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第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






 夢を見る。
 何処か懐かしくも知らない匂いに導かれる様に。
 深く深く水底へと潜っていくかの様に。
 遠い遠い昔の記憶を辿る様に。
 何時かの誰かが遺した強い想いの名残を、夢に見る。

 その夢の中で、俺は「俺」では無い「誰か」になっていた。
 ああ、そうだ。「以前」も俺はこの「誰か」として夢を見ていた。
 普段は利き過ぎる程によく利く鼻によって、「俺」の知覚する世界は匂いに溢れているけれど。
 でも今の俺は「俺」では無いから、匂いが全然分からない。
 自分以外の人達は、世界をこんな風に感じているのだろうか。
 人は自分以外の誰にも成れないけれど、しかし今の俺は「誰か」としてこの世界を感じている。
 どうやら今の『俺』は、薪割りをしている最中である様だった。
 俺の生家に似ているが少し違う家で暮らし、どうやら『俺』には小さな子供が居るらしい。
 我が子に舌足らずに「とーたん」と呼ばれ、裾を引っ張られる。
 それに振り返り、我が子が指さす先に目をやると。そこにひっそりと佇んでいたのは。

 ──あれは……縁壱さんだ……。

 始まりの呼吸の剣士。数百年前に、鬼舞辻無惨をあと一歩の所まで追い詰めたその人。
 そして、恐らくは俺の先祖に、ヒノカミ神楽と日輪の耳飾りを伝えた最初の人。
『約束』の、その始まりに居る人。
 小鉄くんが動かしたあの絡繰人形……「縁壱零式」の顔そのままの人が、其処に居た。


「誰かに話を聞いて欲しかった」と、そう静かに語った縁壱さんは。かつての夢で見たその姿よりも随分と疲れていた。
 随分と考えて、一番に会いたいと感じた『俺』たちに会いに来たのだと。そう静かに縁壱さんは語る。
 その静かな眼差しの中には、本当に様々な感情が静かに降り積もっているかの様であった。

『俺』……いや、炭吉さんが縁壱と会うのは凡そ二年振りの事であった。
 その二年前の出来事が、以前夢で見たあの光景だったのだろう。
 あの時にはまだ生まれたばかりの我が子すみれは、まだ足元がやや覚束無いながらもトテトテと歩ける程にまで大きくなって。
 そんな幼子の姿を、縁壱さんは疲れ果ててはいても穏やかな眼差しで見ていた。

 縁壱さんに聞きたい事は沢山あった。
 ヒノカミ神楽の……日の呼吸の事、鬼舞辻無惨との戦いの事、他にも沢山。
 だけれども、俺は炭吉さんとしてこの夢を見ているけれど、しかしこれはただの夢ではなくて、かつての炭吉さんの記憶そのものだから。
 かつての出来事をなぞる様に、炭吉さんが話すのを体感する事しか出来ない。
 思っている事と実際の行動が全く重ならないというのは、実に奇妙な感覚であった。
 そして、炭吉さんの記憶を見ているからなのか。
 炭吉さんの心の動きが己の心の動きとしても伝わって来る。
 それもまた、不思議な感覚であった。

 炭吉さんがすみれを可愛がっている様子を、共に縁側に座りながら静かに見詰めていた縁壱さんは、ポツリと呟く。

「お前たちが幸せそうで嬉しい。
 幸せそうな人間を見ると幸せな気持ちになる。
 この世はありとあらゆるものが美しい。
 この世界に生まれ落ちる事が出来ただけで幸福だと思う」

 炭吉さんは、二年前に出会った時とあまり変わらないがより翳りと孤独を増したその縁壱さんの眼差しを心配していた。
 感情があまり表情としては現れない人ではあるけれど、とても優しい人だという事を知っていたから。寂しい人だという事も知っていたから。
 もし炭吉さんが俺の様に鼻が利く人であったなら、何か感情の匂いを嗅ぎ取ることは出来たのかもしれないけれど。
 そう言った感覚は持ち合わせていなかった炭吉さんは、その言葉やその表情や眼差しの微かな変化からしか縁壱さんの感情を読み取れない。
 それでも、何かとても辛い事があったのだろうと言う事は察していた。

 そんな炭吉さんの想いに気付いているのかいないのか、縁壱さんは静かに語り始めた。

 縁壱さんは、「継国」と言う武家に生まれた。
 しかし、当時の世では凶兆とされる双子としてだ。
 生まれつき左の額に大きな痣がくっきりと刻まれていた縁壱さんは忌み子として扱われ、家の中でも明らかに冷遇されていた。
 不幸を呼ぶ者とされ、自分がこの家にとっては居てはならない存在なのだと幼くして悟った縁壱さんは、息を潜め口を噤む様にして、己と言う存在を殺す様にして生きていた。
 それでも、別に縁壱さんは不幸ではなかった。
 信心深く争い事を好まない彼の母は、縁壱さんを深く愛してくれていたし、口を利かなかった為に耳が聞こえていないと周りから思われていた縁壱さんの為に、太陽の神の加護を願って手ずから日輪を模した耳飾りのお守りを作ってくれたし、その身体を悪くしてからもずっと気に掛けてくれていた。
 双子の兄は、嫡子として縁壱さんとは比べ物にならない程に立派に育て上げられていたのだが、忌み子として扱われていた縁壱さんの事を何時も気に掛けてくれて。忌み子などに構うなと父から酷く殴られて顔を赤黒く腫らしてもその翌日にはその様な傷付いた顔で手作りの笛を縁壱さんに贈って、この笛を吹けば何時でも助けに来るから心配するなと言ってくれた。
 父の目を盗んで、時折ではあったが双六遊びをしたり凧揚げなどで一緒に遊んでくれた。
 十になれば寺へ出される事は決まっていたが、そんな事は縁壱さんにとって別にどうでも良かった。
 粗末な衣服を与えられ、食事すら質素なもので、物置の様な三畳の部屋に閉じ込められている様な状態であっても。優しい母や兄のお陰で、縁壱さんにとっての世界は優しく美しいものであったのだ。
 兄は誰よりも強い日本一の侍になろうと日々鍛錬を積んでいた。
 それは一体どの様なものなのだろうと興味があった縁壱さんは七つを過ぎた頃に、兄の指南役だった剣士の戯れで一度だけ剣を握った。そして、初めて握ったそれで指南役の剣士を圧倒した。
 縁壱さんには、人の身体の中の動きまでまるで透けて見える様に見えていたからだ。そしてそれは生まれ付きそうであった。

