このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






 時透くんの力はとても強かった。
 炭治郎の腕よりもずっと細いその腕には信じられない程の怪力が宿っている。
 とは言え恐らくそれは生まれ付きのものでは無く、柱になる程までに鍛え上げ続けた努力の果てのものだろう。
 やろうと思えば振り払えない訳では無いが、しかしペルソナの力を使う必要がある程度には物凄い力である。
 時透くんは、当然ながら敵ではない。そしてこの行動も、敵意や悪意がある訳では無い。それも分かる。
 それもあって、ペルソナの力を使ってまでこの手を振り解く事は出来なかった。

 彼はただただ必死なのだ。強くなる事に、ただそれだけの事に。
 それ以外の全てを半ば斬り捨てて、その結果他人の心に配慮する余裕なんて欠片も無い程に。
 時透くんが小鉄くんに掛けていた言葉は、ちょっとどころでは無い程に酷い物だったが。
 別に悪意があってああ言っていた訳では無いのだろう。
 ただ、自分の中からもっと良い言葉を探す余裕すら、時透くんには無いのだ。ぼんやりとしている様に見えるその目の奥で、時透くんは凄まじいまでの焦燥感と怒りに似た感情に支配されている。
 その過去に何があったのかは自分には分からないけれど、その何かが時透くんを柱にまで登り詰めさせた原動力であるのだろう。
 ほんの少しのやり取りでも、それは分かる。
 鬼殺隊に居る人の殆どが、大切な何かを喪った人だ。
 時透くんのその目の奥にあるものは、しのぶさんが抱えていたそれにも少し似ている。
 時透くんの鎹鴉の「銀子」が言っていた様な日の呼吸の剣士の子孫だとか天才だとかそう言った要素以上に、自分の身も心も追い詰める様なそれこそが、時透くんの強さになっているのだと思う。
 そして、いっそ痛ましいと言える程にまで己を追い詰め力を求め続けるその姿を、その目の奥に見てしまったからこそ。
「強くならないと」と言う焦燥感に突き動かされている時透くんの手を振り解けない。

 そして、引き摺られる様に鍛錬場へと連行されて。
 時透くんは鍛錬用の木刀を投げ渡してくる。

「俺は本気で行くから、そっちも手足の一本や二本持っていく位の気持ちで来なよ」

 そう言うなり、時透くんの姿が消えた。
 いや、余りに緩急の激しい動きに、戦う覚悟はまだ定まっていなかったが故に、一瞬動体視力が追い付かなくなって見失ったのだ。
 それでも、咄嗟の勘で木刀を動かして、心臓の辺りを突こうとした時透くんの木刀の一撃を何とか防ぐ。
 時透くんの一撃は凄まじく重く、もし防御していなければ無防備な状態で受けたそれは一撃で此方を叩きのめしていたかもしれない。それ程のものであった。
「本気」だと言うその言葉は、紛れも無く真実だろう。
 そして、柱にまで至った人の攻撃をペルソナの力も無しに捌き切れる様な隔絶した素の実力など、ペルソナの力を除けばただの高校生でしかない自分にある筈など無くて。
 時透くんの攻撃は、手加減など許さない、と。そう言外に伝えて来ていた。
 時透くんが何を求めているのかは分かっている。
 だが、その求めに応じる事は出来そうに無い。
 こうして武器を手にして、敵ではない相手と向き合っているとどうしてもあの時の事を思い出してしまう。


 人に武器を向けるのは嫌だ。敵でも無い相手に武器を向ける事なんて、自分には出来ない。
 それは、元々培ってきた一般的な倫理観だとか道徳観によるものも大いにあるが、自分が一度「やってしまった」からこそ、その苦しみを忘れる事が出来ない。
 何よりも大切な仲間の身体を、己の振るった剣が傷付けたあの最悪の感触を、忘れる事が出来ない。
 武器を手に襲い掛かって来る仲間達を止める為に、此方も武器を振るう事しか出来なかったあの絶望を忘れる事は出来ない。

