第四章 【月蝕の刃】
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琵琶を掻き鳴らす音と共に、上弦の参の位階に座す鬼である猗窩座は、青い彼岸花を捜索しながら移動していた山道から一瞬で異空間に移動していた。
上下左右の繋がりも何もかもが歪んだ光射さぬ常闇の領域、無惨様のその居城である無限城だ。
何か下命する事があるにしても、多くは血を介した声で済まされる上に、呼び出しを受けたとしても招かれる場所は此処では無い。……普段ならば。
前回の召集からまだ一月も経っていないと言うのに、一体何があったと言うのか。
とは言え、その『何が』と言うものに心当たりが無い訳では無い。と言うよりも十中八九、あの『化け物』の事だろうと、猗窩座は考えた。
上弦の弐である童磨が未知なる『化け物』に消滅寸前まで追い込まれた、と。
上弦の鬼全員を無限城に呼び出した無惨様は、不機嫌も顕に消滅寸前の所を回収した童磨の頭部を掴みながらそう吐き捨てた。
ほぼ目元より上しか身体が残っていない童磨は、無惨様の怒りに触れて折檻されたからそうなった訳では無いらしい。
それに本来ならほんの数十秒で全身を再生させられる筈であると言うのに、その再生は遅々として進んでおらずよくよく集中して観察すれば端が再生しつつある事に気付ける程度にまでその再生能力は落ち込んでいた。
この調子なら、完全に再生するのに何ヶ月も掛かるだろう。それ程までに、その『化け物』は童磨を消耗させたのだろうか、それとも鬼の再生能力を妨害する様な術を持っていたのだろうか。
今の童磨なら入れ替わりの血戦を挑めば勝てる可能性はある気がするが……しかし、どうにも以前とは何かが明らかに変わった様な気がする。外見的な問題では無く、その内面がもっと得体の知れない何かに変貌したかの様な。
それが不気味であるし、何よりもこんな状態になってもわざわざ回収した童磨との血戦など無惨様が許可しないだろうから、僅かに考えるだけに留めておいた。
しかし……。その性根は全く以て猗窩座とは合わないものの、仮にも上弦の弐である童磨をここまで容赦無く叩き潰す力を持つ存在など、果たしてこの世に居るのだろうか?
『化け物』と、そう無惨様はその存在を罵るが。鬼となってから百年以上、猗窩座はその様な存在の痕跡すら感じた事が無い。俄かには信じ難い事であった。
妓夫太郎も玉壺も半天狗も、半信半疑とでも言いた気な顔をする。無惨様の言葉を疑うつもりは無いが、そんな存在が居る訳無いだろう、と。
ただ、黒死牟だけはその言葉に何か心当たりがあったのか、考え込む様な気配を漂わせていた。
「無惨様……それは……日の呼吸の使い手が……現れた……という事でしょうか……」
「あの『化け物』は『あれ』とは無関係だ。
だが、場合によれば『あれ』を遥かに凌駕する『化け物』である可能性も高い」
「俄かには……信じ難い……」
上弦の中でも最も古くから無惨様に仕えているからこそ、何か共有出来る経験があるのだろうか。
日の呼吸とやらが何であるのかは分からないが、その言葉を耳にした瞬間にこの身に流れる無惨様の細胞が騒めいたのを感じるに、恐らくそれはとても危険な何かであるのだろうと猗窩座は理解する。
そして、童磨の記憶から得た『化け物』の情報だと言って、無惨様はその血を介して童磨と『化け物』との戦いの一部始終をその場に集った上弦の鬼全員に見せた。
成る程それは、まさしく『化け物』だった。それ以上の表現など、この世に無い程に。
童磨の攻撃の一切を受け付けず、劫火や絶対の冷気を手足の様に操り、呼吸を体得し武を極めている様子も無いのに暴虐とも言える力で捩じ伏せ圧倒する。そのどれもが尋常なものでは無い。
そしてその極め付けは、童磨の肉体の大半を一瞬で消し飛ばした攻撃だ。
一体どの様な原理を以て成された攻撃なのか一切不明だが、この攻撃に巻き込まれれば上弦だろうと何だろうと欠片も残らず消し飛ばされるだろう。
日輪刀で頸を斬られる事や日光に晒される事以外に、鬼を確実に死に至らしめる方法であった。
こんな馬鹿げた力を持った存在がこの世に現れるなど、一体誰が予想出来ただろう。
明らかにこの世の理を嘲笑い踏み躙って破壊するかの様な所業だった。成る程、『化け物』に相応しい存在だ。
姿形だけは普通の人間にしか見えないからこそ、その異質さがより際立つ。
『人間』のふりをした『化け物』がこの世に現れ、そしてその『化け物』が躊躇なく鬼を狩っている事は紛れも無く前代未聞の危機であった。
だが何故そうなのか猗窩座自身にすら分からない事ではあったが。
無惨様に見せられた童磨と『化け物』との戦いに於いて、何よりも猗窩座の意識に引っ掛かったのは。
鬼すら一蹴する程の圧倒的な『化け物』の異能では無くて。それを発揮して童磨を追い詰めるよりも前。童磨に嬲られ瀕死の状態になっていた女の剣士たちに対して『化け物』が使った力であった。
童磨の血鬼術によって肺を破壊され苦しそうな音を立てながら必死に呼吸する女の姿に、胸の奥が苛立つかの様に騒めく。そして、最早死ぬだけであった筈の女を、『化け物』が黄泉路を下ろうとするその手を掴んで引き戻しその身体を完全に癒したその瞬間には、未だ嘗て感じた事も無い程の激しい痛みが胸の奥を掻き毟った。
── ああ、そんな力が俺に在ったのなら! あの場にこの『化け物』が居たのなら!!
── 俺は、守れたのに! ■■を助けられた、■■さんも■■も助けられた!!
── 俺は、俺は……っ!!
童磨に敗れた女は弱者だった、そして『化け物』が揮ったその力は弱者を救う為のものであった。
弱者に情けをかける必要も、弱者を救う事に価値を感じる事など無い筈なのに。
『化け物』の持つこの世の理の外にある力の中でも、猗窩座にとっては最も意味が無く価値も無く気を払う必要も無いものである筈なのに。
どうしてその力を、傷付き死に掛けた者を、病に倒れ苦しむ者を、救う為の力を、意識してしまうのか。
そしてそれがどうしようもなく胸の奥を搔き乱すのか。
猗窩座には分からなかった。その理由が分からないという事実が虚しい程に胸の奥を痛ませる。
しかしそんな猗窩座の懊悩は、無惨様の言葉によって断ち切られた。
「お前たちに命じる。この『化け物』を捕らえて私の前に差し出せ。
何百年掛けても未だ産屋敷一族を滅ぼし鬼殺隊を殲滅する事も、青い彼岸花を見付け出す事もろくに果たせぬお前たちに期待する事自体が間違っているだろうが、その程度の役目は果たしてみせろ。
不愉快極まりないが、その役目の為に我が血を与えてやる」
そう言うなり、無惨様がその腕を伸ばして身体を貫く様にして、その場に居た上弦の鬼全員に血を注ぎ込む。
それは、今まで下賜されてきた血を遥かに超える程の量であった。
上弦の鬼と言う「器」でなければ器自体を見るも無残に破壊するだろう程の量の血に、身体の奥底から力が湧き上がるのを感じる。直前まで胸の奥を食い破る程に感じていた掻き毟る様な痛みはもう感じない。
今ならば、柱だろうと何だろうと、何人群れていても全て殺す事が出来るだろう。
「……有難き……幸せ……」
黒死牟の言葉を無視する様にして、無惨様は不愉快そうにその目を歪めて吐き捨てた。
「あの『化け物』を捕らえ私の前に差し出した者には更なる血を与えてやる。
こうしてわざわざ与えてやったのだ。精々私の役に立つ事だな」
そうして、前回の召集は解散となった。
……今回の召集の理由は一体何であると言うのか。
まさか、上弦の鬼が欠けたのだろうか。
『化け物』を狩る為にふんだんに無惨様の血を与えられた上弦の鬼が今更柱などにやられるとは思えないので、『化け物』に返り討ちにされたのだろうか。
欠けたとしてそれは誰だ?
鬱陶しく煽って来る玉壺も、ひたすら怯えた様に「怖ろしい」とだけ口にしている半天狗も此処には居る。
不愉快極まりない童磨がまたしてもやられて死んだと言うのなら喜ばしい事だが……しかしまだ肩辺りまでしか身体の再生が出来ていない童磨もこの場には居た。流石に二度目の返り討ちに遭ったという様子では無さそうだ。
「おっと猗窩座殿も無事だったか! 良かった良かった!
あの『神様』は容赦なんか絶対にしてくれないだろうからなぁ!
