第二話『神竜の森の賢者』
◆◆◆◆◆
「今日は……少し荒れそうな天気だね」
空を見上げて呟いたその言葉に、反応を返す者は居ない。
それはここ一年程変わらぬ事なのだけれど、未だに少し寂しさを感じてしまうのは、ここが人の気配など自分の他にある筈もない森の奥深くだからだろうか。
そんな事を想ってしまう自分に僅かな寂しさを感じると共に苦笑を浮かべ、ルフレは黙々と井戸から水を汲むのであった。
頼れる者は周りには居らず、可能な限り全てを自分で完結させる必要がある為、森での暮らしは決して楽ではない。
母と二人で過ごしていた時には分担していた事も、今は全てルフレが一人でやらねばならぬのだ。
それでも、ルフレはこの生活を苦とは感じていなかった。
森は恵み豊かで薬草も食料も確りと確保出来るし、有り難い事にルフレにはこんな森の奥にはそぐわない程の立派な家が……家と言うよりは屋敷と言った方が良い程の住処がある。
時には森の周りにある村々へと訪れて薬師として医師として呪術師として村人達を助けに行くし、時折ではあるが態々こんな森の奥にまで『森の賢者』の名を頼りに訪れる者も居る。
人との交流が全く無いと言う訳ではなく、世情に敏感とまでは言えずとも、人の世の流れから隔絶されている訳でもなくて。
その程々の穏やかな交流は、ルフレにとって心地良いものだ。
更には、亡き母の跡を継いだルフレは自然と母へと贈られた『森の賢者』と言う称号をも引き継いでいて。
母の名を頼ってきた人々に、母の代わりに力を貸す事も多い。
知識の泉を湛えているかの如し智慧の持ち主だった母と比べると、ルフレはその知識もその経験もまだ物足りなく感じてはしまうけれど、それでも何とかその称号に恥じぬ様には努めてきたつもりである。
だからなのか、母ではなく「ルフレ」の名を頼られる事も、ここ最近はあった。
そんな人々の声に応えるのは、ルフレにとって小さな幸せの一つにもなっている。
そして、人里離れた森の奥深くとは言えども、屋敷には母が遺した膨大な書物や手記があるしそこから学ぶ事は多い。
退屈などは感じる暇すらないのである。
時に人恋しくなる事はあるが、かといって住み慣れた母との思い出が色濃く残る愛着のあるこの屋敷を出てまで村に住みたいともルフレは思っていなかった。
朝食の用意をして、屋敷の裏手にある母の墓に近くで摘んだ花を供えて、朝食を食べ終えたら洗濯をして、畑の世話をしたら、森に入って薬の材料となる草花などを集めたり或いは弓を片手に狩りを行う、屋敷に帰ったら薬の調合などを行い、寝る前には書物を読む。
そんな日々の繰り返しも、物心ついた頃からのものなのでもう慣れたものである。
昔と違うのは、そこに母の姿が無い事だけだ。
物心ついた時からルフレは母と二人でこの森で暮らしていた。
母は昔の事をそう多くは話さなかったけれども、かつてまだ乳飲み子のルフレを抱えて放浪中だった母が近くの村々を襲った疫病を鎮めた事や、それを切っ掛けとしてこの森の奥の屋敷に住まう事になったとは、聞かされた事がある。
何故、乳飲み子のルフレを抱えて宛なき放浪の旅へと出ていたのかは、母は決して話してくれなかった。
存在する筈であろう自身の父の事も、そして母の生まれ育った地の事も、何も話してはくれなかった。
……世の中には、不幸な結果として生まれる命もあるし、また生まれ育った地に良い思い出がない事もある。
だから、母が話そうとしないのならそれはそれで良いのだろうと、そうルフレは思っていた。
父が居なくとも母が居たし、そこに不満も大きな疑問も感じる事もなくて。
『賢者』と呼び表される母の姿に憧れたルフレには、日々の研鑽の方が自分の出自やらと言った些末な事よりもずっと大切であった。
……しかし一年前、母は病に倒れて帰らぬ人となった。
母の病は人に移る事は無いが特効薬の存在しないもので。
精々、病による苦しみを軽減させてやる事位しか、ルフレに出来る事は無かった。
『死』が近付いてくるのが理解したくなくとも分かってしまう程に日々窶れていく母の枕元で必死に薬を調合していたあの時の事を、今になり振り返ってもあまり上手くは思い出せない。