 ──縁壱さんには、天賦の才としか言えぬ程の剣の才が生まれ付き備わっていたのかもしれない。

 だが、縁壱さんにとってそうやって刀を手に人を打ち据える感触は不快極まりないものであった。
 縁壱さんは、彼の母に似て争い事を好まない気質であったのだ。
 しかし、武家としてはその才を放っておく事など出来ず、このままでは自分が跡継ぎに据えられかねない事を知った縁壱さんは、彼の母が息を引き取ると同時に家を出た。
 出家すると数少ない家の者には伝えたが、しかし実際には寺には向かわずに、美しい星空の下をただ全力で走った。
 縁壱さんは体力も無尽蔵に近かったのか、まだ十にもなっていなかったと言うのに一昼夜走り続けても全く疲れなかったと言う。
 そうして、何処かの山の中の小さな田んぼで、縁壱さんは一人の幼い少女と出逢った。
 彼女の名は、「うた」。
 流行り病で自分以外の家族を全員喪ったばかりのまだ幼い少女であった。
 うたさんと出逢った縁壱さんは、彼女と一緒に暮らし始めた。
 感情が動いてもあまり表情が変わらない縁壱さんの心の機微を感じ取ってくれるうたさんは、縁壱さんにとっては糸の切れた凧の様だった自分をこの世界に繋ぎ止めてくれる人であった。
 うたさんを通して、「普通」の人は他人の身体の中まで透けて見える様な事は無いのだと初めて知った。
 その時、縁壱さんはどうやら自分は「普通」とは違うらしいと知ったらしい。
 そして、月日は流れ、出逢ってから凡そ十年が経つ頃には、縁壱さんはうたさんと夫婦になった。
 縁壱さんの夢と幸せは、家族と静かに暮らす事であった。
 手を伸ばせば大切な存在と触れ合える様な、そんな小さな家で。愛する人の顔を見ながら、その手を繋いで生きていたいだけだった。ただそれだけだったのに。
 臨月を迎え出産を控えたうたさんの為に、産婆を呼びに行こうとして色々とあって少し帰るのが遅くなったその日の夜に。
 縁壱さんが家に帰った時には。
 家を出た時には元気に見送ってくれた筈のうたさんは、腹の中の子共々惨殺されていた。
 それは、鬼の仕業によるものだった。
 平安の時代からずっとこの世の何処かで起きていた無数の悲劇の、その一つが縁壱さんの身に降り掛かった。

「自分が命より大切に思っているものでも、他人は容易く踏みつけに出来るのだ」

 そう、静かに語った縁壱さんの瞳の奥に過ったのは、忘れる事など出来ないその日の光景なのか、或いは鬼を狩る内に何度も目にする事になった悲劇なのか。
 ただ、その喪失は縁壱さんにとって余りにも大きな物であった。
 縁壱さんはその日から十日程、ぼんやりと妻と生まれてくる筈だった子供の亡骸を抱き締めていた。
 蛆が湧きその身が腐り始めても、ただただ。
 鬼の痕跡を追ってその惨状に辿り着いた鬼殺の剣士の人が、「弔ってやらねば可哀想だ」とそう諭してくれるまで。
 そして、弔いが終わった後に、この惨劇が鬼の仕業である事をその剣士から教えられ。
 そして、鬼たちは始祖の鬼によって平安の時代の頃から増やされて来たのだと知った。

 縁壱さんの夢は、本当に小さく温かなものだった。しかしそれは奪われた。そんな小さな幸せは、この美しい世に鬼と言う存在が居る限りは叶わないのだと知り、縁壱さんは鬼殺の剣士になった。
 鬼を追う剣士や鬼を殺す為の日輪刀はこの時既に存在していたのだが、『呼吸』を使う者は居なかった。
 その為、当時の剣士たちが使っていた『型』に合わせた『呼吸』を、縁壱さんは其々に教えた。
 剣士たちはとても優秀で、己の剣技に『呼吸』を乗せる事で次々に鬼を狩れる様になっていった。
 そして『呼吸』を極めた者たちの中には、縁壱さんに生まれつき備わっていた様な「痣」がその身体に浮かび、人の身でありながらまるで人を越えたかの様な力を得る者も居たらしい。
 そうする内に、縁壱さんは偶然にも成長した兄と再会した。
 戦場で鬼に襲われて部下を喪った兄は、鬼殺に協力すると言って鬼殺の剣士になった。
 彼の才も目を見張る程に素晴らしく、鬼殺の剣士になって程無くして「痣」を発現させて縁壱さんに次ぐ程の力を発揮して鬼を狩る様になった。
 この時、今までに無く鬼殺の機運が高まっていた。
 ……だが、それもそう長くは続かなかった。
「痣」を発現させた者達が、次々に謎の死を遂げ始めた。
「痣」は、寿命の前借りにも等しい対価を以て身体能力を底上げしている状態の証であったのだ。
 その代償は、余りにも若い死であった。
 そうやって鬼殺の剣士たちの未来の行く末に暗雲が見え始めた中。
 縁壱さんは、鬼の始祖を偶然見付けた。

