第二章 【夢幻に眠る】
◆◆◆◆◆
あの時確かに一瞬見えたものは一体何だったのだろうか、と。
あの日から、俺は何度も考えていた。
そして考える度に、自分は彼について殆ど何も知らない事に気付く。
本当に優しい人だと言う事は知っている。
心から自分や禰豆子の事を気に掛けてくれている事も知っている。
信頼して良い人である事も、知っている。
でも、それだけだ。それだけだった、と言う事を、あの日心から思い知ったのだ。
鳴上さんが不思議な「力」を使うと言う事は知っていた。その力を使って、蝶屋敷に運ばれた隊士たちを癒したり、他の隊士たちと共に任務に出掛け鬼を狩っていると言う事も。
だがその「力」を俺が実際に目にした事は無かった。あの日までは。
血鬼術によって眠りに落ちた煉獄さんたちを助けた時、そして鬼に唆されていた人達を眠らせた時、鬼が自分の頸を守る為に肉の柱の様な塊になって固めた防御をあっさりと斬り刻んだ時。
鳴上さんが「力」を使う時、彼の匂いは変わる。それはまるで包み込む様な優しい匂いだったり、荒々しい嵐の様な激しさを伴う匂いだったり。それがとても不思議だったけれど、どんな匂いに変わってもその根底にあるそっと寄り添う様な優しい彼の匂いは変わらなかった。
不思議な人だ。そしてきっと、底が全く見えない程に強い人だ。
列車と融合した鬼を倒した時、最後の抵抗とばかりに暴れ回る鬼と一体化した列車に対して、俺は何も出来なかった。吹き飛ばされない様にその場にしがみ付く事が精一杯で、それ以上の事は出来る余裕が無かった。
だが鳴上さんは、自分が列車を止めると言って、そしてその直後に恐ろしい程の暴風がその場に吹き荒れたのだ。
ともすれば俺の身体など一瞬の内に上空高くまで舞い上げてしまう様な、嵐よりも恐ろしい風の暴威が一気に列車に叩き付けられた。だが、激しい風に車体が軋み悲鳴を上げていても、その風は決して列車を押し潰すでも上空に舞い上げるでも無く、暴れ回る列車を無理矢理押さえ付けているかの様に、線路へと押し付け続けていた。あの時の事は、線路を削る様に進む音と、轟々と吹き荒れる風の唸り声だけしか覚えていない。
激しい風に目を開けていられなかった。此処で死ぬかもしれないと、何度思った事だろう。
だが、豪風は俺を吹き飛ばす事は無く、最後まで列車を押さえ続け、そして列車が止まると同時に止んだ。
最後の最後でヒノカミ神楽の影響による疲労で踏ん張れなくなってしまい風に飛ばされたが、それは伊之助が庇ってくれたのでどうにか怪我をせずに済んだ。
疲労から地面へと倒れ込んだ状態で見上げたそこに映ったのは、鬼の肉体の残骸をその至る所に纏わり付かせながらも、大きな損傷も無く線路の上にしっかりと留まっていた列車の姿であった。
それは、「奇跡」と呼ぶべき光景であった。
あの豪風を起こし列車を止めたのは鳴上さんなのだろう。だが、そんな事は本当に人が成し得る事なのだろうか。
鳴上さんは己の力を血鬼術の様なもの、と説明していたが、鬼の中に鳴上さんの様に天変地異にも等しい現象を起こしてしまえる様な血鬼術を使える者など果たして存在しているのだろうか。
少なくとも、列車が止まったその直後にその場を襲撃して来た、猗窩座と名乗る上弦の参にはそう言った現象を起こす様な力は無い様に見えた。無論、そう言った力は無くとも上弦の参の実力は圧倒的であり、柱として俺では並び立つ事の出来ぬ程の強さであった煉獄さんでさえ、自分の命と引き換えに撤退させる事が限界だったのだが。
……ある意味で、あの場に居た者の中で最も強大な力を持っていたのは、上弦の参の鬼では無く、気を喪って倒れていた鳴上さんであったのではないか、と。俺はそうも考えてしまう。そしてそれは中らずと雖も遠からず事実を捉えているのだろう、と俺は確信していた。あの風が吹き荒れていた時、鳴上さんから感じた匂いは、今まで自分が感じた事が無い程に「強い」匂いだったのだ。
そして何よりも。
上弦の参を撤退させた煉獄さんが俺たちの心に火を点けて事切れようとしていた、まさにその時。
ふらふらと何処か覚束無い足取りで俺たちの下へとやって来た鳴上さんが、今にも息絶えようとする煉獄さんの手を優しく取ったその時。
俺は、生まれて初めて「人智を超えた大いなる何か」の存在を、鳴上さんを通して確かに感じた。
あの瞬間の鳴上さんの匂いは、人のそれでは無かった。どんなに匂いが変わった時でも感じられた彼の匂いは、存在していたのかもしれないがそれを遥かに凌駕する強い匂いに搔き消されてしまっていて。
そして、鳴上さんが祈る様に目を閉じてその手に力を込めた時。
僅かに瞬く程の時間にも満たない一瞬、鳴上さんの姿に重なる様に、何か大きな影が見えた。
それを一目見た瞬間、『神様』だ、と。そう俺は確信した。
そして、『神様』の姿が消えたその次の瞬間には。煉獄さんの傷は、すっかり消えてしまっていた。
腹に空いた穴も、潰された目も。全てが元通りで。
服に空いた大穴と、流れ出た血の痕だけが、煉獄さんが致命傷を負った事を示していた。
それは、有り得る筈の無い「奇跡」であった。
