第三章 【偽りの天上楽土】
◆◆◆◆◆
痛みは無い、苦しみも無い。
死後の世界と言うものが本当にあるのかは分からないけれど。
こうして痛みが無いのは、悪い事では無かった。
何時になく身体は軽く、穏やかな気持ちにすらなる。
必殺の毒をその身に巡らせ続けた結果、どうしても身体はそれに侵されていて。
もしあの鬼に出逢う事無く殺す事も叶わなかったとしても、自分の命がそう長くは続かないだろうと言う予感はあった。まだ明確な副作用は出てはいなかったが、それが自分自身の身体にとっても毒である事など最初から分かっていたのだから。……それでも、良かった。
鬼殺隊の隊士である以上死と言うのは何時も隣り合わせの事で、藤の花の毒をその身に溜め込んでいようがいなかろうが早死にする事は覚悟の上だった。五体満足で隊を辞められる者など殆ど居らず、また隊士を何らかの理由で辞めた後に育手などの様に後方で支援する事が出来る様な者など一握り程度しか居ない。
五体満足で老齢まで剣士を続ける事など、まあ殆ど不可能である。極稀に居るのは確かだが、鬼殺隊の歴史を紐解いてみたとしても両の手で足りる程度と言っても良いだろう。特に、過酷な任務が集中する柱にもなると、怪我や病以外の理由で「引退」に辿り着ける者は本当に少ない。なら、寿命なんて考えていても仕方ないだろう。
だからこそ、それが命を捨てる様な行為であると分かっていても、躊躇いは無かった。
上弦の弐の鬼を殺す事が出来るなら……最愛の姉をこの手から奪っていったあの悪鬼を滅する刃に成れるなら、それで良かった。それだけで良かった。そうしないと、生きていけなかった。
復讐だけが、今にも壊れそうな心を支え繋ぎ止めてくれた。復讐の炎が、より多くの悪鬼を滅する為の力になった。姉の遺志を継いで、鬼に憐れみを持とうと努力して心を擦り減らす裏側で、胸の奥には何時だって決して消える事の無い憎悪の炎が燃え盛っていた。
誰よりも愛しい家族を奪っていった鬼が未だにのさばるこの世界を生きる為には、そうするしか出来なかった。
自分と同じ空気を、あの鬼も何処かで吸っているのかと思うと、耐え難かった。息が出来なかった。
それをどうにか御す力を、復讐の怨念が与えてくれた。
でも、復讐に身を焦がす中で、時折姉の最後の言葉が蘇る。
「普通の女の子の幸せを手に入れて、お婆さんになるまで生きて欲しい」、と。
そんな優しくて、何よりも残酷なその願いを。叶えてあげる事はどうしても出来なかった。
普通の幸せを手に入れて欲しかった、ずっと長生きして欲しかった。そう言いたかったのは自分の方なのだから。
どうして、あんなに素敵な人が死ななくてはならなかったのだろう。どうして、あんな風に命を奪われなくてはならなかったのだろう。
確かに鬼殺隊に身を置く以上、「死」は何時だって隣り合わせだ。だけれども、理不尽に奪われて良い命などこの世には一つも無いのだ。それが最愛の肉親であるならば尚の事。
もっとこれから沢山の人生があった筈だ。もっとこれから素敵な出会いだって待っていたのかもしれない。
姉はこの世の誰よりも素敵な人なのだから、とても素敵な人と出逢って、そして幸せを手にする事だって出来ただろう。
鬼殺隊に身を置き鬼への復讐と怒りで剣を握っているからと言って、誰も彼もが鬼殺以外を斬り捨てている訳では無く。新たに「幸せ」を手にした事を切欠に引退して後方支援に転向する者は少なからず居るし、或いは愛しい者を得たからこそより一層鬼殺に励む者も居る。
奪われ喪い復讐の為に刃を握った者が大半であるとは言え、鬼によって奪われたもの自体を取り戻す事は誰にも出来なくとも、新たに大切なものを得る人は幾らでも居る。生きるとはそう言う事だ。
だからこそ、誰よりも優しかったが故に鬼殺の道を選んでしまった姉にだって、そんな「幸せ」があったかも知れないのだ。……だがその全ては奪われた。
姉が命を落としたのは十七の時。今の自分は、その姉の年齢を超えてしまった。記憶の中の姉の姿は変わらないのに、何時しか自分の姿は変わっていく。姉の事を忘れる事など有り得ないが、しかし十年後二十年後にその姿を鮮明に思い描けるのかどうかは分からない。そしてそれは余りにも耐え難い事であった。だからこそ、姉を喪った痛みを他の何かで埋める事など到底許せなくて。無謀とも言える復讐へと己を駆り立てていった。
今も姉が生きていたら、あの日上弦の弐の鬼に出逢う事無く今も生きていてくれたなら、一体どんな人生を送っていたのだろう。そう考えない日は無い。
だが、過去は変わらないのだ。
何をしても、あの日の姉の運命を変える事は叶わない。
姉を喪った現実を変える事も、出来ない。
それが、どうしようも無い程に辛いのだ。
── 置いて逝ってしまってごめんなさい、しのぶ……。
誰よりも大切だった人の声が聞こえる。
もう気付けば何年もこの声を聞いていなかった。それでも、たった一言聞くだけでも分かるのだ。
── 私の言葉が呪いになってしまったのも、本当にごめんなさい……。
それは決してカナエ姉さんの責任じゃない。自分が勝手に背負った事だ。
カナエ姉さんを忘れない為に、カナエ姉さんがどんなに素晴らしい人だったか忘れさせない為に。
カナエ姉さんの様な笑顔を浮かべて、カナエ姉さんが目指した「鬼とも仲良く出来る世界」を語って。
……それなのに、その裏では醜いばかりの鬼への憎悪と復讐への妄執が燃え広がっていた。
自分で自分を苛み続けていた様なものだ。だがそこに当然ながらカナエ姉さんの責任は無い。
