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第二話『還るべき場所』

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 戦場となっている果てすら見えぬ程巨大な竜の背を、轟々と唸りながら吹き荒れる風に、ルフレは僅かに目を細めた。
 そろそろ日が傾きつつあり、そう時を置かずに日没が始まるであろう。そうなれば、この遮蔽物の殆ど無い戦場での西日は、周囲の環境把握の殆どを視覚に頼る『人間』達にとっては不利になり、邪竜側にとってより一層の好機が訪れる。
 日暮れ後の夜闇でどうなるのかなど一々考えるまでも無い。
 状況はやや拮抗していると言っても良いだろうが、こちら側は既に総力を尽くしている状態であるに関わらず、邪竜の側には無尽蔵であるかの様に「駒」となる屍兵が次から次へと呼び出されている。まさに屍兵の大波の様だ。
 邪竜は基本的には直接は手を下さず、『人間』達が屍兵に抗っているのをニヤニヤと眺めているだけ……。
 屍兵が元々は人間である事を考えると、歪ながらも『人間』同士で醜く争わせているつもりであるのだろうか……。
 一々ギムレーの趣味嗜好など読んだ所で大してこちらに有利になる事は無いけれども、ルフレは一瞬そう考える。
 ギムレーには、この背の上に存在する全てを己のブレスで焼き払うと言う手もあるし、それこそ少し身を捻って天地を逆さにしてやればルフレ達を一掃する事は容易い。しかし。
 この期に及んでもルフレを取り込み更なる力を得る事に拘っているギムレーは、ルフレを殺し排除する事は出来ない。
 だからこそ、この乱戦の中ではルフレを巻き込みかねない様な破壊の力は揮えないし、況してやその背からルフレごとクロム達を振り落とす事は出来ない。
 そう言った手を使わなくても十分に勝機があるとギムレーは踏んでいるし、それはそう間違った判断とも言い切れない。

 結局、戦いとは数である。
 更には、ギムレーの呼び出す屍兵達は「質」で見ても決してルフレ達にそう劣る訳でも無い。
 何か相手を圧倒出来る様な力などルフレ達の側には無く、更に言えば奇襲なり何なりで相手の戦力を削ぐ事も出来ない。
 これが通常の戦争であるなら、白旗を上げたくなる状態だしそもそも戦争を仕掛けようとはならないだろうけれど。
 ここでルフレ達が敗れると言う事は即ち世界が終わる事と同義であり、何れ程勝ち目がない戦いでも勝たねばならない。
 圧倒的な力を持つギムレーであるが、少なくともルフレの存在がそれを抑えていられるならば僅かなりとも勝機はある。
 ルフレは、この場に於ける自身の有用性を認識し、常にクロムとルキナの傍に居る事でギムレーのブレスの射程内にクロム達が入る事を防いでいた。
 それでも時折、まるで弄ぶ様に、ギムレーはそのブレスの力でこちらを薙ぎ払おうとしてくる。
 死にはしないが、それでも動けなくなる程のダメージは必至であろうそれを、ルフレは魔法で必死に捌く。

 だけれども、そうやって自身の魔力をギムレーの力にぶつける度に、何かが共鳴する様な……。
 ……『ルフレ』と言う存在の根幹が何かに揺さぶられていく様な、悍ましく不気味で……そして恐ろしい事に何故か心地良くすら感じるモノがあるのだ。
 それは、そうした力の衝突の中でルフレに眠る『ギムレー』としての力が呼び覚まされて行っているのだろうか……。
 そして、そうやってルフレを揺さぶる事が、ギムレーの目的なのだろうか……。それは、分からない。

 だけれども、そうやって騒めく様な感覚と、ぶつかり合う度に徐々に強くなっていく自身の『力』に、やはり自分は『人間』ではなく『ギムレー』なのだろうと……そう諦める様に納得してしまうモノがあった。

 そして、それと同時に既に決めた覚悟が益々強くなる。
 やはり、自分は「この世界」に在るべきではない。
「この世界」に、破壊しか生まない様なこんな力は不要だ。
 ならばこそ、共に消えよう。その滅びが結実しない様に。
 それこそが、『愛』する全ての人達為に唯一自分に出来る、最後の仕事だと思うから。