俺は皆を凄く心配したんだぜ!」
ニコニコと笑いながらそう話しかけて来る童磨の顔は以前のものと変わりない様でいて……しかしその笑顔の奥には気色悪い程の執着がドロドロと凝っていた。
正直関わり合いになりたくも無いので、猗窩座は無視を決め込む事にする。
「ヒョっ! 『神様』とはまた、童磨殿は奇怪な事をおっしゃいますな。
あれは『化け物』でありましょうに。
あの『化け物』を芸術に仕立て上げてみたくはありますが、無惨様に差し出さねばなりませぬ故」
「いやいや、あれは『化け物』などでは無く『神様』だとも。
俺も、この世には神も仏も存在しないと思っていたのだが、あの『神様』に出逢って考えを改めた!
疑うなら玉壺殿も一度逢ってみると良い。きっとその力を惜しみ無く見せてくれる筈さ。
まあ、玉壺殿があの『神様』に勝てる見込みなど露程も無いし、況してや芸術にするのは不可能だとは思うが!
あの『神様』と戦うのは俺の役目であるからな!」
玉壺の言葉にそう返した童磨はにこやかに微笑む。
だが、そこにある執着の臭いが、「俺の獲物に手を出す事は赦さない」と、玉壺を脅していた。
己よりも遥かに格上の存在から漏れ出ている殺気にも似たそれに、玉壺は何も言えなくなる。
「怖ろしい怖ろしい……。何故斯様な悪霊の如き『化け物』を『神』などと宣うのか……童磨は狂っておる。
『神』であったとしても禍津神の類であろうに、ああ怖ろしい怖ろしい。
何故斯様な怖ろしき存在がこの世に現れたのか、怖ろしい怖ろしい……」
基本的に誰とも会話の成立しない半天狗のその言葉を一々相手にする者は居ない。
元々関わりたくない猗窩座は当然として、普段はあれ程までに馴れ馴れしく話しかけて来る童磨ですら代り映えのしない笑顔を浮かべながら半天狗を無視していた。
この場に居ないのは、黒死牟と妓夫太郎だ。
どちらかが討たれたのか、或いは両方が討たれたのか。
順当に考えれば討たれたのは妓夫太郎だと考えるのが自然であるが、しかしあの底知れぬ『化け物』を相手にするのであれば黒死牟程の実力があったとしても「もしや」は有り得る。
その時、琵琶を弾いて上弦の鬼を呼び寄せながら当人は黙していた鳴女が口を開いた。
「上弦の壱様は最初に御呼びしました。ずっとそこにいらっしゃいますよ」
そこ、と。そう言われて初めて猗窩座は僅かに離れた場所に黒死牟が座している事に気付いた。
気配が無いかの様に其処に居るのに、一度気が付くと何故それを見逃していたのかと思う程にその気配は他者を圧倒する。
そして、黒死牟は猗窩座たちの方向を向くでも無く、厳かに主の到着を告げた。
「無惨様が……御見えだ……」
その瞬間、意識するよりも先に、その場に居た全員が膝を突いて頭を垂れた。
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無惨は、この千年間一度も感じた事が無い程に、激怒していた。
何一つとして己の望みを叶えようとしない儘ならない世界に対し、そしてただ生きているだけなのに『化け物』どもを放ってまで己の命を奪おうとする世の理に対し。
憤激といっても差し支えない程に怒り狂い、そして《《役立たずども》》への怒りを募らせる。
千年程の昔、この様な坂東の地では無く平安京と呼ばれた都がこの国の中心であった時代。
かつてその都に住むとある貴族の血筋に生まれた無惨は、生まれたその瞬間から「死」が色濃く纏わり続けていた。病魔に蝕まれ続け身動きすら儘ならず、世に雑草の様に繁茂する人々が当たり前に享受しているものの殆どを一度も手に出来ず。有力貴族の者として当時におけるありとあらゆる医療を受けてはいたが、そのどれもが無惨の身体を癒す事は無かった。この時既に傲慢極まりない人格を形成し、そして他人と温かな関りなど一切持った事の無い無惨の他人への共感能力が芽生える様な事など無くその心には種すら撒かれる事無く心の土壌は己の身に苦行を強いるこの世への怨嗟によって既に取り返しなど付かない程に腐り果てていた。
自己愛と生存欲求以外は虫以下の心しか持っていなくても、その当時の無惨はまだ人間であった。
そんな無惨を決定的に「化け物」に変えたのは、ある一人の医者が施した治療であった。
治療の過程で一向に良くならない事に業を煮やした無惨がその医者を惨殺してしまったお陰でその効果も途中で終わってしまったが、気付けば無惨は人を遥かに超えた力と無尽にも等しい回復力を持った存在となっていた。
定期的に人を喰わねばならない事に関して言えばその程度を調達する事など容易い事なのでどうでも良いが、休息も眠る必要も無いのに陽光を浴びる事が出来ない所為で一日の半分以上も行動を拘束される事には我慢がならなかったし、陽光と言う致死の存在が常に己の傍らに存在する事を許容する事など出来なかった。
その為、人に己の血を与えると己が劣化した様な「人外」を作り出しそれを支配出来ると気付いてからは、陽光を克服出来る様な体質を得た「人外」……鬼を生み出してその性質を取り込む事で己も陽光を克服しようと画策して、増やしたくもないが鬼を増やしながら時を過ごしていた。
それと同時に、殺した医者が己に与えた薬の原材料に使ったらしい「青い彼岸花」とやらを探し、陽光の克服への手掛かりを求めた。
そんなある時無惨は、どうやら鬼を目の敵にして己を追っている存在が居るらしい事に気付いた。
後に鬼殺隊と名乗る事になるその異常者どもの集まりとの嫌な因縁は、もう数百年以上は続いている。
無惨には、己を必死に追い回す彼等の言葉の意味が全く以て分からなかった。
仇だの何だのと、馬鹿馬鹿しい話だ。何故己は生きているのに、その命を大事にしないのだろう。
誰が死んだところで、自分自身が生きていればそれで良いだろうに。
敵討ちと言う概念は、無惨の中には存在すらしていない。
自分以外に大切なものなど存在する筈も無い無惨には、他者がそうでは無いらしいという、世に生きる人々にとっての「当たり前」を根本の部分では一切理解出来なかった。
何時だって、「生きていたい」と言う一念で行動し続けている無惨にとって、己の命を擲ってまで何かをしようなどと考えたり、況してや敵う筈も無いのに鬼と戦って死ぬ虫ケラの行動原理を理解するなど、不可能だった。
所詮は人でしかない時点で脅威でも何でも無いが、流石に追い回される事は癪に障る。
その為、何度も壊滅させようとしてきたが、奴らは相当しぶといのか潰しても潰しても何処からともなく湧いてくる。蛆虫の様な連中だと無惨は心底感じていた。薄気味悪い。
大体人が死んだからと言って何だと言うのだ。
人なんて別に無惨が喰い殺したり或いは無惨が生み出した鬼に襲われるまでもなく、様々な理由で死んでいくものだ。それでも放っておけば雑草の様にまた増えていくものであると言うのに、それを高々一人だか数人死んだ程度でわあわあみっともなく叫んで折角拾った命を投げ出して。全く以て理解に苦しむ。
そう、天災に遭って死ぬのも、病を得て死ぬのも、人間同士の戦いで殺し合うのも、人間に殺されるのも、餓え苦しんで死ぬ事も、野の動物たちに襲われて死ぬ事も。そして鬼に殺される事も。その何が違うと言うのか。
絶対に敵わない相手だと言う意味では、無惨に遭遇して喰われるにしろ殺されるにしろ、それは天災に遭ったのと同義であると言っても良いだろうに。
一体誰が、地震に対して「絶対に許さない」などと叫ぶのだろう、嵐に対して「家族を返せ」などと喚くのだろう、噴火に対して「家族の仇」だと憤るのだろう、津波に対して「害獣め」と罵るのだろう。
要はそれと大差無い事であると言うのに。
人に近い姿をしているからなのか、人間と言う生き物はどうやら勘違いするらしい。馬鹿馬鹿しい話だ。
馬鹿の一つ覚えの様な台詞を延々と聞かされ続けて、無惨はもうすっかり辟易していた。
だが、そんなある日、無惨はこの世には在ってはならぬ存在に遭遇した。
それは、『呼吸』なる技術を鬼狩り共が使い始めて少し経った頃の事だった。
未知の技術であった『呼吸』を扱う剣士を鬼にしてみたが、確かに強い鬼にはなったがそれだけで。太陽を克服するには到底至る事は無かった。『呼吸』とやらの才と、太陽を克服出来るかどうかの才には全く関係が無かった様で、その時点で無惨の中から『呼吸』とやらへの関心はほぼ無くなった。
そして、『呼吸』使いの剣士を鬼にして程無くして。
偶然、夜道を何時もの様に歩いていたその時に。
無惨はこの世に生まれ落ちて初めて、『化け物』を見た。
その男は、最初に一目見た時は、無惨の目には全く強そうには見えなかった。
まるで静かに森の奥に佇む苔生した大樹の様に、気迫とでも言うべき何かが非常に薄かった。
ただ、鬼を殺す為の忌々しい刀を構えていた為、鬼狩りの一味だろうとは見当が付いた。
