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第一話『天維を紡ぐ』

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 父の事を想う時に、何時だって一番最初に思い出すのはあの大きな掌のその温かさだ。
 幼いあの頃、何時も私を抱き上げてくれたその優しい手を、たまに家族で遠出した時には何時も繋いで貰ったあの温かな手を、私が訓練用の模造剣を手に拙いながらも剣の稽古を始めた時に一つ一つ型を教えてくれたあの頼もしい手を。
 私は、何時だって真っ先に思い出す。
 私が産まれたその日に、産湯につかったばかりの私を優しく抱き締めてくれたのだと言うその手は、何時だって私を守り導いてくれた手であった。
 時が経つにつれて、何れ程想い続けていても、記憶は少しずつ少しずつその輪郭を薄れさせていく。
 あんなにも大好きだった声は、もう幾つかの帳を隔ててしまったかの様に朧気なものになってしまっていて。
 何時も見上げていた筈のあの大きな頼もしい背中は、私が成長するに従って追いつく事など出来ぬままに何処か遠くへと行ってしまった。
 大好きで、大切で、今だってずっとずっと想い続けている……それなのに。
 私がもうあの日々には決して戻れない事を、何処までも残酷に突き付けようとしているかの様に、全ては何時しか『過去』へと変わってしまった。
 それでもまだ、あの掌の温もりだけは、忘れずに鮮やかな『思い出』のままこの胸に抱き締め続ける事が出来ている。
 …………だけれども。
 掌の温もりだけは覚えている筈なのに、どうしてか。
 あの日……二度とは帰らなかった戦に旅立つ前に、最後に私の頭を撫でてくれたその掌を、どうしても思い出せない。
 どんなに思い出そうとしても返ってくるのは、満身創痍のフレデリクが何とか持ち帰ってきてくれた、父の形見となってしまったファルシオンの重みだけだ。
 父を喪ったあの日から、私は何時の間にか幾つも歳を重ねていて。まだ何の痛みも知らなかった無垢で無力な幼子は、剣を手に終わりの見えない戦いの日々を生きる様になって。
 あの日々は……もうどうやっても戻る事も取り戻す事も出来ない『幸せ』だった日々は、何時しかもう思い出す事すら難しくなる程に、遠くなってしまっていた。
 父が命を落とし邪竜ギムレーが甦り、世界が『絶望の未来』へと転がり堕ちていく中の日々で。私は母を、リズ叔母様を、フレデリクを、数え切れない程の大切な人達を。
 大好きな人達を、大切な人達を、私にとって『家族』と……『帰る場所』であった人達を、私は『絶望』の中でほぼ全てと言っても良い程に喪った。そして……。
 あんなにも沢山のものを、沢山の『幸せ』をくれた人達だったのに……、あんなにも沢山の『思い出』がある筈なのに。
 どうしてだか、彼等を思い出す度にこの頭を過るのは、大切な人達の物言わぬ骸となった姿ばかりになってしまった。
 奪われる事に慣れ、喪う事に慣れ、『思い出』すらも時間の流れと残酷で絶望的な現実を生き抜く日々の中で薄れ消えて。
 それが耐え難い程恐ろしいのに、それを止める術も立ち止まっている様な時間も無い事が、何よりも苦しい。
 あの日々を、あんなにも『幸せ』だったあの温かく満ち足りていた日々を、自分の『帰る場所』を、取り戻したくて。
 それが叶わぬのだとしてもせめて、この生を……大切だった人達に守られ繋げられてきたこの命を、邪竜が一方的に齎した、こんな『絶望』などで終わらせたくなくて。その為に必死に戦い続けている……その筈なのに。
 前に進む為の、戦い続ける為の、一番の源である筈の『思い出』すら容赦無く喪われていく。
 それが、私には何よりも恐ろしく絶望的な事であった。
 無論、何をどうしようともあの日々に帰る事なんて出来ないのは分かっているのだ。
「帰りたい」からと言うだけでなく、「生きたい」から、戦わねばならないから。そう言う理由、そう言う衝動が、ファルシオンを握らせ続けているのも、分かっている。
 それでもやはり、心に在るのは、心の一番奥深くの最も大切な場所に在るのは、あの温かな日々なのだ。
 あの日々があるから、戦える。
 例えもう帰る事は叶わないのだとしても、もう何をしても取り戻す事は出来ないのだとしても。
 心の中に今も尚、その温かさは『思い出』として、ずっと残っているのだから。
 だからこそ、その心の奥の一番大切な場所にある筈のそれが、こんな絶望に満ちた残酷な現実によって塗り潰されてしまう事が、何よりも恐ろしい。
 このまま戦って戦って戦い続けて、何時か『思い出』の何もかもを現実で塗り潰してしまっていっては。
 ふとそれを自覚した瞬間に自分はもう二度と戦えなくなってしまうのではないかと、……『絶望』の果ての死を抗う事無く受け入れてしまうのではないかと、そう思ってしまう。