── しのぶには、生きて欲しかった。幸せになって欲しかった。
分かっている。カナエ姉さんは本当に優しかったから……本当に私の事を心配してくれていたから。それが、何の他意も無い言葉だったのだと言う事も分かっている。鬼の頸が斬れないのに隊士を続ける事がどれ程危険で自殺行為にも等しい事なのか、言われなくても分かっているから。だから、きっとあの鬼には勝てないと言おうとしたそれは、紛れも無いカナエ姉さんの優しさだったのだ。
それでも、受け入れられなかった。カナエ姉さんみたいに優しくはないから、鬼への憎悪を消す事なんて出来ないから。
『知らない誰かの為、踏み躙られた誰かの幸せの為に、心に怒りの火を灯す事が出来る人もまた、優しい人なんだと俺は思いますよ』
ふと、出逢ったばかりの頃の彼の言葉が心に浮かんだ。
きっとカナエ姉さんの様に心から優しいのだろう彼のその言葉は、憎悪を抑える事の出来ない事を嫌悪しつつあった己の心に、どうしてかそっと優しく触れた。僅かにであっても、心を軋ませるものが軽くなった。
鬼を哀れむ事が出来なくても、優しいのだ、と。「優しさ」に正解も間違いも無いのだ、と。
本心からそう言ったのだろうその言葉に、確かにほんの少し救われたのだ。
── しのぶ、貴女の周りには貴女を想ってくれている人が沢山居るわ。
── だから、頼りなさい。しのぶが求めれば、必ず力を貸してくれる。
── ……しのぶの望みだって、きっと。
── だから、生きなさい。死を選ぶ前に、生きる為に足掻きなさい。
でももう身体はあの上弦の弐に喰われてしまったのだ。今更どうしろと言うのだろう。
「死」と言う結果を変える事は誰にも出来ないのに。
それに、こんな復讐劇に手を貸してくれる様な人が本当に居るのだろうか。
── しのぶ。愛しているわ。
── だからどうか、生きて。
◆◆◆◆◆
誰よりも大切だった人の、もう二度とは聞く事の叶わない声に背を押される様にして。
ゆるゆると目を開けたそこは、見慣れた蝶屋敷の自室だった。
どうして此処に、と。未だぼんやりとした意識で周囲を把握しようとした丁度その時、グラスを落として割った様な音が響く。
「しのぶ姉さん……?」
カナヲが、驚いた様に大きくその目を開けていて。そして、その目は瞬く間に潤み、ポロポロと涙の雫が透明な真珠の様に零れ落ちていく。
そして、カナヲは耐え切れなくなったかの様な勢いで私に抱き着いて来た。
「よかった……よかった……。生きてる、しのぶ姉さんが、生きてる……」
その目からは涙を溢れさせながら、嗚咽の様に言葉を途切れさせながら。
カナヲは抱き着いたまま離れない。
一体どうなっているのだろうか。
私は、上弦の弐に殺された筈……そして喰われた筈なのだ。
どうして、生きているのだろう。死んだ筈なのに。
覚醒したてであるからなのか、状況がまだ分からなくて。
困惑していると、カナヲが涙交じりに何があったのかを教えてくれた。
カナヲは、間一髪の所で私が殺される寸前の瞬間に間に合った。「間に合ってしまった」。
しかし、私を庇った状態で上弦の弐と戦う事は、まだカナヲの経験が浅かった事もあって困難で。ほんの少し斬り合っただけでカナヲも満足に動ける状態ではなくなった。
そんな絶体絶命の危機に間に合ったのが、悠だ。
悠はその場で、私の傷もカナヲの傷も完全に癒して。
そして、信じ難い話だが。上弦の弐を「圧倒」して、これを完全に消滅させたと言う。
私の身体に欠けた部分は全く無く、上弦の弐が取り込んだ毒は皆無と言って良いだろう。
つまり、数年掛けて決死の思いでこの身体に溜め込んだ毒は、何の役にも立たなかった。
……毒による弱体化が無くても悠は単独で、上弦の弐ですら「圧倒」せしめた、と言う事だ。
その事後をどう処理したのか、と言うカナヲの報告が全く耳に入らなかった程に、その事実は私を打ちのめした。ずっと上の空になっていた私をどう思ったのか分からないが、気付いた時にはカナヲは何処かに去っていた。
カナエ姉さんを喪ったあの日からずっと復讐の為に研ぎ続けていた刃は、あの鬼に突き刺さる事すら無かった。自分が復讐の為に捧げて来たものは、何の役にも立たなかったのだ。
自分が決死の思いで戦った事は、何の意味も無かった。勝てない敵にただ挑んで負傷しただけでしかない。
カナエ姉さんの仇は、もうこの世に居ない。悠が、その力で消し去ってしまったからだ。
この手で殺すと決めたのに、この手が出来た事は何も無かった。
強いて言えば、悠をあの任務に連れて行く事を決めた事位か? ……それに何の意味があるのだろう。
自分が人生を賭けると決めたそれに、一体何の意味があったのだろう。
虚しさすら最早感じない。行き場を喪った復讐と憎悪の炎は、消える事すら出来ないまま哭いていた。
そしてふと気付く。この身が、何時になく軽く感じる事に。
毒を溜め込み始めてから感じていた微かな吐き気に似た感覚は、今や綺麗さっぱりと消えていた。
……悠の力は、血鬼術すら解除する事が出来るが、そもそもは身体や心などの異常を治す為に使う。
つまりは、数年掛けて研いだ筈の復讐の怨毒は、その本来の目的を果たす事すら無いままに、負った傷と共に跡形も無く消え去ってしまったのだ。
お前の費やした時間に意味など何も無かったのだと、そう暴力的なまでの力で突き付けられたかの様だった。
無論、悠にそんな意図など欠片も無かった事は分かる。そもそも彼は私がこの身に復讐の為に毒を満たしていた事なんて知る由も無いのだし、そして彼は一生懸命に大事な人の命を救おうとしてその力を使っただけなのだ。感謝しこそすれ、それを恨むなど筋違いにも程があるし理不尽が過ぎる暴挙でしかない。
