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遠く時の環の接する処で

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 ルフレが静かに語ったその胸に秘めて続けていた想いを、ルキナは掛ける言葉も喪いながら聞いていた。

 ルキナは、知らなかった。
 ルフレがその微笑みの下に隠し続けていた苦しみを、その心を戒め続けていた呪詛の様な枷を。
 ……何一つとして、知りはしなかったのだ。

 ルフレの苦悩を知る由は無かったとは言え、ルキナがルフレに向けていた殺意は、そして剣を向けてしまった事実は、彼を更に追い詰めてしまっていたのだろう。
 ルキナは、苦悩の海の中で独り溺れて声無き声で助けを求めていたルフレの心を、知らぬ内に切り捨ててしまっていたのだ。
 誰よりも仲間を、クロムを大切にしているルフレにとって、眠りと共に夜毎に訪れるその『悪夢』は、何れ程その心を抉っていたのだろうか。

 ルフレは、ずっと追い詰められ続けていたのだ。
 そして、優しく仲間思いであったからこそ、ルフレは自らを責め苛む鎖に囚われて歪んでいってしまった。
『自分は生きていれば何時か必ず仲間を殺してしまう。
 仲間の為に死ぬべきである』と、自らの死を厭う事が出来ない処かそれを望んでしまう程に。
 クロム達の『役に立つ』と言う『価値』がなければ、「生きたい」と……ただそう思う事すら出来なくなってしまう程に。

 ルフレ自身はそれを『歪み』とは思っていないのだろう。
 それ程までに、深い場所に刷り込まれたそれは、最早無意識下での信念に近しくなっていた。
 ……クロム達ですら、その鎖を断ち切ってやれない程に。


「僕は、君を酷く傷付けてしまった。僕の身勝手な願いの所為で。
 君に、僕なんかの『命』を、それを奪う重みを、背負わせようと……。……君が、何れ程僕を憎んでいたのだとしても、僕を殺してしまえば罪の意識を感じずにはいられない程に優しい人だと、知っていたのに。僕は、君になんて酷い事を……」


 その深い苦悩がそのままそこに表れているかの様にその瞳に深い翳りを写しながら、ルフレはそう力無く呟く。
 何処までも優しいルフレは、より傷付いているのは彼の方だと言うのにも関わらず、ルキナの事ばかりを気に掛ける。
 その心を縛り付ける鎖の所為なのか、ルフレは自身を勘定に入れる事が出来ないのだ。
 何れ程傷付いていても、何れ程苦しくても、それを自覚していたとしても自分を顧みる事が出来ない。
 それは、あまりにも……。


「だから、ルキナ。
 君が僕に謝る必要なんて、何処にも無いんだ。
 ……赦しを乞わねばならないのは、僕の方だ。
 いや、僕にはそんな資格すら無い……」

「資格だなんて、そんなの……」

「無いさ、有る訳がない。
 僕は……『僕』がクロムを殺し、ルキナが本来は生きるべきだった世界を滅ぼし、君が享受するべきだった幸せを、何もかも奪い壊してしまった……。
 それどころか、『過去』を変えさせまいと……『僕』は、本当なら助けられていた筈の命を……エメリナ様の命を奪った。
 ……いや、そもそも……。
 ペレジアとの戦争も、ヴァルムとの戦争も、全てその裏で、ギムレーを蘇らせようとしていたギムレー教団と『僕』が糸を引いていたんだ。
 あの戦争で喪われた全ての命が、元を辿ればギムレーの……僕の所為で奪われた様なものだ……。
 それでどうして、よりにもよって君に赦しが乞える?」


 生きている事そのものが、その存在自体が、罪であると。
 まるで自分がこの世の何者よりも罪深い咎人であるかの様に、ルフレは言う。

 ルフレは、何よりも自分自身を、その存在を赦せないのだろう。
 決して悲劇を直接的に引き起こしたのが自分自身ではなく、またそんな意思はなかったのだとしても、その悲劇を引き起こす引き金になってしまっていた事を、そしてそれを知らずに生きていた事を、赦せないのだ。


