第二章 【夢幻に眠る】
◆◆◆◆◆
黎明の陽光に照らされながら、己の命の灯が消えて行く様を感じていた。
助からないのは、分かっていた。
だが、自分以外の全てを守る事が出来た。
乗客たちも、そして年若い隊士たちも。誰も、死なせずに済んだ。
託すべきものは、もう託した。
だから……。
母上……俺はちゃんとやれただろうか。
やるべき事、果たすべき事を、全う出来ましたか?
── 立派に、出来ましたよ。
最後に、と、そう問い掛けたその心の声に。
確かに求めていた声が答えてくれた事に、満たされた様な幸せを感じて。
満足して、目を閉じた。
── ……ですが杏寿郎、あなたにはまだやるべき事が残っていますよ。
── 千寿郎と、あの人を、……頼みます。
凛とした声の中に確かな優しさを感じる母の言葉と共に、意識が温かな暗闇の中へと落ちて行くのを寸前で留めようとする手を感じた。
ふと目を開けると、そこは蝶屋敷の病室だった。
外から薫る花の香に混ざる薬品の独特の匂いは一度覚えたら中々忘れない。
自分が死んだ事は分かっている。あの傷で助かる事は無い。しかし、黄泉の国なのに蝶屋敷があると言うのも何とも奇妙な事だ。
身を起こそうとして、そしてその時に視界が何時もとは違う事に気付いて、目に手をやる。
右眼は見えているが……どうやら左眼の視力は喪われているらしい。
左眼が潰されたのは、覚えているのでそこに困惑は無いが。
だが、左眼以外の負傷はどうなったのだろう。
致命傷となった風穴を空けられた筈の腹は、触れても全く痛みは無く。折れた筈の肋の痛みも、全身に負っていた筈の打撲の痛みも、完全に消え去っている。
それ自体は、もう既に死んでいるので傷が無いのはおかしな話では無いのだろう。しかし、死後の世界なのに、左眼だけ喪っていると言うのも奇妙なものだった。
まだ少しぼんやりとしている頭で状況を把握しようと努めていると。
病室の扉が開いて誰かが入って来る。
「煉獄さん……! 目が覚めたんですね……!!
待っててください、今、しのぶさんを呼んできます……!!」
目覚めていた俺の顔を驚きと共に見詰めた後に、今にも泣きそうな程に嬉しそうな顔で微笑んだのは。
最後の任務を共にした、鳴上少年であった。
彼は、俺が何かを問う前にその身を翻す様にして病室を出て行ってしまう。
どういう事だ? どうして彼が此処に……黄泉の国に居るのだろうか。
彼は自分の記憶が正しければ、死んではいない筈である。
あの場に居た全員を、命を懸けて守り抜いた筈であるのだから。
俺は状況を呑み込み切れずに困惑する。
だがその困惑が解消される前に、鳴上少年に呼ばれたのだろう胡蝶が病室にやって来た。
「煉獄さん、お目覚めになられたのですね。お身体の具合は如何ですか?」
「身体の具合は、左眼以外は問題無い様に思う。
此処は、黄泉の国ではないのか? 俺は死んだ筈だが……」
まだ混乱の中に在る為、何時もよりも言葉に歯切れが悪くなる。
何故胡蝶が此処に居るのだ? 此処は黄泉の国では無く、死の間際に見ている夢の中か?
