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遠く時の環の接する処で

◇◇◇◇◇




 緊張で震えそうになる手を何とか抑えて、ルキナは控え目に扉を叩いた。
 傷病兵用に割り当てられた区画の奥の方にある少し上等なこの個室に、ルフレは寝かされている筈である。
 起きていなくては到底聞こえやしないであろう小さなその音に、部屋の中から返事が返ってきた。
 あれ程の深手を負っていたのだから、きっと眠っているだろうと思っていたルキナの思惑は早くも外れて。
 こうして返事まで返ってきてしまった以上は、今更立ち去るなんて出来やしない。
 だから、ルキナは遠慮がちに扉をそっと開けて中に入った。

 中に入って先ず目に付いたのは、ベッドサイドのテーブルの上に溢れんばかりに置かれた様々な物だ。
 いや、恐らくはそこに収まりきらなかったのだろう分が、備え付けの棚にもぎっしりと詰められている。
 果物や菓子と言った食べ物や、やたらと分厚い本やら手編みの肩掛けやら、何とも統一感が無い。
 そして、そんな様々な物に囲まれながら、ベッドの上で身を起こしたルフレは手慣れた手付きで林檎の皮を向いていた。


「やっぱり、ルキナだったんだね。
 こんばんは、と言ったところかな。
 良かったらそこに座ってね」


 そう言ってルフレはベッドサイドに置かれた椅子を指す。
 断る理由もなかったので言われるままにルキナはその椅子に座るが、椅子に座った状態だとベッドの上で身体を起こしているルフレと目線が同じになる事にふと気が付いてしまい、どうしてだか気まずさの様な居心地の悪さの様な、何処と無くフワフワと浮わついた感じがしてしまう。
 だからと言って急に席を立ってもルフレに不審に思われるだけなのだが。
 仕方無くルキナは、ルフレから視線を外してその手の中で皮を剥かれている林檎に目を向ける。


「ああ、これかい? ソールがくれたんだ。
 他にも皆から沢山貰っていてね、一人では食べきれない位だから、良かったらルキナも一緒に食べてくれると嬉しいな」


 綺麗に切り分けた林檎を、恐らくはお見舞いに来た誰かが置いていったのだろう皿に乗せ、ルフレは穏やかに微笑みながらルキナに差し出してきた。
 一つ取って口にすると、瑞々しく優しい甘さが口に広がる。
 程好く熟れた上質な林檎だったのだろう。
 ルフレも、一口食べては綻ぶ様な笑顔を浮かべる。


「うん、とても美味しい林檎だ、後でソールにお礼を言わなくちゃ」


 幸せそうに林檎を食べるルフレに、ルキナは遠慮がちに訊ねた。


「あの、怪我の方はもう大丈夫なのですか……?」

「うん、リズとマリアベルとリベラが治してくれたからね。
 元々、僕ってこう見えて頑丈な事が取り柄の一つだし、あれ位じゃ死んだりしないさ。
 だから、心配しないでね。
 で、傷口はすっかり塞がったんだけど、二・三日はこのままベッドで寝てろってリズ達に言われてしまったんだ。
 戦争は終わったとは言え事後処理は山積みだから色々と片付けておきたかったんだけど……、ベッドから抜け出した所を運悪くフレデリクに見付かって、ベッドに叩き込まれてしまってね。
 その後でリズ達からお説教を貰ってしまったよ」


 そう言いながらも、ルフレは嬉しそうに微笑みを浮かべていた。
 仲間達の事を語る時のルフレの目は、一等優しさに溢れていて。
 ルフレが何れ程彼等の事を大切に想っているのかを、まざまざとルキナに見せ付けるのだ。

 ルフレの目を見ていると何だか落ち着かなくて、ルキナはベッドサイドテーブルに積まれた品々へと目を向けた。
 すると、ルフレが優しい笑みを浮かべて、積み上げられたそれらへと一つ一つ優しく撫でる様に触れていく。


