対の人間の足の様なそれとその胴体には一対の人間の腕が生えていて、その身体の上部には四つの壺が生えていた。
いや、壺が生えているのではなく壺からこの気持ち悪いものが生えているのか?
何にせよ、壺は半ばその身体と融合している様だ。
とにかく酷い臭いで、際立って鼻が良い訳では無い筈の自分でも正直吐き気がしそうな位の臭いだ。
この場に炭治郎が居たら余りに悍ましい臭いに泣いていたかもしれないし何なら気を喪っていたかもしれない。
とにかく、見るにも耐えない酷い気持ち悪さだし、同じ空間に存在して欲しくない程に臭かった。
魚の化け物はその巨大な手を滅茶苦茶に振り回して襲い掛かって来る。
とは言え、鬼の手によるものではあるだろうが、鬼の気配そのものとは違うので血鬼術か何かによって生み出されたものであるのだろうし、図体がデカいだけで大した脅威では無い。
実際、『ハマオン』の一撃で跡形も無く一瞬で消えた。
しかし、事態はそれで終わった訳では無い様だ。
「敵襲──!!! 鬼だ──!! 敵襲──!!!」
ぶち抜かれた壁の向こうから、激しく鐘を突く音が響いている。
どうやら鬼に里の位置を察知され襲撃された様だ。
襲撃してきたのはどんな鬼なのか、一体どの程度の規模なのか、全く見当も付かない。
それでも、こうして自分達が里に滞在している最中であったのがまだ不幸中の幸いと言えるのかもしれない。
それぞれ自分たち専用の刀は手元に無いとは言え一応予備の刀はその手に在るし、何より皆の実力は折り紙つきだ。
霞柱である時透くんはもとより、炭治郎たち全員がそんじょそこらの鬼に遅れを取る事は無い。
とは言え、最近の自分の上弦の鬼に対する異常な遭遇率を考えると、里を襲撃しているのが上弦の鬼である可能性を考えなければならないだろう。
その場合里を襲っているのは上弦の壱や弐では無いし、話に聞いた上弦の参でも無いだろう。格闘技を極める鬼がこんな気色の悪い魚を作り出す血鬼術に目覚めているとは思えない。
なら、まだ未知数である上弦の肆か伍か?
まあ何れにせよ自分たちがやらなければならない事は何も変わらないのだけれど。
外に向かって思いっきり合図の指笛を吹くと、里の周辺を何時も警戒して飛び回っている鎹鴉が降りて来てくれる。
「済まない、状況を教えてくれ」
「上弦ラシキ鬼ノ襲撃! 里全体ガ襲ワレテイル!
血鬼術デ創ラレタバケモノニ襲ワレテイル!!
上弦ノ鬼ト隊士タチガ交戦中!!」
ガアァ! と、焦った様にそう教えてくれた鎹鴉に礼を言って、今自分がどうするべきかを瞬時に判断する。
里全体があの様な化け物に襲撃されているなら避難も儘ならないだろう。
上弦の鬼と戦っている隊士たちと言うのは恐らく炭治郎たちの事だ。そちらにも急いで救援に向かわなければならない事は確かだが、今最も優先すべきは、あの化け物どもを始末して少しでも里の人達が避難出来る様にする事である。大丈夫、炭治郎たちは強い。
例え上弦の鬼相手でも直ぐに死んだりはしない。
第一炭治郎たちが突破されたなら、こんな悠長な事をしている余裕は無いだろう。
それに、最悪な状況はまだまだこれから起こり得るのだ。
「了解した、直ぐに敵の掃討を行う。
君たちは里の人達の避難誘導を行いつつ、付近に居る柱の人達に救援を要請して欲しい。
最悪の場合、この里は複数の上弦の鬼に襲撃される事になる……!」
避難が終わり次第知らせてくれと頼んで、鎹鴉を再び空に放つ。
そして、鉄地河原さんたちに振り返った。
「今から少しでも多くの人たちを助けてみせますから……!
だから、鉄地河原さんたちは里の皆さんと一緒に少しでもこの里から離れて下さい!
