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第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






 心の中の幸せを入れる箱に穴が空いている人のそれを、どうやって塞げば良いのか、俺には分からなかった。
 ずっと不満の音がしているから、獪岳のそれに穴が空いているんだってのは分かったんだけど。
 でも、幾らそれに気付いても、俺が何を言っても何をしても、獪岳の胸から聞こえる音が変わる事は無くて。
 それどころか、益々大きくなっていっている様な気がした。
 じいちゃんの事は尊敬している筈なのに、どうしてかじいちゃんの言葉でも全然塞がらなくって。
 何時かこのままじゃ新しい幸せに満たされるどころか、何もかもその穴から零れ落ちて空っぽになっちゃうんじゃないかって思う程だった。
 獪岳が俺の事を嫌っているのは知っていたし分かっていたし、俺だって獪岳みたいに性格が悪いやつの事は好きって訳じゃ無いけれど。
 でも、俺にとって、そしてじいちゃんにとって、獪岳は特別だった。特別に大切な人だった。
「家族」なんて知らない俺にとっては、初めて出来た「家族」みたいな人だった。
 それでも、その幸せの箱に空いた穴を埋める事は出来なかった。
 何時からだろう、こんな風に獪岳の心に何も届かなくなってしまったのは。

 じいちゃんに連れられて出逢った最初の頃から、獪岳は俺の事好きじゃ無かったと思うけれど。それでも此処まででは無かった。泣き喚いてじいちゃんの手を煩わせるなって怒られた事はあったけど、まだその目に俺を映してくれていた。
 最初の切欠は、俺が霹靂一閃を学び始めて少しした頃だったと思う。
 獪岳は性格はどうしようもないけど、でも誰よりも直向きに努力し続ける奴で。そう言う点では、直ぐに泣き喚いて鍛錬から逃げ出そうとする俺とは雲泥の差だった。
 じいちゃんは俺の事も獪岳の事も大事にしていたけど。でも、じいちゃんが尻を叩かなくてもちゃんと頑張って鍛錬を積める獪岳と、直ぐに逃げ出そうとする俺では、必然的にじいちゃんも俺に構っている時間が多くなった。
 その大半の時間はお説教で、その度にじいちゃんは獪岳を見習えって怒っていたので、別に俺だけが一等特別に扱われていたという訳では無かったのだけれど。
 でも獪岳からすれば、自分の指導の為に使ってくれていたかもしれない時間を、俺なんかの説教の為に使っている様に見えて面白くは無かっただろう。
 そして、本当にどうしてなのかは分からないけれど。獪岳は誰よりも努力しているのに、壱ノ型である霹靂一閃がどうしても使えなかった。正確には、どうしても実戦レベルにまで習熟出来なかったのだ。
 でも、弐ノ型から陸ノ型までは、実際に鬼殺隊で隊士として戦っている雷の呼吸の使い手たちにも負け無い程に磨き上げられている。努力が足りない訳では決して無いのだ。
 逆に、雷の呼吸の基礎になっていると言われる壱ノ型を実戦レベルでは使えないのに、他の型は其処まで習熟出来ている時点で、獪岳の積み重ねた鍛錬の量と質を推し量る事が出来ようと言うものだ。
 ……そして、獪岳とは真逆に、俺は壱ノ型しか使えなかった。努力してない訳では無いし、じいちゃんが必死に教えてくれるそれをどうにか習得したいのに、どうしても霹靂一閃しか使えなかったのだ。
 ……でも、獪岳からしたらそれは全く面白くない事だっただろう。
 自分が何れだけ直向きに努力しても使えない壱ノ型を、俺みたいな弱くって情けなくって直ぐに泣いて逃げ出して真面目に努力したがらない奴が使える様になったのは。
 俺が逆に他の型は全然駄目だったとしても、そう言う問題では無い。

 そして、決定的に拗れてしまったのは、じいちゃんが己の雷の呼吸の継承者として、俺と獪岳の両方を認めたからなのだろう。
 じいちゃんからすれば、壱ノ型以外は恐ろしく高い完成度で習得している獪岳と、壱ノ型だけは頑張れる俺の二人が力を合わせれば、物凄い力を出せるんだろうと言う師匠心だったのだろうけれど。
 でも、完璧主義な努力家的な気質が強くて、我も強いし俺の事を全然認めてないし嫌っている獪岳からすれば、「一緒じゃなきゃ一人前ですら無いのか」、と。その自尊心を傷付けられる結果になってしまったのかもしれない。
 あの時、獪岳の胸から酷い音が鳴ったのを、俺は忘れられないのだ。
 それから程無くして獪岳は最終選別に行って鬼殺隊に入って、じいちゃんの所に寄り付かなくなったから、その後どうなったのか詳しくは分からなかったけど。
 でも、ずっと心配はしてた。