 出逢った瞬間に、これが鬼の始祖であると言う事は直ぐに分かった。
 そして、この男を倒す為に自分はこの世に生まれて来たのだと、そう縁壱さんは理解した。

 鬼の始祖……鬼舞辻無惨は暴力的なまでの生命力に溢れた男であった。
 火山から噴き出す岩漿の様に煮え滾り全てを呑み込もうとしていた。
 そして、縁壱さんが鬼殺の剣士と見るや、鬼舞辻無惨はその腕を振るってきた。
 恐るべき間合いの広さと速さを備えた攻撃であった。
 それを避けると縁壱さんの遥かな後方まで竹が切り倒されたのだと言うのだから、尋常では無い間合いである。
 掠り傷でも死に至ると直感した。
 そして、肉体を見透かすその目で鬼舞辻無惨を見た縁壱さんは、生まれて初めて背筋にひやりとしたものを感じた。

 鬼舞辻無惨には、心臓が七つ、脳が五つ備わっていた。
 常軌を逸した化外の肉体を見た瞬間に、縁壱さんの剣技は真に完成した。

 完成した型を以て、縁壱さんは鬼舞辻無惨を斬り刻んだ。
 頸を落としたのだが、それでは死ななかった。頸の弱点は既に克服していたのだ。
 しかしそれでも、斬り刻んだ肉体の再生が遅々として進まず落とされた首が繋がらない事に鬼舞辻無惨は困惑していた。
 縁壱さんの手によって色を変えた日輪刀……赫刀は、鬼舞辻無惨に対しても覿面の効果を発揮していた。
 そして、縁壱さんはどうしても鬼の始祖に邂逅した際に問い質してみたかった事を訊ねた。

「命を何だと思っている?」と。それは、鬼であるのだとしてもどうしてそこまで命を踏み付けに出来るのか皆目理解出来なかったが故の問いであった。
 だが鬼舞辻無惨からの返答は無く、ただただ怒りからその顔をどす黒く染めるだけであった。
 どうやら自分の言葉が鬼舞辻無惨の心に届く事は無いのだろうと、そう縁壱さんは悟った。

 その時ふと、縁壱さんは鬼舞辻無惨が連れていた鬼の娘の存在に目をやった。
 彼女は、今まさに鬼舞辻無惨が命を絶たれようとしているその光景を希望の光にその目を輝かせながら凝視していた。
 どうしてその様な顔をするのかは分からなかったが、取り敢えず鬼舞辻無惨を殺す邪魔になる事は無いだろうと判断した縁壱さんは、その鬼の娘よりも先に鬼舞辻無惨に止めを刺す事にした。
 しかし、その為に一歩近付いた瞬間に。
 奥歯を噛み砕く様な音と共に、その肉体は千八百程の肉片となって勢い良く弾けた。
 余りにも唐突過ぎたそれは、肉体を透かし見る目を以てしても完全に予測する事は出来ず。
 どうにか飛び散った肉片の内、比較的大きな千五百と少しを斬り刻む事は出来たが、残りの肉片は小さ過ぎて完全に捕捉する事は出来ず、逃がしてしまった。
 止めを刺し損ねた事を理解して立ち尽くしていた縁壱さんの耳に、鬼の娘の怨嗟の悲鳴が届いた。
 珠世と名乗った鬼の娘は、鬼の始祖……鬼舞辻無惨の死を心から願っていた様だった。
 取り乱していた彼女を落ち着かせて話を聞くと、堰を切った様に鬼舞辻無惨について話してくれた。
 そして恐らく、何処までも臆病で生き汚い性根であるが故に、縁壱さんが生きている内はもう二度とその姿を見せないであろうと言う事も。
 鬼舞辻無惨をこの手で討ち果たす事はもう叶わない事を悟った縁壱さんは、鬼舞辻無惨が弱った事でその支配から一時的に解放された珠世さんに鬼舞辻無惨を倒す為に力を貸してくれる様に手助けを頼んだ。
 それを了承した珠世さんを、縁壱さんは逃がした。

 それから少しして、その場に駆け付けて来た仲間達から、兄が鬼に成ってしまった事と、そして鬼に成った兄がお館様を襲撃してその首を鬼舞辻無惨に捧げてしまった事を、そこで初めて知らされた。
 その夜その場で鬼舞辻無惨に相対したその時には、もう全てが終わっていたのだ。
 縁壱さんにとって大切だったものの殆どは、もう二度と手の届かない場所へと行ってしまった。

