遠く時の環の接する処で
◆◆◆◆◆
『生きたい』と言う願いは、想いは、それは生きとし生ける全てが根源的に懐く祈りであるのだろう。
耐え難い苦痛に、終わりの無い絶望に、それから逃避する為に『死』を望む事があるのだとしても。
『死』を望む瞬間であってすらこの身に命を刻む鼓動が止まる事はなく、それが無意識にであっても、『命』と言うものは『終わり』が訪れるその瞬間まで『生きよう』と足掻き続けるのだ。
でもそんな根源的な祈りですら、僕はそれを罪深い事であると、赦されざる大罪であると、無意識の内にでも思ってしまっていた。
そうやって僕が『生きたい』と望み足掻いた果てに辿り着くのが、ギムレーへと成り果てる未来でしかないのなら。
そして、狂った邪竜に堕ちたこの身が、何よりも……この命よりも大切な人達の命を奪うのであれば。
僕は、生きていはならないと、死ぬべきだと、死を選ばなくてはならないのだと、そんな考えに囚われ続けていた。
……それはきっと、『ギムレー』へと成り果ててしまった……かつては『ルフレ』であった『僕』の、果てのない後悔と罪の意識から魂にまで染み付いた呪詛だったのだろう。
もし僕があの『僕』と同じ様に、ギムレーへと墜とされて全てを壊してしまったならば、同じ呪詛をこの魂に刻むだろうから。
『生きたい』だなんて望むなんて、『僕』は決して赦さない。
……ギムレーへと成り果て、赦されざる大罪を犯した『僕』に出来る唯一の……せめてもの贖罪は、自分そのものの存在を否定する事なのだろうから。
…………でもそれは、結局の所は逃避でしかない。
何をしても、何を願っても、何に祈りを捧げるのだとしても。
起きてしまった事を、自分にとっての過去を、本当の意味で『無かった事』には出来ないのだから。
……僕は、無意識の内に『僕』と僕を剰りにも同一視し過ぎてしまっていたのだろう。
それにはやはり、自分を形作るべき記憶を全て喪ってしまった事も大いに関係している。
僕の内に流れ込んできた『僕』の想いに、『僕』の絶望に、『僕』の憎悪に引き摺られて、『僕』と僕の境界を見失っていた。
しかし、何れ程同一視し、混同してしまったのだとしても、やはり僕は『僕』ではない。
僕はもう、『僕』とは違う道を歩き、『僕』とは違う出逢いをそして繋がりを重ねてきた。
『僕』が『彼のクロム達』を想う心と僕がクロム達を想う心は、同じ様でいてやはり異なるし、何よりも。
僕がルキナを想う心と、『僕』がルキナへと向けていた想いは、当然の事ながら全くの別物だろう。
本質的に共有する過去が同じであるのだとしても、最早僕は『僕』には成り得ないのだ。
それにはきっと、最初から気付いていたのだけれど。
それでも、認めたくはなかったのだ。
僕に流れ込んだ『僕』の心の欠片から、僕の内に鏡像の様に生み出された『僕』の虚像は。
絶望に狂い、自分への尽きぬ憎悪に叫び、果てのない罪の意識に苛まれ、涙すら枯れ果てた慟哭の中に沈んでいる、僕の内に居る『僕』の心には、もうそれだけしか望みは無いのだから。
……だが、何れ程『僕』が死を望もうと、僕自身の望みを完全に踏み潰す事は出来なかった。それもそうだ。
僕の望みは、クロム達と共に生きる事なのだ。
それは『僕』にとっても、本当は叶えたかった最早叶わず想う事すら赦されない望みなのだから、それを完全に消し去る事は出来ない。
だからこそ、生を否定し死を望む一方で、無意識の下では何よりも強く共に生きたいなどと望む様な、そんな矛盾を抱え続けてしまっていた。
だけれども、今はもう違う。
ルキナから赦しを得たあの瞬間、僕の内にあった『僕』の虚像は消えた。
ルキナから赦されたのは僕であって『僕』ではなかったけれど、それでも。僕が作り上げてしまった虚像の『僕』を壊すには、十分過ぎる程のものであったのだ。
そも、その虚像自体、僕が無意識の内に作り上げてしまった『僕』でしかなく、『僕』自身ではないのだから当然だろう。
詰まる所、僕自身が僕の心を殺そうとしていたのだ。
だがそれも、全てルキナが壊してくれた。
そしてだからこそ、『皆と一緒に生きていたい』と言う願いとはまた別の、もう一つの僕の想いにもやっと気付く事が出来たのだ。
……僕はずっとルキナに負い目があった。
『僕』が犯してしまった罪の事、僕がルキナを利用しようとしていた事、僕の所為でルキナを傷付けてしまった事。
それら全てが、ルキナに対してその想いを懐く事を、そしてそれを自覚する事を、赦そうとはしなかったのだ。
それでも、例え赦されなくても、その想いは少しずつ少しずつこの胸の中に降り積もってゆき、そして小さな芽を出した。
幾度否定して踏み潰されても、それでも決して消せやしなかったその想いは、その心は。
きっと、『恋』と……『愛』と呼ぶものであるのだろう。
クロムに対しての想いとも、リズやフレデリク……他の仲間達に対しての想いとも、その何れとも違うその想い。
初めて感じたその想いに付ける名があるのだとすれば、それはきっと『恋』と近しい『愛』だ。
どうしてルキナに対してその様な想いを懐いたのかは、僕にも分からない。
それでも、この胸を満たすそれは、間違いなく僕自身の想いであった。
そして、誰よりもルキナを愛しいと想うからこそ、僕は。
この命を、ルキナの為に……ルキナが心から笑って幸せになれる『未来』の為に使おうと、そう決めた。
豪々と耳元で唸る風の音に混じって、激しい戦闘の音が絶え間無く聞こえ続けている。
倒れた無数の屍兵達の骸は、塵に還るなり直ぐ様風に浚われて後には何も残さない。
風を切って悠々と大空を泳ぐ巨大な竜、邪竜ギムレーのその背の上が、人々とギムレーとの、生存を賭けた決戦の舞台であった。