 ギムレーは、『死』を知らない。
 肉体の滅びを知ってはいても、まだ『死』そのものを経験した事は無い。……だからこそ、ギムレーは恐れない。
 例えナーガの力でも自身を完全に消滅させられない事を知るからこそ、ファルシオンを本当の意味では恐れない。
 千年の眠りは忌避するべきモノであり屈辱ではあるけれど。
 だが、眠りに過ぎないそれの中で『力』を蓄え続ける術も、既にギムレーは知っている。
 だから、ギムレーは恐れない、それについて考えない。
 故に、この世に生きる全てが『生きる』為に必死に足掻くそれを、嘲笑いながら踏み潰せる、蹂躙出来るのだ。
 知らないから、共感などしないから。
 だからこそ、ここまで残酷に振る舞う、狂気に染まる。

 何も無い空っぽの命。力だけがそこに在った、憐れな獣。
『力』以外、ギムレーには何も無かったのだろう。
 自分以外の何かを大切にしたいと考えた事も無いのだろう。
 もしかしたら、自分自身ですら大切でないのかもしれない。
 ある意味、命持つ知性ある者として考えれば、ギムレーは余りにも未成熟だとも言える。
 ギムレーの破壊は、道理を知らぬ赤子が癇癪のままにモノを壊す事と、意味としては大して変わらないのかもしれない。
 無論ギムレーに知性が無いと言う訳では無い。
 悪辣な程に、人を貶める為の知恵はある。
 だが、破滅と絶望が望みと言いながら、世界の全てを破壊し尽くそうとするその行為こそが、その幼稚性の表れだった。
 何故ならば、ギムレーの齎すそれは、突き詰めれば最後には『虚無』しか残らない。
 ギムレーの望む『絶望』も『破壊』も、その対象が存在しなくては意味が無いモノだ。『虚無』の先には存在しない。 
 もしこれが成熟した知性在る者ならば、もっと『上手く』やるだろう。もっと上手く、『人間』を家畜の様にして、永くその絶望と破壊を楽しめる様に搾取出来る様にする。
 少なくとも、ルフレならばそうするだろう。
 竜の長い『寿命』で考えれば、ほんの数年で世界を滅ぼし切ってしまうのは、まさに愚行としか言えない。
 その後に待ち受けるのは、終わりの無い『虚無』であり『退屈』だ。それすら考えないのか、それともどうでも良いのか。
 何にせよ、ギムレーの感性がある種幼い事は間違いない。
 だが、それもまた仕方の無い事であるのかもしれない。

『人間』であろうと、或いは獣であろうと。
『死』を避ける為……『生きる』為に、皆知恵を絞るのだ。
 知恵とは元を辿れば『生きる』為に揮うモノ。
 知性を高めていけば、この世の「真理」を解き明かす事にその意識が向う事もあろうけれども。原初の知性とは如何に『死』を避け、『生き残る』かを焦点に磨かれてきたモノだ。
 そして『死』は『恐怖』とも言い換えられる。
 命とは、『死』や『恐怖』から逃れる為に、立ち向かう為に、皆必死に足掻きながら知恵を絞るモノであるのだ。