 そして、人……それもペルソナの力を持っていない人に、ペルソナの力で攻撃するなんて絶対に出来ない。
 幾ら呼吸を極めた事で、まるで鬼の様な身体能力を得ているのだとしても。
 炎に焼かれれば、雷に撃たれれば、斬り刻まれれば、死んでしまうのだ。
 軽く手加減したアギ程度でも、本当なら人は簡単に死んでしまえる。
 それを受けて掠り傷以下で済むのは、ペルソナの力を使う以上やはりこの世の理から何処か外れるからだ。
 いや、例え相手がペルソナ能力者であっても、それで相手を攻撃して良い理由にはならない。
 もしまた目の前に仲間たちが居て、手合わせと称して戦う事になった時、自分は皆にペルソナの力で攻撃出来るのか? ……それは無理だ、絶対に。
 皆を止める為に、大事な仲間なのに、大切な友だちなのに、守りたい人たちなのに、それでも攻撃するしかなかったあの時を、きっと何度でも思い出してしまう。


 必死に呼びかけても、『アムリタ』などを使っても、仮にも『クニノサギリ』と言う神を名乗るまでに至っていた影が行使した力であったからなのか、操られた皆を助け出す事は出来なかった。
 皆の目に、自分の姿は映っていなかった。あの時の自分は、皆にとってはただの『敵』であった。
 皆とても強くて。掠り傷程度で動きを止めたくても、それでは全力で襲ってくる皆は到底止められなくて。
 真実を掴む為に一緒に鍛えてきた力を、『クニノサギリ』以外は誰もそんな事を望んでいないのに本気でぶつけ合うしか無かった。
 そして、あの時の『クニノサギリ』は菜々子を己の巨大な手の中に閉じ込めていて。
 少しでも早く、菜々子をそこから助け出したくて。本当に色々と無茶をやった。
『クニノサギリ』は菜々子に酷く執着していて、菜々子を取り戻そうとする度にその攻撃は激しくなり、操られた仲間たちからの攻撃も凄まじいものになった。
 ……今思えば、彼は此方の方を殺人犯だと思い込んでいたから、その魔の手から守らなくてはと言う一心だったのだろうけど。あの時の自分に彼のそんな事情や心情を慮る余裕なんて欠片も無くて。
 菜々子を誘拐されてこんな危険な場所に連れ込まれた事や、大切な仲間たちが操られていた事もあってとにかく殺意しか感じなかった。
 きっとあの時の自分を客観的に見る事が出来るのだとしたら、殺人犯だと勘違いされても仕方無い程に凶悪な顔をしていたのではないかと思う。
 ……菜々子を助け出す事を優先して、それを妨害してくる仲間たちを全員制圧する事に決めて。
 そこから先は、地獄の様な戦いだった。
 かつて久保美津雄の影との戦いの中で見せられた悪夢が他愛無いものであったかと錯覚する程に、それを遥かに凌駕する程の地獄だった。
 もし自分がワイルドでなければ、皆のペルソナの力を熟知していなければ、百回死んでも足りなかっただろう程の激戦となった。

 敵を常にアナライズしてその瞬間その瞬間に必要な情報を教えてくれるりせの分析力を、再び敵側として味わいたくなど無かった。
 回復役である雪子やクマがその場に居る事の頼もしさを、厄介さとしてなんて知りたく無かった。
 本気で撃ち込んでも全然倒れない完二の頑強さを、忌々しくなんて思いたくは無かった。
 素早く間合いに踏み込む千枝のその力強さを、倒し難さとして捉えたくは無かった。
 何かに特化している訳で無いがどんなペルソナに切り替えても正確に弱点を突いてくる直斗の賢さや臨機応変の力を、脅威としてなんて感じたくは無かった。
 そして……。誰よりも真っ先に切り込んで皆の先駆けとなる陽介の、大切な相棒の、皆を引っ張ってくれるその判断の速さを。自分を苦しめるものとして知りたくは無かったのだ。

