第二話『還るべき場所』
◆◆◆◆◆
喪って、喪って、喪って……。
ルキナの人生は、喪ってばかり、奪われてばかりであった。
父を喪って、母を喪って、仲間達を喪って、率いてきた兵達も、守るべきだった民も、国も、何もかも喪って。
それでも託された『使命』だけを胸に抱いて禁忌を犯して「過去」へと跳んだ先のこの世界でも。
ルキナは、苦難の中で漸く手にした、喪いたくないたった一人を、再び喪った……。
ルキナが喪ったそれら全てが、ある意味では『邪竜ギムレー』によって奪われたと言っても過言では無いのだけれども。
そうしてルキナが『邪竜ギムレー』を憎悪する事を、あの邪竜に心を囚われる事を、ルフレはきっと哀しんでしまう。
そして、ある意味では『邪竜ギムレー』その物である自身へと怨嗟を向けて、その心を苛むのだろう。
だから、……ルキナは喪った大切な人々と、奪われたそれらを想って『邪竜ギムレー』を憎む事は、もう無い。
彼の邪竜の所業を赦すと言う事では無いのだけれども。
もうこの世の何処にも存在しないモノへと命ある限り憎しみを向け続ける事は、無意味な事であり……疲れるだけだ。
ルキナの世界を壊したあの『邪竜ギムレー』に成り果ててしまった「彼」も……。
そして、この世界に於いてその運命にあったルフレも。
決して、破滅なんて望んではいなかった。
それでも、彼等が生まれながらに背負っていた宿命とは、何とも残酷で皮肉なモノで……。
彼等では無い『誰か』が願った破滅と絶望を背負わされて、狂わされ壊されてしまったそれは悲劇に他ならない。
ルキナが真に憎むべきものがあるとするならば、彼等にその様な宿命を背負わせ破滅を導いた人々であろうし……。
そして、そんな人々がそうやってこの世の滅びを願うまでに至った悲劇や惨劇……それらの原因全てであろう。
でもきっと、それすらルフレは望まないだろう。
彼は、優しい人だったから。
『彼』の行いを赦しはしなかったけれど、それでも自らのモノではないその罪も背負おうとする程に、彼は優しかった。
そんな彼が、もうどうにもならない事に対してルキナが憎しみや怒りなどの負の感情を抱える事を、喜ぶ筈も無い。
優しくて……そして、とても残酷な人だった。
ルフレが何時、あの結末を決意してしまっていたのか、ルキナには分からないけれど。……少なくともあの決戦の前夜よりも前の事だろう……。彼の天幕には、仲間達への手紙や、彼が居なくなった後の事についてのクロムへの意見書の様な書類が沢山残されていたのだから……。
……『虹の降る山』で『覚醒の儀』を終えた辺りから、既にああする事を決めていた可能性もある。
誰にも言わず、悟らせずに……。
彼がもっと、本当の意味で自分本位で自分の事ばかり考える様な人ならば、きっとあんな選択肢は選ばなかっただろう。
或いは、もっと情に流されて、仲間達の懇願を振り払えない様な人だったならば、思い止まってくれていただろう。
だけれどもルフレは、自分の命すら大切な人達の為ならば躊躇わずに差し出せる人で……、そして情に流されて決断を思い止まってくれない程度には身勝手な人だった。
……酷い人だ。本当に、酷い男だった。
ルキナが、クロムが、そして仲間達が。
彼を喪って哀しむ事をよく理解した上で、それを躊躇い無く選んでしまった。忘れてくれ、だなんて平気で言ったのだ。
ルキナが彼を深く愛している事を、彼自身よく理解している筈なのに……。それでも「忘れられる」と言った。
……その最後には、「また」と。そう願ってくれたけれど。
それでもルキナに「約束」を残してはくれなかった。
……優しいけれど、残酷だし何処までも身勝手だと思う。
それでも。そんな酷い人でも。
きっとこの先の未来で何れ程多くの人々と出逢う事があるのだとしても、ルフレ以上に愛せる人など居ないと。
そう確信する程に、彼の事を愛していた。
ルフレと生きる明日だけが欲しかった。
明日の滅びを回避した、そんな未来で。
ルフレと共に、違う歩幅で寄り添う様に歩いて、同じ世界で同じ時間で共に「今」を積み重ねていって、そうやって共に歳をとって、命を全うするその時まで二人で生きたかった。
ただただ、それだけだったのに。
彼は、それを叶えようとはしてくれなかった。
それが彼の優しさでも、それがどうしても苦しいのだ。
……だけれども。