「皆、心配性なんだよね。
 次から次にお見舞いに来ては、色々と置いていくし。
 大体は果物とかお菓子なんだけど……流石に僕一人じゃこんな量を食べきれないのにね。
 フレデリクなんて、手編みの肩掛けをくれたんだよ。
 クロムとリズだけじゃなくて、僕にまで世話を焼き始めるつもりなのかな?  皆がひっきりなしに来るから、寝るのが惜しくって全然眠れてないんだよね。
 きっと、リズ達に見付かったらまた怒られてしまうだろうけど」


 まるで大切な宝物の様に仲間達の事を語るルフレのその表情が、そして彼等がルフレを想う心の形が表れた様な贈り物が、酷くルキナの心を揺らした。
 ルフレを殺すと言う事は、彼等からルフレを未来永劫奪うと言う事なのだと、それを改めて思い知らされるかの様で。
 そこにどんな大義名分があろうとも、大切な何かを奪われる苦しみは変わらないであろう。

『世界』を救う為だと訴えた所で、それに何の意味があろうか。
 例えクロムを救う為であっても、クロム自身がそれを赦すまい。

 だが、それでも…………。
 クロムを裏切り殺す前にルフレを殺す以外に、どうすれば『絶望の未来』を回避出来るのか、ルキナには分からないのだ。
 いや、そもそもルフレを殺したからと言って、それで『絶望の未来』を回避出来ると言う保証もなかった。
 それなのにルフレを殺す事に拘ってしまうのは、父を奪われた事への復讐の念からなのだろうか。
 その憎悪がルキナの眼を曇らせ、『正しい答え』に辿り着けなくさせているのだろうか。
 しかし、ならば他にどうすれば良いと言うのだろう。
 全知の神ならぬ人の子でしかないルキナには、全ての因果の糸を見通し解き解す事など出来よう筈もない。
 ルキナが知り得るのは、あの『未来』でルフレがクロムを裏切り殺し、ギムレーが甦り世界が滅んだと言う、ただそれだけだ。

 ギムレーが甦った事の原因はルキナには分からない。
 かつて初代聖王が施した封印が何らかの要因で解けてしまったからなのか、或いはまた何か別の要因があったのか。
 何かを仕出かした者が居るのだとすれば、それは間違いなくギムレー教団の者であろうけれども。
 当時は幼く、ギムレー教団の内情を知る者など周りには居らず。
 ギムレー復活の立役者があの教団に居るのだとしても、それが誰かなのは全く分からない。
 ギムレー教団に潜入し教団員一人一人を調べ回って怪しいと目した相手を殺していくのだとして、ギムレー復活に関わる者を全員始末するのに何れ程の時間が掛かるのか見当も付かないし、例え教団員を皆殺しにしたとしてそれでギムレーの復活を防げるのかも分からない。

 時を跳躍し遡っても、ルキナに残されている時間は有限で。
 だからこそ、ルキナは自分が考え付く、『絶望の未来』へと至る分岐点を……クロムの死を変えようと思ったのだ。
 そこには『父』を死なせたくなかった、『父』に生きていて欲しかったと言う、ルキナ自身の最早叶わぬ願望も含まれてはいるのだけれど。

 その為には、裏切者であるルフレを殺す。殺さねばならない。
 ルフレの裏切りの理由が分からないルキナには、ルフレに裏切らせない方法が分からない。
 故に、取れる手立ては一つだけだ。

 しかし、今のルキナにルフレを殺せるのだろうか。
 例えば、今、この瞬間。
 ルキナを前にして無防備にベッドから身体を起こしているルフレのその首を落とす事は、きっと造作も無いのだろう。

 だが、実際にそれを実行する自分と言うものをルキナは思い描けないし、やろうとすら思えない。
 殺す機会を得る為にルフレに近付いたと言うのに、その所為で却ってルフレを殺せなくなってしまっていた。
 何も知らなければ。
 ルフレを、憎んだままで居られたのなら。
 きっと、何も迷わずに済んだと言うのに。