 ……だが、ギムレーにはそのどちらも欠落している。
『死』が無く、故にそれへの『恐怖』も無く。
『死』が無い故に、『喪う』事への『恐怖』も鈍い。
『死にたくない』・『喪いたくない』・『生きたい』と足掻く事を、ギムレーは知らない、した事も無いだろう。
 あの邪竜にあるのは、突き詰めてしまえば『快』・『不快』の極めて原始的な判断基準だけだ。
 だからこそ、『不快』な『人間』を滅ぼして『快楽』を得ようとしている……。その先にある『恐怖』を考えもせずに。
 そして、『死の恐怖』を知らないからこそ、ギムレーは全てを見下し、甘く見ている。
 故に、クロムが『覚醒の儀』を行いファルシオンに力を取り戻す事を、死に物狂いで止めようとはしなかった。
 もしギムレーが本気で自分を害する全てを排除しようとしていたならば、ルフレ達はここに辿り着けもしなかった。
 ギムレーにとってはこの戦いですら単なる戯れ程度なのだ。
『恐怖』を知らないからこその愚行とも言える。
 全てを取るに足らぬ羽虫と捉え見下す邪竜は、その愚かしさ故に今この期に及んでもルフレを無力化しようとはしない。
『死』を考えた事も無いギムレーは、理解していないのだ。
 この場に、自身を『死』に至らしめ未来永劫に渡り消滅させ得る手段が存在している事を。
 ……或いは、それの可能性を僅かに過らせてはいても、まさかそれを実行するまいとでも考えているのだろうか? 
 ならばそれはとんだ見込み違いである事を、その身を以て知らしめてやるべきであろう。
 ルフレもまた、まだ『死』を直接的には知らないが。
 それでも、ルフレは多くの『死』を見届けて来た。
『喪失』の苦しみを、間近で見続けてきた。
 だからこそ、選べる。
 ルフレは、自身の『死』よりも恐ろしいモノを知っている。
 ルフレには、自分の命よりも大切なモノがある。
 自分の全てを対価に捧げてでも、叶えたい事があるのだ。

 憐れで寂しく愚かで、「力」の多寡でしか他者を計れず見下す事しか知らないギムレーには、想像もつかないのだろう。
 命の輝きが見せてくれる、その煌めきの美しさを。
 今にも燃え尽きそうな命の炎でも、最後までそれを燃やし続けようと足掻く意志が織り成すその輝きを。
 悲しみも怒りも絶望も憎悪も、その全てを抱えて乗り越えて、前へ前へと足掻いて行くその輝きの素晴らしさを。
 ギムレーは、知らない。知ろうともしない。

 ……それはとても、憐れな事なのかもしれない。
 だがそれに同情はしないし、別にそれでギムレーのその行いが赦されるのかと言うと、そんな事は絶対に無い。
 ギムレーがその様な憐れな怪物に成り果てたのは、ギムレー自身の選択だ。それを憐れむ必要は無い。

 別に、ルフレとてこの世の全てを礼賛している訳では無い。
 醜いモノ、汚いモノ、悍ましいモノ、理解し難いモノ……。
 そんなもの、この世には腐る程にある。
 クロムも仲間達も、そしてルキナも。
 誰もが皆、それに傷付けられてきた。
 それを見て、『人間』に失望し絶望する者が居るのも分かる。
 だがそんなごみ溜めの様な世界であっても、どんな楽園よりも素晴らしいモノだと感じさせてくれる輝きは確かにある。
 ルフレはそれを見付けた。教えて貰った。見届けて来た。
 クロムと出逢い、こうして仲間達と共に生きて、
 ルキナと出逢い、彼女を愛して。
 そうして見付けて来た沢山の宝物を、ギムレーは知らない。
 それを喪いたくないからこそ、「何でも」出来てしまう人間の覚悟の強さを、意志の強さを、ギムレーは理解出来ない。

 ……『邪竜ギムレー』に成り果てると言う事はやはり、憐れで残酷な事だ。
 幾ら、神の如き『力』を揮えようと、世界を思うが儘に出来るのだろうと。愛しい輝きを喪った世界でそんな力に溺れる事に、一体何の価値があるのだろう。
『力』を得る意味も理由も、そこには何も無いであろうに。
「目的」の無い力をただ揮う事は、寂しく虚しい事だ。

 だからこそ、ルフレは「自分」が不憫でならない。
「自分」もかつてはその輝きを知っていただろうに。
 ギムレーの意識に塗り潰されて、それを見失ってしまった。
 最早あれは、「ルフレ」であったモノの残骸でしかない。
 哀れに思うのであれば尚の事、解放してやるべきだろう。
 永遠に続くかと思う様な戦いも、クロムとルキナの振るうファルシオンと、ギムレーに感応する事で高まっていったルフレの力の前によって、終には屍兵の荒波を捌き切り。
 ギムレーの……正確にはまだ完全には取り戻した力を制御仕切れていないが故に、「ルフレ」の皮を被りその制御を担っていた、「ギムレーの写し身」とも言える「それ」を破った。
 しかし、真なる力を取り戻した事で眩しい程の輝きを放つクロムのファルシオンを憎悪の眼差しで見詰めるギムレーには、忌々しさと憤怒以外にも確かに侮りが存在していた。
 それでは『死』を与えられない事をよく知っているから。
 滅びの時を千年先延ばしにする事を選んだクロムを、後世に災禍を押し付ける浅ましい『人間』だと嗤っている。
 だが、その驕りも、これで終わりだ。