消えるその間際の、その口付けは。その言葉は。
ルフレの本当の「願い」だったのではないかと、思うのだ。
もう一度会いたいと、この手を取りたいと、共に生きる明日を諦めたくないと……。そう望んでくれたのは、彼自身の心からの願いだったのだろうか。そうならば。泣き縋るルキナの為でなく、自分自身の心の望みであったのなら……。
それは、本当に微かな光であっても、確かな「希望」だ。
「また」と願ったその未練が確かにこの世界にあるのなら。
きっと、全ての可能性が潰えた訳では無い。
あの戦いの直後。神竜ナーガは、ルフレの『人』としての心が『竜』としてのそれに打ち克つ事があれば、極めて可能性は低いが還って来るかもしれない……と言っていた。
それは、砂海に落とされた小さな砂金をたった一度掬った砂の中から見付けられる可能性と等しい程の、まさに有り得ない奇跡の様なモノであるのだろうけれども。
それでも、ルフレが心からそう望むのであれば、その可能性は確かに存在するであろう。
『死』すらも超える「願い」があるのなら、きっと。
それを願う事は、愚かな事であるのかもしれない。
喪った物を取り戻す事は、例え時を遡っても叶わない事である事を、ルキナは身を以て知っている。
生と死は隣り合わせにある筈のものではあるけれど、両者の距離は無限に等しい程に遠く、また一方通行だ。
死した愛しい者を取り戻そうとして狂っていった者達は伝承にも物語にも数多く語られている。
況してや、ルフレはその髪の一筋すら遺さずこの世から完全にその肉体は消滅しているのだ。
魂なるモノが確かにあるのだとしても、この世から完全に消え失せた彼のそれは、この世に残されているのだろうか。
そしてそれが残っていた所で、それが還る為の肉体は無い。
……死をも乗り越えて戻って来る事を心から願っているが、果たして「何処」から戻ると言うのだろう。
死者の世界を生者が覗き見る事は叶わず、その魂の如何を問う事もまた叶わず。魂呼ばおうにも肉体は無く。
そうであるのに、「帰ってくる」事を信じ続けるのは、愚かな事であるのだろうか、ただの妄執に過ぎぬのであろうか。
彼が最初に願っていた様に、彼の事を「過去」にして忘れて生きていく事の方が、余程正しい在り方で。
ルキナも本来はそうやって、彼の事を優しい「思い出」に変えながら生きていくべきであったのかもしれないけれども。
それでも、ルキナは。
赦されなかろうとも、間違っていようとも。
もう一度、彼に逢いたいのだ。彼と共に生きたいのだ。
この世の摂理を覆してでも逢いたいと、その再会を願うのは余りに罪深い事であるのかもしれない。
既に一度世界の理を覆し、禁忌に手を掛けたルキナが願う事は赦されぬモノであるのかもしれないし。
本人の望みがどうであれ、『邪竜ギムレー』であるルフレが願う事もまた赦されぬ事であるのかもしれない。
そうであっても、願ってしまう。願わずには居られない。
『愛』とは全く不合理なものだ。
「約束」すらしてくれなかった彼を、それでもこうして待ち続けてしまう程に、彼の事を変わらずに想い続ける程に。
理屈や合理性などとは全く別の場所にそれはあるのだろう。
「また」と願ったその日が何時になるのかは分からない。
何年も何十年も後かもしれないし、ルキナが生きている間に叶う事なのか、叶う可能性があるのかすら分からない。
それでも、ルキナは諦められないのだ。
願わくば、彼の還る場所が「この世界」である様に。
そして、ルキナの傍である様に……。
巡る命の環の「何処かで」では無くて、こうして彼と出会えた自分が再びその手を取る事が叶うその日を願いながら。
今日も、ルキナは彼を待ち続けるのだ。
◆◆◆◆◆
現に夢の狭間に、揺蕩う様に微睡む様に。
そうやって静かに自分の存在が解けていくかの様だった。
今にも途切れそうな意識を手繰り寄せて微かに繋げながら。
痛みも無く恐怖も無い「消滅」の瞬間が静かに近付いてくるその足音を聞きながら。
それでもルフレは、思考し続けていた。
『邪竜ギムレー』と共に、『ギムレーの器』として共に消滅する事を選んだルフレに、帰る場所など本当は無いのだろう。
こうして、消滅する間際の泡沫の夢の間の中で、静かにこの思考も心も魂も、虚無へと還り解け行くのを待つ事こそが、ルフレが本来成さねばならぬ事なのだろう。