悠が決して悪意など欠片も無く、それどころかその優しさを以て怒り、私やカナヲを傷付けた上弦の弐を殺したと言うのは分かる。分かっている。それなのに、行く先を喪った復讐の炎が、己の身と心を焼くのだ。
「しのぶさん、大丈夫ですか?」
今一番会いたくない……会ってはいけない相手が、気付けば目の前に居た。
何時もの様に優しい目で、何時もの様に誠実に私を慮ろうとする眼差しで。
寄り添い見守るその温かな優しさを隠そうともせずに、其処に居た。
心配そうに私を見詰めるその目に対し、込み上げてくるのは理不尽な怒りだ。
駄目だ、そんな事をしてはいけない、止めろ。とそう心は叫ぶのに。
荒れ狂う衝動の様な復讐の毒は、燃え滾る憎悪をあろう事か彼に向けようとしていた。
「……そうやって圧倒的な力を振り翳して、満足ですか?」
「え……?」
言われた意味が分からない、と。そう言いた気に、悠は困惑する。その反応は当然だ。悠には何の罪も無い。
それでも、止まらなかった。止まれなかった。
数年掛けて燃やし続けた憎悪の炎は、目的を見失ってしまったが故に、それを「奪った」相手へとその理不尽の矛先を向けてしまう。
感情の制御が出来ないのは未熟の証であり、柱として……何より人としてはあってはならぬ事だ。
況してや、自分にとっても大切な相手の一人である彼に、まかり間違ってもぶつけて良い感情などでは無い。
どれ程辛くても呑み込んで、そして御さねばならぬものであるのだ。
だが、育て続けた復讐心は、もう自分が手綱を握れる状態では無くなっていた。
自分自身の心の大半を喰ってしまったそれは、理不尽だろうと何だろうと構わずに荒れ狂おうとする。
「よくも私の復讐を奪ったな」、と。余りにも恥知らずな怒りが、罪など有りはしない悠へとその牙を剥く。
「私の命を救って、上弦の弐を一人きりで倒して、満足ですか?
頸も切れず上弦の弐に成す術も無く殺されかけた私を哀れんでいるつもりですか?」
悠が決してそんな事を思ったり考えたりする事なんて無いと分かっているのに。
どうしても、止められない。止めろ、止めて。このままでは、大事なものを壊してしまう。
それなのに、どうしても。理不尽を極める言葉の刃を止められない。
「姉さんの仇を取る為に四年も掛けて準備して来たものを全て踏み躙って、一人だけで上弦の弐すら簡単に倒してしまって。悠くんにとって、私はさぞ哀れで弱い存在に見えているんじゃないですか?」
一言一言発する度に、自己嫌悪で死にそうになる。
なんて醜い感情、なんて理不尽な言動。最低だ。
ドロドロと憎悪と復讐心を煮詰めて来た釜底に溜まっていた心の汚泥が溢れ出ているかの様だった。
悠は、「そんな事は無い」と必死に首を横に振る。
分かっている、彼は本当に優しくて心が綺麗なのだ。
そんな傲慢な考えなど露とも抱かず、何時だって「自分が出来る事を」と言いながら精一杯頑張っている。
人の痛みに寄り添い、苦しみにその手を差し伸べ、再び歩き出せるまでを優しく見守る。そんな人なのだ。
悠はよく傷を負った相手の手を握る。そうした方が力を発揮させやすいからだとそう言うけれど、だけどそれ以上に、その苦しみに寄り添って少しでも励ましてやりたいからだと言う事を私は知っている。
力を何度も使って疲れた様な顔をしながらも、傷が癒えて安らかに眠っている隊士たちの顔を本当に幸せそうに見守っている事を知っている。日々蝶屋敷に大勢運び込まれてくる隊士たちを、その一人一人の名こそ知らなくても、全員の顔を覚えている事を知っている。四肢を欠損するなりして不可逆の傷を負った隊士たちの嘆きや哀しみを寄り添うように受け止めて、時に心を御せなくなった者達の衝動的で理不尽な暴力ですら優しく受け止めているのも知っている。誰に対してだって優しく誠実に接している事を知っている。
任務の時だって、救援要請があれば必ず駆け付けて誰かを助けようとしている事を知っている。
大切な人達が笑っていてくれる事、幸せでいてくれる事。そしてそんな幸せを守る事が、自分にとっての一番の幸せなのだと。そんな事を何の衒いも無く本心から言ってしまえる事も知っている。
知っている、知っているのだ。鳴上悠と言う人間がどう言う存在なのかを、私はよく知っている。
それなのにどうしてこんなにも醜い衝動をぶつけてしまうのだろう。
余りにも最低だった。
私が鬼の頸を斬れないのも、誰にも言わずに準備していた毒が意味を為さなかった事も、上弦の弐に全く歯が立たなかった事も、私が弱いのも。全て、悠に何の責任も無い事だ。責任があるとすれば私自身にあるのに。
黙れ、黙らないと、と。そう思うのに。一度言葉にしてしまったら取り消せないのに。
どうしても言葉を止められない。
私は、自分自身に絶望していた。
「上弦の弐に、『化け物』だって言われたそうですね。
簡単に人を救えて、鬼だって呼吸すら使わずに簡単に倒して。
さぞかし楽しかったのではないですか? 弱い人間たちを救うのは」
違う、何時だって彼は必死だった、精一杯だった。
必死に手を伸ばして、誰かを守っていた。
どんな力を持っていたとしても『化け物』なんかとは程遠い所に居る存在だ。
そして、決して言ってはならぬ事を、私は。
「じゃあどうして、もっと沢山の人を助けてくれなかったんですか?
どうして、炭治郎くんと出逢う前から、戦ってくれなかったんですか?