人は鬼とは違う。手足を喪えば元に戻る事は出来ないし、負った傷が忽ち治るなんて事も無い。
腹に風穴を空けられれば当然の様に死ぬ。それが人だ。
治療をするにしても限界があり、その限界を超えた者に対して人は何処までも無力なのだ。
だが、その理を引っくり返すかの様に、煉獄さんの傷は消え去った。
荒かった呼吸は穏やかなものとなり、意識以外は全てが五体満足の状態に見えた。
煉獄さんが鬼になったと言う訳では無い。そんな匂いは欠片も無かったし、それに陽光の中で静かに眠るその身体が焼け落ちるなんて事も無い。
煉獄さんは、人のまま、人としての理を引っくり返していた。それを成したのは、間違いなく鳴上さんの力だ。
煉獄さんの傷が消えた直後。鳴上さんは煉獄さんの手を握ったままその場に倒れた。
力を使い過ぎて限界を迎えると倒れてしまうのだと、他ならぬ本人が言っていたので恐らく力尽きてしまったのだろうと言うのは分かる。
だが、倒れた鳴上さんは、先程まで感じていた世界の全てを塗り替えてしまう程の強い匂いは欠片も残っておらず。それどころか、全くと言って良い程にその匂いを感じ取れなくなってしまった。
最初に出逢った時から鳴上さんの存在の匂いはかなり薄かったが、暫くする内に段々とその匂いも濃くなっていって、今となっては他の人とほぼ変わらない位になっていたのに。その全てを喪失してしまったかの様に、彼に一切の匂いが無かった。……このまま鳴上さんが消えてしまうのではないか、と。そう俺が思ってしまう程に。
隠の人達に回収されて蝶屋敷まで運ばれて行った後、鳴上さんも煉獄さんも中々目が覚めなかった。
二人が眠っている間、しのぶさんから何が起きたのかを聞かれたりもしたが、それに上手く答えられた自信は無い。あの時、あの場には伊之助も居たのだが、伊之助は『神様』の影は見なかったらしい。ただ、あの瞬間の鳴上さんの気配が尋常ではないものになっていたのは感じていたそうだが。
あの後、何度か伊之助や善逸とあの時何が起きていたのかを話し合ってみたが、結局何も分からないままだった。善逸に関してはそもそも眠っていた、と言うのもあるのだろうけれども。
結局の所、鳴上さんが目覚めない事には何も分からないままであった。
鳴上さんが目覚めたのはあの戦いから三日が経った日の昼間であった。
しかし、しのぶさんからの聴取が終わった後で疲労が抜けきらなかったのかその日はそのまま眠ってしまったらしく、その翌日は翌日で負傷した隊士たちの治療に奔走していたらしく鳴上さんと話す機会が無く。
そして今日は煉獄さんが目を覚ましたと言う事もあってそれどころでは無かったのだ。
何か話がしたい、と思いつつ中々その機会が無い事に悩んでいると。
すっかり日も沈み辺りが暗くなった頃。鳴上さんが俺を呼び止めた。そして、話がしたいから、と。蝶屋敷の中にある彼の部屋へと呼ばれたのであった。
鳴上さんの部屋は備え付けの家具以外の物が殆ど無い部屋であったが、俺と禰豆子がお邪魔しても問題無く寛げる程度には広い部屋であった。禰豆子は鳴上さんに親切にして貰っている事も有ってかなり彼に懐いているらしく、今も構って欲し気に鳴上さんに纏わり付いている。そんな禰豆子を優しく撫でて、鳴上さんは少し真剣な面持ちで俺に話しかけた。
「炭治郎……実は、君に言わなくてはならない事があるんだ。
もしかしたら、炭治郎にとっては不愉快な事なのかもしれないけれど……どうか、聞いて欲しい」
そう前置きして鳴上さんが話したのは。あの夢を見せる鬼の血鬼術に関しての話であった。
最初、血鬼術には掛からなかった鳴上さんだが、眠ってしまった俺を起こそうとして触れた瞬間、俺が見ていた夢に引き摺り込まれてしまったと言う事。そして、その夢の中を彷徨う内にもっと深い場所にまで落ちてしまい……俺が家族を喪ったあの日の記憶を知ってしまった事を、鳴上さんは心の底から申し訳なく思っているかの様に告白した。
彼の責任では全く無い事ではあるのだが、俺の心の傷を無遠慮に覗く結果になってしまった事をとても気に病んでいた様だ。
「すまない」と繰り返すその目は哀しみに揺れていて、彼から感じるその匂いは俺の事を心から想っている匂いであった。
「そんな……だってそれは鳴上さんの所為ではないですし、それに俺は……」
別に誰かに自分から話す様な事では無いと言うだけで、知られてはいけない秘密と言う訳では無かったのだと、そう言おうとしたその時。鳴上さんがそっと首を横に振ってその言葉の続きを言わせなかった。
「俺が炭治郎の心の傷に触れてしまった事には変わらない。まだ痛み続けているそれに本人の了承も無く触れる事は、どんな事情があったとしても簡単に許して良い事では無いんだ。
……俺は、炭治郎があの日に何を感じていたのか、『炭治郎』として、その記憶を見ていた。
だから、……あの痛みを、そんな風に言ってはいけない」
そして、と。鳴上さんは自分の膝の上をコロコロと転がっていた禰豆子の頭を優しく撫でてから言う。
「そして、前にも言ったけど。俺は炭治郎の力になりたい。
禰豆子ちゃんを人に戻したいんだ、俺も。