……それでも、ルフレには、帰りたい場所が在った。
こんな自分でも、帰る事を待っていてくれる人が居る。
だからこそ、この虚無の中に解け逝く事をただ受け入れる訳にはいかないのだ。
そこに「正しさ」は無いのかもしれない。
ルフレが必死に探して、そうして見付けた「最善」を、全て台無しにしてしまう選択であるのかもしれない。
『愛』と言う言葉に、その衝動に、盲目になって何もかもを奈落の底に突き落とそうとしているだけなのかもしれない。
そもそも、そう願う事自体が、「消えたくない」と足掻く『ギムレー』としての本能に突き動かされているのかもしれない。
自分の心であっても、その心の海の最果ての奥底に潜むモノまでを、自らが全て把握出来る訳では無くて。そして、「未来」の全てを……選んだ道の果てにあるモノ全て、選択が与える影響全てを、その時点で見通す事など誰にも出来ない。
だからこそ、そう言った「悪い想像」を全て「違う、そんな事は無い」等と否定する事は出来ない。
勿論それは逆の事が言えて、「悪い想像」がただの杞憂に過ぎぬ可能性とてあるだろう。未来は未知数で、故に起きても居ないし見通す事の出来ぬ事に考えを巡らせる余りに何も出来なくなり、「未来」に臆病になっていく事も愚かな事で。
それでも「分からない」事は分かるのに、少しでも考えようとしてしまうのは。その先も見通せぬ暗闇を「理性」と言う名の小さな篝火で照らそうとしてしまうのは。
ルフレが考え続けてしまう質の人間であるからだろうか。
衝動のまま、胸の中に燃える情熱のまま、魂の叫ぶまま、生きる事が出来るのならそれもまた『幸せ』だろうけれど。
こればっかりは、性分と言うモノなのだろう。
考えても考えても、「その先」なんて分からないけれど。
それでも、ルフレは、願われてしまった。
「共に生きたい」、「貴方でないとダメなのだ」、と。
……惚れた相手のそんな心からの願いを、無視して切り捨ててしまうのは、ルフレとしても男の矜持に悖る。
……その願いに応えない事こそが相手にとっての「最善」なのだと、そう確信出来るなら、また話は別だけど。
だが、この先の「未来」は誰にも分からないものだ。
ルフレの決断が……『邪竜ギムレー』と共に消滅する事が、最善であるとは限らない様に。
ならば、その願いに応えてみても、良いではないか。
きっとそこには絶対の「正しさ」も「間違い」も無いだろうけれど……。
この世の誰よりも愛しい人がそこに居るのならば、それだけでも十分だと……そう今のルフレは思うのだ。
先の見えない「未来」を、彼女もまだ知らない「明日」を。
共に生きられるならば、それはとても『幸せ』な事だろう。
世界中の人々が何時か自分達を糾弾するとしても、それでもルキナが笑っていてくれるなら……もうそれだけで良い。
そしてそんな彼女の傍に居られるなら、それはきっと……。
だがしかし、そうは考えるものの……。
一体どうすればここから出る事が出来るのか……彼女達が待つあの世界に還れるのかは分からない。
そもそも気付いたらこの状態であったのだ。
帰り道など分からないし、来た道すらも分からない。
そもそも身体の感覚すら無く、思考し続ける意識だけが此処にあるだけで……。
どうすれば良いのかと言う指標など無く、ただ思考を続ける事で『無』になる事を防いでいるだけだった。
還りたい、帰らなければならない。
彼女が、皆が、待っている。あの愛しい世界に。
しかし……。
幾度目とも知れぬ思考の堂々巡りを繰り返していると。
ぼんやりと、自分以外の『何か』の気配を傍に感じた。
── ……君は、帰りたいのかい?
『声』の様に、『何か』の思考が静かに伝わる。
その『声』に、頷く様にルフレは肯定を返した。
── 君の存在が、『禍』になるかもしれなくても?
── 君は、大切な者達を傷付ける事が恐くないのかい?
何処か震える様なその『声』に、ルフレは頷く。
……それが、「恐くない」と言えば嘘になるけれど。
それでも、その恐怖に竦む背をそっと押す様な想いがある。
その手を、そっと引こうとする愛しい手がある。
それを裏切る事の方が、もっと恐ろしい。
もうこれ以上ない程に、身勝手な選択で彼等を傷付けてしまっただろうけれど……。それでも。
── 君は、その命を対価にする事を自ら選んだ。
── ……なのに何故、そこまでして帰りたいんだい?