「クロム、少し待ってくれ」


 ルフレは、ギムレーの胸を貫こうとしていたクロムのファルシオンを寸での処で止める。
 それにはクロムとルキナのみならず、ギムレーも驚いた。
 その間に、ルフレはギムレーに一歩二歩と近付く。


「……ギムレー、僕はお前がした事を決して赦さない。
 だが、お前は「僕」であり、僕に有り得た未来の一つだ。
 だからこそ、その咎も責も全て、僕も背負おう。
 ……お前が「僕」である事、僕がお前と同じ存在である事。
 そして、お前がこうしてこの世界へと渡って来た事。
 今は、そのどちらにも感謝しているよ。
 こうして、この世界に在るべきでは無い存在を、消せる。
 僕の大切な人達の為に、出来る事が僕にもある。
 ……使ってあげられる命が、此処にあるんだから」


 そして、ギムレーと同じ力で、『ギムレー』自身の力で。
 ルフレは、ギムレーのその胸を穿ち抜いた。
『人間』ならば間違いなく致命傷であるそれは、既に満身創痍であったギムレーの『命』にも届く。
 心臓を潰す様に穿った穴から、血が溢れ出した。
 が、その溢れ出た血は直ぐ様、まるで砂の様に消えていく。
 穿たれた穴から、ギムレーの身体全体に罅が走っていく。
 自身の身に起きているそれを理解出来ぬかの様に、困惑した様にギムレーは胸に手を当てて……。そして、その崩壊が一向に止まらない事を悟ったギムレーは漸く蒼褪めた。


「『死ぬ』のは初めてで、恐ろしいかい……? 
 なら、その恐怖を噛み締めて逝くと良いよ……。
 ……でも安心しなよ。お前は僕でもあるからね。
 ……だから、一緒に逝ってあげるよ」


『ギムレー』自身の力で、ギムレー自身を否定する。
『ギムレー』が、ギムレーを殺す。
 それは『死』を知らず、『死』を考える事も、況してや望む事など有り得る筈無いギムレーの身に絶対に起こり得ない事。
 同じ世界に『ギムレー』とギムレーが同時に存在すると言う「時の歪み」があって、初めて成立する矛盾。
『ギムレー』自身による、自分の存在の否定。
 それは、『自殺』に他ならないモノだ。

 ここに来て、自身の身に何が起きたのか、そしてこれから自分がどうなるのか。それを理解したギムレーは蒼褪めた表情の中に、狂いそうな程の『恐怖』の感情を浮かべた。
『死』を知らなかった筈のギムレーは、初めて自分に訪れるそれの『恐怖』へと直面した事で、初めて足掻こうとする。
 だが、今更何に手を伸ばそうが、その結末は変わらない。
 もっと前にその『恐怖』を知っていれば、何かは変わっていたのかもしれないが……今となっては栓無い事だ。

 逃れ得ぬ『死』を前にして、ギムレーは『恐怖』に苛まれながらその身を崩壊させていった。
 罅割れは全身に広がり、加速度的に身体は消滅していく。
 それはまるで、砂で作られた城が風に浚われて壊れて消えていくかの様であり、『恐怖』に歪むその表情ですら徐々に崩壊し、……遂には完全に消えて無くなった。

 そしてその崩壊は、ルフレの身にも起きている。
 サラサラと、端から崩れて消えていく身体を見て、ルフレは不思議とその崩壊に痛みが無い事に驚いていた。
 まあ、痛み無く逝ける事に越した事は無いのだが。
 そんな事をぼんやりと考えていると。