「左眼が……。見た所眼球の形はちゃんと整っていますが、視力が無いのかもしれませんね。
上弦との戦いで左眼は潰された、と炭治郎くん達が言っていましたし。
それと、此処は黄泉の国ではありませんよ。ちゃんとこの世に在る蝶屋敷の病室です。
煉獄さんは助かったんですよ」
己はまだ生きているのだと、そう告げられて。
俺は益々混乱する。そんな事は有り得ないと、自分が何よりも知っているのだから。
「いや、あれは何をしても助かるものでは無いだろう。
それ位の事は医者じゃなくても分かる」
「腹に風穴を空けられた、と炭治郎くんが言っていたのは本当だったんですね。
こうして診る分にはとてもそうとは思えませんが……。
煉獄さんは、鳴上くんの『力』によって一命を取り留めたそうです」
「鳴上少年の……?」
そう言われて思い浮かぶのは、血鬼術などを解除する他に傷を癒す事も出来ると、そう胡蝶から報告されていた彼の『力』の事だ。だが、もう既に黄泉路を下っているも同然であった状態からこの世に引き戻す様な『力』が本当に彼にあるのだろうか。
最後に腹に食らった致命傷となった一撃は、それこそあの不愉快な上弦の参の鬼が言っていた様に、鬼になって人の理を捨てるでもしなければ癒える筈など無いものなのに……。
だが、確かに受けた筈の傷は、それが幻であったかの様に傷痕を残す事すら無く消えている。あの死闘の証は、視力を喪った左眼だけだが……胡蝶の言によれば目の形自体はすっかり元通りになっているらしい。
まさか、と最悪の想像が頭を過る。
だが、その想像を見抜いた上で否定するかの様に、胡蝶は首を横に振った。
「煉獄さんは人のままですよ。少なくとも、鬼に成ったりはしていません。
調べられる限り調べましたが、その左眼の視力以外の何処にも異常は無いようです」
「そんな事が起こり得るのか……?」
そんな事は、それこそ神仏が齎す奇跡でも無いと起こり得ない事であろう。そしてこの世には神も仏も居ない。
実際に居たとしても、下界の事柄に関与する事は無く天上の世界に在るだけだ。
そうでなければ、鬼舞辻無惨や彼の生み出した鬼の様な存在を千年以上も『放逐』したりはしないだろう。
「私も報告を聞くだけでは到底信じられないのですが……。
煉獄さんが上弦の参と戦い致命傷を受けてもその場の人々を守った事と、死に行く煉獄さんに対して鳴上くんが何らかの『力』を使ってその傷を癒した事は事実です。
隠たちが現場に到着した時には、煉獄さんは血溜まりの中に傷一つ無く倒れていて、その手を握る様にして鳴上くんも倒れていたそうです。
その後、鳴上くんは三日、煉獄さんは五日、意識が戻りませんでした」
戦闘に関する出来事は、その場に居合わせて一部始終を目撃していた竈門少年と猪頭少年から聴取したらしい。
しかし、彼等の目から見ても、俺と上弦の参との戦いは強さの次元が違い過ぎた為具体的な相手の力を把握する事は難しく。その後、夜明けを迎えて上弦の参がその場を逃走した後で起きた事。……鳴上少年が、その力を使って致命傷を負っていた筈の俺を「蘇らせた」事に関しては、二人の目からは何が起きたのか全く分からなかったらしい。
意識が戻った後の鳴上少年に事情を聴取しても、上弦の参との戦いの際には気を喪っていたらしくそもそも何が起きていたのか分かっていなかったし、その後の自身が起こした筈の事ですら、あまり要領を得ない様な曖昧な答えしか返って来なかった。
その為、胡蝶は俺が目覚めるのを待っていた、と言う訳であった。
とは言え、上弦の参……猗窩座と名乗ったあの鬼との戦いの事ならば仔細に報告出来るのだが、鳴上少年に命を救われた部分に関してはその時点で意識が殆ど消えていた為、何があったのか寧ろ俺の方が誰かに教えて欲しい位であった。
上弦の参との戦いの仔細を聞き取りながらお館様へと報告する為の書面を認める胡蝶は、その戦いの結末までを書き切った時、深い溜息を吐いた。
「こんな相手からよくあの場の全員を守り切れましたね。
煉獄さんは、本当に凄い人です」
だからこそ、と。胡蝶はその眼差しを陰らせる。
上弦の参は、鬼殺隊の千年の歴史の中で隊士たちが相対した記録のある鬼の中でも、次元が違う力を持っている事が明らかであったからだ。現在柱の位を戴く者達の中でも、踏んだ場数で言えばそれなり以上ではあると自負している俺でも、一人で相対すれば命は無かった。あの場に鳴上少年が居なければ、命を落としていた事は確実である。
そしてより最悪なのは、上弦の参には「まだ余裕があった」と言う事だ。あの鬼は、理解し難い事だが相対した相手を鬼に勧誘する為に、相手の力量を見極めた上で即死はさせまいと加減する余裕があったのだ。
……あの拳鬼よりも強い鬼が二体も配下に居るとなれば、鬼舞辻無惨の強さとはどれ程のものなのか。