『呼吸』を使う鬼はもう居る。そして余程興味深い体質でも無い限りは鬼にする価値も無いと関心が薄かった。
だから何時もの様に蹴散らして殺そうと、無惨はただ腕を振るった。それだけで、どれ程身体を鍛えた鬼狩りであろうと殺せたからだ。だが、その『化け物』は違った。
致死の一撃を何の事も無い様に涼しい顔で避けた鬼狩りによって、その直後たった一息で無惨の体内に在った七つの心臓と五つの脳の全てが瞬時に破壊され斬り刻まれそして頸まで落とされた。
脆弱で向上心の無い劣化品に過ぎない鬼どもとは違い、無惨はこの時既に頸と言う鬼の弱点も克服していた。
そこは既に急所でも何でもない場所であったと言うのに、本来なら落とされる筈など無く斬られた瞬間には再生する筈なのに、落とされた頸は一向にくっ付く気配が無く。痛みと言う感覚は既に切っている筈なのに斬り裂かれたそこは焼け付く様な痛みを訴えた。
鬼となって初めて感じたその痛みに、そして目の前の鬼狩りは息一つ乱す事無くそれをあっさりとやってのけた事に、怒りと恐怖を感じた。
骨の髄にまで恐怖が刻まれる、無惨の細胞の一つ一つの記憶に鬼狩りの姿が恐怖と共に刻まれる。
花札の様な日輪の耳飾り、額に広がる炎の様な痣、赫く染まり上がった刀身。
その全てが、恐怖と共に無惨の魂の奥底にまで刻まれる。
目の前のこれはこの世の理の外に在る『化け物』だ、と。そう感じた無惨は、一瞬たりとも迷わずに、己の身を千八百程の肉片へと分割しそれを爆ぜさせた。
だが恐ろしい事に『化け物』は瞬時に千八百の肉片の内大きな物を中心に千五百以上も斬り落としたのだ。
三百弱の肉片はどうにか『化け物』の手から逃れる事が出来たが、合わせても人の頭よりも少し小さい程度の大きさにしかならなかった。だが、それだけでも時間さえかければ無惨は復活出来た。
「死にたくない」「生きたい」という、生物の原初の欲求をこの世の誰よりも抱えている無惨にとって、己の力を直接移した肉片が僅かなりとも残ってさえいれば、生き延びる事が出来たからだ。
握り拳にも満たない程の大きさの肉片しか残らなかったとしても、そこに主要な細胞が最低限含まれていれば復活出来る。あの理外の存在であった『化け物』ですら、無惨を殺し切る事は敵わなかった。
後に、鬼にした『呼吸』の剣士から、あれは「縁壱」と言う名の剣士であり、そして使っていた呼吸は「日の呼吸」だと教えられた。そして、あの赫く染まった刀は「赫刀」と言って鬼に対して覿面の効果があるらしく、「日の呼吸」を使う縁壱しか発現させた事は無いそうだ。
日と言うその言葉にすら……無惨は忌々しさを募らせた。必ずや根絶やしにせねばならぬと決意した。
しかしその為にも無惨は暫しの時を完全に地に潜る事に決めた。
幾ら理の外に在る『化け物』であっても、鬼の様な永遠の命を持たぬ以上は「寿命」と言う下らない鎖がその身を何時か絡め取る。百年もしない内に、あの『化け物』も死んで骨になるだろう。そうした後で、ゆっくりとその痕跡を根絶やしにすれば良い。寿命などと言う軛から解放された鬼だからこそ出来る技であった。
そして、待ち望んでいたその時は訪れた。
鬼にした『呼吸』の剣士と戦っていたその時に、あの『化け物』はその鬼の目の前で息絶えたらしい。
最早無惨を縛り付けるものは無かった。その鬼……黒死牟と共に徹底的にあの『化け物』の痕跡を消し去った。
「日の呼吸」を受け継いだ者や、それに近いものを受け継いだ者は、親戚縁者諸共含めて全て根絶やしにし、僅かにでもあの『化け物』を知る可能性のある者も全て殺した。
そうして、全てを消し去った筈だった。もう二度と、あの『化け物』の様に己を脅かす様な存在は現れないだろうと思った。
しかし、無惨は「生き延びる」と言う事に関しては何処までも貪欲で慎重だった。
有り得ない様な理の外の存在が突然現れたのだ。直ぐ様第二第三の『化け物』が生まれ己の命を狙ってくるだろうとまでは流石に考えなかったが、しかし百年数百年千年と時を経るなら分からない。
だからこそ、そう言った者達を己に先じて叩き潰し、或いは肉壁として逃走するまでの時間を稼ぐ為の駒が欲しいと思った。
万が一にも離反される可能性を考えると強い鬼を作り出す事は業腹ではあったが、それで安全が買えるなら無惨も目を瞑る事が出来た。
その為、陽光を克服する鬼を作る為の作業の傍らで、強い鬼を作る為の作業も始めた。
時代が流れ徳川なる将軍家が幕府を開いてから暫く経った頃に、無惨は強い鬼を十二体程選定し更に強化してやる事を思い付いた。
強くなる才も無い鬼や向上心も無い鬼を幾ら強くしようとしたとしても意味は無いし、ある程度の「器」が無ければ無惨がわざわざ血を与えて強化してやってもそれを受け止める事も出来ない。
ならば所詮は劣化品であっても多少の見込みがある鬼を選んで、それを強くする方がマシだと思ったのだ。
こうして、上弦と下弦に分けた十二鬼月と言う階級制度は始まった。
最初の内は多少の入れ替わりや籍の抹消なども有ったが、それでもここ百十数年程は上弦の入れ替わりが起きる事は無く安定していた。
無惨は安定が好きだ、不変が好きだ。
人間共の社会が外つ国と交流する中で目まぐるしく変化し新しい物や考えや技術などが流れ込んで来る様を楽しむのは好きだが、鬼としての無惨の在り方の理想は永久不滅であり永遠の不変である。
娯楽に変化は求めるが、己の在り方は不変。それが無惨の望みである。
そう言う意味では、今の上弦の鬼には多少及第点をやっても良かった。
しかし上弦の鬼とは違い、下弦の鬼どもはボロボロと『化け物』でもない鬼狩り如きにやられて行くので苛立ちを感じる事も多かった。それでも一気に処分しない程度には使い潰そうとしていたのだが、しかしその痕跡を完全に潰した筈のあの『化け物』と同じ耳飾りの鬼狩りが無惨の前に現れた時、何かが狂い始めた。
取るに足らない程の力しか無かった筈のその幼い鬼狩りが、比較的目をかけていた下弦の伍を討伐寸前まで追い詰めたのだ。最終的に頸を斬ったのは柱の剣士だった様だが。その時に耳飾りの鬼狩りが、あの『化け物』の剣技であった「日の呼吸」の様な動きを見せた事を無惨は見逃してはいなかった。
あの『化け物』のそれと比較すると全く精度も練度も拙いとしか言えないものであったが、この世から完全に消し去った筈のそれが多少劣化していても密かに受け継がれていたという事の方が恐ろしい事であった。
そしてその苛立ちも顕に、役に立たない下弦どもを全て処分した。柱にすら敵わない雑魚では、『化け物』相手の肉壁にすらならない。鬼狩りを滅ぼせと下知しても積極的に行動すらしない下弦どもに存在する意味など無い。
多少の余興程度に血を与えてやった下弦の壱は、まだ弱く未熟な剣士でしかない耳飾りの鬼狩りを殺す事も出来なかった。やはり、下弦は不要だったのだ。
しかし、夜明け前ではあったとは言え手負いの未熟な剣士位なら縊り殺せるだろうと送り込んだ上弦の鬼である猗窩座はその役目を果たせなかった。それが目的では無かったと言うのに柱の剣士との戦いに熱中し、柱に致命傷を負わせて陽の光によって撤退する事になった。しかもそれを、「柱は殺した」と報告してくる始末である。
その忠実さには多少目を掛けていたと言うのに、命じた事も果たせぬ役立たずなのかと叱責するより他に無い。
そもそも上弦の鬼なのだから柱だろうと殺せて当然であると言うのに。
そんな苛立ちを抱えながらも、己の身を脅かす程の脅威や『化け物』は存在していないと、そう無惨は安堵していた。
それが間違っていたと無惨が知ったのは、それから一月程度経った頃の事であった。
新たにこの世に現れた『化け物』は、あの「日の呼吸」を使う剣士を遥かに上回る、悍ましい程にこの世の理を冒涜する正真正銘の『化け物』だった。
上弦の鬼である童磨をまるで無力な赤子を甚振るかの様に討ち滅ぼそうとしたその姿は、『化け物』以外の何だと言うのだろう。特に、童磨を完全に消し飛ばす寸前にまで至った攻撃は、無惨にとっては陽光以上の脅威であった。
あれに呑み込まれた瞬間に、無惨は死ぬ。肉片に分かれて弾け散った所で、あの馬鹿馬鹿しい程に広範囲を消滅させた滅びの光の外にはどうやっても逃げられない。
陽光なら、瞬時に質量を限界まで膨らませて肉の鎧を作り出した直後に地中に逃れるなどすれば甚大な影響は受けるだろうがどうにか命を繋ぐ事は出来るであろう。
だが、あの光に呑み込まれれば、どんな抵抗も無意味だ。それを童磨の目と記憶を通して理解したからこそ、無惨はかつて戦国の世で出逢った『化け物』に身を斬り刻まれたその時以上の恐怖を、「死」そのものが己の首を握り潰し喰らい尽くそうとしている恐怖に襲われた。
しかも恐らく。あの『化け物』は無惨の存在に気付いたのだ!