尽きる事無く呼び出され、大波の様に押し寄せ続ける屍兵の群れを何とか捌きながら、竜の首の付け根の辺りに悠然と佇み必死に抗う人々の姿を睥睨しながら待ち構えている邪竜の写し身……もう一人の『僕』へと向かって前進する。
未だに僕を取り込み更なる力を得る事に拘っているギムレーは、ここで僕を殺し排除する事が出来ない。
故に、この乱戦の中では僕を巻き込みかねない様なあの圧倒的な破壊の力は振るえないし、況してやその背中から僕たちを振り落とす事も出来ない。
だからこそそこに、ギムレーに比べれば本当にちっぽけな力しか持ち得ぬ人間が付け入る隙があるのだ。
クロム達を人質として僕自らの意思でギムレーに取り込まれる事を選ばせようともしていたが、それは人質としていたクロム達自身とナーガによって阻まれて。
あくまでも抵抗を続ける僕たちを忌々し気に睨み続けているギムレーのその姿には、『僕』の心の面影はどこにも無かった。
……いや、そもそも、今のギムレーには、『僕』の意思など何処にも存在しないのだろう。
ギムレーと成り果てた時に『僕』の心や魂までもが完全に変質してしまったのか、或いはその内に囚われて永劫の地獄の中で苦しみ続けているのかは分からないが……。
どちらにしろ、あのギムレーは、『僕』ではありえないのだ。
もしも『僕』であるならば、そして本当に僕を取り込もうとしているのならば、クロム達を人質に取って脅迫して屈服させる様な真似はしなかったであろう。
もっと、何重にも罠を張り巡らせ、僕自身が本心からギムレーと同一となる事を望む様な、そんな絶望的な状況に落としていたであろうから。
僕自身、僕をそう言う状況に陥れる為の策なんて幾らでも思い付けるのだ。
ルキナの話を聞くに、『僕』が僕と同じ様に軍師として生きていた事は間違いないのだから、僕が思い付く様な策が『僕』に分からない筈もない。
ならば、何故それを選ばないのか。
いや、選ばないのではなく、選べないのだ。
あの邪竜は、『僕』であって『僕』ではない。
圧倒的な力で踏み潰し屈服させ、そして思うがままに操る術しか、ギムレーは知らないのだ。
いや、考え付かないと言った方が良いのかも知れない。
自分の力を如何に強め、そしてそれを振るい世界を破壊するか。
そこにしか意識が向かないギムレーには、『策』など必要ないし、考え付かない。
実際に、ギムレーと人間とでは較べるまでもなく力の差は圧倒的で、人間が何かを実現させようと足掻く為生きる為に必死に生み出す『策』の力などギムレーには不要なのだろう。
そして、ギムレーは人間とそしてそれに力を貸している神竜ナーガには自分を真の意味で殺す術など無い事を知っている。
千年の眠りを与える封印こそあっても、それは死ではなく。
故に、ギムレーは『死の恐怖』を知らず、それを避ける為に命懸けで『策』を講じ、『生きたい』と必死に足掻く事もないのだ。
だから、クロムがナーガの『覚醒の儀』を行う事を死に物狂いで止めようとはしなかった。
もしギムレーが本気で自分を害する全てを排除しようとしていたならば、そもそも僕たちは今ここに立ってなどいない。
奴にとっては、この戦いですら単なる余興程度なのだ。
だが、だからこそ、ギムレーには付け入る隙が存在する。
ギムレーは、今この場に、自分に真の意味で『死』を与え得る手段が存在している事を知らない。
そして、その手段を与えたのが、他でもない自分自身である事も。
ナーガの力によって眩しい程の輝きを放つクロムのファルシオンを憎悪の眼差しで見詰めるギムレーには、忌々しさと憎悪以外にも僅かながら侮りが存在していた。
ギムレーとしては再び千年の眠りを与えられるのは耐え難い屈辱以外の何物でもなく、何としても避けねばならぬ事ではあるが。
それと同時に、例え神竜の牙であろうとその魂を滅ぼす事は出来ず、死を与える事は出来ない事もよく知っているからだ。
例え幾度封じられようとも、この世界が滅び果てるその時まで幾度でも甦り、世界を滅ぼせるのだから。
その事実を知りながらたかが千年の平穏を得る為だけに神竜に縋り続ける人間を、哀れな虫けらとしかギムレーは思っていない。
ギムレーは『死』を知らず、ギムレーには『死』が存在しない。
だからこそ、『生きたい』と必死に足掻く命の輝きを、何時か喪われるからこそ愛しく尊いものを、ギムレーは理解し得ないのだ。
…………それは少しばかり憐れな存在である様な、そんな哀れみの様な感傷を僕は感じてしまう。
憎むべき、赦されざる存在ではあるけれど。
それでも、ギムレーは、僕の胸を満たすこの熱を、仲間を想い愛しい人を想うこの心の温かさを、知らないのだと思うと。
絶望と滅びを他者に与える事しか知らぬこの邪竜は、ある意味でこの世の何よりも憐れな存在であるのかもしれないと、そう思ってしまうのだ。
クロムと、そしてルキナと。
彼らの二振りのファルシオンが織り成す剣技の前に、終にギムレーは膝をついた。
人世の武器では到底傷付ける事の叶わぬ邪竜の鱗も力を得た神竜の牙には切り裂かれ、反撃しようにも僕の存在が邪魔をして十全にその力を振るう事は叶わない。
命懸けの戦いの果てに先にギムレーの写し身が膝をついたのも、ある意味では当然の事であったのかもしれない。
最後の一撃を与え、千年の封印を施すべくクロムが振り上げたファルシオンを見詰めるギムレーのその目には、憎悪と同時に人間への侮蔑がありありと浮かんでいた。
どんな綺麗事を述べるのだとしても、所詮クロム達がやろうとしているのは問題の先送りだ。
千年の眠りの中で更なる憎悪を育て力を蓄えて、今度こそクロム達の末裔共々この世を滅ぼしてやるのだと、そうその眼は雄弁に語っていた。
それが分かっているからこそ、クロムもそして僕の傍らに立つルキナのその目も、何処か苦々しい。
だからこそ、僕は。
「クロム、待ってくれ」
クロムがファルシオンを振り下ろすのを、止めた。
