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第一話『天維を紡ぐ』

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 いっそ、その『優しさ』を拒絶する事が出来るのならば、楽になれるのかもしれない。
 だが、まるでそれは甘やかな猛毒の様にルキナの判断を鈍らせて、気付けばもう手遅れな程にその心に入り込んでいた。
 そこにあるのは紛れも無く『善意』で、その『優しさ』はルキナの為だけに向けられたもので、そしてそれは……きっとルキナが心から求めていた……だが決して彼からだけは得てはいけないものであったのだろう。
 その『優しさ』に触れる度に、その温かな心に触れる度に。
 あの『絶望の未来』で傷付き果て今も尚癒す事の叶わない心が、そしてそこに穿たれた虚ろな穴が、僅かに癒されてしまう。
 だがそれは同時に、息が苦しくなるまでの罪悪感と後悔に襲われる事をも意味していた。

 ……ルフレは、「この世界」の『彼』は。
 『クロム』の命を奪う『裏切者』であり、そして「その時」が来たならば殺してでも止めなくてはならない相手だ。
 ……何があっても、どんな理由があっても、「この世界」で一番心を預けてはならない相手であるのに。
 ……それを分かっていた筈なのに、『彼』の『優しさ』を拒み切れず、……そしてその『優しさ』を手離す事も出来ないのは、自分の心が弱いからなのだろうか。
 ルフレに非は何も無く、責められるべきはルキナただ一人だ。
 ……喪う苦しみにはもう慣れ切っている筈なのに、何時しかそれでもその『優しさ』を……『彼』を喪う事を耐え難いと想う様になっていて。
 『彼』を殺さなくてはならない「可能性」から、必死に目を塞いでそれから逃げ出してしまいたくなる。
 だがそれは赦されない、赦してはならない。
 自らの成すべき事から目を反らす事は、そしてそこから逃げ出す事は、ルキナには赦されないのだ。
 果たさなければならない『使命』の為に、守らなければならない『世界』の為に……もう立ち止まる事は出来ない。

 今この瞬間にも少しずつ「その時」は近付いてきていて。
 誰も、動き続ける時の針を止める事は出来ないのだ。
 ……時を超える力を持つ神竜であってすら、それは叶わない。
 ……「この世界」には、後何れ程の時間が残されているのだろうか……。
 それすら、誰にも分からないのだ……未来を知るルキナにも。
 ルキナの知る未来で「その時」が訪れたのは、ヴァルムとの戦争が終わってからの事であったけれど……この世界の状況はルキナの知る未来と似ている様でその細部はルキナの干渉によるものかどうかはともかく違ってきている。
 小さな小さな波紋が思いもよらぬ結果へと結びつく事がある様に、何かの歯車があの未来と掛け違った結果、「その時」が訪れるのが遥かに早くなってしまう可能性だってある。
 「その時」が一年後や更にその先になるのか、或いは明日か。
「この世界」の平穏は、まさに薄氷の上にある。
 ……こうして戦争が起きている今を「平穏」と評するのは少し違う気もするが、あの未来に比べれば間違いなくそうである。
 恐るべき「滅び」と「絶望」が刻一刻と近付いてきている事を、「この世界」の人々の殆どが知らない。
 知らないからこそ、人と人同士で争っていられるのだろう。
 ルキナがその事実を伝えた『クロム』達ですら……果たして何処までそれを信じてくれているのか、ルキナには分からない。
 あの未来の事を、言葉だけで分かって貰えるとは、そこで生きていたルキナには到底思えなかった。
 そもそも、未来から来ただなんて戯言の様にしか思えないだろうその事実を認めて受け入れて貰えただけで十分以上であり、そして『絶望の未来』を回避する為に力を貸して貰えるだけでそれ以上を望むべきではないのだろうけれど。
 だが、どうしても。
あんな『絶望の未来』にしてはいけない、「この世界」を救わなければならないと、焦りと恐怖に苛まれてしまうルキナと。
 訪れる「かもしれない」破滅を回避しなくてはと考えるしかない『クロム』達とでは、やはり意識にズレがある。
 それが、何時か恐ろしい破滅へと結び付くのではないかと、そうルキナは考えてしまうのだ。
 ……だからこそ、せめて自分だけは、自分だけでも、「その時」を阻止する為に、如何に小さな「可能性」であってもそこに繋がるのであれば取り除かなければならないのに。
 ……だが、肝心のそれを果たして成せるのか、分からない。
 必要な時に、成さねばならぬ時に、それを躊躇ってしまうのではないかと、そしてその所為で……何もかもを喪って。
 そして、「二度目」の『絶望の未来』をこの目で見届けなくてはならないのではないかと……その「可能性」が恐ろしい。
 きっと……いや確実に、「二度目」は、耐えられないから。