全く想像すらしたくない程に、残酷な力の差が其処には在った。
それでも、実際に上弦の参と相対した俺が奇跡的に生還して、その情報を伝える事が出来た事には、途方も無い価値がある。竈門少年と猪頭少年の報告だけでは分からない部分も、大分詳細が明らかになったからだ。
そして、その奇跡を成し遂げたのは……。
「……胡蝶、鳴上少年は、一体何者なんだ?」
俺は、胡蝶にそう問わずにはいられなかった。
そもそもの、彼の人を癒す力と言うものだって途方も無い程の価値があるものだし、実際にその『力』で命永らえたからこそ分かる。その『力』は異質に過ぎる。神の奇跡にも匹敵するものだろう。
一体何処からやって来たのか、今まで何をして生きてきたのか。その一切が不明である。
人ではなく巧妙に偽装している鬼なのではないかと言う意見も柱の中では上がったが、日中も元気に動き回っている姿や真摯に他者に接するその姿を見ていると、鬼とは程遠い存在にしか思えない。
不可思議な力を持つ事以外は至って普通で。他者を心から思いやれる優しさに溢れた、心根の綺麗な者だと言う事も直ぐに分かる。だが、その『力』が余りにも異質に過ぎるのだ。
死に行くしか無かった俺の命を繋ぎ止める事すら可能な癒しの力もそうだが、列車が横転しかけた時にそれを押さえ込む様に吹き荒れた豪風も恐らくは彼の力である。
いっそ、神や仏がその姿を偽って地上に降りて来ていると言われた方がまだ納得がいく。妖怪変化の類でも納得出来るだろう。だが、彼は何処までも人間であった。
だからこそその正体を知りたいと思い、他の柱の誰よりもその近くで彼を観察していた胡蝶に訊ねた。
しかし、胡蝶もそっと首を横に振る。
「残念ながら、私にも何も分かりません。
鳴上くんについて分かっている事は、お館様に報告しているものが全てです。
ただ……」
ふとそこで言葉を切った胡蝶は、普段浮かべている笑顔とは何処と無く違う表情で微笑む。
「彼が、人に仇成す事など決して無い、優しい心を持った人である事は、確かだと思います」
確信している様にそう言い切った胡蝶に、俺も頷くのであった。
◆◆◆◆◆
胡蝶による診察及び聞き取りが終わるや否や、病室に竈門少年と猪頭少年と黄色い少年が押しかけて来た。彼等は皆、多少の打ち身程度の負傷で済んだ為、あの戦いの翌日には元気に走り回れる様になっていたらしい。その為、目覚めの遅かった鳴上少年や俺の事を心配していたらしい。
そして、どうやら竈門少年は、俺が目覚めていない間に、煉獄家に行って来たのだと言う。何時昏睡状態から醒めるのか分からない、と胡蝶が言った為、あの日遺言として遺そうとした言葉を、遺言では無くなったとしても早く伝えたかったそうだ。そこで若干一悶着起こしてしまった……と竈門少年は謝罪してきたが、それに関してはどう聞いても父にかなりの責任がある事だったので気にしないで欲しかった。俺が一命を取り留めた事と遺言として遺そうとした言葉を知った千寿郎は涙を零しながら感謝したそうだ。
ちなみに、俺が意識を取り戻した事は、鎹鴉が既に煉獄家に伝えに行ったらしい。
竈門少年と猪頭少年は、あの戦いの時に何も出来なかった無力に打ち拉がれている様であった。
だが彼等は大きな可能性を秘めたまだ若い芽なのだ。そこで蹲る必要は無い。
その為、「心を燃やせ」と。そう発破を掛けると、どうやら彼等の心に火を着けたらしく、早速鍛錬をするからと近くの山に走り込みに行った。元気なのは良い事だ。
それから少しして。鳴上少年が少し思い詰めた様な顔で静かにやって来た。
「煉獄さん……あの……しのぶさんから、聞きました。
左眼が、見えていないって……」
「ああ、その様だ」
そう答えると、鳴上少年は辛そうにその眼差しを揺らす。
「……すみません。俺の力が、至らなかったばかりに。
片目を、元通りにする事が出来なくて……」
どうやら、本気で心を痛めているらしく。鳴上少年は罪悪感から自分を責めているとしか思えない声音でそんな事を言う。
これには俺も流石に驚いた。
そもそも、致命傷を負って死んだも同然だった所を助けて貰っているのだ。確かに、片目を喪った影響は少なくは無いが、腕や足を喪った訳では無いので剣士としての生命が絶たれた訳でも無い。
暫くは感覚を掴む為の鍛錬が必要になるだろうが、そう時を置かずして前線に復帰出来るだろう。
紛れも無い命の恩人に感謝しこそすれ、それを責める事など有り得ない事だった。
「鳴上少年が助けてくれなければ、左眼どころか命すら喪っていた所だ。
鳴上少年は俺の命を救ったと言うのに、どうして自分を責めるんだ?」
「それは……。剣士としては、急に片目を喪うのはかなりの痛手である筈です。遠近感が掴み難くなるし、鬼との戦いの中ではそれは命取りになりかねない。