 兄がどうして鬼に成ってしまったのかは分からない。
 鬼舞辻無惨に偶然遭遇して、無理矢理鬼にされてしまったのか、或いは。
 それに、お館様の頸を捧げたとして、そこにどれだけ「兄」の心が残っていたのかも分からない。
 鬼に成った者は、飢餓を脱して自我らしきものを取り戻したとしても、多くの場合は歪み果てたものへと変貌していて、かつてのその人とは到底似ても似つかないものと化している事が大半だからだ。
 ただ、鬼と化した兄が最早人の世に赦される存在では無くなってしまった事だけは確かだった。
 ……もし、鬼舞辻無惨と遭遇したその時に、兄が鬼へと堕とされた事を知っていれば。
 無駄に問答などせずに、その身を弾けさせる暇など与えずにその身を斬り刻み続けられていたかもしれない。
 だが、全てはもう終わってしまった事で。
 そして、鬼舞辻無惨が縁壱さんの目の前に現れる事は、もう二度と無いのだ。

 その後、縁壱さんは。
 鬼舞辻無惨を倒せなかった事、珠世さんを逃がした事、兄が鬼に成った事と更にお館様を殺した事の責任を取る為に、鬼殺の剣士を追放される事になった。
 一部の者からは自刃する事を求められもしたが、それは亡き父に代わって六つの身で当主となったばかりのお館様が止めてくれた。
 そして、鬼狩を追放されて行く宛ても無く彷徨っていた縁壱さんは、かつての記憶に誘われる様にうたさんと過ごした山にやって来て、そしてそこで鬼に襲われていた炭吉さん夫婦を助けた。
 そうやって命を救われたからこそ、すやこのお腹の中に居たすみれは無事に生まれる事が出来たのだ。
 それが、凡そ二年前の話であった。


 訥々とそれまでに在った事を語った縁壱さんは、深い哀しみに沈む様にその眼差しをほんの僅かに揺らした。
 もし此処に居るのが「俺」であったなら、哀しい匂いを胸一杯に嗅ぎ取っていたのかもしれない。
 ただ、何にせよ、縁壱さんの身に起きたそれは、余りにも遣る瀬無い程にどうしようも無かった。

「縁壱さんは悪くない……」

 話を聞き終えた炭吉さんは、そう言うだけで精一杯であった。
 炭吉さんの言葉に、暫しの沈黙の後に縁壱さんはまるで独り言の様に呟く。

「私は恐らく、鬼舞辻無惨を倒す為に特別強く造られて生まれて来たのだと思う。
 しかし私はしくじった。結局しくじってしまったのだ。
 私がしくじった所為でこれからもまた多くの人の命が奪われる。
 ……心苦しい」

 ……どうしてこんなに優しい人に、そんな悲劇が降り掛かって来たのだろう。
 縁壱さんの身には余りにも多くの事が起こり過ぎていて、掛ける言葉なんて見付からなかった。
 俺も、そして炭吉さんも。何も言えなかった。
「そんな事は無い」だなんて、その言葉は気休めにもならないのが分かってしまう。

 もしもこの世に神様が居るのだとしたら、あんまりだ。
 どうしてこの人の肩に全ての責を負わせる様な事をしたのだろう。
 強く生まれ付いた事だって、天賦の剣の才を持っていた事だって、縁壱さん自身が望んだ事では何一つ無いのに。
 この世の人の生き死にや運命を決めている神様が本当に居るのだとしたら、余りにも身勝手だった。
 縁壱さんが願っていた小さな幸せを叶えようともせずに、こんな……。

 余りにも深く傷付いている縁壱さんに、掛ける言葉が見付からず暫し沈黙だけがそこに存在した。
 何かを言わなくてはならないのは分かるけれど、どう言って良いのかは分からなかった。

 その時、まだ覚束ない足取りのすみれが、縁側に座っている縁壱さんの服の裾を掴んで「抱っこ」を強請った。
 すみれを見るその優しい眼差しに、抱っこしてやって欲しいと、炭吉さんは絞り出す様に言う。
 そして、強請られるままに縁壱さんが抱っこして高い高いと持ち上げてやると。すみれは嬉しそうにキャッキャッと無邪気な幼子の在り方そのままに笑う。
 はしゃぐその小さな命を見上げた縁壱さんは、大きく目を見開いて静かに涙を零す。
 すみれを抱き締めて、静かに涙を零し続けるその姿を見て。

 ── 何百年も前にもうこの世を去ったこの人のその心が。
 ── ほんの少しだけでも救われた事を、願わずにはいられなかった。


 縁壱さんは、物静かで素朴な人であった。
 すやこさんが剣の型を見たいとせがんだら、否と言う事も無く見せてくれる様な優しい人だった。
 炭吉さんは、縁壱さんが見せてくれたそれらの型をつぶさに見ていた。
 一つも取り零さずにその瞳に焼き付けた。
 日の呼吸の型は、息を忘れる程に綺麗だった。余りにも美し過ぎた。
 後に「神楽」として受け継がれていった理由が分かる気がする。
 剣を振るう時、縁壱さんは人では無く精霊の様に見えた。
 まるで精霊の様にも見えるのに、すやこさんや子供たちが喜んで笑うと照れくさそうに俯く。
 そんな、優しい人だった。