その時に悠くんが居てくれたのなら、カナエ姉さんは死ななかったのかもしれないのに」
余りにも最低な発言だった。
そもそも四年も前に悠に戦う力があったのかどうかなんて分からないのに。
その場に居なかった事に彼に何の責任も無いのに。
そもそもこうして鬼殺隊に力を貸してくれている事すら、彼の優しさと善意に基づいているものなのに。
何も出来なかった無力を詰るのですらなく、どうしてそこに居てくれなかったのかと宣う。
それは余りにも愚かで最低な神頼みにも等しい言葉だ。
悠と言う余りにも「都合の良い『神様』」に頼り切った、最悪の神頼みである。
「…………俺、は……」
何かを言おうとして。だが、言葉を見失ってしまった様な、そんな顔をする。
こんな理不尽をぶつけられてすら、悠のその目には紛れも無い優しさがあった。
私の中に燃え盛る復讐の炎に、そっと触れようとするかの様な。そんな優しさを湛えている。
それがどうしようも無く、私を惨めにさせた。
そうだ、本当は分かっている。
私は、悠が羨ましいのだ。
もし自分に悠の様な力があったのなら。上弦の弐を圧倒する様な力なんて無くても良い、傷を癒す力があったのなら。あの日カナエ姉さんを死なせずに済んだのではないか、と。
そして呼吸すら使わずに上弦の弐の首を容易く落とせる力があったのなら、毒に頼り自分の命ごと捧げる覚悟を決めなくても済んだかもしれない、と。
正真正銘自分の手で、上弦の弐の首を落とせたのじゃないか、と。
……無いもの強請りで、余りにも愚かな、嫉妬ですらない羨望。
それが、上弦の弐への復讐心と憎悪に混ざってぐちゃぐちゃになってしまっている。
それが自分でも分かっているのが、尚更に惨めだった。
これからどうすれば良いのだろう。
ずっと抱え続けていた目的が勝手に消えてしまった後に残ったのは、虚しさだけだった。
「鬼舞辻無惨を倒す」と言う鬼殺隊の悲願の成就は間違いなく果たすべき事なのだろうけれど。
しかし、上弦の弐にすら手も足も出ず、毒を用いても何も成す術の無かった私に一体何が出来ると言うのだ。
鬼の頸を斬る事も出来ない、こんな小さな身体で。
……しかしかと言って、カナエ姉さんが最後に願った様に「普通の幸せ」とやらを掴みに行く事も出来そうに無い。自分が置き去りにしてしまったものを想って、永遠に心を引き摺られるだろうから。
生きる目的と言うものが、完全に消えてしまっていた。
心を支え続けていた目的を喪った時、カナエ姉さんを喪った世界で息をしていく必要が本当にあるのだろうかとすら思った。もう、この世にカナエ姉さんの仇は居ないのだ。
「……しのぶさんにとって、上弦の弐の鬼は、お姉さんの仇、だったんですね。
……大好きなお姉さんの仇を討つ為に、ずっと、しのぶさんは、頑張っていたんですね……。
しのぶさんが、笑顔の奥に隠していたものは、それだったんですね……」
呆れて見捨てられてしまっても何の文句も言えない様な暴言の数々を受け止めて。
それを少しずつ咀嚼して呑み込もうとしているかの様に、悠はゆっくりと静かに言葉にする。
怒りを覚えて当然な理不尽な言葉の刃であったと言うのに。悠のその目には、深い哀しみに似た感情以上に、私に対する気遣いがあった。
「俺は、しのぶさんが何かを抱えていたのには気付いていたのに。
しのぶさんの力になりたいと思いながら、何もしませんでした。
気付いたその時に訊ねていれば。
……しのぶさんが自分をそんな風に傷付ける前に、何か出来たかも知れないのに。
……ごめんなさい、しのぶさん。何も、出来なくて。
しのぶさんには、とても沢山のものを、貰っていたのに。俺は、何も返せませんでした」
そう言って、悠は本当に申し訳なさそうにその目を伏せる。
思わず、何を言っているんだろうとすら思った。
少なくとも、理不尽極まりない暴虐とも言える言葉を投げかけられた時の反応ではない。
しかし、悠は私を思い遣ろうとし続ける。
「俺は……『化け物』なのかもしれません。
それでも、どんな力があっても、俺には過去を変える事は出来ない。
しのぶさんのお姉さんを……カナエさんを、助ける事は、出来ません。
人を『救う』事は、とても難しくて……。俺に出来るのは何時もほんの少しだけで。
精一杯を尽くしても、出来ない事は沢山あって。届かなかった手も、沢山あります。
でもしのぶさんは、違う。しのぶさんは、弱くない。憐れだなんて一度も思った事は無い」
もしかしたら、鬼舞辻無惨すら超える力を持っているのかもしれないと言うのに。
悠はそれを驕る事など露とも考えず、ただただ心から私を認めている様に話す。
その声音に虚言の色は無い。
「鬼の頸を斬る事が全てじゃない。しのぶさんの成した事で、沢山の人が助かったんです。
毒を研究する事、薬を研究する事。そう言ったしのぶさんの力は、本当に大勢の人を救っている。
俺が簡単に人を救えるだなんて、そんな事は無いです。だって、俺の力で助けられる範囲はとても狭い。俺は一人しか居ない、それを超えたら……助かる人も助けられません。
でもしのぶさんが開発した薬は、その使い方さえ知っているなら誰だって扱える。そうやって助かった命は数え切れない程あるんです」
そして、そっと。悠は私の手を取って。柔らかく包み込む様に握った。
とても温かな、優しい手だった。心から、相手を想っている事がどうしようもなく伝わってきてしまう程に。
「しのぶさん自身が、しのぶさんの歩いてきた道程を否定しないで欲しいです。
悔しくても、無力に泣いても、傷付いても。それでも蹲らずに、自分に出来る事を探して実行し続けて来た。