自ら選び、それに後悔しても居ない。
だが、そんな身勝手な自分の事を、「約束」すら結べなかったのにも関わらず、待っていてくれる人が居る。
ならば、行かねばならない。辿り着かねばならない。
彼女が哀しむ日々が、戻らぬ待ち人を待ち続ける日々が、少しでも短くなるよう……帰らねばならないのだ。
そして何よりもルフレ自身が。結末が分からない「明日」を……「間違い」も「正解」も分からない「未来」を。
ルキナと……皆と共に生きたいと、そう思うのだ。
還る理由など、それで十分だろう。
── ……本当に自分勝手だし、我儘だね、君は。
それでも、それが自分の本心だ。
我儘で結構、身勝手で結構。
諦められないモノがあるのに言い訳に逃げるより余程良い。
ルキナの『幸せ』が、ルフレと共に生きる明日にしか無いのであれば、ルフレは還らねばならないのだ。何をしてでも。
すると、『声』は静かに問うてきた。
── 君は、あの子を『幸せ』にすると約束出来るかい?
── 僕は、あの子との「約束」を守れなかった……。
── ……でも、君を帰してあげられたら……。
── 少しでも、あの子の笑顔を、守れるのだろうか?
……『声』が守れなかった「約束」の事など、ルフレは知らないし関係無いけれども……。
「あの子」とやらがルキナを指すのであれば、「幸せにする」かどうかなど一々『声』に約束するまでもない。
ルフレが出来る全てを賭けてでも、『幸せ』にしてみせると、とっくに心に決めているのだから。
── そうか……それを聞けて、少し安心したよ。
── ……よく目を凝らして、耳を澄ましてみるといい。
── 君を呼ぶ声が聞こえるだろう?
── 君に繋がる糸が見えるだろう?
── それを辿って行くと良い。
── ……君を待つ人が、そこに居る。
『声』に言われた通りに、それを意識する。
すると確かに、自分の名を呼ぶ声が幾つも聴こえた。
糸の様な何かが、指に幾つも絡み付いている気がする。
そして、ルフレを呼ぶ声の中で、最も大きく何度も聴こえるその声は、ルキナの声であった。
『声』に指摘されるまでは、全く気が付かなかったのに。
それでも、一度気付いてしまえば、どうしてそれに気付かなかったのか分からない位に、それはハッキリと其処に在る。
そして、数多の声に導かれる様に、指に絡み付く糸に手繰り寄せられる様に、ルフレの意識は何処かへ浮上していった。
……その場に、『声』だけを残して。
── ……さようなら。もう一人の「僕」よ。
── どうか、君は幸せに……。
最後に、そんな『声』の言葉が聴こえた気がするが。
それが「現実」であるかは、定かではない。
◇◇◇◇◇
「ねえ、大丈夫かな……?」
「……ダメかもしれんな……」
とてもとても懐かしい声が、そっと聞こえてきた。
そしてその声を認識した途端に、そよぐ風と揺れる叢が肌に触れる感覚を知覚する。
ゆるゆると、意識が「世界」を知覚して。
そして最後に、ゆっくりと目を開けたそこには。
泣きたい程に大切で懐かしい、出逢いのあの日よりも歳を重ねた……ルフレの良く知るクロムとリズの姿が、あった。
「立てるか?」
そう言いながら手を差し伸べてくる彼の姿が、かつての出逢いに重なるけれど、その手はあの日よりも更に、ルフレと重ねてきた日々の分だけ厚みがあって。
ああ、「還って来れた」のだと、そう視界が滲んだ。
『死』をも覆してしまった自分が、この世界にとってどんな存在になったのかはまだ分からない。
ただ……クロムの手を取る様に重ねた自身の右手には、あの烙印の様に刻まれた痕は無かった。
それが『ギムレーの器』としての宿命からの解放を意味するのかは、まだ分からないけれど。
それでもきっとそれは、「呪い」ではなく「祝福」だろう。
そう、信じる事にした。
「未来」は誰にも分からない。
それでも、再び自分がこの世界に帰り着けた事を、災厄の始まりになどしたくは無い。
誰にも先が分からない「未来」を。きっと「正解」も「間違い」も無いこの世界を、精一杯生きていきたいのだ。
……こうして、手を差し伸べてくれる友が居れば。
そして、共に生きたいと心から望む、愛する人が居れば。
きっと、大丈夫だと、そう思える。
例え『人間』とするには少し外れた存在に変わっていても、あんな哀しい怪物に成り果てる事は無いと信じられるから。
だから今はただ、この再会の喜びを噛み締めていたかった。