 そして、「正解の形」を夢を通して見せて貰う事で、ヒノカミ神楽への理解度が格段に上がった。
 ほんの僅かな手首の角度の違い、足運びの違い、呼吸の間隔を知り、自分の無駄な動きに気付いた。
 縁壱さんが見せてくれた型は、十二個だった。
 円舞、碧羅の天、烈日紅鏡、幻日虹、火車、灼骨炎陽、陽華突、飛輪陽炎、斜陽転身、輝輝恩光、日暈の龍・頭舞い、炎舞。
 そのどれもが、驚く程正確に伝わっていた。何百年も経つのに。
 それはきっと、『約束』の事もあるだろうけれど。
 この美しい型を、この世に遺したいと今までの御先祖様たちが思ってきたからだろう。
 もしかしたら、ご先祖様の中には俺と同じ様にこの炭吉さんの記憶を夢で見た人も居るのかもしれない。
 思えば、父さんはそうだった可能性が高い気がする。
『約束』だと口にした時のその表情は、何処か遠くの誰かを想うかの様なものでもあったから。

 別れ際、また遊びに来てくださいと炭吉さんは言ったのだけれど。
 縁壱さんはそれには返事をせずに、自分が今まで大切に身に着けていた……母との思い出の品である日輪の耳飾りを炭吉さんに贈った。
 ああ、もう此処には来ないのだ、と。それを悟って。
 遠ざかって行く物悲しい後姿に、涙が止まらなかった。
 この涙を流しているのは、炭吉さんなのか、それとも俺自身なのか、もうそれすら分からない位に。
 胸の中には、様々な感情が溢れていた。
 思い出すのは、あの時……二年前のあの別れの時に、自分に価値は無いと言い切った縁壱さんに何も言ってあげられなかった悔しさと哀しさだった。
 だから。

「縁壱さん! 後に繋ぎます。貴方に守られた命で……俺たちが! 
 貴方は価値の無い人なんかじゃない!! 
 何も為せなかったなんて思わないで下さい! 
 そんな事絶対誰にも言わせない。
 俺が、この耳飾りも日の呼吸も後世に伝える。約束します!!」

 それは、炭吉さんの記憶であると同時に、紛れも無く俺自身の言葉でもあった。

 遠く、大正の時代にまで続くその『約束』に。
 振り返った縁壱さんは、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて。
「ありがとう」と、そう言った。
 そしてそれが、縁壱さんと交わした最後の言葉になった。






◆◆◆◆◆






「……ろう、たんじろう、炭治郎……」

 そっと控え目に身体を揺すられながら呼び掛けられて、意識はぼんやりと浮かび上がった。
 少し心配そうに俺を覗き込んでいるのは、悠さんだった。
 一瞬、どうして悠さんが此処に居るのだろうと、まだ少し寝惚けながら考えたが。
 しかし次の瞬間には、此処が刀鍛冶の人達の隠れ里で、悠さんとは同室での滞在になっていた事を思い出した。

「炭治郎、大丈夫か……? 寝ながら物凄く泣いていたが……、悪い夢でも見たのか……?」

 障子窓の外は既に白んでいて、しかしまだ少し目覚めの時間には早いのか、動いている人の気配は少ない。
 身を起こして、悪い夢に泣いていた訳では無いのだと説明すると、悠さんはホッとした様に安堵する。

「そうか……なら良いんだ。じゃあ悪かったな、まだ起きる時間には少し早いのに起こしてしまって」

「いえ、良いんです。俺、朝は結構早い方なので。
 それに……見た夢について、悠さんに話しておきたかったですし」

「『夢』について? ……縁壱さんとの夢を見たのか」

 察しが良い悠さんはそれだけで何の『夢』を見たのか分かったらしい。
 話が長くなりそうなら、と。
 悠さんは一旦部屋を出てからコップとお茶の入ったやかんを手に帰って来る。

 その心遣いを有難く受け取って、自分がつい先程まで見ていた夢を思い出しながら悠さんに伝える。
 縁壱さんの口から語られた、縁壱さんの過去やかつての鬼殺隊の話なども併せて。
 そして、ご先祖様である炭吉さんが縁壱さんと交わした約束の事も。

「……そうか。縁壱さんに、そんな事が……」

 もう数百年前の人であるとは言え、その身に起きた余りにもどうする事も出来なかった悲劇の数々に、悠さんも哀しそうな顔をする。
 そして、深い深い溜息を吐いた。

「……あの上弦の壱は、恐らくは縁壱さんのお兄さんなんだろうな。
 双子だったなら、顔も似ている訳だ」

 悠さんはそう言って、憂う様にその眼差しを揺らす。
 縁壱さんは、どう思うのだろう。
 たった一人残されていた肉親が、鬼に堕ちて。
 上弦の壱として無数の命を奪い、数百年経った今も尚生き続けていると知れば。
 せめて自分の手で終わらせたかったと願うのだろうか、或いは……。

「……あの、悠さん」

 今から物凄く大それた事を言おうとしている自覚はあるので、緊張から少し声が震えてしまう。
 そんな俺を見た悠さんは、優しい目で「どうした?」と少しだけ首を傾げた。

「……俺、縁壱さんがやり残してしまったと後悔している事を、やり切りたいんです。
 鬼舞辻無惨を倒す事もそうなんですけど、出来れば上弦の壱になってしまった縁壱さんのお兄さんの事も……」

「……縁壱さんは別に、炭治郎たちに上弦の壱や鬼舞辻無惨を倒して欲しいから、日の呼吸や耳飾りをご先祖様に託した訳じゃ無いだろう。
 それに、今の炭治郎だけではあの上弦の壱と戦っても直ぐに膾斬りにされてしまうだけになると思う。
 俺が戦った時も、多分まだ本気は出し切っていなかったと思うし、どんな隠し玉を持っているかも分からない。
 更には、鬼舞辻無惨が数百年も前に頸の弱点を克服してしまっているんだ。
 数百年は生きているあの上弦の壱も、もしかしたら頸を落としても死なないかもしれない。
 ……それでも、やりたいんだな?」