「ですが、ルフレさん……。
 それは、あなたの所為じゃないです。
 あなたは何も知らなかったし、そこにあなたの意思も無かった。
 ……操られてお父様を殺したのはあの『ルフレ』さんだったのは確かですけれど、でも、今ここに居るルフレさんは運命を変えたじゃないですか。
 あなたは、お父様を殺していないし、ギムレーになっていない。
 それなのに、自分を赦せないのですか?」

「……『知らなかった』なんて、何の言い訳にもならないよ。
 それどころか、無知であった事こそが罪だ。
 僕がクロムを殺さずに済んだ事も、この身がギムレーに成り果ててはいない事も、全ては君がこうして過去にやって来てくれたからに過ぎない。
 それに……僕がこうして生きている事自体が、君やクロム達にとって大きなリスクになっている。
 僕の意思一つでギムレーに成り果てる事を拒めるなら、そもそも君が居た『未来』でもギムレーは甦ってなんていない。
 ギムレーの『覚醒の儀』を誰かに行われるだけで、僕の意思の所在とは無関係に僕はギムレーになる。
 僕がギムレーと化すのを免れたのは、僕がそれを拒めたからと言うよりは、あの『僕』……いや、『ギムレー』にとっては、僕を取り込み更なる力を得る際に意識の主導権を得る為には、僕をギムレーに『覚醒』させない方が都合が良かったからだ」


 餌に『力』を持たせる意味は無いから、とルフレはそう零す。
 その心に在るのは、変える事が出来ぬ事実への絶望か。
 ルフレ自身は何一つとしてそんな事は望んではいないと言うのに、生まれながらに絡み付いた宿命は、ルフレがルフレであり続ける事を赦さない。


「……それでも、ルフレさんはルフレさんです。
 例えギムレーの器なのだとしても、あなたはギムレーとは違う。
 優しくて、仲間想いで、私では想像もつかない程に賢くて、戦術で皆を守り続けてくれて、自分が傷付く事を厭わずに誰かを守る事が出来て、この世界を……人々の営みを慈しんでいる。
 私達の、大切な……仲間です。私は、あなたを……ルフレさんがルフレさんであり続ける事を、信じます。
 今度は、絶対に……何があろうとも、最後まで」


 ルフレが生まれ持ってしまった宿命を変えてやる事はルキナには出来ない。
 それでも、ルフレを信じる事ならば出来る。
 今目の前にいるこのルフレは、ギムレーなどに成り果てないと。
 どんな悪意が、どんな祈りが、ルフレの身を邪竜へと堕とそうとするのだとしても。
 ルキナは……否、ルキナ達は、絶対にルフレの手を離さない、信じ続ける。
 ルフレがルフレであり続けられる様に、悪意の祈りに絡め取られてしまわない様に。

 大局的に見れば、その決意は間違っているのかもしれない。
 ルフレは生きている限りギムレーとなる可能性が無くなる事はないのであれば、リスクを完全に排除する為にはルフレは生きていてはいけないのだろう。
 だが、そんな『もしも』やら『可能性』に何の意味があると言うのだろうか。

 ルキナはもう、世界の為であろうともルフレの命を奪う事など出来ない事には気付いてしまっているのに。
 ルフレが『ギムレーの器』であると……ある意味でギムレーその物であると知っても尚、ルキナがルフレに対して嫌悪感や忌避感を懐く事は無くて。
 ルキナがルフレに向ける想いは、微塵も揺るがなかった。

 いや、それはルキナに限った話ではない。
 クロムも、そして共に戦い続けてきた仲間達も。
 ルフレと確かな絆を得ていた者達は、その身の上の全てが明かされた後でも誰一人としてルフレを拒絶する事は無かったのだ。
 イーリスにとって怨敵の子であるのだとしても、邪竜の血族であるのだとしても、ある意味で邪竜その物であるのだとしても。
 それでも、ルフレは決して邪竜などではないのだと、ルフレはルフレなのだと、仲間の誰もが受け入れていた。
 だが、ルキナ達は誰一人として拒んでいないのだとしても、ルフレ自身が自分を拒絶しようとしている。
 今のルフレには、自分自身が悍ましく恐ろしい化け物である様に思えてしまっているのだろう。
 自分の手で仲間を殺してしまうのかもしれない『何時か』を恐れて、だからこそ、死を選ぶ免罪符を得る為に、ルキナから拒絶されようとして、自らがさも全ての悪の根源であったかの様に語っているのだろう。
 いや、ルフレ自身の心の中では、彼は「諸悪の根源」であり、死ぬ事こそが「世界の望み」である存在なのだろう。
 心が生み出した絶望の泥濘を、彼自身は振り払えない。
 …………彼は、自らが生み出した『地獄』に囚われている。