童磨の視界に最後に映った『化け物』の目に宿った全てを燃やし尽くす程の強烈な殺意は、間違いなく無惨に向けられたものであった。
あれは必ず己を殺しに来る。
しかも最悪な事に、新たに現れた『化け物』はかつての『化け物』と同様に鬼狩りと行動を共にしていたのだ。
その格好からして鬼狩りそのものでは無さそうだが、しかしあの異常者どもの集団の中に、無惨を殺す事を躊躇わない正真正銘の『化け物』が紛れ込んでいると言うのは余りにも恐ろしい状況だった。
鬼狩りどもは頭の狂った連中だから、あの『化け物』が人間程度では何万と束になろうと絶対に勝てない程の制御不能のお伽噺の中の怪物の如き『化け物』であったとしても、鬼を殺す役に立つのであればその力を使う事に躊躇いなどないだろう。一切の躾がなされていない理性の無い手負いの猛獣の檻の中に裸で居るよりも危険であっても、そもそも命を捨てる事に何の躊躇いも無い連中がそれに頓着する筈も無い。
あの異常者どもは、喜んであの『化け物』を無惨に嗾けてくるに違いない。
それは恐ろしい悪夢の様ですらあった。
かつての様に、一切の息を潜めて地に潜る様に無限城に閉じ籠る事も当然検討した。
しかし、あそこまでこの世の理を外れきった『化け物』に対して、かつてと同じ手段を取る事が通用するのかと言う問題があった。そもそも、「日の呼吸」の『化け物』にしても、痣の者としての寿命を超越したばかりか死の直前の八十を過ぎた老爺になってすら全盛期と全く変わらない剣の冴えであったと言う。ギリギリ寿命と言う概念は残っていたらしいが、あの剣士ですらそんな状態だったのだ。
あの『化け物』が人としての寿命やらを全て超越している可能性すら考える必要があり、安易な籠城を選ぶ事は出来なかった。
考えた末に出した無惨が出した結論は明確だった。
あの『化け物』が己の敵として存在しているから脅威なのだ。
無惨には、それを与えた相手を鬼にして支配する事の出来る己の血と言う最強の武器がある。
あの『化け物』を無力化して捕らえる事さえ出来れば、そしてあの『化け物』を鬼にして支配すれば、あの悍ましい力も全て無惨の手の中に落ちてくる。
そして当然見た事も無い力を持つ以上、その体質もそこらの雑草とは全く違うものだろう。
それこそ、陽光の克服を成し遂げる為の体質であるのかもしれないのだ。
あの『化け物』を鬼にする事を狙うという無惨の行動指針はこの時に固まった。
とは言え当然、自分があの『化け物』と対峙するなどと言う愚を犯すつもりは無かった。
だが幸い己には便利な手駒が六体も居るのだ。それを活用しない手は無かった。
己の血を必要以上に多く分け与える事は慎重な無惨にとっては避けるべき事であったが、それすら構うものかとばかりに上弦の鬼たちに己の血をこれでもかとふんだんに分けてやった。
今までの強さとは比べ物にならない程に強化された上弦たちは、たった一体で鬼殺隊を一夜で壊滅させられる程にまで至っただろう。
あの『化け物』を相手にしても、あの滅びの光にさえ気を付けていれば捕獲する事だって不可能では無いだろう、と。そう確信して。
そして其々にあの『化け物』を捕獲する様に命じて、無惨は『化け物』に出会す事の無い様にと潜伏先に引き籠った。その、筈であったのに。
一月も経たぬ内に、上弦が欠けた。
討たれたのは、妓夫太郎だった。
もし上弦が討たれる事があるのだとすれば、それは明らかに堕姫が足手纏いになる妓夫太郎だろうとは思ってはいたが。だが、許容出来る上限に近い程にふんだんに血を与えた事でその力は最早かつてとは別次元と言って良い程にまで高まっていたというのに。それでも、妓夫太郎は討たれた。
無惨が気付いた時には、もう妓夫太郎の身は消滅していて。
血の欠片程度のほんの僅か残されていた細胞から読み取れたのは。
妓夫太郎たちが戦った相手が、あの『化け物』と柱らしき男と、あの耳飾りの鬼狩りを含めた未熟な剣士三人だった事と。そして恐らく妓夫太郎たちはその場に居た誰も殺せなかったという余りにも由々しき事態だけであった。
あれ程までに強化しても、理を超越した『化け物』ならまだしも、柱や未熟な剣士程度も殺せないとは……!
無惨は怒りの余りに視界が真っ黒に染まったかと思った。
そして、その怒りのままに残った上弦の鬼たちを召集した。
「妓夫太郎が死んだ。上弦の月が欠けた。
あの『化け物』と対峙して、何も殺せないまま死んだ様だ」
「誠に御座いますか! それは申し訳ありませぬ!
妓夫太郎は俺が紹介したもの故、如何様にも御詫び致しましょう。
それで、その者はどの様にして妓夫太郎を殺したのでしょう!
もしその記憶があるのなら是非とも見せて頂きたく思います」
そう告げるなり、まるで詫びを入れるかの様に童磨は宣うが。その目には爛々とした狂気と執着が宿っていた。
何に対しても執着も感情も無く表層を取り繕うしかしない童磨の事を欠片も理解出来なかったが故に無惨にとって童磨はあまり関心を向ける対象では無かったが。
しかしあの『化け物』に叩きのめされてからというもの、童磨は完全に壊れた様だ。
あの『化け物』を『神様』などと呼び、異常な程の執着を向ける。
今の発言だって、童磨には妓夫太郎の事など微塵も関心が無いのだ。ただただあの『化け物』がどの様な力を見せたのかだけを知りたがっている、そしてそれを己の記憶にしたいと欲しているのだ。
あの『化け物』が『神様』などと、正気では無い。この世には神も仏も存在しないと言うのに。それに万が一にもあの悍ましい『化け物』が『神』であるのだとしても、それは『邪神』だとか『禍津神』の類でしかないだろう。
少なくとも、憧憬の様な眼差しを向けて執着する様な相手では無い。
以前よりも一層理解し難く気持ちの悪い存在になった童磨に対し、無惨はすっかり辟易していた。
「妓夫太郎から読み取れた記憶は無い。
あの『化け物』が其処に居た事しか分からん。
だが、妓夫太郎が《《間違えた》》事だけは確かだ」
「……間違え……と、……言いますと……」
「あの『化け物』と遭遇したのであれば、直ぐ様私に報告するべきだった。
それを怠った上に、その場の何も殺せず、ろくな情報も残せず。全く何の為に強くしてやったと思っている。
堕姫が足手纏いだったのだとしても、それは言い訳にはならない。
下らん。人間の部分など残しているから負けるのだ、判断を間違えるのだ。
だがもうそれもいい。私はお前たちには期待しない。
何故命じた事程度もこなせない。
何故、産屋敷の一族を葬る事すら出来ず、青い彼岸花も見付けられず、耳飾りの鬼狩りを始末する事も出来ず、そして『化け物』の情報すら残せない。
私は──貴様らの存在理由が分からなくなってきた」
無惨の身から溢れ出た殺気に、全員がその身を竦ませる。
半天狗は悲鳴を上げて許しを乞い、猗窩座はただ静かにその頭を垂れ、黒死牟はゆっくりと非を認め、童磨は口先だけの謝罪をする。そもそも今の童磨は、あの『化け物』の事にしか関心が無いのだが。
そして玉壺は。
「無惨様! 私は違います!! 貴方様の望みに一歩近付く為の情報を私は掴みました!!」
「確定してもいない情報を嬉々として伝える事が許されるとでも?」
瞬時に玉壺の頸を捥ぎ取り、その頭部を掴む。
無惨は不快と怒りの絶頂に在った。この程度で済ませてやったのは僅かな温情である。
「私は変化が嫌いだ。この世の多くの変化は劣化を齎す事と同義だ。
望むのは不変、完璧な状態で永久に変わらず朽ちる事も無いものだ。
百十三年振りに上弦が殺されて、私は不快の絶頂だ。
口を開くのであれば、よくよく考える事だな」
そして、無惨は手の中の玉壺の頭部を捨てる。
それは無限城の中へと落ちて行った。
「これからはもっと死に物狂いで事を成す事だ。
私は上弦だからという理由でお前たちを甘やかし過ぎた様だ。
玉壺、情報が確定したのなら、半天狗と共に其処に向かえ。
……もし『化け物』に関係する事であるのなら、報告を怠れば死を覚悟しろ」
上弦の鬼どもにそう命じ、抑えきれない苛立ちと共に無惨は無限城から去った。
◆◆◆◆◆
琵琶を掻き鳴らす音と共に、上弦の参の位階に座す鬼である猗窩座は、青い彼岸花を捜索しながら移動していた山道から一瞬で異空間に移動していた。
上下左右の繋がりも何もかもが歪んだ光射さぬ常闇の領域、無惨様のその居城である無限城だ。
何か下命する事があるにしても、多くは血を介した声で済まされる上に、呼び出しを受けたとしても招かれる場所は此処では無い。……普段ならば。
前回の召集からまだ一月も経っていないと言うのに、一体何があったと言うのか。
とは言え、その『何が』と言うものに心当たりが無い訳では無い。と言うよりも十中八九、あの『化け物』の事だろうと、猗窩座は考えた。
上弦の弐である童磨が未知なる『化け物』に消滅寸前まで追い込まれた、と。
上弦の鬼全員を無限城に呼び出した無惨様は、不機嫌も顕に消滅寸前の所を回収した童磨の頭部を掴みながらそう吐き捨てた。
ほぼ目元より上しか身体が残っていない童磨は、無惨様の怒りに触れて折檻されたからそうなった訳では無いらしい。
それに本来ならほんの数十秒で全身を再生させられる筈であると言うのに、その再生は遅々として進んでおらずよくよく集中して観察すれば端が再生しつつある事に気付ける程度にまでその再生能力は落ち込んでいた。
この調子なら、完全に再生するのに何ヶ月も掛かるだろう。それ程までに、その『化け物』は童磨を消耗させたのだろうか、それとも鬼の再生能力を妨害する様な術を持っていたのだろうか。
今の童磨なら入れ替わりの血戦を挑めば勝てる可能性はある気がするが……しかし、どうにも以前とは何かが明らかに変わった様な気がする。外見的な問題では無く、その内面がもっと得体の知れない何かに変貌したかの様な。
それが不気味であるし、何よりもこんな状態になってもわざわざ回収した童磨との血戦など無惨様が許可しないだろうから、僅かに考えるだけに留めておいた。
しかし……。その性根は全く以て猗窩座とは合わないものの、仮にも上弦の弐である童磨をここまで容赦無く叩き潰す力を持つ存在など、果たしてこの世に居るのだろうか?