最悪、この里は更地になります……!」
そして里に常駐している隊士たちには、避難する里の人達の護衛を頼む。
そこまで気を払っている余裕は恐らくないだろうから。
それに隊士たちは「必ず」と頷いてくれた。なら、後の事はもう任せるしかない。
「── ユルング!」
里全体の状況を此処からでは把握出来ないし、恐らく少なくない死傷者が既に出ている。
だから、空を自在に飛べる虹蛇を選んで呼び出した。
背後で驚く様な声が聞こえたが、それに構っている余裕は無くて。
何も言わずにユルングに乗って一気に上空を目指す。
出来る事は色々あっても、それを叶える為の余力は無限では無く時間も無限では無い。
特に最悪の長い夜が訪れる可能性を考えると、無暗に力を使う事は出来ない。
恐らく、きっと。
助けられたかもしれない誰かを見捨てなくては……見殺しにしなくてはならないのだろう。
ああ、胸が痛い、苦しい。どうして被害が出る前に防げなかったのだろう。
もし、りせみたいに強いサーチの力があったなら、襲撃で被害が出るその前に対処出来たのだろうか。
でも時を戻す事は出来ないから、今出来る最善を尽くす他に無くて。
それなのにきっとその「最善」からは零れ落ちてしまうものが沢山ある。
真実を追いながら人の命を助ける為の『特捜隊』のリーダーなのに、助けられない人が居る。
この手はちっぽけで、全部を救う事なんて出来ないのだから。
鬼は容易く色々なものを踏み躙っていくのに、踏み躙られたそれを助け出す事は本当に難しい。
ああ、本当に……。
苦い思いを呑み込みながら胸の内に沸々と湧き起こるのは怒りだった。
里全体を見渡せる高度に到達して、眼下のそれを見下ろして敵の位置を全て把握する。
デカい図体などによって気持ち悪い魚たちの位置は上空からでも随分と分かり易い。
家や鍛冶場が立ち並ぶ場所だけでなく、山の方にまで魚たちは入り込んでいる様だった。
山に逃げた人たちを追い立て殺す為なのだろう。この里を襲撃した鬼は、此処で一人残らず殺すつもりなのだと悟る。
だが、当然そんな事を許す訳は無い。
人々を襲う魚たちを見下ろしながら、沸々と湧き続ける怒りの全てを冷たい絶対零度の殺意に変えて集中する。
そして。
「マハブフダイン!!」
一気にそれを解き放って、眼下で蠢いていた全ての悍ましい魚たちを、一瞬で醜悪な氷像に変える。
認識していた全ての魚だけを正確に氷漬けにした為、今の攻撃での里の人達への被害は最小限に留まっただろう。
魚共に密着していた人は凍傷の一つや二つ負ってしまったかもしれないけれど、それは必要経費だと割り切って頂きたい。
ペルソナを正しく召喚して使った力は絶大であり、そしてそのコントロールも遥かに効く。
そしてだからこそ。
「── メディアラハン!!」
『メシアライザー』のそれには及ばないが、それでも大概の負傷なら全て完璧に癒せる癒しの光が、里全体を舐める様に駆け抜けた。
恐らく今ので普通に助けられる範疇の人たちは全員助かった筈だ。ただし一人一人にサマリカームをかけている余裕は無いので自分が出来るのは此処までだが。
広範囲に向かって一気に強力な力を二度も使った為、既にそこそこの消耗が始まっている。
それでもまだ何も終わってなどいない、避難を始める為の露払いをしただけなのだから。
里の中心部は襲撃されているその最前線では無い様だ。
気色の悪い魚たちを一掃すると、それ以上の戦闘の音は聞こえてこなかった。
最も激しい戦闘の音は、自分達が逗留していた宿の辺りから聞こえてくる。
恐らく、そこで戦っているのは炭治郎たちだろう。
どうか無事で居て欲しい、と。そう願い。
少しでも速く辿り着く為にユルングを急がせようとするが。
その時、その方角から何か黒いものが物凄い勢いで吹っ飛ばされて宙を舞ったのが見えた。
あれは……──
「時透くん!?」
一体何があったのかは分からないが、あのままだと不味い。
その為、何処かへと飛ばされて行く時透くんを助けようと、ユルングにその後を追わせるのであった。
◆◆◆◆◆
思いもよらぬ形ではあったが、『透き通る世界』らしき何かに到達する方法を発見した為、今度はそれをどう維持するのかと言う話になった。
人外染みた握力が在って初めて到達する『赫刀』は、『タルカジャ』の補助無しで到達するのはまあほぼ不可能だと思うし、そこを人の身でどうこうしようとするとそれこそ寿命と引き換えの「痣」なんてものに手を出さざるを得なくなるのだろう。……「痣」が出た人は少なくとも縁壱さんの時代には確かに複数名居た筈なのに縁壱さん以外の誰も『赫刀』に至らなかった事を考えると、寿命を差し出してさえ『赫刀』を発現させる事は至難の業なのかも知れない。まあ何にせよ『タルカジャ』の補助を前提とした技能なのだと割り切った方が良いものである事だけは確実だ。
しかし、『透き通る世界』は炭治郎のお父さんも到達していた境地である。そこには多分、人の理を超越した様な身体能力は要求されていないのでは無いかと思うのだ。
そうであるならば、『心眼覚醒』で無理矢理そこに引き摺り上げずとも、その感覚を理解した上で鍛錬を積めば独力で『透き通る世界』に至れる様になるのではないかと思う。
可能な限り皆の力になって戦いたくはあるが、何時も何時でもその傍に居られる訳では無いし、それ故に必要な時に必ずその力を貸せるとは限らない。
でも、自分が其処に居なくても『透き通る世界』とやらに辿り着け得るのならば、それはきっと物凄い力になると思う。
何せ、縁壱さんが鬼舞辻無惨の気色の悪い身体構造を看破して叩きのめした際に大いに役立った力なのだから。
正直自分には身体が透けて見えるとか言われても何が何やらだしそれで分かるものも余り無いけれども、剣の達人にもなればきっと何か違うのだろう。「無我の境地」とかそう言う極意みたいなものなのかもしれない。
その為、その翌日は『透き通る世界』にどうやったら入れるのかと言う練習が主になった。
時透くんは物凄い集中力によって五回に一回位は自力で『透き通る世界』とやらに入れる様になった。
しかしどうやら、ともすれば呼吸などの生命活動に必要な事すら忘れそうになる程の想像を絶する集中を要する『透き通る世界』はかなり精神的に疲れるらしく、自力で入った場合の持続時間はまだ数分にも満たないらしい。
何はともあれ『透き通る世界』への入り方は分かった為、後はそれを集中した際に何時でも入れる様にする事と、一度に入れる時間を如何に長くするのかが課題となった様だ。
また、時透くんは鬼殺に使えそうな事には物凄く意欲的なので、『赫刀』の事にも興味津々であった。
試しに『タルカジャ』を使ってみると、普通に握っているとまだ難しいらしいが、握力に意識を集中させれば『赫刀』に至る様だった。
甘露寺さんもそうだったし、柱程に鍛えている人なら大概そうなのだろうか。
なら、煉獄さんや宇随さんやしのぶさんもそうなのだろうか?