クロムが、ルキナが、そしてギムレーが。
驚いた様に僕を見る。
困惑、驚き、そして疑念。
それらを一身に浴びながら、僕は一歩一歩踏み締める様に、ギムレーの写し身へと歩み寄った。
抵抗する力も奪われ、ルキナのファルシオンでその手を竜体の背に縫い止められているギムレーが、歩み寄ってくる僕を得体の知れないものを見る目で見詰めてくる。
今更僕を取り込む力など無いだろうが、念の為にほんの少しだけ距離を空けた所で立ち止まって、僕はギムレーを見下ろした。
「ギムレー、僕はお前を赦せない。
お前のした事は、赦される事ではない。
……だけど、お前は『僕』であり、僕の有り得た未来の一つだ。
だから、その責は、僕も負わねばならない。
……お前が『僕』である事、僕がお前と『同じ』存在である事。
そして、お前がこうしてここに、『過去』へと渡ってきた事。
今は、感謝しているよ。
……こうして、僕の大切な人達の為に、使える命がここにあるんだから」
そして僕は、僕自身が最初から持ち合わせていた、無意識の内に目を背け否定し続けてきた、目の前にいるこの邪竜とは較べるまでもなく小さな……だけど紛れもない僕自身のギムレーの力を使い、ギムレーのその胸に刃を突き立てた。
ギムレー自身の力で、『ギムレー』自身を否定する。
ギムレーが、『ギムレー』を殺す。
それは『死』を知らず『死』を望む事など有り得る筈など無いギムレーの身に起こり得ない事。
同じ世界に僕と『ギムレー』が同時に存在すると言う『時の歪み』が産み出した矛盾。
ギムレー自身による、自分の存在の、『生』の否定。
乃ち、『自殺』。それに他ならない。
漸くギムレーは自身の身に何が起きたのか、そして自分がどうなるのか、それを理解し、驚愕と共に恐怖の表情を浮かべた。
そう、これは千年の眠りなどではない。
未来永劫醒める事の無い眠り、自我と存在の消滅、有り得る筈の無い『終わり』──『死』だ。
『死』を知らなかった筈のギムレーは、初めて自分に訪れるそれを、そしてその恐怖へと直面する。
散々自分が他者に与えてきたそれも、いざ自分の身に降りかかるともなれば、その恐ろしさは何れ程のものであろうか。
だが、何れ程恐怖しようと、絶望しようと、最早既に後戻りは出来ず、それから逃れる術など無い。
まるで砂で作られた城が風に浚われて壊れて消えていくかの様に、ギムレーの身体は崩れ薄れ、そして消えていく。
そしてそれは、僕の身にも同じ事が起きていた。
「……僕はお前でもあるんだ。
……だから、一緒に逝ってあげるよ」
絶対の消滅の恐怖に、最後まで消えぬ恐怖にその顔を歪めながら、ギムレーはこの世から完全に消滅した。
その魂に行く先があるのか、そしてあったのだろう『僕』の魂に還る場所があるのかは、僕には分からない。
でも、もしも少しだけでも祈る事が赦されるのであればせめて、やっとギムレーから解放された『僕』には、完全に消え去る最後の一瞬だけであるのだとしても『彼のクロム達』に再び巡り合えればと、そう願っている。
『僕』の意思がどうであったにしろ、『僕』から流れてきたその記憶には助けられたと言っても良いのだし、何よりも。
例えそれが僕が勝手に生み出していた虚像であるのだとしても、僕の中には確かに『僕』が居たのだから。
例え『僕』自身がそれを赦さず望まないのだとしても、ほんの少しほんの一滴であっても、その魂に救いの光が射し込んでも良いと、それが赦されても良いのだと、思ってやりたい。
僕以外には最早誰も『僕』を知らず、想う事は無いのだから。
せめて、僕だけでも。
「ルフレ、お前──!」 「ルフレさん、どうして……」
振り返ると、驚愕と共に怒りの様な哀しみの様な、そんな複雑な感情を浮かべているクロムと。そして、今にも泣き出してしまいそうな、絶望と苦しみを湛えたルキナの姿が、そこにあった。
この道を選べば、彼らには、皆にはそんな顔をさせてしまうのが分かっていた。
それは覚悟の上で、僕はこうしてギムレーを真に消滅させる道を選んだのだけれど、やはり大切な友と愛しい人が傷付いた顔をしているのを見るのは、心が痛む。
それでも、後悔してはいないのは、やはり僕がとても我が儘で身勝手だからなのだろうか。
ギムレーは既に消滅したのに、僕にはまだほんの少しだけ時間が残されている様だった。
それは、僕はまだギムレーとしては覚醒しておらず、人間としての僕の部分が多かったからなのかもしれないし。
或いは、『神様』とやらのちょっとした粋な計らいであるのかもしれない。
何にせよ、お別れを言う時間がちゃんと与えられているのは、望外の喜びであった。
「クロム、ルキナ、ごめんね。
でも、僕は…………皆を守りたかった。
僕の大切な人達の為に、そしてその先に連綿と続いていく沢山の大切な人達の為に、皆の幸せと笑顔の為に。
そして、皆と出逢えた大切で愛しいこの世界が、明日も明後日も、千年後の未来でもずっとずっと、続いていける様に。
僕は、この命を使いたかったんだ。
……黙って決めてしまって、すまないと……そう思っている」
『覚醒の儀』の後でナーガが言っていた事。
もしもギムレーが本当に死を迎えるのであれば、それはギムレー自身の手によるもの……自殺であろうと。
……それは有り得ない事ではあったけれど、あの時僕は、それが今この世界でなら有り得るかもしれない事に気付いてしまった。
僕はルフレと言う名の一人の人間ではあるけれど。
それと同時に、ギムレーでもある。
覚醒しているかしていないかの違いはあるけれど、しかしそもそも僕は一度あの『ギムレー』と混ざり合っていたのだ。
だからこそ僕の記憶は全て喪われ、僕の内に『僕』の欠片が流れ込んできたのだから。
ならば僕が『ギムレー』を殺せば。それはギムレーが『ギムレー』を殺す事に、ギムレーが自殺した事になるのではないか、と。