 その全てを思い込みだと否定する事は、ルキナにも出来ない。
「真実」もまた、そこに僅かなりとも存在するだろうから。
 だが、だから何だと言うのだ。そんな言葉を吐露された程度で、今更この気持ちが揺らぐとでも本気で思っているのだろうか。
 それは剰りにも『読みが浅い』と言わざるを得ない。
 神軍師とも讃えられているルフレには、有り得べからざる程の失敗であろう。

 今となっては少し遠く感じるヴァルムとの戦争が終わったあの日の夜のクロムの言葉が脳裏に過る。
 一度だけでも良いから何があってもルフレを信じて欲しい、と言うその願いは、ルフレを信じられずに剣を向けてしまった自分には叶える資格など無いと思っていたけれど。
 きっとあの言葉は、今この時の為にあったのだ。
 自ら離れようとするルフレの手を、離さない様に掴む為に。


「ルフレさん……あなたは私にとって大切な人なんです。
 あなたに剣を向けてしまったあの日に、やっと気付きました。
 例え世界の為であるのだとしても、いえ……何の為であるのだとしても。
 私は……ルフレさんの命を奪えないと、ルフレさんの命の方が大切であるのだと。
 何時の間にか、『使命』とであっても秤に掛けられない程に、私にとってあなたが掛替えの無い存在になっていて……。
 ……だから、私はあなたを信じます。あなたを、守ります。
 悪意が誰かの祈りが、ルフレさんをギムレーにするのであれば、その祈りから。誰かの恐怖があなたを排するなら、その恐怖から。
 この命ある限り、私があなたを守ります。
 だからルフレさん。
 どうか、自ら死を選ぼうとなんてしないで下さい。
 生きて下さい。生きようと、生きたいと……そう、願って──」


 言葉にするよりも先に想いが溢れ出してしまって、そこから先はもう言葉には出来ず、ただ唇を震わせるだけだった。
 言葉よりも先に心があるのだから、感情の全てを言葉にする事など到底不可能で。この胸を満たす想いを、一体どんな言葉に託して伝えられると言うのだろう。
 それでも、視線だけは決してルフレから離さない。
 言葉で表す事が出来なかった想いが、質量と熱を伴って視線に混ざっていく様な錯覚すら感じる。
 ルフレもまた、ルキナから視線を逸らさなかった。

 熱さと激しさが秘められたルキナのそれとは対称的な深い海の底を覗く様な眼差しが、瞬きすら惜しむ様にルキナを見詰め返して。
 何かを言おうとルフレは口を開くが、言葉がまだ見付からなかったかの様に、静かな吐息が幾度かその唇を僅かに震わせる。
 そして、ほんの僅かにその視線がルキナから逸らされた。


「……僕は、……。
 ……『僕』が、君の『お父様』を殺したんだよ……? 
 ……『僕』の所為で、君の未来は『絶望の未来』になってしまった……。
『僕』は……僕が、君に……」


 赦される訳など無いのだ、と。
 そう力無く呟かれたそれは、ルキナには心の悲鳴に聞こえた。
 その心を縛り続ける枷に阻まれて、自ら助けを求める事が出来ないルフレが、必死にあげた悲鳴なのだと。
 だから、ルキナは。


「……ルフレさん。
 私を、自分を責め続ける言い訳にするのは、もう止めましょう。
 確かに、『未来』の『あなた』はお父様の仇なのでしょう。
 あの『ギムレー』が私達の未来を奪ったのも、事実です。
 でもそれは、今私の目の前に居るあなたではないんです。
 同じ『ルフレ』と言う存在であっても、あの『ギムレー』とあなたは、もう違う存在です。
 ……私と、この世界で産まれた小さな『ルキナ』が、決して同じになる事は無いように」