不可抗力であっても、炭治郎の記憶を知ってしまったからこそ、より一層そう思っている。
だから、教えてくれ炭治郎。俺に二人の為に出来る事は無いか?」
真っ直ぐに俺を見詰めるその眼差しは真剣そのもので、鳴上さんから感じる匂いも、彼のその言葉が紛れも無い本気のものだと言う事を示している。
その言葉に、俺はどうしようも無く揺らいだ。
禰豆子を人に戻す為の戦いは、どうしたって孤独だった。
善逸や伊之助の様に、或いは煉獄さんの様に、鬼である禰豆子を認めてくれる人は居る。
だけれども、禰豆子を人に戻す為には鬼舞辻無惨に近い鬼の血が必要で。
そしてそんな危険な戦いに善逸たちを巻き込む事なんて出来なくて。
そして鬼舞辻無惨からも鬼殺隊からも身を隠さなければならない珠世さんの事を誰にも明かす事が出来なくて。
全てを喪ったあの日、未来の事なんて何も希望が持てないまま、それでも禰豆子の手を握って歩き出した時よりは、まだ希望の光は見えていると言っても良いのかもしれないが。
しかし、煉獄さんと上弦の参との戦いを目の当たりにして、俺は自分の弱さに心底打ちのめされていた。
自分よりも遥かに遠い場所に居る煉獄さんですら上弦の参には勝てなかった。そして上弦の参の動きに俺は全くと言って良い程に反応出来ていなかったのだ。
鬼舞辻無惨に近い鬼の強さを知って、禰豆子を人に戻すと言う願いがどれ程困難な事なのかを思い知った。
それでも、諦める事なんて絶対に出来ないから、強くなるしか無いのだけれど。
だが、もし。鳴上さんが……その力を貸してくれるのなら。
鬼舞辻に近い上弦の血を集めると言う目標も、夢物語では無くなるのではないか、と。
そう、一瞬でも考えてしまった。
それに、茶々丸を介して手紙のやり取りをした際に、珠世さんは血鬼術を容易く解除してしまえる鳴上さんの力に興味を示していたので、鳴上さんと珠世さんを引き合わせてみても良いかもしれないと前から思っていたのだ。
鳴上さんは鬼殺隊の隊士たちとは違って鬼自体への殺意や拒絶反応は無いので、鬼である珠世さんを前にしても襲い掛かったりはしないだろう。愈史郎さんは良い顔をしないだろうけれども……。
だけれども、と。そんな考えを咎める想いもあった。
鳴上さんが凄い力を持っているのは確かだが、だからと言って血で血を洗う様な苛烈な戦いに引き摺り込んで良い訳では無いだろう。
鳴上さんが優しい心を持っているのは、もう十分な程に分かっている。
復讐の為でも何でも無く、守りたいから、力になりたいから、非道を働き人の世に哀しみを撒き散らし続ける鬼舞辻無惨を赦せないから。そんな理由で、戦う事を選んでしまう程に。その心はどうしたって優しく真っ直ぐだ。
そんな彼を人を喋る肉袋程度にしか思っていないのだろう事は容易に想像が付いてしまう、より鬼舞辻無惨に近い鬼たちとの戦いの場に駆り出してしまう事は。仮に本人が望んでいたとしても、果たして本当に許して良い事なのだろうか。
そんな俺の迷いを見抜いたのか、鳴上さんは更に言葉を重ねた。
「俺は何でも出来る訳じゃない……。
俺の力では禰豆子ちゃんを人に戻す事は出来ないし、過去を変えて炭治郎の家族を助ける事も出来ない。
それでも、俺の力を役立てられる事は、きっとあると思うんだ。
だから、それがどんなに困難な事なのだとしても、出来る事が何かあるのなら、俺にも手伝わせて欲しい。
俺の我儘に付き合わせてしまっているのかもしれないけれど、頼む。力になりたいんだ」
そう言って、鳴上さんは静かに頭を下げる。
流石にそれには俺も慌てた。どうしてそこで鳴上さんが頭を下げるのか。
寧ろ頭を下げてお願いするべきなのは俺の方であるだろうに。
「止めてください鳴上さん。我儘だなんて、そんな……。
ただ、どうしても、危険な事なんです。
だから、そんな事に鳴上さんを巻き込んで良いのか分からなくて……」
「それが必要な事なら、俺はどんな敵とだって戦ってみせるから。
幾らでも巻き込んでくれて構わない。
だから教えて欲しい。何をすれば良い?
俺は炭治郎たちの為に、何が出来る?」
一瞬たりとも躊躇う事の無いその眼差しと匂いに、俺は遂に折れた。
長男だからと耐え続けて来たが、力になりたいと此処まで本気で言ってくれる相手のその想いを、無碍にし続ける事は出来なかったと言う事もある。それとは別に、自分だけで足掻く事の限界を知ったと言う内情もある。
何であれ、俺は鳴上さんの手を取る事を選んだ。
「……禰豆子を人に戻す為には、鬼舞辻無惨の血が濃い鬼の血が必要なんです」
「鬼舞辻無惨の……。それは、十二鬼月、と言う奴らの事か?」
鳴上さんの言葉に頷くと、彼は少しの怯えすら見せずに「分かった」とだけ頷く。
「十二鬼月とやらに出逢えるのかどうかは運みたいなものらしいから確約は出来ないけど、もし遭遇する事があったら必ずその血を採って来る。血を採る際に何か特別な方法が必要だったりするなら教えて欲しい」
十二鬼月と戦えと言ったにも等しいのに鳴上さんはその程度は何て事も無いと言った様に静かに言うので、思わず俺は戸惑ってしまう。
「良いんですか、鳴上さん。十二鬼月と戦うって事は、物凄く危険な事なんですよ?