そう僕は仮説を立てた。
……しかし、僕はその仮説を誰にも明かさなかった。
もしも、その仮説が本当に正しかったとして、そしてその手段でギムレーを消滅させられるのだとしても。
……それは、僕自身にとっても自殺に外ならず、僕の消滅をも意味していた。
そうなれば、皆誰一人としてそんな道を認めないだろう。
クロムは勿論の事、誰よりもギムレーの恐ろしさを知るルキナですら。
ギムレーを完全に消滅させるよりも、僕の命を……きっと皆は望んでしまう。
それは、そしてそれを確信出来る事は、僕にとって何にも代え難い幸せで。
そして、皆と生きられる明日は、何よりも幸せな願いだった。
……だけれども、その先にある未来ではきっと何度でもルキナの笑顔は翳ってしまうだろう。
ギムレーを消滅させられなかった事は、例え仕方がない事であったとしても間違いなくルキナにとって悔いとして残る。
そして、千年の後の世界で。
僕やルキナはもうとうに死んでいるのだとしても、そこにはきっと皆の命の繋がりの先にある数多の命がそこに生きていて。
そして、そんな大切な人達が、ギムレーによって絶望する事を、ルキナは善しとは出来ないだろうし、僕としてもそれを『仕方がない事』と諦める事は出来なかった。
だからこそ、僕はこれが僕の我が儘であるのだとしても、この命を対価にする事を選んだ。
未練は沢山ある。
叶えていない願いも、まだ伝えられていない想いも沢山ある。
でも、だからこそ、後悔はしていないのだ。
沢山哀しませてしまうかもしれない。
沢山悔いを残させてしまうかもしれない。
沢山苦しめてしまうかもしれない。
皆はとても優しくて、繋がりの先にいる僕の事を大切に想ってくれているからこそ。でも。
『命』には何時か終わりが来る。
何れ程『生きたい』と望んでいても。
『生きてほしい』と願っていても。
何時かは必ず『死』と言う別れが訪れる。
それが早いか遅いかの差はあるけれど、『死』の無い命はこの世には存在しないのだ。
それは、あのギムレーにだってそうだったのだから。
でも、『死』は別れではあって決して終わりではない。
死したエメリナ様の想いや思い出が、クロムやリズ達の中に確かに息づいている様に。
その別れが何れ程苦しくても辛くても、生きている人々の中に、関わりの中で生まれていたものや受け取ってきたものが必ず遺されている。
……だからこそ、人はどんなに大切な人の死が訪れたとしても、生きていく事が出来るのだ。
今日は皆を泣かせてしまうかもしれない。
明日も、明後日も泣かせてしまうかもしれない。
でもきっと、何時か必ず、哀しみ以外の何かに変わる日が、必ずやって来る。
それは時の流れの中で感情や記憶が風化してしまうと事とも言えるし、それを哀しいと、残酷だと言う人も居るだろう。
でも、僕はそれを哀しいとは思わない。
生きるとは、そう言う事だ。
それに、忘れてしまっても、思い出せなくなっても、決して『無かった事』にはならないし、何れ程の時が過ぎ去ってもきっと。
記憶の片隅に、心の片隅に、遺されるものは必ずある。
だからこそ、何時かきっと心から笑える日が来る。
僕との思い出を、幸せだけと一緒に語れる日が、必ず来る。
愛しい人が、大切な友が、そうして笑える日が。
何時かの遠い未来に訪れる絶望を想って苦しまずに済む明日が来るのなら。
僕にとって、それは何よりも幸せな事なのだ。
「私たちと、生きていたいと、そう、望んでいたんじゃないんですか……?
なのに、どうして……」
ポロポロと光る滴を溢し続けるルキナのその姿は、見惚れる程に美しくて。
泣かせてしまった事を心苦しく思う一方で、身勝手な事にどうしようもなく愛しさが込み上げてくる。
今にも叫びだしてしまいそうな感情を必死に抑えようとしている様に、ルキナはその手を固く握り締めて。
それでも抑えきれなかった想いが、涙として風に浚われていく。
「そうだね、それは今もそうだ。
僕は、生きていたいよ。
皆と、クロムと、君と。
一緒に笑って、一緒に泣いて、そうやって生きていたい。
でも僕は、その『願い』よりももっと大切な事を、もっと欲しいものを、叶えたい事を、見付けてしまったんだ。
だから、これは僕の我が儘だ。
ごめんね、ルキナ」
僕の言葉に、ルキナは唇を噛んで何かを堪える様な顔をする。
言いたい言葉が沢山あるのだろうけれど、今この瞬間にそれを言ってもどうしようもない事を悟ったのか。
ルキナはその言葉を必死に殺そうとしているのだろう。
愛する人にそんな想いをさせてしまっている事が胸を刺す様に苦しいけれど、それでもそれを選んだのは僕なのだ。
だからこそ、「ごめん」と言う言葉には、僕の心を全て託した。
「ルフレ、お前は俺の『半身』だと、あの日そう言っただろう?
なのに、お前は勝手に逝くつもりなのか?」
クロムの目も、やはり苦しみを耐える様な色になっていた。
エメリナ様の時と、そして今と。
僕は、二度もクロムに喪失の苦しみを与えてしまっている。
それがどうしても申し訳なくあった。
「ごめん、クロム。
でも、君はもうエメリナ様を喪ったあの日の様な『半人前』じゃないよ。
『半身』が居なくても、君は一人で立派に立って歩いていける。
僕じゃなくても、君を支えてくれる人は沢山いるんだ。
だから、大丈夫だよ、きっと。
……我が儘を言ってしまって、すまない」
もう、身体の殆どが消えそうになっている。
足の辺りなんて、存在しているのかしていないのか分からない程に薄くなってしまっていた。
恐らく、もう時間がないのだろう。
本当はもっとゆっくりとお別れを言いたかったけれど、元々何も言えずに消える事も覚悟していただけに、寧ろ十分過ぎる程時間は与えられていた。
「……俺の『半身』は……!