……『消滅』と言う『死』を越えて。
ルフレは、漸く世界に帰り付いたのだ。
◆◆◆◆◆
喪って、喪って、喪って……。
ルキナの人生は、喪ってばかり、奪われてばかりであった。
父を喪って、母を喪って、仲間達を喪って、率いてきた兵達も、守るべきだった民も、国も、何もかも喪って。
それでも託された『使命』だけを胸に抱いて禁忌を犯して「過去」へと跳んだ先のこの世界でも。
ルキナは、苦難の中で漸く手にした、喪いたくないたった一人を、再び喪った……。
ルキナが喪ったそれら全てが、ある意味では『邪竜ギムレー』によって奪われたと言っても過言では無いのだけれども。
そうしてルキナが『邪竜ギムレー』を憎悪する事を、あの邪竜に心を囚われる事を、ルフレはきっと哀しんでしまう。
そして、ある意味では『邪竜ギムレー』その物である自身へと怨嗟を向けて、その心を苛むのだろう。
だから、……ルキナは喪った大切な人々と、奪われたそれらを想って『邪竜ギムレー』を憎む事は、もう無い。
彼の邪竜の所業を赦すと言う事では無いのだけれども。
もうこの世の何処にも存在しないモノへと命ある限り憎しみを向け続ける事は、無意味な事であり……疲れるだけだ。
ルキナの世界を壊したあの『邪竜ギムレー』に成り果ててしまった「彼」も……。
そして、この世界に於いてその運命にあったルフレも。
決して、破滅なんて望んではいなかった。
それでも、彼等が生まれながらに背負っていた宿命とは、何とも残酷で皮肉なモノで……。
彼等では無い『誰か』が願った破滅と絶望を背負わされて、狂わされ壊されてしまったそれは悲劇に他ならない。
ルキナが真に憎むべきものがあるとするならば、彼等にその様な宿命を背負わせ破滅を導いた人々であろうし……。
そして、そんな人々がそうやってこの世の滅びを願うまでに至った悲劇や惨劇……それらの原因全てであろう。
でもきっと、それすらルフレは望まないだろう。
彼は、優しい人だったから。
『彼』の行いを赦しはしなかったけれど、それでも自らのモノではないその罪も背負おうとする程に、彼は優しかった。
そんな彼が、もうどうにもならない事に対してルキナが憎しみや怒りなどの負の感情を抱える事を、喜ぶ筈も無い。
優しくて……そして、とても残酷な人だった。
ルフレが何時、あの結末を決意してしまっていたのか、ルキナには分からないけれど。……少なくともあの決戦の前夜よりも前の事だろう……。彼の天幕には、仲間達への手紙や、彼が居なくなった後の事についてのクロムへの意見書の様な書類が沢山残されていたのだから……。
……『虹の降る山』で『覚醒の儀』を終えた辺りから、既にああする事を決めていた可能性もある。
誰にも言わず、悟らせずに……。
彼がもっと、本当の意味で自分本位で自分の事ばかり考える様な人ならば、きっとあんな選択肢は選ばなかっただろう。
或いは、もっと情に流されて、仲間達の懇願を振り払えない様な人だったならば、思い止まってくれていただろう。
だけれどもルフレは、自分の命すら大切な人達の為ならば躊躇わずに差し出せる人で……、そして情に流されて決断を思い止まってくれない程度には身勝手な人だった。
……酷い人だ。本当に、酷い男だった。
ルキナが、クロムが、そして仲間達が。
彼を喪って哀しむ事をよく理解した上で、それを躊躇い無く選んでしまった。忘れてくれ、だなんて平気で言ったのだ。
ルキナが彼を深く愛している事を、彼自身よく理解している筈なのに……。それでも「忘れられる」と言った。
……その最後には、「また」と。そう願ってくれたけれど。
それでもルキナに「約束」を残してはくれなかった。
……優しいけれど、残酷だし何処までも身勝手だと思う。
それでも。そんな酷い人でも。
きっとこの先の未来で何れ程多くの人々と出逢う事があるのだとしても、ルフレ以上に愛せる人など居ないと。
そう確信する程に、彼の事を愛していた。
ルフレと生きる明日だけが欲しかった。
明日の滅びを回避した、そんな未来で。
ルフレと共に、違う歩幅で寄り添う様に歩いて、同じ世界で同じ時間で共に「今」を積み重ねていって、そうやって共に歳をとって、命を全うするその時まで二人で生きたかった。
ただただ、それだけだったのに。
彼は、それを叶えようとはしてくれなかった。
それが彼の優しさでも、それがどうしても苦しいのだ。