 だけれども……『絶望の未来』を何よりも恐れていて尚、その為に『彼』を殺す事を、……『彼』を喪う事を、今のルキナはそれと等しい程に恐れてしまっているのだ。
 『彼』と……ルフレと深く関わらなければ、こんな想いを懐く事も無く、『使命』を遂行出来ていた筈なのに。
 何があろうとも、「この世界」で最も心を赦してはならない相手であると、知っていたのに。
 なのに……それを分かっていてすら……ルキナはルフレと関わる事を拒めなかった。
 確かに、ルフレが『クロム』の最も近しい「半身」である以上は全くの無関係であり続ける事は不可能ではあるけれど。
 だが、それならそれで、もっとやりようはあった筈なのだ。
 ルフレの方から差し伸べられたその手を振り払う事だって出来た筈であるし、ルキナがそれを拒んだからと言って『使命』を果たす事に大きな支障が生じる事も無かったであろう。
 しかし……ルキナは拒めなかった、その手を取ってしまった。
 何時か必ずそれを後悔する事になると、余計な苦しみを背負う事になると、痛い程に分かっていたのに。
 愚かな事だと、分かっていても。
 間違っていると、それを許してはいけないと分かっていても。
 ……その全てから目を反らす様に、そこにある事実から目を塞ぐ様に……ルキナはその手を取ってしまった、心を殺す猛毒の如きその『優しさ』を受け入れてしまった。

 愚かだ、余りにも愚かだ。
 そうしてまでほんの一時の温もりに浸っていた所で、ルキナが成さねばならぬ事も……そしてこのままでは『絶望の未来』が訪れると言う現実が変わる訳でも無いのに。
 その代償の様に、苦しみ悶え自身を苛み続けているのに。
 だが、こんな地獄の責め苦を無限に味わい続けている様な今ですら、もう彼のその手を振り払えない。
 この心に僅かに差し込んだその『優しさ』がくれた安らぎが、この苦しみと絶望の絶対値に釣り合うとは思えないのに。
 それでも、それを手離せない。
 きっと、地獄に落ちるその瞬間ですら……そしてそこで彷徨う亡者の様に成り果ててすら、それに縋り続けるだろう。
 余りにも愚かだと、思わず自嘲してしまいたくなる。

 だが、ルキナにとって一番耐え難く嫌悪の感情を抱くのは、自身のそんな「愚かしさ」についてではない。
 ……そこまでしてその『優しさ』に縋っていても尚、『使命』とそれとを秤に掛けた時に、僅かにであっても『使命』の方へとその天秤が傾く事、それを選ぶ自身の在り方全てだ。
 その『優しさ』を選んだのなら、その手を取ったのならば、その「選択」に責任を持ち最後まで貫き通すべきである。
 『使命』の重みを振り払ってまで、その『優しさ』を受け入れる事を選んだのに……そこに在るまやかしの『居場所』に安らぎを得る事を望んでしまったのに。
 それでいて最後はそれを切り捨てる。
……「嫌だ」と泣き叫ぼうとも、耐えられないと逡巡しても。
ルフレのその胸に剣を突き立ててしまうのであろう。
それこそが、ルキナの『成すべき』事であるのだから。
これ程苦しんだのだ悩んだのだ自分を苛んだのだ、だからそれを選ぶ事を「赦して下さい」と、厚顔無恥にも乞うかの様に。
 何と卑怯で狡猾で……愚かだ。
 
 『使命』の問題などでは無く、そもそもの話、本当はルキナには『彼』の手を取る資格など最初から無かったのだ。
 あの『絶望の未来』での彼の裏切りの事情など知らぬまま、「この世界」の『彼』の命を『使命』の為に捧げようとしていた時点で……そしてそれを成してしまう時点で。
 ルキナの苦悩など罪業の意識など、そんなものが『彼』にとって一体何になると言うのだ。
 所詮それらはルキナの自己満足、自己憐憫でしかない。
 「この世界」で懸命に生きる命を、一つの人生を。
 『彼』自身には甚だ理不尽であるかもしれない理由で奪うその事への何の償いにもなりはしないし、思ってもならない。
 それだけは、ルキナのなけなしの矜持が赦さない。
 だが、時を巻き戻す事など叶わず、ルキナがルフレの手を取ってしまった事を『選ばなかった事』にする事は叶わない。
 そして、こんなにも矛盾だらけで二律背反を犯している様にしか思えない状態に在っても、ルフレの傍を離れられない。
 その理由も、もうルキナには分かってしまっていた。

 ……何故ならば、ルキナは確かに「救われて」いたのだ。
 『彼』の優しさに、その小さな気遣いに。
 胸に穿たれた見えない穴から少しずつ何かが零れ落ちていきそうであったのを、『彼』が止めてくれた
 ただ傍に居るだけであった時間も、ほんの少しだけ吐露した心中を何も言わずに静かに聞いてくれた事も、僅かにその指先に触れるだけでも。
 そんな細やかな……ルキナにとっては掛け替えの無い出来事の全てが、ルキナの苦しみを一時でも癒していたのだ。
 「この世界」に居場所なんて在る筈も無い自分でも、彼の傍で過ごすほんの一時であるならば、「この世界」で生きられる様な……そんな錯覚すら懐いてしまう程に。
 ルフレと過ごす時間が、大切であったのだ。
 そこにあった温かなそれを、人はきっと『幸せ』と呼ぶ。
 それを感じる事が罪深くとも、感じてしまったそれを否定する事は、ルキナには出来ないのだ。

 そう自分は、……ルフレの事を、きっと──




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