 そう真剣な眼差しで訊ねて来た悠さんに、俺は真剣に頷いた。

「そうか……。あの上弦の壱に次に何時遭遇出来るのかは分からないけど。
 なら、出来る限りの事をして備えないといけないな。
 もっともっと鍛えないといけないし、きっと限界まで鍛えてもたった一人だけだとすれば勝ち目はない。
 だから、誰かと共に戦う連携をもっと取れる様になれたら良いかもな」

 そう言って、何処か困った様な溜息を吐きつつも。「仕方無いから、手合わせをするか」と呟く。
 あれだけ嫌がっていたのに、どうした事なのだろうかと驚いていると。

「いや、昨日時透くんに引き摺って連れ去られてから色々あってな。
 ちょっと驕りが過ぎたと言うのか、頭を木刀で思いっきり殴られてどうやら意識が飛んでいたらしくて。
 何と言うのか、もしかして俺は恐がり過ぎていただけだったんじゃないかな、と。
 皆の事をちゃんと信頼出来ていないんじゃないか、傷付ける事で傷付く事から逃げていただけなんじゃないかって、ちょっとだけ考え直してみたんだ。
 まあ、真剣や木刀を握って戦うのはまだ心の抵抗があり過ぎて難しいし、時透くんが言っていたみたいに死ぬ一歩手前まで追い詰めてくれなんて言うのは流石に幾ら何でも無理なんだけど。
 一応、極力怪我をさせる事も無いし、命に関わる様な状態にもならなさそうな武器には心当たりがあるからな。
 ちょっとそれで頑張ってみるよ」

 何をどうするのかは分からないが、悠さんが手合わせに対して少し前向きになってくれたのは有難い事だった。

「ああ……でも、炭治郎は今日も確か小鉄君と特訓するんだよな。
 あの絡繰人形を使ってるんだっけか」

 悠さんにそう言われ、それを思い出して思わず頭を抱えてしまった。
 そう、昨日時透くんに出逢って悠さんが連れて行かれてから、大事な絡繰人形をガラクタ呼ばわりされた事で怒髪天を衝いた小鉄くんは、その場に残っていた俺を徹底的に鍛え上げて時透くんをけちょんけちょんに打ち負かす! と意気込み出したのだ。
 その勢いからは逃げ切れなかったし、それに強くなれるなら……なんて内なる魔の囁きに負けてしまったのだが。まあ、その特訓内容は中々に過酷なものだった。
 回避能力だけはずば抜けていたので初日でもどうにか及第点を貰えて宿に帰って来る事は出来たのだが。
 もし回避すら覚束無かったら、不眠不休で食事も水も無しで出来る様になるまで文字通り「死に物狂い」でやらせるなどと言い出していたのだ。いや本当に、そうならなくて良かった。
 もしそんな事になっていたら、流石に強制的に連れ戻していたよと悠さんは苦笑するが、そう言う問題でも無いのだ。
 小鉄くんの分析能力は物凄く高くて、回避行動の際のクセなどを的確に見抜いてそこを潰す様な動きが出来る様にと絡繰人形の動きを調整していって。
 しかも装備しているのが真剣なので、とにかく緊張感が凄い。
 絡繰なので「不味い」と思っても咄嗟に止まってくれる訳でも無いので、何があってもその間合いに居る間は絶対に気が抜けない。
 まあ、確かに強くなっているとは思うのだけれど、本当に大変だったのだ。
 そしてそれは今日もまだ続く予定である。目標は人形の頸に強烈な一撃を入れる事ではあるのだが、それは中々難しいのだ。まあ、それでこそ特訓の甲斐があると言う事かもしれない。

「まあ、頑張れ。炭治郎なら出来るさ。
 時透くんをけちょんけちょんに出来るのかに関しては、ちょっと何も言えないけど……」

 苦笑いしつつそう言った悠さんに、「ですよねー……」と思わず言ってしまう。
 いや本当に、時透くんをけちょんけちょんにすると言うのがどう考えても最難関である。

 少し面白そうに苦笑していた悠さんだが、改めて俺が『夢』の中で得た情報を整理していくと、その眼差しは真剣な輝きを帯びていった。何かをそうやって真剣に考えている時の悠さんの目は、まるで深い霧の向こうに隠されたものですらも構わず見通してしまいそうな感じがある。

「身体がまるで透き通る様に見える目、寿命と引き換えに人の身でありながらまるで人を越えたかの様な力を得る『痣』、五つの脳と七つの心臓を持つ鬼舞辻無惨、鬼に対して覿面の効果を持つ『赫刀』、か……」

「それに『呼吸』自体が縁壱さんが当時の鬼殺の剣士たちに教えたものが始まりだって言う事も有りましたね」

「何と言うのか、本当に今の鬼殺隊の根底にあるものを縁壱さんが作ったと言うか伝えたって言うのが凄いよな」

 そして、「だからこそ自分に価値が無いなんて絶対に無いのにな」、と。そう哀しそうに悠さんは呟いた。
 戦う事が好きでは無かったのに愛しい者を奪われて血腥い鬼殺の道を歩み、失意と共にその道を断たれた縁壱さんの事を、直接の面識は無いものの悠さんはとても気に掛けている様だった。もう数百年も前に亡くなっている人であるが故に、ここで何を想っていても縁壱さん本人に届く訳では無くても、それでも。
 ……悠さんが言う通り、縁壱さんが遺したものは今も鬼殺隊を支えている。そして、縁壱さんが未来に託してくれた様々なものが、今再び集まって、鬼舞辻無惨を倒そうとしている。
 珠世さんの事も、そしてヒノカミ神楽として伝えられ続けて来た日の呼吸も、鬼舞辻無惨を斬り刻んだ『赫刀』も、全て。そして『夢』の中で新たに手に入れた情報は、確実に鬼舞辻無惨討伐の為の力になる。