 ……それでも戦うしか無かった。戦って皆を倒す他に、あの時の自分に打てる手は無かった。
 状態異常を狙っても、肝心の回復役である雪子とクマには万が一の為に持たせていたアイテムが邪魔をして通用しなくて、仲間たちに掛けたそれも二人によって解除されてしまう。『クニノサギリ』に操られる事は防げなかったのに、皮肉なものだ。
 ならばと『クニノサギリ』を狙っても、まるで普段の戦いの中で自分を庇ってくれる時の様に皆は奴を庇う為効果が無くて。
 ペルソナの力が全力で吹き荒れる様に、全てを薙ぎ払う豪風が絶対零度の冷気が骨まで焼き尽くす業火が万物を消し飛ばす滅びの光が激しい嵐の様に襲い掛かり。紫電を纏う巨大な拳や邪を祓う薙刀の一撃がその隙間を縫う様に襲い掛かる。
 そのどれもに、『敵』を倒し仲間を守らんとする強い意志が溢れていて。
 一切の容赦の無いそれらは、ほんの僅かでも対応を誤れば確実に命を奪っていただろう。
 その全てを必死にペルソナを切り替えながらどうにか凌いで、そして僅かな隙を突いて先ずは雪子とクマを切り崩して。
 回復役を落としてから、直斗や陽介、完二と千枝を順に倒して。
 そうやって全員を制圧した時には、もう此方も満身創痍の身であった。
 激しい戦いによって身体はもうボロボロで、立っているのがやっとな位であったし、何よりも。大切な仲間たちをよりにもよってこの手で傷付けた事に、心はもう崩れ落ちる寸前であった。
 それでも、菜々子を助けなければならないと言う一心で、どうにか立ち続けて。やっとの思いで『クニノサギリ』の手から菜々子を取り戻して、奴を完膚無きまでに叩きのめした。
『クニノサギリ』を倒すと、操られていた皆は程無くして正気に戻って。操られていた間の記憶は無くなっていた様で、どうして自分たちが満身創痍の状態で倒れているのか分からないとでも言いた気に困惑していた。
 ……何があったのかは、皆には言わなかった。
 覚えていないのなら、そちらの方が良いと思ったのだ。
 もう終わってしまった事で心を痛めて欲しくは無かったし、そしてそうやって皆を傷付けたのが他ならぬ自分であるのだと伝えたくなかったと言う思いもあった。
 何にせよ、あの時に何があったのかは、自分だけの胸に仕舞っておく事にした。
『クニノサギリ』の激しい攻撃によって皆意識を飛ばされたのだと、そう説明して。
 満身創痍の状態からどうにか動けるまで回復させるや否や、菜々子を抱き締めて病院へと駆け込んだのだ。
 だけど……。

 自分にとって何が一番恐ろしいのか、あの時に心底思い知らされたのだと思う。
 十七年間生きてきてそれまで全く縁がなかった、絶対に赦せないと言う怒りも、自分でもゾッとする程の冷たく激しい殺意も、心が壊れそうな程の憎悪にも似た黒い感情も、あの時に初めて知った。
 大切なものをこの手の中から奪われる怒りを、絶対に助けると誓ったものですら守れない絶望を、愛しいものを自分自身の手で傷付ける事の苦しみを、まだ幼い命の灯が消えゆく瞬間に手を握る事しか出来ない無力感を、生まれて初めて知った。
 それでも、最後の一線だけは間違えずに済んだのは。
 自分を信じてくれた菜々子の優しさを裏切りたくはなかったからだし、感情の出し方を忘れてしまった様に呆然としてしまっていた自分の代わりに怒り狂ってくれた陽介たちを、……殺人を止める為に戦い続けてきた仲間たちをよりにもよって殺人犯にしてはいけないのだと言う、本当にただそれだけの。
 矜恃と言うには少し後暗い、だけれどもあの時の自分を確かに支えていた感情のお陰だ。
 ……そして、恐らくは。「間違えなかった」からこそ、どうにか自分たちは先に進む事が出来た。
 あの時に「間違えていたら」一体どうなっていたのだろうかと、時折そう考える事がある。
 足立さんは虚無を抱え続け、そしてアメノサギリの思惑通りに世界は彼岸と此岸の境を見失って混迷の霧の中に沈み、人は己を喪ってシャドウへと変わり果て、世界はシャドウのみが蠢く滅びの果ての世へと変わり果てていたのかもしれない。
 それは、想像するだけでも背筋が凍りそうになる世界だ。
 あの日、あの瞬間の選択に、最悪の場合「世界の命運」なんてものすら賭けられていたかもしれないなんて。
 冗談じゃないと、そう叫びたくなる。そして心から、あの時に皆が居てくれて本当に良かったと、そう思うのだ。
 もし独りで生田目さんと相対していたら、怒りのあまり冷静さを喪った皆がそこに居てくれなかったら。憎悪と殺意のままに最後の一線を踏み越えてしまっていた可能性もあった。
 その結果世界が霧に沈んでしまったら、後悔なんて言葉では足りない程の悔悟を抱いて死んでいただろう。
 ああ……本当に。自分は「運が良かった」のだ。そして自分は人の縁に本当に恵まれていたのだと。それを何度も実感する。