……だけれども。
消えるその間際の、その口付けは。その言葉は。
ルフレの本当の「願い」だったのではないかと、思うのだ。
もう一度会いたいと、この手を取りたいと、共に生きる明日を諦めたくないと……。そう望んでくれたのは、彼自身の心からの願いだったのだろうか。そうならば。泣き縋るルキナの為でなく、自分自身の心の望みであったのなら……。
それは、本当に微かな光であっても、確かな「希望」だ。
「また」と願ったその未練が確かにこの世界にあるのなら。
きっと、全ての可能性が潰えた訳では無い。
あの戦いの直後。神竜ナーガは、ルフレの『人』としての心が『竜』としてのそれに打ち克つ事があれば、極めて可能性は低いが還って来るかもしれない……と言っていた。
それは、砂海に落とされた小さな砂金をたった一度掬った砂の中から見付けられる可能性と等しい程の、まさに有り得ない奇跡の様なモノであるのだろうけれども。
それでも、ルフレが心からそう望むのであれば、その可能性は確かに存在するであろう。
『死』すらも超える「願い」があるのなら、きっと。
それを願う事は、愚かな事であるのかもしれない。
喪った物を取り戻す事は、例え時を遡っても叶わない事である事を、ルキナは身を以て知っている。
生と死は隣り合わせにある筈のものではあるけれど、両者の距離は無限に等しい程に遠く、また一方通行だ。
死した愛しい者を取り戻そうとして狂っていった者達は伝承にも物語にも数多く語られている。
況してや、ルフレはその髪の一筋すら遺さずこの世から完全にその肉体は消滅しているのだ。
魂なるモノが確かにあるのだとしても、この世から完全に消え失せた彼のそれは、この世に残されているのだろうか。
そしてそれが残っていた所で、それが還る為の肉体は無い。
……死をも乗り越えて戻って来る事を心から願っているが、果たして「何処」から戻ると言うのだろう。
死者の世界を生者が覗き見る事は叶わず、その魂の如何を問う事もまた叶わず。魂呼ばおうにも肉体は無く。
そうであるのに、「帰ってくる」事を信じ続けるのは、愚かな事であるのだろうか、ただの妄執に過ぎぬのであろうか。
彼が最初に願っていた様に、彼の事を「過去」にして忘れて生きていく事の方が、余程正しい在り方で。
ルキナも本来はそうやって、彼の事を優しい「思い出」に変えながら生きていくべきであったのかもしれないけれども。
それでも、ルキナは。
赦されなかろうとも、間違っていようとも。
もう一度、彼に逢いたいのだ。彼と共に生きたいのだ。
この世の摂理を覆してでも逢いたいと、その再会を願うのは余りに罪深い事であるのかもしれない。
既に一度世界の理を覆し、禁忌に手を掛けたルキナが願う事は赦されぬモノであるのかもしれないし。
本人の望みがどうであれ、『邪竜ギムレー』であるルフレが願う事もまた赦されぬ事であるのかもしれない。
そうであっても、願ってしまう。願わずには居られない。
『愛』とは全く不合理なものだ。
「約束」すらしてくれなかった彼を、それでもこうして待ち続けてしまう程に、彼の事を変わらずに想い続ける程に。
理屈や合理性などとは全く別の場所にそれはあるのだろう。
「また」と願ったその日が何時になるのかは分からない。
何年も何十年も後かもしれないし、ルキナが生きている間に叶う事なのか、叶う可能性があるのかすら分からない。
それでも、ルキナは諦められないのだ。
願わくば、彼の還る場所が「この世界」である様に。
そして、ルキナの傍である様に……。
巡る命の環の「何処かで」では無くて、こうして彼と出会えた自分が再びその手を取る事が叶うその日を願いながら。
今日も、ルキナは彼を待ち続けるのだ。
◆◆◆◆◆
現に夢の狭間に、揺蕩う様に微睡む様に。
そうやって静かに自分の存在が解けていくかの様だった。
今にも途切れそうな意識を手繰り寄せて微かに繋げながら。
痛みも無く恐怖も無い「消滅」の瞬間が静かに近付いてくるその足音を聞きながら。
それでもルフレは、思考し続けていた。
『邪竜ギムレー』と共に、『ギムレーの器』として共に消滅する事を選んだルフレに、帰る場所など本当は無いのだろう。
こうして、消滅する間際の泡沫の夢の間の中で、静かにこの思考も心も魂も、虚無へと還り解け行くのを待つ事こそが、ルフレが本来成さねばならぬ事なのだろう。