まあ、しのぶさんの日輪刀は刺突に特化した特殊な形状過ぎて、『赫刀』に至ったとしてもちょっと分かり辛いかもしれないけれど。
時透くんとはこの里で最初に出逢った頃と比べると、随分と打ち解ける事が出来た様な気がする。
記憶はまだ戻っていない様だけれど、鬼殺の為に鍛錬した事は忘れないのでここ数日の記憶は比較的保たれている事も関係しているのかもしれない。
それに、皆と居る事で、霧の向こうに隠れてしまった記憶に対して何か良い刺激になるかもしれないので、きっと良い傾向であるのだろう。
時透くん以外はと言うと、元々人並外れた感覚の持ち主であり、普通の人のそれとは違う世界を常から感じ取っていた炭治郎と善逸と伊之助は、『透き通る世界』の感覚を掴むのも早かった。
特に、お父さんから『透き通る世界』の事を聞いた事があり夢を介して縁壱さんの言葉を聞いた事もあった炭治郎の理解力は高かった。……まあ、その説明は斬新な程に前衛的過ぎて誰にも伝わらなかったけれども。
そして伊之助に関しては、元々殺気などの感覚を察知する事に長けていたしその独自の呼吸の技の中には感覚を研ぎ澄ませて広範囲を探る様なものもあったりで、炭治郎と同程度にそれをより精密に把握していた。やはり此方も説明が下手なので、その感覚を言語化して伝える事は出来なかったが。
それもあって炭治郎と伊之助は大体十数回に一回位の頻度で短時間なら自力で『透き通る世界』を掴める様になった。しかしやはり尋常では無い集中力が必要になるらしく、そこまで他の意識を削ぎ落すのはまだ加減が難しい様だ。
実戦で使える状態なのかと言われると少し分からないが、逆に実戦の中だと取捨選択の幅がより狭まる事も有るので案外本番ではあっさりと『透き通る世界』に到達するものなのかもしれない。
善逸はその感覚をより深い場所で掴む事に難儀している様であったが、それでも切欠は掴めた様なのでその内自力で辿り着ける様になると思う。
特異な感覚は元々持ち合わせてはいない獪岳は三人程にはその感覚を掴めてはいないが、しかし感覚を研ぎ澄ませると言うその感触は掴めた事で、己の動きに更に磨きが掛かった様だ。
最後に玄弥に関してだが、何かこう……違うのは分かるのだが、他の人達が言う様なそれに関しては今一つ分からなかった様だ。それはやはり剣の才の差なのだろうか……。
玄弥は落ち込んでしまったが、自分にも皆が感じている様な『透き通る世界』なんて全然分からないのだと伝えて慰めると、少しは落ち着いた様だった。
それにどちらかと言うと、一つの事に意識を研ぎ澄ませて集中するよりは、全体を見て状況を判断しながら仲間をサポートする方が玄弥には向いていると思うので、『透き通る世界』が感じられなくても実際の所はそこまで大きな問題にはならないのではないかと思う。
そんなこんなで時間は過ぎていった。
明日の昼頃には炭治郎の刀も研ぎ終わるらしく、炭治郎はかなり楽しみにしている様だった。
他の皆の刀に関しても、時透くんと伊之助の刀は研ぎ終わったらしく刀装具の最終調整中であるらしい。
まあ大仕事が終わった鉄穴森さんは、今は鋼鐵塚さんの様子を見に行っているそうなので、刀の受け渡しは明日の昼になるかもしれないが。
善逸と獪岳の日輪刀も完成したらしく、恐らく明日が受け渡しになるだろうとの事だった。
玄弥は南蛮銃の調整も終わり、日輪刀も打ち直して貰ったので明日頃にはこの里を離れる予定なのだと言っている。
中々長期に渡って逗留する事になった刀鍛冶の里だが、所用も済ませた事だしそろそろ離れる事になりそうだ。
鉄地河原さんに作って貰っている日輪刀は、既に焼き入れまで終わったそうで今から研ぎの段階に入るらしい。
その事について後で家に来る様にと鉄地河原さんに呼ばれていた。
夕食を終え、もう少ししたら鉄地河原さんの所へ行くかと何時もの格好に着替えて支度をしていると。
ふと、獪岳が部屋にやって来た。
炭治郎と善逸は、明日明後日にはお別れになってしまうかもしれないから、と。玄弥と色々と遊んでいる様でこの場には居ない。
玄弥は次男だが下に小さな弟妹が沢山居た事もあって禰豆子への接し方が物凄く手慣れているので、禰豆子も混じって四人で双六やらかるた取りや折り紙をしていたと思う。
ちなみに、禰豆子が玄弥に懐いたのを見て善逸はちょっと見苦しい感じに嫉妬していた。まあ、玄弥に善逸が心配している様な下心は一切無いのだけれども。
伊之助はと言うと、鉄穴森さんの所で見学した事がその好奇心の切欠になったのか、刀の研ぎと言うものも見学してみたくなったらしく、夕食を終えて少しすると鋼鐵塚さんの所に向かった。炭治郎の話に聞く限り鋼鐵塚さんの個性は強烈なので伊之助との相性が心配ではあるけれど、研磨中なら変な諍いは起こさないだろうしいざと言う時にはその場に居るだろう鉄穴森さんがそれを止めてくれるだろう。
まあ何はともあれ、獪岳がこうやって二人きりになろうとするのは初めての事である。上弦の壱との戦いに関して事情を聞いた時以来だろうか?