煉獄さんだって、命を懸けても上弦の参を倒す事は出来なかった……」
その意味を本当に分かっているのだろうか、と思わず困惑してしまう程に鳴上さんの態度は何も変わらない。
しかし、鳴上さんは分かっていると頷く。
「鬼舞辻無惨を倒すには、どの道何時かは戦わなければならない相手だ、構わない。
それに、頼り無く見えるのかもしれないけど、こう見えて戦う事自体には慣れているんだ。だから大丈夫だ。
必ず、禰豆子ちゃんを人間に戻そう」
そう言って優しく微笑んだ鳴上さんのその匂いに、嘘や誇張と言ったものは無い。
十二鬼月と戦う事に本気で躊躇いが無いのだと、否応無しに俺に悟らせる。
だからこそ、どうしても問わずにはいられなかった。
「……鳴上さんは、一体何者なんですか……?」
尋ねてはいけない事なのかもしれないと、そう思いながら。
それでも、知りたかった。
どうしてそこまでして自分達を助けようとしてくれるのか。
どうしてそんな力があるのか。
何処から来たのか、今まで何をしていたのか。
知りたい事は、幾らでも在った。
彼自身が語るまでは待つべき事だったのかもしれないけれども。
俺の言葉に暫し考える様に黙り込んだ鳴上さんは、暫くして少し困った様に微笑んだ。
「俺が何者なのか、か。……正直、俺自身にもあまり分かっていないし、上手く伝えられるかも分からない。
炭治郎には俺がどう見えているんだ?」
逆に訊ね返されて、俺はどう答えるべきか戸惑う。
鳴上さんの匂いは、怒ったり悲しんだりしている様な感じは無く、至って普通で。
だからこそ、答えに迷った。
「……普通の人に、見えます。いえ、見えていました。
でも、煉獄さんを助けたあの時、鳴上さんの匂いは明らかにそれまでとは違っていました」
「鬼みたいな匂いだったのか?」
「いえ、鬼とは全然違いました。でも、何て言ったら良いのか分からないけど。
『神様』の匂いだって、その時は感じたんです」
そう言うと、鳴上さんは「『神様』……」と呟いて暫し考え込む。
そして、言葉を選ぶ様にゆっくりと答えた。
「……俺自身は、『神様』なんかじゃない。普通の『人間』だ。
ただ、俺は此処とは違う場所で、鬼とはまた違う存在と戦っていた。
その時に得たものの匂いを、炭治郎は『神様』だと感じたのかもしれない」
「此処とは違う場所で……?
鳴上さんは、一体何と戦っていたんですか?」
鬼とは違う存在、此処とは違う場所。それは一体どう言う意味なのだろうか。
よく分からなくて、俺は首を傾げて訊ねる。
「何、と言われて簡単に説明するのは難しいけど……。
人の心が生み出した怪物、かな。最後には『神様』とも戦ったよ」
「神様と……?」
何故『神様』と戦う必要があるのだろう。
そして、それと戦ったと言う事は、鳴上さんは『神様』に勝ったのだろうか?
益々混乱する俺に、鳴上さんは簡素ながらも説明してくれる。
この世に生きる全ての人々の無意識が集まり揺蕩う『心の海』。
そこに巣食う人の心から生まれてしまった『化け物』を相手に、そこに迷い込んでしまった人々を助け出す為に志を同じくする仲間達と共に戦い続けていた事、そして最後には全ての元凶であり人々の無意識の願いに応えようして世界を滅ぼそうとしていた『神様』と戦ってそれを討ち果たしたのだと。
まるで夢物語の様なその話を、噓偽りの無い匂いと共に鳴上さんは語った。
「炭治郎が信じてくれるのかは分からないけれど、俺が話せる事はこれ位かな……」
「鳴上さんが嘘を言っていないのは匂いで分かるんですけど……。
正直、話が大き過ぎて受け止めきれないと言うか……」
嘘では無いのは分かるのだが、正直戸惑いの方が先に立ってしまう。そして、だからこそ鳴上さんは自分の事について深くは語ろうとしないのだと気付いた。相手の感情の匂いまで嗅ぎ分ける事の出来る俺だからこそそれが事実なのだとは分かるのだけれど、そうでない人がこの話を聞けば、よくて誇大な妄想か、悪くて頭がおかしくなったと判断されるだけだろうから。
「別に墓場まで持っていかなくてはならない秘密って訳でも無いけれど、流石にちょっと信じて貰えそうにない内容だからな……。だから、このままずっと黙っているつもりだった」
でも、と。鳴上さんは俺に優しい眼差しを向ける。
「……こうして炭治郎に話す事が出来て、何と言うのか……少し心が軽くなったんだ。
ありがとう、炭治郎」
「いえ、こちらこそ。俺を信じて貰えて嬉しいです。
……でも、じゃあ鳴上さんには帰る場所も、大事な仲間も居るんじゃないんですか?」
鳴上さんが簡単に説明する中でも、共に戦った仲間達は彼にとって何よりも大切な存在である事は十分以上に伝わって来た。そんな風に大切に想う相手が居るのであれば、益々鬼との戦いに巻き込んでしまってはいけないのではと俺は思うのだが、鳴上さんはそれにはそっと首を横に振る。
「いや、良いんだ。それは気にしなくても良い。
今の俺にとって帰る場所はこの蝶屋敷だし、それに今は炭治郎たちの力になりたいんだ。
俺が出来る事を、出来る限りの事をしたい」
鳴上さんのその言葉からは、何処までも真っ直ぐで温かな優しい匂いがした。
