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第一章  【夢現の間にて】

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 その夜は、鎹鴉からの指令を受けて蝶屋敷を離れて少し離れた場所の森の奥に向かっていた。
 近隣で人が消える事件が散発的に起き始めたのだと言うその森に、鬼が潜んでいる可能性がある、と。
 そんな、単独任務の指令であった。

 その任務を受けた時、俺の心には焦りの様なものが静かに奥底に降り積もっていた。
 那田蜘蛛山で負った傷はもうほぼ完治していて、全集中の呼吸・常中も習得して。
 昨日の自分よりは確実に強くなったとは思うが、それでもまだ足りない。全く足りなかった。
 自分は、強くならなければならないのだ。強くなって、鬼殺隊の役に立てる事を証明しなければならない。
 十二鬼月を一人でも倒せる位に、強く。
 そうしなければ、禰豆子の存在を……鬼にされてしまった大切な妹の存在と、そして鬼の妹と共に在る事を、認めて貰えないのだ。柱に、そして鬼殺隊の隊士たちに。

 柱合会議の場を思い出すと、俺は何時も忸怩たる思いを懐く。
 あの場に於いて、俺は無力その物で、その言葉には何の重みも持てなかった。
 守るのだと、人に戻すのだと。そう心に決めて吼えた所で、「俺の事など知らぬ他人」にとって、禰豆子はただの鬼でしか無く、人を喰っていないと言うのなら人を喰う罪を犯してしまう前に殺してやる事こそが慈悲であるとすら思われていた。……それは、「間違っている」事では無いのだと、心情的にはともかく事実としてはそうなのだとは俺も分かっている。俺が倒してきた鬼たちよりももっと多くの鬼を狩り、その中で鬼によって引き起こされた惨劇や無理矢理鬼にされてしまった存在の憐れな姿を見ているからこそ、柱たちの中での鬼に対する認識は俺の言葉一つで変わったりする程に軽いものでは無い。それは分かっている。だからこそ、己の無力を俺は恥じた。
 もしあの日に、出逢った鬼殺隊の隊士が水柱の冨岡さんでなければ、そして彼の育手が元水柱の鱗滝さんでなければ、禰豆子はとっくに殺されていた。俺はたった一人残った妹を、成す術も無く喪っていた。
 そして、二人がその命を懸けてくれなければ、他の柱たちを説得する事など不可能だっただろう。
 俺は、何処までも二人に守られていたのだ。その事に心から感謝すると共に、己の無力を痛感する。

 強くなりたかった。那田蜘蛛山で出逢った十二鬼月の鬼に、俺の刃は届かなかった。
 あの時、冨岡さんが来てくれなければ死んでいた。冨岡さんが一瞬で斬った頸を俺は斬る事が出来なかった。あの瞬間、柱と言う存在の強さを、俺は肌で感じていた。
 だからこそ、まだ少し蝶屋敷で療養する期間は残っているのだが、俺は鬼を狩る為に任務に出ていた。
 少しでも経験を積む為に、少しでも強くなる為に。


 禰豆子の入った箱を背負いながら、微かに漂っている鬼の臭いを頼りに夜の森を駆ける。
 恐らく、あまり人を喰ってはいない鬼なのだろう。鬼特有の臭い……人を食えば食う程腐っていく様なあの臭いはかなり薄い。それでも、何かしらの血鬼術を持っている可能性はある程度には人を喰っている。
 鬼の臭いに雑じって、人の血の臭いもした。誰かの幸せが壊れてしまった臭いを感じ取り、俺は自分が間に合わなかった可能性を悟る。それでも、鬼を狩るしかない。

 しかし、もう少しで鬼の下に辿り着くと言う時に、ふと春風に乗って運ばれて来たかの様な温かな光の匂いと共に、付近に漂っていた鬼の臭いが消える。
 他の隊士が現場に居合わせて鬼を斬ったのだろうか……? 
 ただでさえ万年人手不足気味なので、強力な鬼だったり厄介な鬼である事が予見される場合に組まれる合同任務でも無いのに、他の隊士と組んで鬼を狩る事は滅多にない。任務先の場所が偶々近くだったと言う事はあるのだけれど……。
 少し不思議に思いながらも鬼が居ただろう場所に駆け付けると。
 少し変わった見た目の学生服の様なものを纏った青年が、剣を手にしつつ突如その場に現れた俺を警戒する様に見ていた。その背後には、怯えている女性の他に意識を喪っている男性が倒れていて。青年が彼等を庇おうとしている事は一目で分かった。