お前ただ一人だ、ルフレ。
どんなに時が流れても、お前しか居ない。
だから……!」
苦しさの中で、そう絞り出す様に叫んだクロムに、その想いに、僕は自然と微笑みを浮かべていた。
「有り難う、クロム。
その想いが、僕にとっては何よりも嬉しい。
僕にとっても、君は何よりも大切な『半身』だ。
今までも、そしてこれからも。
この身が消えても、絶対に変わらない」
そして、クロムとルキナから少し離れた所で戦っていた皆の顔を、ゆっくりとこの心に刻み付ける様に見回した。
皆苦しそうな顔をして、中には泣き出している者も居る。
「いかないで」と、そう啜り泣く様に言う者も。
……どうにも身勝手な事かもしれないけれど、それが本当に嬉しかった。
「ありがとう、クロム……。ありがとう、皆……。
もし、叶うなら。また、逢いたいな……」
最後に、とルキナを見詰めた。
もう身体は殆ど残ってない。
何か言葉を残す事も、もう叶わないだろう。
それでも。
また逢えるのならば。
そんな奇跡が叶うのならば。
伝えたい事が沢山ある。
言いたい想いが沢山ある。
もし叶うのならば。
僕は、君に──
◆◆◆◆◆
『生きたい』と言う願いは、想いは、それは生きとし生ける全てが根源的に懐く祈りであるのだろう。
耐え難い苦痛に、終わりの無い絶望に、それから逃避する為に『死』を望む事があるのだとしても。
『死』を望む瞬間であってすらこの身に命を刻む鼓動が止まる事はなく、それが無意識にであっても、『命』と言うものは『終わり』が訪れるその瞬間まで『生きよう』と足掻き続けるのだ。
でもそんな根源的な祈りですら、僕はそれを罪深い事であると、赦されざる大罪であると、無意識の内にでも思ってしまっていた。
そうやって僕が『生きたい』と望み足掻いた果てに辿り着くのが、ギムレーへと成り果てる未来でしかないのなら。
そして、狂った邪竜に堕ちたこの身が、何よりも……この命よりも大切な人達の命を奪うのであれば。
僕は、生きていはならないと、死ぬべきだと、死を選ばなくてはならないのだと、そんな考えに囚われ続けていた。
……それはきっと、『ギムレー』へと成り果ててしまった……かつては『ルフレ』であった『僕』の、果てのない後悔と罪の意識から魂にまで染み付いた呪詛だったのだろう。
もし僕があの『僕』と同じ様に、ギムレーへと墜とされて全てを壊してしまったならば、同じ呪詛をこの魂に刻むだろうから。
『生きたい』だなんて望むなんて、『僕』は決して赦さない。
……ギムレーへと成り果て、赦されざる大罪を犯した『僕』に出来る唯一の……せめてもの贖罪は、自分そのものの存在を否定する事なのだろうから。
…………でもそれは、結局の所は逃避でしかない。
何をしても、何を願っても、何に祈りを捧げるのだとしても。
起きてしまった事を、自分にとっての過去を、本当の意味で『無かった事』には出来ないのだから。
……僕は、無意識の内に『僕』と僕を剰りにも同一視し過ぎてしまっていたのだろう。
それにはやはり、自分を形作るべき記憶を全て喪ってしまった事も大いに関係している。
僕の内に流れ込んできた『僕』の想いに、『僕』の絶望に、『僕』の憎悪に引き摺られて、『僕』と僕の境界を見失っていた。
しかし、何れ程同一視し、混同してしまったのだとしても、やはり僕は『僕』ではない。
僕はもう、『僕』とは違う道を歩き、『僕』とは違う出逢いをそして繋がりを重ねてきた。
『僕』が『彼のクロム達』を想う心と僕がクロム達を想う心は、同じ様でいてやはり異なるし、何よりも。
僕がルキナを想う心と、『僕』がルキナへと向けていた想いは、当然の事ながら全くの別物だろう。
本質的に共有する過去が同じであるのだとしても、最早僕は『僕』には成り得ないのだ。
それにはきっと、最初から気付いていたのだけれど。
それでも、認めたくはなかったのだ。
僕に流れ込んだ『僕』の心の欠片から、僕の内に鏡像の様に生み出された『僕』の虚像は。
絶望に狂い、自分への尽きぬ憎悪に叫び、果てのない罪の意識に苛まれ、涙すら枯れ果てた慟哭の中に沈んでいる、僕の内に居る『僕』の心には、もうそれだけしか望みは無いのだから。
……だが、何れ程『僕』が死を望もうと、僕自身の望みを完全に踏み潰す事は出来なかった。それもそうだ。
僕の望みは、クロム達と共に生きる事なのだ。
それは『僕』にとっても、本当は叶えたかった最早叶わず想う事すら赦されない望みなのだから、それを完全に消し去る事は出来ない。
だからこそ、生を否定し死を望む一方で、無意識の下では何よりも強く共に生きたいなどと望む様な、そんな矛盾を抱え続けてしまっていた。
だけれども、今はもう違う。
ルキナから赦しを得たあの瞬間、僕の内にあった『僕』の虚像は消えた。
ルキナから赦されたのは僕であって『僕』ではなかったけれど、それでも。僕が作り上げてしまった虚像の『僕』を壊すには、十分過ぎる程のものであったのだ。
そも、その虚像自体、僕が無意識の内に作り上げてしまった『僕』でしかなく、『僕』自身ではないのだから当然だろう。
詰まる所、僕自身が僕の心を殺そうとしていたのだ。
だがそれも、全てルキナが壊してくれた。
そしてだからこそ、『皆と一緒に生きていたい』と言う願いとはまた別の、もう一つの僕の想いにもやっと気付く事が出来たのだ。
……僕はずっとルキナに負い目があった。
『僕』が犯してしまった罪の事、僕がルキナを利用しようとしていた事、僕の所為でルキナを傷付けてしまった事。
それら全てが、ルキナに対してその想いを懐く事を、そしてそれを自覚する事を、赦そうとはしなかったのだ。
それでも、例え赦されなくても、その想いは少しずつ少しずつこの胸の中に降り積もってゆき、そして小さな芽を出した。
幾度否定して踏み潰されても、それでも決して消せやしなかったその想いは、その心は。
きっと、『恋』と……『愛』と呼ぶものであるのだろう。
クロムに対しての想いとも、リズやフレデリク……他の仲間達に対しての想いとも、その何れとも違うその想い。
初めて感じたその想いに付ける名があるのだとすれば、それはきっと『恋』と近しい『愛』だ。
どうしてルキナに対してその様な想いを懐いたのかは、僕にも分からない。
それでも、この胸を満たすそれは、間違いなく僕自身の想いであった。
そして、誰よりもルキナを愛しいと想うからこそ、僕は。