 獪岳が最終選別に行ったその翌年に、じいちゃんに引っ叩かれて引き摺り倒されて最終選別に行かされてどうにか生き延びて鬼殺隊に入った後で。
 風の噂に、獪岳が頑張っている事を知った。
 鬼殺隊に入っても、獪岳は変わらずに直向きに努力している様だった。
 誰それと仲が良いなどと言った噂は全く聞かなかったけれど。
 でも、一生懸命に任務に励んで、変わらずに鍛錬を積んで。
 まだ入隊して一年程度も経っていない位なのに、既にかなり早い調子で階級も上がっていた。
 入隊したばかりの俺と、既にそこそこの階級になっていた獪岳とでは、例え同門であるのだとしても一緒に任務に行く様な事は無かったのだけれど。
 それでも、何処かで元気にやっているなら、それでも十分だったのだ。
 出来ればその胸の幸せの箱の穴が塞がっていてくれれば良いのだけれど、でもそれは確かめようが無い事で。
 時々手紙は送っていたのだけれど、返事は無かった。そもそも読んですら貰えていなかったのかもしれない。
 そんな感じに、時々獪岳の噂を聞く位で、鬼殺隊に入ってからの接点は殆ど無かった。
 ああ、一度だけ。獪岳の事を何も知らないくせに馬鹿にしていた隊士が居たので、殴り合いの喧嘩になった時に、そうやって乱闘騒ぎを起こした事を馬鹿にしにやって来た獪岳と顔を合わせた事はあったのだけど、それだけで。
 そしてその時に聞いた幸せの箱に空いた穴の音は、ちっとも塞がっていない様だった。

 獪岳とはそんな風に近寄る事も、或いは遠ざかる事も無い様な距離感であったのだけれど。
 でも俺は、炭治郎と出逢って、禰豆子ちゃんと出逢って、伊之助と出逢って、そして悠さんと出逢って。
 鬼殺の任務は決して楽じゃないと言うか恐い事ばかりだったけど、それでも楽しい時間も沢山過ごした。
 上弦の陸……と戦った時の記憶は相変わらず無いけど、それを皆で力を合わせて討ち取って。
 悠さんたちの協力で、ちょっとは自分に向きあって。「自分を信じる」ってのを始めてみようと、そう思った。

 でも、そんな矢先。悠さんと一緒に救援要請を受けて向かったその先で。
 獪岳は、鬼に対して命乞いをしていた。

 相手は上弦の壱で。
 正直柱位強くってもどうしようもないってのが音を聞くだけで本能的に理解させられてしまう程の相手だった。
 俺だって、あんなのを前にしたら、「死にたくない」って泣き喚いていたかもしれない。
 怖くって怖くって、どうにかなってしまいそうな位に絶望的な力量差がある相手なんだってのは、直ぐに分かった。
 獪岳が命乞いしていた事自体は、鬼殺隊の隊士としては良い事では無いけれど、それを責める事は出来ない。
 でも、耳が良い俺には、ただ命乞いをしているだけじゃないってのも分かってしまった。
 獪岳は、あの上弦の壱の鬼の気紛れか何かによって、鬼にされようとしていたのだ。
 その言葉を聞いた瞬間、その胸の内には恐怖や後悔や本当に複雑な音が吹き荒れる様に鳴り響いていたけれど。
 しかし、獪岳はその上弦の壱の鬼の言葉に、否を突き付ける事は無かった。その結果がどうなるのかなんて、じいちゃんから重々聞かされていたのだから、獪岳は知っている筈なのに……! 
 俺の命を天秤に載せるならまだしも、じいちゃんの命まで載せた上で、それを選ぼうとしたのだ。
 そしてそれだけじゃない。これから先己れが奪うだろう大勢の命すら秤に載せて。そして、自分の命を選んだ。
「死にたくない」と思う事は間違っていないけれど。その選択だけは、少なくとも鬼殺隊の剣士としては、選んではいけないものであった。
 獪岳が選んだそれを理解した瞬間、目の前が真っ暗になった様な気すらした。

「善逸! 玄弥! 頼んだ!」

 余りの出来事に固まってしまった俺を動かしてくれたのは、そんな悠さんの力強い声だった。
 それに弾かれた様に、俺は自分のすべき事を……上弦の壱から獪岳を守る為の行動を迷わずに選べた。
 絶対に自分では敵わない事は分かっていたけれど。それでも今この瞬間、獪岳を助け出す事を諦める訳にはいかない、と。
 そうやって霹靂一閃の要領で駆け出して、獪岳へと差し出されかけていた上弦の壱の腕を斬ろうとしたのだけれど。
 しかし、振るった刀はあっさりと折られて。そして返す刀で胴体が泣き別れしかけたそれを助けてくれたのは、俺たちと上弦の壱との間にギリギリ割り込む事に成功した悠さんだった。
 悠さんのお陰で獪岳を上弦の壱から引き剥がす事は出来たけれど。
 死の恐怖その物に直面した衝撃からか、獪岳は随分と混乱して正常な状態とは言い難かった。
 しかし錯乱一歩手前であった獪岳の様子を見ているだけで良い訳は無く、悠さんに言われた通りに他に負傷した隊士たちを一ヶ所に集める必要があった。
 あの上弦の壱の刀で切断されたのだろう手足があちこちに斬り飛ばされた様に転がっていて。
 重たくて大きい胴体部分は一緒に救援に当たってくれた玄弥が回収してくれたが、それでも酷いものだと関節や骨を幾重にも断ち切るかの様に細かくバラバラにされていた手足を一つの欠けも無く探し出すのは大変だった。
 鼻が利く炭治郎だったらもっと楽に探し出せたかもしれないけど、斬り落とされた手足やその断片なんて幾ら耳が良くても捜し切れなくて。
 それでもどうにか玄弥と手分けして集めきって、悠さんに合図を送ると。