『化け物』と、そう無惨様はその存在を罵るが。鬼となってから百年以上、猗窩座はその様な存在の痕跡すら感じた事が無い。俄かには信じ難い事であった。
妓夫太郎も玉壺も半天狗も、半信半疑とでも言いた気な顔をする。無惨様の言葉を疑うつもりは無いが、そんな存在が居る訳無いだろう、と。
ただ、黒死牟だけはその言葉に何か心当たりがあったのか、考え込む様な気配を漂わせていた。
「無惨様……それは……日の呼吸の使い手が……現れた……という事でしょうか……」
「あの『化け物』は『あれ』とは無関係だ。
だが、場合によれば『あれ』を遥かに凌駕する『化け物』である可能性も高い」
「俄かには……信じ難い……」
上弦の中でも最も古くから無惨様に仕えているからこそ、何か共有出来る経験があるのだろうか。
日の呼吸とやらが何であるのかは分からないが、その言葉を耳にした瞬間にこの身に流れる無惨様の細胞が騒めいたのを感じるに、恐らくそれはとても危険な何かであるのだろうと猗窩座は理解する。
そして、童磨の記憶から得た『化け物』の情報だと言って、無惨様はその血を介して童磨と『化け物』との戦いの一部始終をその場に集った上弦の鬼全員に見せた。
成る程それは、まさしく『化け物』だった。それ以上の表現など、この世に無い程に。
童磨の攻撃の一切を受け付けず、劫火や絶対の冷気を手足の様に操り、呼吸を体得し武を極めている様子も無いのに暴虐とも言える力で捩じ伏せ圧倒する。そのどれもが尋常なものでは無い。
そしてその極め付けは、童磨の肉体の大半を一瞬で消し飛ばした攻撃だ。
一体どの様な原理を以て成された攻撃なのか一切不明だが、この攻撃に巻き込まれれば上弦だろうと何だろうと欠片も残らず消し飛ばされるだろう。
日輪刀で頸を斬られる事や日光に晒される事以外に、鬼を確実に死に至らしめる方法であった。
こんな馬鹿げた力を持った存在がこの世に現れるなど、一体誰が予想出来ただろう。
明らかにこの世の理を嘲笑い踏み躙って破壊するかの様な所業だった。成る程、『化け物』に相応しい存在だ。
姿形だけは普通の人間にしか見えないからこそ、その異質さがより際立つ。
『人間』のふりをした『化け物』がこの世に現れ、そしてその『化け物』が躊躇なく鬼を狩っている事は紛れも無く前代未聞の危機であった。
だが何故そうなのか猗窩座自身にすら分からない事ではあったが。
無惨様に見せられた童磨と『化け物』との戦いに於いて、何よりも猗窩座の意識に引っ掛かったのは。
鬼すら一蹴する程の圧倒的な『化け物』の異能では無くて。それを発揮して童磨を追い詰めるよりも前。童磨に嬲られ瀕死の状態になっていた女の剣士たちに対して『化け物』が使った力であった。
童磨の血鬼術によって肺を破壊され苦しそうな音を立てながら必死に呼吸する女の姿に、胸の奥が苛立つかの様に騒めく。そして、最早死ぬだけであった筈の女を、『化け物』が黄泉路を下ろうとするその手を掴んで引き戻しその身体を完全に癒したその瞬間には、未だ嘗て感じた事も無い程の激しい痛みが胸の奥を掻き毟った。
── ああ、そんな力が俺に在ったのなら! あの場にこの『化け物』が居たのなら!!
── 俺は、守れたのに! ■■を助けられた、■■さんも■■も助けられた!!
── 俺は、俺は……っ!!
童磨に敗れた女は弱者だった、そして『化け物』が揮ったその力は弱者を救う為のものであった。
弱者に情けをかける必要も、弱者を救う事に価値を感じる事など無い筈なのに。
『化け物』の持つこの世の理の外にある力の中でも、猗窩座にとっては最も意味が無く価値も無く気を払う必要も無いものである筈なのに。
どうしてその力を、傷付き死に掛けた者を、病に倒れ苦しむ者を、救う為の力を、意識してしまうのか。
そしてそれがどうしようもなく胸の奥を搔き乱すのか。
猗窩座には分からなかった。その理由が分からないという事実が虚しい程に胸の奥を痛ませる。
しかしそんな猗窩座の懊悩は、無惨様の言葉によって断ち切られた。
「お前たちに命じる。この『化け物』を捕らえて私の前に差し出せ。
何百年掛けても未だ産屋敷一族を滅ぼし鬼殺隊を殲滅する事も、青い彼岸花を見付け出す事もろくに果たせぬお前たちに期待する事自体が間違っているだろうが、その程度の役目は果たしてみせろ。
不愉快極まりないが、その役目の為に我が血を与えてやる」
そう言うなり、無惨様がその腕を伸ばして身体を貫く様にして、その場に居た上弦の鬼全員に血を注ぎ込む。
それは、今まで下賜されてきた血を遥かに超える程の量であった。
上弦の鬼と言う「器」でなければ器自体を見るも無残に破壊するだろう程の量の血に、身体の奥底から力が湧き上がるのを感じる。直前まで胸の奥を食い破る程に感じていた掻き毟る様な痛みはもう感じない。
今ならば、柱だろうと何だろうと、何人群れていても全て殺す事が出来るだろう。
「……有難き……幸せ……」
黒死牟の言葉を無視する様にして、無惨様は不愉快そうにその目を歪めて吐き捨てた。
「あの『化け物』を捕らえ私の前に差し出した者には更なる血を与えてやる。
こうしてわざわざ与えてやったのだ。精々私の役に立つ事だな」
そうして、前回の召集は解散となった。
……今回の召集の理由は一体何であると言うのか。
まさか、上弦の鬼が欠けたのだろうか。
『化け物』を狩る為にふんだんに無惨様の血を与えられた上弦の鬼が今更柱などにやられるとは思えないので、『化け物』に返り討ちにされたのだろうか。
欠けたとしてそれは誰だ?
鬱陶しく煽って来る玉壺も、ひたすら怯えた様に「怖ろしい」とだけ口にしている半天狗も此処には居る。
不愉快極まりない童磨がまたしてもやられて死んだと言うのなら喜ばしい事だが……しかしまだ肩辺りまでしか身体の再生が出来ていない童磨もこの場には居た。流石に二度目の返り討ちに遭ったという様子では無さそうだ。
「おっと猗窩座殿も無事だったか! 良かった良かった!
あの『神様』は容赦なんか絶対にしてくれないだろうからなぁ!