 だからこそ、大事な人達に自分が出来る精一杯を返したいと、そんな大切な人たちを守りたいと、心から思うのだ。
 道を間違えそうになっても踏み止まる為の力になってくれる大切な人達に、自分がそうして貰った様に何かを返したいと、支える力になりたいと、そう思う。
 それは、あの八十稲羽で出会った人達にだけでなく、こうしてこの世界で出会った大切な人たち全員にそう思っている。

 ……だから。時透くんがそれを望むのであれば、自分もそれに応えるべきなのだろう。
 時透くんが言っている事は、何も間違ってはいない。
 鬼との戦いとは、畢竟「殺し合い」以外の何物でも無く、手加減などされる筈も無い。
 手足を喪うどころか、命すら喪う事もよくある事で。
 そんな「殺し合い」に対して本気で備えようと言うのであれば、怪我をさせない様になんて手加減した手合わせなんて意味が薄いのも分かる。
 特に時透くんは、柱にまで登り詰めてその剣技や身体能力は研ぎ澄まされている。勿論伸び代は沢山あるだろうけど、最大限手加減した戯れの様な手合わせで得られる物なんて無いのは確かだろう。
「本気」を出せと、そう望むのは当然だ。
 そして、本来なら「訓練」であっても踏み越える事は出来ない程の、生死に関わる程の傷を負っても何事も無かったかの様に元に戻せるなら、生命の限界に挑み死線の先にあるものを少しでも掴もうとする事もまた、当然の事であろう。
 本来なら命懸けの死闘の中でしか得られない経験を、命の危機もなく掴み取れるのなら、それは素晴らしい恩恵で。
 例えそこに死ぬのと変わらない様な痛みがあっても、「本当に死にさえしなければ」問題無い、と。そこまで覚悟を決めてしまう程の道程を時透くんが超えてきたのだと言う事も、分かる。
 何を求められているのか、何をするべきなのか。それは分かる。分かるのだけれども。

 それでも、自分が定めたその最後の一線を、どうしても越えられない。

 相手に苦痛を与えると分かっていて、瀕死の状態にまで追い込むなんて。
 それを治せるかどうかなんて関係無い。そんな風に痛め付ける事を前提になんて戦えない。
 ほんの少し手加減を間違えるだけで、本当に殺してしまうかもしれないのに。「本気」なんて、絶対に無理だ。
 上弦の弐に対してやった様に、或いは上弦の壱の頸を落とした時の様にだなんて、絶対に無理だ。
「人」を相手にそんな事をしようだなんて僅かにでも考えた瞬間に、傷付き倒れた大切な仲間たちの姿がフラッシュバックの様に頭の隅を過る。
 駄目だ、あんな事を繰り返してはいけない。
 この力は、人に向ける為のものでは無い。人を守る為のものであって、人を傷付ける為のものではない。
 その一線を越えてしまえば、本当に『化け物』になってしまう。
 自分自身を、『人間』だとは思えなくなる。
 それが心の底から恐ろしいのだ。