◆◆◆◆◆
あの時確かに一瞬見えたものは一体何だったのだろうか、と。
あの日から、俺は何度も考えていた。
そして考える度に、自分は彼について殆ど何も知らない事に気付く。
本当に優しい人だと言う事は知っている。
心から自分や禰豆子の事を気に掛けてくれている事も知っている。
信頼して良い人である事も、知っている。
でも、それだけだ。それだけだった、と言う事を、あの日心から思い知ったのだ。
鳴上さんが不思議な「力」を使うと言う事は知っていた。その力を使って、蝶屋敷に運ばれた隊士たちを癒したり、他の隊士たちと共に任務に出掛け鬼を狩っていると言う事も。
だがその「力」を俺が実際に目にした事は無かった。あの日までは。
血鬼術によって眠りに落ちた煉獄さんたちを助けた時、そして鬼に唆されていた人達を眠らせた時、鬼が自分の頸を守る為に肉の柱の様な塊になって固めた防御をあっさりと斬り刻んだ時。
鳴上さんが「力」を使う時、彼の匂いは変わる。それはまるで包み込む様な優しい匂いだったり、荒々しい嵐の様な激しさを伴う匂いだったり。それがとても不思議だったけれど、どんな匂いに変わってもその根底にあるそっと寄り添う様な優しい彼の匂いは変わらなかった。
不思議な人だ。そしてきっと、底が全く見えない程に強い人だ。
列車と融合した鬼を倒した時、最後の抵抗とばかりに暴れ回る鬼と一体化した列車に対して、俺は何も出来なかった。吹き飛ばされない様にその場にしがみ付く事が精一杯で、それ以上の事は出来る余裕が無かった。
だが鳴上さんは、自分が列車を止めると言って、そしてその直後に恐ろしい程の暴風がその場に吹き荒れたのだ。
ともすれば俺の身体など一瞬の内に上空高くまで舞い上げてしまう様な、嵐よりも恐ろしい風の暴威が一気に列車に叩き付けられた。だが、激しい風に車体が軋み悲鳴を上げていても、その風は決して列車を押し潰すでも上空に舞い上げるでも無く、暴れ回る列車を無理矢理押さえ付けているかの様に、線路へと押し付け続けていた。あの時の事は、線路を削る様に進む音と、轟々と吹き荒れる風の唸り声だけしか覚えていない。
激しい風に目を開けていられなかった。此処で死ぬかもしれないと、何度思った事だろう。
だが、豪風は俺を吹き飛ばす事は無く、最後まで列車を押さえ続け、そして列車が止まると同時に止んだ。
最後の最後でヒノカミ神楽の影響による疲労で踏ん張れなくなってしまい風に飛ばされたが、それは伊之助が庇ってくれたのでどうにか怪我をせずに済んだ。
疲労から地面へと倒れ込んだ状態で見上げたそこに映ったのは、鬼の肉体の残骸をその至る所に纏わり付かせながらも、大きな損傷も無く線路の上にしっかりと留まっていた列車の姿であった。
それは、「奇跡」と呼ぶべき光景であった。
あの豪風を起こし列車を止めたのは鳴上さんなのだろう。だが、そんな事は本当に人が成し得る事なのだろうか。
鳴上さんは己の力を血鬼術の様なもの、と説明していたが、鬼の中に鳴上さんの様に天変地異にも等しい現象を起こしてしまえる様な血鬼術を使える者など果たして存在しているのだろうか。
少なくとも、列車が止まったその直後にその場を襲撃して来た、猗窩座と名乗る上弦の参にはそう言った現象を起こす様な力は無い様に見えた。無論、そう言った力は無くとも上弦の参の実力は圧倒的であり、柱として俺では並び立つ事の出来ぬ程の強さであった煉獄さんでさえ、自分の命と引き換えに撤退させる事が限界だったのだが。
……ある意味で、あの場に居た者の中で最も強大な力を持っていたのは、上弦の参の鬼では無く、気を喪って倒れていた鳴上さんであったのではないか、と。俺はそうも考えてしまう。そしてそれは中らずと雖も遠からず事実を捉えているのだろう、と俺は確信していた。あの風が吹き荒れていた時、鳴上さんから感じた匂いは、今まで自分が感じた事が無い程に「強い」匂いだったのだ。
そして何よりも。
上弦の参を撤退させた煉獄さんが俺たちの心に火を点けて事切れようとしていた、まさにその時。
ふらふらと何処か覚束無い足取りで俺たちの下へとやって来た鳴上さんが、今にも息絶えようとする煉獄さんの手を優しく取ったその時。
俺は、生まれて初めて「人智を超えた大いなる何か」の存在を、鳴上さんを通して確かに感じた。
あの瞬間の鳴上さんの匂いは、人のそれでは無かった。どんなに匂いが変わった時でも感じられた彼の匂いは、存在していたのかもしれないがそれを遥かに凌駕する強い匂いに搔き消されてしまっていて。
そして、鳴上さんが祈る様に目を閉じてその手に力を込めた時。
僅かに瞬く程の時間にも満たない一瞬、鳴上さんの姿に重なる様に、何か大きな影が見えた。
それを一目見た瞬間、『神様』だ、と。そう俺は確信した。
そして、『神様』の姿が消えたその次の瞬間には。煉獄さんの傷は、すっかり消えてしまっていた。
腹に空いた穴も、潰された目も。全てが元通りで。
服に空いた大穴と、流れ出た血の痕だけが、煉獄さんが致命傷を負った事を示していた。
それは、有り得る筈の無い「奇跡」であった。