俺がもっと早く起きて煉獄さんの所に辿り着いていれば……そもそも列車が止まった後に倒れたりしなければ、煉獄さん一人が上弦の参と戦ってその様な傷を負う様な事も無かったかもしれないのに……」
間に合わなかった、と。鳴上少年はそう己を責めているかの様だった。自分には戦う力があるのに、と。
鳴上少年が上弦の参との戦いの場に居合わせたとしてどれ程の事が出来たのかは、今となっては分からない。
彼の尋常ならざる力を考えれば、上弦の参を仕留める事こそ出来ずとももっと楽に撃退出来ていたのかも知れないし、もしかしたらあの場であの鬼に勝てる力が彼にはあったのかも知れない。だが、全ては今となっては「たられば」にしかならず、俺が傷を負いながらも上弦の参を撤退させた事と、死に行く俺を鳴上少年が助けた事だけが事実である。
それに。
「だが、君はあの列車が横転する事を防いだ。それは俺の力では成し得なかった事だ。
君がした事によって、多くの人が助かった。あの状況で、乗客に負傷者が殆ど出なかった事は奇跡に等しい。
……鳴上少年。君の選択は、正しかった。君があの刹那に選び取った事は、大勢を救ったんだ。
そして、上弦の参との戦いにこそ間に合わなかったのだとしても、君は俺の命を救った。
君は、何一つとして取り零さなかった。
だから、胸を張れ。君が助けた者達に、そんな顔を向けるんじゃない」
例え神にも等しき力を持っているのだとしても、それでも、彼は人間だった。
悩み、傷付き、誰かの痛みを哀しみとして受け止め。未来を見通す事など出来ぬままにその刹那に選択していかなければならない、そんな……俺たちと同じ人間だ。
その手は全てを抱えきる事など出来ず。それでも精一杯に自分の目の前の者を守る為に力を振り絞る。
恐らく彼は何度もそうやって選び取って来たのだろう。だからこそ、その優しさが彼を形作っている。
人は何時だって選ばなければならない。選べなかった道の先を知る事は出来ない。それでも「もしも」を考えてしまうのが人と言う存在なのだとしたら。俺が彼に言える事は、たった一つだけだった。
『守る事が出来た者達に対して、胸を張って生きろ』、と。
鳴上少年は、俺の言葉に、ハッとした様に顔を上げて。
そして暫しの沈黙の後に、その目に静かに涙を浮かべる。
「俺は……。……もう、誰にも喪って欲しくなかったんです。
目の前の大切な人達が、もう何も喪わなくても良い様に、したかった。
もうこれ以上、誰かを喪わなくても良い様に、何かを喪わなくても良い様に。
鬼に、これ以上何も奪わせない様に。そう、したかった。
それが綺麗事なのは、分かっているんです。
だって、誰もが命すら懸けて戦い続ける事を選んだ人たちなんだから。
それでも、俺は……その為に自分が出来る事を、したかった……」
だから、俺に片目の視力を喪わせてしまった事を、ここまで責めているのだろう。
しかし、そうでは無い。彼は喪わせてしまったのではなく、守り切ったのだ。
その事を、誇って欲しかった。
「左眼の事は気にするな。鬼殺隊に身を置く者として、そうなる覚悟は常に出来ている。
それよりも、俺の命を救ってくれた事に、礼を言わせてくれ。
ありがとう。君のお陰で、俺はまだやるべき事を成し遂げられる。
……よく、頑張ったな。ありがとう」
命を懸ける事に躊躇いは無い。
だが、こうして生き延びる事が出来た時、真っ先に考えたのは大切な家族の姿であった。
黄泉路を下りかけ朦朧とした意識の中で母が託した様に、俺にはまだやるべき事も守るべき者も沢山残されている。何よりも、千寿郎を置いて逝かずにすんだ事を心から感謝している。
それを、鳴上少年に伝えたかった。
「俺は……」
その目に浮かべていた涙の雫が、静かに彼の頬を伝い落ちる。
こうして改めて見ると、彼は本当に普通の青年だった。
自分よりも幾つか年下の、これからまだまだ成長してゆく若い芽だ。
よくやった、と。弟にする様にその頭を軽く撫でてやると、鳴上少年は益々静かに涙を零す。
その涙の温かさは、間違いなく人のそれであった。
彼が何者であるのかは分からない。
ただ、彼のその心が何処までも人の優しさと温かさに満ちている事は分かる。
そして、それだけで十分だと。そう俺は心から思うのであった。
◆◆◆◆◆
黎明の陽光に照らされながら、己の命の灯が消えて行く様を感じていた。
助からないのは、分かっていた。
だが、自分以外の全てを守る事が出来た。
乗客たちも、そして年若い隊士たちも。誰も、死なせずに済んだ。
託すべきものは、もう託した。
だから……。
母上……俺はちゃんとやれただろうか。
やるべき事、果たすべき事を、全う出来ましたか?