 そう、ルキナはそれを誰よりもよく知っている。
 例え『同じ』存在であったとしても、ルキナはあの幼子ではない、同じになれる筈もない。
 今のルキナを形作るものも、あの『未来』で喪ったものも、何れ一つとして、同じにはならないのだ。
 魂の双子と呼べる存在なのだとしても、それは全くの同一と言う意味にはならない。
 それは勿論、ルフレとあの『ギムレー』にも当てはまる。


「あなたには、最初から誰からの赦しなど必要ないんです。
 いえ、『生きる事』に赦しが要る者など、この世には居ません。
 それは、あの『ギムレー』であったとしても。
 ……それでも、赦されなければ生きられないと、死ななければならないのだと、そうルフレさんが思うのならば。
 私が、赦します。
 あなたがギムレーの器である事も、あなたの何もかもを、あの『絶望の未来』を経た上で、私は受け入れ赦します。
 だから、ルフレさん。もう、良いんです……」


 赦しなど、本当は必要ないのだけれども。
 もし、それでもルフレの心を縛る枷を破る為にそれが必要であるのならば。
 それを与えるに於いて、ルキナよりも適した者は居ないだろう。
 父を奪われ……何もかもを『ギムレー』に奪われて、あの『絶望の未来』をこの目で見詰め続け『使命』を抱えてここまでやって来たルキナだからこそ、そこにある赦しには意味がある。
 逆に、その赦しを得て尚も自らを傷付け続けられる程、ルフレは愚かしくも無い。
 ルキナの言葉にルフレは僅かに目を見開き、小さく息を吸った。
 そして感情を無理に抑えようとした様な戦慄く様な声で訊ねる。


「……僕、は……。
 ここに居ても、皆の傍に、君の傍に居ても、良いんだろうか。
 ……僕なんかが、生きていても、本当に良いんだろうか……。
 僕が、何時か皆を、君を傷付けてしまうかも、殺してしまうかもしれないのに……。
 僕の所為で、皆が傷付いてしまうかもしれないのに……。
 ……それでも。
 ……皆と、君と、『生きていたい』と……傍に居たいと。
 思う事は、願う事が……赦されるのなら……、僕は……」


 しかしそこで、急に言葉が詰まってしまったかの様にルフレは黙ってしまった。
 何かを言おうとしては、何かを躊躇う様に吐息だけを溢す。
 ただ、その手が微かに震え、何かに触れようとしているかの様に僅かに開かれているのを見て。
 ルキナは、そっとその手に己の手を重ねた。
 驚いた様にルキナを見るルフレに、何も言わずに。ただ。
 その言葉の続きを促す様に、その心を戒め縛り付ける鎖をそっと緩めようとするかの様に、重ねたその手を優しく包み込む。
 すると、目の端に僅かに光る滴を浮かべたルフレは、今度はそこにある感情を隠そうともせずに、涙声に近い震える声を上げた。



「僕は、生きたい……生きていたい……っ! 
 君と、クロムと、皆と……、生きたいんだ。
 笑って、泣いて、共に……ずっと、生きて……。
 僕は……っ」



 そこで溢れる想いを堪えきれなくなった様に、ルフレの頬を光る滴が後から後から溢れ落ちていった。
 身を震わせて泣くルフレの身体を、ルキナはそっと全てを包み込む様にして抱き締める。
 今漸く心を戒める鎖を断ち切ってその想いを涙と共に溢す事が出来たルフレに、思う存分に泣かせてやりたかった。
 今まで何れ程苦しくても辛くても泣く事が出来なかったルフレの、誰にも知られる事無く飲み込み続けてきた涙が全て溢れ出ようとしているかの様に、その涙は止まる事を知らない。
 震える手でルキナに縋り付く様に抱き締め返してくるルフレの、その温もりを感じながら。
 ルキナは、やっとルフレが心の望みを見付けられた事に、満たされた様な幸せを感じていた。




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