この命を、ルキナの為に……ルキナが心から笑って幸せになれる『未来』の為に使おうと、そう決めた。
豪々と耳元で唸る風の音に混じって、激しい戦闘の音が絶え間無く聞こえ続けている。
倒れた無数の屍兵達の骸は、塵に還るなり直ぐ様風に浚われて後には何も残さない。
風を切って悠々と大空を泳ぐ巨大な竜、邪竜ギムレーのその背の上が、人々とギムレーとの、生存を賭けた決戦の舞台であった。
尽きる事無く呼び出され、大波の様に押し寄せ続ける屍兵の群れを何とか捌きながら、竜の首の付け根の辺りに悠然と佇み必死に抗う人々の姿を睥睨しながら待ち構えている邪竜の写し身……もう一人の『僕』へと向かって前進する。
未だに僕を取り込み更なる力を得る事に拘っているギムレーは、ここで僕を殺し排除する事が出来ない。
故に、この乱戦の中では僕を巻き込みかねない様なあの圧倒的な破壊の力は振るえないし、況してやその背中から僕たちを振り落とす事も出来ない。
だからこそそこに、ギムレーに比べれば本当にちっぽけな力しか持ち得ぬ人間が付け入る隙があるのだ。
クロム達を人質として僕自らの意思でギムレーに取り込まれる事を選ばせようともしていたが、それは人質としていたクロム達自身とナーガによって阻まれて。
あくまでも抵抗を続ける僕たちを忌々し気に睨み続けているギムレーのその姿には、『僕』の心の面影はどこにも無かった。
……いや、そもそも、今のギムレーには、『僕』の意思など何処にも存在しないのだろう。
ギムレーと成り果てた時に『僕』の心や魂までもが完全に変質してしまったのか、或いはその内に囚われて永劫の地獄の中で苦しみ続けているのかは分からないが……。
どちらにしろ、あのギムレーは、『僕』ではありえないのだ。
もしも『僕』であるならば、そして本当に僕を取り込もうとしているのならば、クロム達を人質に取って脅迫して屈服させる様な真似はしなかったであろう。
もっと、何重にも罠を張り巡らせ、僕自身が本心からギムレーと同一となる事を望む様な、そんな絶望的な状況に落としていたであろうから。
僕自身、僕をそう言う状況に陥れる為の策なんて幾らでも思い付けるのだ。
ルキナの話を聞くに、『僕』が僕と同じ様に軍師として生きていた事は間違いないのだから、僕が思い付く様な策が『僕』に分からない筈もない。
ならば、何故それを選ばないのか。
いや、選ばないのではなく、選べないのだ。
あの邪竜は、『僕』であって『僕』ではない。
圧倒的な力で踏み潰し屈服させ、そして思うがままに操る術しか、ギムレーは知らないのだ。
いや、考え付かないと言った方が良いのかも知れない。
自分の力を如何に強め、そしてそれを振るい世界を破壊するか。
そこにしか意識が向かないギムレーには、『策』など必要ないし、考え付かない。
実際に、ギムレーと人間とでは較べるまでもなく力の差は圧倒的で、人間が何かを実現させようと足掻く為生きる為に必死に生み出す『策』の力などギムレーには不要なのだろう。
そして、ギムレーは人間とそしてそれに力を貸している神竜ナーガには自分を真の意味で殺す術など無い事を知っている。
千年の眠りを与える封印こそあっても、それは死ではなく。
故に、ギムレーは『死の恐怖』を知らず、それを避ける為に命懸けで『策』を講じ、『生きたい』と必死に足掻く事もないのだ。
だから、クロムがナーガの『覚醒の儀』を行う事を死に物狂いで止めようとはしなかった。
もしギムレーが本気で自分を害する全てを排除しようとしていたならば、そもそも僕たちは今ここに立ってなどいない。
奴にとっては、この戦いですら単なる余興程度なのだ。
だが、だからこそ、ギムレーには付け入る隙が存在する。
ギムレーは、今この場に、自分に真の意味で『死』を与え得る手段が存在している事を知らない。
そして、その手段を与えたのが、他でもない自分自身である事も。
ナーガの力によって眩しい程の輝きを放つクロムのファルシオンを憎悪の眼差しで見詰めるギムレーには、忌々しさと憎悪以外にも僅かながら侮りが存在していた。
ギムレーとしては再び千年の眠りを与えられるのは耐え難い屈辱以外の何物でもなく、何としても避けねばならぬ事ではあるが。
それと同時に、例え神竜の牙であろうとその魂を滅ぼす事は出来ず、死を与える事は出来ない事もよく知っているからだ。
例え幾度封じられようとも、この世界が滅び果てるその時まで幾度でも甦り、世界を滅ぼせるのだから。
その事実を知りながらたかが千年の平穏を得る為だけに神竜に縋り続ける人間を、哀れな虫けらとしかギムレーは思っていない。
ギムレーは『死』を知らず、ギムレーには『死』が存在しない。
だからこそ、『生きたい』と必死に足掻く命の輝きを、何時か喪われるからこそ愛しく尊いものを、ギムレーは理解し得ないのだ。
…………それは少しばかり憐れな存在である様な、そんな哀れみの様な感傷を僕は感じてしまう。
憎むべき、赦されざる存在ではあるけれど。
それでも、ギムレーは、僕の胸を満たすこの熱を、仲間を想い愛しい人を想うこの心の温かさを、知らないのだと思うと。
絶望と滅びを他者に与える事しか知らぬこの邪竜は、ある意味でこの世の何よりも憐れな存在であるのかもしれないと、そう思ってしまうのだ。
クロムと、そしてルキナと。
彼らの二振りのファルシオンが織り成す剣技の前に、終にギムレーは膝をついた。
人世の武器では到底傷付ける事の叶わぬ邪竜の鱗も力を得た神竜の牙には切り裂かれ、反撃しようにも僕の存在が邪魔をして十全にその力を振るう事は叶わない。
命懸けの戦いの果てに先にギムレーの写し身が膝をついたのも、ある意味では当然の事であったのかもしれない。
最後の一撃を与え、千年の封印を施すべくクロムが振り上げたファルシオンを見詰めるギムレーのその目には、憎悪と同時に人間への侮蔑がありありと浮かんでいた。
どんな綺麗事を述べるのだとしても、所詮クロム達がやろうとしているのは問題の先送りだ。
千年の眠りの中で更なる憎悪を育て力を蓄えて、今度こそクロム達の末裔共々この世を滅ぼしてやるのだと、そうその眼は雄弁に語っていた。
それが分かっているからこそ、クロムもそして僕の傍らに立つルキナのその目も、何処か苦々しい。
だからこそ、僕は。
「クロム、待ってくれ」
クロムがファルシオンを振り下ろすのを、止めた。