 悠さんはあれだけ恐ろしい相手である上弦の壱の頸を、眩いばかりに雷その物で形作られた刃で斬り飛ばして。
 そしてそれを、怖いもの知らずなのか、思いっきり蹴り飛ばしたのだ。
 まるで蹴鞠の様に遥か遠くへ飛んで行く上弦の壱の頸は、何処か場違いな程に非現実的な光景に見えた。
 更には、残った胴体も、爆発する様な雷の一撃で圧し飛ばされる様に吹き飛ばされて。
 そして、一刻の猶予も無いとばかりに悠さんが俺たちを掴んだ瞬間。
 ほんの一瞬の浮遊感にも似た奇妙な感覚に酔いかけた直後には、俺たちは蝶屋敷の中庭に居て。
 そして悠さんはそのまま、負傷しているもののまだ辛うじて息があった隊士たちを、どうする事も出来ない程に斬り刻まれていた手足を含めて、全部癒してしまった。
 原型が分からなくなる程に切断されていた筈の手足に残った痕は、僅かに赤い蚯蚓腫れの様なものだけで。
 それの代償の様に悠さんは気を喪ってしまったけれど。それは誰がどう見ても、『神様』が起こした奇跡であった。

 何と言うのか、それを目の当たりにした瞬間に。
 ああ、悠さんは『神様』なんだって。そうストンっと音を立てる様に納得と共に胸の中にそれが落ちて来た。
 龍を呼び出したりとか、その時点でどう考えても悠さんは普通の人じゃ無いけど。
 でも、何と言うのか。根本的な部分で、「違う」んだって。そう思った。

 ……そして、そんな悠さんの力を目の当たりにして、獪岳は明らかに怯えた様な音を立てていた。
 蝶屋敷にまで一瞬で帰還して、上弦の壱の脅威はこの場から完全に取り除かれて、命の危機が去ったからこそ。
 自分が何をしようとしていたのか、自分が選んだものが何だったのかをやっと心の底から理解して。
 そして、上弦の壱の頸すら一撃で落として、死ぬ筈だった隊士たちの命を救った悠さんの事を、畏れていた。
 悠さんは絶対にそんな事をしないのに。「殺される」、と。獪岳はそう思ってしまったのかもしれない。
 そして、悠さんは自分が屈した上弦の壱にすらも負けない程に圧倒的に強いのだ。悠さんが「その気」になった場合、誰にも万に一つも勝ち目なんて無い。
 悠さんからずっと聞こえる優しい音を聞く限りはそんな事は絶対に無いのに。獪岳が命乞いをしていたのなんて悠さんも見ていたのだし知っていても、一瞬たりともそれに嫌悪感の音は無かった。それでも。
 直前に上弦の壱に出逢ってまだ錯乱した状態だからなのか、獪岳は全力で悠さんに怯えていた。
 どうしてそこまで怯えるのかは、正直俺には分からないのだけれど。
 錯乱した様に獪岳は「死にたくない」と喚いて、力を使い果たして気を喪ってしまった悠さんに縋り付く様にしてその慈悲を乞う様に懺悔の様な言葉を並べ立て始めた。
 気を喪った悠さんを心配そうに介抱しようとしていた玄弥は、自分を助けてくれた筈の悠さんを気遣う事無く縋る様に命乞いをする獪岳のその言葉に……特に、「死にたくなかったから鬼になれと迫られた時にも拒絶出来なかったのだ」と宣うそれには、嫌悪感にも似たものをその表情に浮かべていた。

 そして俺は、これから獪岳がどうなってしまうのかを悟った。
 このまま、獪岳がしでかした事をそのまま報告されてしまえば、獪岳は最悪斬首されてしまう。
 例え相手が上弦の壱であったとしても、命乞いの果てに鬼になる事を了承したなどと、鬼殺隊の隊士としては最も忌むべき行動の一つであり、隊律違反なんて軽い言葉で済ませて良いものじゃないからだ。
 本当に鬼になってしまった訳では無いし当然それで死んだ人も居ないから、俺やじいちゃんにその責が及ぶ事までは無いのだとしても。それでも、獪岳が赦される可能性は万に一つも無い。それ程の事を仕出かしたのだ。
 本当なら、獪岳には自分の選んだものの責任を取らせるのが筋と言うものなのだろう。
 それは分かっている。そして、今から自分がやろうとしている事が道理に合わない罪深い行為なのだとしても。
 それでも、俺は獪岳を見捨てる事は出来なかった。最悪斬首される可能性があると知りながら、それを見逃す事は出来なかった。
 獪岳は責任を取らなければならない。それは間違いなくそうだ、それは俺もそう思っている。
 クズとしか言えない選択をしてしまった以上、何もお咎め無しだなんて出来はしないだろう。
 でも、「死にたくない」と願うそれが、その想いの結果が、斬首だなんて。そればっかりは認めたくなかった。
 獪岳の心の箱は空っぽで、自分の命以外の大事なものは全部箱に空いた穴から零れてしまったのだとしても。
 なら、その箱の穴に気付きながら何も出来なかった俺にも、獪岳があんな事を選んでしまった責任がある。
 だから。

 俺は先ず、気を喪っている悠さんを抱えながら獪岳に厳しい視線を向けている玄弥に、地に頭を擦り付ける勢いで土下座した。
 突然のそれに玄弥は驚いているが、それを止めようとする言葉は無視する。
 だって、今しか無いのだ。
 もう直ぐ、この騒ぎに気付いた蝶屋敷の皆が此処に来てしまうだろう。
 忌々しい位に良過ぎる耳は、蝶屋敷の中で誰かが異変に気付いて動こうとした音も拾っている。
 そして、このままだと、玄弥は何があったのかを正確に報告してしまうだろう。
 そう、獪岳の事も含めて。

「こんな事をお願い出来る立場じゃないのは、十分承知している。
 でも、どうか。獪岳の事は、皆に言わないで欲しい。
 獪岳の事は、同門の弟弟子である俺が、責任を持つから」