 しかし、目の前の青年はその「匂い」が余りにも薄かった。本当にその場に存在しているのだろうかと、一瞬戸惑ってしまう程に。……だがかつて狭霧山で錆兎と真菰に稽古を付けて貰っていた時の様な、この世の者では無い存在の様な感じでも無い。微かにだが「匂い」は其処に在る。ただそれは、幽玄とでも言うべき程の微かなものであった。
 俺を警戒していた青年は目の前の存在が人である事を認識したのか一瞬その匂いは和らいだが、しかし俺の背後……禰豆子の気配を感じ取ったのか、一気に警戒した様な匂いになりその手に握っていた剣を何時でも振るえる様にと構える。

「あの、俺は……」

 青年の誤解を解こうとして、声を掛けた時だった。青年は、突如限界を迎えた様に、硬く握り締めていた剣を取り落として、ぐらりとその身体を揺らして倒れそうになる。
 慌てて納刀して崩れ落ちるその身体を支えると、既に意識は無かった。
 規則正しい呼吸の音は聞こえるので、命に何か別状がある訳では無いのだけれど、どうやら昏々と眠っているらしい。取り敢えず状況を把握しようとして、俺は眠っている青年をその場にそっと横たえさせて、怯えてはいるが確りとした意識のあった女性に何が起きたのかを訊ねた。

 女性の説明によると、その女性と、俺が辿り着いた時には既に倒れていた男性は恋仲であるのだが、夜道を歩いていた所鬼に襲撃され二人ともこの森に連れ去られたそうだ。鬼は先に男性に重傷を負わせ、そして次に女性を襲おうとしていた時に、そこに飛び込んで来たのが青年であったらしい。見知らぬ青年は女性を襲う鬼と斬り結び、そして意識を喪っていた筈の男性が操られた際には何かの方法でそれを無力化し、そして鬼を倒したのだと言う。具体的にどうやって鬼を倒したのかは、女性には分からなかったらしいが、少なくとも頸を斬って倒した訳では無いらしかった。そして、青年は男性の傷を不思議な力で癒したのだそうだ。そして、そこに俺が出くわした……と言う経緯であるらしい。

 女性の言葉を聞いて、俺は大いに戸惑った。
 頸を斬らずに鬼を倒したと言う事も、そして深手を負っていた筈の人を忽ち癒したと言う不思議な力の事も。
 正直に言うと、俺の理解を超えたものだった。ただ少なくとも、女性の言葉に嘘の匂いは無かった。真実であるかどうかはさておき、女性はそれを事実だとして話している。
 しかし、青年が使ったのだと言う不思議な力とは一体何であるのだろうか。
 鬼を殺した術も、その力に依るモノなのだろうか。
 血鬼術か何かの様にしか思えないのだが、意識を喪っている青年からは鬼の臭いは欠片も漂ってこない。
 存在の匂い自体が物凄く薄いが、その匂いは紛れも無く人のそれであった。
 彼は、俺にとって、否。鬼殺隊の長い歴史に於いてすら、全くの未知なる存在であった。……しかし、鬼から人を守った様に、不思議な力を持っていても恐らくは鬼たちの様な存在では無いのだろうけれど。

 女性と男性は大した傷も無いので彼等の家へと隠達の手によって連れて行かれたが、問題はこの青年だった。
 軽く揺すってみても全く意識が戻る気配はなく、彼が一体何処の誰であるのかは彼本人以外には誰にも分からず。その為、付近にあった藤の家紋の家に身を寄せる事にした。
 鎹鴉が此度の事態の報告の為に夜闇の中に飛び立つのを見送った後、俺は用意された一室に青年を寝かせる。彼が目を覚ませば何か色々と聞けるだろうか……と。そう思いながら、俺もまた眠りに就いたのであった。

 俺が目を覚ました時には青年はまだ眠っていたが、彼の為にも水を貰っておこうと部屋を出た後で目を覚ましていたらしい。布団から身を起こした状態で俺を真っ直ぐに見詰めるその目はとても静かで。
 彼から感じる匂いも、かなり薄くはあるが穏やかな春の日溜りの様な優しいものだった。状況に少し戸惑っている様だが、その受け答えはとてもハッキリとしている。
『鳴上悠』と名乗った彼は、鬼殺隊の存在はおろか、昨夜倒した存在が「鬼」だと言う事も知らなかった。
 当然、日輪刀の事も知らないし呼吸も知らない。
 だが彼は、呼吸も使わずに持っていた剣で鬼の首を斬ったらしい。
 話を聞くに、血鬼術に目覚めていた鬼だ。その頸は、少なく見積もっても呼吸も無しに斬れるものでは無い。
 こうして話している分には、彼は本当に普通の青年にしか見えなかった。存在の匂いが薄いだけの、ただの人だった。窓から射し込む陽光にもそれを厭う様な仕草は見せず、鬼では無い事も分かる。
 だからこそ、目の前の彼が鬼を斬り、更には未知なる手段で鬼を倒したとは到底信じ難いものがあった。
 だが、それは間違いなく事実だ。
 そもそも、廃刀令が出されて久しいこの時代に、鬼殺隊の剣士でも無いのに剣を持ち歩いていた時点で、彼には何かがある。普通の人間では無い事は確かなのだろう。それでも、目の前の彼は「普通」だった。