「ヒノカミ神楽と言うか日の呼吸の正確な動きはもう覚えたのか?」

「はい! 元々ヒノカミ神楽自体が代々見取り稽古を通して伝わって来たものなんで、見て覚えるのは得意なんです。だから、『正解』の動きはもう確り目に焼き付いてます!」

 そう言うと、驚嘆した様に「うーん」と悠さんは唸る。

「代々見取り稽古でほぼ完璧に数百年も伝えて来れたっていうのは既に凄まじい才能と言うのか、そう言うのを感じるな……。
 しかし、なら後はその『正解』の動きを反復練習するだけだな。
 確か、大分ヒノカミ神楽を使っても疲れ難くなってきているんだっけ」

「多分身体が完成してきたんだと思います。任務以外では鍛錬を積んで身体を鍛える事を優先しているんで。
 俺は多分縁壱さんや父さん程の日の呼吸への才能は無いんですけど、でも、頑張ります!」

 あの縁壱さんの様に日の呼吸を極めたり、或いは父さんの様に極める手前にまで至れる様な才能はきっと自分には無いのだろうと思った。
 身体がまだ未熟であると言う以上に、或いは選ばれた使い手である事を示す「痣」を生まれつき持っている訳では無いと言う以上に。恐らく、努力などでは埋めきれない何かがきっとそこに在るのだろう。
 それでも諦める訳にはいかないし、少しでもヒノカミ神楽を極められる様に努力は重ねていくつもりである。
 そう意気込むと、悠さんは何故かそっと俺の頭に手をやって撫で始めた。
 何だかちょっと気恥ずかしい、でもそうされるのも嫌では無い。

「才能の有る無しだけが全てじゃ無いと思うし、俺からすれば炭治郎は既に凄い才能を持っている上に、どんどん努力して強くなってるよ。
 そもそも、鬼殺隊に入ってまだ半年程度も経っていない位なのに、既に上弦の鬼と戦っても五体満足で生きていられるのは本当に凄い事なんだと思う。
 俺はあまり呼吸だとか剣術の才能だとかには詳しく無いけど。
 でも、炭治郎たちは凄いよ、頑張っている。
 だから、縁壱さんたちと比べて自分をそう卑下するな」

 別に事実を言っているだけで卑下しているつもりなんか無いのだけれど、とそう思っても。
 そう言う問題でも無いんだ、と悠さんは言った。
 高い目標を掲げそれを追い続ける事は大成する為にも大切だけれども、何時までも彼方の星を追い掛け続ける事に固執していては、何時か何もかも見失い自分を肯定出来るものを喪ったまま途方に暮れてしまう事もあって。だからこそ、自分の努力や積み重ねて来たものにもしっかりと肯定感と共に向き合う事も大事なのだ、と。悠さんはそう言った。
 現状に満足して停滞するのではなくて、自分が走って来た道程に誇りをもってもっと前に進める様に、と。
 弱さや至らなさに涙を零しても、それまでの全てを否定してはいけないのだ、と。

「何だか悠さんって色々と達観している感じがしますね。だから優しいのかな」

 感情豊かでよく笑う優しく暖かい人だけれども。
 人の心を優しく肯定するその寛容さと言うのか、懐の深さは達観しているからなのだろうかと、そう思う。

「そうでも無いと思うぞ。至らない所は沢山あるし。
 ただ……人の心に向き合って戦い続けて来たから、人が何を苦しいと感じるのかとか、どうやってその苦しみを乗り越えていけば良いのかとか、そう言うのはちょっと分かるかな」

 そう少し目を細めて想ったのは、俺と出逢う前に過ごしていた日々の事なのだろうか。
 人の『心の海の中』を、人を助ける為に戦って駆け抜けた日々の。
 一体、どんな戦いだったんだろう? どんな日々だったのだろう。
 前に話して貰ったのは、本当に簡単な概要だけだったので、もっと悠さんの事を知りたいな、とそう思うのだ。
 何時か、訊けば話してくれるのだろうか? 
 悠さんにとっての大切な日々の事を。

「……しかし、鬼舞辻無惨に心臓が七つ脳が五つも在るってのは驚きだな……。
 頸を落とされても平気なのはそれの所為なのかもしれない。
 少しでも深手を負わせるにはそれを狙うのが重要になるんだろうが、そんなに多いと相当難しいだろう。
 本当に、何と言うのか……人間とは全く違う存在なんだな、鬼舞辻無惨って。
 そして、そんな身体の構造を見抜いた縁壱さんの身体を透かし見る力が凄過ぎる……」

 改めて縁壱さんの力に感嘆する様に溜息を吐いて。一体どんな風な感じなんだろう、と。悠さんはその感覚を全然想像出来ないのか首を捻っていた。
 ……しかし、透き通って見える、か。
 そう言えば確か父さんが……。