「どうした? 何かあったのか?」
そう訊ねると、何かを言おうとして。しかし口籠る。
何かを躊躇うそれを、急かす事は無くただじっと待っていると。
「……その。命を助けてくれた礼を、まだ言ってなかったから。
…………ありが、とう……ございました」
恐らく余り言い慣れていなかったのだろうその言葉を、少しつっかえながらもそう言って。獪岳は頭を下げた。
そう言えば、土下座はされた覚えはあったが、礼の言葉を言われた覚えは無かったな、と。ふと思い出す。
「良いよ、頭を上げてくれ。
……その言葉は、獪岳自身が本心から言いたいと思った言葉なのか? そうやって頭を下げる事も?
処世術として言ってるだけなら、止めた方が良いぞ」
そう訊ね返すと、獪岳は戸惑った様にその眼差しを揺らした。
獪岳はそれなりに自尊心と言うのか、自分が築き上げたものに対してのプライドが相当に高い性格であるのは、皆や善逸との接し方を見ていて分かった。一応、自分が何をしたのかを分かってはいる為、傲慢さが表層に出て暴れる事は無かったけれど。素の性格と言うのか今まで積み上げて来た「自分」と言うものは一朝一夕に変えられるものでは無いしそう簡単に取り繕えるものでもない。
ただ、別にプライドが高い事は悪い事では無い。変に卑屈になって世の中を捻くれた目で見て恨み倒すよりは余程健全だ。それに実際、そのプライドを維持する為の努力を獪岳は惜しまないので、それが上手い事回っているなら余り問題にはならない。
だが、獪岳はそのプライドと同じ位に承認欲求とでも言うのか、自分を「凄い」「特別」だと認めて欲しいと言う欲求が強い様だ。
例えば時透くんのダメ出しが少し褒め言葉で終わった時のその表情は、随分と素直に喜びに溢れている。
……高いプライドとその承認欲求は、裏を返せばそれを満たせなかったと言う事でもあるのだろう。
それに餓えているから、それを貪欲に求めている。
善逸が全力で獪岳を守ろうとしているその姿を見るに、「特別」だと思われなかった事は無いと思うのだが……。
しかし、あの随分と空虚な様子であった心の在り方を思うと、そもそもの話求めている筈のそれが目の前にあった所でそれに気付けるのかと言う話にもなる。
そしてその心が満たされていないなりに何かを得ようと一生懸命に築き上げたプライドの根幹を成すものすら打ち砕かれてしまえば、そこに残るのはより一層深い虚無だろう。
獪岳と足立さんではその過程も前提も何もかも異なるだろうが。まあ、多少似通った部分はある。
世の中クソと言い出して世界を滅ぼそうとしないだけマシと言えるかもしれないが、獪岳が選びかけたものはある意味足立さん以上に罪深いだろう。
あの人は本当にどうしようもない人だったが、もし叔父さんと菜々子の命を差し出さねばならないとなったらなけなしの良心と情でそれに立ち向かっただろうから。
「俺は、別に獪岳が『生きたい』と望んだ事自体は責めない。
死を望んでそこに突き進むよりは、『生きたい』と望む方が余程健全だと俺は思うし、それは尊重したい。
ただ、鬼殺隊と言う組織に身を置くのであれば、職業倫理の観点から一番選んではならない事でもある。
それに、その選択で真っ先に獪岳の代わりに命を以て贖う事になる善逸たちの事を斬り捨てた事は、俺は善逸の友だちとしては許さない。
それでも、罪を問うにしても、それは命を以て贖わなければならないものでも無いと思った。未遂だったしな。
……善逸にそう『願われた』事もあったから助けた。それだけだ。
獪岳の事を憐れんだとかそう言う事でも無いし、別に獪岳から何かの見返りを期待している訳でも無い。
謝りたくも無いし悪いとも思っていないのに形だけ頭を下げられて喜ぶ様な趣味は持ち合わせていないんだ」
それを庇った以上は獪岳の行いに責任は持つけれど、それ以上には積極的に獪岳に干渉する気は無かった。
また悪い方向に進まない様にとは見守っていたけれど、まあそれだけだ。
獪岳の事は殆ど善逸に任せていたので、今獪岳がどう思っているのかは詳しくは知らない。
炭治郎たちと過ごす内に、少しずつ変わっていってる様には見えたけれど、一対一で話した事はほぼ無い為その心の虚無がどれ程満たされたのかは分からなかった。
善逸の様に優れた耳がある訳では無いので、心の中の幸せを入れる箱にどの程度の穴が空いているのかなんて、こうして向き合って話してみなければ分からないのである。
そして、今。
こうして向き合っている限り、以前よりも更に空っぽになってしまったと言う事は無さそうだとは分かる。
けれども、どの程度その虚ろが満たされたのかまでは分からない。
自分の行いを振り返って、本当に「悪かった」と思ったのかも、正直分からなかった。
信じる事から始めるべき関係性だが、自分と獪岳のそれは「信頼」から始まるものでは無かった事も大きかったのかもしれない。それでも、別に見捨てるだとかそう言う事は絶対にしないが。
「ちが、違う……。確かに俺は色んなものに頭を下げて来た、地面に頭を擦り付けた事だって何度もある。
生きる為なら、何だってやって来た、命乞いだって……。
でも、処世術の一つでは確かにあるけど。それでも、命を救われて何も感じられねぇ程堕ちちゃいない」
獪岳はそれが本心なのだと、そう言った。
命を救った事に対しての、感謝の気持ちなのだと。
成る程、それは確かにそうなのだろうけれど。
なら、自分などよりも真っ先にそれを言わなければならない相手が居るだろう。