「責任って言ったって……。そんなの誰が取れるんだよ。
 お前がそう思っても、ただの平隊士が取れる責任の範疇じゃ無いだろ、こんなの。
 兄弟弟子なら、見捨てられないのは分かるけどさ」

 獪岳を庇った所でその責任を取り切れる訳無いだろうと、そう玄弥は言う。
 それはそうだ。……だけれども、この場にはその責任を負ってくれそうな人が、負えてしまえる人が、一人だけ居る。
 それは最低な事だとは思っているけれど。でも、どうしても獪岳の命を救う事を諦めきれない。
 俺は最低な人間だ。

「悠さんに、頼む。
 悠さんが起きたら全部説明して、それで獪岳の処遇を決めて貰う。
 だから、それまではどうか……」

 そう言った瞬間。玄弥の目に明らかな怒りの感情が宿った。
 ああ、玄弥は心から、悠さんの事を「友だち」だと思っているのだろう。
 だから、俺がやろうとしているそれの意図を理解して、怒っている。
 その怒りを、俺は真正面から受け止める事しか出来ない。

「お前……! 悠にこんな奴の命の責任を押し付ける気か!? 
 悠だったら絶対に見捨てられないって、分かっててそんな事を言うのか!?」

「分かってる。分かってるさ! そんなの。
 俺がやろうとしている事は、最低な事だ。
 鬼殺隊の隊士としても、そして、悠さんの『友だち』としても。
 それでも……! 俺にとって、じいちゃんにとって……! 
 獪岳は、特別な位に大事な人なんだ。『家族』みたいに大事な人なんだ……。
 獪岳がやった事は最低だけど、それでも……死んで欲しくは無いんだ……」

 溢れそうな感情が、涙となって地面に零れ落ちていく。
「家族」、と。その言葉に玄弥の怒気は僅かに収まった。

「そう、か。……善逸にとって、こいつは『兄ちゃん』なのか……。
 じゃあ、駄目だよな……。生きていて、欲しいよな……。
 ……もし悠が駄目だって言った時にもそれに従えるって言うなら。じゃあ、俺からは何も言わない」

『兄』と言う存在に何か思う所があったのか、玄弥は諦めた様にそう言った。
 そして、やって来たしのぶさんたちと隠たちに、気を喪った隊士たち同じく気を喪っている悠さん、そして悠さんの力を以てしても既に手遅れだった隊士の亡骸が回収された後に、簡単な事情聴取を受けていた時にも、玄弥は獪岳の事については何も語る事は無かった。


 力尽きて気を喪った悠さんだったが、その日の昼過ぎには目を覚まして、何があったのかを早速報告している様であった。
 悠さんは、獪岳が一体何を選ぼうとしていたのかまでは知らないだろう。
 だから多分、獪岳の事を詳しくは報告していない筈だ。
 それでも、鬼殺隊の上層部に直接報告しているらしいそれに、どうしても不安が過る。

 そして、悠さんは報告を終えるなり、直ぐに自分たちが助け出した隊士たちの下へと急いだ。
 悠さんが起こした『神様』の奇跡によって、ほぼ死んでいるに等しかった彼等の状態は、もう健常者とほぼ変わらなくて。あれ程ズタズタに斬り裂かれていた手足は、その指の一本の欠けも無く全て無事に繋がっていた。
 流石に直ぐに元の様に動かす事は出来ないそうだが、それでも神経すらも完全では無いにしろ繋がっているので、機能回復を堅実に続ければ元の様に動かす事だって不可能では無いのだと、彼等を診察したしのぶさんの言葉を聞いて、悠さんは本当にホッとした様に安堵の息を吐いていた。
 しかし、助ける事の出来なかった隊士の事を聞くと、その眼差しに悲しみに似た翳りを浮かべる。
 救えたものだけでなく、救えなかったものにも、その優しさは向けられているのだ。
 ああその姿は、まさに……。
 そんな悠さんに、助けられた隊士たちはありとあらゆる言葉でその感謝の意を伝えていた。
 その気持ちは俺にだって分かる。あんな状態で生きているのがもう奇跡でしかないし、奇跡的に生き延びても四肢が欠けた不自由なそれになるだろう筈の所を、まだ自由には動かせないとは言え四肢をキッチリと繋げて貰えているのだ。
 もう、悠さんを『神様』として信仰する他にどうしようも無い程に、彼等は悠さんに感謝していた。
 悠さん本人は、『神様』と言われて感謝される度に戸惑ってそれを訂正させようとしていたし。……『神様』と言われる度に、悠さんの胸の奥の音が、一瞬変な感じに歪んだ気がするけれども。
 しかし最終的には諦めて、その『神様』扱いを受け入れていた。

 そして、漸く悠さんが一人になった頃合いを見計らって、悠さんの部屋を押し掛ける様に訪ねる。
 突然のそれに悠さんは驚いていたけれど、直ぐに優しく微笑んで部屋に通してくれた。
 今から俺が何をしようとしているのかなんて欠片も考えていないその優しさを裏切る様な真似をする事に、僅かに罪悪感を感じる。でも、もう止まる事なんて出来なくて。
 そして、俺は獪岳があの時に何をしようとして何を選んでしまったのかを全て包み隠さず話した。
 その行いが鬼殺隊にとってはどれ程の禁忌に触れる事であり、妥当な処罰がどれ程重い物になるのかも、全て。
 全てを聞き終えた悠さんは、明らかに困惑していた。