人は鬼とは違う。手足を喪えば元に戻る事は出来ないし、負った傷が忽ち治るなんて事も無い。
腹に風穴を空けられれば当然の様に死ぬ。それが人だ。
治療をするにしても限界があり、その限界を超えた者に対して人は何処までも無力なのだ。
だが、その理を引っくり返すかの様に、煉獄さんの傷は消え去った。
荒かった呼吸は穏やかなものとなり、意識以外は全てが五体満足の状態に見えた。
煉獄さんが鬼になったと言う訳では無い。そんな匂いは欠片も無かったし、それに陽光の中で静かに眠るその身体が焼け落ちるなんて事も無い。
煉獄さんは、人のまま、人としての理を引っくり返していた。それを成したのは、間違いなく鳴上さんの力だ。
煉獄さんの傷が消えた直後。鳴上さんは煉獄さんの手を握ったままその場に倒れた。
力を使い過ぎて限界を迎えると倒れてしまうのだと、他ならぬ本人が言っていたので恐らく力尽きてしまったのだろうと言うのは分かる。
だが、倒れた鳴上さんは、先程まで感じていた世界の全てを塗り替えてしまう程の強い匂いは欠片も残っておらず。それどころか、全くと言って良い程にその匂いを感じ取れなくなってしまった。
最初に出逢った時から鳴上さんの存在の匂いはかなり薄かったが、暫くする内に段々とその匂いも濃くなっていって、今となっては他の人とほぼ変わらない位になっていたのに。その全てを喪失してしまったかの様に、彼に一切の匂いが無かった。……このまま鳴上さんが消えてしまうのではないか、と。そう俺が思ってしまう程に。
隠の人達に回収されて蝶屋敷まで運ばれて行った後、鳴上さんも煉獄さんも中々目が覚めなかった。
二人が眠っている間、しのぶさんから何が起きたのかを聞かれたりもしたが、それに上手く答えられた自信は無い。あの時、あの場には伊之助も居たのだが、伊之助は『神様』の影は見なかったらしい。ただ、あの瞬間の鳴上さんの気配が尋常ではないものになっていたのは感じていたそうだが。
あの後、何度か伊之助や善逸とあの時何が起きていたのかを話し合ってみたが、結局何も分からないままだった。善逸に関してはそもそも眠っていた、と言うのもあるのだろうけれども。
結局の所、鳴上さんが目覚めない事には何も分からないままであった。
鳴上さんが目覚めたのはあの戦いから三日が経った日の昼間であった。
しかし、しのぶさんからの聴取が終わった後で疲労が抜けきらなかったのかその日はそのまま眠ってしまったらしく、その翌日は翌日で負傷した隊士たちの治療に奔走していたらしく鳴上さんと話す機会が無く。
そして今日は煉獄さんが目を覚ましたと言う事もあってそれどころでは無かったのだ。
何か話がしたい、と思いつつ中々その機会が無い事に悩んでいると。
すっかり日も沈み辺りが暗くなった頃。鳴上さんが俺を呼び止めた。そして、話がしたいから、と。蝶屋敷の中にある彼の部屋へと呼ばれたのであった。
鳴上さんの部屋は備え付けの家具以外の物が殆ど無い部屋であったが、俺と禰豆子がお邪魔しても問題無く寛げる程度には広い部屋であった。禰豆子は鳴上さんに親切にして貰っている事も有ってかなり彼に懐いているらしく、今も構って欲し気に鳴上さんに纏わり付いている。そんな禰豆子を優しく撫でて、鳴上さんは少し真剣な面持ちで俺に話しかけた。
「炭治郎……実は、君に言わなくてはならない事があるんだ。
もしかしたら、炭治郎にとっては不愉快な事なのかもしれないけれど……どうか、聞いて欲しい」
そう前置きして鳴上さんが話したのは。あの夢を見せる鬼の血鬼術に関しての話であった。
最初、血鬼術には掛からなかった鳴上さんだが、眠ってしまった俺を起こそうとして触れた瞬間、俺が見ていた夢に引き摺り込まれてしまったと言う事。そして、その夢の中を彷徨う内にもっと深い場所にまで落ちてしまい……俺が家族を喪ったあの日の記憶を知ってしまった事を、鳴上さんは心の底から申し訳なく思っているかの様に告白した。
彼の責任では全く無い事ではあるのだが、俺の心の傷を無遠慮に覗く結果になってしまった事をとても気に病んでいた様だ。
「すまない」と繰り返すその目は哀しみに揺れていて、彼から感じるその匂いは俺の事を心から想っている匂いであった。
「そんな……だってそれは鳴上さんの所為ではないですし、それに俺は……」
別に誰かに自分から話す様な事では無いと言うだけで、知られてはいけない秘密と言う訳では無かったのだと、そう言おうとしたその時。鳴上さんがそっと首を横に振ってその言葉の続きを言わせなかった。
「俺が炭治郎の心の傷に触れてしまった事には変わらない。まだ痛み続けているそれに本人の了承も無く触れる事は、どんな事情があったとしても簡単に許して良い事では無いんだ。
……俺は、炭治郎があの日に何を感じていたのか、『炭治郎』として、その記憶を見ていた。
だから、……あの痛みを、そんな風に言ってはいけない」
そして、と。鳴上さんは自分の膝の上をコロコロと転がっていた禰豆子の頭を優しく撫でてから言う。
「そして、前にも言ったけど。俺は炭治郎の力になりたい。
禰豆子ちゃんを人に戻したいんだ、俺も。
不可抗力であっても、炭治郎の記憶を知ってしまったからこそ、より一層そう思っている。