「なら、最初に礼を言うべきは俺では無い。
あの上弦の壱の手から助け出そうと真っ先に動いた善逸に対してだろう。
もし善逸が間に合わず獪岳が鬼になっていたら……俺はお前を倒していたかもしれない。
あの場に居た善逸たちを守る方が俺にとっては大事だからな。
それに、善逸があそこまで俺に泣いて縋りついてまで願わなかったら、普通にお館様に報告していただろう。
それで死んでいたかどうかまでは分からないが、その場合少なくとも此処には居ない。
なら、獪岳が真っ先に感謝すべきは善逸に対してだろう。
俺に感謝するのだとしても、その後だ」
その感謝の気持ちを善逸に向けたのか? と。そう訊ねると。
獪岳は途端に苦い顔をする。
「でもアイツを助けたのはアンタだろ。
上弦の壱の相手だってアンタが助けなきゃアイツは死んでたし、アイツが泣き喚いた所でアンタがどうにかしなけりゃどうにもならなかっただろ……」
それは苦しい言い訳だと自分でも思っているのか、獪岳のその言葉には些か力が無い。
意地でも善逸に対して素直に感謝出来ないのだろう。本当に全く何も感じていないと言う訳では無いだろうけれど。
「……善逸との間に何があったのかは俺には分からない。
獪岳が善逸にどんな感情を抱えているのかも、な。
ただ、善逸が示してくれたそれが、軽い覚悟のものなんかじゃない事位は分かるだろう。
せめてそれに対して、ちゃんと誠意は返すべきだ。
別に、今直ぐにそうしろと言いたい訳じゃない。それぞれ込み入った事情はあるだろうからな。
それでも、俺に対して感謝するなら、先に善逸にそうしてからにしてくれ」
じゃないとそれを受け取れないから、と。そう言外に示すと。
獪岳はグッと何かを堪える様な顔をする。
「……アンタにとって、善逸は『特別』なんだな」
「ああ、そうだ。善逸は大切な友だちだ。
それを『特別』だと言うのなら、そうなんだろうな」
「情けなく泣き喚いて、何の矜持も根性も無いのに?」
己が発したその言葉に縋り付こうとするかの様に、獪岳は目を背けながらもそう言った。
……確かに、善逸の事をよく知らない人には、そう見える事もあるかもしれないけれど。
「それは誰かを大切に想う時にそこまで重要な事なのか?
それに……善逸は情けなくなど無いよ。
恐ろしいものに対してちゃんと正しく恐いと感じる事も、一つの強さだ。
そして、それがどんなに恐ろしくても、逃げてはいけない相手を前に善逸が逃げる事は無い。
それは、ある意味で誰よりも勇気があって誇り高い事だと俺は思う。
その善逸の強さは、獪岳が一番よく知っているだろう?」
そう、上弦の壱から助けて貰ったその時に。その勇気がどれ程のものなのか、獪岳は嫌でも理解せざるを得なかった筈だ。
何せ、自分は這い蹲ってその言葉の全てに頷いてでも命乞いをしていた相手に対して、人を救う為にその刃を向ける事が出来ると言う、その行動にどれ程の勇気が必要なのかと言う事を。
逃げ出して泣き喚く姿をよく知っているなら、尚の事その凄さを知る事になるだろう。
……だからこそその差に打ちのめされて、こうしてその胸の内にどうにもならない感情を抱えているのかもしれないけれど。
そう言うと、獪岳は吐き出そうとしていた言葉を直前で喪った様に喉を詰まらせる。
そして。
「何で……何でアイツは、『特別』なんだ……。
アンタだけじゃない。先生だって、アイツの事を。
どうして、俺は『特別』になれないんだ……。
アイツと俺の、何が違う。
俺の方が、アイツよりもずっと……!」
その心の奥底にあった怨嗟が、噴き上がろうとしていた。
グラグラと煮え滾る様なそれは、自分が持たないものを持っている様に見える善逸へと向けられている。
空っぽに見えた心の奥底には、凝って泥の様になったその想いが在ったのかもしれない。
善逸との間に何があったのかなんて知らないし、別に根掘り葉掘り聞きたい訳では無い。
善逸に何か非があった事なのかもしれないし、獪岳の逆恨みなのかもしれないし、或いは誰が明確に悪いと言う訳では無いどうしようも無い巡り合わせの問題だったのかもしれない。
しかし、何にせよ。
「獪岳の努力は、凄いよ」
クマや菜々子のそれを褒める時の様に。
静かにその頭に触れる程度に手を乗せた。
よく頑張ったな、と。その努力を認め、自分はそれを見ていたと相手に伝える様に。
「どんな気持ちがあったのだとしても、直向きに努力し続ける事は誰にでも出来る事では無い。
努力する事を厭う人は多いし、報われないと少しでも思うと努力を放棄して努力を馬鹿にする人だっている。
獪岳がずっと頑張って来た事は、そしてだからこそその実力がある事は、俺にでも分かる。
この手は、努力する事を諦めなかった人の手だ」
獪岳のその手は、炭治郎たちのそれと同じ、絶え間なく刀を握り続け研鑽し続けた者のそれだ。
鬼殺隊に居る人で努力していない人など居ない。例え幸運で最終選別に通ったのだとしても、それだけでは自ら鬼と戦って生き延び続ける事は出来ない。今生きて戦っている人たちは皆、努力した人たちだ。
そりゃあ、もっと努力している人は大勢居るだろう。
しのぶさんの手に触れた時に、煉獄さんの手を握ったその時に、時透くんを抱き締めた時に感じた様に。
凄い人はもっともっと努力を重ね続けて走り続けている。
自分から大切なものを奪った存在への復讐の為に、或いは何処かの誰かが自分と同じような目に遭わないで済む様に。