 しかし、擦り切れ喪っていくのだと分かっていても、戦い抗う以外に私に一体何が出来ると言うのか。
 戦う事を止め立ち止まった瞬間に待つのは『死』のみだ。
 それは、私達を生かす為、守る為に、命を賭けて散った全ての者達に対する裏切りでしかなくて。
 何時か戦いの中で志半ばに『死』に身を食い千切られるか、或いはギムレーを討ってこの絶望の世界を終わらせるか。
 どちらかしか、私には選べる道は無かった……筈だった。

 しかし何れ程戦い続けても、世界の滅びを食い止める事は出来ず、人々は絶望の中で死を待つ事しか出来ず。
 そして終には、最早人間では何の抵抗も出来ぬ程にまで、世界は追い詰められてしまった。

 世界に絶望を齎したギムレーにとっては、人間との戦いなど終始一方的な虐殺でしかなくて。
 人々の抵抗は邪竜からすれば実に退屈な児戯に付き合ってやった程度でしかなかったのかもしれない。
 何にせよ、全てが絶望の淵に沈み行こうとしたその最中で、最早どうする事も出来なかった私へと、それまで沈黙を保ち続けていた神竜ナーガが示したのは。
『過去』へと渡りギムレーの復活そのものを『無かった事』にすると言う……剰りにも恐ろしく剰りにも傲慢で、まさに神すらをも恐れぬ……この世の絶望を煮詰めた先にある甘美な「新たなる道」であった。

 最早それ以外に打つ手が無いのは確かなのだろう。
 しかしそれはこの世界を……最早一握にも満たぬ程にしか生きている者は居ないとは言え、それでも懸命に絶望の中でも足掻き精一杯に生きている命が存在するこの世界を見棄て、『過去』へと逃げる事にも等しい。
 例え『過去』を変え『未来』を変える事に本当に成功するにしても、……そしてそれによって救われる人々が何千何万何億と存在するのだろうとしても。
 この世界を救い守る使命を課せられた当人である私がそれを放棄してしまった事には何の変わりもない。
 父が、母が、その命を賭してまで救おうとした世界を、私が殺してしまう事と、何の違いがあると言うのか。
 この世界でも懸命に生きている人々を見殺しに……この手で殺し「存在しなかった」事にする事とどう違うと言うのか。
 それにそもそも、『過去』を変えた所で、『この世界』が救われる保証など何処にも無いのだ。
「時を跳躍する」等と言う神の御業を、人が経験した事など有史以来未だ嘗て無くて。
 地続きである筈の『過去』を変えた時に、果たして『未来』が変わるのか。もし変わるのであれば「変わった」筈の……「無かった事」になった『未来』から来た、この私の存在がどうなるのか。その答えを人が知る由など無い。
 もし本当に『未来』が変わるのであれば、変わった後の「未来の私」が『過去』に跳躍せねばならぬ因果も変わる筈で。
 しかし「未来から来た私」と言う存在が与える変化が、『未来』を変える為に必要不可欠であるのならば、変わった後の「未来の私」にも、やはり時を越えなければならない何かしらの因果が発生するのであろうか? 
 それとも、私とは全く別の『私』が生まれ、そしてその『私』が新たなる『未来』を生きるのであろうか? 
 そんな事すら、私には分からなかった。
 神竜ナーガに問うても、その答えは返ってこない。
 ……元より無事に『過去』に辿り着けるかどうかすらも何の保証も出来ない……成功する可能性も低い方法だ。
 何処の時間にも辿り着けず、「未来」にも「過去」にも「現在」にも辿り着けずに、何処でもない「時間の狭間」を未来永劫に渡り彷徨い続ける事になるのかもしれないし。
 或いは辿り着かねばならぬ『過去』ではない、もっと遥かな「過去」か……又は「未来」に辿り着くかもしれない。
 分の悪い賭けどころではない。
 もうこれしか取れる手立てが無いのだとしても、……それでもその選択をして良いとは到底思えない、そんな選択だ。


 …………だけれども、もしも。 


 この『未来』を変える事で、父を、母を、『愛しい家族』を、そしてこの手から溢れ落ちてしまった沢山の大切な人達の命を、救う事が出来るのならば。
 そして、この世界がこんな『絶望の未来』で終わると言う「結末」を変えられるのならば……。

『喪った』それそのものを取り戻す事は、……決して出来ないのだとしても。
 私自身の手には、何一つとして残らないのだとしても。
 その代償として、この『私』が消えてしまうのだとしても。
 例え決して赦されぬ咎を背負うのだとしても。

 それでも。

 この命を、この存在を、その全てを。
 こんな絶望の中で無為に浪費するだけなのではなく。
「世界」の為に、使う事が出来るのならば。
 この身に、『何か』を変える力があると言うのなら。


 ……私は。私が、選ぶべき道は……──




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