「……昔、父さんが自分には『透き通る世界』が見えるって言っていたんです」

「『透き通る世界』……? それって、縁壱さんが見ていた様な世界の事なのか?」

「そこまでは分からないんですけど……。何か、物凄く努力をして不要なものを削ぎ落していったら見えるらしいです」

 正直、父さんが言っているその世界とやらにはまだまだ遠くて。それが一体どんなものなのかは全く想像が付かない。
 ただ、父は病で亡くなるほんの数日前に、大きな人喰い熊を小さな手斧だけで一瞬で首を落としてしまった事があった。あの時に見た体捌きは尋常のものではなかったのだ。
 父には本当に、何か違うものが見えていたのだろうと思う。
 その事を説明すると、悠さんは本当に驚いた顔をした。

「それは凄いな……。確かに、炭治郎のお父さんには『何か』が見えていたんだろう。
 しかし、そう言った感覚の話は、他人に伝えるのが難しい。
 その『透き通る世界』ってのが、縁壱さんが見ていたものだとして。
 どうやったらそこに辿り着けるのかを検証するのは相当難しそうだ……」

 悠さんの言葉に、確かにと頷く。
『赫刀』に関しては、物凄い力で刀を握り締めれば良いと判明したので、同じ状況を再現出来れば使う事が出来るだろうけれど。
『透き通る世界』が完全に個人の知覚の問題になってしまうのであれば、その条件を他人に伝えるのはかなり難しそうだ。そもそもその条件を正確に実証する事も難しい。

「後は『痣』ですね」

 そう言った瞬間。
 悠さんの目が静かに暗くなった。

「駄目だ」

 間髪入れる事も叶わない程の余りにも強い拒絶の言葉に、俺は思わず驚いてしまった。

「でも、それがあったら絶対に──」

「でも駄目だ。その条件を探す事も、絶対にさせない」

 例え寿命と引き換えなのだとしても、それでも強くなれるなら……それで鬼舞辻無惨を討てるなら、と。
 そう思うし、実際鬼殺隊に居る人たちの中にはそれを躊躇う人は少ないと思う。
 しかし、悠さんはそれだけは絶対にさせて堪るかとばかりに、憤りにも似た感情をその目に宿した。

「確かに、強くなれるのならそれを躊躇う人は鬼殺隊には少ないのかもしれない。
 命懸けで、明日も知れぬ身であるのなら、今ここで生き延びる為に勝つ為に寿命を差し出す事を厭う人は居ないかもしれない。
 でも、俺は絶対に嫌だ。そんなの、させて堪るか。そんな選択を皆にさせて堪るか」

「でも」

「でももだっても無い。確かに、命は何時喪われるのかなんて誰にも分からない。
 健康だった人でも事故で突然に命を落とす事だってあるだろうし、長く生きれば良いってものでも無い事も分かっているさ。生きた時間の長さでなくて、そこで何を得られたのかを考えるべきだって事も。
 時は待たない、全てを等しく、終わりへと運んで行く。どんな生き物だって何時かは死ぬ。
 精一杯生きていたって、どうしようもない事だってある。死は何時だって其処に在る。
 でも、己の命の時間を自ら差し出すそれを、俺は絶対に善しとはしない。
 人は独りでは無い、そうやって差し出した時間の先で、必ずその人を大切に想う人は哀しむんだ。
 鬼舞辻無惨を倒して終わりじゃないんだ。
 その先の未来で、笑って幸せになれなきゃ、本当に鬼舞辻無惨に勝ったとは言えない」

 その目には、何処までも強い決意が燃えていた。
 そして、悠さんから感じる匂いが、「何をしてでもそんな事をさせはしない」と、そう伝えて来る。

「でも、そうする他に無かったら?」

「そんな状況に陥らない様に、全力を尽くすまでだ。
 そんな力に頼らないと一人では勝てない相手なら、絶対に独りでは戦わない様にすれば良い。
 自分の寿命を差し出す前に、自分に出来る全てでみっともない位に足掻けば良い、そして俺を呼べば良い。
 ほんの少しでも時間を稼げるなら、俺は絶対に其処に助けに行く、何をしてでも間に合って見せる。
 俺は、こう見えて『神様』相手でも絶対に譲らなかった人間だ。
 その程度の事、絶対に叶えて見せるから。だから、自分から命の時間を絶対に差し出すんじゃない」

 悠さんの目は何処までも真剣で、そして強い憤りを懐いていて、それ以上に哀しそうであった。
 何処までも強く俺たちの事を想う感情のその匂いに酩酊してしまいそうになる程の、強い感情であった。
 しかし。悠さんがどんなに心からそれを厭うのだとしても、そんな事をさせないと決意しても。
 それでも、「絶対」はこの世には無い。
 悠さんは自分でもそう言っていた様に、決して『神様』では無いから。どんなに強くても、何もかもをその手に抱えて何があっても完璧に守り切る事は出来やしないのだろう。
 そして、それ以外にはもうどうしようも無い状況で選択したそれを、きっと悠さんは責めはしない。それを選ぶ前に助けられなかった自分を責めて己を傷付けてしまう。
 強い言葉で否定しても、その根底にあるのは何処までも深い優しさだ。

 もし、それ以外に他に選べなかった場合、多分俺は寿命と引き換えでもその力を望む事を躊躇は出来ないけれど。
 此処まで俺たちの事を強く想っている悠さんを哀しませるのは、嫌だなぁ、と。そう思う。


「……そうですね、俺も頑張ります」


 だから、その選択をしなくても良い様に。
 もっと強くなりたい、と。そう心から思うのだ。






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