「ルフレ、お前……どうしてそんな……」

「ルフレさん……何で……何で……」


 クロムが、ルキナが。
呆然と、その手にファルシオンを握ったまま。その光景を、受け止められないとばかりに、絶句して立ち尽くしていた。
 その目が、驚愕と……そして苦しみに歪んでいるのを見て、ルフレの胸はチクリと痛む。


「クロム……。ルキナ……。…………ごめんね」


 これが一番良い選択だとは思っているけれど、それでも二人を酷く苦しめてしまう事は、ルフレにも辛い事だった。
 ……泣かないで欲しいとは思うけれども、ルキナはもう既に、無意識になのかポロポロと涙を零していて。
 だからせめてその涙は拭おうと、ルフレはまだ完全には崩れてはいない右手でそれを拭おうとしたのだけれども。
 ルキナに伸ばしたその手は、ルキナに掴まれてしまった。
 徐々に崩れ形を喪い始めるその右手を何とか留めようと、ルキナは両手で包む様にその手を掴むけれども。
 その指の隙間からも、ルフレの手だったモノは少しずつ零れ落ちて消えていってしまい。
とうとう、ルキナの手の中から右手は完全に消失した。
 ルキナはこの世の絶望の淵を覗いているかの様な目で、空になった己の両の手の平を見る。


「ルフレ……逝くな、逝かないでくれ……。
 この戦いが終わっても、俺達にはまだまだやるべき事が残っているんだぞ……。それを、こんな所で投げ出すのか……」

「……ごめんね、クロム。本当に、ごめん。
 ……でも、大丈夫だよ。僕が居なくたって。
 沢山の人達がクロムを支えてくれる、力になってくれる。
 一応、最後の仕事として、僕の天幕に書類を残しているから、それを使ってくれると嬉しいな」

「俺が言いたいのは……! そんな事じゃない……! 
 どうして、……どうしてお前が……」


 ルフレの言葉を遮る様に吼えたクロムは、絶望する様に消えていくルフレの足を見た。
 どうにか出来ないのかと、そう縋る様なその目に、ルフレはそっと首を横に振る。


「……この世界からギムレーの脅威を完全に取り除くには、これしか方法が無かったからね。
 封印よりも確実で……そうして「二体も」一度に完全に始末出来る方法があるんだったら、それを選ばない手は無いよ。
 ……でも、有難う……。
 あの日クロムに出逢えたから、僕は『人間』として逝ける。
 ……君に出逢えて、良かった。君の友で在れて、良かった。
 有難う、クロム」


 あの日クロムに出逢わなかったらどうなっていただろう? 
 何処かでギムレーに喰われていたのだろうか。
 そうでなくとも、こうしてギムレーを消滅させようなどとはしていなかっただろう。
 記憶を喪い、『人間』として積み上げてきたモノを喪ったルフレの心を再び満たしてくれたのは、もう一度『人間』にしてくれたのは、クロム達だから。それを考えれば、クロム達がギムレーを消滅させたと言っても良いのだろう。

 こんなにも奇跡の様な出逢いを重ねて、愛しい仲間達に出逢えて、終生の友を得て、何よりも愛しい人に出逢えて。
『人間』と寄り添い生きる事など到底出来なかった筈の『ギムレーの器』には、勿体無い程に『幸せ』な人生だった。
 それを与えてくれたクロムには……あの日空っぽになったルフレの手を取ってくれた彼には、感謝しかない。
 例え何度記憶を喪っても、それを忘れる事は無いだろう。


「……俺の『半身』は……! お前ただ一人だ、ルフレ。
 どんなに時が流れても、お前しか居ない。だから……!」 


 絶望と苦しさの中それでも前を向いてそう叫んだクロムに、その温かな想いに、ルフレは自然と微笑みを浮かべていた。


「有り難う、クロム。
 君にそう思って貰える事こそが、最高の餞だ。
 僕にとっても、君はずっとたった一人の『半身』だ。
 ずっと、ずっと……」


 どうしてだろうか、ルフレの頬も静かに涙が濡らしていく。
 だがそれは、後悔や絶望の涙では無くて。
 喜びと……どうしようもない寂しさが故のモノだった。
 ……未練が無い訳では無い。
 愛する仲間達と、愛する友と、愛しい人と。
 この先も共に生きていたいと。
 そう叫ぶ心が無いと言えば嘘になる。
 でももっと欲しいモノがあった、もっと大切な人達に贈りたいモノがあった。そして、それは残念ながらルフレの命と引き換えにしか叶わないモノであった。……ただそれだけだ。