── 立派に、出来ましたよ。
最後に、と、そう問い掛けたその心の声に。
確かに求めていた声が答えてくれた事に、満たされた様な幸せを感じて。
満足して、目を閉じた。
── ……ですが杏寿郎、あなたにはまだやるべき事が残っていますよ。
── 千寿郎と、あの人を、……頼みます。
凛とした声の中に確かな優しさを感じる母の言葉と共に、意識が温かな暗闇の中へと落ちて行くのを寸前で留めようとする手を感じた。
ふと目を開けると、そこは蝶屋敷の病室だった。
外から薫る花の香に混ざる薬品の独特の匂いは一度覚えたら中々忘れない。
自分が死んだ事は分かっている。あの傷で助かる事は無い。しかし、黄泉の国なのに蝶屋敷があると言うのも何とも奇妙な事だ。
身を起こそうとして、そしてその時に視界が何時もとは違う事に気付いて、目に手をやる。
右眼は見えているが……どうやら左眼の視力は喪われているらしい。
左眼が潰されたのは、覚えているのでそこに困惑は無いが。
だが、左眼以外の負傷はどうなったのだろう。
致命傷となった風穴を空けられた筈の腹は、触れても全く痛みは無く。折れた筈の肋の痛みも、全身に負っていた筈の打撲の痛みも、完全に消え去っている。
それ自体は、もう既に死んでいるので傷が無いのはおかしな話では無いのだろう。しかし、死後の世界なのに、左眼だけ喪っていると言うのも奇妙なものだった。
まだ少しぼんやりとしている頭で状況を把握しようと努めていると。
病室の扉が開いて誰かが入って来る。
「煉獄さん……! 目が覚めたんですね……!!
待っててください、今、しのぶさんを呼んできます……!!」
目覚めていた俺の顔を驚きと共に見詰めた後に、今にも泣きそうな程に嬉しそうな顔で微笑んだのは。
最後の任務を共にした、鳴上少年であった。
彼は、俺が何かを問う前にその身を翻す様にして病室を出て行ってしまう。
どういう事だ? どうして彼が此処に……黄泉の国に居るのだろうか。
彼は自分の記憶が正しければ、死んではいない筈である。
あの場に居た全員を、命を懸けて守り抜いた筈であるのだから。
俺は状況を呑み込み切れずに困惑する。
だがその困惑が解消される前に、鳴上少年に呼ばれたのだろう胡蝶が病室にやって来た。
「煉獄さん、お目覚めになられたのですね。お身体の具合は如何ですか?」
「身体の具合は、左眼以外は問題無い様に思う。
此処は、黄泉の国ではないのか? 俺は死んだ筈だが……」
まだ混乱の中に在る為、何時もよりも言葉に歯切れが悪くなる。
何故胡蝶が此処に居るのだ? 此処は黄泉の国では無く、死の間際に見ている夢の中か?