 明らかにこの世界にとって理に反した力を持って迷い込み、最初は本当に弱々しいものになっていたそれも、この世界で新たに絆を結ぶ内に、心の海を駆け抜けていた時程では無くてもかつてのそれを大分取り戻して。
 気付けば、鬼たちの『化け物』と言うその言葉を否定し切れなくなっていた。
 そして、時折向けられる『神様』と言う言葉も、自分以外から見た時にそれを否定し切れるものでは無いのだとも気付いてしまって。
 自分が『鳴上悠』である事を見失う事だけは無いけれど、『鳴上悠』と言う存在が「何」であるのかと言う部分は揺らぎかけているのかもしれない。
 そして、それは決して良い事では無いと直感していた。


 ギュッと強く木刀を握りはしても中々反撃には転じようとはしない此方の様子に、時透くんは少し苛立った様にその眉根を寄せる。
 実戦を想定しているのに相手が防戦一方では実のある訓練にはならないからだろう。
「本気」を出させようとしているのか、時透くんは霞の呼吸の型を次々と繰り出してくる。
 ペルソナの力は既に引き出しているので、それを全て捌き切った。
 時透くんの攻撃はまるで霞そのものの様に捉え辛いけれど、それを防ぐ事自体は出来る。

「何で攻撃してこないの? 
 そんなので実戦になる訳ないでしょ。
 それとも、俺程度じゃ相手にならないって馬鹿にしてる? 
 それか、戦えない位に臆病なの?」

「そうじゃない。単純に、俺自身の心の問題だ。
 それに、時透くんは強い。
 こうでもしないと攻撃を防ぐ事も難しい」

 実際、ペルソナの力の影響を受けていてもかなり集中しないと時透くんを見失いかける事はある。
 時透くんが強い事は分かっていたが、自分が思っていたそれよりも遥かに強い。

「時透くんが、例え死ぬ一歩手前の傷を負ったとしても強くなる事を望む程に覚悟を決めている様に。
 俺も、決めているんだ。
 俺は、仲間を絶対に傷付けないって」

 例えどうしても戦わないといけない時が訪れたとしても。
 それでも、傷付ける以外の方法を見付けられる様に。
 もう二度と、あんな後悔をしなくても良い様に。
 そう決めている、そして新たに決意したのだ。

 時透くんの攻撃を弾く様に防いで、そして僅かに押し出される様にたたらを踏んだその足を払うと同時に押し倒しながら木刀を握るその手を地に押さえ付けて、体格差を利用して拘束する。

「痛みを伴って得た経験は確かに何よりも自分を成長させてくれるだろうけれど。
 俺は、時透くんにはもっと自分を大切にして欲しい。
 傷付く事の無い生き方なんて誰にも出来ないけど、そんな風に自傷する様に傷付き続けていたら、何時か時透くん自身が削れて壊れてしまう」

 その過去に何があったのかなんて、自分には分からない。
 そして、「強くなる」事だけを考えて走り続けてきた時透くんのその在り方や考えを否定したい訳でもない。
 だけど。
 それ以外の余裕が何も無いままに我武者羅に走り続けていれば、どんなに強い思いがあってもどんなに強い衝動に突き動かされていても、何時かは息切れしてしまうし、どうかすれば壊れてしまう。
 人の心は何処までも強くなれるが、反対にそれを潤す水すら無ければ簡単に乾いて、何かを切欠にあっさりと砕けてしまう。
 そして一度壊れた心を元に戻す事はとても難しい。
 時透くんは強い。それは確かだ。
 文字通り死ぬ程の努力を重ねて、恐らくは恵まれていたのだろう剣の才も磨かれて。
 心が弱いだとか、そんな事は全くない。
 だけれども、同時にとても危うくも感じるのだ。

「……何も、知らないくせに」

「そうだな。俺は時透くんの事を何も知らない。
 俺が知っているのは、時透くんが霞柱である事と、全てを擲ってでも強くなろうと努力し続けている事くらいだ。
 でも、相手をよく知らなければ心配してはいけないのか? 
 心配して欲しくないのなら、そう言ってくれれば良い。
 そして、教えて欲しいんだ、時透くんの事を」

 そうすれば、もっと何か別の形でも力になれるのかも知れない。
 時透くんが望むものを望む形で返してあげられないのだとしても。相手を知る事は、決して無駄な事では無い。