『ギムレーの器』であるルフレが生きていれば、ルキナが本当の意味で解放される事は無い。
 何時か……遠い遠い未来に訪れるであろうそれを想って、その心は自身が置き去りにして来た『絶望の未来』に囚われ続けるであろう。ルキナ本人はそれで良いのかもしれないが。
 それがルフレの我儘であっても、傷付き果てて来たルキナの心は、もういい加減解放されても良いと思うのだ。
 勿論その選択がルキナを苦しめてしまう事は分かっている。

 沢山哀しませてしまうかもしれない。
 沢山悔いを残させてしまうかもしれない。
 沢山苦しめてしまうかもしれない。
 それでも、ここで死ぬルフレは、何時か必ずルキナの中で『過去』に変わる日がやって来る。
 顔も声も忘れ。全てが時の揺り籠の中で朧気になっていく。
 それが生きると言う事であるし、そうやって『過去』など忘れ去って『幸せ』になってくれる事がルフレの望みだ。
 ルフレの事は、何時の日かの、心の片隅に残る朧気だけれども優しい『記憶』になってくれれば、それで良いのだ。

 それに、そもそも『命』には何時か終わりが来るモノだ。
 足掻いても、抗っても。遅い早いの差は在れども、何時かは必ず『死』と言う別れが訪れる。
 ルフレのそれは……少し早いかもしれないが、未練はあってもそこに悔いは無い。
 そして、それが何れ程辛くても苦しくても、人は『死』の別れを乗り越えて生きていける様になっている。クロムが、最愛のエメリナ様を喪っても、こうして生きていられる様に。
過ぎ去った人々の遺した『思い出』が、そして周りの人々が、別離に傷付いた心を支えてくれる。
 その哀しみが優しく鈍い痛みに変わるその日まで……。
 そして、ルフレはルキナなら大丈夫だと確信していた。
 クロムはルキナを支えてくれるだろうし、ルキナ程の素敵な女性なら彼女を心から愛し支えてくれる人は必ず見つかる。
 ……最初からルフレと思い結ばれていなかったらこんな苦しみを与えなくて済んだのかもしれない点に関しては、本当に心苦しくはあるのだけれども……。それは許して欲しい。


「ルキナ……君に逢えて、良かった。
 君を好きになって、君と思い結ばれて……。
 僕は本当に幸せだった。有難う。
 僕は、君を沢山苦しめてしまった酷い男だっただろうけど。
 だから、僕の事なんか忘れて、『幸せ』になってくれ。
 ギムレーなんていない世界を思うが儘に生きて欲しい」


 それが僕の願いだと。ルフレが言おうとしたその時だった。

 ルキナは、突然ルフレの胸倉を掴んだかと思うと、ルフレに抵抗すら許さずにその唇を奪った。
 突然のその行動にルフレが呆気に取られていると。
 ルキナは些か乱暴にその目元を腕で拭って、力強い眼差しでルフレを睨んだ。


「絶対に私を置いて逝こうとしないで下さいと! 
 私はルフレさんにそう言ったじゃないですか! 
 私を絶対に『幸せ』にすると、言ったじゃないですか! 
 ルフレさんにとって、私の『幸せ』って何ですか⁉ 
 自由? 忘れろ? 何を言っているんですか! 
 私にとっての『幸せ』は、ルフレさんと生きる明日です! 
 貴方が居なければ、そこに在る筈が無いでしょう! 
 私の為なら何でも出来るんでしょう⁉ 
 だったら……だったら……死なないで下さい……。
 還って来て下さい……。何をしてでも……。
 私は……! ルフレさんが『何』だって良いんです! 
『ギムレーの器』だって、『人間』ではなくったって! 
 でも! ……ルフレさんじゃないと、ダメなんです。
 ルフレさんじゃなきゃ……。
 私には……貴方じゃなきゃ……ダメなんですよ……。
 だから、貴方の事を、忘れてなんてあげません。 
 ずっと……ずっと。待ってます。
 だから、帰って来て下さい。私の所に……。
 お願いだから…………」