だから、教えてくれ炭治郎。俺に二人の為に出来る事は無いか?」
真っ直ぐに俺を見詰めるその眼差しは真剣そのもので、鳴上さんから感じる匂いも、彼のその言葉が紛れも無い本気のものだと言う事を示している。
その言葉に、俺はどうしようも無く揺らいだ。
禰豆子を人に戻す為の戦いは、どうしたって孤独だった。
善逸や伊之助の様に、或いは煉獄さんの様に、鬼である禰豆子を認めてくれる人は居る。
だけれども、禰豆子を人に戻す為には鬼舞辻無惨に近い鬼の血が必要で。
そしてそんな危険な戦いに善逸たちを巻き込む事なんて出来なくて。
そして鬼舞辻無惨からも鬼殺隊からも身を隠さなければならない珠世さんの事を誰にも明かす事が出来なくて。
全てを喪ったあの日、未来の事なんて何も希望が持てないまま、それでも禰豆子の手を握って歩き出した時よりは、まだ希望の光は見えていると言っても良いのかもしれないが。
しかし、煉獄さんと上弦の参との戦いを目の当たりにして、俺は自分の弱さに心底打ちのめされていた。
自分よりも遥かに遠い場所に居る煉獄さんですら上弦の参には勝てなかった。そして上弦の参の動きに俺は全くと言って良い程に反応出来ていなかったのだ。
鬼舞辻無惨に近い鬼の強さを知って、禰豆子を人に戻すと言う願いがどれ程困難な事なのかを思い知った。
それでも、諦める事なんて絶対に出来ないから、強くなるしか無いのだけれど。
だが、もし。鳴上さんが……その力を貸してくれるのなら。
鬼舞辻に近い上弦の血を集めると言う目標も、夢物語では無くなるのではないか、と。
そう、一瞬でも考えてしまった。
それに、茶々丸を介して手紙のやり取りをした際に、珠世さんは血鬼術を容易く解除してしまえる鳴上さんの力に興味を示していたので、鳴上さんと珠世さんを引き合わせてみても良いかもしれないと前から思っていたのだ。
鳴上さんは鬼殺隊の隊士たちとは違って鬼自体への殺意や拒絶反応は無いので、鬼である珠世さんを前にしても襲い掛かったりはしないだろう。愈史郎さんは良い顔をしないだろうけれども……。
だけれども、と。そんな考えを咎める想いもあった。
鳴上さんが凄い力を持っているのは確かだが、だからと言って血で血を洗う様な苛烈な戦いに引き摺り込んで良い訳では無いだろう。
鳴上さんが優しい心を持っているのは、もう十分な程に分かっている。
復讐の為でも何でも無く、守りたいから、力になりたいから、非道を働き人の世に哀しみを撒き散らし続ける鬼舞辻無惨を赦せないから。そんな理由で、戦う事を選んでしまう程に。その心はどうしたって優しく真っ直ぐだ。
そんな彼を人を喋る肉袋程度にしか思っていないのだろう事は容易に想像が付いてしまう、より鬼舞辻無惨に近い鬼たちとの戦いの場に駆り出してしまう事は。仮に本人が望んでいたとしても、果たして本当に許して良い事なのだろうか。
そんな俺の迷いを見抜いたのか、鳴上さんは更に言葉を重ねた。
「俺は何でも出来る訳じゃない……。
俺の力では禰豆子ちゃんを人に戻す事は出来ないし、過去を変えて炭治郎の家族を助ける事も出来ない。
それでも、俺の力を役立てられる事は、きっとあると思うんだ。
だから、それがどんなに困難な事なのだとしても、出来る事が何かあるのなら、俺にも手伝わせて欲しい。
俺の我儘に付き合わせてしまっているのかもしれないけれど、頼む。力になりたいんだ」
そう言って、鳴上さんは静かに頭を下げる。
流石にそれには俺も慌てた。どうしてそこで鳴上さんが頭を下げるのか。
寧ろ頭を下げてお願いするべきなのは俺の方であるだろうに。
「止めてください鳴上さん。我儘だなんて、そんな……。
ただ、どうしても、危険な事なんです。
だから、そんな事に鳴上さんを巻き込んで良いのか分からなくて……」
「それが必要な事なら、俺はどんな敵とだって戦ってみせるから。
幾らでも巻き込んでくれて構わない。
だから教えて欲しい。何をすれば良い?
俺は炭治郎たちの為に、何が出来る?」
一瞬たりとも躊躇う事の無いその眼差しと匂いに、俺は遂に折れた。
長男だからと耐え続けて来たが、力になりたいと此処まで本気で言ってくれる相手のその想いを、無碍にし続ける事は出来なかったと言う事もある。それとは別に、自分だけで足掻く事の限界を知ったと言う内情もある。
何であれ、俺は鳴上さんの手を取る事を選んだ。
「……禰豆子を人に戻す為には、鬼舞辻無惨の血が濃い鬼の血が必要なんです」
「鬼舞辻無惨の……。それは、十二鬼月、と言う奴らの事か?」
鳴上さんの言葉に頷くと、彼は少しの怯えすら見せずに「分かった」とだけ頷く。
「十二鬼月とやらに出逢えるのかどうかは運みたいなものらしいから確約は出来ないけど、もし遭遇する事があったら必ずその血を採って来る。血を採る際に何か特別な方法が必要だったりするなら教えて欲しい」
十二鬼月と戦えと言ったにも等しいのに鳴上さんはその程度は何て事も無いと言った様に静かに言うので、思わず俺は戸惑ってしまう。
「良いんですか、鳴上さん。十二鬼月と戦うって事は、物凄く危険な事なんですよ?