そんなしのぶさんの生き方を、俺は心から尊敬しています。
だから──」
柔らかく包んでいた手に、痛みを与えない程度の力が籠る。
優しさを湛えるその眼差しは何処までも真っ直ぐで。誠実そのものであった。
「上弦の弐の鬼の頸を、斬りましょう。
今度こそ、しのぶさん自身の手で。
その為に、俺は何だって力を貸します」
◆◆◆◆◆
痛みは無い、苦しみも無い。
死後の世界と言うものが本当にあるのかは分からないけれど。
こうして痛みが無いのは、悪い事では無かった。
何時になく身体は軽く、穏やかな気持ちにすらなる。
必殺の毒をその身に巡らせ続けた結果、どうしても身体はそれに侵されていて。
もしあの鬼に出逢う事無く殺す事も叶わなかったとしても、自分の命がそう長くは続かないだろうと言う予感はあった。まだ明確な副作用は出てはいなかったが、それが自分自身の身体にとっても毒である事など最初から分かっていたのだから。……それでも、良かった。
鬼殺隊の隊士である以上死と言うのは何時も隣り合わせの事で、藤の花の毒をその身に溜め込んでいようがいなかろうが早死にする事は覚悟の上だった。五体満足で隊を辞められる者など殆ど居らず、また隊士を何らかの理由で辞めた後に育手などの様に後方で支援する事が出来る様な者など一握り程度しか居ない。
五体満足で老齢まで剣士を続ける事など、まあ殆ど不可能である。極稀に居るのは確かだが、鬼殺隊の歴史を紐解いてみたとしても両の手で足りる程度と言っても良いだろう。特に、過酷な任務が集中する柱にもなると、怪我や病以外の理由で「引退」に辿り着ける者は本当に少ない。なら、寿命なんて考えていても仕方ないだろう。
だからこそ、それが命を捨てる様な行為であると分かっていても、躊躇いは無かった。
上弦の弐の鬼を殺す事が出来るなら……最愛の姉をこの手から奪っていったあの悪鬼を滅する刃に成れるなら、それで良かった。それだけで良かった。そうしないと、生きていけなかった。
復讐だけが、今にも壊れそうな心を支え繋ぎ止めてくれた。復讐の炎が、より多くの悪鬼を滅する為の力になった。姉の遺志を継いで、鬼に憐れみを持とうと努力して心を擦り減らす裏側で、胸の奥には何時だって決して消える事の無い憎悪の炎が燃え盛っていた。
誰よりも愛しい家族を奪っていった鬼が未だにのさばるこの世界を生きる為には、そうするしか出来なかった。
自分と同じ空気を、あの鬼も何処かで吸っているのかと思うと、耐え難かった。息が出来なかった。
それをどうにか御す力を、復讐の怨念が与えてくれた。
でも、復讐に身を焦がす中で、時折姉の最後の言葉が蘇る。
「普通の女の子の幸せを手に入れて、お婆さんになるまで生きて欲しい」、と。
そんな優しくて、何よりも残酷なその願いを。叶えてあげる事はどうしても出来なかった。
普通の幸せを手に入れて欲しかった、ずっと長生きして欲しかった。そう言いたかったのは自分の方なのだから。
どうして、あんなに素敵な人が死ななくてはならなかったのだろう。どうして、あんな風に命を奪われなくてはならなかったのだろう。
確かに鬼殺隊に身を置く以上、「死」は何時だって隣り合わせだ。だけれども、理不尽に奪われて良い命などこの世には一つも無いのだ。それが最愛の肉親であるならば尚の事。
もっとこれから沢山の人生があった筈だ。もっとこれから素敵な出会いだって待っていたのかもしれない。
姉はこの世の誰よりも素敵な人なのだから、とても素敵な人と出逢って、そして幸せを手にする事だって出来ただろう。
鬼殺隊に身を置き鬼への復讐と怒りで剣を握っているからと言って、誰も彼もが鬼殺以外を斬り捨てている訳では無く。新たに「幸せ」を手にした事を切欠に引退して後方支援に転向する者は少なからず居るし、或いは愛しい者を得たからこそより一層鬼殺に励む者も居る。
奪われ喪い復讐の為に刃を握った者が大半であるとは言え、鬼によって奪われたもの自体を取り戻す事は誰にも出来なくとも、新たに大切なものを得る人は幾らでも居る。生きるとはそう言う事だ。
だからこそ、誰よりも優しかったが故に鬼殺の道を選んでしまった姉にだって、そんな「幸せ」があったかも知れないのだ。……だがその全ては奪われた。
姉が命を落としたのは十七の時。今の自分は、その姉の年齢を超えてしまった。記憶の中の姉の姿は変わらないのに、何時しか自分の姿は変わっていく。姉の事を忘れる事など有り得ないが、しかし十年後二十年後にその姿を鮮明に思い描けるのかどうかは分からない。そしてそれは余りにも耐え難い事であった。だからこそ、姉を喪った痛みを他の何かで埋める事など到底許せなくて。無謀とも言える復讐へと己を駆り立てていった。
今も姉が生きていたら、あの日上弦の弐の鬼に出逢う事無く今も生きていてくれたなら、一体どんな人生を送っていたのだろう。そう考えない日は無い。
だが、過去は変わらないのだ。
何をしても、あの日の姉の運命を変える事は叶わない。
姉を喪った現実を変える事も、出来ない。
それが、どうしようも無い程に辛いのだ。
── 置いて逝ってしまってごめんなさい、しのぶ……。
誰よりも大切だった人の声が聞こえる。
もう気付けば何年もこの声を聞いていなかった。それでも、たった一言聞くだけでも分かるのだ。
── 私の言葉が呪いになってしまったのも、本当にごめんなさい……。
それは決してカナエ姉さんの責任じゃない。自分が勝手に背負った事だ。
カナエ姉さんを忘れない為に、カナエ姉さんがどんなに素晴らしい人だったか忘れさせない為に。
カナエ姉さんの様な笑顔を浮かべて、カナエ姉さんが目指した「鬼とも仲良く出来る世界」を語って。