「斬首って……。確かに、鬼殺隊の隊士としては選んではいけない事だけど……」

 ああ、やっぱり。
 鬼殺隊に協力しているけれど、悠さんは根本的な部分で鬼殺隊では無い。甘過ぎる位に、優し過ぎる。
 だからこそ、「死にたくない」と願って選んだそれが赦されるべき行いでは無い事は理解しても、その結果が斬首になる事自体には強い違和感と忌避感を覚えている。
 それが、そんな悠さんの優しさに付け込む様な事であるのだと理解しながらも。
 何をしてでも獪岳を見捨てないと決めてしまったから、もう引き返せない。
 優しい優しい『神様』の、その優しさに縋る様に。その慈悲を乞うしか、他に方法は無いのだ。
 だから、俺は涙と共に床に頭を擦り付け、誠心誠意の土下座をした。

「お願いです、悠さん。獪岳を……俺の兄弟子を、『家族』を。助けて下さい……! 
 俺なんかの命とか立場では背負えない事なのは分かってます。
 でも、……でも! 俺は、獪岳を助けたい……! 
 悠さんに獪岳を庇ったりする様な理由なんて無いのは分かってます。
 でも、お願いします。獪岳を助けて下さい。
 獪岳が死ななくても済む様に、力を貸して下さい!!」

「ぜ、善逸……。
 顔を上げてくれ、そんな事はしないでくれ。
 未遂で済んだ事なのだから、それで死なないといけない程の罪では無いと、俺は思う。
 俺も出来る限り、何とかはしてやりたいけど……。
 でも、お館様に報告しない訳にもいかない事だと、俺は思うよ。
『真実』を偽りで隠す事は、俺には出来ない……」

 困惑と共に、しかし確固たる意志で悠さんはそう言う。
 獪岳の事を殺そうだとか死んで当然だとかなんて悠さんは欠片も思っていないのは分かる。そうならない様にどうにかしようとはしてくれるのも分かる。
 でも、まだ足りない。それでは、足りないのだ。

「それじゃあ獪岳を助けられないかもしれない。
 悠さんがその責任を負う位に言ってくれないと、きっと獪岳を誰も助けようとなんてしてくれない……! 
 最低なお願いだとは分かってます。でも、悠さんしか頼れる人は居ないんです……! 
 お願いします、悠さん。
 お願いします、『神様』……!」

 半ばやけくそにも近いその懇願を口にした瞬間。
 悠さんの胸の奥で、何かがギシリと音を立てる。
 でもそれはほんの一瞬で。
 それ以外に何か悪い感じの音がした訳でも無いし、相変わらず悠さんの音は優しいままだった。

「……『神様』、か。
 善逸は、俺に『そう』で在る事を望むのか?」

 静かにそう訊ねて来た悠さんのその目は窓から射し込む光によってか、少しだけ金色が混じっている様にも見える。
 そっと肩に置かれたその右手は、何時もと変わらず優しく思い遣りに満ちたもので。
 グズグズと鼻を鳴らしながら俺の頬を零れ落ちる涙をそっと拭った左手は、慈愛に満ちた様なものであった。

「だって、悠さんは、優しくって、何でも出来て、凄い力が在って……。誰を助ける事も、絶対に躊躇わない人で。
『神様』みたいだから。だから、だから……獪岳の事も、助けて欲しくて……」

「……そうか。
『善逸が願うのなら』俺はそれに応えよう。
 混迷の霧を全て晴らした者の在り方として、『真実』を霧の中に葬る事は出来ないが。
 それ以外の全てで、その願いを叶えよう……」

 そう静かに言って、悠さんはそっとその眼差しを伏せる。
 そして、再び顔を上げた時には、外からの光が僅かに当たり方が変わったのか、もうその目に金色は無い。

「とにかく、獪岳の話を聞こう。そうしないと、どうしようも無いからな」

 そう言って、俺を安心させるかの様に。悠さんは何時もの様に優しい微笑みを浮かべた。



 その後悠さんと獪岳が実際にどんな話をしたのかは、悠さんからは部屋からは離れた場所に居る様にと頼まれた為分からない。
 が、再び呼ばれて悠さんの部屋に行った時の様子だと、そこまで険悪な事にはならなかったのだろう。
 少なくとも、悠さんは獪岳の命を積極的に救う方向で動こうとしていた。
 どうしても、鬼殺隊を率いているお館様に対しては、正確な事を報告しないと後で必ず困る事になるから、と。
 そう言い切られてはそれを拒否する様な事は出来なかった。
 それに、悠さんはそのお館様への報告書に、獪岳への寛大な処遇の嘆願と、任務の際などには暫くの間は自分がちゃんと獪岳を監視すると言う旨を添えてくれた。

 正直な所、それの効果は間違いなく絶大だろうと俺は睨んでいた。
 何せ、悠さんは何を対価に要求する事も無く、完全に善意で鬼殺隊に協力してくれている状態だ。
 その上で、鬼殺隊への貢献度は並々ならぬものであり、正直隊士だったなら問答無用で柱になっていてもおかしくない程のもので。積極的に隊士たちを助け、上弦の鬼と戦い、鬼殺隊の悲願である鬼舞辻無惨の討伐にも意欲的である。
『神様』としか言えない様なその力の事もあり、誰も罷り間違っても悠さんと敵対などしたくは無いだろう。
 今後千年掛けても巡り逢えないであろう、余りにも優し過ぎて人にとって都合の良過ぎる『神様』を、絶対に誰も手離したくなどない筈だ。寧ろ縋り付いてでも引き留めるだろう。
 鬼殺隊の人々を心から慈しみ大切に想っている悠さんが、その程度の事で怒って鬼殺隊から離れるなんて事は先ず無いだろうが。それでも少しでも不安要素は潰しておきたいに違いない。
 ハッキリと言って今の鬼殺隊にとっては、悠さんと一隊士でしかない獪岳のその存在の価値の差は端から比較対象にすらならない程である。
 獪岳のやらかした禁忌ですら、悠さんと言う最強の手札を前にすれば幾らでも黙認してもお釣りが来るのだ。
 そこに、悠さんはいざと言う時の責任は自分が取るとまで言っているのだ。
 それで首を縦に振らない筈は無い。特に鬼殺の為なら手段を選ばない鬼殺隊なんて組織を率いているなら尚の事。
 悠さん本人は自分の価値と言うものを今一つ分かっていない様な音を立てているが、本人がどう思っていようともそれが事実なのである。