煉獄さんだって、命を懸けても上弦の参を倒す事は出来なかった……」
その意味を本当に分かっているのだろうか、と思わず困惑してしまう程に鳴上さんの態度は何も変わらない。
しかし、鳴上さんは分かっていると頷く。
「鬼舞辻無惨を倒すには、どの道何時かは戦わなければならない相手だ、構わない。
それに、頼り無く見えるのかもしれないけど、こう見えて戦う事自体には慣れているんだ。だから大丈夫だ。
必ず、禰豆子ちゃんを人間に戻そう」
そう言って優しく微笑んだ鳴上さんのその匂いに、嘘や誇張と言ったものは無い。
十二鬼月と戦う事に本気で躊躇いが無いのだと、否応無しに俺に悟らせる。
だからこそ、どうしても問わずにはいられなかった。
「……鳴上さんは、一体何者なんですか……?」
尋ねてはいけない事なのかもしれないと、そう思いながら。
それでも、知りたかった。
どうしてそこまでして自分達を助けようとしてくれるのか。
どうしてそんな力があるのか。
何処から来たのか、今まで何をしていたのか。
知りたい事は、幾らでも在った。
彼自身が語るまでは待つべき事だったのかもしれないけれども。
俺の言葉に暫し考える様に黙り込んだ鳴上さんは、暫くして少し困った様に微笑んだ。
「俺が何者なのか、か。……正直、俺自身にもあまり分かっていないし、上手く伝えられるかも分からない。
炭治郎には俺がどう見えているんだ?」
逆に訊ね返されて、俺はどう答えるべきか戸惑う。
鳴上さんの匂いは、怒ったり悲しんだりしている様な感じは無く、至って普通で。
だからこそ、答えに迷った。
「……普通の人に、見えます。いえ、見えていました。
でも、煉獄さんを助けたあの時、鳴上さんの匂いは明らかにそれまでとは違っていました」
「鬼みたいな匂いだったのか?」
「いえ、鬼とは全然違いました。でも、何て言ったら良いのか分からないけど。
『神様』の匂いだって、その時は感じたんです」
そう言うと、鳴上さんは「『神様』……」と呟いて暫し考え込む。
そして、言葉を選ぶ様にゆっくりと答えた。
「……俺自身は、『神様』なんかじゃない。普通の『人間』だ。
ただ、俺は此処とは違う場所で、鬼とはまた違う存在と戦っていた。
その時に得たものの匂いを、炭治郎は『神様』だと感じたのかもしれない」
「此処とは違う場所で……?
鳴上さんは、一体何と戦っていたんですか?」
鬼とは違う存在、此処とは違う場所。それは一体どう言う意味なのだろうか。
よく分からなくて、俺は首を傾げて訊ねる。
「何、と言われて簡単に説明するのは難しいけど……。
人の心が生み出した怪物、かな。最後には『神様』とも戦ったよ」
「神様と……?」
何故『神様』と戦う必要があるのだろう。
そして、それと戦ったと言う事は、鳴上さんは『神様』に勝ったのだろうか?
益々混乱する俺に、鳴上さんは簡素ながらも説明してくれる。
この世に生きる全ての人々の無意識が集まり揺蕩う『心の海』。
そこに巣食う人の心から生まれてしまった『化け物』を相手に、そこに迷い込んでしまった人々を助け出す為に志を同じくする仲間達と共に戦い続けていた事、そして最後には全ての元凶であり人々の無意識の願いに応えようして世界を滅ぼそうとしていた『神様』と戦ってそれを討ち果たしたのだと。
まるで夢物語の様なその話を、噓偽りの無い匂いと共に鳴上さんは語った。
「炭治郎が信じてくれるのかは分からないけれど、俺が話せる事はこれ位かな……」
「鳴上さんが嘘を言っていないのは匂いで分かるんですけど……。
正直、話が大き過ぎて受け止めきれないと言うか……」
嘘では無いのは分かるのだが、正直戸惑いの方が先に立ってしまう。そして、だからこそ鳴上さんは自分の事について深くは語ろうとしないのだと気付いた。相手の感情の匂いまで嗅ぎ分ける事の出来る俺だからこそそれが事実なのだとは分かるのだけれど、そうでない人がこの話を聞けば、よくて誇大な妄想か、悪くて頭がおかしくなったと判断されるだけだろうから。
「別に墓場まで持っていかなくてはならない秘密って訳でも無いけれど、流石にちょっと信じて貰えそうにない内容だからな……。だから、このままずっと黙っているつもりだった」
でも、と。鳴上さんは俺に優しい眼差しを向ける。
「……こうして炭治郎に話す事が出来て、何と言うのか……少し心が軽くなったんだ。
ありがとう、炭治郎」
「いえ、こちらこそ。俺を信じて貰えて嬉しいです。
……でも、じゃあ鳴上さんには帰る場所も、大事な仲間も居るんじゃないんですか?」
鳴上さんが簡単に説明する中でも、共に戦った仲間達は彼にとって何よりも大切な存在である事は十分以上に伝わって来た。そんな風に大切に想う相手が居るのであれば、益々鬼との戦いに巻き込んでしまってはいけないのではと俺は思うのだが、鳴上さんはそれにはそっと首を横に振る。
「いや、良いんだ。それは気にしなくても良い。
今の俺にとって帰る場所はこの蝶屋敷だし、それに今は炭治郎たちの力になりたいんだ。
俺が出来る事を、出来る限りの事をしたい」
鳴上さんのその言葉からは、何処までも真っ直ぐで温かな優しい匂いがした。
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