……それなのに、その裏では醜いばかりの鬼への憎悪と復讐への妄執が燃え広がっていた。
自分で自分を苛み続けていた様なものだ。だがそこに当然ながらカナエ姉さんの責任は無い。
── しのぶには、生きて欲しかった。幸せになって欲しかった。
分かっている。カナエ姉さんは本当に優しかったから……本当に私の事を心配してくれていたから。それが、何の他意も無い言葉だったのだと言う事も分かっている。鬼の頸が斬れないのに隊士を続ける事がどれ程危険で自殺行為にも等しい事なのか、言われなくても分かっているから。だから、きっとあの鬼には勝てないと言おうとしたそれは、紛れも無いカナエ姉さんの優しさだったのだ。
それでも、受け入れられなかった。カナエ姉さんみたいに優しくはないから、鬼への憎悪を消す事なんて出来ないから。
『知らない誰かの為、踏み躙られた誰かの幸せの為に、心に怒りの火を灯す事が出来る人もまた、優しい人なんだと俺は思いますよ』
ふと、出逢ったばかりの頃の彼の言葉が心に浮かんだ。
きっとカナエ姉さんの様に心から優しいのだろう彼のその言葉は、憎悪を抑える事の出来ない事を嫌悪しつつあった己の心に、どうしてかそっと優しく触れた。僅かにであっても、心を軋ませるものが軽くなった。
鬼を哀れむ事が出来なくても、優しいのだ、と。「優しさ」に正解も間違いも無いのだ、と。
本心からそう言ったのだろうその言葉に、確かにほんの少し救われたのだ。
── しのぶ、貴女の周りには貴女を想ってくれている人が沢山居るわ。
── だから、頼りなさい。しのぶが求めれば、必ず力を貸してくれる。
── ……しのぶの望みだって、きっと。
── だから、生きなさい。死を選ぶ前に、生きる為に足掻きなさい。
でももう身体はあの上弦の弐に喰われてしまったのだ。今更どうしろと言うのだろう。
「死」と言う結果を変える事は誰にも出来ないのに。
それに、こんな復讐劇に手を貸してくれる様な人が本当に居るのだろうか。
── しのぶ。愛しているわ。
── だからどうか、生きて。
◆◆◆◆◆
誰よりも大切だった人の、もう二度とは聞く事の叶わない声に背を押される様にして。
ゆるゆると目を開けたそこは、見慣れた蝶屋敷の自室だった。
どうして此処に、と。未だぼんやりとした意識で周囲を把握しようとした丁度その時、グラスを落として割った様な音が響く。
「しのぶ姉さん……?」
カナヲが、驚いた様に大きくその目を開けていて。そして、その目は瞬く間に潤み、ポロポロと涙の雫が透明な真珠の様に零れ落ちていく。
そして、カナヲは耐え切れなくなったかの様な勢いで私に抱き着いて来た。
「よかった……よかった……。生きてる、しのぶ姉さんが、生きてる……」
その目からは涙を溢れさせながら、嗚咽の様に言葉を途切れさせながら。
カナヲは抱き着いたまま離れない。
一体どうなっているのだろうか。
私は、上弦の弐に殺された筈……そして喰われた筈なのだ。
どうして、生きているのだろう。死んだ筈なのに。
覚醒したてであるからなのか、状況がまだ分からなくて。
困惑していると、カナヲが涙交じりに何があったのかを教えてくれた。
カナヲは、間一髪の所で私が殺される寸前の瞬間に間に合った。「間に合ってしまった」。
しかし、私を庇った状態で上弦の弐と戦う事は、まだカナヲの経験が浅かった事もあって困難で。ほんの少し斬り合っただけでカナヲも満足に動ける状態ではなくなった。
そんな絶体絶命の危機に間に合ったのが、悠だ。
悠はその場で、私の傷もカナヲの傷も完全に癒して。
そして、信じ難い話だが。上弦の弐を「圧倒」して、これを完全に消滅させたと言う。
私の身体に欠けた部分は全く無く、上弦の弐が取り込んだ毒は皆無と言って良いだろう。
つまり、数年掛けて決死の思いでこの身体に溜め込んだ毒は、何の役にも立たなかった。
……毒による弱体化が無くても悠は単独で、上弦の弐ですら「圧倒」せしめた、と言う事だ。
その事後をどう処理したのか、と言うカナヲの報告が全く耳に入らなかった程に、その事実は私を打ちのめした。ずっと上の空になっていた私をどう思ったのか分からないが、気付いた時にはカナヲは何処かに去っていた。
カナエ姉さんを喪ったあの日からずっと復讐の為に研ぎ続けていた刃は、あの鬼に突き刺さる事すら無かった。自分が復讐の為に捧げて来たものは、何の役にも立たなかったのだ。
自分が決死の思いで戦った事は、何の意味も無かった。勝てない敵にただ挑んで負傷しただけでしかない。
カナエ姉さんの仇は、もうこの世に居ない。悠が、その力で消し去ってしまったからだ。
この手で殺すと決めたのに、この手が出来た事は何も無かった。
強いて言えば、悠をあの任務に連れて行く事を決めた事位か? ……それに何の意味があるのだろう。
自分が人生を賭けると決めたそれに、一体何の意味があったのだろう。
虚しさすら最早感じない。行き場を喪った復讐と憎悪の炎は、消える事すら出来ないまま哭いていた。
そしてふと気付く。この身が、何時になく軽く感じる事に。
毒を溜め込み始めてから感じていた微かな吐き気に似た感覚は、今や綺麗さっぱりと消えていた。
……悠の力は、血鬼術すら解除する事が出来るが、そもそもは身体や心などの異常を治す為に使う。
つまりは、数年掛けて研いだ筈の復讐の怨毒は、その本来の目的を果たす事すら無いままに、負った傷と共に跡形も無く消え去ってしまったのだ。
お前の費やした時間に意味など何も無かったのだと、そう暴力的なまでの力で突き付けられたかの様だった。