「左眼が……。見た所眼球の形はちゃんと整っていますが、視力が無いのかもしれませんね。
上弦との戦いで左眼は潰された、と炭治郎くん達が言っていましたし。
それと、此処は黄泉の国ではありませんよ。ちゃんとこの世に在る蝶屋敷の病室です。
煉獄さんは助かったんですよ」
己はまだ生きているのだと、そう告げられて。
俺は益々混乱する。そんな事は有り得ないと、自分が何よりも知っているのだから。
「いや、あれは何をしても助かるものでは無いだろう。
それ位の事は医者じゃなくても分かる」
「腹に風穴を空けられた、と炭治郎くんが言っていたのは本当だったんですね。
こうして診る分にはとてもそうとは思えませんが……。
煉獄さんは、鳴上くんの『力』によって一命を取り留めたそうです」
「鳴上少年の……?」
そう言われて思い浮かぶのは、血鬼術などを解除する他に傷を癒す事も出来ると、そう胡蝶から報告されていた彼の『力』の事だ。だが、もう既に黄泉路を下っているも同然であった状態からこの世に引き戻す様な『力』が本当に彼にあるのだろうか。
最後に腹に食らった致命傷となった一撃は、それこそあの不愉快な上弦の参の鬼が言っていた様に、鬼になって人の理を捨てるでもしなければ癒える筈など無いものなのに……。
だが、確かに受けた筈の傷は、それが幻であったかの様に傷痕を残す事すら無く消えている。あの死闘の証は、視力を喪った左眼だけだが……胡蝶の言によれば目の形自体はすっかり元通りになっているらしい。
まさか、と最悪の想像が頭を過る。
だが、その想像を見抜いた上で否定するかの様に、胡蝶は首を横に振った。
「煉獄さんは人のままですよ。少なくとも、鬼に成ったりはしていません。
調べられる限り調べましたが、その左眼の視力以外の何処にも異常は無いようです」
「そんな事が起こり得るのか……?」
そんな事は、それこそ神仏が齎す奇跡でも無いと起こり得ない事であろう。そしてこの世には神も仏も居ない。
実際に居たとしても、下界の事柄に関与する事は無く天上の世界に在るだけだ。
そうでなければ、鬼舞辻無惨や彼の生み出した鬼の様な存在を千年以上も『放逐』したりはしないだろう。
「私も報告を聞くだけでは到底信じられないのですが……。
煉獄さんが上弦の参と戦い致命傷を受けてもその場の人々を守った事と、死に行く煉獄さんに対して鳴上くんが何らかの『力』を使ってその傷を癒した事は事実です。
隠たちが現場に到着した時には、煉獄さんは血溜まりの中に傷一つ無く倒れていて、その手を握る様にして鳴上くんも倒れていたそうです。
その後、鳴上くんは三日、煉獄さんは五日、意識が戻りませんでした」
戦闘に関する出来事は、その場に居合わせて一部始終を目撃していた竈門少年と猪頭少年から聴取したらしい。
しかし、彼等の目から見ても、俺と上弦の参との戦いは強さの次元が違い過ぎた為具体的な相手の力を把握する事は難しく。その後、夜明けを迎えて上弦の参がその場を逃走した後で起きた事。……鳴上少年が、その力を使って致命傷を負っていた筈の俺を「蘇らせた」事に関しては、二人の目からは何が起きたのか全く分からなかったらしい。
意識が戻った後の鳴上少年に事情を聴取しても、上弦の参との戦いの際には気を喪っていたらしくそもそも何が起きていたのか分かっていなかったし、その後の自身が起こした筈の事ですら、あまり要領を得ない様な曖昧な答えしか返って来なかった。
その為、胡蝶は俺が目覚めるのを待っていた、と言う訳であった。
とは言え、上弦の参……猗窩座と名乗ったあの鬼との戦いの事ならば仔細に報告出来るのだが、鳴上少年に命を救われた部分に関してはその時点で意識が殆ど消えていた為、何があったのか寧ろ俺の方が誰かに教えて欲しい位であった。
上弦の参との戦いの仔細を聞き取りながらお館様へと報告する為の書面を認める胡蝶は、その戦いの結末までを書き切った時、深い溜息を吐いた。
「こんな相手からよくあの場の全員を守り切れましたね。
煉獄さんは、本当に凄い人です」
だからこそ、と。胡蝶はその眼差しを陰らせる。
上弦の参は、鬼殺隊の千年の歴史の中で隊士たちが相対した記録のある鬼の中でも、次元が違う力を持っている事が明らかであったからだ。現在柱の位を戴く者達の中でも、踏んだ場数で言えばそれなり以上ではあると自負している俺でも、一人で相対すれば命は無かった。あの場に鳴上少年が居なければ、命を落としていた事は確実である。
そしてより最悪なのは、上弦の参には「まだ余裕があった」と言う事だ。あの鬼は、理解し難い事だが相対した相手を鬼に勧誘する為に、相手の力量を見極めた上で即死はさせまいと加減する余裕があったのだ。