 鳴上さんと話している最中、鎹鴉が帰って来た。お館様からの命で、本部へと来るようにと伝令を受けて帰って来たその足には、手紙が括りつけられている。
 鴉が喋った事に驚いた様な顔をしていた鳴上さんだが、俺が鴉から手紙を受け取っていると物凄く優しい目で鴉と俺を見ていた。動物が好きなのかもしれない。

 手紙に目を通すと、それはお館様からのものだった。突然の手紙に驚きつつも読み進めると、鳴上さんについて何か分かった事があったら教えて欲しい、との事だった。そして、彼をよく見ておいて欲しい、とも。
 俺のその鼻の良さを活かしての頼みだった。それを断る事は出来ない。

 鬼殺隊やお館様について何も知らない鳴上さんに軽く説明すると、お館様が物凄く偉い人なのだと理解したらしく、そんな人の所へ突如呼び出された事に驚いている様だった。少し不安そうな顔をしたので、自分が柱合会議の場に呼ばれた時の事を話して安心して貰おうとすると。少し考え込む様に黙った後で僅かに言い淀む様に鳴上さんは、俺が柱合会議の場に呼ばれたのは、俺が連れている鬼──禰豆子の事が関係しているのか、と訊ねる。
 彼は、昨日の時点で禰豆子の存在に気付いていたのだろう。
 どう答えるべきか迷っていると、その問いが俺を傷付けてしまったと思ったのか、鳴上さんは慌てて禰豆子に害を加える意図など無いと付け加える。昨夜敵意を向けかけたのも、それは鬼に襲われて気が立っていたからだとも弁明する。その言葉に嘘の匂いは無い。……それは、昨夜の時点で分かっている事だったが。
 そんな鳴上さんに禰豆子の事を軽く説明すると、鬼は元々は人だった事を彼は知らなかった為、その内容に酷く衝撃を受けた様で。そして、その全ての元凶たる鬼舞辻無惨の名を俺が口にしたその時には、紛れも無い無惨への敵意が彼の内に燃え上がった事を匂いで感じた。
 そして、俺の言葉を聞き終えた鳴上さんは。

「……すまない、炭治郎。辛い事を、聞いてしまって。
 でも、信じるよ。俺は君を信じる。
 炭治郎にとって大切な家族が……禰豆子ちゃんが、鬼にされてしまっても炭治郎を襲わなかった事も、人を襲う事も喰う事も無いと言う事を。俺は、信じる。
『鬼殺隊』の人間じゃ無いし、鬼なんてこれまで全然知らなかった俺が信じた所で何か力になれる訳じゃないんだろうけど。でも、炭治郎の大事な家族の事を、俺も信じる。
 ……鬼にされてしまった人に戻す方法は俺には分からないけれど……。でも、もし俺に何か出来る事があるなら、俺は絶対に力を貸すよ」

 真っ直ぐに俺の目を見て、「信じる」と。「力になる」と。そう、言ってくれた。
 その言葉に一片の曇りが無い事を匂いが教えてくれる。
 ……全くの初対面にも等しいのに、どうして彼はそうも真っ直ぐに言えるのだろう。
 彼にとって禰豆子は、全く知らない相手、鬼の気配を感じ取った何者かでしかない筈なのに。
 それが、どうしても堪え切れない程に、嬉しくて。
 こんな所で急に泣くなんて長男としてみっともないと思うのに、涙が溢れて止まらなかった。
 そんな俺に鳴上さんは微笑んで、大丈夫だと優しく繰り返しながら、励ます様にそっと頭を撫でる。

「炭治郎は凄いな。ずっと禰豆子ちゃんを守って、戦って来たんだろう? 誰にでも出来る事じゃない。
 苦しい事も、辛い事も、沢山あっただろうけど、ここまで挫けずに頑張って来た。本当に……凄いよ。
 だから、泣いたって良いんだ。それは、炭治郎が頑張り続けてきた証なんだから」