無論、悠にそんな意図など欠片も無かった事は分かる。そもそも彼は私がこの身に復讐の為に毒を満たしていた事なんて知る由も無いのだし、そして彼は一生懸命に大事な人の命を救おうとしてその力を使っただけなのだ。感謝しこそすれ、それを恨むなど筋違いにも程があるし理不尽が過ぎる暴挙でしかない。
悠が決して悪意など欠片も無く、それどころかその優しさを以て怒り、私やカナヲを傷付けた上弦の弐を殺したと言うのは分かる。分かっている。それなのに、行く先を喪った復讐の炎が、己の身と心を焼くのだ。
「しのぶさん、大丈夫ですか?」
今一番会いたくない……会ってはいけない相手が、気付けば目の前に居た。
何時もの様に優しい目で、何時もの様に誠実に私を慮ろうとする眼差しで。
寄り添い見守るその温かな優しさを隠そうともせずに、其処に居た。
心配そうに私を見詰めるその目に対し、込み上げてくるのは理不尽な怒りだ。
駄目だ、そんな事をしてはいけない、止めろ。とそう心は叫ぶのに。
荒れ狂う衝動の様な復讐の毒は、燃え滾る憎悪をあろう事か彼に向けようとしていた。
「……そうやって圧倒的な力を振り翳して、満足ですか?」
「え……?」
言われた意味が分からない、と。そう言いた気に、悠は困惑する。その反応は当然だ。悠には何の罪も無い。
それでも、止まらなかった。止まれなかった。
数年掛けて燃やし続けた憎悪の炎は、目的を見失ってしまったが故に、それを「奪った」相手へとその理不尽の矛先を向けてしまう。
感情の制御が出来ないのは未熟の証であり、柱として……何より人としてはあってはならぬ事だ。
況してや、自分にとっても大切な相手の一人である彼に、まかり間違ってもぶつけて良い感情などでは無い。
どれ程辛くても呑み込んで、そして御さねばならぬものであるのだ。
だが、育て続けた復讐心は、もう自分が手綱を握れる状態では無くなっていた。
自分自身の心の大半を喰ってしまったそれは、理不尽だろうと何だろうと構わずに荒れ狂おうとする。
「よくも私の復讐を奪ったな」、と。余りにも恥知らずな怒りが、罪など有りはしない悠へとその牙を剥く。
「私の命を救って、上弦の弐を一人きりで倒して、満足ですか?
頸も切れず上弦の弐に成す術も無く殺されかけた私を哀れんでいるつもりですか?」
悠が決してそんな事を思ったり考えたりする事なんて無いと分かっているのに。
どうしても、止められない。止めろ、止めて。このままでは、大事なものを壊してしまう。
それなのに、どうしても。理不尽を極める言葉の刃を止められない。
「姉さんの仇を取る為に四年も掛けて準備して来たものを全て踏み躙って、一人だけで上弦の弐すら簡単に倒してしまって。悠くんにとって、私はさぞ哀れで弱い存在に見えているんじゃないですか?」
一言一言発する度に、自己嫌悪で死にそうになる。
なんて醜い感情、なんて理不尽な言動。最低だ。
ドロドロと憎悪と復讐心を煮詰めて来た釜底に溜まっていた心の汚泥が溢れ出ているかの様だった。
悠は、「そんな事は無い」と必死に首を横に振る。
分かっている、彼は本当に優しくて心が綺麗なのだ。
そんな傲慢な考えなど露とも抱かず、何時だって「自分が出来る事を」と言いながら精一杯頑張っている。
人の痛みに寄り添い、苦しみにその手を差し伸べ、再び歩き出せるまでを優しく見守る。そんな人なのだ。
悠はよく傷を負った相手の手を握る。そうした方が力を発揮させやすいからだとそう言うけれど、だけどそれ以上に、その苦しみに寄り添って少しでも励ましてやりたいからだと言う事を私は知っている。
力を何度も使って疲れた様な顔をしながらも、傷が癒えて安らかに眠っている隊士たちの顔を本当に幸せそうに見守っている事を知っている。日々蝶屋敷に大勢運び込まれてくる隊士たちを、その一人一人の名こそ知らなくても、全員の顔を覚えている事を知っている。四肢を欠損するなりして不可逆の傷を負った隊士たちの嘆きや哀しみを寄り添うように受け止めて、時に心を御せなくなった者達の衝動的で理不尽な暴力ですら優しく受け止めているのも知っている。誰に対してだって優しく誠実に接している事を知っている。
任務の時だって、救援要請があれば必ず駆け付けて誰かを助けようとしている事を知っている。
大切な人達が笑っていてくれる事、幸せでいてくれる事。そしてそんな幸せを守る事が、自分にとっての一番の幸せなのだと。そんな事を何の衒いも無く本心から言ってしまえる事も知っている。
知っている、知っているのだ。鳴上悠と言う人間がどう言う存在なのかを、私はよく知っている。
それなのにどうしてこんなにも醜い衝動をぶつけてしまうのだろう。
余りにも最低だった。
私が鬼の頸を斬れないのも、誰にも言わずに準備していた毒が意味を為さなかった事も、上弦の弐に全く歯が立たなかった事も、私が弱いのも。全て、悠に何の責任も無い事だ。責任があるとすれば私自身にあるのに。
黙れ、黙らないと、と。そう思うのに。一度言葉にしてしまったら取り消せないのに。
どうしても言葉を止められない。
私は、自分自身に絶望していた。
「上弦の弐に、『化け物』だって言われたそうですね。
簡単に人を救えて、鬼だって呼吸すら使わずに簡単に倒して。
さぞかし楽しかったのではないですか? 弱い人間たちを救うのは」
違う、何時だって彼は必死だった、精一杯だった。
必死に手を伸ばして、誰かを守っていた。
どんな力を持っていたとしても『化け物』なんかとは程遠い所に居る存在だ。
そして、決して言ってはならぬ事を、私は。
「じゃあどうして、もっと沢山の人を助けてくれなかったんですか?
どうして、炭治郎くんと出逢う前から、戦ってくれなかったんですか?