俺は皆を凄く心配したんだぜ!」
ニコニコと笑いながらそう話しかけて来る童磨の顔は以前のものと変わりない様でいて……しかしその笑顔の奥には気色悪い程の執着がドロドロと凝っていた。
正直関わり合いになりたくも無いので、猗窩座は無視を決め込む事にする。
「ヒョっ! 『神様』とはまた、童磨殿は奇怪な事をおっしゃいますな。
あれは『化け物』でありましょうに。
あの『化け物』を芸術に仕立て上げてみたくはありますが、無惨様に差し出さねばなりませぬ故」
「いやいや、あれは『化け物』などでは無く『神様』だとも。
俺も、この世には神も仏も存在しないと思っていたのだが、あの『神様』に出逢って考えを改めた!
疑うなら玉壺殿も一度逢ってみると良い。きっとその力を惜しみ無く見せてくれる筈さ。
まあ、玉壺殿があの『神様』に勝てる見込みなど露程も無いし、況してや芸術にするのは不可能だとは思うが!
あの『神様』と戦うのは俺の役目であるからな!」
玉壺の言葉にそう返した童磨はにこやかに微笑む。
だが、そこにある執着の臭いが、「俺の獲物に手を出す事は赦さない」と、玉壺を脅していた。
己よりも遥かに格上の存在から漏れ出ている殺気にも似たそれに、玉壺は何も言えなくなる。
「怖ろしい怖ろしい……。何故斯様な悪霊の如き『化け物』を『神』などと宣うのか……童磨は狂っておる。
『神』であったとしても禍津神の類であろうに、ああ怖ろしい怖ろしい。
何故斯様な怖ろしき存在がこの世に現れたのか、怖ろしい怖ろしい……」
基本的に誰とも会話の成立しない半天狗のその言葉を一々相手にする者は居ない。
元々関わりたくない猗窩座は当然として、普段はあれ程までに馴れ馴れしく話しかけて来る童磨ですら代り映えのしない笑顔を浮かべながら半天狗を無視していた。
この場に居ないのは、黒死牟と妓夫太郎だ。
どちらかが討たれたのか、或いは両方が討たれたのか。
順当に考えれば討たれたのは妓夫太郎だと考えるのが自然であるが、しかしあの底知れぬ『化け物』を相手にするのであれば黒死牟程の実力があったとしても「もしや」は有り得る。
その時、琵琶を弾いて上弦の鬼を呼び寄せながら当人は黙していた鳴女が口を開いた。
「上弦の壱様は最初に御呼びしました。ずっとそこにいらっしゃいますよ」
そこ、と。そう言われて初めて猗窩座は僅かに離れた場所に黒死牟が座している事に気付いた。
気配が無いかの様に其処に居るのに、一度気が付くと何故それを見逃していたのかと思う程にその気配は他者を圧倒する。
そして、黒死牟は猗窩座たちの方向を向くでも無く、厳かに主の到着を告げた。
「無惨様が……御見えだ……」
その瞬間、意識するよりも先に、その場に居た全員が膝を突いて頭を垂れた。
◆◆◆◆◆
無惨は、この千年間一度も感じた事が無い程に、激怒していた。
何一つとして己の望みを叶えようとしない儘ならない世界に対し、そしてただ生きているだけなのに『化け物』どもを放ってまで己の命を奪おうとする世の理に対し。
憤激といっても差し支えない程に怒り狂い、そして《《役立たずども》》への怒りを募らせる。
千年程の昔、この様な坂東の地では無く平安京と呼ばれた都がこの国の中心であった時代。
かつてその都に住むとある貴族の血筋に生まれた無惨は、生まれたその瞬間から「死」が色濃く纏わり続けていた。病魔に蝕まれ続け身動きすら儘ならず、世に雑草の様に繁茂する人々が当たり前に享受しているものの殆どを一度も手に出来ず。有力貴族の者として当時におけるありとあらゆる医療を受けてはいたが、そのどれもが無惨の身体を癒す事は無かった。この時既に傲慢極まりない人格を形成し、そして他人と温かな関りなど一切持った事の無い無惨の他人への共感能力が芽生える様な事など無くその心には種すら撒かれる事無く心の土壌は己の身に苦行を強いるこの世への怨嗟によって既に取り返しなど付かない程に腐り果てていた。
自己愛と生存欲求以外は虫以下の心しか持っていなくても、その当時の無惨はまだ人間であった。
そんな無惨を決定的に「化け物」に変えたのは、ある一人の医者が施した治療であった。
治療の過程で一向に良くならない事に業を煮やした無惨がその医者を惨殺してしまったお陰でその効果も途中で終わってしまったが、気付けば無惨は人を遥かに超えた力と無尽にも等しい回復力を持った存在となっていた。
定期的に人を喰わねばならない事に関して言えばその程度を調達する事など容易い事なのでどうでも良いが、休息も眠る必要も無いのに陽光を浴びる事が出来ない所為で一日の半分以上も行動を拘束される事には我慢がならなかったし、陽光と言う致死の存在が常に己の傍らに存在する事を許容する事など出来なかった。
その為、人に己の血を与えると己が劣化した様な「人外」を作り出しそれを支配出来ると気付いてからは、陽光を克服出来る様な体質を得た「人外」……鬼を生み出してその性質を取り込む事で己も陽光を克服しようと画策して、増やしたくもないが鬼を増やしながら時を過ごしていた。
それと同時に、殺した医者が己に与えた薬の原材料に使ったらしい「青い彼岸花」とやらを探し、陽光の克服への手掛かりを求めた。
そんなある時無惨は、どうやら鬼を目の敵にして己を追っている存在が居るらしい事に気付いた。
後に鬼殺隊と名乗る事になるその異常者どもの集まりとの嫌な因縁は、もう数百年以上は続いている。
無惨には、己を必死に追い回す彼等の言葉の意味が全く以て分からなかった。
仇だの何だのと、馬鹿馬鹿しい話だ。何故己は生きているのに、その命を大事にしないのだろう。
誰が死んだところで、自分自身が生きていればそれで良いだろうに。
敵討ちと言う概念は、無惨の中には存在すらしていない。
自分以外に大切なものなど存在する筈も無い無惨には、他者がそうでは無いらしいという、世に生きる人々にとっての「当たり前」を根本の部分では一切理解出来なかった。
何時だって、「生きていたい」と言う一念で行動し続けている無惨にとって、己の命を擲ってまで何かをしようなどと考えたり、況してや敵う筈も無いのに鬼と戦って死ぬ虫ケラの行動原理を理解するなど、不可能だった。
所詮は人でしかない時点で脅威でも何でも無いが、流石に追い回される事は癪に障る。
その為、何度も壊滅させようとしてきたが、奴らは相当しぶといのか潰しても潰しても何処からともなく湧いてくる。蛆虫の様な連中だと無惨は心底感じていた。薄気味悪い。
大体人が死んだからと言って何だと言うのだ。
人なんて別に無惨が喰い殺したり或いは無惨が生み出した鬼に襲われるまでもなく、様々な理由で死んでいくものだ。それでも放っておけば雑草の様にまた増えていくものであると言うのに、それを高々一人だか数人死んだ程度でわあわあみっともなく叫んで折角拾った命を投げ出して。全く以て理解に苦しむ。
そう、天災に遭って死ぬのも、病を得て死ぬのも、人間同士の戦いで殺し合うのも、人間に殺されるのも、餓え苦しんで死ぬ事も、野の動物たちに襲われて死ぬ事も。そして鬼に殺される事も。その何が違うと言うのか。
絶対に敵わない相手だと言う意味では、無惨に遭遇して喰われるにしろ殺されるにしろ、それは天災に遭ったのと同義であると言っても良いだろうに。
一体誰が、地震に対して「絶対に許さない」などと叫ぶのだろう、嵐に対して「家族を返せ」などと喚くのだろう、噴火に対して「家族の仇」だと憤るのだろう、津波に対して「害獣め」と罵るのだろう。
要はそれと大差無い事であると言うのに。
人に近い姿をしているからなのか、人間と言う生き物はどうやら勘違いするらしい。馬鹿馬鹿しい話だ。
馬鹿の一つ覚えの様な台詞を延々と聞かされ続けて、無惨はもうすっかり辟易していた。
だが、そんなある日、無惨はこの世には在ってはならぬ存在に遭遇した。
それは、『呼吸』なる技術を鬼狩り共が使い始めて少し経った頃の事だった。
未知の技術であった『呼吸』を扱う剣士を鬼にしてみたが、確かに強い鬼にはなったがそれだけで。太陽を克服するには到底至る事は無かった。『呼吸』とやらの才と、太陽を克服出来るかどうかの才には全く関係が無かった様で、その時点で無惨の中から『呼吸』とやらへの関心はほぼ無くなった。
そして、『呼吸』使いの剣士を鬼にして程無くして。
偶然、夜道を何時もの様に歩いていたその時に。
無惨はこの世に生まれ落ちて初めて、『化け物』を見た。
その男は、最初に一目見た時は、無惨の目には全く強そうには見えなかった。
まるで静かに森の奥に佇む苔生した大樹の様に、気迫とでも言うべき何かが非常に薄かった。
ただ、鬼を殺す為の忌々しい刀を構えていた為、鬼狩りの一味だろうとは見当が付いた。