 鳴上さんのその言葉は、本当に優しくて。そして、触れる手は何処か懐かしく……母や父の手を少し思い出させる。
 涙は益々零れてしまったが、何時までも泣きっぱなしと言うのは俺にとってはやっぱり恥ずかしかったので頑張って泣き止んだ。

 その後暫く他愛ない世間話の様な話をしていると、急に鳴上さんが小さく呻く様に息を零した。匂いも、困惑していると言うか……何かに気付いて焦った様な感じのものになる。だが、何があったのかと訊ねても、鳴上さんは「何でも無い」と答えるばかりで。しかし話していた内容に何か問題がある様にも思えず、一体何があったのだろうと俺は首を傾げるばかりである。
 そんなこんなで話をしていると、鬼殺隊本部まで連れて行ってくれる隠達が藤の家紋の家に到着した。
 鳴上さんと一緒に世話になった事に厚く礼を言って、俺たちは鬼殺隊本部へと向かったのであった。






◇◇◇◇◇






 鳴上さんの言う血鬼術にも似た「不思議な力」とやらが何なのかは俺には分からない。
 ただ、お館様が現れてからずっと、鳴上さんの匂いはとても悲しい様な……悔しそうな、そんな匂いになっている。
 お館様の身を案じているのだろうか……? ……恐らくはそうなのだろう。
 短い時間とは言え鳴上さんと話していて、そしてその匂いを感じて、彼の本質が確たる芯を持ちながらも底無しに近い程の善性に満ちた優しいものだと言う事は分かっている。優しい人達には大勢出逢って来たし、鬼殺隊に入ってからは哀しい匂いと共に深過ぎる鬼への怒りや憎しみの匂いを漂わせながらも優しい匂いを感じさせる人に大勢逢った。それでも、鳴上さんの優しい匂いは自分が出逢ってきた中でも一等優しいものであったのだ。
 自分が倒した名も知らぬ鬼に対して、心からの哀しみを向けられる程に。そして。
 鬼に何かを奪われた訳もでなく命を捨ててでも鬼を狩る理由が無く、鬼殺への執念や覚悟が無いと言い切りながらも。鬼舞辻無惨に奪われた無数の名も知らぬ相手の痛みから、目を逸らす事は出来ない、と。その為に鬼舞辻無惨を赦さない、と。そうお館様に宣言し。
 何よりも、俺の力になりたいから、と。そんな理由で鬼との戦いに身を投じる事を望む程に。鳴上さんは、何処までも優しい人だった。

 出逢ったばかりの相手である筈なのに、鳴上さんは俺の事を心から気に掛けていた、その力になりたいと本気で言っていた。鬼の事なんて、全く知らなかった筈なのに。偶然、鬼に襲われていた人を助けただけだったのに。
 それでも鳴上さんは、それが命懸けの戦いである事を知りながら、鬼殺へとその身を投じようとしている。
 鳴上さんが持っていると言う「不思議な力」が何れ程のものかは俺には分からないが、それでも危険な事には変わり無いだろうに。
 鬼殺隊に身を置く隊士たちのその理由の多くは、家族や大切な人を鬼によって奪われた事への復讐だ。
 金銭的な問題だったりする隊士も居なくは無いが、それは少数派だろう。
 しかし、強い執念があっても、鬼殺を続けられる者は本当に一握りだ。
 鬼との戦いで命を落とす者は多く、命こそ拾う事は出来ても戦う事は出来ない身体になる事も少なくない。
 そんな世界に、鳴上さんは躊躇う事無く飛び込んでしまった。無惨を赦せないから、炭治郎の力になりたいから、と。
 どうして其処まで……と。そう思ってしまう。
 鳴上さんが優しくて善い人なのは分かっているが、だからと言ってそれは尋常な事では無い。
 鳴上さんの過去に何があったのかは知らない。身を寄せる先も無いと言い切った彼が、一体今までどうやって生きて来たのかを俺は知らない。どうして「不思議な力」を持っているのか、それを何時自覚したのか、どうして剣を持っていたのか。それを知るのは、唯一人、鳴上さん自身だけだった。
 だが、彼が戦いなど好む性格では無い事は俺にも分かる。それなのに、彼は本来なら身を投じる必要など無い戦いから逃げようとはせず寧ろ飛び込んでしまった。それが、彼の優しさ故である事は分かるのだけれども。
 ……ただ、その優しさを、「嬉しい」と。そうも思ってしまうのだ。

 鳴上さんと共に蝶屋敷へと向かう隠の背の上で揺られながら。
 自分も、鳴上さんに対して何か力になれる事があるなら、力になりたいと。
 そう、俺は思うのであった。






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