「……教えられるものなんて、何も無い。
 俺は、過去を思い出せない。今の記憶も、殆どが消えてしまう。
 俺には、自分の名前と、鬼を殺す事への執着以外、何も無い」

 記憶を留める事が出来ないのだ、と。そう時透くんはその表情を僅かに歪ませる。
 過去の記憶を思い出せず、今の記憶ですら儚く消えてしまうのだとしたら。
 一体どれ程の想いが、その心に強く刻まれていると言うのだろう。
 そうやって自分ですら不確かになりそうな状況の中で、時透くんの心には鬼殺への執念だけは確固たるものとして存在している。
 その過去には、恐らくは壮絶なものがあるのだろう。
 本人がそれを思い出せないのだとしても、あまりにも強烈にその身と心に染み込んだその思いは時透くんの原動力になっている。
 そしてそれ程の執念がそこにあるのなら、今は思い出せなくなっているだけで、その心には変わらずその「過去」が眠っている。

「そうやって時透くんを突き動かす衝動がそこにあるのなら、時透くんの『記憶』は必ず心の奥深くに眠っている。
 思い出せなくなっている事と、存在しない事は全く違う。
 なら、何時か必ず時透くんはそれを取り戻せる」

「っ……! 知った風な口を……きくな!」

 自分の言葉が何か気に障ったのか、時透くんは頭突きして拘束から逃れようとする。
 炭治郎程の石頭ではないので、頭突きされれば頭は痛くなるし最悪脳震盪を起こす。
 それを防ごうと身を反らせれば、今度はその隙を狙って押さえ付けていたその手を無理矢理引き剥がして。
 そして、木刀の本気の一撃が、頭を揺らした。
 その一撃には耐えたのだが、やはり頭を直接揺らされた事が大きなダメージになり咄嗟に目を瞑ってしまう。

 その時、グラりと身体の奥から何かが揺れる様な感じと共に、意識が僅かに遠くなった。






◆◆◆◆◆






 使っていた刀が刃毀れしたので、新しく打って貰いに里へと向かった。
 そして、刀が打ち上がるまでの間を無駄にしない為に、里に伝わっていると言う戦闘訓練用の絡繰人形を使って鍛錬しようとしたのだけれど、その絡繰人形を管理している一族の子供は頑としてその絡繰人形を動かそうとはしなかった。
 それを説得している時間も惜しかったから、無理矢理にでも絡繰人形の鍵を奪おうとしていたら。
 そこに、何だか何処かで会った事があったのかもしれない二人がそれを止めに来た。
 片方は思い出せなかったが、もう片方の男は確か……。
 思い出そうとしても、記憶は霞みがかった様に不確かなもので。
 それでも、その男が上弦の鬼たちと戦いそれに勝ってきた存在だという事は覚えていた。
 一々会話している時間も惜しかったけど、自分も遭遇した事の無い上弦の鬼たちの、それも上位の鬼たちと戦って五体満足でいるその強さには興味があった。
 だから、絡繰人形の状態を確かめて、それがあまり使い物にはならなさそうだと判断した瞬間にそれへの関心は消え去り、今度はこの男の方へと興味が移った。
 確かこの男は、致命傷を負っていてもそれを完全に癒す事が出来るのだとか、手足が千切れてしまっていてもそれすら再び繋ぎ治せるのだとか。そんな事を聞いた覚えがあった。

 ──そんな力が在るのなら、あの時……

 その話を聞いた瞬間頭の中の霞が僅かに薄らいだ気がしたが、しかし結局は何も思い出せなかった。
 だが、そんな力を持った存在が居ると言う事は、直ぐに何もかも忘れてしまう自分としてはかなり珍しく、記憶の片隅に留めていた。
 そして思ったのだ。
 そんな風に傷を癒せる力があるのなら、本来なら絶対に踏み越える事は出来ない一線も越えて鍛錬出来るのでは無いか、と。
 ギリギリの中での命のやり取りを乗り越えると、それは自らの中で大きな糧になる。
 自分は、もっと強くならないといけない。
 もっともっと強くなって、鬼を全て滅ぼさなくては。
 だからこそ、そんな力を持った存在が居て、しかもその実力は上弦の鬼ですら敵わないとなれば、最高の訓練相手だと思った。
 それなのに。

