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それが絶望の胎動であるのだとしても

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 例えば、もしも。
 私達が『あの日』、運命を変える事が出来ていたのならば。
 この手の中にある命は、その生を、その未来を、祝福されるべき存在であったのだろうか──

 何度も何度も、最早今となっては詮無い事を、それでも考えてしまう。
 それは決して消す事の叶わぬ未練であり後悔であり、そしてどうする事も出来ぬ現実に対する絶望でもあった。

 逃避する様に思いを巡らせている間に、無意識の内に抱き抱えるその手に力が入ってしまっていたのだろう。
 腕に抱き抱えた漸く乳離れが済んだばかりの幼子が、ぐずる様に泣き始めてしまった。


「ああ、ごめんなさい、マーク。
 ほら、大丈夫。大丈夫ですよ……」


 優しく言葉をかけてあやしながら、腕の中の幼児──自身の娘であるマークを、ルキナは優しく抱き締め直し、一時の間休憩する為に腰掛けていた半ば崩れ落ちた煉瓦造りの塀から立ち上がり再び行く宛も無く歩き出す。
 ルキナの目に映る世界は、かつての輝きを喪い荒廃し、何処もかしこも打ち捨てられた様な廃墟となった街ばかりで。
 そんな世界はとても人が生きていける環境では無く、人々はただその日その日を凌ぐ事が精一杯で、他者を顧みる心の余裕などとうに誰もが喪ってしまっていた。
 明日を生きる為の希望など、もう何処にも無くて。
 人々はただ、死への恐怖とそれから逃れる為だけにただただその日を生きている。
 邪竜ギムレーが復活して急速に世界が滅びへと向かう中で、幼児を抱えて女手一つで生きていくのは、苦労なんて言葉では到底言い表せられない程に困難である事は、ルキナにも十分以上に分かっていた。
 実際、自身と娘がその日を凌ぐ為の食料を手に入れる事すら、こんな世界では並大抵の労力では叶わない。
 それでも人目を忍ぶ様にして、腕の中の存在を片時も離さぬ様に、ルキナは独り宛もなく世界を彷徨っている。
 この子を守らなければならないと言う一心でルキナは邪竜の虜囚の身から命懸けで脱し、我が子を抱えて逃走したのだ。

 マークが、娘だけが。
 今のルキナにとっての『生きる理由』であった。

 この子を、守らなければならない。
 邪竜の手からも、そして、人々の手からも。
 その思いだけで、ルキナはマークを守り抜いてきた。
 マークは……ルキナの愛しい我が娘は。
 ルキナの最愛の人であったルフレとの子でもあり、同時に。
 世界を絶望に引き摺り落とした邪竜の娘でもあった。

 母親であるルキナ譲りの深い蒼の髪に、父親であるルフレ譲りの人を惹き付ける顔立ち。
 右手には聖王家の血筋である事を示す聖痕が刻まれ、そして左手には邪竜の血筋である事を示す邪痕が刻まれていて。
 そして、邪竜の娘である事を雄弁に語る様に、マークの身体には所々邪竜の鱗が生え、頭には髪に隠れてしまう程度の小さな角が在り、背中には小さな翼がある。

 人と竜の間に産まれた我が子は、ヒトであっても『人』には在らず、恐らくは人の世には居場所など何処にも無いであろう。
 既に文明が崩壊を始めているとは言え、それでもまだこの世界には人が溢れていて。
 それ故に、邪竜の血を色濃く引くマークが生きていける場所など、無いに等しいのだ。
 聖王家の血も継いではいるが同時に邪竜の娘であるマークが、イーリスやナーガ教の影響下にある場所では生きてはいけない。
 見付かったら最後、邪竜の眷族として嬲り殺しにされる。
 例え邪竜の血を継いではいても、マークはまだほんの幼児で。
 抵抗など出来ぬままに殺されてしまうであろう。
 だからこそ……ルキナは縁者が多く居る、愛しき『故郷』でもあるイーリスを頼る事は出来なかった。
 …………無論世界にとっては、邪竜の血を継ぐ子供など居ない方が良いのは、ルキナとて分かっている。
 ルキナが抱えていた使命に殉じるならば、この手で我が子をファルシオンで斬り捨てるべきなのだと言う事も……。
 だが理解して尚、ルキナはそれを実行出来なかった。
 腹を痛めて産み落とした我が子を、邪竜へと堕ちてしまっていてもそれでも愛しい人であったその人との娘を。
 ルキナには、……どうしても、殺せなかったのだ。

 世界は絶望に突き進み、恐らくそう遠くは無い内に、ルキナが見てきたあの絶望の未来へと辿り着くのであろう。
 全ての時の針がルキナがかつて居た時間のそれよりも早く進んでしまった事により、神剣を受け継ぐべきこの時間の本来の『ルキナ』は未だ幼く。
 なれば、在り得うべからざるもう一つの神剣の担い手であるルキナが、邪竜を討つ役目を果たすべきなのだろう。
 だが──

 そうまで理解していながらも、ルキナには出来なかった。
 ルキナが、『世界』よりも我が子を選んでしまったが故に。

 それは、全てを懸けてでも未来を変えようとしていた過去の自分への裏切りで、世界を守る為に殉じようとしていた愛しい人への不義で、この世に生きる全ての命への背徳でもあった。
 それは余りにも罪深く、ルキナの心を罪悪感で千々に乱す。
 この手には世界を救う為に必要な力があり、世界を救うために成すべき事も分かっているのに。
 それこそが、己が唯一の……全てを賭けてでも叶えなければならない『使命』であり宿願でああるのに。
 ……それでも。

 邪竜を討った後の『人』の世界で、後顧の憂いを絶つ為にこの手の中に懐いた我が子が殺されるのならば。
 世界を救う道を、今のルキナは選べなくなってしまった。
 それは今までのルキナ自身の生き方の否定であり、終わりがない絶望であった。
 今もこうして『使命』を放棄して逃げる事で、更なる罪を重ね続けるこの身は救い難い程に罪深く、いっそ罰して欲しいとすら思うのに、これ以上の罰は思い付かない。
 愛する人の全てを奪い壊し凌辱しそしてルキナの守りたかったもの全てを嗤いながら壊していったあの邪竜の……、そしてそんな悍ましく憎い邪竜に自分の意志も何もかもを貶められ辱められ犯されて孕まされた命。
 その為に、自身の全てを捨てて、何もかもを裏切るなど……。
 それはまさに絶望以外の何物でも無かった。


 ……それでも、この手の中の命だけは、守り通したいのだ。




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