……それでも、ルフレには、帰りたい場所が在った。
こんな自分でも、帰る事を待っていてくれる人が居る。
だからこそ、この虚無の中に解け逝く事をただ受け入れる訳にはいかないのだ。
そこに「正しさ」は無いのかもしれない。
ルフレが必死に探して、そうして見付けた「最善」を、全て台無しにしてしまう選択であるのかもしれない。
『愛』と言う言葉に、その衝動に、盲目になって何もかもを奈落の底に突き落とそうとしているだけなのかもしれない。
そもそも、そう願う事自体が、「消えたくない」と足掻く『ギムレー』としての本能に突き動かされているのかもしれない。
自分の心であっても、その心の海の最果ての奥底に潜むモノまでを、自らが全て把握出来る訳では無くて。そして、「未来」の全てを……選んだ道の果てにあるモノ全て、選択が与える影響全てを、その時点で見通す事など誰にも出来ない。
だからこそ、そう言った「悪い想像」を全て「違う、そんな事は無い」等と否定する事は出来ない。
勿論それは逆の事が言えて、「悪い想像」がただの杞憂に過ぎぬ可能性とてあるだろう。未来は未知数で、故に起きても居ないし見通す事の出来ぬ事に考えを巡らせる余りに何も出来なくなり、「未来」に臆病になっていく事も愚かな事で。
それでも「分からない」事は分かるのに、少しでも考えようとしてしまうのは。その先も見通せぬ暗闇を「理性」と言う名の小さな篝火で照らそうとしてしまうのは。
ルフレが考え続けてしまう質の人間であるからだろうか。
衝動のまま、胸の中に燃える情熱のまま、魂の叫ぶまま、生きる事が出来るのならそれもまた『幸せ』だろうけれど。
こればっかりは、性分と言うモノなのだろう。
考えても考えても、「その先」なんて分からないけれど。
それでも、ルフレは、願われてしまった。
「共に生きたい」、「貴方でないとダメなのだ」、と。
……惚れた相手のそんな心からの願いを、無視して切り捨ててしまうのは、ルフレとしても男の矜持に悖る。
……その願いに応えない事こそが相手にとっての「最善」なのだと、そう確信出来るなら、また話は別だけど。
だが、この先の「未来」は誰にも分からないものだ。
ルフレの決断が……『邪竜ギムレー』と共に消滅する事が、最善であるとは限らない様に。
ならば、その願いに応えてみても、良いではないか。
きっとそこには絶対の「正しさ」も「間違い」も無いだろうけれど……。
この世の誰よりも愛しい人がそこに居るのならば、それだけでも十分だと……そう今のルフレは思うのだ。
先の見えない「未来」を、彼女もまだ知らない「明日」を。
共に生きられるならば、それはとても『幸せ』な事だろう。
世界中の人々が何時か自分達を糾弾するとしても、それでもルキナが笑っていてくれるなら……もうそれだけで良い。
そしてそんな彼女の傍に居られるなら、それはきっと……。
だがしかし、そうは考えるものの……。
一体どうすればここから出る事が出来るのか……彼女達が待つあの世界に還れるのかは分からない。
そもそも気付いたらこの状態であったのだ。
帰り道など分からないし、来た道すらも分からない。
そもそも身体の感覚すら無く、思考し続ける意識だけが此処にあるだけで……。
どうすれば良いのかと言う指標など無く、ただ思考を続ける事で『無』になる事を防いでいるだけだった。
還りたい、帰らなければならない。
彼女が、皆が、待っている。あの愛しい世界に。
しかし……。
幾度目とも知れぬ思考の堂々巡りを繰り返していると。
ぼんやりと、自分以外の『何か』の気配を傍に感じた。
── ……君は、帰りたいのかい?
『声』の様に、『何か』の思考が静かに伝わる。
その『声』に、頷く様にルフレは肯定を返した。
── 君の存在が、『禍』になるかもしれなくても?
── 君は、大切な者達を傷付ける事が恐くないのかい?
何処か震える様なその『声』に、ルフレは頷く。
……それが、「恐くない」と言えば嘘になるけれど。
それでも、その恐怖に竦む背をそっと押す様な想いがある。
その手を、そっと引こうとする愛しい手がある。
それを裏切る事の方が、もっと恐ろしい。
もうこれ以上ない程に、身勝手な選択で彼等を傷付けてしまっただろうけれど……。それでも。
── 君は、その命を対価にする事を自ら選んだ。
── ……なのに何故、そこまでして帰りたいんだい?