 まるで出口の無い迷宮に迷い込み、光を探し求めて彷徨っているかの様であった。
 もし、ルフレを殺さずにクロムを救い世界を救う方法が何者かから提示されたのなら、きっとルキナは直ぐ様それに飛び付いてしまうだろう。
 しかし、『正しい答え』を教えてくれる様な、そんな都合の良い存在は居ない。
 ナーガは今この瞬間もこの世を、聖王の血に連なる者達を見守っているのかもしれないが、その苦悩を取り除く為の『神託』を下す事は無い。

 苦悩に沈んだまま、ルキナは少し視線を彷徨わせた。
 そして、ルフレの胸元に僅かに見える包帯に気が付いてしまう。
 負傷したのは背中だから、その痕跡は服に隠されていてその殆どは見えないけれども。
 それでも、とても深く大きな傷だったのだ。
 あの時の光景が、ヴァルハルトの戦斧がルフレの背中を抉った瞬間が、一瞬だけだがルキナの視界に甦ったかの様で。
 思わず、息をするのを忘れてしまう。
 再び脳裏を過るのは、『どうして?』と言う疑問。
 それは、今度は喉を震わせて音となって溢れ落ちる。


「…………どうして」

「? どうかした?」

「……どうして、ルフレさんは私を庇ったりしたんですか? 
 あんな事をしなければ、あなたは負傷する事も無かったのに。
 ……死ぬかもしれなかった様な、大怪我をせずに済んだのに。
 どうして、私なんかを……」


 どうして、自分を殺そうとしている者を命を張ってまで助けようとしたのか、と。
 言葉には出来ない想いは、押し殺して。
 ルキナは、問わずにはいられなかった。

 ルフレはその言葉に驚いた様に幾度か瞬いて、それから、ふわりと優しい微笑みを浮かべた。


「どうして、か。
 それは、うーん……ちょっと説明し難いんだけど。
 ルキナが危ないって、思ったからかな。
 そう思ったら、身体が勝手に動いてた」

「でも、あの時ルフレさんはヴァルハルトと戦っていて」

「うん、そうだね。
 でも、きっと僕は大怪我をすると分かっていたとしても、同じ事をしたよ。
 どんな結果が待っていたとしても、何度やり直したってあの瞬間に僕は同じ事をする。
 だからね、ルキナはもう気にしなくて良いんだよ」


 その思いがけない言葉に、その言葉の意味を問う事も忘れてルキナはルフレを見る。
 ルフレの、優しいけれど何処か底の知れない、全てを見通しているかの様な目が、ルキナを静かに見詰めていた。


「ずっと、気にしていたんだろう? 
 だから、治療が終わっても中々ここには来なかったし、ここに来てからはずっと僕の目を見ようとはしない。
 普段のルキナなら、直ぐにやって来ただろうし、もっと僕の目を真っ直ぐ見てくるからね。
 罪悪感か、それに近い後ろめたい気持ちを感じていたのかな。
 でもね、ルキナが気にする様な事じゃないんだ。
 僕が怪我をしたのは、あの場にルキナが居たからじゃない。
 僕が勝手に自分の好きな様に選んで行動したその結果だ。
 君の所為じゃない」


 ルキナが何も言えないままでいると、ルフレは柔らかく笑って、サイドテーブルに置かれた果物籠から新しく果物を取り出した。


「……と、言う訳で、この話はここでお仕舞い。
 所で、お腹空いてたりする?
 だったら、もうちょっと色々と一緒に食べて貰えると助かるんだけど」


 ルフレがそう言うのも仕方がない程に、果物だけでもかなりの量がある。
 日持ちしないものだけでもこれだけあるのだ。
 幾らよく食べる方であるルフレでも、これには流石に困っているのだろう。
 断る事も出来ず、ルキナはルフレと二人して、その大量の果物を分け合って食べたのであった。



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