その時に悠くんが居てくれたのなら、カナエ姉さんは死ななかったのかもしれないのに」
余りにも最低な発言だった。
そもそも四年も前に悠に戦う力があったのかどうかなんて分からないのに。
その場に居なかった事に彼に何の責任も無いのに。
そもそもこうして鬼殺隊に力を貸してくれている事すら、彼の優しさと善意に基づいているものなのに。
何も出来なかった無力を詰るのですらなく、どうしてそこに居てくれなかったのかと宣う。
それは余りにも愚かで最低な神頼みにも等しい言葉だ。
悠と言う余りにも「都合の良い『神様』」に頼り切った、最悪の神頼みである。
「…………俺、は……」
何かを言おうとして。だが、言葉を見失ってしまった様な、そんな顔をする。
こんな理不尽をぶつけられてすら、悠のその目には紛れも無い優しさがあった。
私の中に燃え盛る復讐の炎に、そっと触れようとするかの様な。そんな優しさを湛えている。
それがどうしようも無く、私を惨めにさせた。
そうだ、本当は分かっている。
私は、悠が羨ましいのだ。
もし自分に悠の様な力があったのなら。上弦の弐を圧倒する様な力なんて無くても良い、傷を癒す力があったのなら。あの日カナエ姉さんを死なせずに済んだのではないか、と。
そして呼吸すら使わずに上弦の弐の首を容易く落とせる力があったのなら、毒に頼り自分の命ごと捧げる覚悟を決めなくても済んだかもしれない、と。
正真正銘自分の手で、上弦の弐の首を落とせたのじゃないか、と。
……無いもの強請りで、余りにも愚かな、嫉妬ですらない羨望。
それが、上弦の弐への復讐心と憎悪に混ざってぐちゃぐちゃになってしまっている。
それが自分でも分かっているのが、尚更に惨めだった。
これからどうすれば良いのだろう。
ずっと抱え続けていた目的が勝手に消えてしまった後に残ったのは、虚しさだけだった。
「鬼舞辻無惨を倒す」と言う鬼殺隊の悲願の成就は間違いなく果たすべき事なのだろうけれど。
しかし、上弦の弐にすら手も足も出ず、毒を用いても何も成す術の無かった私に一体何が出来ると言うのだ。
鬼の頸を斬る事も出来ない、こんな小さな身体で。
……しかしかと言って、カナエ姉さんが最後に願った様に「普通の幸せ」とやらを掴みに行く事も出来そうに無い。自分が置き去りにしてしまったものを想って、永遠に心を引き摺られるだろうから。
生きる目的と言うものが、完全に消えてしまっていた。
心を支え続けていた目的を喪った時、カナエ姉さんを喪った世界で息をしていく必要が本当にあるのだろうかとすら思った。もう、この世にカナエ姉さんの仇は居ないのだ。
「……しのぶさんにとって、上弦の弐の鬼は、お姉さんの仇、だったんですね。
……大好きなお姉さんの仇を討つ為に、ずっと、しのぶさんは、頑張っていたんですね……。
しのぶさんが、笑顔の奥に隠していたものは、それだったんですね……」
呆れて見捨てられてしまっても何の文句も言えない様な暴言の数々を受け止めて。
それを少しずつ咀嚼して呑み込もうとしているかの様に、悠はゆっくりと静かに言葉にする。
怒りを覚えて当然な理不尽な言葉の刃であったと言うのに。悠のその目には、深い哀しみに似た感情以上に、私に対する気遣いがあった。
「俺は、しのぶさんが何かを抱えていたのには気付いていたのに。
しのぶさんの力になりたいと思いながら、何もしませんでした。
気付いたその時に訊ねていれば。
……しのぶさんが自分をそんな風に傷付ける前に、何か出来たかも知れないのに。
……ごめんなさい、しのぶさん。何も、出来なくて。
しのぶさんには、とても沢山のものを、貰っていたのに。俺は、何も返せませんでした」
そう言って、悠は本当に申し訳なさそうにその目を伏せる。
思わず、何を言っているんだろうとすら思った。
少なくとも、理不尽極まりない暴虐とも言える言葉を投げかけられた時の反応ではない。
しかし、悠は私を思い遣ろうとし続ける。
「俺は……『化け物』なのかもしれません。
それでも、どんな力があっても、俺には過去を変える事は出来ない。
しのぶさんのお姉さんを……カナエさんを、助ける事は、出来ません。
人を『救う』事は、とても難しくて……。俺に出来るのは何時もほんの少しだけで。
精一杯を尽くしても、出来ない事は沢山あって。届かなかった手も、沢山あります。
でもしのぶさんは、違う。しのぶさんは、弱くない。憐れだなんて一度も思った事は無い」
もしかしたら、鬼舞辻無惨すら超える力を持っているのかもしれないと言うのに。
悠はそれを驕る事など露とも考えず、ただただ心から私を認めている様に話す。
その声音に虚言の色は無い。
「鬼の頸を斬る事が全てじゃない。しのぶさんの成した事で、沢山の人が助かったんです。
毒を研究する事、薬を研究する事。そう言ったしのぶさんの力は、本当に大勢の人を救っている。
俺が簡単に人を救えるだなんて、そんな事は無いです。だって、俺の力で助けられる範囲はとても狭い。俺は一人しか居ない、それを超えたら……助かる人も助けられません。
でもしのぶさんが開発した薬は、その使い方さえ知っているなら誰だって扱える。そうやって助かった命は数え切れない程あるんです」
そして、そっと。悠は私の手を取って。柔らかく包み込む様に握った。
とても温かな、優しい手だった。心から、相手を想っている事がどうしようもなく伝わってきてしまう程に。
「しのぶさん自身が、しのぶさんの歩いてきた道程を否定しないで欲しいです。
悔しくても、無力に泣いても、傷付いても。それでも蹲らずに、自分に出来る事を探して実行し続けて来た。
そんなしのぶさんの生き方を、俺は心から尊敬しています。
だから──」
柔らかく包んでいた手に、痛みを与えない程度の力が籠る。
優しさを湛えるその眼差しは何処までも真っ直ぐで。誠実そのものであった。
「上弦の弐の鬼の頸を、斬りましょう。
今度こそ、しのぶさん自身の手で。
その為に、俺は何だって力を貸します」
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