 そしてやはり、獪岳のそれは、悠さんが監視すると言う条件下でなら「黙認」と言う形になった。
 その監視の条件が解けるのは、獪岳が上弦との戦いに参加してその討伐に貢献出来た時だ。
 果たしてそんな時が訪れるのかは分からないが、それで禊になると言う事なのだろう。
 とは言え、当然二度目など無い。それだけは在ってはならない。
 その瞬間悠さんは責任を取らなくてはならなくなるが、俺の所為で巻き込んで要らぬ命の責任を背負わせてしまったこの優しい人にそんな事をさせる訳にはいかないから。
 もしもの時は、俺がケジメを付けさせるとは肚に決めている。
 そして、悠さんはお館様からのその返答に心底安堵した様に微笑んで。獪岳に、ちゃんと俺とじいちゃんと三人で話し合うようにと言う。
 悠さんが命を救ってやった獪岳に求めたのは、本当にたったそれだけであった。

 自分の命が悠さんによって首の皮一枚の所で繋がった事を理解した獪岳は、滝の様な冷や汗と共に見事な土下座をした。その胸の奥に響いているのは、恐怖心や畏れなどではあるけれど。少なくとも悠さんに反発したりはしないだろう。
 そして俺は、申し訳無さと同時にとにかく感謝の気持ちが一杯で溢れてきそうで、ボロボロ泣きながら顔をぐしょぐしょにして悠さんに抱き着いて何度も感謝の言葉を述べる。
 悠さんは俺の言葉に嬉しそうに静かに頷いてはそっと抱き締め返して、よしよしとあやしてくれる。
 その手が本当に優しくて温かくて、益々涙は止まらない。
 しかも、悠さんの胸の奥から響いてくる音は、俺を優しく想ってくれている音なのだ。
 声が枯れそうな位にわんわんと泣いている俺を、獪岳は明らかに顔を引き攣らせていた。

 とにかく、そんな経緯で獪岳は悠さんに命を拾われたのだ。






◆◆◆◆◆






 当初は悠さんに怯えていた獪岳だが、しかし悠さんによって助けられた事も理解しているので、あからさまに怯えた様子は見せなくなった。
 とは言え、その胸の奥では畏れに似た感情の音が鳴っている事が殆どなのだけれど。

 共に日輪刀を失った事や、悠さんが何か用事があったらしいので、俺たちの他に炭治郎と伊之助まで加えた全員で、日輪刀を打ってくれる刀鍛冶の人達が集まる隠れ里へと向かう事になった。
 ……悠さんは、炭治郎たちに対して獪岳の事を特に詳しくは説明はしなかった。
 これから暫く一緒に任務に出る事になった仲間だから宜しく、と。そう軽く説明しただけで。
 それでも、炭治郎や伊之助は特に深く疑問に思う事は無かった様で、そのままそれを受け入れていた。

 全員で刀鍛冶の隠れ里へと移動し、里長への挨拶も済ませ、里自慢の温泉に入りに行くと。
 そこには先客として玄弥が居た。
 獪岳の事をよく知っている玄弥は、獪岳に対して良い顔をしなかったが。
 しかし、悠さんがそれを受け入れて守った事を理解したのか。
 悠さんが口を噤んで欲しいと合図すると、それ以上は何も言わなかった。
 まあ、そんな感じで少しギクシャクしかける時はあったものの、勘が鋭くて何かと気付いてしまう炭治郎たちは何も言わなかった。そっとしておいてくれたのだろうか。

 温泉で身体も心も温まったからなのか、ふとした拍子に鬼殺隊での苦労話が花開いた。
 最終選別を通ってまだ半年程度しか経っていなくてもそれなりに任務をこなしていればそこそこ溜まってくる話題であっただけに、同期である俺や炭治郎たちの他にも、悠さんも参加したし、何より獪岳までポツポツとその話題に参加した。
 獪岳がその様な下らない他愛も無い話に参加している姿を初めて見た俺は、物凄く驚いた。頑張って顔には出さなかったけど。
 ……俺が知る獪岳は何時も苛々した様に何処か余裕が無かった。
 自分を追い込む様に鍛錬し、食事時や休憩の時も相手が俺かじいちゃんしか居ない事もあってか無駄話なんか一切せず。
 鬼殺隊に入ってからも、あまり仲の良い相手が居るとは聞かなかったので、きっと殆どそう言った事を話す相手は居なかったのだろう。
 獪岳が自分で選んでそうで在ったのか、或いは結果としてそうなってしまったのかは分からないけれど。
 何にせよ、獪岳は「孤独」である時間が多かった。
 炭治郎たちは別に獪岳と仲が良い訳では無いし、実際心から打ち解けていると言う訳でも無い。
 炭治郎たちの側の問題ではなく、獪岳が打ち解けようとはしないからだ。
 悠さんは獪岳の事をちゃんと気に掛けているが、しかしかと言って積極的に干渉するのではなく見守る様にして獪岳を見ている。
 話すのならきっと悠さんは喜んで獪岳との会話に応じるだろうけれど。獪岳自身が悠さんからは距離を取る様にしているのでそれも中々打ち解けられない。
 それなのに今、獪岳は自らの意思で会話に参加していた。
 別に愛想良く喋っている訳では無いのだけれど、それでもその変化が如何に小さくてもどれ程大きなものなのかは俺には分かる。
 獪岳の心にぽっかりと空いていた穴から聞こえる寂しい音が、その時はほんの少し和らいでいた。