……あの拳鬼よりも強い鬼が二体も配下に居るとなれば、鬼舞辻無惨の強さとはどれ程のものなのか。
全く想像すらしたくない程に、残酷な力の差が其処には在った。
それでも、実際に上弦の参と相対した俺が奇跡的に生還して、その情報を伝える事が出来た事には、途方も無い価値がある。竈門少年と猪頭少年の報告だけでは分からない部分も、大分詳細が明らかになったからだ。
そして、その奇跡を成し遂げたのは……。
「……胡蝶、鳴上少年は、一体何者なんだ?」
俺は、胡蝶にそう問わずにはいられなかった。
そもそもの、彼の人を癒す力と言うものだって途方も無い程の価値があるものだし、実際にその『力』で命永らえたからこそ分かる。その『力』は異質に過ぎる。神の奇跡にも匹敵するものだろう。
一体何処からやって来たのか、今まで何をして生きてきたのか。その一切が不明である。
人ではなく巧妙に偽装している鬼なのではないかと言う意見も柱の中では上がったが、日中も元気に動き回っている姿や真摯に他者に接するその姿を見ていると、鬼とは程遠い存在にしか思えない。
不可思議な力を持つ事以外は至って普通で。他者を心から思いやれる優しさに溢れた、心根の綺麗な者だと言う事も直ぐに分かる。だが、その『力』が余りにも異質に過ぎるのだ。
死に行くしか無かった俺の命を繋ぎ止める事すら可能な癒しの力もそうだが、列車が横転しかけた時にそれを押さえ込む様に吹き荒れた豪風も恐らくは彼の力である。
いっそ、神や仏がその姿を偽って地上に降りて来ていると言われた方がまだ納得がいく。妖怪変化の類でも納得出来るだろう。だが、彼は何処までも人間であった。
だからこそその正体を知りたいと思い、他の柱の誰よりもその近くで彼を観察していた胡蝶に訊ねた。
しかし、胡蝶もそっと首を横に振る。
「残念ながら、私にも何も分かりません。
鳴上くんについて分かっている事は、お館様に報告しているものが全てです。
ただ……」
ふとそこで言葉を切った胡蝶は、普段浮かべている笑顔とは何処と無く違う表情で微笑む。
「彼が、人に仇成す事など決して無い、優しい心を持った人である事は、確かだと思います」
確信している様にそう言い切った胡蝶に、俺も頷くのであった。
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胡蝶による診察及び聞き取りが終わるや否や、病室に竈門少年と猪頭少年と黄色い少年が押しかけて来た。彼等は皆、多少の打ち身程度の負傷で済んだ為、あの戦いの翌日には元気に走り回れる様になっていたらしい。その為、目覚めの遅かった鳴上少年や俺の事を心配していたらしい。
そして、どうやら竈門少年は、俺が目覚めていない間に、煉獄家に行って来たのだと言う。何時昏睡状態から醒めるのか分からない、と胡蝶が言った為、あの日遺言として遺そうとした言葉を、遺言では無くなったとしても早く伝えたかったそうだ。そこで若干一悶着起こしてしまった……と竈門少年は謝罪してきたが、それに関してはどう聞いても父にかなりの責任がある事だったので気にしないで欲しかった。俺が一命を取り留めた事と遺言として遺そうとした言葉を知った千寿郎は涙を零しながら感謝したそうだ。
ちなみに、俺が意識を取り戻した事は、鎹鴉が既に煉獄家に伝えに行ったらしい。
竈門少年と猪頭少年は、あの戦いの時に何も出来なかった無力に打ち拉がれている様であった。
だが彼等は大きな可能性を秘めたまだ若い芽なのだ。そこで蹲る必要は無い。
その為、「心を燃やせ」と。そう発破を掛けると、どうやら彼等の心に火を着けたらしく、早速鍛錬をするからと近くの山に走り込みに行った。元気なのは良い事だ。
それから少しして。鳴上少年が少し思い詰めた様な顔で静かにやって来た。
「煉獄さん……あの……しのぶさんから、聞きました。
左眼が、見えていないって……」
「ああ、その様だ」
そう答えると、鳴上少年は辛そうにその眼差しを揺らす。
「……すみません。俺の力が、至らなかったばかりに。
片目を、元通りにする事が出来なくて……」
どうやら、本気で心を痛めているらしく。鳴上少年は罪悪感から自分を責めているとしか思えない声音でそんな事を言う。
これには俺も流石に驚いた。
そもそも、致命傷を負って死んだも同然だった所を助けて貰っているのだ。確かに、片目を喪った影響は少なくは無いが、腕や足を喪った訳では無いので剣士としての生命が絶たれた訳でも無い。
暫くは感覚を掴む為の鍛錬が必要になるだろうが、そう時を置かずして前線に復帰出来るだろう。
紛れも無い命の恩人に感謝しこそすれ、それを責める事など有り得ない事だった。
