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第二話『神竜の森の賢者』

◇◇◇◇◇




 不意に光源となる火がユラリと頼り無く揺れた事で、そろそろ灯りに油を継ぎ足さなくては、とルフレは意識を本の世界から現実の世界へと呼び戻した。
 採光窓を雨風が叩く音が却って集中力を高めていたのか、随分と本にのめり込んでいたみたいで、机の脇には読み終わった本が何冊も積み重なっている。
 椅子から立ち上がり、凝り固まった肩や腰を解す様に大きく背伸びをし軽く身体を動かした。

 いつの間にか雨風の音が止んでいる気がして、油を継ぎ足しに書斎の外に出たついでで、廊下の雨戸を少し開けて外を見る。
 伺い見た外は、あれ程激しかった雨風の痕跡など全く無いかの様な穏やかな闇夜がそこに広がっていた。
 書斎に籠もり始めたのはまだ日が中点を過ぎた位の頃の事だと思うのだけれども、いつの間にか日も暮れていた様だ。

 窓の外を眺めていたその時。
 ふと、妙に獣達の鳴き声が騒がしい事に気が付いた。
 縄張り争い……にしては、どうにも様子がおかしい。
 何時にない森の様子に、ルフレは強い胸騒ぎを感じる。
 一刻も早くそこに行き何が起きたのか確かめなくてはならないと、何故か心の声はルフレを急かそうとする。
 ルフレはその心の声に逆らう事なく、カンテラだけを手に屋敷を飛び出した。


 獣達の騒ぎの中心は、どうやら屋敷の裏手の方向である様だ。
 屋敷の裏手からほんの少しばかり離れた所には、少し森が開けた場所がある。
 獣達の唸り声や鳴き声の大きさなどから推測するに、彼等が騒いでいるのはそこだろうか? 
 一体何が起きたのかは分からないが、この騒ぎ方は尋常のモノでは無い事だけは確かだ。

 嵐は過ぎ去り、荒れ狂う様に唸っていた風は凪いだ様に静まってはいるが、未だ大きな雲が月を隠してしまっているらしく、星明かりだけが夜の森を薄暗く照らしていた。
 カンテラの灯りで暗い道を照らしながら、獣達が騒めく方向へと、何故だか急かす心のままに周りを警戒しつつも急ぐ。

 そう離れていない事もあって、程無くしてルフレは獣達が騒いでいた場所へと辿り着いた。
 そして、そこにあった光景に思わず瞠目して息を呑む。
 そこにあったのは、まさに『異様』と言うべきものであった。
 森の開けた場所を取り囲む様に、様々な獣達が警戒を露に唸ったり何処か怯えた様に忙しなく周りを動き回っている。
 そして……。


 その中心に一匹の『竜』がその身を泥濘の中に横たえていた。


 ルフレが知っている飛竜達とは身体の作りからして全く異なるその『竜』は、まるでお伽噺の挿し絵の中から抜け出てきたかの様に、何処か非現実的で……。
 ルフレが知るどんな生き物とも異なるのに、まさに『竜』としか表現のしようが無い生き物であった。

 古の書物の中に名前だけは残っている、かつてこの地にも居たとされる火竜や氷竜と言った野生の竜たちの生き残り……なのだろうか? 
 それとも、竜の姿も併せ持つとされる《マムクート》と呼ばれる人々なのだろうか……? 

 ふとルフレが思考の海に沈みそうになったその時。
 雲の切れ間から、柔らかな月明かりが森へと降り注ぐ。
 月光に照らし出されたその『竜』の姿に、ルフレは思わず息をする事すら忘れて魅入ってしまった。


『竜』は、剰りにも美しかったのだ。


 月灯りに蒼銀に輝く硬質な鱗に全身を覆われ、ルフレの身体など容易く噛み砕いてしまえそうな大きな顎門に、鍛え上げた鋼でも切り裂いてしまいそうな鋭い爪を持つ前肢と、地を力強く踏み締める強靭そうな後肢を持ち、その背からは鳥のそれにも似た蒼みを帯びた白銀の羽根に覆われた翼が生えている。
 脆弱な人間にとってはこの上無く恐ろしい姿をしているのかもしれなくても、その『竜』はこの世の何よりも美しい生き物である様にルフレは感じてしまった。

 だが、『竜』は傷付き果て、今にも力尽きようとしていた。

 十数本の矢がその身を包む鱗を穿ち砕いて突き立ち、その内何本かは矢柄から折れる様に深く刺さっている。
 だが、そんな矢傷以上に深刻なのは、『竜』の胸元を斜めに一閃した深い斬り傷であった。
 余程の業物で斬られたのだろう……硬い鱗をものともせずに刻まれたのであろうその傷は、傷口周りで固まった血にドス黒く汚れている。
 遠目からでも傷口の状態を見るに、恐らく傷を与えられてから数刻は経っている筈なのに、止血が追い付かないのかそれとも動く度に傷口が開いてしまうのか、今も尚その傷口からは絶えず血が零れ、『竜』の美しい蒼銀の鱗を赤黒く汚していた。

 胸元の傷を庇う様に泥濘の中に『竜』は伏せていて、鞭の様に長くしなやかな尾は力無く地に投げ出され、翼は畳まれる事も無く泥濘へと伏せられていた。
 よく見ると、庇われている左腕にも、胸元のそれに似た酷い傷が刻まれていた。
 苦しいのかその呼吸は荒く、ルフレの接近に気付いていても最早首をもたげる力すらも無いのだろう。
 ただ、苦しみからか何処か焦点の定まらぬその蒼い瞳が、ルフレを見詰めていた。

 ……このままでは、そう遠くない内にこの『竜』は間違いなくその命の灯を絶やしてしまうであろう。
 最早『死』が『竜』の魂を刈り取るのは時間の問題だった。
 しかし、命の灯火が儚く消え行く間際でありながら……『死』の匂い濃くを漂わせても尚、迫る『死』の気配ですら『竜』の美しさを損なわせる事は出来なかった。

 ルフレが痺れた様に身動きも忘れて『竜』に魅入っていると。
『竜』はその喉から苦し気に唸り声を絞り出した。

 ルフレの耳にはそれは唸り声にしか聞こえないけれども、何故だかそれは敵を威嚇するものだとは思えなくて。
 何処か救いを求める声であるかの様に、ルフレには聞こえた。
 そして、『竜』は僅かに首を動かし、魅入られた様に自身を一心に見詰めているルフレを、確りと見詰め返す。
 宝玉をそのままそこに嵌め込んだ様な美しい蒼い瞳がルフレへと焦点を結び、何かの意志をルフレへと訴えようとしていた。

《死にたくない》と、《生きたい》と。
 そんな『生』への渇望の熱を強く強く帯びた眼差しが、ルフレを捉えて離さない。

 ……だが、とうとう力尽きたのか。
『竜』は僅かに持ち上げた頭を再び泥濘へと伏せ、その美しい瞳は瞼の奥へと閉ざされる。
 慌ててルフレが『竜』へと駆け寄り、硬い鱗に覆われた頭へと手を触れても、『竜』は身動ぎ一つ返す事も無い。

 だがそれでも、『生』への執着を表す様に苦し気に荒く弱々しい呼吸を必死に繰り返す『竜』の姿を見て。

 ルフレの心は、迷う事なく定まった。




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