『呼吸』を使う鬼はもう居る。そして余程興味深い体質でも無い限りは鬼にする価値も無いと関心が薄かった。
だから何時もの様に蹴散らして殺そうと、無惨はただ腕を振るった。それだけで、どれ程身体を鍛えた鬼狩りであろうと殺せたからだ。だが、その『化け物』は違った。
致死の一撃を何の事も無い様に涼しい顔で避けた鬼狩りによって、その直後たった一息で無惨の体内に在った七つの心臓と五つの脳の全てが瞬時に破壊され斬り刻まれそして頸まで落とされた。
脆弱で向上心の無い劣化品に過ぎない鬼どもとは違い、無惨はこの時既に頸と言う鬼の弱点も克服していた。
そこは既に急所でも何でもない場所であったと言うのに、本来なら落とされる筈など無く斬られた瞬間には再生する筈なのに、落とされた頸は一向にくっ付く気配が無く。痛みと言う感覚は既に切っている筈なのに斬り裂かれたそこは焼け付く様な痛みを訴えた。
鬼となって初めて感じたその痛みに、そして目の前の鬼狩りは息一つ乱す事無くそれをあっさりとやってのけた事に、怒りと恐怖を感じた。
骨の髄にまで恐怖が刻まれる、無惨の細胞の一つ一つの記憶に鬼狩りの姿が恐怖と共に刻まれる。
花札の様な日輪の耳飾り、額に広がる炎の様な痣、赫く染まり上がった刀身。
その全てが、恐怖と共に無惨の魂の奥底にまで刻まれる。
目の前のこれはこの世の理の外に在る『化け物』だ、と。そう感じた無惨は、一瞬たりとも迷わずに、己の身を千八百程の肉片へと分割しそれを爆ぜさせた。
だが恐ろしい事に『化け物』は瞬時に千八百の肉片の内大きな物を中心に千五百以上も斬り落としたのだ。
三百弱の肉片はどうにか『化け物』の手から逃れる事が出来たが、合わせても人の頭よりも少し小さい程度の大きさにしかならなかった。だが、それだけでも時間さえかければ無惨は復活出来た。
「死にたくない」「生きたい」という、生物の原初の欲求をこの世の誰よりも抱えている無惨にとって、己の力を直接移した肉片が僅かなりとも残ってさえいれば、生き延びる事が出来たからだ。
握り拳にも満たない程の大きさの肉片しか残らなかったとしても、そこに主要な細胞が最低限含まれていれば復活出来る。あの理外の存在であった『化け物』ですら、無惨を殺し切る事は敵わなかった。
後に、鬼にした『呼吸』の剣士から、あれは「縁壱」と言う名の剣士であり、そして使っていた呼吸は「日の呼吸」だと教えられた。そして、あの赫く染まった刀は「赫刀」と言って鬼に対して覿面の効果があるらしく、「日の呼吸」を使う縁壱しか発現させた事は無いそうだ。
日と言うその言葉にすら……無惨は忌々しさを募らせた。必ずや根絶やしにせねばならぬと決意した。
しかしその為にも無惨は暫しの時を完全に地に潜る事に決めた。
幾ら理の外に在る『化け物』であっても、鬼の様な永遠の命を持たぬ以上は「寿命」と言う下らない鎖がその身を何時か絡め取る。百年もしない内に、あの『化け物』も死んで骨になるだろう。そうした後で、ゆっくりとその痕跡を根絶やしにすれば良い。寿命などと言う軛から解放された鬼だからこそ出来る技であった。
そして、待ち望んでいたその時は訪れた。
鬼にした『呼吸』の剣士と戦っていたその時に、あの『化け物』はその鬼の目の前で息絶えたらしい。
最早無惨を縛り付けるものは無かった。その鬼……黒死牟と共に徹底的にあの『化け物』の痕跡を消し去った。
「日の呼吸」を受け継いだ者や、それに近いものを受け継いだ者は、親戚縁者諸共含めて全て根絶やしにし、僅かにでもあの『化け物』を知る可能性のある者も全て殺した。
そうして、全てを消し去った筈だった。もう二度と、あの『化け物』の様に己を脅かす様な存在は現れないだろうと思った。
しかし、無惨は「生き延びる」と言う事に関しては何処までも貪欲で慎重だった。
有り得ない様な理の外の存在が突然現れたのだ。直ぐ様第二第三の『化け物』が生まれ己の命を狙ってくるだろうとまでは流石に考えなかったが、しかし百年数百年千年と時を経るなら分からない。
だからこそ、そう言った者達を己に先じて叩き潰し、或いは肉壁として逃走するまでの時間を稼ぐ為の駒が欲しいと思った。
万が一にも離反される可能性を考えると強い鬼を作り出す事は業腹ではあったが、それで安全が買えるなら無惨も目を瞑る事が出来た。
その為、陽光を克服する鬼を作る為の作業の傍らで、強い鬼を作る為の作業も始めた。
時代が流れ徳川なる将軍家が幕府を開いてから暫く経った頃に、無惨は強い鬼を十二体程選定し更に強化してやる事を思い付いた。
強くなる才も無い鬼や向上心も無い鬼を幾ら強くしようとしたとしても意味は無いし、ある程度の「器」が無ければ無惨がわざわざ血を与えて強化してやってもそれを受け止める事も出来ない。
ならば所詮は劣化品であっても多少の見込みがある鬼を選んで、それを強くする方がマシだと思ったのだ。
こうして、上弦と下弦に分けた十二鬼月と言う階級制度は始まった。
最初の内は多少の入れ替わりや籍の抹消なども有ったが、それでもここ百十数年程は上弦の入れ替わりが起きる事は無く安定していた。
無惨は安定が好きだ、不変が好きだ。
人間共の社会が外つ国と交流する中で目まぐるしく変化し新しい物や考えや技術などが流れ込んで来る様を楽しむのは好きだが、鬼としての無惨の在り方の理想は永久不滅であり永遠の不変である。
娯楽に変化は求めるが、己の在り方は不変。それが無惨の望みである。
そう言う意味では、今の上弦の鬼には多少及第点をやっても良かった。
しかし上弦の鬼とは違い、下弦の鬼どもはボロボロと『化け物』でもない鬼狩り如きにやられて行くので苛立ちを感じる事も多かった。それでも一気に処分しない程度には使い潰そうとしていたのだが、しかしその痕跡を完全に潰した筈のあの『化け物』と同じ耳飾りの鬼狩りが無惨の前に現れた時、何かが狂い始めた。
取るに足らない程の力しか無かった筈のその幼い鬼狩りが、比較的目をかけていた下弦の伍を討伐寸前まで追い詰めたのだ。最終的に頸を斬ったのは柱の剣士だった様だが。その時に耳飾りの鬼狩りが、あの『化け物』の剣技であった「日の呼吸」の様な動きを見せた事を無惨は見逃してはいなかった。
あの『化け物』のそれと比較すると全く精度も練度も拙いとしか言えないものであったが、この世から完全に消し去った筈のそれが多少劣化していても密かに受け継がれていたという事の方が恐ろしい事であった。
そしてその苛立ちも顕に、役に立たない下弦どもを全て処分した。柱にすら敵わない雑魚では、『化け物』相手の肉壁にすらならない。鬼狩りを滅ぼせと下知しても積極的に行動すらしない下弦どもに存在する意味など無い。
多少の余興程度に血を与えてやった下弦の壱は、まだ弱く未熟な剣士でしかない耳飾りの鬼狩りを殺す事も出来なかった。やはり、下弦は不要だったのだ。
しかし、夜明け前ではあったとは言え手負いの未熟な剣士位なら縊り殺せるだろうと送り込んだ上弦の鬼である猗窩座はその役目を果たせなかった。それが目的では無かったと言うのに柱の剣士との戦いに熱中し、柱に致命傷を負わせて陽の光によって撤退する事になった。しかもそれを、「柱は殺した」と報告してくる始末である。
その忠実さには多少目を掛けていたと言うのに、命じた事も果たせぬ役立たずなのかと叱責するより他に無い。
そもそも上弦の鬼なのだから柱だろうと殺せて当然であると言うのに。
そんな苛立ちを抱えながらも、己の身を脅かす程の脅威や『化け物』は存在していないと、そう無惨は安堵していた。
それが間違っていたと無惨が知ったのは、それから一月程度経った頃の事であった。
新たにこの世に現れた『化け物』は、あの「日の呼吸」を使う剣士を遥かに上回る、悍ましい程にこの世の理を冒涜する正真正銘の『化け物』だった。
上弦の鬼である童磨をまるで無力な赤子を甚振るかの様に討ち滅ぼそうとしたその姿は、『化け物』以外の何だと言うのだろう。特に、童磨を完全に消し飛ばす寸前にまで至った攻撃は、無惨にとっては陽光以上の脅威であった。
あれに呑み込まれた瞬間に、無惨は死ぬ。肉片に分かれて弾け散った所で、あの馬鹿馬鹿しい程に広範囲を消滅させた滅びの光の外にはどうやっても逃げられない。
陽光なら、瞬時に質量を限界まで膨らませて肉の鎧を作り出した直後に地中に逃れるなどすれば甚大な影響は受けるだろうがどうにか命を繋ぐ事は出来るであろう。
だが、あの光に呑み込まれれば、どんな抵抗も無意味だ。それを童磨の目と記憶を通して理解したからこそ、無惨はかつて戦国の世で出逢った『化け物』に身を斬り刻まれたその時以上の恐怖を、「死」そのものが己の首を握り潰し喰らい尽くそうとしている恐怖に襲われた。
しかも恐らく。あの『化け物』は無惨の存在に気付いたのだ!