 次第に再び泣き出しながら、ルキナはそう言ってルフレの胸元にしがみつく。しかし次第にその胸元も崩れ始めていた。
 そんなルキナに、ルフレは掛ける言葉を見失っていた。

 何を言ったとしても、ルフレがルキナを置いて逝く事には変わらない。ルキナのその願いは、叶えてあげられない。
『死』は不可避のモノであるし、例えギムレーを消滅させる為だとしても、それを選んだのはルフレ自身だ。
 今更「やっぱり嫌だ」とは言えないし、言っても仕方ない。
 本当の意味で命が『死』すらも超えて蘇る事があるのなら、それはもう「この世」に在って良い存在とは言えないだろう。
 それに、ギムレーと不可分であるルフレが還って来ると言う事は、ギムレーの存在の抹消に失敗した事に他ならず、この世界に災禍の種を再び蒔く事になるのではないだろうか。

 ……それでも。どうしてだろうか。
 死に行くだけの者なのに、過去になるしかない存在なのに。
 それでも、今こうして自分に縋り付くルキナを、抱き締めたいと……そう思うのは。この手を離したくないと、思ってしまうのは。……どうしてなのだろう。
 自分の心の筈なのに、それはルフレ自身でもよく分からない衝動だった。理性を越えた場所から溢れ出た衝動のまま。
 ルフレは、そっとルキナの唇に口付けを返す。

 それはきっと、ルキナに対してとても残酷な所業だった。
 手離してあげなくてはならないのに。
 忘れて貰わなくてはならないのに。
 それでも、まるで己の存在を彼女の中に刻み付けるかの様に、ルフレは彼女に口付けをしてしまう。

 叶えられない「約束」なんて結ぶべきではないのに、もう何処にも居やしない自分なんかにルキナの「未来」を縛り付けるなんて、あってはならないのに。
 ああ……それなのに、どうしてこうも離れ難いのだろう。
 どうして、こんなに愛しいのだろう。
 ……どうして、その願いを裏切ってしまう、こんな酷い最低な男を、ルキナはここまで愛してくれるのだろうか。
 いっそ罵ってくれれば良かったのに……。
 ルキナの口から零れるのは、ルフレへの直向きな想いだけ。
 ……それがどうしても、辛い。哀しい。
 ……それでも。願っても、良いのだろうか。
 また何時か何処かで、彼女と巡り逢う「未来」を。
 きっと叶わないだろう……それを。
 ルキナと同じ世界同じ場所で共に生きて、一緒に歳をとって、命の環を繋げて……それを見届ける様な。
 そんな奇跡を……願っても、良いのだろうか。
 もし、そんな奇跡が起こって戻って来たとしても、そこに居る『ルフレ』はもう『人間』と呼べないかもしれないのに。
 そんな存在でも、この手を取って生きていく事を、望んでも赦されるのだろうか……。


「ルキナ……。
 叶うなら……それを願う事が僕に赦されるなら。
 僕は、もう一度、君に逢いたい。
 ここに居る君の手を、もう一度、僕自身が、掴みたい。
 ……そんな我儘を、君が赦してくれるなら。
 ……待っていて欲しい。
『必ず帰る』と、約束は出来ないけれど。
 それでも、君と生きる明日を、今度は最後まで諦めずに足掻いてみるから……。だから……。
 その時まで、さようならだ……」


 もう身体は殆ど消えてしまった。
首から上も半ば解ける様に世界に溶けて消えて行っている。
 しかしルキナは、僅かに残った頬に、口付けた。



「待ってます、必ず。
 貴方が帰ってくるその日を。何時までも。
 だから……」

「……有難う、ルキナ。
 ……もし、叶うなら。
 また……──」



 続けようとした言葉は、そこで途切れる。


 そうして世界から、『邪竜ギムレー』は完全に消滅した。






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