自ら選び、それに後悔しても居ない。
だが、そんな身勝手な自分の事を、「約束」すら結べなかったのにも関わらず、待っていてくれる人が居る。
ならば、行かねばならない。辿り着かねばならない。
彼女が哀しむ日々が、戻らぬ待ち人を待ち続ける日々が、少しでも短くなるよう……帰らねばならないのだ。
そして何よりもルフレ自身が。結末が分からない「明日」を……「間違い」も「正解」も分からない「未来」を。
ルキナと……皆と共に生きたいと、そう思うのだ。
還る理由など、それで十分だろう。
── ……本当に自分勝手だし、我儘だね、君は。
それでも、それが自分の本心だ。
我儘で結構、身勝手で結構。
諦められないモノがあるのに言い訳に逃げるより余程良い。
ルキナの『幸せ』が、ルフレと共に生きる明日にしか無いのであれば、ルフレは還らねばならないのだ。何をしてでも。
すると、『声』は静かに問うてきた。
── 君は、あの子を『幸せ』にすると約束出来るかい?
── 僕は、あの子との「約束」を守れなかった……。
── ……でも、君を帰してあげられたら……。
── 少しでも、あの子の笑顔を、守れるのだろうか?
……『声』が守れなかった「約束」の事など、ルフレは知らないし関係無いけれども……。
「あの子」とやらがルキナを指すのであれば、「幸せにする」かどうかなど一々『声』に約束するまでもない。
ルフレが出来る全てを賭けてでも、『幸せ』にしてみせると、とっくに心に決めているのだから。
── そうか……それを聞けて、少し安心したよ。
── ……よく目を凝らして、耳を澄ましてみるといい。
── 君を呼ぶ声が聞こえるだろう?
── 君に繋がる糸が見えるだろう?
── それを辿って行くと良い。
── ……君を待つ人が、そこに居る。
『声』に言われた通りに、それを意識する。
すると確かに、自分の名を呼ぶ声が幾つも聴こえた。
糸の様な何かが、指に幾つも絡み付いている気がする。
そして、ルフレを呼ぶ声の中で、最も大きく何度も聴こえるその声は、ルキナの声であった。
『声』に指摘されるまでは、全く気が付かなかったのに。
それでも、一度気付いてしまえば、どうしてそれに気付かなかったのか分からない位に、それはハッキリと其処に在る。
そして、数多の声に導かれる様に、指に絡み付く糸に手繰り寄せられる様に、ルフレの意識は何処かへ浮上していった。
……その場に、『声』だけを残して。
── ……さようなら。もう一人の「僕」よ。
── どうか、君は幸せに……。
最後に、そんな『声』の言葉が聴こえた気がするが。
それが「現実」であるかは、定かではない。
◇◇◇◇◇
「ねえ、大丈夫かな……?」
「……ダメかもしれんな……」
とてもとても懐かしい声が、そっと聞こえてきた。
そしてその声を認識した途端に、そよぐ風と揺れる叢が肌に触れる感覚を知覚する。
ゆるゆると、意識が「世界」を知覚して。
そして最後に、ゆっくりと目を開けたそこには。
泣きたい程に大切で懐かしい、出逢いのあの日よりも歳を重ねた……ルフレの良く知るクロムとリズの姿が、あった。
「立てるか?」
そう言いながら手を差し伸べてくる彼の姿が、かつての出逢いに重なるけれど、その手はあの日よりも更に、ルフレと重ねてきた日々の分だけ厚みがあって。
ああ、「還って来れた」のだと、そう視界が滲んだ。
『死』をも覆してしまった自分が、この世界にとってどんな存在になったのかはまだ分からない。
ただ……クロムの手を取る様に重ねた自身の右手には、あの烙印の様に刻まれた痕は無かった。
それが『ギムレーの器』としての宿命からの解放を意味するのかは、まだ分からないけれど。
それでもきっとそれは、「呪い」ではなく「祝福」だろう。
そう、信じる事にした。
「未来」は誰にも分からない。
それでも、再び自分がこの世界に帰り着けた事を、災厄の始まりになどしたくは無い。
誰にも先が分からない「未来」を。きっと「正解」も「間違い」も無いこの世界を、精一杯生きていきたいのだ。
……こうして、手を差し伸べてくれる友が居れば。
そして、共に生きたいと心から望む、愛する人が居れば。
きっと、大丈夫だと、そう思える。
例え『人間』とするには少し外れた存在に変わっていても、あんな哀しい怪物に成り果てる事は無いと信じられるから。
だから今はただ、この再会の喜びを噛み締めていたかった。
……『消滅』と言う『死』を越えて。
ルフレは、漸く世界に帰り付いたのだ。
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