勿論、生まれつきの才でどうにも出来ない壁だってある。同じ努力を重ねても得られる結果が同じであるとは限らない。向き不向きがある、どうしても越えられない現実がある。
人の人生は綺麗に答えを出せる数式の世界では無いのだから。
それでも、誰もが戦っている。自分に出来る事をしようとしている。
しのぶさんがそうである様に、玄弥がそうである様に、誰もが必死にもがいている。
そして、その努力の研鑽が遥かなる頂にはまだ届いていないのだとしても、そしてどんなに頑張ってもそこに辿り着く事は出来ないのだとしても。
それでも、積み重ねた努力が無意味だなんて事は無い、諦めず走り続けたそこに何の価値も無いなんて事は無い。もっと努力している人が、もっと才能がある人が居るのだとしても。
積み重ねられたそれに唾を吐きかける様な事は、この世の誰にも出来やしないのだ。
絶対に敵わない様な強大な存在を前にしてその心は折れてしまったのだとしても、その刃は絶対に通用しなかったのだとしても。
それまでに積み重ねたものを、誰も否定は出来ない。
心のありとあらゆる部分が完全無欠に強い人なんていない。
自分は大丈夫だと思っていても、思いもよらぬ場所に脆い場所や欠けている場所が在るものだ。
心なんてそんなものである。
獪岳の心は確かに物凄く強い訳では無いだろうが、しかし本当にどうしようもなく弱い訳でも無い。
本当にどうしようもない人は、自分の都合の良いものだけを見て混迷の霧の中に消えてしまう。立ち上がる事も生きる事も死ぬ事も何もかもを放棄して、どんな物事に対しても思考を放棄してしまう。
獪岳の様に直向きに努力する事なんて、本当に弱かったら出来やしないのだ。
獪岳は折れてはいけない時に折れてしまったかもしれないが、それでも自らの心を汚泥の中に貶める様に放り込もうとする真似をみすみす見逃す事は出来なかった。
「……っ! どんなに努力したって、認められないなら意味なんて無いだろ……!
それに、それに俺は……」
善逸への怨嗟の更に奥底、もっともっと深い場所に在った感情が、僅かに顔を覗かせていた。
苦しみ、悲しみ、後悔、罪悪感、自責……もっと強く苦しい何か。
『生きたい』と言う欲求がとても強い獪岳が、時に命を擲つ事すら求められる鬼殺隊にどうして拘り続けるのか……その根本の理由が、ほんの少しだけその目の奥に垣間見えた。
……それを見付けてどうこうする事は出来ないけれど。でも。
「……重ねた努力が自分の願った通りの結果に結び付くとも、それが報われるとも限らない。
どんなに頑張っても誰も気付いてくれない事はある、声を上げたってどうにもならない事もある。
自分が頑張っていても、自分ではどうする事も出来ない事で重ねた努力が無駄になる事だってある。
苦しくて遣る瀬無くて心が壊れそうになって、努力をする意味を見失って立ち止まる事もある。
……それでも俺は、『努力した』事自体に何の意味も無かったなんて思いたくは無い。
報われなくても、認めて貰えなくても、評価されなくても。
それでも、重ねたその努力だけは、絶対に自分を裏切らない。最後の最後、一人で何かに立ち向かう時に、自分を支えてくれる力になると、そう思いたい。
獪岳の努力を周りが誰もが認めてくれなかったなんて俺には思えないけど……。
でも、獪岳がそうは思えないなら。自分は誰にも認めて貰えなかったと本気で思っているなら。
じゃあ、俺が認めるよ。
獪岳が重ねて来た努力の全てを、俺が認める」
誰よりも努力しているだとか、特別に努力しているだとか、そう言う事を言いたい訳では無いけれど。
でも、諦めずに直向きに努力し続けて来た事を認める事なら。獪岳の事をあまり知らない自分にだって出来る。
「沢山頑張ってきた獪岳には、花丸一等賞をあげます! ……何てな」
菜々子がそう言って褒めてくれた事があったな、と。
どうしてかツンと胸が苦しくなる程の郷愁を覚えつつ、そう言って指先で花丸を描く様にすると。
獪岳は驚いた様に目を見開いたかと思うと、直ぐに顔を伏せてその身を震わせた。
「……んで。何で、アンタは……」
気に喰わなかったのだろうか、とそう思ったが。
此方が何かを言う前に、獪岳は顔を背けたまま走り去ってしまった。
◆◆◆◆◆
獪岳と話していたのはそう長くは無かったけれど、あまり鉄地河原さんを待たせるのも悪いと思ってその家に急ぐ。
廊下で時透くんとすれ違ったが、少し急いでいるからと軽い挨拶だけを済ませて先を急ぐ。
誰かを探している様だったが……。まあ人探しなら多分、炭治郎たちがその力になってくれると思う。
鉄地河原さんの所に向かうと、早速研ぐ前のその刀を見せてくれた。
持ってみぃと促され、何の刀装具も付いていないそれを握る。
別に本気で持っている訳では無いので色が変わる事は無いが、その刀は何とも手に馴染む重さであった。
「その大きさで追求出来る限りの頑丈さを追求してみたわ。
ワシ以外の者が打ったら、その十倍近い大きさになってもうたやろな。
研ぐのは今からやけど、切れ味もえぇ筈や。
そんでも全力で振るわれた時に何十回と持つかは分からんけど、まあ一回振っておしゃかになるって事は無い」
見た目は打刀よりはやや太刀寄りの長さで、しっかりと反りがある。
十握剣と一緒に持ち運べる程度の大きさだ。まあ、伊之助の様な二刀流は無理だが。
本来はこの十倍の大きさになっていたなんて言われれば、本当に有難い。と言うかこの十倍なんてなったら、それこそ何処かの漫画で見た鉄塊みたいな剣になっていただろう。隠蔽性が死ぬ。
「有難うございます……!