 思えばこの時初めて、獪岳のその心の箱は少しだけ穴が塞がったのかもしれない。

 刀鍛冶の里に来て、そして皆と一緒に行動する事が多くなって。
 獪岳は少しずつ少しずつ変わっていった。
 上っ面を取り繕うのは上手いけど自分の感情は中々表に出さないし、出したとしても物凄く傲慢で辛辣なものばかりだったのに。

 甘露寺さんに対する玄弥の反応には笑いを堪え切れず、甘露寺さんが語ったかなり不思議な入隊理由にはちょっと戸惑った様な顔をして。
 悠さんの本気を出した時のとんでもない握力に物凄くハッキリとドン引きした顔を晒して。
 悠さんが『猫将軍』とか言う不思議な神様らしきものを呼び出した時には物凄く混乱した様に慌てて。
 日輪刀を赤く出来るかって時には、実はその場の誰よりもムキになって日輪刀を握り締めて。
 炭治郎に巻き込まれた俺に道連れに山中の走り込みに巻き込まれても口でこそ文句は言っても拒否はしなかったし。
 果ては、甘露寺さんからこっそり教えて貰った「秘密の武器」を探す言わば「宝探し」にまで参加したのだ。口では仕方なく付き合ってやると言っていたが、その胸の奥で少しだけ楽しそうな音が聞こえたのは絶対に聞き間違えじゃない。

 獪岳は、本当に少しずつだけれど、それでも確かに変わっていったのだ。

「宝探し」の間、ポツポツとではあったが話をした。
 本当に他愛無い事も、そしてじいちゃんの事も。
 あの日の獪岳の行動に関しては、まだ何も言えなかった。
 それをちゃんと話し合えるには、まだ時間が必要だと感じたからだ。
 でも、多分。きっと獪岳だって変われる。その心の箱の穴を、ちゃんと塞ぐ事は出来る筈なのだ。
 だって、獪岳は生きている。そして、本当に取り返しがつかなくなる前に留まる事が出来たのだから。
 何もかもを急に変える事は出来ないし、そんな事をしたら何処かで無理が出てしまうから、ゆっくりとその時を待つしか無い。
 自分に出来るのは、絶対に獪岳の手を離さない事だけだけど。
 悠さんに色々と背負わせてしまった以上は、それだけでもちゃんと果たしたかった。
 だって、「家族」なのだから。

 そして。
 悠さんが伊之助の為にまたあの龍を呼び出してくれるって事になった時。
 獪岳は、初めて積極的にそれに興味を示した。
 何時からか獪岳から聞こえる悠さんに対しての畏れの音はとても小さくなっていたけれど、そうすると今度は色々と気不味くなってきたのか今までとは別の感じで悠さんとは少し距離を取っていたのだけれど。
 そんな悠さんが何かをしてくれる事に、獪岳がそうやって反応するのは、それが初めての事であった。

 悠さんはあの日と同じ様に蒼い龍を呼び出した。
 悠さんが色々と凄いものを呼び出せる事を知っていてもそれを直接目にしたのはまだ二回目の獪岳はそれに酷く驚いていたけれど。
 でも、快くその背に乗せて空を飛んでくれると言うその言葉には、隠しきれない期待と喜びがあった。
 思えば、獪岳はずっと「特別」を求めていた。
 俺とじいちゃんにとってはもっとずっと前から特別で大切だったのだけれど、それは獪岳が求めていた「特別」のカタチでは無かったのかもしれないし、或いは獪岳はそれに全然気付けなかったのかもしれない。
 心の箱に空いた穴が大き過ぎて、自分に向けられていたそれが箱の中に溜まる事無く穴を素通りしてしまったのかもしれない。
 何にせよ、獪岳の心はそれでは埋まらなかった。
 でも、獪岳の心の箱の穴は、ここで過ごす内に本当に少しずつだけれど塞がりつつあって。
 そして今回。
 自分たち以外にはこの世の誰も経験する事が出来ない様な余りにも「特別」過ぎるそれを味わわせて貰えるとなって、その心の箱の底に何かがコロンと転がった音がした。
 悠さんにとっては獪岳だけが一番の「特別」と言う訳では無いだろう。
 その命の責任を背負ってくれているとは言え、それは俺が『そう願った』からで、悠さん本人が積極的にそれを選択した訳では無い。
 それでも、悠さんがその凄い力の一端をこうして惜しみ無く見せてくれる相手の一人である事だけは紛れも無く確かで。
 その「特別」は、ほんの少しだけでも獪岳に何かを与えた。