クロムが、ルキナが、そしてギムレーが。
驚いた様に僕を見る。
困惑、驚き、そして疑念。
それらを一身に浴びながら、僕は一歩一歩踏み締める様に、ギムレーの写し身へと歩み寄った。
抵抗する力も奪われ、ルキナのファルシオンでその手を竜体の背に縫い止められているギムレーが、歩み寄ってくる僕を得体の知れないものを見る目で見詰めてくる。
今更僕を取り込む力など無いだろうが、念の為にほんの少しだけ距離を空けた所で立ち止まって、僕はギムレーを見下ろした。
「ギムレー、僕はお前を赦せない。
お前のした事は、赦される事ではない。
……だけど、お前は『僕』であり、僕の有り得た未来の一つだ。
だから、その責は、僕も負わねばならない。
……お前が『僕』である事、僕がお前と『同じ』存在である事。
そして、お前がこうしてここに、『過去』へと渡ってきた事。
今は、感謝しているよ。
……こうして、僕の大切な人達の為に、使える命がここにあるんだから」
そして僕は、僕自身が最初から持ち合わせていた、無意識の内に目を背け否定し続けてきた、目の前にいるこの邪竜とは較べるまでもなく小さな……だけど紛れもない僕自身のギムレーの力を使い、ギムレーのその胸に刃を突き立てた。
ギムレー自身の力で、『ギムレー』自身を否定する。
ギムレーが、『ギムレー』を殺す。
それは『死』を知らず『死』を望む事など有り得る筈など無いギムレーの身に起こり得ない事。
同じ世界に僕と『ギムレー』が同時に存在すると言う『時の歪み』が産み出した矛盾。
ギムレー自身による、自分の存在の、『生』の否定。
乃ち、『自殺』。それに他ならない。
漸くギムレーは自身の身に何が起きたのか、そして自分がどうなるのか、それを理解し、驚愕と共に恐怖の表情を浮かべた。
そう、これは千年の眠りなどではない。
未来永劫醒める事の無い眠り、自我と存在の消滅、有り得る筈の無い『終わり』──『死』だ。
『死』を知らなかった筈のギムレーは、初めて自分に訪れるそれを、そしてその恐怖へと直面する。
散々自分が他者に与えてきたそれも、いざ自分の身に降りかかるともなれば、その恐ろしさは何れ程のものであろうか。
だが、何れ程恐怖しようと、絶望しようと、最早既に後戻りは出来ず、それから逃れる術など無い。
まるで砂で作られた城が風に浚われて壊れて消えていくかの様に、ギムレーの身体は崩れ薄れ、そして消えていく。
そしてそれは、僕の身にも同じ事が起きていた。
「……僕はお前でもあるんだ。
……だから、一緒に逝ってあげるよ」
絶対の消滅の恐怖に、最後まで消えぬ恐怖にその顔を歪めながら、ギムレーはこの世から完全に消滅した。
その魂に行く先があるのか、そしてあったのだろう『僕』の魂に還る場所があるのかは、僕には分からない。
でも、もしも少しだけでも祈る事が赦されるのであればせめて、やっとギムレーから解放された『僕』には、完全に消え去る最後の一瞬だけであるのだとしても『彼のクロム達』に再び巡り合えればと、そう願っている。
『僕』の意思がどうであったにしろ、『僕』から流れてきたその記憶には助けられたと言っても良いのだし、何よりも。
例えそれが僕が勝手に生み出していた虚像であるのだとしても、僕の中には確かに『僕』が居たのだから。
例え『僕』自身がそれを赦さず望まないのだとしても、ほんの少しほんの一滴であっても、その魂に救いの光が射し込んでも良いと、それが赦されても良いのだと、思ってやりたい。
僕以外には最早誰も『僕』を知らず、想う事は無いのだから。
せめて、僕だけでも。
「ルフレ、お前──!」 「ルフレさん、どうして……」
振り返ると、驚愕と共に怒りの様な哀しみの様な、そんな複雑な感情を浮かべているクロムと。そして、今にも泣き出してしまいそうな、絶望と苦しみを湛えたルキナの姿が、そこにあった。
この道を選べば、彼らには、皆にはそんな顔をさせてしまうのが分かっていた。
それは覚悟の上で、僕はこうしてギムレーを真に消滅させる道を選んだのだけれど、やはり大切な友と愛しい人が傷付いた顔をしているのを見るのは、心が痛む。
それでも、後悔してはいないのは、やはり僕がとても我が儘で身勝手だからなのだろうか。
ギムレーは既に消滅したのに、僕にはまだほんの少しだけ時間が残されている様だった。
それは、僕はまだギムレーとしては覚醒しておらず、人間としての僕の部分が多かったからなのかもしれないし。
或いは、『神様』とやらのちょっとした粋な計らいであるのかもしれない。
何にせよ、お別れを言う時間がちゃんと与えられているのは、望外の喜びであった。
「クロム、ルキナ、ごめんね。
でも、僕は…………皆を守りたかった。
僕の大切な人達の為に、そしてその先に連綿と続いていく沢山の大切な人達の為に、皆の幸せと笑顔の為に。
そして、皆と出逢えた大切で愛しいこの世界が、明日も明後日も、千年後の未来でもずっとずっと、続いていける様に。
僕は、この命を使いたかったんだ。
……黙って決めてしまって、すまないと……そう思っている」
『覚醒の儀』の後でナーガが言っていた事。
もしもギムレーが本当に死を迎えるのであれば、それはギムレー自身の手によるもの……自殺であろうと。
……それは有り得ない事ではあったけれど、あの時僕は、それが今この世界でなら有り得るかもしれない事に気付いてしまった。
僕はルフレと言う名の一人の人間ではあるけれど。
それと同時に、ギムレーでもある。
覚醒しているかしていないかの違いはあるけれど、しかしそもそも僕は一度あの『ギムレー』と混ざり合っていたのだ。
だからこそ僕の記憶は全て喪われ、僕の内に『僕』の欠片が流れ込んできたのだから。
ならば僕が『ギムレー』を殺せば。それはギムレーが『ギムレー』を殺す事に、ギムレーが自殺した事になるのではないか、と。
そう僕は仮説を立てた。
……しかし、僕はその仮説を誰にも明かさなかった。
もしも、その仮説が本当に正しかったとして、そしてその手段でギムレーを消滅させられるのだとしても。
……それは、僕自身にとっても自殺に外ならず、僕の消滅をも意味していた。
そうなれば、皆誰一人としてそんな道を認めないだろう。
クロムは勿論の事、誰よりもギムレーの恐ろしさを知るルキナですら。
ギムレーを完全に消滅させるよりも、僕の命を……きっと皆は望んでしまう。