『死なせない、死なないでくれ』とそう祈り必死に看病していても、他でもない母と共に学び培ってきた知識は母のその状態が最早手の施しようの無いと言う事を囁いていく。
それを必死に振り払って、何とか出来ないものかと死に物狂いで足掻いてみても、零れ落ちていく命の砂を戻す事はおろか止める事すらも出来なくて。
あれ程、自身の無力を痛感した事は無い。
最期はせめて安らかに逝けるようにと、その晩期には痛みを抑える薬ばかりを作っては飲ませる事しか出来なかったが。
……果たしてそれで本当に良かったのかと、今でも詮無い事と知りつつもルフレは思ってしまう。
きっと、優れた薬師であり呪術師でもあった母は、ルフレなどよりもずっと自分の状態を正確に把握していたのだろうし、ルフレが調合した薬の意味も分かっていたのだろうけれど。
ルフレが調合する薬に何時も、ただ「ありがとう」と、そう一言だけ返して黙って飲んでくれて。
……最後まで、嫋やかさの中に凛とした確かな芯を感じさせる……そんな幼い頃から憧れ続けていた姿のまま、母は逝った。
……あれから一年。
もう大分心の整理と言うものは着いてきたが、やはりまだ何処か心に穴が空いてしまった様な、そんな気持ちになる。
寂しさにも似た気持ちを抱えながら、ルフレは今日も森の奥の屋敷で暮らしていた。
一通りの家事を終えて今日の分の調薬を終えた頃合いで、ルフレが予想した通り、薄曇りであった空が急に暗くなってきたかと思うと強い風と雨がやって来た。
春先の大嵐は次第に激しさを増し、時折遠くで雷が落ちた様な音すら伴っている。
まだ陽の光がある時刻だと言うのにも関わらず辺りはすっかり暗くなっていて、とてもでないが出歩こうとは思えない。
幸い畑には激しい雨風で荒れぬ様に麻布を被せてあるし嵐に対する備えは出来ている。
故に、こんな時は屋敷の中に籠もるに限るとばかりに、ルフレは書庫に引き籠もると本の世界へと旅立ったのであった。
◇◇◇◇◇
「今日は……少し荒れそうな天気だね」
空を見上げて呟いたその言葉に、反応を返す者は居ない。
それはここ一年程変わらぬ事なのだけれど、未だに少し寂しさを感じてしまうのは、ここが人の気配など自分の他にある筈もない森の奥深くだからだろうか。
そんな事を想ってしまう自分に僅かな寂しさを感じると共に苦笑を浮かべ、ルフレは黙々と井戸から水を汲むのであった。
頼れる者は周りには居らず、可能な限り全てを自分で完結させる必要がある為、森での暮らしは決して楽ではない。
母と二人で過ごしていた時には分担していた事も、今は全てルフレが一人でやらねばならぬのだ。
それでも、ルフレはこの生活を苦とは感じていなかった。
森は恵み豊かで薬草も食料も確りと確保出来るし、有り難い事にルフレにはこんな森の奥にはそぐわない程の立派な家が……家と言うよりは屋敷と言った方が良い程の住処がある。
時には森の周りにある村々へと訪れて薬師として医師として呪術師として村人達を助けに行くし、時折ではあるが態々こんな森の奥にまで『森の賢者』の名を頼りに訪れる者も居る。
人との交流が全く無いと言う訳ではなく、世情に敏感とまでは言えずとも、人の世の流れから隔絶されている訳でもなくて。
その程々の穏やかな交流は、ルフレにとって心地良いものだ。
更には、亡き母の跡を継いだルフレは自然と母へと贈られた『森の賢者』と言う称号をも引き継いでいて。
母の名を頼ってきた人々に、母の代わりに力を貸す事も多い。
知識の泉を湛えているかの如し智慧の持ち主だった母と比べると、ルフレはその知識もその経験もまだ物足りなく感じてはしまうけれど、それでも何とかその称号に恥じぬ様には努めてきたつもりである。
だからなのか、母ではなく「ルフレ」の名を頼られる事も、ここ最近はあった。
そんな人々の声に応えるのは、ルフレにとって小さな幸せの一つにもなっている。
そして、人里離れた森の奥深くとは言えども、屋敷には母が遺した膨大な書物や手記があるしそこから学ぶ事は多い。
退屈などは感じる暇すらないのである。