大切に使わせて頂きます……!」
こんなに凄いものを、依頼してからこんなに短期間で打って貰えるなんて、本当に有難い。
大事な研ぎの工程が残っているし、今から色々と刀装具が付くので、まだ完成とは言えないのだろうけれど。
心から感謝の気持ちが溢れて、深く頭を下げる。
その時の事を考えたら絶対に壊さないと言う保証は出来ないけれど……と言うか頸を落としても死なない特殊性を考えると鬼舞辻無惨を足止めしている時に壊してしまいそうな気がするけれど。
でも、可能な限り大切にしたい。
そして、この日輪刀が在ったから鬼舞辻無惨を倒せたのだと胸を張って報告したい。
「必ず、この刀で鬼舞辻無惨を倒してみせます……!」
その意気込みと共に、日輪刀を包んであった布に包み直してそれを鉄地河原さんのお付きの人に渡す。
そして、再び礼を言ってその場を後にしようとしたその時。
異様な、磯臭い様な生臭い様な魚が腐った様な匂いを感じて。
咄嗟に十握剣の柄を握る。
突然のその行動にその場の全員が驚いて、乱心したのかとばかりに里に常駐している隊士が刀を抜きかけたが。
気を付けろと叫ぶと、その異様な空気を察してくれたのか周囲を警戒してくれる。
そして。
突然、部屋の壁が木っ端微塵に破壊された。
飛んで来た瓦礫から鉄地河原さんたちを庇いつつ、襲撃して来たそれと対峙する。
それは見上げる程に巨大な魚の化け物の様であった。
全体的には魚っぽいしその酷い臭気は魚のものではあるのだが、気持ちの悪い事に三対の人間の足の様なそれとその胴体には一対の人間の腕が生えていて、その身体の上部には四つの壺が生えていた。
いや、壺が生えているのではなく壺からこの気持ち悪いものが生えているのか?
何にせよ、壺は半ばその身体と融合している様だ。
とにかく酷い臭いで、際立って鼻が良い訳では無い筈の自分でも正直吐き気がしそうな位の臭いだ。
この場に炭治郎が居たら余りに悍ましい臭いに泣いていたかもしれないし何なら気を喪っていたかもしれない。
とにかく、見るにも耐えない酷い気持ち悪さだし、同じ空間に存在して欲しくない程に臭かった。
魚の化け物はその巨大な手を滅茶苦茶に振り回して襲い掛かって来る。
とは言え、鬼の手によるものではあるだろうが、鬼の気配そのものとは違うので血鬼術か何かによって生み出されたものであるのだろうし、図体がデカいだけで大した脅威では無い。
実際、『ハマオン』の一撃で跡形も無く一瞬で消えた。
しかし、事態はそれで終わった訳では無い様だ。
「敵襲──!!! 鬼だ──!! 敵襲──!!!」
ぶち抜かれた壁の向こうから、激しく鐘を突く音が響いている。
どうやら鬼に里の位置を察知され襲撃された様だ。
襲撃してきたのはどんな鬼なのか、一体どの程度の規模なのか、全く見当も付かない。
それでも、こうして自分達が里に滞在している最中であったのがまだ不幸中の幸いと言えるのかもしれない。
それぞれ自分たち専用の刀は手元に無いとは言え一応予備の刀はその手に在るし、何より皆の実力は折り紙つきだ。
霞柱である時透くんはもとより、炭治郎たち全員がそんじょそこらの鬼に遅れを取る事は無い。
とは言え、最近の自分の上弦の鬼に対する異常な遭遇率を考えると、里を襲撃しているのが上弦の鬼である可能性を考えなければならないだろう。
その場合里を襲っているのは上弦の壱や弐では無いし、話に聞いた上弦の参でも無いだろう。格闘技を極める鬼がこんな気色の悪い魚を作り出す血鬼術に目覚めているとは思えない。
なら、まだ未知数である上弦の肆か伍か?
まあ何れにせよ自分たちがやらなければならない事は何も変わらないのだけれど。
外に向かって思いっきり合図の指笛を吹くと、里の周辺を何時も警戒して飛び回っている鎹鴉が降りて来てくれる。
「済まない、状況を教えてくれ」
「上弦ラシキ鬼ノ襲撃! 里全体ガ襲ワレテイル!
血鬼術デ創ラレタバケモノニ襲ワレテイル!!