「鳴上少年が助けてくれなければ、左眼どころか命すら喪っていた所だ。
鳴上少年は俺の命を救ったと言うのに、どうして自分を責めるんだ?」
「それは……。剣士としては、急に片目を喪うのはかなりの痛手である筈です。遠近感が掴み難くなるし、鬼との戦いの中ではそれは命取りになりかねない。
俺がもっと早く起きて煉獄さんの所に辿り着いていれば……そもそも列車が止まった後に倒れたりしなければ、煉獄さん一人が上弦の参と戦ってその様な傷を負う様な事も無かったかもしれないのに……」
間に合わなかった、と。鳴上少年はそう己を責めているかの様だった。自分には戦う力があるのに、と。
鳴上少年が上弦の参との戦いの場に居合わせたとしてどれ程の事が出来たのかは、今となっては分からない。
彼の尋常ならざる力を考えれば、上弦の参を仕留める事こそ出来ずとももっと楽に撃退出来ていたのかも知れないし、もしかしたらあの場であの鬼に勝てる力が彼にはあったのかも知れない。だが、全ては今となっては「たられば」にしかならず、俺が傷を負いながらも上弦の参を撤退させた事と、死に行く俺を鳴上少年が助けた事だけが事実である。
それに。
「だが、君はあの列車が横転する事を防いだ。それは俺の力では成し得なかった事だ。
君がした事によって、多くの人が助かった。あの状況で、乗客に負傷者が殆ど出なかった事は奇跡に等しい。
……鳴上少年。君の選択は、正しかった。君があの刹那に選び取った事は、大勢を救ったんだ。
そして、上弦の参との戦いにこそ間に合わなかったのだとしても、君は俺の命を救った。
君は、何一つとして取り零さなかった。
だから、胸を張れ。君が助けた者達に、そんな顔を向けるんじゃない」
例え神にも等しき力を持っているのだとしても、それでも、彼は人間だった。
悩み、傷付き、誰かの痛みを哀しみとして受け止め。未来を見通す事など出来ぬままにその刹那に選択していかなければならない、そんな……俺たちと同じ人間だ。
その手は全てを抱えきる事など出来ず。それでも精一杯に自分の目の前の者を守る為に力を振り絞る。
恐らく彼は何度もそうやって選び取って来たのだろう。だからこそ、その優しさが彼を形作っている。
人は何時だって選ばなければならない。選べなかった道の先を知る事は出来ない。それでも「もしも」を考えてしまうのが人と言う存在なのだとしたら。俺が彼に言える事は、たった一つだけだった。
『守る事が出来た者達に対して、胸を張って生きろ』、と。
鳴上少年は、俺の言葉に、ハッとした様に顔を上げて。
そして暫しの沈黙の後に、その目に静かに涙を浮かべる。
「俺は……。……もう、誰にも喪って欲しくなかったんです。
目の前の大切な人達が、もう何も喪わなくても良い様に、したかった。
もうこれ以上、誰かを喪わなくても良い様に、何かを喪わなくても良い様に。
鬼に、これ以上何も奪わせない様に。そう、したかった。
それが綺麗事なのは、分かっているんです。
だって、誰もが命すら懸けて戦い続ける事を選んだ人たちなんだから。
それでも、俺は……その為に自分が出来る事を、したかった……」
だから、俺に片目の視力を喪わせてしまった事を、ここまで責めているのだろう。
しかし、そうでは無い。彼は喪わせてしまったのではなく、守り切ったのだ。
その事を、誇って欲しかった。
「左眼の事は気にするな。鬼殺隊に身を置く者として、そうなる覚悟は常に出来ている。
それよりも、俺の命を救ってくれた事に、礼を言わせてくれ。
ありがとう。君のお陰で、俺はまだやるべき事を成し遂げられる。
……よく、頑張ったな。ありがとう」
命を懸ける事に躊躇いは無い。
だが、こうして生き延びる事が出来た時、真っ先に考えたのは大切な家族の姿であった。
黄泉路を下りかけ朦朧とした意識の中で母が託した様に、俺にはまだやるべき事も守るべき者も沢山残されている。何よりも、千寿郎を置いて逝かずにすんだ事を心から感謝している。
それを、鳴上少年に伝えたかった。
「俺は……」
その目に浮かべていた涙の雫が、静かに彼の頬を伝い落ちる。
こうして改めて見ると、彼は本当に普通の青年だった。
自分よりも幾つか年下の、これからまだまだ成長してゆく若い芽だ。
よくやった、と。弟にする様にその頭を軽く撫でてやると、鳴上少年は益々静かに涙を零す。
その涙の温かさは、間違いなく人のそれであった。
彼が何者であるのかは分からない。
ただ、彼のその心が何処までも人の優しさと温かさに満ちている事は分かる。
そして、それだけで十分だと。そう俺は心から思うのであった。
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