時に人恋しくなる事はあるが、かといって住み慣れた母との思い出が色濃く残る愛着のあるこの屋敷を出てまで村に住みたいともルフレは思っていなかった。
朝食の用意をして、屋敷の裏手にある母の墓に近くで摘んだ花を供えて、朝食を食べ終えたら洗濯をして、畑の世話をしたら、森に入って薬の材料となる草花などを集めたり或いは弓を片手に狩りを行う、屋敷に帰ったら薬の調合などを行い、寝る前には書物を読む。
そんな日々の繰り返しも、物心ついた頃からのものなのでもう慣れたものである。
昔と違うのは、そこに母の姿が無い事だけだ。
物心ついた時からルフレは母と二人でこの森で暮らしていた。
母は昔の事をそう多くは話さなかったけれども、かつてまだ乳飲み子のルフレを抱えて放浪中だった母が近くの村々を襲った疫病を鎮めた事や、それを切っ掛けとしてこの森の奥の屋敷に住まう事になったとは、聞かされた事がある。
何故、乳飲み子のルフレを抱えて宛なき放浪の旅へと出ていたのかは、母は決して話してくれなかった。
存在する筈であろう自身の父の事も、そして母の生まれ育った地の事も、何も話してはくれなかった。
……世の中には、不幸な結果として生まれる命もあるし、また生まれ育った地に良い思い出がない事もある。
だから、母が話そうとしないのならそれはそれで良いのだろうと、そうルフレは思っていた。
父が居なくとも母が居たし、そこに不満も大きな疑問も感じる事もなくて。
『賢者』と呼び表される母の姿に憧れたルフレには、日々の研鑽の方が自分の出自やらと言った些末な事よりもずっと大切であった。
……しかし一年前、母は病に倒れて帰らぬ人となった。
母の病は人に移る事は無いが特効薬の存在しないもので。
精々、病による苦しみを軽減させてやる事位しか、ルフレに出来る事は無かった。
『死』が近付いてくるのが理解したくなくとも分かってしまう程に日々窶れていく母の枕元で必死に薬を調合していたあの時の事を、今になり振り返ってもあまり上手くは思い出せない。
『死なせない、死なないでくれ』とそう祈り必死に看病していても、他でもない母と共に学び培ってきた知識は母のその状態が最早手の施しようの無いと言う事を囁いていく。
それを必死に振り払って、何とか出来ないものかと死に物狂いで足掻いてみても、零れ落ちていく命の砂を戻す事はおろか止める事すらも出来なくて。
あれ程、自身の無力を痛感した事は無い。
最期はせめて安らかに逝けるようにと、その晩期には痛みを抑える薬ばかりを作っては飲ませる事しか出来なかったが。
……果たしてそれで本当に良かったのかと、今でも詮無い事と知りつつもルフレは思ってしまう。
きっと、優れた薬師であり呪術師でもあった母は、ルフレなどよりもずっと自分の状態を正確に把握していたのだろうし、ルフレが調合した薬の意味も分かっていたのだろうけれど。
ルフレが調合する薬に何時も、ただ「ありがとう」と、そう一言だけ返して黙って飲んでくれて。
……最後まで、嫋やかさの中に凛とした確かな芯を感じさせる……そんな幼い頃から憧れ続けていた姿のまま、母は逝った。
……あれから一年。
もう大分心の整理と言うものは着いてきたが、やはりまだ何処か心に穴が空いてしまった様な、そんな気持ちになる。
寂しさにも似た気持ちを抱えながら、ルフレは今日も森の奥の屋敷で暮らしていた。
一通りの家事を終えて今日の分の調薬を終えた頃合いで、ルフレが予想した通り、薄曇りであった空が急に暗くなってきたかと思うと強い風と雨がやって来た。
春先の大嵐は次第に激しさを増し、時折遠くで雷が落ちた様な音すら伴っている。
まだ陽の光がある時刻だと言うのにも関わらず辺りはすっかり暗くなっていて、とてもでないが出歩こうとは思えない。
幸い畑には激しい雨風で荒れぬ様に麻布を被せてあるし嵐に対する備えは出来ている。
故に、こんな時は屋敷の中に籠もるに限るとばかりに、ルフレは書庫に引き籠もると本の世界へと旅立ったのであった。
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