 獪岳と玄弥と共に再び龍の背に乗ると。
 あの日のそれとは違って、龍はゆったりと夜空を泳ぐ様にしてその満天の星空を見せてくれる。
 生まれて初めて空を飛んでいる感覚に獪岳は驚いて目を瞑って下を向いていたが。
 しかし、悠さんに促されておっかなびっくりと空を見上げたその時。
 目に飛び込んできたその満天の星空に、獪岳は感動の溜め息を吐く。
 それに見蕩れているのがよく分かる程に、その胸から聞こえてくる音は初めて聞く程に穏やかなものであった。

 そして、悠さんに「特別」がどんな気分なのかと訊いたその声音は、何時も何処かにあったの張り詰めて焦った様な何かは無くなっていた。
 そして、獪岳の問い掛けに、「寂しいよ」と。
 そう静かに答えた悠さんのその胸の音は、初めて聞く程に、切なく哀しい程の「孤独」を秘めていた。

 …………悠さんのその言葉の意味が、俺には少しだけ分かる気がする。
 耳が良過ぎて、俺はずっと「孤独」だったから。
 他の皆とは一緒になれない、同じ様に出来ない。少し成長して道理を理解するまでの間に、この耳の所為で失ったものは大きかった。知りたくも無かった事を知り、暴きたくなかった事も暴き。
 それで助かった事は沢山あったし、鬼殺隊に入ってからは特にそれに助けられているけれど。
 でも、こんな聴覚は要らないって思った事は一度や二度の話ではない。
 皆と一緒が良かった、『化け物』だなんて罵られる様なものなんて欲しくなかった。
「孤独」は恐い事なのだと、俺はよく知っている。

 ……悠さんも、そうなのだろうか。
 だって悠さんは、何時も色んな人に囲まれて、何時も笑顔で優しくて、誰にだって真っ直ぐで、何でも出来て。
 ……ああでも、でも、もしかして。
 この世の誰も起こせない様な『神様』の奇跡だって起こしてしまえると言う事は。何でも出来てしまうと言う事は。
 それは、どうしようもなく「孤独」な事なのでは無いだろうか。
 誰とも俺の耳に聞こえているものを共有する事が出来ないのと同じ様に、或いはそれ以上に。
 悠さんは、根本的な部分で誰とも分かり合えない。
 悠さんが何時も優しいのは、何時も笑顔なのは。
 独りにしないで、仲間外れにしないで、と。そんな心の表れであるのかもしれない。
 いや、悠さんのそれらが取り繕ったものでは無い事は悠さんから聞こえる音が教えてくれるのだけれども。
 でも、俺も知らない様な何時かのその始まりは。
 そんな、どうしようも無く寂しい気持ちから始まったのでは無いだろうか。
 何時かそれが当たり前になって本心になってしまう程に、長い間ずっと……。
 それが正しいのかは分からないけれど。
 でも、一瞬だけ心の奥から響いたその「孤独」の音は、悠さんの心の真実の一つだ。

 しかし、悠さんは「何かが出来るからこその『特別』は寂しい」と言ったが、同時に誰かから大切に思われたからこその特別は嬉しいのだと続ける。
 別に家族や恋人などの愛情だけでなく、友愛や尊敬、単純な感謝でも。
 そう言った温かな気持ちを向けて貰えただけでも、そしてそれを向けられるに値するだけのものを相手に与える事が出来た事が、とても嬉しいのだ、と。
 そう悠さんは嘘の無い音と共に言った。
 それを聞いた獪岳は、「そうか」とだけ小さく呟いたのだけれど。
 心の箱に空いた穴は、幾分か塞がろうとしていた。


 そして、その翌日から。
 俺と獪岳は、悠さんと霞柱の時透さんと伊之助がやっている鍛錬に参加する事になった。自分の用事を済ませた玄弥も参加している。
 時透さんに打ち込む稽古が暫く続いた後に、悠さんを相手に戦うと言うかなり過酷な鍛錬だったが、これがとても貴重な機会であるのだと言う事は直ぐに理解出来た。
 時透さんは容赦無く辛辣な言葉で欠点をズバズバ指摘してくるが、それは全部正し過ぎる位に正しくて。
 そしてそれを修正すれば確実にそれまでの自分よりも動きが良くなるのである。
 一人で打ち込んだ時は言わずもがな、獪岳と二人で挑んでも、或いは伊之助と玄弥まで加わって全員で挑んでも。
 それでも時透さんを倒す事は出来なかったが。
 しかしそんな事よりも、鍛錬の間とは言え、獪岳と二人で肩を並べて同じ相手を倒す為に力を合わせる事が出来ている事が、俺にとっては泣きたい程に嬉しい事であった。

 そして時透さんと一頻り戦った後は悠さんと戦う事になるのだけれど。
 しかしこれが本当に難しい。
 悠さんがちゃんと手加減しているのは分かるのだが、悠さんが「ハリセン」と呼んだ奇妙な武器が容赦なく手足や胴などを打ち据えるのだ。叩かれても痛くはないがかなり派手な音が鳴るので俺はちょっと苦手である。
 最初の内は気の抜けた武器だと思っていたが、その気の抜けた武器ですら突破出来ない。
 その為、何度も容赦無く叩かれて苛立っていた獪岳は何とかしてあれを突破するぞ、と。全員で作戦会議をする程であった。

 気付けば、随分と獪岳は変わっていた。
 どうしようもなく「孤独」だった獪岳に、例え訓練中の間だけであっても背中を預けられる誰かが出来るなんて。
 じいちゃんに手紙で教えてあげたら泣いてしまうんじゃないだろうか。

 まだその心の箱の穴は塞がりきった訳では無いけれど。
 でも何時か、「兄貴」って、そう呼べる日が来る様な気がするのだ。






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