上弦ノ鬼ト隊士タチガ交戦中!!」
ガアァ! と、焦った様にそう教えてくれた鎹鴉に礼を言って、今自分がどうするべきかを瞬時に判断する。
里全体があの様な化け物に襲撃されているなら避難も儘ならないだろう。
上弦の鬼と戦っている隊士たちと言うのは恐らく炭治郎たちの事だ。そちらにも急いで救援に向かわなければならない事は確かだが、今最も優先すべきは、あの化け物どもを始末して少しでも里の人達が避難出来る様にする事である。大丈夫、炭治郎たちは強い。
例え上弦の鬼相手でも直ぐに死んだりはしない。
第一炭治郎たちが突破されたなら、こんな悠長な事をしている余裕は無いだろう。
それに、最悪な状況はまだまだこれから起こり得るのだ。
「了解した、直ぐに敵の掃討を行う。
君たちは里の人達の避難誘導を行いつつ、付近に居る柱の人達に救援を要請して欲しい。
最悪の場合、この里は複数の上弦の鬼に襲撃される事になる……!」
避難が終わり次第知らせてくれと頼んで、鎹鴉を再び空に放つ。
そして、鉄地河原さんたちに振り返った。
「今から少しでも多くの人たちを助けてみせますから……!
だから、鉄地河原さんたちは里の皆さんと一緒に少しでもこの里から離れて下さい!
最悪、この里は更地になります……!」
そして里に常駐している隊士たちには、避難する里の人達の護衛を頼む。
そこまで気を払っている余裕は恐らくないだろうから。
それに隊士たちは「必ず」と頷いてくれた。なら、後の事はもう任せるしかない。
「── ユルング!」
里全体の状況を此処からでは把握出来ないし、恐らく少なくない死傷者が既に出ている。
だから、空を自在に飛べる虹蛇を選んで呼び出した。
背後で驚く様な声が聞こえたが、それに構っている余裕は無くて。
何も言わずにユルングに乗って一気に上空を目指す。
出来る事は色々あっても、それを叶える為の余力は無限では無く時間も無限では無い。
特に最悪の長い夜が訪れる可能性を考えると、無暗に力を使う事は出来ない。
恐らく、きっと。
助けられたかもしれない誰かを見捨てなくては……見殺しにしなくてはならないのだろう。
ああ、胸が痛い、苦しい。どうして被害が出る前に防げなかったのだろう。
もし、りせみたいに強いサーチの力があったなら、襲撃で被害が出るその前に対処出来たのだろうか。
でも時を戻す事は出来ないから、今出来る最善を尽くす他に無くて。
それなのにきっとその「最善」からは零れ落ちてしまうものが沢山ある。
真実を追いながら人の命を助ける為の『特捜隊』のリーダーなのに、助けられない人が居る。
この手はちっぽけで、全部を救う事なんて出来ないのだから。
鬼は容易く色々なものを踏み躙っていくのに、踏み躙られたそれを助け出す事は本当に難しい。
ああ、本当に……。
苦い思いを呑み込みながら胸の内に沸々と湧き起こるのは怒りだった。
里全体を見渡せる高度に到達して、眼下のそれを見下ろして敵の位置を全て把握する。
デカい図体などによって気持ち悪い魚たちの位置は上空からでも随分と分かり易い。
家や鍛冶場が立ち並ぶ場所だけでなく、山の方にまで魚たちは入り込んでいる様だった。
山に逃げた人たちを追い立て殺す為なのだろう。この里を襲撃した鬼は、此処で一人残らず殺すつもりなのだと悟る。
だが、当然そんな事を許す訳は無い。
人々を襲う魚たちを見下ろしながら、沸々と湧き続ける怒りの全てを冷たい絶対零度の殺意に変えて集中する。
そして。
「マハブフダイン!!」
一気にそれを解き放って、眼下で蠢いていた全ての悍ましい魚たちを、一瞬で醜悪な氷像に変える。
認識していた全ての魚だけを正確に氷漬けにした為、今の攻撃での里の人達への被害は最小限に留まっただろう。
魚共に密着していた人は凍傷の一つや二つ負ってしまったかもしれないけれど、それは必要経費だと割り切って頂きたい。
ペルソナを正しく召喚して使った力は絶大であり、そしてそのコントロールも遥かに効く。
そしてだからこそ。
「── メディアラハン!!」
『メシアライザー』のそれには及ばないが、それでも大概の負傷なら全て完璧に癒せる癒しの光が、里全体を舐める様に駆け抜けた。
恐らく今ので普通に助けられる範疇の人たちは全員助かった筈だ。ただし一人一人にサマリカームをかけている余裕は無いので自分が出来るのは此処までだが。
広範囲に向かって一気に強力な力を二度も使った為、既にそこそこの消耗が始まっている。
それでもまだ何も終わってなどいない、避難を始める為の露払いをしただけなのだから。
里の中心部は襲撃されているその最前線では無い様だ。
気色の悪い魚たちを一掃すると、それ以上の戦闘の音は聞こえてこなかった。
最も激しい戦闘の音は、自分達が逗留していた宿の辺りから聞こえてくる。
恐らく、そこで戦っているのは炭治郎たちだろう。
どうか無事で居て欲しい、と。そう願い。
少しでも速く辿り着く為にユルングを急がせようとするが。
その時、その方角から何か黒いものが物凄い勢いで吹っ飛ばされて宙を舞ったのが見えた。
あれは……──
「時透くん!?」
一体何があったのかは分からないが、あのままだと不味い。
その為、何処かへと飛ばされて行く時透くんを助けようと、ユルングにその後を追わせるのであった。
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