童磨の視界に最後に映った『化け物』の目に宿った全てを燃やし尽くす程の強烈な殺意は、間違いなく無惨に向けられたものであった。
あれは必ず己を殺しに来る。
しかも最悪な事に、新たに現れた『化け物』はかつての『化け物』と同様に鬼狩りと行動を共にしていたのだ。
その格好からして鬼狩りそのものでは無さそうだが、しかしあの異常者どもの集団の中に、無惨を殺す事を躊躇わない正真正銘の『化け物』が紛れ込んでいると言うのは余りにも恐ろしい状況だった。
鬼狩りどもは頭の狂った連中だから、あの『化け物』が人間程度では何万と束になろうと絶対に勝てない程の制御不能のお伽噺の中の怪物の如き『化け物』であったとしても、鬼を殺す役に立つのであればその力を使う事に躊躇いなどないだろう。一切の躾がなされていない理性の無い手負いの猛獣の檻の中に裸で居るよりも危険であっても、そもそも命を捨てる事に何の躊躇いも無い連中がそれに頓着する筈も無い。
あの異常者どもは、喜んであの『化け物』を無惨に嗾けてくるに違いない。
それは恐ろしい悪夢の様ですらあった。
かつての様に、一切の息を潜めて地に潜る様に無限城に閉じ籠る事も当然検討した。
しかし、あそこまでこの世の理を外れきった『化け物』に対して、かつてと同じ手段を取る事が通用するのかと言う問題があった。そもそも、「日の呼吸」の『化け物』にしても、痣の者としての寿命を超越したばかりか死の直前の八十を過ぎた老爺になってすら全盛期と全く変わらない剣の冴えであったと言う。ギリギリ寿命と言う概念は残っていたらしいが、あの剣士ですらそんな状態だったのだ。
あの『化け物』が人としての寿命やらを全て超越している可能性すら考える必要があり、安易な籠城を選ぶ事は出来なかった。
考えた末に出した無惨が出した結論は明確だった。
あの『化け物』が己の敵として存在しているから脅威なのだ。
無惨には、それを与えた相手を鬼にして支配する事の出来る己の血と言う最強の武器がある。
あの『化け物』を無力化して捕らえる事さえ出来れば、そしてあの『化け物』を鬼にして支配すれば、あの悍ましい力も全て無惨の手の中に落ちてくる。
そして当然見た事も無い力を持つ以上、その体質もそこらの雑草とは全く違うものだろう。
それこそ、陽光の克服を成し遂げる為の体質であるのかもしれないのだ。
あの『化け物』を鬼にする事を狙うという無惨の行動指針はこの時に固まった。
とは言え当然、自分があの『化け物』と対峙するなどと言う愚を犯すつもりは無かった。
だが幸い己には便利な手駒が六体も居るのだ。それを活用しない手は無かった。
己の血を必要以上に多く分け与える事は慎重な無惨にとっては避けるべき事であったが、それすら構うものかとばかりに上弦の鬼たちに己の血をこれでもかとふんだんに分けてやった。
今までの強さとは比べ物にならない程に強化された上弦たちは、たった一体で鬼殺隊を一夜で壊滅させられる程にまで至っただろう。
あの『化け物』を相手にしても、あの滅びの光にさえ気を付けていれば捕獲する事だって不可能では無いだろう、と。そう確信して。
そして其々にあの『化け物』を捕獲する様に命じて、無惨は『化け物』に出会す事の無い様にと潜伏先に引き籠った。その、筈であったのに。
一月も経たぬ内に、上弦が欠けた。
討たれたのは、妓夫太郎だった。
もし上弦が討たれる事があるのだとすれば、それは明らかに堕姫が足手纏いになる妓夫太郎だろうとは思ってはいたが。だが、許容出来る上限に近い程にふんだんに血を与えた事でその力は最早かつてとは別次元と言って良い程にまで高まっていたというのに。それでも、妓夫太郎は討たれた。
無惨が気付いた時には、もう妓夫太郎の身は消滅していて。
血の欠片程度のほんの僅か残されていた細胞から読み取れたのは。
妓夫太郎たちが戦った相手が、あの『化け物』と柱らしき男と、あの耳飾りの鬼狩りを含めた未熟な剣士三人だった事と。そして恐らく妓夫太郎たちはその場に居た誰も殺せなかったという余りにも由々しき事態だけであった。
あれ程までに強化しても、理を超越した『化け物』ならまだしも、柱や未熟な剣士程度も殺せないとは……!
無惨は怒りの余りに視界が真っ黒に染まったかと思った。
そして、その怒りのままに残った上弦の鬼たちを召集した。
「妓夫太郎が死んだ。上弦の月が欠けた。
あの『化け物』と対峙して、何も殺せないまま死んだ様だ」
「誠に御座いますか! それは申し訳ありませぬ!
妓夫太郎は俺が紹介したもの故、如何様にも御詫び致しましょう。
それで、その者はどの様にして妓夫太郎を殺したのでしょう!
もしその記憶があるのなら是非とも見せて頂きたく思います」
そう告げるなり、まるで詫びを入れるかの様に童磨は宣うが。その目には爛々とした狂気と執着が宿っていた。
何に対しても執着も感情も無く表層を取り繕うしかしない童磨の事を欠片も理解出来なかったが故に無惨にとって童磨はあまり関心を向ける対象では無かったが。
しかしあの『化け物』に叩きのめされてからというもの、童磨は完全に壊れた様だ。
あの『化け物』を『神様』などと呼び、異常な程の執着を向ける。
今の発言だって、童磨には妓夫太郎の事など微塵も関心が無いのだ。ただただあの『化け物』がどの様な力を見せたのかだけを知りたがっている、そしてそれを己の記憶にしたいと欲しているのだ。
あの『化け物』が『神様』などと、正気では無い。この世には神も仏も存在しないと言うのに。それに万が一にもあの悍ましい『化け物』が『神』であるのだとしても、それは『邪神』だとか『禍津神』の類でしかないだろう。
少なくとも、憧憬の様な眼差しを向けて執着する様な相手では無い。
以前よりも一層理解し難く気持ちの悪い存在になった童磨に対し、無惨はすっかり辟易していた。
「妓夫太郎から読み取れた記憶は無い。
あの『化け物』が其処に居た事しか分からん。
だが、妓夫太郎が《《間違えた》》事だけは確かだ」
「……間違え……と、……言いますと……」
「あの『化け物』と遭遇したのであれば、直ぐ様私に報告するべきだった。
それを怠った上に、その場の何も殺せず、ろくな情報も残せず。全く何の為に強くしてやったと思っている。
堕姫が足手纏いだったのだとしても、それは言い訳にはならない。
下らん。人間の部分など残しているから負けるのだ、判断を間違えるのだ。
だがもうそれもいい。私はお前たちには期待しない。
何故命じた事程度もこなせない。
何故、産屋敷の一族を葬る事すら出来ず、青い彼岸花も見付けられず、耳飾りの鬼狩りを始末する事も出来ず、そして『化け物』の情報すら残せない。
私は──貴様らの存在理由が分からなくなってきた」
無惨の身から溢れ出た殺気に、全員がその身を竦ませる。
半天狗は悲鳴を上げて許しを乞い、猗窩座はただ静かにその頭を垂れ、黒死牟はゆっくりと非を認め、童磨は口先だけの謝罪をする。そもそも今の童磨は、あの『化け物』の事にしか関心が無いのだが。
そして玉壺は。
「無惨様! 私は違います!! 貴方様の望みに一歩近付く為の情報を私は掴みました!!」
「確定してもいない情報を嬉々として伝える事が許されるとでも?」
瞬時に玉壺の頸を捥ぎ取り、その頭部を掴む。
無惨は不快と怒りの絶頂に在った。この程度で済ませてやったのは僅かな温情である。
「私は変化が嫌いだ。この世の多くの変化は劣化を齎す事と同義だ。
望むのは不変、完璧な状態で永久に変わらず朽ちる事も無いものだ。
百十三年振りに上弦が殺されて、私は不快の絶頂だ。
口を開くのであれば、よくよく考える事だな」
そして、無惨は手の中の玉壺の頭部を捨てる。
それは無限城の中へと落ちて行った。
「これからはもっと死に物狂いで事を成す事だ。
私は上弦だからという理由でお前たちを甘やかし過ぎた様だ。
玉壺、情報が確定したのなら、半天狗と共に其処に向かえ。
……もし『化け物』に関係する事であるのなら、報告を怠れば死を覚悟しろ」
上弦の鬼どもにそう命じ、抑えきれない苛立ちと共に無惨は無限城から去った。
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