 鍛錬場まで引き摺って行ったその男は、何があっても攻撃してこようとはしなかった。
 此方の攻撃を捌き切っている為、弱いと言う訳では無い。
 それでも防戦一方の男に打ち込むだけでは、打込み稽古と何も変わらない。
 自分に足りない実戦経験を積みたいのに、これでは意味が無い。
 だから「本気」を出せと挑発しても、男はそれには乗ってこない。
 それどころか、一瞬の隙を突かれて身体を拘束されてしまう。
 体格の差もあるけれど、呼吸を極めて得た力でも敵わない程の膂力で抑え込まれてしまって、ろくに抵抗出来なくなった。
 そしてその上で、男は「もっと自分を大切にして欲しい」だなんて言い出した。

 男のその言葉を聞いた瞬間、腹の奥が一瞬熱くなった様にすら感じた。

 何も知らないくせに、過去の記憶も深い霞に覆われている様に不確かで、今の記憶ですらその殆どが喪われていくのに、「大切」にしなければならない『自分』なんて無い。
 そんなあやふやなものを大切にしている暇があるなら、少しでも強くなって鬼を殺さなければならないのに。

 だが男は、「知らないからこそ教えて欲しい」なんて言い出したのだ。
 自分の方こそ、それを教えて欲しい位だと言うのに! 

 そして、男は言ったのだ。
「何時か必ず、それを取り戻せる」と。
 それは奇しくも、お館様が掛けてくれた言葉と殆ど同じもので。

 それにカッとなって、男の拘束を無理矢理振り解いて。
 そして、その頭を狙って本気で木刀を振り抜いた。
 加減せず打ち込まれたそれは、木刀のものであっても人の意識を刈り取るには十分過ぎる程のもので。
 これなら、男も甘い事を言うのを止めて「本気」を出すだろうと、そう思ったのだが。


 僅かに上体を揺らした男が、その目を開けた瞬間。
 息が出来ない程の威圧感というものを、初めて感じた。


 男は無言で立ち上がり、そして投げ出していた木刀を握る。
 その瞳は、何時の間にか金色に輝いていた。

「……『本気』を出せ、か。
 悪いが、『鳴上悠』は何をされた所で君に攻撃する事は無い。
 だが、君が何を望んでいるのかは分かっている。
 ……だから、ここからは『俺』が相手をしよう」

「……あんた、誰? さっきまでとは違うよね」

 明らかに、先程までと違う様子に、一気に警戒心が湧き起こる。
 まるで世界そのものを塗り替えた様なその気配に、今まで対峙してきたどんな鬼でもそもそも比較の土台に載せられない程に、目の前の存在が『強い』事が分かる。
 一瞬後に、自分の命が刈り取られていてもそれにすら気付けないかもしれない。
 それを理解して尚、心を無理矢理鎮めて相手の出方を探る。

「……そう警戒しなくて良い。
『俺』は、別に君を害そうだとかは思っていない。
『俺』は……『鳴上悠』でもあるが、少し違う。
『伊邪那岐』或いは『伊邪那岐大神』、……もしくは『鳴上さん』だ。好きに呼んでいいし、呼ばなくても良い。
『俺』がこうして出てきたのは、今回だけの特例と思ってくれ。
 夢の中で境が曖昧で深く重なっているからこそ出来る力技だが、その分負担も大きいんだ。
 君とはまた会う事はあるだろうが、それはこの世界では無い」

 男の内に潜んでいたその「何者か」は、そう言ってその金色に輝く瞳で此方を静かに見詰める。
 その目に見詰められていると、自分の全てを……霞の向こうにある思い出せない記憶までもが見透かされている様な気すらした。
 もしも『神様』というものが本当に居るのなら、こんな目をしているのかもしれないと、そう思う。



「君の望む通り、『本気』で相手をしよう。
 武器は木刀ではなく、日輪刀にした方が良い。
 そちらの方が、君も全力が出せるだろうから」



 そして、完膚無きまでに叩きのめされた。






◆◆◆◆◆
6/28ページ
スキ