それは、そしてそれを確信出来る事は、僕にとって何にも代え難い幸せで。
そして、皆と生きられる明日は、何よりも幸せな願いだった。
……だけれども、その先にある未来ではきっと何度でもルキナの笑顔は翳ってしまうだろう。
ギムレーを消滅させられなかった事は、例え仕方がない事であったとしても間違いなくルキナにとって悔いとして残る。
そして、千年の後の世界で。
僕やルキナはもうとうに死んでいるのだとしても、そこにはきっと皆の命の繋がりの先にある数多の命がそこに生きていて。
そして、そんな大切な人達が、ギムレーによって絶望する事を、ルキナは善しとは出来ないだろうし、僕としてもそれを『仕方がない事』と諦める事は出来なかった。
だからこそ、僕はこれが僕の我が儘であるのだとしても、この命を対価にする事を選んだ。
未練は沢山ある。
叶えていない願いも、まだ伝えられていない想いも沢山ある。
でも、だからこそ、後悔はしていないのだ。
沢山哀しませてしまうかもしれない。
沢山悔いを残させてしまうかもしれない。
沢山苦しめてしまうかもしれない。
皆はとても優しくて、繋がりの先にいる僕の事を大切に想ってくれているからこそ。でも。
『命』には何時か終わりが来る。
何れ程『生きたい』と望んでいても。
『生きてほしい』と願っていても。
何時かは必ず『死』と言う別れが訪れる。
それが早いか遅いかの差はあるけれど、『死』の無い命はこの世には存在しないのだ。
それは、あのギムレーにだってそうだったのだから。
でも、『死』は別れではあって決して終わりではない。
死したエメリナ様の想いや思い出が、クロムやリズ達の中に確かに息づいている様に。
その別れが何れ程苦しくても辛くても、生きている人々の中に、関わりの中で生まれていたものや受け取ってきたものが必ず遺されている。
……だからこそ、人はどんなに大切な人の死が訪れたとしても、生きていく事が出来るのだ。
今日は皆を泣かせてしまうかもしれない。
明日も、明後日も泣かせてしまうかもしれない。
でもきっと、何時か必ず、哀しみ以外の何かに変わる日が、必ずやって来る。
それは時の流れの中で感情や記憶が風化してしまうと事とも言えるし、それを哀しいと、残酷だと言う人も居るだろう。
でも、僕はそれを哀しいとは思わない。
生きるとは、そう言う事だ。
それに、忘れてしまっても、思い出せなくなっても、決して『無かった事』にはならないし、何れ程の時が過ぎ去ってもきっと。
記憶の片隅に、心の片隅に、遺されるものは必ずある。
だからこそ、何時かきっと心から笑える日が来る。
僕との思い出を、幸せだけと一緒に語れる日が、必ず来る。
愛しい人が、大切な友が、そうして笑える日が。
何時かの遠い未来に訪れる絶望を想って苦しまずに済む明日が来るのなら。
僕にとって、それは何よりも幸せな事なのだ。
「私たちと、生きていたいと、そう、望んでいたんじゃないんですか……?
なのに、どうして……」
ポロポロと光る滴を溢し続けるルキナのその姿は、見惚れる程に美しくて。
泣かせてしまった事を心苦しく思う一方で、身勝手な事にどうしようもなく愛しさが込み上げてくる。
今にも叫びだしてしまいそうな感情を必死に抑えようとしている様に、ルキナはその手を固く握り締めて。
それでも抑えきれなかった想いが、涙として風に浚われていく。
「そうだね、それは今もそうだ。
僕は、生きていたいよ。
皆と、クロムと、君と。
一緒に笑って、一緒に泣いて、そうやって生きていたい。
でも僕は、その『願い』よりももっと大切な事を、もっと欲しいものを、叶えたい事を、見付けてしまったんだ。
だから、これは僕の我が儘だ。
ごめんね、ルキナ」
僕の言葉に、ルキナは唇を噛んで何かを堪える様な顔をする。
言いたい言葉が沢山あるのだろうけれど、今この瞬間にそれを言ってもどうしようもない事を悟ったのか。
ルキナはその言葉を必死に殺そうとしているのだろう。
愛する人にそんな想いをさせてしまっている事が胸を刺す様に苦しいけれど、それでもそれを選んだのは僕なのだ。
だからこそ、「ごめん」と言う言葉には、僕の心を全て託した。
「ルフレ、お前は俺の『半身』だと、あの日そう言っただろう?
なのに、お前は勝手に逝くつもりなのか?」
クロムの目も、やはり苦しみを耐える様な色になっていた。
エメリナ様の時と、そして今と。
僕は、二度もクロムに喪失の苦しみを与えてしまっている。
それがどうしても申し訳なくあった。
「ごめん、クロム。
でも、君はもうエメリナ様を喪ったあの日の様な『半人前』じゃないよ。
『半身』が居なくても、君は一人で立派に立って歩いていける。
僕じゃなくても、君を支えてくれる人は沢山いるんだ。
だから、大丈夫だよ、きっと。
……我が儘を言ってしまって、すまない」
もう、身体の殆どが消えそうになっている。
足の辺りなんて、存在しているのかしていないのか分からない程に薄くなってしまっていた。
恐らく、もう時間がないのだろう。
本当はもっとゆっくりとお別れを言いたかったけれど、元々何も言えずに消える事も覚悟していただけに、寧ろ十分過ぎる程時間は与えられていた。
「……俺の『半身』は……!
お前ただ一人だ、ルフレ。
どんなに時が流れても、お前しか居ない。
だから……!」
苦しさの中で、そう絞り出す様に叫んだクロムに、その想いに、僕は自然と微笑みを浮かべていた。
「有り難う、クロム。
その想いが、僕にとっては何よりも嬉しい。
僕にとっても、君は何よりも大切な『半身』だ。
今までも、そしてこれからも。
この身が消えても、絶対に変わらない」
そして、クロムとルキナから少し離れた所で戦っていた皆の顔を、ゆっくりとこの心に刻み付ける様に見回した。
皆苦しそうな顔をして、中には泣き出している者も居る。
「いかないで」と、そう啜り泣く様に言う者も。
……どうにも身勝手な事かもしれないけれど、それが本当に嬉しかった。
「ありがとう、クロム……。ありがとう、皆……。
もし、叶うなら。また、逢いたいな……」
最後に、とルキナを見詰めた。
もう身体は殆ど残ってない。
何か言葉を残す事も、もう叶わないだろう。
それでも。
また逢えるのならば。
そんな奇跡が叶うのならば。
伝えたい事が沢山ある。
言いたい想いが沢山ある。
もし叶うのならば。
僕は、君に──
◆◆◆◆◆